夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

東日本大震災が本当に教訓になるのか

2011年04月30日 | 社会問題
 大自然の力には我々は対抗力をを持たない。津波に対しては高台に住むのがせいぜいだが、それだって山崩れで埋まってしまう危険性はある。地割れで陥没する恐れだってあるだろう。
 だが、今回は大きな人災を伴ったから、我々は暮らし方を転換する契機を与えられた。人災だから防ぐ事が出来る。そこから、原発によるエネルギーに頼る事の是非が問われている。電力の3分の1が原発で賄われているからには、原発を廃止したらそれに変わるエネルギーを開発するか、消費するエネルギーを節約するしか無い。
 そして我々は消費するエネルギーの節約がいかに大切かに目覚めたと言える。今までエネルギーの消費ではなく、エネルギーの浪費をしていた事にやっと気が付いた。電力だけではない。物に対するエネルギーの浪費がいかに莫大だったか。大量生産、大量消費が国力を富ませると信じられて来た。でもそれは考えてみれば、「花見酒の経済学」に過ぎない。

 「花見酒」は落語である。長屋の二人が大きなカメに酒をたっぷりと入れ、花見客に売りに出掛ける。で、その途中、カネを払ってその酒を飲む事を思い付いた。一人が酒を買い、相手にカネを支払う。その相手はそのカネで酒を買う。そうやって、やりとりをして、カメの酒は空っぽになった。だからさぞかしカネが溜まっただろうと思う。だが、当然ながら、同じカネが行ったり来たりしていただけなのだ。
 日本の経済はこれとよく似ている。だからいくら国内で物の売り買いを盛んにしても、一定のカネが日本の中を行ったり来たりしているだけに終わる。まあ、外国を相手にしている場合にはそうはならないが。
 それなのに、次から次へと新製品を作り出して、やれ買え、それ買え、と煽り立てる。テレビのCMですっかりその気にさせられた消費者は既に抵抗力を失ってしまっている。

 私が一番下らないと思っている一つに、まだ十分に使える建物の建て替えがある。取り壊すのに大きな労力と費用が掛かるのに、更には新築に労力と費用を掛ける。それでも採算が合う。だからどこかに大きな損失を抱えている人々が居るはずである。それは一体誰なのか。それがはっきりしていないから、こうした馬鹿げた行為が繰り返される。
 目先の欲に前後不覚になった連中が街をどんどん破壊している。そうした馬鹿が居ない国では、街の美観はきちんと守られ、多少の不便は承知の上で、古い建物の中で暮らしている。人間なんて太古の昔からそんなに進歩などしていない。していると錯覚しているだけである。やっている事の基本は何ら変わりはしていない。寝て起きて、食べて排泄して、働いて、その繰り返しをずっと続けている。寝具が多少変わり、食べ物が変わり、仕事が変わっているだけに過ぎない。
 生活が進歩していると錯覚しているだけなのである。東京なんて、狭い土地に大勢の人が暮らしているから、ろくに日も当たらない暮らしの人々が少なくない。縄文時代だったら、存分に日に当たる生活が出来ただろうに。地震でエレベーターが止まってしまうと、高層の上の方に住んでいる場合には身動きが取れなくなる。
 こうした事が果たして幸せで楽しい暮らしと言えようか。

 東京新聞には「日本の新しい暮らし方のモデルを作ろう」との提案が紙面のトップを飾っている。しかし電力の節約を強いられているからこそ、こうした発想が出来るが、電力に何の不足も無い中部圏とか西日本ではどうだろうか。まあ、物が不足しているのは全国的らしいから、考えてはいるのだろうが、果たして切実な問題となり得るのか。
 だからこれを良い機会として、全国的に原発の存在を大きな問題にしたら良い。3割の電力が無くなって(電力会社によってその割合は違うだろうが、全国平均すれば3割になる)、どう対処すべきかを考えるべきである。それが今後の日本の運命を決定するはずだ。

「可能性」のおかしさ・続き

2011年04月29日 | 言葉
 JR西日本があの尼崎脱線事故について「過密ダイヤが遠因になった可能性を認めた」と新聞記事で読んだ。確認したいと新聞を探したが見付からない。何を気にしているのかと言うと、「遠因になった可能性」である。「遠因」とは言うまでも無く、直接の原因ではなく、「遠い原因」である。『新明解国語辞典』は「遠い原因・間接の原因」と説明している。
 つまり「過密ダイヤが遠因の可能性」とは、「過密ダイヤが直接ではなく、間接的に原因になった」事が「もしかしたらあったのかも知れない」と言う事である。非常に曖昧で何の反省もない発言である。

 JR西日本は運転士に厳しい懲罰を与えていた。運転士の業務から外し、草むしりなどの労働をさせる。幼い頃から運転士に憧れて運転士になった人は決して少なくない。彼等にとって、草むしりがいかに屈辱的な懲罰である事か。
 事故を起こした運転士はあの日二度目の遅れを出していた。それだけでも懲罰は必至だ。しかしそれだけではなかった。事故を起こした福知山線の列車は尼崎駅で東海道本線の列車に接続していた。事故列車が尼崎に到着してわずか3分後、9時23分発の新快速長浜行きが接続していた。事故列車は1分半の遅れを出していた。接続の列車はまだこの先106キロも走る。大阪、京都、大津、米原を経て長浜である。利用客も多いはずだ。この姫路・長浜間の新快速は山陽本線、東海道本線、北陸本線と三つの幹線を結び、この区間のメイン列車である。
 もしこの接続列車が定刻通りに発車してしまえば、乗り遅れて困る客が大勢出るはずだ。1分半では乗り換えが出来ない場合もあるからだ。そして、この列車の次は9分も後で、この列車が少しくらい接続待ちをしても困らない。「接続の列車が遅れているので、もう少々お待ち下さい」などと言うアナウンスはよく聞いている。それにこの列車はこの先まだ106キロもあるのだから、徐々に遅れを取り戻す事は容易なはずである。これを少しでも遅らせられないのだ、と言うのなら、それはそうしたダイヤを組んでいるJR西日本の責任である。
 たとえ遅らせる事が出来ても、事故列車の運転士には二つの列車を遅らせたとの懲罰が待っている。それは決して軽くはないだろう。
 それぞれの列車は過密ダイヤではないとしても、接続は過密である。これを過密ダイヤではない、とは言い切れないはずである。

 わずか1分半の遅れをなぜ事故を起こすような無理をしてまで取り戻そうとしたのかと、単純に考えれば、話は見えて来る。現場はカーブのため70キロの速度制限区間である。この列車は伊丹駅で1分半遅れている。伊丹―尼崎間5・8キロでその遅れを取り戻す。普通なら6分掛かる(平均時速58キロ)所を4分半で走らなければならない。すると、時速は77・3キロ。制限速度を7キロ以上もオーバーして走らないと、遅れは取り戻せない。それに、問題のカーブは尼崎駅の近くにあるのだ。そこを過ぎてからでは遅過ぎて何にもならない。運転士はそれを知っているから、その前の直線の所でかなりのスピードを出していたはずだ。それが乗客が恐怖感を覚えたほどのスピードになった。検証でそれが115キロだと分かっている。
 彼はプロである。それらの事がどれほどの事か十分知っている。その理性を失わせた、つまり意識レベルを低下させた原因がどこにあったか、と考えれば、誰にでも容易に想像が付く。

 それが事故の直接の原因ではなく、間接的な原因であり、しかも「もしかしたらそうとも考えられるかも知れない」とJR西日本の責任者は考えている。「可能性」は何しろ、「全員遭難の可能性がある」などと、とんでもない使い方が平気でされている言葉なのである。誰もがその意味を明確に理解出来ていない。「可能性」とは「程度性」だと考えてそれで終わり。だから、その「程度性」についてだって、明確な理解は無い。
 「事故の遠因になった可能性を認める」とはそんな程度の事なのである。少なくとも「直接の原因」とは考えていない。何と言う無責任な体質であろうか。
 過密ダイヤだった証拠はしっかりとある。事故後、福知山線の全ダイヤに手直しがされた。そして問題の列車は尼崎駅到着が2分早くなった。接続に5分の余裕を持たせたのである。過密ダイヤでないのなら、そんな手直しなど要らない。

東京新聞の原発に関するおかしな記事

2011年04月27日 | 言葉
 福島原発1号機を「水棺」にする作業で、注水量を増やして作業本格化させる方針を東京電力が決めた。「水棺」とは原子炉の格納容器内を水で満たして原子炉を冷やす事だ。
 この事を伝える記事で、東京新聞は次のように書いている。

 原子炉建屋内を二十六日に調査したが、格納容器からの水漏れが確認されなかったため。二十七日にも注水量を現在の倍以上にする。

 この「水漏れが確認されなかったため」がおかしい。つまり「水漏れが確認されなかった」が青信号になる。つまり「水漏れが無かった」になる。しかしながら、「確認されなかった」は「確認出来なかった」とほとんど同じ意味である。こんな事で「ゴー」の信号を出されたのでは恐ろしくてたまらない。
 正しくは「水漏れをしていない事が確認出来たため」である。一歩譲って、「確認されない」を安全信号の表現にするには、「水漏れをしている事が確認されない」になる。これだって非常に不安定な表現である。前述のように、「水漏れをしている事が確認出来ない」と解釈する人がほとんどなのではないか。
 「水漏れが確認されなかったため」の表現を当然のように読んだ読者の存在を私は非常に恐ろしく思う。同時にこんな文章を書く東京新聞の記者には不信感しか感じられない。この記事には署名が無いから、責任者が居ない。何人かで書いているのか、それともデスクが大幅に手を入れたので無署名になるのか。

 いずれにしても、校閲も居るのに何ともお粗末な文章である。「水漏れが確認されない」が「水漏れが無い事が確認出来た」と同じ意味だと考える、と言うか、感覚的にそう思う記者の存在を私は非常に恐れる。
 言うまでも無いが、「水漏れを確認する」とは、「水漏れがあるか無いかを確認する」である。だから「水漏れが確認されない」は「水漏れがあるか無いかが確認されない」である。これを「水漏れが無い」と同じだと考えられる訳が無い。
 先日は「可能性ばかりを言っていては何事も出来ない」と言う「恐ろしい」表現があった。これは「不可能の可能性ばかりを言っていては何も出来ない」との意味になるのだが、結果として、「不可能の可能性」と言う表現をおかしいとは感じないのである。

 記事を書いている人は言いたい事、書きたい事が確実に分かっている。だから少しくらい表現や文章がおかしくても気が付かない場合がある。本当は読み返してみればすぐに分かるのだが、読み返しても、思い込んでいれば間違いに気が付かない事もある。
 だからこそ、校閲の居るのである。校閲は何の先入観も無くその記事を読める。たとえ、その記事の結論を知っていたとしても、自分が書いた訳ではないから、第三者の目で読める。それなのに気が付かない。私は以前にも校閲の杜撰さをこのブログで指摘した事がある。一度だけではない。しかし相変わらずである。

 改めてこの記事の見出しを見直した。それは次のようになっている。

 1号機「水棺」本格化
 水漏れ確認できず

 福島原発の事故を知らず、その経過も知らない人がこの見出しを読んだら、「水漏れ確認できず」はマイナスの情況であると判断するだろう。だから、マイナスの情況で始まる「水棺」の本格化とは、そうした悪条件でも出来る作業なのだ、と思うはずである。

 ねえ、水漏れが無い事が本当に確認出来たんですか、と私は聞きたい。本当に確認出来たのなら、見出しは「水漏れなしを確認」とするはずである。

原発ムラの連中に田中好子さんの爪の垢を煎じて飲ませたい

2011年04月26日 | 社会問題
 新聞を開くたびにどうしようもない虚しさに襲われる。一面には本当に有識者と思える人の我々の暮らしを見直そう、との声が具体的な方法を通して載っている。新聞社の意見も同じだ。けれども有識者の意見が、そうだそうだ、と我々を勇気づけてくれるのに対して、新聞社の意見はそうではない。なぜなら、現実を語っているからだ。例えば原発に関しての今日の東京新聞の「デスクメモ」は次のように言う。

 エネルギー政策の見直しは海江田万里経産相のもとで行われる。大所高所の賢人会議を検討というが、経産省は原発アクセル役だった。ブレーキ役の保安院も機能不全。事故の遠因には電力会社への天下りなどのなれ合いもあったはず。「脱原発」を目指す会議なら「脱経産省」から始めるべきだろう。

 だが、「脱経産省」から始める事になんかなりっこ無い。省庁の体質は骨の髄まで全国民が知っている。デスクメモは「事故の遠因」などと遠慮がちに言うが、遠因どころか、直接の原因だとさえ言いたくなるような場面を我々は見せられ続けている。新聞は「天下りなどのなれあい」を挙げて「遠因」と言うのかも知れない。しかし保安院などの監視役が東電と身内と言うか、一心同体と言った方が正しいだろうが、そうである情況はまさに直接の原因だろう。

 それなのに、スーちゃんは苦しい病床で、病気に負けてしまうかも知れないと思いながらも「被災された皆さまのことを思うと、心が破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです」と語り、病気に負けてしまった時でも、「必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います」と気持を伝えている。
 このようなあたたかくて優しくて広い心など、原発ムラを始めとして、政府や官庁の連中が持ち合わせてはいない事ははっきりと分かる。やっている事、言っている事が明確に証明している。
 この国は1億を越える庶民と、その庶民を利用して自分だけ贅沢で安全な暮らしをしようと企む一握りの連中とにはっきりと分断されてしまっている。その一握りが政治を握り、経済を握っている以上、彼等の思惑が日本の姿になる。
 我々庶民は我々の暮らしを変えよう、と考えているが、政治や経済の仕組みを変えない限り、単なる掛け声に終わるだろう。掛け声に終わらせないためには、変えようと言うその暮らしの中に政治家を入れ、企業を入れるのが、その第一歩となる。選挙では真剣に人を選び、悪質な企業は、独占では無理だが、ボイコットするのである。私はそうやって幾つかの企業を忌避しているが、生活には一向に困らない。独占のボイコットは無理だとしても、例えば電力会社なら、日本中が太陽光発電などを取り入れる事で、のさばらせない効果はあるはずだ。
 初めの内は「蟷螂の斧」に過ぎないだろうが、いつかはきっと庶民の世の中に出来る。それは長い道のりだろうが、そう、暮らしを変えよう、の中には目先の事ばかりを考えない、と言う事も入るのである。

「可能性」と言う言葉の使い方がおかしい

2011年04月25日 | 言葉
 「可能性」とは「どの程度可能か」の意味で使われる。程度の問題だから、例えば「成功する可能性は高い」と言うような使い方をするのだが、おかしな事には「失敗する可能性が高い」と言うような使い方もされている。何がおかしいかと言うと、どちらも程度の問題なのだが、「可能」とは「出来る」であり、その「出来る」は「完成する」の意味もあるが「能力がある」の意味もある。どちらも前向きと言うかプラスの意味である。
 つまり「出来る」や「可能」には期待感がある。それは理屈ではなく、語感として誰もが持っている感覚のはずである。
 しかし現在、「失敗する可能性が高い」との言い方がおかしい、と思う人はどうもとても少ないらしい。ある国語辞典は「可能性」の説明で、ただ一つの用例を「全員遭難の可能性が強い」として、読者からおかしいのではないか、とクレームを付けられた。それでもその辞書は、マイナスにも使うのだ、と強弁して、その用例を引っ込めなかった。でもさすがにそれではまずいと思って、「審査に合格する可能性が強い」の用例を加えて、それを最初に示すようにした。
 私には言葉に対する感覚がお粗末だとしか思えないが、理屈をこねるとそうした結果になる。本当は「全員生存の可能性が強い」の用例ただ一つだけで事足りるのである。

 なぜ、今このような事を問題にしているかと言うと、全く同じケースが先日あったからである。
 福島の原発事故で、原発の危険性をもっと十分に考えるべきだった、との意見が多く出されている中で、原発を推進して来た専門家がこう言ったのである。
 「可能性ばかりを言っていては何も出来ない」
 物事はすべて小さな可能性を追究し、それを積み上げて完成する。だから「可能性を考えて」物事は完成するのであって、上記の発言はまるで成り立たない。
 しかし、この発言は新聞紙上では成り立ってしまっていた。これは本当は「あれが危険だ、これが危険だ、などと危険性ばかりを言っていては何も出来ない」と言う意味なのである。それを「危険性」とせずに「危険の可能性」としたために、結論だけを言うと「可能性ばかり言っていては何も出来ない」と言うまるでおかしな表現になってしまったのである。
 もちろん、新聞はそれに気が付かなかった。「危険の可能性ばかりを言っていては」なら気が付かなくてもおかしいとは言えないが、「可能性ばかりを言っていては」なのだから絶対に気が付くべきなのである。多分、新聞も「恐れが強い」を「可能性が強い」と言う言い方を常にしていて馴れっこになってしまっていたに違いない。

 「可能性」の言い方は便利だ。例えば「あの人が解雇される可能性は強い」の言い方を「危険性」に言い替える事は無理だし、「恐れは強い」もしっくりとは来ない。それで「可能性は強い」になる。これは最初の発想が悪いのである。「解雇される可能性」などとするから駄目なのであって、「可能性」を使わない表現を考えるべきなのである。例えば「解雇される恐れは十分にある」とか「十分高い」にすれば済む。「恐れ」と言いたくなければ、まるで違う表現にすれば良いのである。例えば「解雇される予想は十分につく」とか「解雇される場合は十分ある」などと。
 安易に「可能性」に頼ってしまうから、工夫をしない。そこで「可能性」はマイナスの意味をも十分に持てると思われてしまう。これは日本語を堕落させる要因の一つである。言葉の持つ語感を大切にせず、矛盾する意味さえ持たせてしまう事が日本語の発展になるはずが無い。何でも一つの言い方で済ませてしまうのが結構はやっているらしいが、それは5以上は「たくさん」で表して、数詞としては1、2、3、4と「たくさん」だけしか無いと言う民族と似ている。面倒は無いが、それでしあわせだと思えるだろうか。

カネ儲けに目がくらんでいる人には日本の復興は出来ない

2011年04月23日 | 社会問題
 毎朝新聞を開くと情けない話ばかり載っていて、嫌になる。そのほとんどが福島の原発がらみである。東電の汚い情報隠しやカネのために原発に群がる人々。政府は無能だし、どうにもならない。唯一勇気が湧くのは読者の投書やそれに似た意見欄だ。原発を頼って便利な暮らしに浸って来た庶民の反省の声は日本の復興の力となるはずだ。
 そうした声とは反対に、交通機関が節電ダイヤを組んで我々利用者は不便をしていると言うのに、近所のパチンコ屋などは震災当初は6時閉店などをしていたが、今では朝10時から夜11時まで照明と騒音をふんだんに捲き散らしている。何の反省も無い。どうしてもカネ儲けに走ってしまうのだろうね。そう、贅沢な暮らしを見直そうと言っているのは、みんなカネ儲けとは無縁の庶民ばかりなのである。

 日本人はあの戦争の総括をしていない。何が戦争に突っ張らせたのかを真剣になって反省していない。戦争を指導したA級戦犯と、戦争に狩り出されて戦犯になってしまった庶民との区別さえきちんと付けられていない。日本は戦争の焼け跡から自力で立ち上がって来たのではない。防衛はアメリカ軍におんぶにだっこで、経済的にもアメリカに頼って来た面が多分にある。経済の復興だって朝鮮戦争と言う特需が後押しをしている。そして産業の発展が国を引っ張って経済大国にまでのし上がって来た。まず第一にカネなのである。
 だから何も考えては来なかった。そのツケが今はっきりと現れている。
 便利で贅沢な暮らしよりもまずは安全で安心出来る暮らしが先決だ。
 でもそれではカネ儲けが出来ない。原発を誘致した自治体はすべてカネが欲しかったからだ、と言っている。

 『人は見た目が9割』と題する本がベストセラーになったのは少々前の事だが、その中に「日本の文化は語らぬ文化だ」と書かれている。何しろ「以心伝心」が極意なのだ。それで微妙で深遠な事が伝えられると信じて来た。何事もはっきりと言わない。はっきりと言わないのではなく、はっきりと言えないのである。それは何事もはっきりと考えていない事に繋がる。微妙で深遠な事とは、言うならば「悟り」の境地でもある。それは決して論理的な内容ではない。感覚の世界である。
 だから戦争の総括も出来ないのだ。政治家の発言にはきちんとした論理が無いし、有識者と言われる人々の発言だって、きちんと検討すれば、論理が成っていない事などざらにある。「語らぬ文化」だからそうした結果になる。「以心伝心」などは奥義を必要とする芸能の世界だけにとどめて、我々は「以言伝心」でなければいけない。「言葉で心を伝える」である。そうした事がきちんと出来て初めて、カネによる便利で贅沢な暮らしではなく、安全で安心出来る暮らしを選ぶ事が出来るのだ。

外国人の日本批判に一理あり

2011年04月21日 | 社会問題
 きのう、テレビのTOKYO MXで面白い番組を見た。5人くらいの日本語ぺらぺらの外国人が日本の様々な風習については批判をする。それをあの杉村太蔵が弁護する。題して「過剰な気配りに物申す。太蔵と外国人が大激論」。タイゾー君は国会議員だった時、ブログで凍死で自殺をしようとしたが、寒くて眠れず死ねなかった、と書いたが、それがある作品からの盗作だった惨めな不始末があったが、芸能人としてはなかなか面白い。途中からだったが、彼の弁明はすべて認められなかった。我々日本人でも変だなあと思う風習はたくさんある。あるけれども日本の社会に根付いてしまっているんだから、まあ仕方がないか、とか、社会の潤滑油になっている、などと思ってしまう。
 しかし外国人はそんな事には一切関係が無いから、考え方が明解である。我々には出来ないような考え方が出来る。今回は「過剰な気配り」だったが、現代の日本の便利な社会についてだって、馴れ過ぎてしまった我々には分からない欠陥が彼等には見えるだろう。外国に暮らす日本人女性が書いていたが、日本の夜の明るさは異常らしい。外国に戻ってそれがよく分かると言う。それは暗さに対する好みの問題になるが、昔の日本はほの暗さに好感を持っていたはずだ。それが明るさが文明の象徴だと錯覚してぎらぎらの明るさを追求してしまった。貧乏だった日本が金持ち国家に憧れた結果が現代の日本を作っている。その代表とも言うべきが原発による電力供給策である。

 原発は今回の事故によってエネルギーの無駄遣いに目が覚めたが、すっかり覚め切ったとは言えない。まだまだ眠りから覚め切っていない事態は山ほどもあるだろう。これは夢に浸り切っている我々日本人には分からない。そして夢の中に居る我々に更に新しい夢を見させようと企んでいる連中がうようよしている。
 タイゾー君と日本通の外国人による「夢芝居」の続きを是非見たい。

いつまで立っても甘さの抜けない人々を見限ろう

2011年04月20日 | 社会問題
 東京電力が原発の事故収束までの工程表を発表した。途端に放射能の汚染水の6万トンが1割も増えていて、タブロイド紙は「いきなり破綻」の大見出しを付けていた。収束とは冷温停止状態になる事である。それが6~9ヶ月だと言う。どこかの国は10年と言い、別の国は15年と言っている。余りにも違い過ぎる。
 発電所の内部がどのようになっているかも分からなくて、どうして見通しが立つのか。原子炉に対する大甘の考えが「想定外」を許し、収拾のつかない現状を招いていると言うのに、その反省がまるで無い。どこまで馬鹿なのか。我々の間ではこうした馬鹿丸出しの人間とは以後付き合わない。本人は自分が分かっていないから平気な顔をして我々の間に割り込んで来るが、誰からも相手にされない。
 しかし原発ムラの連中は、日本の電力を一手に担う独占企業とそれに牛耳られてカネと言うあめ玉をしゃぶらされている輩ばかりだから、通常の馬鹿とは存在価値が違う。相手にしなければ我々の暮らしが立ち行かない。

 いい加減な独占企業を国有化出来ないのなら、我々は別の手段を講じる必要がある。自分達の力で電力を作り出さなくてはいけない。それが太陽光発電であり、風力発電だ。今日の東京新聞には2010年10月に営業運転を開始した関西電力の堺太陽光発電所の写真と、同年9月に完成したイギリスの世界最大の洋上風力発電書の写真が載っている。マスコミはこうした具体的な処置をどんどん報道すべきである。安易で信用の置けない発表を垂れ流すばかりの番組は要らない。
 個人の家庭用の太陽光発電のパネルも蓄電池も量産が進めばずっと安く出来る。それが普及を促進させ、普及が更に価格を下げる。そうした良い循環が始まる。
 自分達のカネ儲けと保身だけを考えている連中とはさっさと縁を切る必要がある。それが復興への第一歩となる。

ドイツが原発全廃を決めた

2011年04月18日 | 暮らし
 原発への依存度が日本よりずっと低いドイツは原発の全廃を決める事が出来た。地震の恐れの無いドイツでさえ原発を全廃すると言う。7割近くを原発に頼る隣国のフランスはそれが出来ない。日本はと言うと原発への依存度は25%。一挙にではなく、まずは福島原発が廃止になり、そして徐々に全廃に持って行く事は出来るはずだ。それこそ、日本の復興である。エネルギーの無駄遣いを止める事を全国民が決意すればそれが出来る。
 石原都知事はそのきっかけをパチンコ屋と自販機の自粛に求めている。もっとも、同知事は原発推進派らしいが。でも原発維持や推進ではこれからの日本はやって行けない。だから意識改革が必要だ。エネルギーが豊富なら何でも便利な生活が可能だ、とのパラ色の夢を描いてそれをばらまいている業種がある。それは様々な業種に渡っているから我々には相当の覚悟が要る。でも、それをしなければ日本は本当の復興は出来ない。
 数多くの人々の犠牲の上に我々の目覚めがある。それを無にしてはならない。

 津波の被害にあった海岸沿いの地に風力発電の風車を建て並べるのはどうか。今までの街は山を削って作った高台に建設する。過去の地震や津波の被害を人々は伝えて来た。そして後代の人々はその教えを一部守って来た。その守り方はその時々の文化の水準と言う制約があるので決して高度な物ではなかった。しかし現代は違う。遥かに優れた技術がある。その力をフルに発揮すれば、従来の防備策よりも格段に安全な防備が出来るはずなのだ。
 ただそれには莫大なカネが要る。今までのような無駄遣いをみんながしていてはカネは出来ない。便利に頼って来た電化製品や種々の機能を我慢しようではないか。パチンコや自販機だけではなく、自分の回りを見回せばエネルギーの無駄を省ける工夫はたくさんあるはずだ。ただ、それは今までの暮らしの延長線上には無い。暮らしを根本的に考え直す必要がある。テレビだって現在のような深夜まで放送する必要は無い。その多くの番組がCM料金目当てのさほど必要とも思えぬ番組である。
 テレビ漬けになっている人は辛いだろう。そして携帯を始めとして、なになに漬けになっている人は多い。みんな惰性で「漬け物」になってしまっている。そうした事から脱却する事で新しい生き方が見えて来るのではないだろうか。

運休ダイヤの本当の理由は

2011年04月15日 | 社会問題
 これは私の「邪推」である。でも、不思議に思う事があるので、それを考えたらこうなった。それはあんたの根性がひねくれてるんだよ、と言われても仕方が無い。こうした事で本性が分かるのかも知れない。
 昨日、私の利用している都営地下鉄の事を書いた。二つの路線で一つは運休ダイヤ、一つは通常ダイヤだと言った。そもそもはそれが不思議である。で考えた。
 都心を東西と南北に走る二つの路線は、「本の街」として知られる神保町で交差する。東西に走る新宿線は東は行き止まりで、西は私鉄の京王線と乗り入れをして東京都下から神奈川県に至っている。通る最大の繁華街は新宿である。南北に走る三田線は北はやはり行き止まりで、南は私鉄の東急・目黒線と乗り入れをして東京の高級住宅の多い地区から神奈川県に至っている。通る最大の繁華街は大手町・日比谷・内幸町である。
 東京に住んでいれば何となく分かるが、新宿線と三田線では、沿線の住民に違いがある。私自身、東京の江東区に住んでいて、その江東区が他の東京22区からどのように評価されているかもよく知っている。これには実例がある。神保町に車で野菜を売りに来るおやじさんが言っていた。ここではこの値段で売れるけど、中野や杉並じゃあこの値段じゃ安過ぎて誰も買わない。つまり、神保町も含めていわゆる下町は山の手に比べて低級だ、と言う事になる。
 もう一つ実例を挙げる。妻の甥っ子が東京ガスに勤めているので、その縁故でFFガス暖房機を入れた。工事の手配などは同僚がしたのだが、その同僚が言ったと言う。「お前のおばさん、柄の悪い所に住んでるんだなあ」と。
 以上は単なる風評に過ぎない。が、それが通用してしまっている。そうした東京の実情から見て、東京都下や神奈川県も含めて、新宿線沿線と三田線沿線とでは格差があるらしい。特にビジネス街を通る三田線は乗客が大手企業に勤めている割合が高い。この「大手企業」が鍵を握る、と私は考えた。
 大手企業の社員達に、節電によるダイヤ運休は不便だと言う事を痛感させる。節電は原子力発電がうまく行かないから起きている。つまり、不便さを解消するにはどうしたって原子力発電が必要だ、と思わせる。大手企業の声は中小企業の声よりも大きく強く響く。

 運休ダイヤの三田線はすべて6両編成だが、その分、ダイヤの間隔が短い。通常ダイヤの新宿線は8両か10両編成だが、三田線よりはダイヤの間隔が長い。それで両方ともに支障は来しては居ない。つまり、乗客にとってはあまり差は無いはずである。それなのに、運休ダイヤと通常ダイヤなのである。
 私の「邪推」はまだまだ続く。