大自然の力には我々は対抗力をを持たない。津波に対しては高台に住むのがせいぜいだが、それだって山崩れで埋まってしまう危険性はある。地割れで陥没する恐れだってあるだろう。
だが、今回は大きな人災を伴ったから、我々は暮らし方を転換する契機を与えられた。人災だから防ぐ事が出来る。そこから、原発によるエネルギーに頼る事の是非が問われている。電力の3分の1が原発で賄われているからには、原発を廃止したらそれに変わるエネルギーを開発するか、消費するエネルギーを節約するしか無い。
そして我々は消費するエネルギーの節約がいかに大切かに目覚めたと言える。今までエネルギーの消費ではなく、エネルギーの浪費をしていた事にやっと気が付いた。電力だけではない。物に対するエネルギーの浪費がいかに莫大だったか。大量生産、大量消費が国力を富ませると信じられて来た。でもそれは考えてみれば、「花見酒の経済学」に過ぎない。
「花見酒」は落語である。長屋の二人が大きなカメに酒をたっぷりと入れ、花見客に売りに出掛ける。で、その途中、カネを払ってその酒を飲む事を思い付いた。一人が酒を買い、相手にカネを支払う。その相手はそのカネで酒を買う。そうやって、やりとりをして、カメの酒は空っぽになった。だからさぞかしカネが溜まっただろうと思う。だが、当然ながら、同じカネが行ったり来たりしていただけなのだ。
日本の経済はこれとよく似ている。だからいくら国内で物の売り買いを盛んにしても、一定のカネが日本の中を行ったり来たりしているだけに終わる。まあ、外国を相手にしている場合にはそうはならないが。
それなのに、次から次へと新製品を作り出して、やれ買え、それ買え、と煽り立てる。テレビのCMですっかりその気にさせられた消費者は既に抵抗力を失ってしまっている。
私が一番下らないと思っている一つに、まだ十分に使える建物の建て替えがある。取り壊すのに大きな労力と費用が掛かるのに、更には新築に労力と費用を掛ける。それでも採算が合う。だからどこかに大きな損失を抱えている人々が居るはずである。それは一体誰なのか。それがはっきりしていないから、こうした馬鹿げた行為が繰り返される。
目先の欲に前後不覚になった連中が街をどんどん破壊している。そうした馬鹿が居ない国では、街の美観はきちんと守られ、多少の不便は承知の上で、古い建物の中で暮らしている。人間なんて太古の昔からそんなに進歩などしていない。していると錯覚しているだけである。やっている事の基本は何ら変わりはしていない。寝て起きて、食べて排泄して、働いて、その繰り返しをずっと続けている。寝具が多少変わり、食べ物が変わり、仕事が変わっているだけに過ぎない。
生活が進歩していると錯覚しているだけなのである。東京なんて、狭い土地に大勢の人が暮らしているから、ろくに日も当たらない暮らしの人々が少なくない。縄文時代だったら、存分に日に当たる生活が出来ただろうに。地震でエレベーターが止まってしまうと、高層の上の方に住んでいる場合には身動きが取れなくなる。
こうした事が果たして幸せで楽しい暮らしと言えようか。
東京新聞には「日本の新しい暮らし方のモデルを作ろう」との提案が紙面のトップを飾っている。しかし電力の節約を強いられているからこそ、こうした発想が出来るが、電力に何の不足も無い中部圏とか西日本ではどうだろうか。まあ、物が不足しているのは全国的らしいから、考えてはいるのだろうが、果たして切実な問題となり得るのか。
だからこれを良い機会として、全国的に原発の存在を大きな問題にしたら良い。3割の電力が無くなって(電力会社によってその割合は違うだろうが、全国平均すれば3割になる)、どう対処すべきかを考えるべきである。それが今後の日本の運命を決定するはずだ。
だが、今回は大きな人災を伴ったから、我々は暮らし方を転換する契機を与えられた。人災だから防ぐ事が出来る。そこから、原発によるエネルギーに頼る事の是非が問われている。電力の3分の1が原発で賄われているからには、原発を廃止したらそれに変わるエネルギーを開発するか、消費するエネルギーを節約するしか無い。
そして我々は消費するエネルギーの節約がいかに大切かに目覚めたと言える。今までエネルギーの消費ではなく、エネルギーの浪費をしていた事にやっと気が付いた。電力だけではない。物に対するエネルギーの浪費がいかに莫大だったか。大量生産、大量消費が国力を富ませると信じられて来た。でもそれは考えてみれば、「花見酒の経済学」に過ぎない。
「花見酒」は落語である。長屋の二人が大きなカメに酒をたっぷりと入れ、花見客に売りに出掛ける。で、その途中、カネを払ってその酒を飲む事を思い付いた。一人が酒を買い、相手にカネを支払う。その相手はそのカネで酒を買う。そうやって、やりとりをして、カメの酒は空っぽになった。だからさぞかしカネが溜まっただろうと思う。だが、当然ながら、同じカネが行ったり来たりしていただけなのだ。
日本の経済はこれとよく似ている。だからいくら国内で物の売り買いを盛んにしても、一定のカネが日本の中を行ったり来たりしているだけに終わる。まあ、外国を相手にしている場合にはそうはならないが。
それなのに、次から次へと新製品を作り出して、やれ買え、それ買え、と煽り立てる。テレビのCMですっかりその気にさせられた消費者は既に抵抗力を失ってしまっている。
私が一番下らないと思っている一つに、まだ十分に使える建物の建て替えがある。取り壊すのに大きな労力と費用が掛かるのに、更には新築に労力と費用を掛ける。それでも採算が合う。だからどこかに大きな損失を抱えている人々が居るはずである。それは一体誰なのか。それがはっきりしていないから、こうした馬鹿げた行為が繰り返される。
目先の欲に前後不覚になった連中が街をどんどん破壊している。そうした馬鹿が居ない国では、街の美観はきちんと守られ、多少の不便は承知の上で、古い建物の中で暮らしている。人間なんて太古の昔からそんなに進歩などしていない。していると錯覚しているだけである。やっている事の基本は何ら変わりはしていない。寝て起きて、食べて排泄して、働いて、その繰り返しをずっと続けている。寝具が多少変わり、食べ物が変わり、仕事が変わっているだけに過ぎない。
生活が進歩していると錯覚しているだけなのである。東京なんて、狭い土地に大勢の人が暮らしているから、ろくに日も当たらない暮らしの人々が少なくない。縄文時代だったら、存分に日に当たる生活が出来ただろうに。地震でエレベーターが止まってしまうと、高層の上の方に住んでいる場合には身動きが取れなくなる。
こうした事が果たして幸せで楽しい暮らしと言えようか。
東京新聞には「日本の新しい暮らし方のモデルを作ろう」との提案が紙面のトップを飾っている。しかし電力の節約を強いられているからこそ、こうした発想が出来るが、電力に何の不足も無い中部圏とか西日本ではどうだろうか。まあ、物が不足しているのは全国的らしいから、考えてはいるのだろうが、果たして切実な問題となり得るのか。
だからこれを良い機会として、全国的に原発の存在を大きな問題にしたら良い。3割の電力が無くなって(電力会社によってその割合は違うだろうが、全国平均すれば3割になる)、どう対処すべきかを考えるべきである。それが今後の日本の運命を決定するはずだ。