夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

NHKの原爆平和祈念典の中継は思い上がっている

2012年08月11日 | 社会問題
 広島の祈念式典は途中で気が付いて見たので分からないが、長崎の祈念式典は開始時刻を確認して最初から見た。
 ところが、式典が始まって間もなく、中継は中断され、被爆者の遺族の思いの話になってしまった。私は式典の中継が見たくてテレビをつけている。それを中断してどうしようと言うのか。中断は2回もあった。
 多分、あまり重要ではないからと、中継を中断しているのだろう。しかし、そうした最中でも、会場には列席者が居て、暑い中で、その式進行を見守っている。彼等には式典を中断して、他の事をする事は出来ない。視聴者には重要ではなく、式の参列者には重要な式進行があるとは考えられない。あるのだとすれば、式進行を考え直す必要が出て来る。

 NHKは式の進行情況を予め知って、何が何分くらいだから、とそれに合わせて取材した録画を作っているはずだ。現実に進行している式は、その時でなければ見られない。会場に行けないからこそ、テレビで見ているのである。しかし録画ならいつだって見られる。何も式の進行途中で見せる必要は無い。別の時間を使えば良いだけの話である。
 実況中継の途中でないと見てもらえない、と考えているなら、そんな価値の無い番組を作る必要は毛頭無い。

 何が重要で、何が重要でないかを、NHKの一方的な判断で決められては迷惑する。国会中継を私はあまり見た事が無いが、もしもその途中で、重要ではない発言だろうから、と、中継を中断して、別の録画を見せたら、どんな事になるか。恐らくは、NHKは存在出来なくなるだろう。

 ブログをしばらく休みます。
 出来るだけブログを休みたくない。発信したい事があるし、待っていてくれる人も居る。しかし、今、私は切羽詰まった情況に置かれている。毎日せっせと働かないと食べて行けない。1時間いくらと言う仕事だから、たいして稼げない。
 その間には家事もあるし、私は特に原稿を書く作業がある。これは仕事とは言えない。なぜなら、お金にならない。けれども、書いて、実際に本にならなければ、私は一生1時間幾らの肉体労働をし続けなければならない。

 原稿募集をしている出版社の多くは、私の原稿の出来が悪いからではあるが、自費出版かそれに近い形なら出しましょう、と言う。そんな余力のある訳が無い。原稿の出来が悪いとは言い切れない。ある社は、広く人材と内容を募集している、と言いながら、このジャンルは出した事がないので、予測が付かないので、自費で、と言う。そしてほとんど読んでくれてはいないのである。

 今、ある出版社の懸賞募集に応募しようと原稿を書いている。入賞する自信はほとんど無いが、審査員に読んでもらえる。最初から除外されるような作品ではないつもりで、全力を傾けている。だから、時間が足りない。
 それに、ほかの幾つもの書き上げてある原稿も、推敲して、様々な出版社に売り込む事を考えたい。だから、時間が足りない。
 8月のほんの2週間ほどは学校が休みなので、夜の仕事しか無い。それでも往復の時間を含めて5時間も取られてしまう。

 と、愚痴をこぼしているが、そんな訳で、しばらくブログを休みます。いつまで休むかははっきり言えず、もう、見ないよ、と言われてしまっても、それは覚悟の上です。背に腹は代えられないので仕方ありません。

平和祈念式典に、野田総理は「ノーだ」ノダ

2012年08月07日 | 社会問題
 あんなに白々しいと言うか、ぬすっとたけだけしい、と言うか、胸糞の悪くなる挨拶を聞いた事が無かった。本当は今までだって同じだったのだ。ただ、実際に日本で原発の被害に遭っていなかったから、分からなかっただけなのだ。
 原発を稼働して、更には国外にも輸出しようとしている国の総理が、核兵器廃絶を訴える事が出来るのか。核兵器と原子力の利用とが表裏一体だと言う事を我々は知らなかった。知らされなかった。
 ガスより色々な面で安全だから、オール電化にしましょう、なんて言う程度のような事で、原子力発電を利用して来たと言える。

 日本国民の大多数が原発反対、と言っているのに、その声を聞こうとはしない総理が、核兵器廃絶を訴える事は出来ないし、何の説得力も持たない。
 主催者は広島市だろうが、日本の最も大事な記念式典の一つだから、総理が出席するのは当たり前なのだろうが、こんな違和感のある出席者を私は見た事がなかった。

 いつもの事だが、平和を訴える小学生の、原稿を読むのではなく、自分達の言葉としての挨拶に比べて、市長の挨拶は見劣りするし、総理の挨拶に至っては、言う言葉も無い。
 これはもう、ブラックユーモアだと思う。

交通ルール違反の車が多過ぎる

2012年08月01日 | 社会問題
 子供の安全誘導のために私達が立っている交差点に、自転車の若い巡査が通り掛った。交差点内に2台の車が駐停車しているのを見て、制服姿の私に「がらが悪いなあ」と言葉を掛けて来た。
 その交差点は変則五叉路で、特に角にコンビニのある部分が広いから、普通車なら3台は停まれる。普段はそこに3本の警視庁名入りのポールを立てて、車が入れないようにしているが、夏休みで登下校の子供達が少ないので、ボールは出していない。
 普段、出している時でも、時間はわずか20分程度で、そこに停まるのは主に客待ちのタクシーで、それもほとんど常連だから事情は飲み込んでいる。だからトラブルにはならない。もちろん、駐停車禁止の交差点内だから、文句は言わないし、言わせない。

 その巡査は、別に駐禁をとる訳でもなく、何か本部と話していて、「絶対にとる」と言っていた。そして10分程周囲を観察して、「本部会に掛ける」と言うような発言をして移動して行った。
 私は半分期待した。きちんと駐停車禁止にして欲しいのは言うまでもない。だが、そうはならないだろう、とも思っている。
 大体が、今までずっと警察は無視し続けていたのである。我々は困ったなあ、とは思いながらも、どうせ言っても駄目だろうし、と諦めていた。
 それをその交差点内にある工務店の社長と我々の仲間がお祭りで意気投合して、その工務店のポールを5本借りて、必要な時間帯に出す事に決めたのである。工務店も自分の所の荷物の積み降ろしがその時間帯は出来なくなるのを承知の上で協力してくれている。当然と言えば当然ではあるのだが。

 そして私がその事で警察署に文句を付けに行ったのである。我々のしている事を説明して、本来、それは我々のやる仕事ではないと、強調して来た。検討すると約束した警察署は1週間くらい経って、警視庁名のはいった3本のポールを置いて行ってくれた。看板も出してくれた。ただ、その看板は、「ここは子供達の通学路です。駐停車は禁止」なので、私は大きな不満がある。通学路だから駄目なのではなく、交通法規違反だから駄目なのである。
 そんな程度だから、私はその若い巡査に期待はしたいが、諦めてもいる。

 もっと交通の取り締まりをやるべきである。その交差点では、歩行者用の信号が青になって2秒も経っていると言うのに、平気な顔をして全速力で走り抜ける車が後を絶たない。私は車の信号がオレンジになって旗を上げ、赤になって、車を遮断するような形で前方に突き出す。それは警察署の指導でもある。
 赤で突っ切る車はオレンジになっても止まらず、挙げ句には赤になってから堂々と突っ込んで来るのである。
 だが、片側3車線もあるから、旗の先をすり抜ける事など簡単に出来る。
 そうした車が通り抜けるのを見てから子供達を渡らせるが、時には青になったと同時に鋭く笛を吹き、車に注意を与えるが、どこ吹く風である。冷暖房完備で窓も閉めたままだから、多分、聞こえもしないのだろうが。
 警察は、そんなに危険だとは思っていないのだろうが、普段からの事が肝腎なのである。運転者に交通ルールを守る事を徹底させても、それでも事故は無くならないのだから、ルール厳守を徹底的にやり抜くべきである。

近視眼的思考が日本を駄目にしている

2012年07月02日 | 社会問題
 消費税増税と原発再稼働の話ばかりで、とんと嫌になる。そこで、話は変わるが、その原点は実は同じなのである。
 東京の東部を東西に繋ぐ運河がある。徳川家康が開かせた小名木川である。私の住んでいる所での話だが、小名木川の両側には一車線の一方通行の道が川に沿ってある。この小名木川を横切る片側三車線の幹線道路が造られる事になった。東京オリンピックの後の話だから、そんな昔ではない。持っている昭和39年の区分地図帳にはまだその道路は無い。そして小名木川の両側にある道路は、その地図には南側にしか無いし、もう少し新しい地図では北側にしか無いから、どうも良くは分からないのだが、現在は両側にある。

 さて、新しい幹線道路は何よりも優先されるはずだと思う。これからを担うのである。だから、川沿いの道を一時通行停止にして、新しい道路を造ると思う。ところが、この幹線道路はその両側の一車線の道に遠慮するように、その上をまたいで建設されたのである。従って、川の北詰と南詰で道路は坂道になる。現在、自転車ではとても上り切れないほどである。
 しかも、川の両側の道との出入りを妨げないようにと、連絡用の道を造っているから、三車線道路が、橋の上だけ二車線になってしまった。だから、常に渋滞が起きている。
 この幹線道路の東西にある二つの幹線道路はそんな馬鹿な事をしていないから、川の両側の道との連絡も出来て、しかも急勾配の橋などではない。

 何でこんな事をしたのだろうか。改修するとの話を聞くが、一向に現実にはならない。一旦造ってしまった道路を大幅に改修するのはとても大変だ。その間、現在の交通はどう処理するのか。だから最初が肝腎なのだ。
 そしてよくよく考えてみた。小名木川の水運を利用して、川沿いに大規模工場がたくさんあった。水運が道路での輸送に変わり、だから、川の両側の道路は生命線だったのかも知れない。そこで、一時的にも通行止めにする事は出来なかった。
 現在は、それらの工場はすべて移転して、その跡が大規模団地などになっている。

 結局、一時的な事だけを考えて、将来を見ないから、後で困る事になる。日本橋の上に架かる高速道路にしても同じだ。今頃になって、高速道路を地下にして、日本橋の景観を取り戻そうとの計画があるが、これも最初が肝腎だったのだ。

 今、原発の再開や消費税増税が現実となろうとしている。これらが、緊急の事態だと政府は言うが、それは単なる自分勝手な言い分に過ぎない。特に原発再開は、電力不足の嘘を流し、国民を騙している。
 私は家の窓から、不便なこの幹線道路を毎日見ているし、どこかに行くのに必ず川を渡らなければならない環境だから、どうしてもこの馬鹿げた道路橋が気になってしまう。つまり、政府が今やろうとしている事の結果も、このように現実に見る事が出来るなら、話は簡単だ。でも、その結果が見えては本当は困るのである。
 だから、結果が見えてしまう、その前に何とか食い止める必要があるのだ。

責任という原理

2012年06月07日 | 社会問題
 これは今朝の東京新聞の「本音のコラム」に竹田茂夫さんと言う法政大学教授が書いているコラムのタイトルである。
 民主党政権が大飯原発再稼働に踏み出したその決断の根拠は、「関西の今夏の電力不足15%という数字」と「政治責任」の二つに集約される、と言っている。
 15%の電力不足があやふやな前提の上で推定されたものであるのは言うまでも無い。つまり決断の一つは完全に否定されてしまう。

 そして「政治責任」も完全に否定されてしまうのである。その論理はとても分かり易い。
 政権首脳が考えている「責任」は、「生活や産業の混乱予防」だろうと言う。誰が考えてもそうなる。そして竹田教授は、それには前提があると言う。「大飯原発には福島レベルの過酷事故は起きない」との前提である。大飯原発が大地震と大津波に耐えられるとの想定があってこそ、「今夏の電力不足を解消する」事が「政治責任」となる。
 この「前提」がいかにいい加減であやふやな物であるかを、我々は十分過ぎるほどに知っている。「前提」が成立しないのだから、「政治責任」が出て来る訳が無い。

 このコラムは次のように締めくくられている。

 責任を果たすべき相手は、今夏の電力不足をかこつ関西産業界ではなく、この世代の誤りを身を以て引き受けざるを得ない子供達や将来の世代ではないか。

 まさに正論である。「子供達や将来の世代ではないか」などとおっしゃいますな、と私は言いたい。「子供達や将来の世代なのである」と断言して頂きたいとさえ思う。
 政治家も産業界も、すべて自分達の事だけしか考えていない。今の自分達に対する責任しか考えていない。あんた達は、せいぜい生きてもあと二、三十年くらいだろう。そんなわずかな期間の責任だけを考えるのは簡単な事だ。自分達が死んだその後の事も考えるのが、「責任」なのである。

 「政治責任」は日本では特に軽い言葉になってしまう。なぜなら、政権は世界にもまれに見るほどの短命政権である。総理の言う「政治責任」はせいぜいのところ、一年ももてば良いのである。男が一旦口にした「責任」は一生付いて回るものだと知るべきである。
 そうか、彼等は「男」でもないのか。それ以前に、多分「人間」でもないのだろう。普通の人間なら、自分のツケを他人に回すような事は絶対にしない。

ゴミを平気で捨てる人達

2012年06月05日 | 社会問題
 自転車で走っていたら、すぐ前を歩いている男性が飲み終わった空き缶を道端に捨てた。捨てる、と言うよりも、そっと置いた、と言う方が合っている。それでもゴミを放棄した事には違いは無い。多分、目立たないように、との思いだろう。私の自転車は都合の良い事には、後ろのブレーキが、強めに掛けると音がする。そこでわざとブレーキ音を立てた。男性は思わず振り返って、あっ、見ていたか、と言う表情をした。
 私は、よほど、いい大人がそんな事をして、と言ってやろうかと思ったが、よく見掛ける顔なので、思わず出掛かった言葉を飲み込んでしまった。本当によく見掛けるのだ。似顔絵を描く才能があれば、すぐにでも描けるくらい、特徴のある顔なのだ。
 さて、どこで見ている顔なのか。色々と、病院とか、近くの商店とか、地下鉄のホームとかを考えてみたのだが、一向に思い出せない。詰まらない男の顔の事で時間を費やしてももったいないので、やめた。

 先日は、五年生の子供達の、どこにどのようなゴミが落ちているのかの学習に付き添った。そのすぐ後で、一年生から六年生までの全校での学校周辺のゴミ広い活動にも付き添った。だから立派な大人のゴミのポイ捨てが余計に許せない。その男は多分これから地下鉄に乗るのだろう。途中には自動販売機があるから、そこの空き缶入れに入れればいいではないか。
 先日、自動販売機に商品の補充をしに来た男性は、よその空き缶が半分くらいだ、と言っていた。そして彼はそれで文句は無さそうだった。それで良いのである。ゴミが捨てられるべき場所に捨てられていればそれで良いのである。

 木の葉は自然にゴミになる。だから人間が始末をする。しかし飲み物を入れた缶は、人間がゴミにする。ゴミにした人間がゴミの始末をするのは当然である。そんな事も分からないような人間は、人間とは呼べない。
 さて、あの人間とは呼べない男は、本当にどこで見掛けていたのだろう。

原発破壊の映像は毎日流し続けるべきだ

2012年05月30日 | 社会問題
 当ブログを訪れて、ああ、また更新されていない、と思って下さる方がいらっしゃる事は承知しているが、なかなかブログが書けない。書きたいと思う事があっても手が一杯で、逆に手が空いているのに書きたい事が無い、などと言う事が続いている。そう考えると毎日コラムを書き続ける人の苦労が分かると言うものだが、あちらは仕事である。私のは仕事の合間の作業である。

 日曜日に福島の原発の破壊された建屋の映像が公開された。一部に補強はされているらしいが、あの無惨な姿のままで、言葉も無い。こうした映像は常に長し続ける必要がある。
 原発の破壊は地震や津波のせいではない。あくまでも爆発で起きている。それは地震や津波とは段違いに確率が高いはずである。
 この映像を見ながら、原発の運転再開を主張する事は、正常な感覚の人間なら出来ないはずである。原発の運転再開を主張する人々は、電力会社の関係者か経済界、産業界の重鎮である。電力料金は庶民の家庭の電力料金から利益が生まれているのだと言う。それで産業界は助かっているはずである。
 料金の負担が重い庶民の事を考えずに、自分達企業の事しか考えない。そんな連中のために、我々庶民が犠牲になる必要は無い。テレビもエネルギー不足を心配する側に立つから、原発破壊の映像を流し続ける訳が無いが、そんな事をしているから、テレビは駄目になるのである。テレビに未来は無い、と断言している週刊誌もある。

 先をきちんと見据えて、将来の事を考えるのが賢い人間のやり方である。今の野田政権のやり方や産業界のやり方は、食べられる時に腹一杯食べて置く必要のあるライオンなどの野獣のやり方と同じである。
 そうか、政府も産業界も我が家の犬と同等なのか。いいや、けなげさやかわらしさなどは我が家の犬の足元にも及ばない。愛犬だから言うのではない。政府も産業界も、私にとっては、愛犬同様に大切な存在なのである。

入れ墨の是非を問う

2012年05月19日 | 社会問題
 大阪市長の橋下氏が、職員に入れ墨の有無の調査をした。これについて、テレビは街の人々の意見を聞いている。テレビで見る限り、賛成と反対は半々のように見える。ファッションとして許されると言うが、私はそうは思わない。
 社会に何のしがらみも持たない、それこそ自由人なら、何をしても構わない。しかし、テレビが調査した所では、様々な企業が個人的な事に制限を加えている。例えば指輪は結婚指輪しか許されないとか、ピアスは駄目、ひげも駄目、などである。それは当然だ。企業に勤め、そこから報酬をもらっている以上、労働と賃金は引き換えだ、何をしても自由だ、は通らない。企業の仕事があるからこそ、そこでの労働が出来る。もちろん、企業は労働者あっての企業ではある。でも、だからと言って、両者は対等だ、とは言えない。
 対等であるなら、労働者は自分で起業して、そこで労働をカネに変えれば良い。しかしそれは難しい。

 企業に属する労働者が企業の決まりを守らなければならない、と考えているのは自分の立場が分かっているからだ。だから、入れ墨は個人の自由だ、などと言う人は、多分、厳しい仕事をしていないのではないか。
 民間の企業でさえ、企業の信頼を守るために、労働者に様々な制約を課している。公務員に制約があるのは当たり前である。税金で労働の報酬を支払っているのである。税金を納めている庶民が、入れ墨は構わないと言っていると言う事にはならない。そんな調査をいちいちしている訳が無い。
 だから、公序良俗に従った判断がされて当然である。公序良俗では、入れ墨が自由で、ファッションに過ぎない、などと考えているはずが無い。古代の倭人は顔などに入れ墨をしていたが、それは海中でサメなどに襲われないように、身を守るためだった。江戸時代には入れ墨は犯罪者の烙印だった。

 我々の多くは、入れ墨はやくざのする事だとの認識がある。いくらタトゥーなどと英語にしても、入れ墨その物の本質は変わらない。昔は親からもらった大切な体を傷付ける事として許されなかった。自分達の居る所が日本である以上、個人の勝手な考え方が通用する訳が無い。
 こうした事が勝手気ままに考えられて、それが当然のように言う人々が居る。例えば国歌斉唱と国旗掲揚に対して、無視しても構わないとの考えである。いくら法律で「君が代」を国歌と定める、日の丸を国旗と定める、とあっても、守らなくても罰則は無い。
 しかし公共の機関の仕事に就いている以上は、国の規則には従う義務があるはずだ。嫌なら公共の仕事から身を退くしか無いだろう。公共の仕事と言うのはそうした事のはずである。

無免許で居眠り運転で人を殺傷した少年の罪が軽い

2012年05月18日 | 社会問題
 我々庶民はみんな怒っている。地裁の判決に。専門家がテレビに出て来て、法律上はしょうがないのだ、と説明しているが、馬鹿を言うんじゃない。法律は裁判所や検察のためにあるのではない。庶民の命を守るためにある。
 古代から、法律は政治のために作られて来た。その悪しき伝統が今なお守り続けられている。専門家は法改正をするしか無い、と言うが、では彼等はそうした法改正に積極的に動いているかと言うと、そうとも思えない。口先だけで上手い事を言うんじゃない、と私は思う。

 確かに、法として一つの規則を守らなければ、為政者の都合によってどうにでもなってしまう。その歯止めの法律のはずなのに、犯罪者を守り、罪の無い庶民が無視される結果になっている。
 有識者とか政治家とかは、どうして人間としての根本的な在り方を考えないのだろうか。そんな状態だから、原発の危険性や原発で被害を受けた人々の事が何も分からない。彼等には生活の実感と言う物が存在しないのだろう。雲の上に居て、生活を保障されている以上、紙の上の事、論理的な事しか考えられないのは当然だろう。

 昔、浅沼稲次郎と言う庶民派の政治家が居た。都営の六畳と四畳半の住宅に住んでいた。その彼が右翼の少年によって公衆の面前で殺された。政治にとって、庶民が邪魔者でしか無い、血税を絞り取る対象でしかない、と言う事の象徴とも思える事件である。
 今は2億円ものカネが闇から闇に葬られても罪にはならない。苦しい生活の実感が無い人間が、心ある政治が出来る訳が無い。
 日本の国会議員は世界一の高給取りだと言う。JRは無料で乗れるらしいし、月100万円もの通信・交通費が掛かるはずも無いのに、無条件で支給されている。そうした恩恵には議員は異を唱えない。自分の都合しか考えていない。そんな連中に政治を任せられる訳が無い。
 国会議員ってたくさんお金をもらえるんですねー、と正直に感嘆した杉村太蔵議員は自民党幹部から厳重注意を受けた。ぬるま湯に漬かっている人間に庶民の暮らしが分かる訳が無い。

運転手がいつ加害者になるか分からない、とフジテレビは言うが

2012年05月15日 | 社会問題
 パソコンを移動したら、複雑な配線を間違えたらしく、インターネットが通じなくなってしまった。それでしばらくブログを休んでしまった。

 今朝のフジテレビでキャスターの小倉氏が、交通事故はいつ被害者になるか、加害者になるか分からない、と当然のような顔をして言っていたが、そうだろうか。
 いつ被害者になるか分からない、は真実だ。だが、いつ加害者になるか分からない、なんてそんな物騒な事が許されていて良いのだろうか。いつ加害者になるか分からない人は確かに存在する。例えば突然に意識不明になる病気などを持っている人だ。しかし多くの事故では、そうした報告はほとんど無い。多くの事故が居眠り運転、脇見運転などで起きている。
 普段から血圧が高くて、いつ脳出血を起こしてもおかしくないなどと言う症状の人は、本当なら、運転を自粛しなければならないのではないだろうか。
 だから、いつ加害者になるか分からないような運転手は居ないと私は考えている。

 同じ番組で、東京電力の幹部に出てもらい、値上げについて質問した。座っている位置から、幹部は左手でパネルを指差して説明する。その度に腕時計が映る。私にはそれが非常に高価なロレックスに見えた。もしかしたら私の勘違いかも知れないが、もしもロレッスクだとしたら、それは個人の趣味の問題だから何も問題は無いとも思えるのだが、消費者に無体な値上げを要求している側としては、趣味の問題です、とは言えないだろう。東電は巨額の赤字を値上げの理由に挙げているが、それでは今までに挙げた巨額の利益の事はどう考えているのか。そうした巨額の利益から、ロレックスも生まれているはずである。もちろん、非常に貧しい私でも、それこそ死ぬような思いをすれば、ロレックスを持つ事は出来る。しかしそれでは正常な生活感覚とは言えまい。