夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「臭い臭い」は何と読む? どちらも「犬の鼻」だが

2008年10月31日 | Weblog
「臭い」と「臭い」
 同じ言葉じゃないか、と言っては駄目です。これは「におい」と「くさい」と読みます。もちろん、「くさい」と「におい」でも良いのですが。
 どちらも同じでは混乱するので、常用漢字では「臭い=くさい」だけが認められていて、「におい」は仮名書きになっている。でもそれなら、「脅かす」と「脅かす」はどうなんだ、と文句の一つも言いたくなるが、言ってもどうにもならない。これは「おどかす」「おびやかす」である。せめて「脅やかす」とでもすれば良いのに、と思う。どっちにしろ、日本人が勝手に付けた訓読みなんだから。
 「臭い」が「くさい」でも「におい」でもある事からも分かるように、この「におい」はどうも悪臭である。そこで、良い「におい」の場合は「匂い」の文字を日本人が作り出した。でも、「におい」などと言わずに「かおり」と言えば良いのである。「変なにおいがする」「良いかおりがする」と言うように。

 常用では認められていない「臭い=におい」だが、「自」は鼻である。では「大」は何か。実は何の意味も無い。本当は「大」ではなく「犬」なのだから。それを馬鹿な役人が「犬」を「大」と変えてしまった。たったの点一つ節約して何の得があるか。
 「臭」は犬の鼻だからこそ、成り立っている。犬は人間の1万倍もの臭覚を持っていると言う。それは警察犬の活躍などでお馴染みになっている。我が家でも本当に手を焼いている。犬の好きそうな物だからと、高い、犬には見えない所に隠してあるのに、背伸びをして取ろうとする。跳び上がってまで取る。
 そんな鋭敏な犬の臭覚を使って「臭い=くさい」とするのは、私にははなはだ不本意なのだが、仮名書きよりは分かり易いので使うしかない。世の中には仮名書きの大好きな人間が大勢いるが、どうして分かりにくくしてまで仮名書きにこだわるのか、不思議で仕方がない。

 母親が娘に言った。
 「お前、だいぶ使ったね」
 弟が聞いた。
 「お母さん、姉さん、大仏買ったの?」

 これは笑い話だが、仮名書きにしたらこうなる。そうした事を仮名書き論者はまるで考えようともしない。馬鹿の一つ覚えみたいに、和語は仮名書きにせよ、と主張する。この話は長くなるので、また別の時に続きを展開する。
 「犬の鼻」だが、私は犬の体の中で、この鼻が一番好きなのだ。ただし、冷たく濡れている場合に限るが。その冷たい濡れた鼻をこすりつけられると、もう、本当に「カイカン!」と叫びたくなるほどにうっとりとしてしまう。だから触る時にもどうしても鼻になってしまう。人によっては肉球が大好きだ、と言うが、肉球はどんどん硬くなってしまうから、柔らかく気持が良いのは子犬の時に限られてしまう。
 その点、鼻はいつまでも変わらない。でもあまり触るのは避けている。と言うのは、犬の鼻が濡れているのは、それでにおいに敏感になれる、と読んだからだ。乾いていると臭覚が落ちるらしい。で、あまり触って乾いてしまっては可哀想だから、ほどほどにしているのである。
 ああっ、駄目だ、冷たい鼻で足をくすぐるのは。

「させて頂く」・これで終わり

2008年10月30日 | Weblog
 「させて頂く」の最終回。と言っても3回目だが。それでもこれなど、私のしつこさのしからしむる所。そしてこれにはちょっとした意味がある。と言うのは、こうしたしつこさをどのくらいの人が理解して下さるか、を見てみたい。アクセス数の変化でそれが分かるだろうと思っている。
 私は本にしたいと原稿を書いている。今の所、上手く行ってはいない。前の著書では、みんなから「しつこいなあ」と言われている。もっと簡単にさらりとやれよ、と言われている。そして現在、なるべくしつこくならないようにと心掛けているつもりなのだが、それでもこれくらいになってしまう。その判断が出来るかな、と考えたのである。

 「させて頂く」は、例えば「休ませて頂きます」なら「休みます」「お休み致します」で良いではないか、と書いた。そして私はメールで「お送りさせて頂きます」と書いて、我ながら、あっ、と思った。
 持論なら、「送ります」「お送り致します」で良い。と言うよりその方が良い事になる。だが、この場合は、「お送り致します」では私の気が済まない。なぜなら、一方的な感じがするのだ。「お送りさせて頂きます」なら謙虚な感じになる。
 どうしてこんな事になるのか。
 店などを「休む」なら、休むのは店側だけである。客にも影響が及ぶとは言っても、客がどうのこうのと言う事は出来ない。自分だけで完結してしまう。
 それに対して「送る」なら、自分だけの事では済まない。「送られる相手」が存在する。その相手を無視しては事は運ばない。そこが決定的に違う。
 もっとも、「送る」のは自分の勝手である事が多い。そうした意味では「休む」とどっこいどっこいではある。でも自分だけでは完結しないから、相手が居るから、どうしても謙譲の言い方をしたい。これは本当に「振り」ではなく、心からの気持である。

 これは理屈っぽ過ぎるかも知れないが、事が曖昧になったら、理屈で割り切るしか無い。だから少しでも正しい理屈になるようにと心掛けている。それがこうしたしつこさになっているのだ、と自分で言い訳をしている。
 ただ、この頃、こうした「正しい理屈」だと思っている事が通らない事が多いと思い始めているのも確かである。
 先日、いつものスーパーでバナナを買おうと思った。息子の朝食の一部である事は先日書いた。つまり、ダイエットで買っているのではない。ところが、いつもの所定の位置には無い。そうか売り切れてしまったのか。じゃあほかで買おう、と思い、レジに並んで精算した。
 そして表で籠の中の品物を袋に入れて、ふと見ると、何と、とんでもない所にバナナがある。いつもは店を入ったすぐの所なのに、今回は店の外のしかも出口に近い所なのだ。仕方が無いから、そのバナナだけを籠に入れて、もう一度レジに並んだ。結局二度手間になる。だから、レジの女性に、バナナがいつもと違う所にあったから、二度も並んじゃったよ、と一応はクレームを付けた。
 それを妻が聞いていて、馬鹿ねえ、そんな事言う人いないわよ、と呆れられた。でも、行き付けの店で買うのは、品物が良かったり安かったりする事もあるが、何がどこにあるかが頭の中に入っていて、うろうろせずに済むからだ。全く、スーパーの中であっちでうろうろ、こっちでうろうろ、なんてしたくない。さっと見れば、今日はこれが安い、これがいつもとは違う魅力的な商品だ、と分かるのだ。このバナナだって、その日の特別セール商品などではない。いつもの通りの定例の商品なのである。

 つまり、私は店と客との間には暗黙の了解が成り立っていると思っている。特別セールは特別な陳列の仕方をしているのは当然である。その暗黙の了解を一方的に破るから怒っているのである。これもしこつさ故でしょうかねえ。

「頂きます」と「下さい」の違い

2008年10月29日 | Weblog
 昨日、「させて頂きます」のおかしさを書いた。これは「下さい」と対比するともっとよく分かる。
 「ください」を国語辞典で引いてみて下さい。多分、半分の辞書は「ください」を載せていない。なぜなら、「ください」は「くださる」の命令形に過ぎないからだ。動詞や形容詞などを活用形で載せている辞書は無い。
 その「下さる」は「くれる」の尊敬語だ。「主に目上の人が好意・親切から、物をこちらに与える」との意味である。この「下さる」は「下す」に尊敬の「る」が付いた言葉で、その命令形が「下さい」なのである。
 「下す=移しおろす」である。物に限らず、地位や命令なども対象になる。
 つまり「下さい」は「下され」なのである。

 さて、「頂きます」は何だったか。これは「目上からもらう」だった。そこで「頂く」と「下す」の違いが明確になる。「頂く」は主導権が「こちら」にある。しかし「下さる」は主導権が「あちら」にある。
 「させて頂く」は「何が何でもさせてもらうんだからね」と昨日書いたが、それはこうした原理だからである。
 これに対して「下さい」はあくまでも「お願い」なのである。お願いが命令形とは納得が行かないが、仕方がない。
 だから「並んで頂きます」と「並んで下さい」は気持がまるで違う。どちらも「並ばないと売ってやんないよ」「並ばないと入れてやんないよ」と言っているのだが、強制力が違うのである。
 「並んで頂きます」は言い方は優しいが、あくまでも強制なのだ。
 「並んで下さい」は形は命令形ではあっても、お願いなのである。
 ただ、お願いではあっても、我々は「下さい」の中に強制的な響きを感じている。だから単に「並んで下さい」では丁寧度が低いと感じて、色々と敬語を付ける。その最終的な形が「お並び下さいますよう、お願い申し上げます」などとなる。

 言葉とは実に微妙なものだと思う。「お願いします」にしても、丁寧に言うなら「お願い致します」になるだろう。「致す」は「する」のへりくだった言い方だからだ。けれどもそれが「お願い致したい」になると、がらりと態度が変わってしまう。「致したい」にへりくだった気持を感じるのは難しい。横柄な言い方としか思えない。それは「たい」だからだ。「お願い致したく存じます」なら「存じます」のお陰で丁寧になる。
 そうした事もあってか、「致します」は謙譲でありながら、それが徹底出来ない恨みがある。そこで「お願い致します」よりも「お願い申し上げます」の方が無難な言い方になるのだろう。「お願い致したく存じます」ではあまりにも大袈裟に聞こえる。
 
 「願う」だって、辞書によれば、本来は「祈る」なのに、「お願いしますよ」としつこい勧誘に出会えば、それはもう本当に押し売りに近い状態にもなる。つまり、言葉は意味は変わらなくても、使う人の気持次第でどうにでもなる性質もある。要するに、言葉に騙されるな、と言う事である。耳当たりの良い言葉、俗に「リップサービス」と言うが、そうした言葉に騙されない事である。

 余計な事だが、『岩波国語辞典』は「願う」は、「祈る」の古語「ねぐ」の派生語だと説明している。シューベルトの「アベマリア」の歌詞には「ねぎまつる」と言う文句がある。確か堀内敬三訳だったか。何となく分かったような気がしていたが、こうして辞書で明確に説明されると、納得が行く。
 ほかの辞書に同じような説明が無いかと探したが無い。そして『新撰国語辞典』に変な説明を見付けた。
 〈「お求め願う」のような言い方は「お求めいただく」と同じであるが、それほど一般化していない。〉
 この説明の意味が私には分からない。それに上記の私の考えとは相容れない。この説明の本意は果たして何か、を追究するのが私の趣味なのだが、失礼ながら、あまりたいした考えも無さそうなので、時間の無駄になりそうで、やめておこう。言うまでも無いが、説明はきちんと、誰もが分かるような説明であるべきだ。同辞典は中学生からを対象にしていると明言しているのである。

貼り紙の「休ませて頂きます」は不遜かそれとも謙譲か

2008年10月28日 | Weblog
 東京新聞の読者欄に「都合により本日休ませて頂きます」と掲示するのはおごり高ぶった表現だ、との投稿があった。「……させて頂く」については私もそう思っていたから、納得して読んだ。そうか、きちんと理解している人はいるもんだなあ、と感心した。
 ところが、数日後、「休ませて頂く」は当然の表現だ、との投稿が載った。正反対の意見である。反対なのは良いが、その投稿は言葉がどうの、ではなく、気持がどうの、と言う事に終始していたのが気になった。
 「買い物しようと出掛けた時、そこが臨時休業していたら客は当てが外れて残念に思う。そのような時、店側に地域に不可欠な一員として物を販売するという自負があれば、〈休ませて頂く〉と言う表現は当然だ」と言うのである。
 こうした考え方は分からなくはない。本当は休んではならないのに、休むのだから、「休ませて頂く」。それが「地域に不可欠な一員として」との考え方である。

 話は飛躍するが、せっかく出掛けたのに、目的の店が休みで、当てが外れて残念に思った時、「都合により、本日休ませて頂きます」とあれば、まあ仕方ないか、と思い、「都合により、本日休みます」とあれば、むかつくであろうか。
 言うまでも無いが、当てが外れて残念なのはどちらでも同じである。
 そうじゃない。だから、あくまでも気持の問題なのだ、と言うのだろうか。
 それでは、その気持とはどのような事なのか。
 この後からの投稿者は、「休みます」は自己主張でしかないが、「休ませて頂きます」なら謙譲の気持がある、と感じている。それは「頂きます」がそうした言葉だからだ。
 「頂く」は「目上や地位が上の人からもらう」で、自分が目下であると意識しているから、謙譲の気持がある。「頂く=頭の上に乗せる」。これは相手を尊敬する形である。これは誰もが自然に理解出来るはずである。つまり、店は客に対して謙譲の気持でいる。
 では「休ませて」の意味は何だろうか。「……させる」の意味が何か、である。言うまでもなく「させる」は使役の動詞だ。「使役」つまりは命令である。店を休ませるのは誰なのか。まさか客ではなかろう。そして「頂く」のはあくまでも店側である。
 店は、本当に誰から命令されてそれを受けているのだろう。

 この事について、持っている七冊の辞書の中で、一つだけ答を示しているのがある。『岩波国語辞典』である。
 「本来は浄土真宗を信仰する者が仏のお恵みにすがりお許しを頂くという気持で使った言い回しが広まったもの。その気持も無く乱用するのは(相手の了解を取ったことを前提とする表現になるから)押しつけがましい」
 これだけではちょっと分かりにくいが、例えば「見させて頂く」などを考えてみよう。「見る」と意味は同じだ。見るのは自分である。それを「させる」と命令形にする。仏が見ろ、と言うのではない。あくまでも自分の意思である。つまり、自分が自分に命令している。この「見させて頂く」は堂々と権利を主張して見るような場合ではない。遠慮がちに言う場合である。それが「店が不可欠な一員である」との気持に通じる。
 当然の権利としてではなく、遠慮がちに、なのだが、そこには仏のお許しがある。だから堂々とした言い方にもなる。そして仏のお許しだから「頂く」の言い方になる。

 この「見させて頂く」は「拝見する」、丁寧になら「拝見致します」で良いのである。その方がずっと気持が素直である。同じように「休ませて頂きます」は「休業致します」で良いのである。何しろ、実際にしている事は寸分違わないのである。
 結局、休むのは自分なのだ。店なのだ。客の都合を聞いている訳ではない。だから、「岩波」が言うように、「相手の了解を取った事を前提とする表現」になるのである。
 「本日休ませて頂きます」は、仏様からお許しを頂いているんだからね、だから休むんだからね、と言っている事になるのである。もちろん、当人はそうは思っていない。けれども、この言い方の裏には、こうした気持が隠れている、本人は気付かずとも、そうした気持が存在している。
 なぜ「仏の許し」が「相手の了解」になるのかと言うと、そこには仏の広大無辺な優しさがある。どんな罪でも許して下さる心がある。それは当然に誰もが了解出来る優しさなのである。

 これは理屈かも知れない。気持の上ではそうじゃないんだ、と言うかも知れない。しかし言葉とはある決まりがあって通用している。多くの人々の共感があって初めて成立する。「させる」との言い方が使役である事は誰もが承知している。そうであれば、「休ませて」に不自然さを感じるのが当然なのだ。自然なのだ。
 「させて頂く」は謙譲の言い方だと誤解して広まっているようだが、間違いは間違い。私は安易にカッコイイ言い方に飛び付く習性が生んだ言葉の一つだと思っている。少なくとも、浄土真宗の信仰者以外に広まっている以上はそうなる。我々は、どうも、よく知らない言葉や言い方に幻惑させられる傾向がある。その端的な現れが、昨日も書いたが、カタカナ語をすぐに口にする習性となっているのである。インテリと自負している人ほどその傾向がある。
 この「させて頂く」は拙著『わかったようでわからない日本語』(洋泉社新書)に書いた。こうした言葉については、その後に思い付いた事や発見した事などもあるので、改めて採り上げて行きたいと思っている。それにしても我ながら下手なタイトルを付けたもんだ。ホント、売り込みが下手くそなんだから。

医療用語言い換えの問題点とマスコミの責任

2008年10月27日 | Weblog
 医療用語の言い換えを国立国語研究所が提案した。医療用語に限らず、私は常々、何でこんな難しいカタカナ語を使うのかと疑問に思っている。疑問と言うよりも、怒りを覚えている。使っている本人がきちんと理解出来ているかははなはだ疑わしい。ほとんどが英語だから、母語が日本語である日本人が日本語のように理解出来ているとはとても思えない。ここで言う理解とは、単に知識としてだけの理解ではなく、語感とか言葉のすべての理解の事である。もちろん、それが人それぞれで、その理解度には大きな違いがある事は承知の上。それでも、母語と外国語との理解の差はあるはずだ。

●難解なため日常語で言い換え
 「寛解」などは、使っている日本語変換ソフトでは変換不能だが、持っている小型国語辞典の中には「精神分裂症の症状が消えること」などと説明しているのがある。比較的信頼している辞書では「病気の症状が軽くなること」とある。
 国語辞典でさえ間違うような言葉が大手を振って歩いている。もっとも、これは国語辞典の責任なのかも知れないが。それにしても難しい言葉である。この言葉を最初に使った人の知能を私は大いに疑う。確かに知能指数は高いのだろう。だが、それは象牙の塔でしか通用しない知能である。そして猫も杓子もと追随した人々のあほらしさ。
 同研究所は「症状が落ち着いて安定した状態」を言い替えとしているが、医療で使う言葉なのだから、「症状が」などは不要だと思う。簡単に「安定状態」と言い替えたって良いではないか。
 「予後=見通し、今後の病状についての医学的な見通し」と東京新聞の表にはあるが、この「、」は「。」の間違いではないのか。これは「今後の見通し」で良いではないか。

●誤解、混同がないよう明確に説明
 この中に「ウイルス」があるが、その説明は「細菌よりも小さく、電子顕微鏡でないと見えない病原体」とある。えっ? と多くの人が思うのではないだろうか。大体「病原体」その物が難しい。それに「細菌よりも小さく」と言われたって、それで分かるようにはならない。「細菌」それ自体が分からないのだ。
 「インスリン」は「膵臓で作られ、血糖を低下させるホルモン」とあるが、じゃあ、「ビタミンA」は分かるのか。これだって、我々は「ああ、ビタミンAね。ほうれんそうの根に多いとか、不足すると鳥目になるやつね」とぐらいにしか分からない。
 「ウイルス」にしろ「インスリン」にしろ、日本語に無い概念の言葉はそのまま使うしか無いではないか。下手に言い換えると余計に分からなくなる。
 「頓服」は「症状が出たときに薬を飲むこと」とあるが、「症状が出た時に飲む薬」の意味もあり、普通、我々はこちらの意味で使っている。医者だって「頓服を処方する」と言っている。そしてこれだって、「症状が出たとき」が非常に紛らわしい。何をもって、「症状が出た」と判断するのか。
 先に「寛解」でおかしな意味を挙げているのは『新明解国語辞典』だが、同書はこの「頓服」では正しいと思われる説明をしている。「何回かに分けて飲むのでなく、その時一遍だけ服用すること(薬)。「頓服薬〔=多く、解熱剤〕」
 説明だけでは分かりにくいが、「頓服薬(多く、解熱剤)」の用例で少し分かり易くなる。多分、鎮痛剤なども入ると思うが。
 『岩波国語辞典』は「日に何回ときめず、その時一回に服用すること、また、そういう薬」。ただ、それでも、はい、分かりました、とは言いにくい。
 つまり、「頓服」はどのように説明しても分かりにくいのである。それは言い換えても同じだ、と言う意味である。こうした言葉は言い換えるのではなく、医師なり薬剤師なりが薬を渡す時にきちんと説明をすればそれで済む事だと思うし、それ以外に良い方法は無い。まさか研究所は医師が患者に「症状が出たときに飲みなさい」とだけ言え、と言っているのではなかろう。痛み止めなら、「どうしても我慢できないようだったら、飲みなさい」と言うのだろうし、熱冷ましなら、「熱が○度以上になったら飲みなさい」と言うはずだ。下手な言い換えはかえって危険になる恐れは無いのか。
 「熱中症」は私は前からおかしな言葉だと思っている。「熱中」には別に大変良い意味がある。それなのに「命にかかわる危険性のある症状」に使うとは、使い始めた人間は何と言葉を知らない奴なのか、と驚き呆れる。これなどは、説明を要するのではなく、完全に言い換えが必要な言葉だろう。昔は「日射病」とか「熱射病」と言ったのではなかったか。
 「貧血」が誤解、混同のないよう、と言うのは分かる。血液その物が不足する事と間違うからだ。しかし、この言い換えの主旨である「病院で使う難解な言葉を分かりやすくし、患者の理解を助ける」を考えれば、「貧血」を候補に挙げるのがナンセンスである事は容易に分かる。「貧血」をきちんと正確に説明する義務は病院側にある。それが出来ていれば何も問題は無い。こうした事は「言い換え」ではなく、医療に携わる者の心得として当然に備わっているべき事なのである。何を血迷っているのか。
 
●新しい概念のため、一般に定着するよう工夫
 ここに「インフォームドコンセント」や「プライマリーケア」が入っている。工夫が必要なのではなく、言葉その物を変える必要があるはずだ。この表の説明にもあるように「インフォームドコンセント」は「納得診療」でも良い。そして「納得診療」とは「患者自身が納得出来るような医療を自分で選ぶ事」と説明すれば良いだけの話である。何も難しくしかも長ったらしいカタカナ語を使う必要は毛頭無い。

 以上、同研究所が提案している「主な言い換え例」は非常におかしい。これでも国立国語研究所か、と言いたくなるほどである。何よりも日本語に対する愛情が感じられない。そして患者の立場に立っていない。役不足の役人に日本語をいじられるのは不愉快である。
 それにしても、これをそのまま報道する新聞もいかがなものだろうか。
 今朝、10月27日朝のフジテレビの「めざましテレビ」ではアナウンサーが「食品添加物に消費者が敏感」の字幕に対して「消費者がナーバス」と口にしていた。結局、医療用語だけの話ではないのだ。視聴者に直接話し掛けているテレビがこのざまなのだから、医療用語が難しくたって、一向におかしな話ではないのである。立派な日本語があるにも拘わらず、こうして安易にカタカナ語を口にする人間を私は全く信用していないが、そんな事で済む問題ではない。


受け入れ拒否で患者死亡。責任争いしてる時じゃない

2008年10月25日 | Weblog
 東京の七箇所の病院で受け入れを拒否された妊婦が亡くなった。これらの医療機関は総合周産期母子医療センターの指定を受けている。どこも手一杯、ベッドが満床などの理由があった。これはいくら医師を増やしてもベッドを増やしてもいたちごっこになる。能力一杯に患者を受け入れるからだ。そしてそれが医療機関の役割でもある。
 だが現在、そんなにも入院の必要のある患者が多いのか。どこだって、すべてが重篤な病人ではない。そうした患者はどこか別の医療機関で受け入れてもらっても差し障りは無いはずだ。つまり、ある一定の空きを常に保つのである。例えば5床を救急患者のために用意しているなら、それが満床になった時点で、誰か一番軽い症状の病人に一時的にでも他に移ってもらう。それは一人よりも二人とか三人とかの方が望ましい。患者の負担は出来る限り少なくして移ってもらうのである。
 もちろん、そのためには、今度はそうした軽い患者を受け入れる施設が必要になる。今、盲腸などの手術は簡単に退院させている。白内障なども一日で退院して行く。それでも病床が不足しているのだろうか。つまりは、それほどに重病人が多いのだろうか。

 上記の愚案は素人だからの考えではある。だが、救急医療施設が常に受け入れ準備オーケーでなくては、役に立たない事は素人でも分かる。いや、むしろこうした事柄は専門家ではなく、素人が考える方がポイントが掴めるのではないのか。専門家は知識があり過ぎるから、どうしたってそこから抜け出しにくい。
 素人でも簡単に分かる事と言えば、最初に受け入れを要請された都立墨東病院はなんと、産科の当直医が一人しか居なかったので断ったと聞く。通常の二人の当直医を土・日曜と祝日には一人にする事になったのだと言う。馬鹿を言うではない。病気が待ったをするか。土・日・祝日は避けよう、などと思うか。時と所を構わずだから、救急なのである。あーあ、言うまでもない事を言わなくちゃいけないのか。

 こうした勤務体制は当然に病院側の都合で決まる。七人居た医師が三人に減れば、当直だって前のようには行かないのは分かる。だが、人間の都合だけで考えられない事実がある以上、無理を承知でなんとかするのが人間の知恵だろう。それが医療に携わる人間の責任であり、自負であろう。
 以前、妻が入院した時に実感したのだが、墨東病院は都立だからだろうか、ひどく役人気質の所がある。余計な責任は取りたくない、との姿勢がありありと窺えるのである。足が不自由になっていた妻は一人でトイレに行くのが困難だった。そこで夜中でも看護婦(当時の名称)を呼ぶようにと言われていた。しかし夜中だし、それもトイレなので、妻は一人でなんとかしてトイレに行った。前の病院では出来るだけ一人でやるようにと言われていた。だが、それを知った病院は妻のベッドに鍵を掛けたのである。檻に入れられた妻を見て、私は絶句した。患者の事を思いやってだと思いたいが、そんなひどい症状ではないのだ。つまり、患者の病態をしっかりとは見ていない。もしも怪我でもしたら、自分達の責任になると考えている、と私は感じた。そうした事を私は役人気質だと言うのである。
 それはともかく、もちろん、医師が自分の生命を賭して働けなどと言っているのではない。こんな言い訳をしておかないと、お前は医師を殺す気か、と怒られたりする。
 前に大阪のテレビ局が緊急医師の仕事ぶりを放送した。大阪府での受け入れ拒否で患者が死亡した時である。それはもう本当に大変な頭の下がる仕事ぶりだった。しかし医師達はそれが自分達の仕事なのだ、と思っている。それは交代要員が居て、初めて出来る事だ。

 こうした事が出来なくなっている。一人しか居ない医師がぶっ続けに医療に取り組めるはずが無い。だから、医師が居ないので、これは即ち満床なので、と言う事になるのだが、救急患者の受け入れを断る事になる。この根本には医療制度の不備がある。難しい産婦人科は、下手をすると妊婦死亡で訴えられる危険性さえある。
 以前あった訴訟では、妊婦は想定外の重体に陥っていたのだが、夫にはそれが分からない。医師は懸命に治療を施したと言い、裁判所もそれを認めた。だが素人目には、医師の力が足りなかった、やる事をやらなかった、と映るのである。こうした事で医師と家族が対立するような事があれば、誰だって懸命に治療をするのが馬鹿馬鹿しくなるではないか。
 確かに人の生き死には難しい。その時、医師が一人ではなく、二人居たら、話はまた別の展開をしていたかも知れない。つまり、医師側の証人が必要になる。そんな不測の事態を抱えての救急医療には患者側の理解もまた必要になる。
 結局、綱渡りのような救急体制では駄目なのだ。そんな事、誰にだって分かっている。

 日本の医療全体がおかしくなっている。今回の事件はその歪みが救急体制に現れているだけの事である。以前、このブログで「医は算術にあらず」と書いて、医師と思われる人から叱られた。それは医師の自戒の言葉で、第三者が言うべき言葉ではないと。
 しかし私はそうは思わない。医は明確に算術になっている。もちろん、医師の意思でそうなっているのではない。そのように仕向けている仕組みが存在する。それを私は「金儲け第一主義」と呼んでいる。すべて金、金、金。金になりさえすれば、どんな事だって厭わない。
 薬だって、製薬会社が儲けのために作り出しているとの噂がある。その薬を使わせるために新たな病気を作り出しているのだ、と言うのである。にわかには信じられないが、でも、さもありなん、と思えてしまう。それくらい、今の世の中は腐っている。いやいや、腐り切っている。

 厚生労働省の桝添大臣と東京都の石原知事との間にバトル、とテレビは伝えているが、そんな馬鹿な事をしている時じゃない。当直を一人にした病院、つまりは東京都にも責任があるが、その根本は厚労省ではないか。受け入れを拒否したのは一人墨東病院だけではない。慈恵医大附属病院だって、順天堂医院だって、慶應大学附属病院だって断っている。それらの頂点に立っているのが、桝添さん、あんたじゃないのか。

お茶の間の経済学で世界大不況を考える

2008年10月24日 | Weblog
 日本では今日も株価が大幅下落と騒いでいる。円高で輸出産業は苦しく、海外からは撤退も考えていると言う企業もある。その反対にブランド商品などは半値近くの大幅値引きが出来、消費意欲を掻き立てると喜んでいる。そして全体では消費の冷え込みが恐ろしいとの考えになっている。
 でも、消費の冷え込みって何なのだろうか。
 私の貧しい家計では、消費は冷え込んではいない。多少は落ち込んでいるが、その落ち込みの主な物は不急不要の物ばかりである。例えば、有ったら便利かな、と思える物や、試しに買ってみようか、などと思う物ばかりである。つまり、買わなくても一向に困らない。言うならば、贅沢品を買い控えているに過ぎない。もちろん、ブランド品とは縁もゆかりも無い「貧乏たらしい贅沢品」ではあるが。
 その反面、米などはきちんと評判の良い、高い米を買っている。5キロで一週間は持つ。大きな茶碗で三杯もお代わりをする息子のためにも、旨い米を食べたい。
 そして割高な冷凍食品は買わない。冷凍で買う物と言ったら、アイスクリームくらいである。
 本なども、宣伝文句には以前よりも引きずられなくなった。きちんと中身を検討して買う。すべてに衝動買いをしなくなった。考えてみれば至極当たり前の事である。
 つまり、衝動買いこそが贅沢なのだ。そうだろう。何の実質も無い、単なる衝動で物を買ってしまう事ほど贅沢な事は無いではないか。その衝動にも何段階かある。かなり考えての事なら一概に衝動買いとは言えないが、それだって、突き詰めて考えれば、結局は無駄な衝動買いだったと言う物が数多く存在する。かなり慎重に物を買い、優柔不断で即決では跳び付かない私にしても、身の回りを見回すと、あるある、今考えてみると衝動買いだと言う物が一杯ある。

 マスコミや政府や専門家が騒いでいる不況と言うのは、私に言わせれば「贅沢における不況」である。株にしても、金融商品にしても、いわば「あぶく」の不況である。地価だって建物だってそうだ。週刊文春の最新号では、今は不動産は買ってはいけない、と警告している。すべてあぶくで高くなっているからだ。
 現在は、そうしたあぶくが次々と消えて行っている段階だと思う。あぶくだもの、消えて当然だし、その方がすっきりときれいになる。
 こうした情況になって見てみると、今まで当然のように見えていた物の中にかなり大量のあぶくが存在している事が分かる。悲しいかな、そのあぶくに我々は踊らされ、一喜一憂していたのだ。先日もそのあぶくについて書いたが、我々の暮らしの隅々にまであぶくが浸透して来ているから、何度でも言う必要がある。

 企業の中には不況で倒産する所も出て来る。社員だって解雇される。だが、それらがあぶくで成り立っていた産業だったとするなら、話は違って来るのではないのか。暮らしに困窮する家庭があるのは辛い事だ。かく言う私だって現在ひどく困窮している。あぶくのような仕事がどんどん減っているからだ。私のしている「あぶく仕事」とは、企業が余力があって出来ていた事が多いからだ。例えば、会社の社史編纂とか。そうした仕事が減って(だと思うが)私のDTP制作の仕事は激減した。私は額に汗して働いて来たが、発注元があぶくなら、私が汗しようがしまいが、関係が無い。あぶくに頼っていた自分が悪い。

 私は前にも書いているが、正当な物を正当な値段で売り買いしようではないか。値段は需給のバランスで変化する。それは経済学の原理だろう。だが、その需給のバランスが恣意的であったり、無理な物であってはならない。だからこそ、公正取引委員会とか独占禁止法とかが存在する。
 現在の大企業の合併は、商法などには触れないだろうが、我々庶民感覚からは違法に思える。寡占になるからだ。例えば、合併した銀行は支店をどんどん減らし、利用客の数は変わらないのに、店舗が減る。それによって銀行は経費を浮かす事が出来る。しかし、以前は必要だからこそ有った支店ではないか。それが不要になる道理が無い。その支店はあぶくだったのだ、と言うのなら、そんな放漫な経営が合併せざるを得ない弱体な体質を造り上げた元凶なのである。
 あぶくに我々が惑わされずに済むようになるには、ある程度のショックは避けては通れないだろう。今こそ、堅実な庶民の目が重要になるのだ、と私は思う。
 

金儲けはほどほどに。でないと墓穴を掘る

2008年10月23日 | Weblog
 住んでいる地域には都内でも有名な商店街がある。私ども夫婦は30年以上もその商店街に買い物に行っている。馴染みの店も結構ある。目が合えば、向こうから声が掛かる。その商店街が元気が無い。やめてしまう店も少なくないし、商売変えも多い。すべてやって行けなくなったからである。売値が安くて儲けが少ないからではないだろう。
 店に話を聞くと、うちはあんまり売れてないけど、店が自分の物だから何とかやっている、と言う。坪3万円と言われる賃貸料はべらぼうに高い。庶民の日常用品を売って、月30万円とかの賃貸料を支払い、店員に給料を支払い、店も経費を支払い、それでも儲けはほとんど無くて、といった商売が成り立つだろうか。
 有名な商店街だからと、借り手の弱みに付け込むあこぎな商売が横行している。でも気の毒な人々だ。そんな魂胆だと、この商店街はどんどん落ち目になるだろう。今だって、昔と比べて格段に魅力が落ちている。店を貸す側はそんな事はまるで考えていない。自分の儲けだけしか目に入らない。
 遠い昔は通りの先に火葬場があって、この通りは「葬礼通り」と呼ばれたと歴史は語っている。自ら墓穴を掘ってどうすると言うのか。
 すぐ近くで大規模な商住地の開発が進んでいる。旧国鉄の貨物駅の厖大な空き地が再開発される。広い道路も出来て、すっかり準備が整っている。あとは建物を建て、入居者を募集するだけである。ここに、超一流の大型スーパーが出店する予定があった。私もそれはそれで魅力だなあと思っていた。
 ところが、その大型スーパーが、この商店街の反対で進出中止となったらしい。そうだろう、今だって落ち目なのに、これ以上、スーパーに進出されたら、それこそ命取りになる。この商店街はかつては、中型スーパーの出店を要請して、見事に成功した実績を持つ。中型スーパーは商店街のほぼ中央に店を構え、互いに補完し合っている。客もその点をきちんと理解出来ている。
 そうした情況が変化している。店の賃貸料が安ければ、また魅力を取り戻す事だって可能だろう。それなのに、一握りの金権主義者のせいで、風前のともしびと言っても良いとさえ思える情況に追い込まれている。

 金儲け第一主義が世界的な規模で破綻している。金が金を産む商法が成り立たない。何日か前の東京新聞に「カジノ商法は成り立たない」と言うような意味の記事が載った。大国アメリカを代表とするばくち打ちがやって行けなくなっただけの事で、これで世界は少しは良くなるはずだ。
 それなのに、中国は相も変わらず危険な商品を作り続けているし、馬鹿な日本の商売人は平気でそれを輸入して我々に売り込んでいる。製造側が安全だ、と証明しているだって? 泥棒が自分は泥棒だと言うか? 詐欺師がこれは詐欺だよ、と言うか? サイゼリアの社長よ、馬鹿をそれ以上喧伝するなよ。しかも厚生労働省から検査の指令が下ったのに、その翌日に販売を開始している。

 専門家は危険な成分は3万種もあり、それをすべて検査するのは不可能だと言っている。どれか一つとか二つとかを決めてその有無を検査するしか出来ないのだ。だから、君子危うきに近寄らずの喩えを守るしか無い。こうした危険な商品を輸入して販売しているのはすべて君子ではないから、平気で危険に近づいて行く。
 三つ子の魂百までも、と言うではないか。雀百まで踊りを忘れず、とも言うではないか。役人の子はにぎにぎをすぐ覚え、の川柳も江戸時代からあるではないか。悪い奴は悪い事から足を洗えない。善人は悪い事は絶対に出来ない。そんな事、常識である。
 危ないと思える物は、いくら安くても便利でも、旨くても、我慢しようではないか。他人のために、を信条に物を作ったり売ったりする人は確かに居る。しかし大量生産、大量販売ではそれはまずは無理だろう。なぜって、少しでも儲けを大きくしたいからこそ、大量生産、大量販売をしているのである。自分と同じく他人のために徹底的に尽くそうなどと考えている人が、そう簡単に探せるはずが無い。
 そうしたまともな事を自ら率先して実行し、子供に伝えて行くのが親の責任ではないのか。親馬鹿であっても構わないが、馬鹿親であってはなるまい。

常用漢字の読み方追加に疑問あり

2008年10月22日 | Weblog
 常用漢字の音訓に追加される34字の案が発表された。
 本当に何で今頃? と思える漢字もあるが、何でそんな無駄な事するんだ、と思える字もある。特に県名を読めるようにと追加した読み方など、他にほとんど利用例が思い付かず、「常用」の精神に反するのではないか、と疑問に思う。
●県名対応
愛・え=愛媛
神・か=神奈川
岐・ぎ=岐阜
児・ご=鹿児島
滋・し=滋賀
城・き=茨城・宮城
分・いた=大分
良・ら=奈良

 地名は特別な文字と読み方である。そこには様々な歴史も反映しており、無理な読み方があっても仕方が無い。地名は特別なんだ、人名と同じなんだ、と考えれば何でもない事である。上記の読み方を出来るようにして、一体、どれほどの得があるのだろうか。
 「城=き」など、茨城は「き」だが、宮城は「ぎ」だ。清濁どちらでも、と言うのなら、「岐=ぎ」は不要である。なぜなら、「岐=き」は既に認められている。それを岐阜の場合に「ぎ」と読めば良いだけの話になる。

●有って当然の音訓
委=ゆだねる
育=はぐくむ
応=こたえる
関=かかわる
私=わたし
旬=しゅん
放=ほうる
癒=いやす
要=かなめ

 これなどは本当によく使われている。特に「私」を「わたくし」としか読めないなどとは言語道断なのだ。一般人は「私」と書いて「わたし」と平気で読んでいる。「わたし」のつもりで「私」と書いている。
 「こたえる」には「答える」と「応える」の両方がある。この二つは明確に違う。「答」は中身は問題ではない。単に返事をするだけでも使える。×だって「答え」なのだ。しかし「応」は相手の意に添いたい、との気持があるはずだ。

●要らない音訓
混=こむ
臭=におう
創=つくる
力=りきむ
全=すべて

 これは少々難しいが、特に「混=こむ」は要らない。「混」の字に「こむ」の意味は無い。この字は「まじる」の意味で、「混雑=雑多にまじる」から「こむ」と誤解されているのだと思う。「こむ」と「まじる」は明らかに違う。「混=こむ」を認める事によって、「人混み」と「人込み」は雑多に人が混じっているのか、大勢の人が集まっているのか、区別が付かなくなる。「人ごみ」とは、普通は人で混雑している事を指す。従って「人混み」であって、「人込み」ではないだろう。そして「人混み」は今だって使える。
 結局、「混」に「まじる」だけではなく「つめこむ」の意味も持たせようと言う事になる。
 「臭い臭い」。これを何と読むか。「くさいにおい」である。「くさい=におい」から分かるように、この「におい」は悪臭である。だからこそ、「匂い」の文字が必要になる。
 「つくる」は今でも「作る・造る」で、どちらにして良いか揺れている。そこに更に混乱を増やそうとする。「創=創造」だと言うのだろうが、「文章をつくる」などでは、一体どうせよ、と言うのか。
 「力」は音読みで「りき」。そこから「りきむ」の言葉が出来ているはずだ。
 「全=すべて」はそう書きたがる人は多い。だが「全く=まったく」が常用だから、同じ字をまるで違う意味に使う事になる。それこそ常用漢字が嫌がる事なのではないのか。

 以上のような考え方は思い付きではない。私はこうした表記にそれこそ十何年もいや、20年以上も悩まされ続けている。そこで自分なりになんとか解決策を見付けようと10年以上前からそうした作業に取り組んでいる。
 その一応の結論は出ている。もちろん、叩き台としてである。本の形にもしてある。表記など、国の一部の機関が決めて良い訳が無い。全国民がしっかりと考えるべき事柄である。そして試行錯誤して自然に決まって行く性質の物なのではないか。しかし専門的だと思われて、原稿はいまだに本にはなっていない。易しく、面白く組み替えて、一般読者にも興味を持ってもらえる工夫を考えている。
 知恵を貸して下さる方、出版に協力してもいいよ、と言う会社は無いだろうか。

私は難しい事が分からない。「お天道様」で良いではないか

2008年10月21日 | Weblog
 東京新聞の文化面に梅原猛氏の連載がある。20日は「不幸にして予言は当たった」。1991年、ソ連が崩壊した時、あるアメリカの高名な哲学者が、ヘーゲルの弁証法的論法に従って「これで対立の時代は終わり、歴史は最終段階を迎えた」と論じた事に対して、同氏はこの欄、と言うから、東京新聞の文化面になるが、えっ、もう19年も続いているのか、で次のように語ったと言う。
 「それはとんでもない見解であり、マルクス主義を信じたソビエト的近代主義は終わったが、次は資本主義を信じるアメリカ的近代主義が崩壊するであろう。」
 そしてイラク戦争の事も論じている。確かに予言は当たった。そうした事に続いて、今年、アメリカ発の金融危機が起きた事に対して、歴史の動きはかなり速い、との話になる。ここで、私の「分からない」記述が出て来た。

 公的資金を投じようとするアメリカ政府の提案に、多くの民主党及び共和党の議員が近い将来の選挙を意識して反対票を投じた。それはウォール街の高給取りを税金で救済するとは何ごとかという有権者の批判を恐れてのことであろう。
 この批判は、死んだはずのマルクスを生き返らせるようなきわめて当然の資本主義そのものへの批判である。
 この「死んだはずの……」の部分が、悲しい事に分からないのだ。
 この批判が資本主義その物への批判である、のは分かる。それを少しさかのぼって、「きわめて当然の」も分かる。「きわめて当然の批判」と続くはずである。
 だが、「死んだはずのマルクスを生き返らせるような」がどこに続くのか。多分、マルクスが生きていれば、資本主義に対して当然に批判をするだろう、となるのだと思う。だが、同氏は、「マルクス主義は終わったが、次にはアメリカ的近代的資本主義が終わりを告げるのだ、と予言していたのだ。つまり、それはマルクスがする批判などではなく、「当然に」良識が「アメリカ的近代的資本主義」に対してする批判である、と言っている事にならないか。

 この稿を同氏は次のように結んでいる。
 パックス・アメリカーナの時代は終わった。世界は新しい哲学と新しい政治学、経済学を必要としている。(中略)二十一世紀以後の人類に生きる目標を与えるような、デカルトに始まる近代哲学を根本的に否定する哲学を創るのが、私に残された人生の課題だとこのごろ思うようになった。
 主旨は分かる。しかし突然に「パックス・アメリカーナの時代」と言われてもねえ。これは当然に「パックス・ロマーナ=ローマの平和」が前提になっている。 ローマ帝国初期のアウグストゥス時代から五賢帝時代末期までの約2百年間(前 27~後180)。動乱や戦争は収まり、文化的発展のめざましい時代だったのでこう名づけられた。とある辞書は説明している。
 「文化的、経済的優位性で世界の平和を保ったと自負しているアメリカの時代」は終わりを告げたのだ、と言っている。だからそこにはマルクスの登場は必要が無い。我々の知恵が必要なだけである。それなのに、なぜマルクスが生き返る、などと言うのか。その知恵が無かったから、我々は間違った近代主義に踊らされて来た、と同氏は言う。それが新しい哲学の創造で、大きな見出しで「人類の新哲学を創れ」とある。

 そうだろうか。それを我々は持っていない、と同氏は言うのだが、私はもう既に持っていると思っている。私は無学で、哲学とかヘーゲルの弁証法的論法とかデカルトとかが、皆目分からない。分かりたいとも思わない。だが、現在の金がすべてである、との考え方が間違っていると思っている。そうした知恵では駄目だと言うのか。
 新哲学など要らない。我々の素朴な知恵、先祖から受け継がれて来た知恵で十分役に立つのではないのか。変な複雑な金儲けの話に我々のそうした知恵が付いて行けないのは、金儲けの話がおかしいからであり、我々の知恵のせいではない。
 先日も書いたが、昔の人は「お天道様が見ている」と言った。今、その「お天道様」が不在である。居なくなったのではない。我々が忘れているだけに過ぎない。「お天道様」を思い出す、そこから新しい事が始まる。そう私は信じているのだが。