夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「企業批判は正当か」の記事タイトルは「不当だ」と言っている

2009年01月15日 | Weblog
企業批判は正当か
 これは12日の東京新聞の「記者の目」と称する紙面の「メディア観望」と題する欄のタイトルである。
 これだけを見ると、企業批判に対する疑問を呈している。つまり、言いたいのは「企業批判は正当ではない」になる、と誰もが思う。正当だと言うのなら「企業批判は正当だ」になるはずなのだ。ただ、「企業批判は不当だ」とまでは言っていない。
 しかしながら、次の二つを比べて見れば一目瞭然。
1 企業批判は正当か
2 企業批判は不当か
 そしてこの記事は次の文章から始まる。

 「民間企業が世論やメディアにたたかれるいわれはない」。まもなく五十歳の企業幹部は激しい口調になった。怒りの矛先は「大企業がクビにした人を中小・零細企業と税金で助けている。大企業は何もしていない」「大企業は巨額な内部留保を取り崩してでも雇用を守れ」との世論だ。
 「絵に描いたもち。感情論と言ってもいい」と彼。
 「人員削減せずに赤字になれば、株主から批判される。株価が暴落し、銀行もカネを貸してくれなくなる。それで企業がつぶれたら、逆に雇用が減るじゃないか。メディアも、少しは勉強しろよ」

 こうした意見をこの特別報道部の記者は「弱気を助け、強気をくじくのが記者」と言う環境に囲まれて来たので、「企業批判することの正当性」を理論づけて考えたことなどなかった、と言うのである。正面から問われると、うなってしまう、とも言う。
 正直言って驚いた。そんな正義感だけでやっているのかと。
 そして彼の結論は35年前の最高裁の判決に行き着く。
 試用期間終了間際にクビを言い渡された男性が、憲法14条の「法の下の平等」などに反するとして雇用契約確認を求めた訴訟である。判決は「大企業のような“社会的権力”は、公権力に並ぶ力を持っているのだから、あまりにひどい人権侵害の場合は、憲法は個人(私人)が権力者からいじめられないよう守ってくれるツールとして良い」との学説が最高裁に受け入れられたのだ、と説明している。
 だから、この「企業だって個人と同じ弱い立場なんだ」と、企業側が不満を抱くとの問題は、既に35年前に、ある意味で決着が付いているのだ、と言うのがこの記者の考えなのである。

 最高裁のお墨付きとは心強い。しかし問題はそんな事ではないはずだ。最高裁が何と言おうと、企業側は不満なのである。最高裁の考え方は先に引用しように、とても抽象的である。だから、冒頭の企業幹部の言うような、「株主から批判されて株価が暴落して、企業が潰れたらどうしてくれるんだ」との反問に答えられない。そんな事、最高裁は念頭になど置いていないからだ。
 この問題は、企業幹部が指摘した通り、株主から批判を受ける事が最大の問題なのではないか。その事については先日書いた。株主はカネだけが目的である。社員がクビになろうがどうしようが、と言っては差し障りがあるかも知れないが、株主の目は株価にしか向いていない。言い換えれば、企業の業績だけが問題なのだ。目的が違う。
 更には銀行がカネを貸さないとの現実がある。銀行はエリートだと自負しているらしいが、とんでもない。単に金貸しに過ぎないじゃないか。私は中小企業の、いやいや、零細企業の経営者だった人々から話を聞く機会があるが、銀行は相手にしてくれない。相手になってくれるのは地元の信用金庫や信用組合だけである。銀行が我々庶民、1千万円以下の預金者はゴミとしか思っていないと言われているのはどうも確実な事実らしい。
 
 こうした経済体制が大きな問題を抱えている事は明らかである。現在のような不況になると、なおさらそれが目立って来る。だから、この不幸を良い機会としてそうした経済の仕組みに目を向ける、徹底的に考え直す事を考えたら良いではないか。それを具体的に出来るのが、この企業幹部の不満に取り組む事なのだ。
 それを35年前に決着していると言って済ましてしまう事に私は大きな疑問がある。だからこそ、記事のタイトルが「企業批判は正当か」になってしまうのである。そしてこの企業幹部の疑問も我々が抱く疑問も解決されないままに終わってしまうのである。