夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「僕」は大人が使えば相手を見下げている事になる/テレビ人の言葉遣い

2009年01月30日 | Weblog
 前にも書いたが、「僕」について。テレビでは自分の事を指して「ぼく」と言う人が圧倒的に多い。「わたし」などはあまり聞かない。ニュースショーの司会者はもちろんの事、出演者もすべて「ぼく」で通している。たまに「わたし」と言う人が居ても、じきに「ぼく」になってしまう。以下「僕」「私」と表記する。

 私はこの事にとても興味があって、国語辞典で色々と調べた。たいていが「同等または同等以下の相手に対して」とは言うが、「私」よりも砕けた言い方などとあほな事を言っている。「砕けた言い方」と「同等または同等以下に対する言い方」とは同じではない。そうだろう。「わたくし」の砕けた言い方が「わたし」にはなるが、それは決して同等または同等以下に対しての言い方ではない。
 いや、そうではなく、「同等または同等以下に対する言い方」あるいは「砕けた言い方」だ、と言うのかも知れない。つまり、もう面倒だから「同等」と省略するが、「同等」のつもりで「僕」と言う人間と、「私」の「砕けた言い方」のつもりで「僕」と言う人間が居るのだ、と言うのかも知れない。
 しかし、こうした使い方は危険である。自分は「砕けた」つもりでも、相手は「同等」と見るかも知れない。まあ、大体が、「同等」でないのに「砕ける」のがおかしいのだが。

 こうした事から分かるのは、「僕」が「同等」とは思っていない人間が多数居るのだろう、である。ただし、我々の周囲には居ない。居るのは、テレビ界とか特殊な世界だけである。
 はっきり言えば、「僕」は子供言葉であり、「私」は社会人としての言葉なのである。子供言葉だから仲間同士では使えるのだ。だが、会社などで上司に向かって「僕」などとは絶対に言えない。言っている会社もあるのかも知れないが、それは特殊な会社だろう。
 「僕」が子供言葉である明確な証拠は、幼児に対して「ぼく、お名前は?」などと聞く事が出来る事である。「幼児=ぼく」だからそれが成立している。違うと言うのなら、成人に対して「ぼく、お名前は?」と聞いてみたらいい。下手したら殴られる。私は責任は取らないけどね。

 「僕」の発祥は維新の思いに燃えた青年達の自称だった。お国訛り丸出しの青年達が明治維新を目指して集まった。その共通語として新しい「僕」と言う言葉が採用されたのである。
 その「僕」が次第に子供が使う自称になった。そしてその代わりに「私」が使われるようになった。この間の経緯は私の生まれる遙か以前の事なので知らない。しかし周囲をきちんと見渡してみれば、「僕」と「私」は明確に使い分けられている事が判明する。分からないのは馬鹿だからである。
 そうでしょう。会社勤めのあなた。上司に向かって「僕は」などと言った事がありますか。

 「僕=同等」なのだから、社会で周囲から尊敬されるような立場になった人が使うのは、認められるのだろう。私は「何様だと思ってるんだ」と反感を覚えるだけだが。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」である。でもそうした人って、ホント、少ないよねえ。
 故河内広範氏がテレビで見る限りは、「俺は」としか言わなかったのは、それはそれで彼の生き方なのである。「僕」のもっと砕けた乱暴な言い方が「俺」なのである。彼はその事で自分の立場を明確に示していたのだと思う。

 「私」は「禾」と「ム」の組み合わせから成る。「禾」は稲などの穀物で、「ム」は耕作の「耜=すき」である。耜を使って耕作する人を「私」と言い、一家に従属する「隷農」を言う、と『常用字解』は説明している。「公」に対する「私」で、支配・被支配の関係で「公私」と言う。
 だからこそ、辞書は言わないが、「私」にはへりくだった意識があるのだ。従って、「私は」と言うのは相手を敬っている言い方になる。きちんと社会の仕組みを意識して使っている言い方になる。その点で、仲間同士の言葉である「僕」とはまるで違うのだ。友達同士で「私」などと言わないのは当然なのだ。

 「僕」は「私」の砕けた言い方などではない。「僕」と「私」の間には断絶があるのだ。社会と仲間内と言う明確な区別がある。
 テレビを始めとして、多くの大人達が、それもいかにも学識・経験豊かそうな人々が喜々として「僕は」などとのたまっているのは、仲間意識があるからだろう。もちろん、中には自分が最高だと思い上がっている人も居るが。
 だが、テレビでの出演者は仲間意識で居ては困るのである。最終的には視聴者を相手にしているのである。先日も書いたが、CMの料金を最終的に負担している視聴者が相手なのである。言うならば、視聴者は「神様」なのである。神様に向かって「僕は」は無いでしょう。別に「わたしめは」とか「わたくしめは」などと言えと言うのではない。でも少なくとも「わたしは」と言うべきだと思う。はっきり言う。テレビ人は思い上がっている。
 そして困るのは、テレビに影響される人間が絶対的に多いから、次第に「僕」が「私」と同等の地位に上がって来てしまうのではないか、と言う事である。まあね、大人の幼児化現象だと思えば、気の毒に、としか思わないけどね。

4 コメント

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Unknown (流蛍)
2009-02-01 20:15:57
そのとおり。
大江健三郎はその小説のなかでは必ず「僕」という一人称をつかってきました。学生のころからずっと。
バカですよね。子ども言葉だってことを知らないのか? それを指摘してたしなめた評論家も編集者もいないようです。

で、私は大江の小説をバカにしているのです。
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流星さんへ、気が付いた事があります (夏木広介)
2009-02-02 11:27:33
 指揮者の小沢征爾氏の話を聞いていて、彼がすべて「僕」と言っていて、ふと思った。彼の場合は何となくふさわしいような気がする。それは芸術家と言う特殊な環境だからではないのか。つまり、彼は社会人としての境遇を体験していない。つまり子供のまま育ってしまったのではないのか。
 これは別に馬鹿にしているのではありません。芸術家にはそうした天真爛漫さが必要だろうと考えています。そうして考えてみると、「僕」と言うのがふさわしい人々が居る。共通しているのは、みな、社会人と言うよりも一芸に秀でた人である事。年輪を重ねた人である事。
 私は大江健三郎と言う人はまるで興味が無いので、よく知りませんが。
 だから、そうではなく社会人の端くれだったりする人間やそれほどの年輪を重ねてはいない人間が「僕」と言うのは、やはり片腹痛いのです。社会人が子供のまま育ってはやって行けないはずです。
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Unknown (流蛍)
2009-02-02 13:40:54
夏木さま。
つまらないことですが「流星」つまり「星」ではなく、「蛍」です。「流蛍」とハンドルネームをつけてます。
すみません、あなりない文字をつかって…。

指揮者の小沢征爾氏は、だから私はバカにしています。あれは二流です。子どものままの小沢をみんながモテはやすから悪いのです。俺は特別だと思い込んでいるのですよ、「世界の小沢」と言われて。

「(大人の)人間が「僕」と言うのは、やはり片腹痛い」
       ↓
そのとおりです。社会関係でつくるべき認識をつくり損なっているアホです。
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流蛍さん、失礼致しました (夏木広介)
2009-02-03 12:25:38
 ごめんなさい、大事なお名前を間違ってしまって。言い訳ですが、一度には変換出来ないので、「流行」で入力、「行」を消して「蛍」と入れるつもりを、「流星」の方が一般的なので、つい。
 うーん、小沢はバカか。それで私はいつも悩んでいる事があるのですよ。好きなジャーナリストで、テレビで常に「僕は」と言っている人が居るのです。発言に全面的に賛成している訳ではないけれども、好きなのですね。だから「私は」と言ってくれれば文句無しなんです。
 でもホント、「僕」って変な言葉ですよねえ。父親である私は家では絶対に「僕」なんて言わない。東京人なら「俺」だと思っています。「僕」の出番なんて、本当に小学校の時くらいだった。そうか、「僕」と言う人は、よその地域の出身なのか。子供でなければ、そうなりますよね。
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