夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

仏像と著作権は似合わない

2009年05月30日 | 文化
 東京のお寺で、空襲で焼失した観音像を1993年に再建した。地元では「駒込大観音」として親しまれて来た仏像だと言う。ところが、檀家などから、再建された観音様の顔が睨みつけるようだから変えて欲しいとの願いが出され、寺は別の仏師に依頼して仏頭を作り直した。
 それが著作権の侵害であり、仏頭を元に戻すよう、元の仏像の仏師が裁判に訴えた。そしてその要求が東京地裁で通った。判決の主旨は次の通り。
 「仏頭が作者の思想や感情を表現する上で重要なのは明らか。すげ替えは重要部分の改変に当たる。仏頭は寺で保管されており、元に戻すことは可能だ」

 仏頭が作者の思想や感情を表現しているのは指摘の通り。だが、仏像は本来は芸術作品ではなく、信仰の対象である。奈良・東大寺のあの巨大な毘盧遮那仏にしても、観光の名所みたいになっているが、宗徒にとってはまさに「仏様」なのである。東大寺は華厳宗の大本山で、現在、その宗徒がどれほど居るのか知らないが、見せ物みたいに扱われるのには苦々しい思いがあると思う。
 心から信じている仏様のお顔が睨みつけるようで怖い、と言うのは由々しき事である。元々が怖かったお顔なら仕方が無いが、「駒込大観音」として親しまれて来た以上、観音様にふさわしく、優しいお顔だったのではないだろうか。だから檀家がこれでは困る、と言うその気持は分かる。そこには著作権などが出て来る幕は無いだろうと思う。
 「檀家などから」との言い方の「など」に、檀家ではない、単に観光的な気分、街の名物的な目で見ている人を含むのだとしたら、宗教に部外者の意見は不要だから、何も考慮する必要は無い。必要なのは檀徒の考えである。国語辞典でも「仏像」は「礼拝の対象としての仏(仏陀以外も含む)の彫刻像や画像」との説明がある。
 心の拠り所としての仏像のお顔を檀徒が重用視するのは当然である。宗教心の非常に薄い我々日本人は、ともすれば仏像を美術作品のように見ているが、本来はとんでもない事なのだと思う。たとえ檀徒が居なくなり、寺も無くなってしまった仏像だって、仏様であるのは間違いない。
 仏師が寺院とどのような契約を交わして仏頭を作ったのかは知らないが、仏師は観音様を作ったのである。観世音菩薩は大慈大悲の御心で、苦悩を除く力を持っている。その観音様のお顔が睨みつけるような怖いお顔のはずが無い。仏師も大慈大悲の気持に沿えるようにと心を込めて作ったはずである。その気持が檀徒に届かないと言うのだから、著作権などが出て来る幕は無いのである。

良き師を持ちたいものだ

2009年05月29日 | 文化
 ブログ「心に青雲」の主宰者が良き師匠をお持ちなのは、以前から知っていた。何かにつけてその師の話が出るから分かる。心から傾倒出来る師に逢えたのも、御本人の精進努力の結果である。そして我が身を振り返ってみて、遅まきながら落胆している。
 以前、私にも心の師と仰ぐ人は居た。一人は『暮らしの手帖』の花森安治氏である。一言一句を心に刻み付けるようにしてその文章を読んだ。彼のような文字を書きたいと、トレペを当てて、文字を写し取ったりもした。それは今も残っている。私が『暮らしの手帖』を長期に渡って愛読し、電気製品なども同誌を読んでから買っていたのも、すべて同氏を信頼、尊敬申し上げていたらにほかならない。
 亡くなってからもずっと同誌を読んでいたが、ある号の表紙に室内風景の点景として石油ストーブのブルーフレームが載ったのをきっかけに、私は購読をやめた。ブルーフレームは花森氏の絶賛するストーブで、私も買って使っていた。ところが、製品が年々悪くなって、遂に同氏は「ブルーフレームを見限った」と書いたのである。
 それが表紙に登場したので、ああ、同誌は花森路線から舵を切ったのだな、と思ってやめたのである。

 もう一人の心の師は雑誌『室内』の編集長であり、発行元・工作社の社長であった山本夏彦氏である。私は一時インテリアの仕事をしていたので、その時から好きだった。
 何しろ、考え方が痛快無比である。ばったばったと斬り捨てるが、それが格好良くて、しかも正義の剣なのである。そして文章がまたまた泣かせる。真似をしたいのだが、真似だとすぐに分かってしまうような独特の調子なので、それも出来ない。せめて考え方だけでも、と思ったし、今でも思っている。
 人が言いにくい事をずばりと言う。例えば「やはり職業には貴賤がある」と言う(『茶の間の正義』中公文庫)。

 早い話が、昨今は誰しも子供を一流校へいれたがる。やがて、一流会社へいれるためである。してみれば、貴賤はあると、白状しているも同然ではないか。
 それでいて、貴賤はない、あってはならぬと、図々しいのは人前で説教する。それを聞いて深くうなずくものがある。
 腹と口が違うのは我々の常だが、説教までするとは不思議なようでそうでない。我らは決して実行しない、またするつもりのない修身を、聞いたり話したりするのが、きらいだきらいだと言いながら、実は大好きなのである。修身はほろびずと、だから私は思っている。

 ほんの一例を引いたが、私にはこのように断罪する勇気が無い。つまり、世の中の事が分かっていないのである。だから余計に同氏の書いた物に惹かれるのだと思っている。

ならず者国家・北朝鮮

2009年05月28日 | 社会問題
 何で、あんな「ならず者国家」が存在出来ているのだろうか。
 一つ言える事は、世界には北朝鮮以外にも「ならずもの国家」が存在しているからだ。それに対抗して自分の存在を認めさせようと言うのである。
 核実験に正しいも正しくないも無い。北朝鮮がやるから悪で、他の国がやるから善だ、などとはならないのは誰の目にも明らかだ。北朝鮮がどの国に対抗意識を燃やしているかは問題ではないと私は思う。世界には確実に「覇権国家」と呼べる国がある。「覇権」が許されているのがそもそもはおかしい。みんな、どんぐりの背比べで良いのである。人間に偉いも偉くも無いのと同様、国だって、そんな尺度は無い。
 でも、昔、そんな北朝鮮を必ず「朝鮮民主主義人民共和国」と呼ぶ事にしていたのは、一体、どのような思惑だったのだろうか。「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」の表示なんて、馬鹿馬鹿しいだけだった。それをマスコミは揃いも揃って金科玉条の如く掲げて、糞真面目に実行していた。そんなマスコミに真実を見る目が果たしてあるのだろうか。

 アメリカはイラクに対してはあの戦争を仕掛けた。フセインの圧政から国民を救い出すのだと。それを喜んでいるイラク人は居る。だが、それなら、北朝鮮の金正日の圧政は何で無視するのか。他国の事はその国民に任せたら良いではないか。イラクには石油資産がある。しかし北朝鮮にはそれに類した物が無い。単にそれだけの話なのだろうね。
 だから日本人の拉致問題なんか、はなから存在などしていないのだ。拉致された日本人を救い出したところで、アメリカは一銭の得にもならない。日本人からは、ああ、アメリカは素晴らしい国だなあと賞賛されたとしても、そんな事、かの国は求めてなどいない。いざとなったら、脅かせば、我が国はすぐに言う事を聞くのである。
 前にも書いたと思うが、石原慎太郎氏が直接アメリカの政府の役人から聞いた話である。当時の宮沢外務大臣を評して、その役人が言った。
 「あのチビ、脅したら震え上がって言う事を聞きやがった」
 日本語訳は石原氏による。これは日曜日の「田原のスーパーモーニング」での放送の一部である。

 先日、一流紙にもお粗末な間違いがあると書いた。そうしたら、その同じ日、朝のテレビ朝日の番組で「石川五右衛門は実在したのか」と言うテーマを放送していた。当時の記録としてはイスパニアのアビラ・ヒロンなる人物が「日本国王記」の中で、五右衛門の処刑が1954年に行われたと書いていると、テロップが出た。解説者の作家もはっきりと「せんきゅうひゃくごじゅうよねん」と言った。そして番組の他の人々も誰も何も言わなかった。
 明らかに「1594年」の間違いである。だが、誰もが納得している。事実の追究にすっかり夢中になっているらしい。しかし、それとこれとは全く別の事である。次に出た年表ではきちんと1594年となっていた。それは当然なのである。その年表に1600年代や1700年代の事が出て来るから、間違いようが無いのである。そうでなければ、簡単に間違ってしまう。
 これは単に揚げ足を取っているのではない。こうしたお粗末な注意力で以て、真実の追究が出来るのか、との大きな疑問が湧くからだ。この場合は年代だから誰にだって間違いが分かる。だが、世の中には分からない事の方がずっと多いのである。先日の鮎の事だって、1トンと1キロの間違いは直感的には分からない。1キロを1トンと間違えて、それが鵜の餌食になっているとの話なので、被害額は千倍にもなっている。そうか、そんなに被害が大きいのか、で終わり。だから被害額の大きさの問題になれば、これは一大事になるが、本当はそんな大きな問題にはならない事なのである。
 銀行のATMで1万円を下ろしたら、1000万円が出て来たら、誰だって驚くが、現実の政治や経済の世界には、このようなすぐに分かるような数字は存在していないのである。だからこそ、余計に注意が必要なのだ。
 今回の新型インフルエンザだって、事実の捉え方次第で、大騒ぎをすべきなのか、もっと冷静になるべきなのかが分かれる。その事実が果たして正確に伝えられているのか、である。

健康の基は食生活から

2009年05月26日 | 社会問題
 ブログ「心に青雲」に、新型インフルエンザも普段からの食生活が重要だ、とあった。確かにそうだろう。テレビなどでは、若者が新型インフルエンザにかかっているのは免疫が無いからだと言っているが、食生活の方が大きな要因になっているのだろう。考えてみれば、我々の食生活は昔は本当に素朴だった。今と比べると驚くほど貧しかったが、逆に言えば、変なおかしな物は食べていなかった。それこそ薬品まみれの食糧など、考えられもしなかった。
 もう30年以上も前になるが、田舎の伯母は農薬について非常に詳しかった。カタカナ語の薬品名がすらすらと出て来て、その効能もすっかり頭に入っている。肥料はもとより、除草剤や病害虫駆除剤などが鉄砲玉のように口から飛び出て来た。ほとほと感心したのだが、本当はあまり感心していてはいけなかったのだ。どうもその頃からなのだろうか、食糧が薬まみれになり始めたのは。
 最近、野菜づくりのテキストの校正の仕事をした。農業をやろうと志す人の教科書だから、コストについても敏感である。1アール当たり幾らの収入になるか、と言う事も書かれている。数字が出て来るたびに私は計算をしている。そうしないと、時には計算が間違っていたり、単位が間違っていたりする事もあるからだ。ある新聞などは、多摩川で穫れる鮎の量で、キログラムの単位をトンと間違ってしまった。読者の私はすぐに計算をし、鮎1尾が1円になる計算にびっくりした。いくら原価だと言ったって、あまりにも安過ぎる。そうしたら案の定、翌朝、訂正記事が出た。計算すれば1尾千円になるが、天然ものだからそれくらいでもおかしくはない。
 つまり、一流紙の校閲部でさえ仕事が出来ていない。それはさておき、野菜づくりの収入が決して高くはないのに驚いた。土地を持っていてこの収入か。東京なら、ちょっとした土地があれば、駐車場にして、それこそ、遊んで暮らせる。私の住んでいる近辺では、安くて1台2万5千円だから、10台も入れれば、月収25万円にもなるのである。

 そうした安い野菜づくりに、中国を始めとする諸外国からどんどん、もっと安い野菜が入って来る。生産性を上げるためには、それこそ薬漬けにする事も必要になる。本当に薬品に頼らず、自然に諸々の害を減らそうとするなら、いくら体があっても足りなくなる。それなのに、消費者は少しでも安い商品に飛び付く。これは前にも言ったが、商社が悪い。物には適正な価格がある。安ければ安いほど良い、などと言う事は無いのである。
 私は総菜などを買うのは好きではない。自分で作るのが一番。いくら原材料が明記してあったって、その正体が分かる訳ではない。何も書いていない商品だってある。特に町の総菜屋で売っている物にはそんな事は表示されていなかったりする。
 しかし共稼ぎをしている主婦は総菜を買う事になる。大体、大事な子供を学童という名の保護施設に預けてまでも働かなければやって行けない。それが既におかしい。そしてファストフードも含めて得体の知れない物を子供はどんどん体に入れてしまう。ハンバーガーがなんであんなに安く出来るのか、私は不思議で仕方がない。それは大量生産だからだよ、と言われてしまえばそれまでだが、世界進出を企んでいる企業が少ない利益で満足しているはずが無い。

 「心に青雲」のブログで感心するのは、内容の詳しさである。どこであのような勉強をしているのだろうと思っているのだが、その説得力の強さには本当に羨ましくさえ思う。実践の裏付けもあるから、更に強い。時々は、えっ? 本当にそうなの? と思ったりもしているが、それは多分、私の無知さ故なのだろう。
 ブログ主は武道家でもある。うーん、私ももっと運動しなくては。知り合いの男性は、今日も10キロ歩いて来た、と笑顔で言う。1軒おいた隣の男性は毎日5キロを30分ほどで歩いていると言う。1キロ10分でも遅くはないから、これは確かに速いし、運動になる。好きな水泳でさえ忙しさにかまけてさぼっている私には、なかなか運動に取り組む心の用意が出来ない。それじゃあ駄目じゃん。そう言う春風亭昇太はなかなか結婚出来ない。そう言う私はなかなか運動が出来ない。それじゃあ駄目じゃん。

疑われるような事はしないのが常識

2009年05月23日 | 社会問題
 裁判に使われる言葉に「合理的な疑い」がある。5月20日に福岡地裁で言い渡された無罪判決の中にこの言葉があって、それを翌日の東京新聞がコラム「筆洗」で採り上げた。
 元々は英語の直訳で、丁寧に訳すと「証拠にもとづいて、常識に照らして、有罪とすることに少しでも疑問があったら、有罪にはできない」意味だそうだ。そうした解説をしているのが、大河原真美著『裁判おもしろことば学』だと、コラムは紹介している。
 これを読んで私はびっくり仰天した。と言うのは、コラムを読む前にそのすぐ下にある俗に「さんやつ」と呼ばれる書籍の広告を見ていたからだ。その右から二番目にその本が載っている。なるほど、と思い、私が常々考えている事に似ているので、少なからず衝撃を受けたのだった。
 その本がそのままコラムで採り上げられている。
 コラムの内容は裁判員制度に関してなので、こうした裁判用語に言及するその理由はもちろんあるし、もっともだとも思う。だが、これでは広告の後押しになるではないか。
 もちろん、筆者はそのような事は考えてもいないし、多分、紙面がそのようになる事さえ知らなかっただろう。では、だからそれで良い、と言えるか。私は明確に「それでは良くありませんよ」と言いたい。
 これが別の日だったらどうか。本に関心のある人なら、ああ、あの広告にあったな、と思う。そうか、読んでみようか、と思ったりもするだろう。広告を見なかった人は、ここで初めてその本を認識する事になる。
 こうした事と、記事と広告が上下に並んでいると言う情況はまるで違う。変な話、出版社が筆者に売り込んだんじゃないのか、と勘ぐる向きだってある。私も大いに疑っている。
 「李下に冠を正さず」「瓜田に靴を履かず」の格言もある。「瓜田に……」は「靴を納れず」が正しいらしいが、私は子供の頃に雑誌で「履かず」と教えられた。

 下司の勘ぐりと言われようが、私は同紙は実にまずい事をしたなあ、と思っている。コラムと広告が上下になるのが直前に分かったとしても、多分、広告の変更は利かないだろうから、記事を変える手はあるだろう。コラムを書くくらいの人だもの、そんな事朝飯前のはずである。それに、万一を考えて、予備の記事くらい用意してあるのもまた常識の範囲内である。私のこんな取るに足りないブログでさえ、幾つかの予備は用意してありますよ、ハイ。

うっかり勘違いと騙しの違いについて

2009年05月22日 | 社会問題
 先日、童謡で混乱して動揺していると書いた。そして流蛍さんから、私が間違って覚えている童謡が何かを教えて頂いた。「ランドセルしょって」の歌詞が共通しているせいで、うかつにもそこで道を間違えた。これは私の単純な間違いだが、ほかの事で、こうした事が騙しに繋がっている事はないだろうか、と考えた。
 実はそれは数限りなくある。普通に読み過ごしている文章にたくさんある。それが怖いのは、特にベストセラーなどにある場合である。何十万人とか百万人以上とかの人々が読んでいるからだ。だが、私はそんなには心配はしていない。多くの人々が騙されていたって、それは死活問題とは遥かに遠い事だからである。そして心配していない理由はもう一つある。
 真剣に読んでいない人々が多いだろうからである。なぜそんな事が言えるかと言うと、真剣ならそうした騙しに簡単に気が付くはずだからである。そうでなければ、本当に多くの人々がいかにも頭が悪い事になってしまう。

 この「騙し」と私が言っているのは、実は著者が勘違いをしている結果なのである。それをなんで「騙し」などと大袈裟に言うのかと言えば、そこで大きく論理がころっと転換しているのに気が付かないからである。
 問題はその論理展開がさも当たり前の顔をして堂々と成り立っているからである。もちろん、成り立ってなどはいないのだが、成り立っていると思われてしまっている。こうした事が成り立ってしまうと、何にでも通用してしまう。
 この事については、一部の事柄に対してある原稿を書いた。だが、それを読んだある一流出版社の編集者はこう言った。
 「それはあんたの勝手な考えだ。著者は専門家である」
 一流編集者と専門家の組み合わせに、素人は引き下がるしか無い。こちらの武器は正当な常識と論理力だけである。我々はしっかりと考える力を持っていないと、生きて行く事が難しい。それなのに、多くの人がしっかりと考えていない。考えているように見えて、その実、誰かの考えをそのまま受け入れているに過ぎない事が多い。
 あまりにも情報が多いから、しかも誰かの考えを十分に取り入れた情報だから、見聞きしている内に、自分がそう考えたようにも思えて来る。つまり、うまく情報操作をされている。
 ベストセラーに簡単に騙されている事は、結局はそうした重大な事に繋がるのである。一見筋が通るように思えるから、そしてその結論は決して心地悪い物ではなく、反対に、ああ、そうか、と納得する事を快く感じる結論だから、騙されていて気持が良いのである。誰もが、専門家、一流出版社、ベストセラーの名前に簡単に騙されている。
 この「ベストセラー」を「マスコミ」と言い換えても、話は同じである。

新型はウイルスだけではなく、水着までも

2009年05月21日 | 社会問題
 背泳ぎで世界新を出した入江陵介の水着に疑いが掛けられている。私は前からこうした水着に大きな疑問を抱いている。だから極端な事を言えば、足ひれを着けて泳ぐのと同じじゃないか、と言っている。要は、その足ひれをどこまで人間の足に近い物にするか、と言う話である。
 それが「ドバイ宣言」とか称するものらしい。曰く、素材の厚さ最大1ミリとし、浮力の効果を1ニュートン以下に限定する。首と肩、足首を覆うモデルや重ね着を禁じる。
 彼が着たデサントの水着は、厚みや浮力はクリアしたが、水着に空気をためる構造が引っ掛かったと言う。えっ? 水着に空気をためる構造だって? そんなの浮力を高めるに決まってるじゃないか。その事については具体的な数値は無く、出来上がった物で判断する、と言ういい加減なものだったと言う。へー、そんな程度で「ドバイ宣言」なんて宣言しちゃっていいのか、と私は心配になる。
 東京新聞は、「水着ばかりが注目される状況を抑制するため、速い水着が狙い撃ちされた可能性もある」と書いているが、狙い撃ちで当然である。遅過ぎるくらいである。水着で記録を伸ばして何が名誉か。

畠山被告の無期懲役が確定した
 被告が上告を取り下げたのは当然の事である。無期懲役では重い、などと言う事があろうか。それにしても、どうして検察は上告を断念したのか。多分、死刑の求刑は通らないと判断したのだろうが、だらしが無い、と私は勝手に思う。冤罪などではあれほどまでにも死刑に固執しているにも拘らず、この落差は何なのか。
 被害者の父親の言葉がまさに本質を語っている。
 「未来ある子供の命を奪った刑罰でありながら更生の機会が与えられ社会復帰できる可能性が残されたことに対して強い憤りを感じます。せめて終身刑があればと思わずにいられません」

 何の過失も無いのに無惨にも生きる道を断たれた子供には何の保障も無いのに、殺人鬼には未来が残されているなんて、こんな不公平極まる事は無いではないか。絶対に終身刑を設けるべきだ。アメリカなんて、懲役200年とか300年とかだってあるじゃないか。200年もあれば、いくら減刑の処置がされたって、終身刑以下になる可能性は無いだろう。
 裁判員精度が始まったって、本職の裁判官が素人の意見を採り入れるだろうか。自分の昇級だけを願って、上級審の意見に無定見に従ってしまうような裁判官が多い現状で、裁判員の力など知れたものだ、と私は、これまた勝手に思っている。裁判の印象をいかにも公平無私にするための謀略ではないか、と思っている。

人を招く時、招かれる時

2009年05月20日 | 文化
 麻生総理が、自分が出迎えるはずの外国大使を見過ごして通過しようとしたとの失敗談が写真と共に新聞に載っている。大使が予定より早く着いてしまったのだと言う。で、総理は自分の方が先だと思っているからつい通り越してしまいそうになった。
 でもこれって、無礼だし、気配りが足りないと思いますが。
 相手は外国人だが、その国には約束の時間より早く到着するのは失礼だ、との考え方は無いのだろうか。そして麻生総理の側だが、総理は相手の顔を事前に確認していなかったのか。側近はきちんと知っているはずだから、側近の配慮が足りなかったとも思えるが、結局は肝心の総理の心掛け次第だと思う。

 茶道で茶会を開く時、と言っても、ごく少人数のまさに「お茶事」と呼べる場合だが、客は約束の指定時刻に遅れてはならないが、また早過ぎてもいけないと、きちんと決まっている。しかし同時に二人とか三人が到着してもこれまたあまり好ましくはない。その辺は客の阿吽の呼吸である。
 そして迎える側は準備が出来て、いつお出でになっても良いと言う時刻になったら、玄関の戸の手掛かりを少し開けておくのである。それを見て、客は、ああ、入ってもいいんだな、と分かる。だから入った客はその戸を元通りに手掛かりだけ開けておくのである。もちろん、全員が揃ったと思った段階で、主人側が閉めれば良いのである。
 人を招き招かれる時には、それくらいの心配りがあるのは当然なのである。
 私は会社などで指定の時刻を示された時、たいていは5分ほど前に着く事にしている。そして玄関の前で目立たぬように時間をつぶす。指定の時刻になってから玄関を入ると、部屋に着く頃には指定時刻を2分か3分ほど過ぎている。それで早過ぎず、遅過ぎずになる、と思っている。時間にルーズだと思われたくはないが、さりとて早過ぎるのは相手にとって迷惑になる。
 みなさん、忙しいのである。準備万端調えて、今か今かと待ち構えていると言う事などまずは珍しいのである。多くの場合、少しくらい遅れても、かえって、ああ良かった、と先方からは喜ばれるくらいだと思う。ただ、その兼ね合いが難しい。
 だから指定の時刻より二三分ほど遅れるくらいがちょうど良いのだと私は信じている。

新型インフルエンザの流行

2009年05月18日 | 社会問題
 やはり思った通りだった。航空機の機内検疫でどれほどの事が出来るか、と私は疑問を呈した。結局、見逃していた患者が居て、そこから移ったとしか思えない。でもマスコミは厚生労働省が大騒ぎをし過ぎると非難した。私はマスコミ自体が大騒ぎをしていると思った。それは危険だと感じたからだろう。単に大騒ぎをして自分達の仕事を派手に見せたかった訳ではなかろう。
 しかしながら、新型インフルエンザは普通のインフルエンザよりも菌としては弱いから、大騒ぎをする事は無い、と言う専門家が現れた。そこからマスコミは一転して、厚生労働省の大騒ぎを批判する立場に立った。だが、それはおかしい。新型インフルエンザはもっと毒性の強い菌に変化する危険性があるとの意見もある。そこで見識の不足しているマスコミは進退窮まった。それが訳の分からない報道になっている。

 誰も知らない新しい病気に対して、警戒をし過ぎると言う事があるだろうか。
 今の段階で、大阪と兵庫で患者は100人を越えてしまった。学校も7日間とかの休校になっている。新たに銀行の窓口の女性にも患者が出てしまった。東京でも、今朝会った同じマンションの人がマスクをしていたので、防御ですか、と聞くと、学校から通知があったと言う。子供より大人の方が様々な人と関わり合うから当然の処置だろう。
 
 これから暑さに向かう折から、心配し過ぎる必要は無い、などと言うのは、必要以上に恐怖を煽る事を心配してなのだろうが、油断をさせてしまう恐れはないのだろうか。そうした事についてはどのように考えているのか。これからが、マスコミの正念場ではないか、と私は思う。

 話はがらっと変わるが、前出の「100人を越えた」の表記を、どう思いますか? この場合に圧倒的に多くが「100人を超えた」と書く。それは「もう100人をこえてしまったんだ」との思いがその表記を納得させているのである。そこには、越えてはならない事を越えた、との思いがある。だから、読む方もそれで納得している。
 しかし、それは勝手な考え方である。書き手のそんな思いをいちいち読む側に強制するのは出過ぎた処置である。
 表記辞典は、こうした「超える」を「限度を過ぎた」との意味で、「越える」ではなく「超える」と書くのだと指示している。
 どちらも勝手にある水準を「限度だ」と考えているのである。それはあんたの勝手な想像に過ぎない、と私は言いたくなる。限度かどうかは読む側の判断に任せるしかないではないか。どうしても「限度なんだ」と言いたいなら、そのように書けば良いのである。だが、それにはちょっと工夫が要る。そうした工夫が出来ない、あるいはしたくないから、安易な「超える」の表記でお茶を濁している。

 素人の個人的な発言なら、どうぞ御自由に、と言おう。だが、仮にも大勢の人々を対象にしている場合には、そんないい加減でものぐさな事では発言する資格は無い。多くの人々が、書く場合に甘え過ぎている。もっと真剣になって書くべきだと思う。

教えて欲しい事・その続き

2009年05月17日 | 言葉
 新聞を整理していたら、次のような記事があって、分からなくなった。
1 小沢代表の辞任での新聞の「デスクメモ」と称する小さな記事。
 「昔は政局を混乱させないことが伝統だった検察と、敵失を享受していた政府・与党。小沢辞任で一番傷付いたのは、この二者である。実はタイミングを計っていたのではないか。策士とは、そういうものだ」

 民主党が立ち直る気配を見せたのだから、政府・与党にとって衝撃だったのは分かるが、検察は何で? 政局を混乱させないことが伝統だった、とあるから、その伝統を小沢氏の秘書逮捕で破った訳だ。それと小沢氏の辞任との関係がよく分からないのです。検察が政局を混乱させようと狙って逮捕したのなら、その混乱が治まりそうなので、努力が無駄になった、とは考えられるのですが、それはつまりは、この新聞は小沢氏の金銭授受問題で民主党を窮地に陥れようと企んだ、と考えている事になりますね。でも、献金問題は決して解決した訳ではないし、辞任したって、追及は続くはずですが。 

2 田原氏がテレビで、横田めぐみさんと有本恵子さんに関して、「外務省も生きていないことは分かっている。生きてないという交渉をやると、こてんぱんにやられる」と発言したと言う。それに対して拉致被害者家族会と「救う会」が抗議文を送った。「確実な根拠も示さず死亡説を公共の電波に乗せた」と。
 田原氏は「被害者の皆さんの気持ちはよく理解できるが、事実を言ったまで」と応えたそうだ。

 死亡が事実である事の根拠は何か。外務省と田原氏はどこでその事実を知ったのか。外務省はなぜ国民に隠しているのか。少なくとも田原氏は根拠となる情報を詳細に発表すべきではないのか。

3 英語の問題。新聞の「英語の質問箱」での回答。
 〈will〉は「とっさに思いついたこと」を述べるのにふさわしい表現と言えます。
 I’ll go to Kyoto.(そうだ、京都へ行こう)
 ここに見られるように、一人称を主語にした I will…や We will…の〈will〉は、「決意や意志」を表明するときに用いるのです。

 「will」の用法は、「とっさに思い付いた事を述べる」であり、それを次には「決意や意志を表明する」と言っている。これが私には分からない。「とっさに思い付いた」と「決意や意志」が同じだとはとても思えないのです。
 とっさに思い付いた事なら、よくよく考えてみたら、馬鹿馬鹿しい事だったなんて事ありませんか? それに、決意や意志なら、そんなに簡単に思い付いたりはしないと思う。「決意」は文字通り「意志をはっきり定める事」であり、「決心」とも言い換える事が出来る。「決意を固める」などの用法はその最も代表的な使い方だろう。それと「とっさに思い付いた事」とは絶対に違うと思うのだが。
 JR東海のCMに「そうだ、京都へ行こう」がある。これなんて、「とっさの思い付き」の代表選手じゃなかろうか。テレビのCMって、そうした物である。CMで決意を固める人っているのだろうか。

4 童謡です。新聞に懐かしい童謡が載っていた。
 赤い帽子 白い帽子 仲よしさん
 いつも通るよ 女の子
 ランドセル しょって
 お手々を ふって
 いつも通るよ 仲よしさん

 これをなぜか私は最後の2行を全く違って覚えていた。

 ランドセル しょって 元気良く
 お歌を歌って通う道

 こんな歌詞は4番までのどこにも無いし、第一言葉の数が合わない。けれども、私の覚えているメロディーにはぴたりと合っている。この私が勘違いをして覚えてしまった歌詞は一体何と言う童謡の一部なのか、知っていたら教えて下さい。