東京のお寺で、空襲で焼失した観音像を1993年に再建した。地元では「駒込大観音」として親しまれて来た仏像だと言う。ところが、檀家などから、再建された観音様の顔が睨みつけるようだから変えて欲しいとの願いが出され、寺は別の仏師に依頼して仏頭を作り直した。
それが著作権の侵害であり、仏頭を元に戻すよう、元の仏像の仏師が裁判に訴えた。そしてその要求が東京地裁で通った。判決の主旨は次の通り。
「仏頭が作者の思想や感情を表現する上で重要なのは明らか。すげ替えは重要部分の改変に当たる。仏頭は寺で保管されており、元に戻すことは可能だ」
仏頭が作者の思想や感情を表現しているのは指摘の通り。だが、仏像は本来は芸術作品ではなく、信仰の対象である。奈良・東大寺のあの巨大な毘盧遮那仏にしても、観光の名所みたいになっているが、宗徒にとってはまさに「仏様」なのである。東大寺は華厳宗の大本山で、現在、その宗徒がどれほど居るのか知らないが、見せ物みたいに扱われるのには苦々しい思いがあると思う。
心から信じている仏様のお顔が睨みつけるようで怖い、と言うのは由々しき事である。元々が怖かったお顔なら仕方が無いが、「駒込大観音」として親しまれて来た以上、観音様にふさわしく、優しいお顔だったのではないだろうか。だから檀家がこれでは困る、と言うその気持は分かる。そこには著作権などが出て来る幕は無いだろうと思う。
「檀家などから」との言い方の「など」に、檀家ではない、単に観光的な気分、街の名物的な目で見ている人を含むのだとしたら、宗教に部外者の意見は不要だから、何も考慮する必要は無い。必要なのは檀徒の考えである。国語辞典でも「仏像」は「礼拝の対象としての仏(仏陀以外も含む)の彫刻像や画像」との説明がある。
心の拠り所としての仏像のお顔を檀徒が重用視するのは当然である。宗教心の非常に薄い我々日本人は、ともすれば仏像を美術作品のように見ているが、本来はとんでもない事なのだと思う。たとえ檀徒が居なくなり、寺も無くなってしまった仏像だって、仏様であるのは間違いない。
仏師が寺院とどのような契約を交わして仏頭を作ったのかは知らないが、仏師は観音様を作ったのである。観世音菩薩は大慈大悲の御心で、苦悩を除く力を持っている。その観音様のお顔が睨みつけるような怖いお顔のはずが無い。仏師も大慈大悲の気持に沿えるようにと心を込めて作ったはずである。その気持が檀徒に届かないと言うのだから、著作権などが出て来る幕は無いのである。
それが著作権の侵害であり、仏頭を元に戻すよう、元の仏像の仏師が裁判に訴えた。そしてその要求が東京地裁で通った。判決の主旨は次の通り。
「仏頭が作者の思想や感情を表現する上で重要なのは明らか。すげ替えは重要部分の改変に当たる。仏頭は寺で保管されており、元に戻すことは可能だ」
仏頭が作者の思想や感情を表現しているのは指摘の通り。だが、仏像は本来は芸術作品ではなく、信仰の対象である。奈良・東大寺のあの巨大な毘盧遮那仏にしても、観光の名所みたいになっているが、宗徒にとってはまさに「仏様」なのである。東大寺は華厳宗の大本山で、現在、その宗徒がどれほど居るのか知らないが、見せ物みたいに扱われるのには苦々しい思いがあると思う。
心から信じている仏様のお顔が睨みつけるようで怖い、と言うのは由々しき事である。元々が怖かったお顔なら仕方が無いが、「駒込大観音」として親しまれて来た以上、観音様にふさわしく、優しいお顔だったのではないだろうか。だから檀家がこれでは困る、と言うその気持は分かる。そこには著作権などが出て来る幕は無いだろうと思う。
「檀家などから」との言い方の「など」に、檀家ではない、単に観光的な気分、街の名物的な目で見ている人を含むのだとしたら、宗教に部外者の意見は不要だから、何も考慮する必要は無い。必要なのは檀徒の考えである。国語辞典でも「仏像」は「礼拝の対象としての仏(仏陀以外も含む)の彫刻像や画像」との説明がある。
心の拠り所としての仏像のお顔を檀徒が重用視するのは当然である。宗教心の非常に薄い我々日本人は、ともすれば仏像を美術作品のように見ているが、本来はとんでもない事なのだと思う。たとえ檀徒が居なくなり、寺も無くなってしまった仏像だって、仏様であるのは間違いない。
仏師が寺院とどのような契約を交わして仏頭を作ったのかは知らないが、仏師は観音様を作ったのである。観世音菩薩は大慈大悲の御心で、苦悩を除く力を持っている。その観音様のお顔が睨みつけるような怖いお顔のはずが無い。仏師も大慈大悲の気持に沿えるようにと心を込めて作ったはずである。その気持が檀徒に届かないと言うのだから、著作権などが出て来る幕は無いのである。