夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

標準語とは何か、東京弁は健在か

2008年03月29日 | Weblog
 標準語とは、全国共通の言語、全国のどこでも通用する言語、そう考えられている。自分は使えないが、聞いて分かる、読んで分かる。それは話し言葉もあるし、書き言葉もある。全国的に使われているのは書き言葉の方である。各地方の新聞はみな標準語で書かれているはずだ。
 だが、話す事になると、標準語でなど話す人はいない。いるとすれば、NHKのニュースのアナウンサーぐらいなものだ。民放はニュースのアナウンサーであっても、結構アクセントのおかしな人が多い。結構と言うよりも、驚くほど多く居る。
 テレビの出演者、特にバラエティー番組では、全員と言えるくらい、皆さん出身地の言葉でおしゃべりになる。東京の局の番組でも半分くらいは関西弁だったりする。ところが、東京弁は、と言うと、これがさっぱり聞かれない。えっ? 東京弁なんてあったっけ?

 ……ちゃった、などが典型的な東京弁で、関西人が東京弁の真似をすると、決まって、……でさ、……ちゃったよ、などの連発になる。正統的な江戸弁だと、よござんしょ、などがそうだと聞いた。歌舞伎俳優の誰だったかにそうした言葉を言ってもらって、喜んでいた人をテレビで見た事がある。確かに粋である。
 方言の特色は特に付属的な言葉に現れるし、それが面白い。名詞や動詞、形容詞などは、場合によっては意味が分からなかったりするので、それほど注意はされない。私の知っているごく少数の方言としては、大分県の「とぶ」や「美しい」がある。「とぶ」は「走る」、「美しい」は普通に言う「きれい・清潔」である。
 こうした方言はあれっ? とは思うが、別に面白くはない。

 標準語で話す、などと言うが、それはとても無理な事だと思う。やれば出来なくないが、ニュースのアナウンサーのような話し方しか出来ない。そんな話し方をしたって、ちっとも楽しくない。生き生きともしない。もっとも、NHKの宮田輝氏などは標準語を使って、時には方言を交えてではあったが、全国ののど自慢会場を沸かせていたと思う。しかしそれは飛び切りのプロだから出来る事だと思う。だからこそ、テレビでは方言が花盛りになるのだろう。だから、東京人は「言ってしまった」などと言わずに「言っちゃった」と言ったって、良いのである。
 もちろん、公式の席上以外での話である。

 話し言葉に標準語は要らないと私は思う。実際に、無いのかも知れない。変な作り言葉、無理な言葉、感情の籠もらない言葉、で話されるよりも、方言まるだしの方がずっと気持が伝わる。

 私はNHKは、番組を手伝う仕事をしていて、それは何年も続いていたのだが、始まっていた仕事の途中で突然に、私には分からない理由で仕事を取り上げられたので、それ以後、見ない。生活の糧でもあったし、それ以上に意欲を持って当たっていた仕事だったのだから、悔しさは言いようも無い。
 朝の連続テレビ小説は毎日見なければ、との脅迫観念に駆られるから、以前からも見なかったが、ある時、ふとチャンネルを間違えて、見てしまった。ところが、それが非常に印象的なシーンであって、ついつい、続きを見たくなってしまった。それが、何と、3回も続いたのである。
 ドラマの作り方が上手かった訳だが、次第に引き込まれて行ったのには別な理由があった。それがドラマでの方言である。

 最初は「ちゅらさん」の沖縄方言、次が「どんど晴れ」の盛岡弁、そして「ちりとてちん」の若狭弁。「どんど晴れ」では草笛光子の、「ちりとてちん」では和久井映見の話し方が心に染み込んで来る話し方なのである。
 そしてつくづくと、東京人はそうした話し方が出来ているのかと考えた。標準語が東京方言を基準にして作られたがために、標準語=東京弁のような錯覚、並びに現実がある。東京弁は活力を失っているのではないか。
 活力を失っている証拠の一つに、東京弁の特徴でもある「ガ行」の柔らかな鼻音がある。これが今や風前のともしびになってしまった。

 小学校の国語の時間に、「ガ行」が鼻音である事を習った。「学校」の「ガ」などの語頭の音ではなく、「歓迎」などの途中に出て来る「ガ行音」の事である。「……ですが、」の「が」も当然に鼻音になる。「……です」を略した言い方の「が、」も、だから鼻音だ。
 しかし民放テレビの、それも特に女性のアナウンサーやリポーターのほとんどが非常に強くて汚い「ガ」の発音をする。それはそれは本当に汚い。まるで、視聴者の期待を裏切るのが楽しくて楽しくて仕方がない、とでも言うように嬉しそうに「ガ」とおっしゃるのである。
 こうした女性達は、多分、人前で平気で音を立てておならをするのだろうと、私は思っている。

 無礼な考えではない。人前でしゃべる事を仕事としているからには、全国の美しい方言の数々を勉強しなれ。これは若狭弁。「しなさい」より、どれほど優しくて、しかも指導する気持が籠もっている事か。
 ついでにきちんと標準語の勉強もしなくてはいけない。アクセントなどでたらめではないか。言葉その物も知らない。
 ある局では、北九州市の小倉北区を「おぐらきたく」と読んだ若い女性アナが居た。番組の終わりで、先輩の男性アナが、「こくらきたく」の間違いでしたと申し訳無さそうに訂正していたが、その気持は察するに余りある。
 自分の恥が局の恥にもなる事をしっかりと胸に刻み込むべし。
 これは知識の有無の問題ではない。仕事人としての自覚が有るか無いかの問題なのである。自覚が無ければ、給料泥棒と言われても文句は言えまい。












































































































































新聞などの数字表記に疑問がある

2008年03月28日 | Weblog
 つまらない話と思う人が多いだろうが、私の本職は編集及び校正なので、私にとっては重要な事になる。
 最近は新聞の縦組みでも洋数字を使うのが主流のようだが、横組みなら更に自然になる。と言うよりも、横組みに漢数字は似合わない。だから、洋数字を使うのに何も問題はないのだが、そこに和語の絡んだ数に関する言葉が出て来ると、困った事になる。
 特に困るのが、「一人」と「二人」。これは「ひとり」「ふたり」である。横組みで「3人」とか「5人」とかある中で「一人」「二人」はおかしい、と考える人がいる。確かに、表記だけを見ている限りでは、おかしい。
 特に校正者は表記の統一を金科玉条に思い込んでいる人が少なくない。そうした人にとって、「一人」と「3人」の混在は許せないらしい。そこで「ひとり」が「1人」に、「ふたり」が「2人」になる。
 だが、「1人」「2人」を「ひとり」「ふたり」と読む事は出来ないのである。

 「ひとり」を「一人」と書き、「ふたり」を「二人」と書くのは、熟字訓と呼ばれる。漢字のもともとの読みとは違う読み方だが、意味を表すのに適しているとして認められているのが熟字訓。「時計」はその代表的な表記である。
 えっ? 「時計」ってそうだったの? と言う人は少なくないだろう。あまりにも当たり前の表記になって定着している。元は「斗鶏」「土圭」などと書いた。「ゆかた」を「浴衣」と書くなどの熟字訓はそれと意識するが、「時計」はごく自然な表記だと誰もが思う。
 「一人」も「二人」もそれと同じなのである。もちろん「いちにん」「ににん」と読む場合もあるが、それは「1人」「2人」とも書ける。けれども「ひとり」「ふたり」は絶対にそうは出来ない。熟字訓は漢字が対象だからだ。

 もしそれが出来ると言うのなら、「七夕」(たなばた)をは「7夕」と書ける事になる。
 人数を数える時、「ひとり」「ふたり」は和語だが、「さんにん」以上は漢語になる。「よにん」は「しにん」の発音を避けるために和語の「よ=四」を使うが、それは例外だし「にん」は漢語だ。
 これが日本語なのだから、仕方が無い。本当は漢語「五人」を「5人」などと書いたりするのもおかしいのである。洋数字は計算の便宜のために使われ始めたはずだ。筆算をするのに都合が良い。だから数値を表すには洋数字が良いが、普通に何人とか何個などと言う場合には漢数字が望ましいのだと私は考えている。
 しかしこれだけ洋数字が普及しているのだし、漢字の一、二、三などは縦書きでは続くと判別しにくいとの不利な点もあるから、「5人」「1個」などと表記するのは理に適っているとも言える。

 「数十」や「十数」は「数10」「10数」とは書けない。数に関して書いていると、これらの言葉が出て来る場合は少なくない。だから「5人」と「十数人」のように洋数字と漢数字が混在する。つまり「一人」「二人」は何も変でもおかしくもないのである。

 余計な事だが、「てっぺん」の漢字表記は「天辺」、「そっぽ」は「外方」。別に熟字訓にせよ、とは思わないが、意味がとてもよく分かると思いませんか?

 もう一つ。
 「5000円」と「5千円」は同じだが、「人口5000人」と「人口5千人」は違う。「人口5千人」は概数であって、ぴったりと5000人ではない場合の方が絶対に多い。「5千人」は4995人でも、5005人でも通用する。「5千人」はおおらかに使える表記なのだ。もちろん、「5千円」がおおらかだ、とは言い切れない。価格5千円だからと、4995円でも良い、は通用しない。

 この区別をいい加減にする人々がいる。洋数字を使うとなったら、何が何でも洋数字でなければ駄目だと考えてしまう。数字をきちんと考えれば、「5000」は一の位が「0」だとの表明でもある。その事を考えない人は、「1%」と「1.0%」の違いを意に介さない。だから平気で「3000メートル級の山」などと書いてしまう。
 これは縦組みでだが、28日の毎日新聞の「余録」と言うコラムにカエルの話が出て来るが、3億6000年、約6000種の表記がある。3億6000年が3億5999年より1年多く、3億6001年より1年少ない年数だとの事ではない。更には「約6000種」とは何事ぞ。「約」と概数なのに、一の位までぴたりと「0」だと言うのか。そんな概数は無い。3億6千年、約6千種で良いではないか。と言うよりも、そうでないとおかしいのである。電話番号の×××・1000などとは違うのである。

 5000を概数だと考える事は可能だが、そうなると、まさしく5000との識別が付かなくなる。例えば、同紙の世論調査の数字だが、○○が90%、××が10%とある。この調査の回答数は1092人。その90%なら982.8人、10%なら109.2人になる。
 だから前者は983人、後者は109人だろう。前者は90.02%、後者は9.98%(小数点3位以下四捨五入)。つまり、90%、10%は概数になる。それなら小数点以下1位で四捨五入をすれば、90%は90.4%の可能性もある。それは987人だ。89.5%なら977人になる。
 983人が987人を丸めた数字なら4人も少ないし、977人なら6人も多い事になる。10人も幅がある。10人は1092人の0.9%になる。0.9%などと言うと取るに足りない数に思えるが、もしあなたが、その10人の一人だったら、無視されている事にもなる訳で、それでも平気ですか?
 もちろん、二者択一の世論調査でそこまで正確に出せとは言わないし、正確でもないと思っている。だが、3億6000年では1年まできちんと表示しているのに対して、この90%はあまりにもいい加減ではないか、と思う。

 細かい事を言っているが、要するに、どこまで物事をきちんと考えて記事を書いているのかが知りたいのである。

 先に電話番号を例に採ったが、局番の「03」などをどのように読んでいるか。多くの人は「ぜろさん」と読むが、NHKは「れいさん」と読む。「ぜろ」は英語だから「れいさん」が正しいはずだ。「ぜろ」がすっかり日本語になっていると考えるのであれば、話は別だが。
 そのNHKの用字用語辞典では「ひとり」は「一人」でも「1人」でも良いと書かれている。「ひとり=1人」なら「ぜろさん」もNHKは認めなければならなくなる、と私は思う。

君が代不起立に何でそんなに賛同するの? 

2008年03月26日 | Weblog
 3月26日の毎日新聞に「記者の目」と題する大きな記事が載った。君が代不起立問題で教師が処分されるのは「個の良心認めぬ社会であり、異様だ」と大きな見出しが躍っている。記者は大阪編集局の湯谷茂樹と言う人。
 話の主人公は根津公子さん、57歳。彼女が戦争中に君が代を歌った事は無いはずだ、と私は前に述べた。
 彼女の不起立の理由は「自分の頭で考えて、おかしいと思ったら、やらない。正しいと思うことだったら、一人でも行動すべきだ、と生徒達に語ってきた自分の教育に反してしまうから」である。
 生徒達へのその言や良し。正論である。

 しかし、それと君が代斉唱で起立をしない事とは筋が違う。彼女の言い分が通るなら、自分さえ納得していれば、どんな事でもやって良い、と言う事になる、と私は思う。論点が違うではないか。
 君が代が駄目だ、と思うなら、その思いを貫徹するのに誰も文句は言わない。しかし、だからと言って、皆が起立して斉唱しているのに、一人だけ起立をしない事を貫き通すのは、全く別の事である。良心の問題と行事などの行動とはまるで別の事である。そうではない、同じなのだ、と言われると、今後、私は様々な行動が出来なくなる。一つ一つについて、自分の良心ではどうなのか、と自問自答を繰り返さなくてはならない。それはそんなに簡単に答は出ない。

 つまらない話をするが、始発駅で電車を待つ時に三列あるいは四列に並ぶのは合理的ではない。左右の端の人はそのまま左右に分かれて座席を獲得出来るが、中央の人は左右の人より遅れてしまう。中央の人は、左右の二番目に並んだ人と同じになるか、むしろ、遅れる。人の流れから言って、そうなる。
 では、私が中央に並ぶ羽目になった時、自分の信条はこうだから、と言って、強引に左右のどちらかの列に入れるだろうか。
 つまらない話だが、具体的にしないと分からない人が居る。

 東京地裁の06年9月の判決を引用して記者は次のように言う。

 「皇国思想や軍国主義の精神的支柱として用いられ、現在も宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と君が代について指摘したように重い歴史のある問題だ。

 確かに重い。皇国思想や軍国主義の精神的支柱として用いられたのも確かである。だが、現在もまだ「宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるに至っていない」だろうか。フィギュアスケートで荒川が浅田が優勝して君が代が流れ、それを聴いた日本中の人々が、それに宗教的、政治的な価値を認めたとでも言うのか。

 日の丸にも君が代にも過去の清算が済んでいない、と言うのか。ならば、すれば良いではありませんか。戦後に生まれた人が大部分になっている現在、皇国思想だの軍国主義だのと言ったって、通じない。いつまで過去の亡霊に囚われているのか。その癖、日本人は過去の物を情け容赦もなく捨て去っているではないか。街の様相はどんどん変わる。それをいとも平気で受け入れる。目新しければいとも簡単に歓迎する。立派な建物でも、ちょっと使い道が変われば、簡単に壊し、建て直す。

 東京千代田区の九段下交差点に、債券信用銀行の高層の立派な本店があった。同行が破綻して、持ち主が変わった。1階の銀行ロビー(私は入った事も無いので以下は想像だが)は天井が高くて使いにくいかも知れないが、格調高い会社の受付になり得る。以前、そうした出版社の玄関受付で、私は圧倒された記憶がある。

 現在、どのような企業が入居しているのか知りたくもないが、その立派な建物は惜しげもなく破壊され、同じような高層のビルが建った。そんな事は枚挙に暇が無い。深く考えもせずに、経済的な効率(本当に効率が良いのか?)ばかりを優先して、薄っぺらな街を造り上げているのに一向に反省しようともしない。
 そうした同じ精神が、日の丸と君が代に対して何も考えずに、ただ、破壊し捨て去ろうと言う考えに同調してしまう事を私は恐れる。

 地裁の判決が言うのが正しいなら、宗教的、政治的に価値中立的なものと認められように話し合いを始めるべきである。有識者などと言う名のいい加減な人達に任せるのではなく、我々国民の一人一人が話し合うべきなのである。

 戦争への反省は何度しても過ぎる事は無い。そもそも、きちんと反省をしているか。中国や朝鮮では日本はいまだに謝罪をしていない、と言う人々が少なくない。国同士は謝罪をした、謝罪をされた、賠償もした、賠償された、と認め合っているが、国民はそうとは限らない。
 裁判の記録で読んだのだが、朝鮮で、日本軍に徴用された男性達が居る。その一人である原告は、言うことを聞かないと家族が不幸になると脅されて、泣く泣く従軍したと言う。南方の戦地では、日本人の下役として使われ、捕虜の対応に当たらされた。捕虜を使役したりする仕事である。上役の日本人は全く姿を見せない。

 日本が敗戦になって、捕虜は解放された。そして戦争犯罪人として彼等が指摘したのは、常日頃自分達と関わり合っていた朝鮮から徴用された兵隊達だったのである。捕虜だった人々は彼等しか知らないのである。彼等朝鮮人達は日本人として裁判に掛けられ、死刑になった者もいる。この原告は幸いにも死を免れたのだが、その保障は何ら受けてはいないのである。日本人の軍人達は恩給も貰えるのに、彼等は日本人ではない、との理由で恩給も貰えない。それなのに、戦争裁判では、立派に日本人として裁かれたのである。

 日の丸や君が代に過去の清算が出来ていないと言う前に、こうした精算をすべきである。君が代の斉唱に反対して実力行使をするよりも、君が代が国歌としてふさわしいと考えられるような事を考えるべきである。歌詞を変えたっていいではないか。私は「君」の意味をきちんと決めたら良いと考えている。前にも言ったが、「自分の大切な人」と。
 元の和歌はそうだった。「わが君は」であり、意味もそうだった。それを明治時代に「君が代は」と変えた。そしてずっと準国歌だった。正式に国歌とは認められていなかった。正式に国歌になったのは、日の丸と同じく、平成に入ってからである。
 それを機会に、元の「わが君は」の意味に戻すのに、何の差し障りがあるか。そして、それは十分に古語の文法に適っている。
 あるいは、新しい国歌を作ろうと提案したらどうなのか。国民の大多数が君が代に反対なら、そうした提案は受け入れられるはずである。

日本語なのに、数字を3桁区切りにするのはなぜか

2008年03月24日 | Weblog
 テレビの「サザエさん」で、1万6千円のワインを1600円と勘違いして飲んだ話を見た。16,000円と1,600円。間違えてもおかしくはない。長山洋子さんだったか、デパートでグラスの値段を1桁安く見間違えて、包んでもらってから気が付き、ちょっとほかも見たいとか何とか言って、逃げ出したと言う話をしていた。見間違えだと言い出せなくて、泣く泣く買った人もいるはずだ。
 客に恥をかかせ、時には絶望的にさせる値段の表示とは一体何なのか。

 日本語には、一、十、百、千、万と言う単位がある。1万、10万、100万、1000万、そして1億になる。4桁で区切るのが当然である。1万を10千などと呼ぶ馬鹿はいない。
 だが、現実に10千の表示になっている。しかも100百などと書く馬鹿までいる。これも1万の事だ。10百=千、100百=万、となる。
 英語は千単位だから、1万は10千としか表記のしようが無い。それをテン・サウザンドと読む。だから10,000になるのは至極当然の話である。それで十分に分かる。
 何故に数字を欧米式に千単位で区切らなければいけないのか。欧米に発信する文書ならそれでも良い。しかし事は、国内での事なのである。国内での身近な商品の売買にどうして英語を使わなくてはいけないのか。

 そして、その実、10,000と表示しながら、店員達はそれをテン・サウザンドなどと読んだりはしていない。10千とも読まない。きちんと1万と読んでいる。ならば、1万と書けよ。「万」と書くのが嫌なら、1,0000と書いたらいいじゃないか。
 自分が出来もしない事を他人に強制して、それで、「買って下さい」は図々し過ぎる。もちろん、客が、「売って下さい」などと頼んでいるのではない。もっとも、そのような場合が、高級ブランド品と称する物の売買にはありそうだが。

 10年以上も前だろうか、本田勝一氏が朝日新聞で4桁区切りの表示をしよう、と提案した。しかし誰も賛成とも言わないし、実行しようともしない。私は何度も言っているが、首都の地下鉄をフランス語で「メトロ」と呼び、日本の代表的鉄道を「JR」と英語の略称で呼ぶ。それと全く同じ事を、我々のごく身近な値段の表示でもしている。

 本当にアホじゃないか、と思う。そんなにも日本語が嫌なら、さっさと日本から出て行けば良いのだ、と言ったら言い過ぎになるだろうか。出て行かないまでも、それなら日常会話も英語なり、フランス語にしなさい。その道の先達(せんだつ)には、終戦後、日本の国語をフランス語にすべし、と提言した志賀直哉と言う大先輩がいらっしゃる。本当に、どこまで日本を馬鹿にしたら気が済むのか。
 安易にカタカナ語を使う人も同じである。そんなに英語が得意なら、多分、考えるのも英語でしているんでしょうね。「ああ、疲れた」などと決して思わない。「オオ、アイム、タイアド」と思うのでしょうね。日本語で考えているくせに、やたらと英語など、使うな。

 昨日も書いたが、君が代を拒否する教師どもは、アメリカ国歌やイギリス国歌、いやいや、革命的なフランス国歌なら良いと言うのか。イギリス国歌だって、神よ女王(王)を救いたまえ、と歌っているではないか。

 CMではキヤノンは「make it possible with cannon」である。直訳すれば、「それをキヤノンで可能にせよ」となる。何を命令しているのか、無礼者!
 だからか、そのまま英語読みにする事は減った。普通は単に「キャノン」とだけ言っている。でも未練がましく英語表示はそのまま続けている。命令されてまで、私は同社の製品を買う気は無い。つまらない事だが、同社の名前表記は「キヤノン」で、発音は「キャノン」である。なお「キヤノン」(Canon)は「Kannon」(観音)が語源である。

 そう思いながら手元の新聞を見たら、そこには三菱UFJの広告が載っていた。
 「Quality for You」だとさ。何なんだろうね。普通にはクォリティとは「良質・高級」などと解釈されている。つまり、あなたのための高級な銀行ですよ、と言っているつもりなのだろう。そうあからさまに言うのは恥ずかしい(自分ではそうではない事をきちんと認識している)から、曖昧な英語で表示をしているのである。単に「性質」なら、何とも分からない広告になる。それとも「あなたの性質に合わせた」と読むのだろうか。

 私はしっかりと覚えている。合併前の東京三菱銀行が、客から、間違って振り込んだお金を返さないと訴えられて、敗訴した事を。そして同じ訴訟を抱えていたUFJ銀行と合併をした事を。似た者同士とはこうした事を言う。

 JRだが、「日本鉄道」の英語の略である。ならば「日鉄」になる。「日本国有鉄道」の略語が「国鉄」だった。それは「ださい」呼び名ではなかった。意味も分かるし、何よりもしっかりとしたイメージがあった。イメージと実態が異なってしまったのは別の問題である。
 国鉄が民営化したのだから、「国民鉄道」で良いではないか。その略で「国鉄」。しかしあまりにも「国鉄」のイメージが悪過ぎたので、使えない。それに新規まき直しの気持もあっただろう。では「民鉄」はどうなのか。しかしこれは実際に存在する。「私鉄」の事である。「私鉄」の正式名称が「民鉄」。「私鉄」各社から成る協会は「日本民営鉄道協会」と言うらしい。
 けれども実際には「民鉄」なる言葉は生きていない。ならば、民営化した旧国鉄が「民鉄」と称する事に何の不思議があろうか。

 誰も不思議がらないが、旧国鉄は民営化しても「私鉄」にはならない。地図ではきちんと両者は別の表示になるし、時刻表もまた別になっている。民営化して民営ではないとはこれいかに。
 民営化はしたけれど、それは利益の追求が許される、との意味であって、実態は旧国鉄なのですよ、と言う矛盾した心の内が「JRと呼んでくれ」との苦しい表明になったのである。そしてマスコミはそれを許したのである。

浅田真央の金メダルと君が代

2008年03月23日 | Weblog
 フジテレビの女子のフイギュアスケート、フリー演技を見た。7時からで、夕食の時間帯である。我が家のその日のメインは「うずらのたたき」。横浜の中華街で気に入った料理の一つである。家族は全員、と言ってもわずか3人だが、その3人の全員が気に入っている。もちろん、本格的な料理は出来ないから、真似事である。
 うずらは使えないから鳥肉と豚肉を使う。その挽肉を炒めて濃いめに味を付ける。この味付けが鍵を握る。それを揚げた春雨と混ぜ、自分でレタスに包んで食べる。いとも簡単な料理だが、旨いし食感もいい。ただ、レタスに包むのが難しい。

 当日は私が作った。せっかくの料理を食べながら、私はテレビに興奮していた。
 安藤が転倒し、悲しい事この上ない表情で棄権を申し出た。事前のコーチとの打ち合わせから、妻とおかしいね、と言いながら見ていた。表情が悲しすぎる。
 そして、その表情の理由が分かった。彼女は肉離れを起こしていた。私は安藤の大胆さがとても好きだ。敢然として挑戦する。時には危なっかしく見えるが、それが魅力でもある。
 期待の浅田がまた派手に転倒した。フェンスにぶつかるか、ぶつかったか。にも拘わらず、最後まで丁寧に滑り、挙げ句の果てにトップに躍り出て、私はすっかり興奮してしまった。中野ももしかしたらメダルか、と何度も言い、家族から呆れられた。

 さて、ゆっくりと夕刊を開いて、私は目を疑った。何と、先ほどの競技の結果が既に新聞に載っているではないか。
 競技はとっくに終わっていたのである。放送は録画だったのである。しかし番組表にはそうは書かれていない。まるで実況放送のようにしか見えない。
 夕刊二紙をポストから取り出して、浅田の滑っている写真がどちらにも大きく載っていたのは知っている。だが、それは前日の競技の結果だとばかり思い、記事を読まなかった。昨日の競技も見ている。

 録画であっても、知らなければ実況と同じように興奮出来る。遅れてはいるが、私にとっては、それは現在だったのである。テレビはそうした楽しみ方も出来る訳だ。
 いつも乗っている地下鉄で、私は急行に乗るのが好きだ。15分の所を10分で行けると言う、わずか5分の節約だが、割合で言えば3分の1になる。が、それよりも、既に出発していた電車に追い付けるのも魅力なのだ。そして目的地に先に着ける。言うならば、わずかではあるが、未来へワープしている。もちろん、自分自身はその時点で現在になっている。もう一人の自分が居るとして、そのもう一人から見れば、未来に居る事になる。
 それと逆なのが録画を現在だと勘違いする事だ。見ている自分は、その現在の時点から言えば、過去にタイムスリップしている。傍からは過去に居ると見える。でも考えてみると、タイムマシーンのドラマなどで過去にタイムスリップして、それが過去と分かるのは、過去の歴史を知っているからだ。知らなければ、現在に居ると思うはずだ。
 いずれにしても、自分が今居る所は現在なのである。この事、もう少し考えを煮詰めてみたい。

 そして優勝を讃える君が代の演奏にも驚いた。何と日本語の歌詞付きなのだ。この競技のためだけに結成されたと言うコーラスグループの歌声である。
 やはり、演奏だけの君が代より遙かに素晴らしい。
 でも、君が代に反対する教師どもは、多分、馬鹿にして見たのだろう。あるいは、テレビを消したか。世界中が賞賛してくれたにも拘わらず、不遜にも彼等は無視したのだろう。それは世界の人々を相手に戦いを挑んだ事になる。なぜなら、私達はあなた達のように馬鹿ではありませんよ、と表明している事になるからだ。

 何をどのように考えようと、自由だ。しかし、全員の雰囲気を壊すような振る舞いをおおっぴらにしてはいけないだろう。やるなら、窃かに自分の内なる世界だけでやるべきである。
 君が代に反対している教師達に、スケーター達のような根性があるはずも無いから、彼等が君が代で表彰を受ける可能性はまるで無い。だから安心なのだが、問題はそんな事ではない。
 彼等に対する報道を世界が採り上げているかいないか知らないが、されているとすれば、日本人は不可解な人種だとしか思われないだろう。その責任はどのように取ると言うのか。

 君が代に反対する教師達の目は世界には向いていないだろう。日本にも向いていない。彼等の目は自分の内側だけにしか向いていないと私は思う。嫌だから嫌だ、と言うヒステリックな感情しか感じられない。まあ、いくら理論的に語ってくれても、多分、私とは言語がまるで違うだろうから、決して通じる事はないのだが。無論、通訳不能の言語だろうし、分かりたいとも思わない。
 私は君が代の「君」とは自分の大切な人の事だと信じているから、誇らかに、高らかに君が代を歌う事が出来る。大切な人、ひいては自分も含む事が出来ると考えている。君が代の「君」が天皇の事だと、誰が決め、どこに発表したのか、そしてそれは日本人の総意で認められたのか。反対する教師達は明らかにすべきである。

ごみの分別がマナー違反のトップとは

2008年03月22日 | Weblog
 駄目原稿の書き直しを夢中でしているので、このところ、ブログを休みがち。原稿を熱心に読んでくれる出版社からは、編集者の目が欠けていると言われている。書きたい事につい夢中になり、読みたい事は何か、に気が回らない。ブログもまたそうでは、自分の満足感のためだけに存在する事になってしまう。大いに反省するのだが、毎回の事なので、意外に難しい。

 マナー違反のワーストテンなるものをテレビで放映していた。どこかの新聞の調査結果だったと思う。テレビ番組の内容は、後で確かめる事が難しいのが難点だ。そこから、いい加減な内容があってもあまり細かくチェックされない危険性があると思う。
 意外だったのはトップがごみの分別を守らない、だった。意外に思う理由は二つ。何でそれがそんなに困る事なのか。そしてどうやって守っていない事が分かるのか。
 京都だったか、十種類以上にも細かく分けている所もあるが、東京などは生ごみ、資源ごみ、不燃ごみにしか分けていない。新聞・雑誌、段ボール、アルミ缶など、売れる資源ごみを分けているのは、居住するマンションの組合の都合らしい。それぐらいである。だから分別しないと言う事態がよく理解出来ないし、一般人がどのようにチェックしているのかが分からないのである。
 燃えるごみと燃えないごみの分別も難しい。包装などに使う粘着テープ、あのゴム製の物は不燃だとどれほどの人が知っているだろうか。今住んでいる所では、今度から油の入っていたペットボトルも資源ごみになると書いてあったが、そう言えば、あの広報は取ってあっただろうか。

 他人の事などほとんど気に掛けていないような人々が、つまりは自分さえ良ければ良い人々が、なんで公共のごみの分別の事でマナーを云々するのか、とても不思議である。そんな事より、私は自転車のマナーの悪さの方がずっと困っている。
 横断歩道のすぐ脇に自転車の通行帯が白線で描かれているのは何のためだと思っているのだろう。自転車に乗って横断歩道は通行出来ない事を多くの人が知らない。処罰される事も知らない。実際に処罰されたりしないから、分からない。
 「自転車」と文字で書き、自転車の絵まで描いてある通行帯が何のために存在するのか、全く考えようともしない。私自身は忠実に守っているから、自転車の通行帯を平気で歩いている歩行者が憎たらしくなる。お前のお陰で、俺は規則を守れなくなるじゃないか。
 右側を平気で走る。狭い道、特に一方通行の道で、車とは逆の方向に走っている場合、私と同じ方向へ、右側を走る先行の自転車があると、対向車はそれを避けようと右側に寄る。つまり、私の方に向かって突進して来る。おい、自転車のお前、何の恨みがあって、俺を危ない目に遭わせるんだ、とどなりつけたくなる。
 無灯火、雨の日の傘を差しての運転、ケイタイの画面に夢中になって、ぶつかりそうになってあわてて方向を変える馬鹿。みんな、他人の安全などどこ吹く風。自分が怪我をしない限り、改めようとは思わないのだろう。いやいや、怪我が治ったら、再び……。

 商店街では路上に大きくはみ出して自転車を置く。私はかなり遠くの人の迷惑にならない所に自転車を置いて、目的の商店街まで歩く。近くのダイエーは広い駐輪場を設けているが、馬鹿な事に、店の裏側にあり、そこからは店に出入りが出来ない。だからそこに置く人はほとんどおらず、皆、店の前と横に置く。店は商売に差し障るから、文句を言わない。自分の商品が売れさえすれば、通行人が危険な目に遭っても気にしない。
 同じ距離にあるもう一軒のダイエーはちゃんと店の出入り口の前に駐輪場があるから、そこではマナー違反はほとんど無い。だから、こちらの店で買いたい。ところが、駄目な店の方が広くて、商品が豊富なのである。多分、だから、自転車の事など構わないのだろうね。
 横断歩道では、すぐ目の前に交番があっても、巡査は知らん顔。

 毎日自転車に乗っているが、マナーを守っている方がずっと少ない。希少価値とさえ言える。自転車のマナーを守っている人がごみ出しのマナー違反に文句を付けているとすると、それがナンバーワンになる筈がないのだが。多分、回答を寄せた人は自転車には乗らない人なのでしょうね。
 そして、他人の事などまるで考慮しないのに、なぜか他人のごみには注意が向くのも不思議だ。
 資源ごみと言えば、白色の発泡スチロールは、大型スーパーなどでは回収をしている。それなのに、自治体は回収をしない。不燃ゴミの多くは発泡スチロールのはずだ。店を出て、店のごみ箱に食品の容器を捨てて行く人が多いが、そんな面倒な事をしてまで、不燃ごみを出したくない、その心理もよく分からない。今の所、住んでいる所ではごみ出しは無料だし。
 ごみ出しのマナー違反を言う人が、環境問題に熱心に取り組んでいるとも思えないし、本当に、どうしてこれがワーストワンになったのだろう。

 ブログを「こたつの猫」に戻しました(gooさんのタイトルは、何と「みかん」なのですが)。未練があり、友人からもどうして変えたの? と聞かれたのがきっかけです。障子が開いて雪が降って来るのが季節に合わないと考えましたが、雪ではなく、花びらだと思えば、いつだって構いません。こたつにしても、別に違和感はありません。居心地の良い所に居る、それだけの事。特にのんびりとしている猫に共感を持っています。私自身、いつも気ばかり焦っているので。
 それに今の日本は寒々しい限り。いやいや、世界も同じ事。宗教の熱心な信者だと思われている人々が平気で殺し合う。そうした人々にとって、神や仏は自分のためだけに存在しているのだろう。世界中で宗教闘争がある。地球を滅ぼすのは宗教かも知れない。
 私はせめて画面の中だけでも平和な所に居たい。

中国のチベット問題

2008年03月18日 | Weblog
 中国のチベット自治区で暴動が起きている。
 中国は旧ソ連と同じく多民族国家である。同じ多民族国家のユーゴスラビアは幾つもの独立国家に分裂した。そして現在、コソボの独立が問題になっている。コソボはまた別の問題があるが、チベットには複雑な問題は無いだろう。単に中国がチベットを支配下に置いているだけの話なのではないか。
 ほぼ同じ言語と言えるイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどはそれぞれ独立国である。やはり同じ言語とも言えるデンマーク、ノルウエー、スウェーデンもそれぞれ独立国家である。
 異なる言語の国家なら、独立していて当然だと考えて少しもおかしくはない。そうした動きがベルギーがオランダ語圏とフランス語圏に分かれる動きにもなっている。
 一つの国家の事だから安易な物言いは避けたいが、中国のチベット支配はどうにも合点が行かない。

 中国その物がそもそもは国盗り合戦をして来た国である。「中国」がそもそもは国名ではない。単に世界の中央の国との尊大な名称に過ぎない。中国大陸には様々な国が興っては滅びた。それらの国々を総称して、「シナ」と呼ぶ。
 「中国」は現在の国名である。だから、「漢」や「隋」などを同じ「中国」と呼ぶ事は出来ない。それでは歴史は正確な事を伝えられなくなる。
 日本の奈良時代、と言うのと、中国の隋時代と言うのは天地雲泥の差がある。日本の場合は、単に時代に過ぎないが、中国の場合は、国なのである。しかし、「中国の」と言う以上はこれが混同してしまう。それでは正確な理解は望めない。

 我々が古い時代の事でも「中国」と呼ぶのは、それがいちいちどの国の時の事かと認識せずに済むからに過ぎない。「古代中国では」などと言うのは、「古代の周では」とか「古代の蓁では」などをひっくるめて言っているに過ぎない。本当は「古代シナでは」と言うのが正しいのだが、今では「シナ=中国」と思い込んでしまっているから、簡単には改められない。
 中国政府は日本が「シナ」と呼ぶのを嫌悪しているが、とんでもない間違いである。ある説には「シナ」は始皇帝の「蓁」を起源とするとあるが、一説には仏典で「シナ」と呼んだとある。欧米でのチャイナ、シーヌ、ヒナなどの語源が何にあるのかが明白になれば、上のどちらが起源かは分かる。
 それに中国政府は欧米諸国が「チャイナ・シーヌ・ヒナ」などと呼ぶ事に何の苦情も呈してはいない。他のどの諸国に対しても「シナ」と関わりのある呼び方に文句を付けてはいない。ひとり日本にだけ、文句を付けるのである。

 国の呼び方はそれぞれの国によって違う。だからオリンピックでは入場の順序が開催国によって違うのである。同じなのは発祥の国ギリシアが先頭になるのと、開催国が最後になる事だけである。
 どの国も、その呼ばれ方に文句など付けない。そんな事をすれば世界中の物笑いになるだけである。その国の文化を尊重すれば、その呼び方に文句を言う筋合いは無い。なのに、中国政府は日本の「シナ」の呼び方に平気で文句を付けるのである。日中戦争の時の名称だ、などと言うのは通らない。「シナ」はずっと古い時代からの呼び名なのである。
 何とも思い上がった国である。それがチベット自治区の存在にも繋がっている。

 ロシアにしても同じである。中央アジアには「○○スタン」と称する国が多い。パキスタン、アフガニスタンなどと同じ名称である。従って、○○スタンが独立国であって何の不思議も無い。それが今まではソ連邦だった。それがそもそもは不思議なのである。
 我々はそうした地域の事には疎い。だから不思議にも思わなかっただけの事である。気が付けば、おかしいと思って当然である。

 私は天気予報の地図を見るたびに、あの知床半島と根室半島の間に割って入っている国後島がロシア領だと言う事に全く納得出来ないでいる。アメリカがメキシコ湾に入り込んでいるキューバを許し難いと考えているのとは訳が違う。
 日本は何でこんなにも腰が引けているのか。何も戦争を仕掛けよ、と言うのではない。だが卑屈になるから、弱い態度を見せるから相手がつけあがるのだ。日本はアメリカにさんざんにもてあそばれている。何しろ、アメリカのポチなのだから仕方が無い。我が家の犬はたった2歳だが、嫌な事は断じて譲らない。あくまでも我を通す。他人に言わせれば、しつけが悪い。となると、日本はしつけが大変によろしいようで。しつけたのは、もちろん、アメリカだ。
 そして、あろう事か、ロシアにさえしつけられている。かつては日露戦争で勝ったではないか。別に軍国主義を唱えるつもりは無い。単に、正論を通せ、と言っているに過ぎない。
  
 結局は、大抵の物を外国に頼っているから弱腰にならざるを得ないのだろう。食糧などはその最たる物だ。中国に多くの食品を頼っているから、へいへいと、言う事を聞いてしまう。今度のギョーザ問題はいまだにどこに原因があるかは明確になっていないが、この事件をきっかけに食糧の自給政策に本腰を入れれば良いのである。
 国は八郎潟の干拓で農地を増やした。しかしそこで米を作ってはならない事になっている。では何のために莫大な費用を投下して干拓をしたのか。
 米が余って、農家を窮地に陥れるのを防ぐためとも考えられているが、外国からの食糧輸入の妨げになる事も恐れたのではないのか。外国の圧力に負けて。何しろ、平気で東京の地下鉄にフランス語の名前を付ける国柄である。都営の地下鉄の倍ほどの路線網を持つ東京地下鉄株式会社の路線名を「東京メトロ」と呼んで恥じる所が無い。マスコミ先導で喜んで、そう呼んでいるのである。

 私は道を聞かれても、「東京メトロ○○線で」などとは口が裂けても言いたくない。「東京地下鉄」と言っても、通じないだろうから、単に○○線で、と言う。理屈ではなく、「東京メトロ」と言うのが恥ずかしいのである。私の第二外国語はフランス語である。高校の時からのフランス語である。英語よりも好きな言語である。でも「東京メトロ」は恥ずかしくて口に出来ない。東京メトロの事は前にも言っているが、何度でも言いたい。

 「国家の品格」と言う本がベストセラーになったが、いまだに日本は品格を持てないでいる。第一に、政治家に品格が無い。品格って何だと思いますか?
 私は他人に対する思いやりだと思っている。みんな、自分勝手で、自分だけが大切なのである。

救急病院はどこまで救急患者の受け入れが可能なのか

2008年03月15日 | Weblog
 5日ばかりブログを休んでしまいました。売れない原稿の売り込みに一所懸命になっていたもので。
 3月11日、総務省消防庁が07年の救急搬送の受け入れ状況に関する実態調査の結果を発表した。重傷以上の傷病者の調査対象41万1625人のうち、受け入れ病院が決まるまでの照会件数が4回以上は1万4387件、6回以上は5398件、11回以上は1074件だった。
 「受け入れ病院が決まるまでの照会件数」だから、それぞれの回数だけ受け入れを拒否された訳だ。最高は吐血で大阪市消防局が搬送した男性で、救急病院などに62回も断られた、と言う。この回数はあまりにも異常だ。どのような依頼事でもいいが、62回も断られてめげない人がいるだろうか。正常時でもとても無理だ。それが吐血と言う緊急事態での事なのである。
 割合で言えば、4回以上で3.5%と低いが、1万人以上と言う数は決して少なくはない。約1万5千件とすると、毎日全国で42人が4回以上受け入れを断られている計算になる。
 何度も断られて時間が掛かり、結局は受け入れられた病院で亡くなったケースもあり、そうした事がニュースになる。

 受け入れ拒否の理由は、設備・資機材の不足、スタッフの不足などの処置困難、手術・患者対応中、だと書かれている。これは毎日新聞の記事である。設備が足りないか、人材が足りないかのどちらか、あるいはその両方である事は間違いない。
 私はつい最近、ベッドが無くても応急の場所で良いではないか、とブログで書いて、顰蹙を買った。「空きベッドが無い」イコール「設備・人材が無い」のであって、何を馬鹿な事を言うのかと。まるで昭和天皇のA級戦犯合祀のメモの時の話みたいになってしまった。
 昭和天皇がA級戦犯合祀を不快に思い、「あれ以来、私は(靖国神社に)参拝していない」と言われたとのメモが残っていた。それをどう思うかと聞かれて、「昭和天皇はお亡くなりになっているから、真意の確かめようが無い」と答えた、靖国問題に関わっている国会議員がいた。あほか、と私は思った。その「あほ」に私もなってしまった。
 言い訳になるが、ベッド数一杯に患者が居て、担当の医師や看護士もまた手一杯だとは思わなかったのだ。ベッド数は病院の広さによって決まる。しかし人材は広さには限定されないと思っていた。ベッドが空いていて人手が無い病院は無いだろうし、人手以上にベッドを置くのも無駄だろう、と思った。それは経営の基本だろう。
 もちろん、ベッド数を大幅に上回る人手を用意しているのも効率が悪い。
 「医は仁術で算術ではない」と書いて、また叱られた。これは医師の自戒の言葉であり、患者が口にすべき言葉ではないと。これは全く知らなかった。多くの国語辞典は単に「仁術=(儒教の最高道徳たる)仁を行う方法」くらいの説明しかしていない。「広辞苑」は「仁を行う方法」とひどく素っ気ない。どの辞書も「医は仁術」の用例しか載せていない。
 ユニークと言われている「新明解国語辞典」は次のように説明する。

 仁を具現するという、医術。「医は仁術〔=損得を度外視し、奉仕的に治療することが期待される医道の称。最近は職業人としての意識が先に立ちすぎるため、一部に『算術』という批評もある〕」

 患者に奉仕しろ、などと言うのはとんでもない事だから、「医は仁術」とは言うべきではない、とは納得出来る。ただ、「医は算術にあらず」と言いたい時に、「仁術」抜きでは話にはならない。どうしたら良いのだろう。
 「算術ではない」と言いたいのは、これが人の命に関わる仕事だからだ。当然に、算術を無視しろなどと言うのではない。しかし算術にこだわらずに医療が出来る制度が欲しいと言いたいのである。それは国が援助をすれば実現出来るのではないのか。と言うよりも、国がすべき仕事であると思っている。

 救急体制ももちろんその一つである。素人が、常に診てもらう立場にしか立てない人間が考えるのは、救急指定病院なら、緊急の要請に応じるだけの余裕があるのだろう、である。そう期待している。それが多くの場合にどこも既に救急患者を受け入れているらしく、それ以上は受け入れられないのだと言う。たまたま悪い事が重なる事はある。しかしどこもかしこも、その日に限って救急患者を受け入れたばかりだ、などと言う可能性は高くはないだろう。
 搬送する消防本部はその日、どこにどのような救急患者が搬送されたかは知っているはずだ。少なくとも自分の管轄内の事なら知っている。インターネットの時代である。管轄外だって、そうした情報が随時入っていて不思議ではない。そのような態勢も無いのか。

 一方で、医療ミスだと訴える患者が多いと言う事情も考える必要がある。初めての患者を、それも重症の患者を、何とかやりくりして受け入れて、万一亡くなりでもして、訴えられる恐れがあるのなら、誰もそんな事をしたくはない。精一杯の治療をしたのにも拘わらず、救えない事は十分にあり得る。そうした事への患者側の理解が足りない事も災いしている。
 ただ、何度も受け入れを拒否されている患者側にも言い分があるだろう。もっと早く受け入れてくれてさえいれば、そんな重大な事態にはならなかったはずだ、と。受け入れてくれた病院と拒否した病院が全く違うのに、患者対病院との事で、同一視されてしまう事は無いのか。
 何でも訴える、との風潮も苦々しい。アメリカ辺りの影響か。近年は訴訟費用(印紙税)が安くなったので、結構簡単に訴える事が出来る。私は20年以上も各種の訴訟の判決文を読む仕事をしていたが、医療に限らず、何でこんな事を訴えるのかと思えるような訴訟がある。駄目でもともと、と考えているらしい。昔はこんなにも相手ばかり責めるような国ではなかったはずだ。自分の責任も認め、もっと互いにいたわり合っていた。
 お互いに信頼し合ってこそ、この世は成り立っている。

 今年の1月2日、大阪で交通事故に遭った男性は、6カ所目の千里救命救急センターに受け入れてもらえるまでに1時間掛かっている(1月4日、毎日新聞)。救急隊が事故現場に到着したのは午後10時33分。同センターに運び込まれたのは11時35分。それから2時間後の翌午前1時4分過ぎ、出血多量で死亡した。男性は事故直後は「大丈夫」と話していたと言う。素人考えでは、事故後にすぐに手当を受けていれば、助かったと思う。

 断った救命救急センターの一つでは、「通常の休日と同じ医師3人の当直体制で、専門医二人と研修医一人だった。救急隊から2度の受け入れ要請があったが、別の重症患者二人の治療のため、2度とも受け入れを断らざるを得なかった」と話している。
 不思議なのは、救命救急センターの当直が二人の専門医と一人の研修医だとの事である。一刻を争う場に研修医、と言うのが解せない。当直の専門医二人が二人の重症患者の治療に当たっていた。だから手一杯である。
 しかし救命救急センターなのだから、手一杯になったら、即座に専門医を補充出来る態勢があってしかるべきなのではないのか。それとも救急のベッドもまた一杯だったのか。つまり、この救命センターにはいざと言う時のベッドは2つしか無く、それに合わせて、専門医が二人当直しているのか。これは「府済生会千里病院併設の千里救命救急センター」だと書かれている。つまり大阪府の経営である。

 そして、この「別の重症患者」と言うのが今一つはっきりしない。
 それが救急で運ばれて来た患者なら、それで空きベッドも医師も手一杯になるのは分かる(緊急用の空きベッドは2つしか無いとして)。だが、もし前から入院中の患者なら、担当の医師が付いていて当然だろう。そうした患者以外の救急患者を受け入れるのが救命救急センターのはずだ。そうした点を記事はもっとしっかりと書くべきだ。これでは我々はどのように判断して良いのか分からない。

 もう一つ分からない事がある。救急車が現場に行くのを断ったとの話をあまり聞かない事である。この事故の場合、事故は午後10時20分頃に起こった。救急隊の到着は10時33分である。13分ほどで到着している。救急車は搬送が終われば任務終了だから、手は空く。何回でも搬送出来る。しかしこの事故のように、1時間も患者を乗せて走り回っていれば、その間は使えない。当日のその時刻には5カ所の救命救急センターが断ったのだから、それだけどこも急患で一杯で、だから救急車もまた大忙しだったはずだ。
 この事故は東大阪市で起きた。このニュースを発表したのが大東市消防本部とあるから、そこの救急車である。記事の地図によると、事故現場は東大阪市の北のはずれで、大東市へはすぐの所らしい。大東市消防本部も同市の南側で東大阪市に近い所にある(区分地図帳による)。そこからは幹線道路ですぐ東大阪市である。現場は東大阪市内の市道とある。記事の地図と区分地図帳を付け合わせて見ても、この幹線道路と市道とが同じかどうかは分からない。だが、救急隊と現場とが近いから大東市の救急隊が駆け付けたはずだ。

 救急隊は補充が利くのに、なぜ救急センターや救急病院は補充が利かないのか。一人の患者に対しての手の掛かり具合が格段に違うのは分かる。分かるが、それが病院の姿である以上、それに応じた救急態勢を持ってしかるべきではないのか。もちろん、これは国としての問題でもある。そうした事を、なぜ新聞は分かり易く伝えてはくれないのか。
 この記事の最後には次のようにある。
 
 3次救急を担う救命救急センターは、救急患者の「最後のとりで」と位置づけられている。

 この「3次救急」が私には分からない。記事を改めて最初から最後まで読み返しみても、分からない。ここで初めて出て来た言葉なのだ。この記事は二人の記者が書いている。きちんと記者名も書かれている。この記事には目を通したデスクがいて、また校閲者もいる。それほどまでに「3次救急」は自明の言葉なのか。

 この記事は21行×4段半だ。そこに「大阪府の救命救急体制」と題した地図も載っている。事故現場と千里救命救急センターの場所も明記されている。同センターのほかに、10カ所の救命救急センターがある事も分かる。
 見出しは「救命センター5施設が断り 事故の男性死亡」である。
 受け入れを断られたがために死亡した、との流れで読者は読む。そうであるからには、なぜ施設は受け入れを断らざるを得なかったのかを、もっと分かるように書くべきだろう。これでは全面的に救命センターが悪いような印象を受けてしまう。
 そこから、マスコミは患者の味方ばかりして、医療側の事情を少しも考慮していない、との批判も生まれている。

 現象ばかりをいくら克明に追っても、実態は分からない。追い方が表面的だからだ。私が疑問に思ったような事は、本当は誰もが分かっていて、単に私だけが分からない事なのか。それなら、もう一度私は根本から勉強をし直す必要がある。だが、私は記者もまた勉強をし直す必要があるのではないか、と疑っている。

ホンネを探れ・国内航空路線の廃止と企業の利益

2008年03月09日 | Weblog
 鉄道と航空が競争する事が果たして良い事なのか、と考えた。それほどまでに時間を争うのかと疑問を呈した。速さではなく、それぞれの持っているサービスの内容で競うべきではないか、と。
 しかし資本主義社会の競争原理では、それは成り立たないらしい。赤字になってまでする事ではないとは言える。だが、その赤字だが、例えばJRで言えば、新幹線で挙げた利益を赤字のローカル線に回す事によって、と言うか全体で考えれば赤字ではなくなるのではないのか。それで地方の足も確保が出来る。JRがそれを考えていない事は明らかだが。
    *
 次に挙げるのは航空路線の廃止である。
 07年1月13日、JALが国内8路線を廃止するとの記事がある(毎日新聞)。十数路線を廃止する予定らしいが、その内、次の8路線の廃止が明らかになった。

新千歳―三沢 
新千歳―松本 
名古屋―新北九州
中部―長崎 
神戸―仙台 
神戸―熊本 
福岡―青森  
福岡―花巻 
 これについて記事は次のように言う。

 神戸―仙台と中部―長崎を除く6路線は、全日空などが運航していない単独路線だが、新幹線との競合もあって将来利用回復も難しいと判断した。

■問題 記事の言う6路線は新幹線と競合していると思いますか。
●ポイント きちんと確かめて読もう。

■見えて来た事
 問題の6路線について、新幹線の運行区間を記述する。
新千歳―三沢 新幹線=無し
新千歳―松本 新幹線=八戸―大宮(東北新幹線)・大宮―長野(長野新幹線)。長野―松本(約63キロ)は在来線。
名古屋―新北九州 新幹線=名古屋―小倉。記事は正しい。
神戸―熊本 新幹線=新神戸―博多。博多―熊本(約118キロ)は在来線。
福岡―青森 新幹線=博多―東京―八戸。八戸―青森(96キロ)は在来線。
福岡―花巻 新幹線=博多―東京―新花巻。記事は正しい。

 右のように、「新幹線との競合もあって」と言えるのは2路線のみである。3路線は在来線も使わなければ行けない。新千歳―三沢は新幹線とは全く縁が無い。
 確かに採算は悪い。新千歳―松本を除く7路線の06年度上半期の搭乗率は採算ラインとされる6割を下回っていると言う。
 だが運輸機関は単なる営利事業ではない。だから新路線の開拓も国からの許可が要る。
 そこには競争過多の排除もあるだろう。言うなら、国に守ってもらえる。それなのに採算しか考えない。何も企業全体が赤字になっても構わないなどと言っているのではない。赤字路線には黒字路線からの収益を回し、それでも全体で赤字になるのなら廃止もやむを得まい。だが果たしてそうなのか。

■読み方のポイント
 日常生活にすぐにも差し支えのある話ではない。搭乗率から言っても、差し迫った話とは言えない。しかし、それで当然だ、とでも言うような記事の書き方はおかしい。新聞は新幹線の開通で在来線が廃止されたり第三セクターに移管されたりしても大騒ぎはしない。地元民の先頭に立って反対する訳でもない。なるほど、公共のためとは言うが、新聞もホンネは利益の追求にあるのではないかと疑ってしまう。疑問を持たなかった人はいい加減な読み方を反省すべきだろう。
 この記事の場合、何と内容の三分の二が間違っている。そして、これらの路線が単独路線だと、記事は明確に書いている。それなのに廃止である。それは採算が悪いからだ。理由はそれしか無い。だが、記事は「新幹線との競合もあって将来の利用回復も難しいと判断した」と言う。新幹線との競合と言われれば、これは常に話題に上っているから、良い悪いは別にして、なるほどと思ってしまう。
 ところが、「なるほど」ではないのだ。新幹線との競合はわずかに2路線のみだ。それ以外は新幹線延伸も見込んでの話らしいとは思うのだが、その可能性もかなり先の事だ。それにいくら将来は延伸されると言っても、この話は現段階での話である。
 更にその1週間後、その利用率の明細が載った。福岡―花巻は59・2%である。6割と言う採算ラインにわずか0・8%及ばないだけである。6割の採算ラインとはそんなにも厳密なのか。そうした疑問は同紙には全く無い。

■記事の内容を追究する
 採算ラインは搭乗率6割とある。運賃収入の6割は人件費や燃料費、機体の維持・修繕費、機体の減価償却費、空港使用料、乗客へのサービス料などを含むのだろう。搭乗率が100%になれば、4割が利益になる。利益率は決して低くはない。
 この6割の経費だが、問題は簡単ではなさそうだ。同月16日の同紙には「リストラが不十分だ」との記事がある。「新鋭機購入や借金返済のための負担もあり、高コスト体質からの脱却と競争力強化が不可欠になっている」とも書かれている事から見ると、体質的に経費が掛かり過ぎているとも見える。
 リストラについては、同社の3千人の社員削減に対して、国交省関係者の「5~6千人は必要」との意見もあると言う。「人員削減は地上職が中心とみられ、給与が高い操縦士は減員が難しくコスト削減効果が不透明との指摘もある」と言うのだから、5~6千人の削減はどうやら実現不可能らしい。大事な操縦士を必要以上に減らされては危なくて仕方がない。
 こうしてみると、搭乗率6割が採算ラインとの話も疑いが生じてしまう。外部が要求しているリストラをきちんと実施すれば、採算ラインはもっと下がるとも考えられる。
 もっとも、リストラには路線の廃止も入る。しかしそれは無駄な人員などのリストラの後、最終的なリストラでしかあり得ない。路線廃止の対象になっている地方自治体から強烈な反発があるのは当然である。
      *
 JALは元は国営会社であった。国民へのサービスとして必要と認めたから国営事業になった。それが、国が助けなくてもやって行ける力が付いたと見たから民間会社になった。競争によるサービスの向上も目的だったはずだ。同じ方向で国鉄も民営になった。郵政も同じだ。だがJR各社に見るように、常に採算のみが目的になり、赤字路線は容赦なく切り捨てられる。民営化の真の目的を大きく踏み外している。果たして郵便事業は安心なのか。06年11月25日の同紙には、05年度で全国の郵便局の郵便事業が94・5%の割合で赤字であると書かれている。本当に民営化は安心なのか。
 そしてJALは経費高の体質のままに赤字路線を廃止しようとしている。そうした事への批判は同紙の記事からは窺えない。「給与が高い操縦士は減員が難しく」とあり、それは当然だと思ったのだが、2月7日の同紙には「高給批判の強い操縦士の乗務手当にも切り込めなかった」との文言がある。減員ではなく高給過ぎる給与を下げれば済む話のようである。それが約1箇月前には同紙には分からなかった。
      *
 新聞を批判してみても始まらない。問題は利益追求と庶民の足の確保との釣り合いの話なのだ。廃止する路線にしても、採算ベースを下回ると言うが、その絶対額がどれほどなのかも大きな問題になる。単に割合で言うのは非常に不明確だ。
 5千万円の赤字路線が二つあっても、1億円の利益が挙がる路線があればトントン。企業はなぜ利益を挙げなければならないのか。投資に対する配当は必要だ。企業の発展に向けての資金も必要だ。だがそれ以上の利益はどうして必要なのか。それが資本主義なのだよ、と簡単に言われてしまうのは納得出来ない。
 利益とはあくまでも実際のお金の事である。精神的な利益ではない。そうなると、お金が一方からもう一方へと動く。動いて来た方はお金が増えるが、動いて行ってしまった方はお金が減る。客のお金が企業に回るだけの話である。もちろん、それは品物やサービスの対価としてである。その品物やサービスに掛かったお金だけがやりとりされる。それで良いではないか。それが、余分に巻き上げる。
 価格競争とは、その余分なお金の巻き上げをどこまで少なく出来るかの競争である。同じ価格にしても、効率の良い企業ならそれが無理なく出来る。だが寡占的な企業しか存在しなければ、企業側の言うがままになってしまう。
 採り上げたJALの廃止路線は単独路線である。航空業界は寡占状態である。
      *
 民営の良い所は客に目が向く事にある。国鉄は自分達の事しか考えていなかったから赤字の垂れ流しになった。毎日新聞社から『JRはなぜ変われたか』との本が出ている。JR東日本の顧問が著者だ。広告では、1日52億円の赤字から1日26億円の黒字へ、とある。つまり、1日26億円×3=78億円も利益が増えた事になる。
 それがまるまる利益に回っていると言う事は、無駄をしていなかったとすれば、すべて乗客からの収入になる。そんな馬鹿な話は無い。そんなに乗客が増えた訳も無いし、運賃が上がった訳でもない。
 これが国鉄として体質改善が出来た話なら、この1日26億円もの利益はもっと少なくても良いはずだ。そんなに儲かるのなら、運賃を下げよ、との要求が出ても当然である。国は国民の幸せのために存在するのであって、国が儲ける必要は無いのだ。
 それが民営だから何の文句も言われない。52億円の赤字を26億円の黒字に変えたと得意げに話す事ではないはずだ。何よりも、52億円の赤字を恥じるべきである。申し訳なかったと謝るべきである。私は同書を読んでいないから分からないが、多分、そんな内容のはずがない。
 こんな駄目な所をこのように改革しましたよ、といった風な本でなければ売れそうにない。ビジネス書がもてはやされているのは、そうした事が書かれているからだ。しかし、そんなにも駄目な所がある事がそもそもはおかしいのだ。同書の広告は言う。

 「現場」の隅々に精通したJR東日本の技術系トップが振り返る、「官」の臭いから脱却した真の民営化への20年。

 この宣伝文から、あらゆる所に蔓延していた「官の体質」からの脱却だと想像出来る。単に技術だけの問題ではなかろう。技術だけで78億円も生み出せるとしたらもの凄い事だ。
 「官の体質」とは言わずと知れた事。「休まず、働かず」だ。
 落ち込んでいる人を励ます本が売れている。私も読んでいる。怠けているのではなく、消極的な性格になってしまっている人にとって、もっと積極的になれ、と励ます本は有難い。
 だが、国鉄は違うだろう。こちらは正真正銘怠けていたのである。もしもそうではなく、精神的に消極的だった事を積極的にやるようになったのだ、と言うのなら、1日52億円に値する消極性が1日78億円に値する積極性に変わった事になる。こんな素晴らしい事は無い。
 私は何冊もの積極性を説く本を読んでいる。しかしこんな劇的な変化を伴う事は書かれてはいない。何よりもこれだけ具体的に金銭に換算出来るような話など一つも無いのである。積極的になって大きな利益を挙げたとの話はしていても、単に結果としてそうなった、と言うだけで、何をどのようにして幾ら儲けた、などの話にはならない。なぜなら、そんな話は出来ないからだ。そんな話はまた別の話なのだ。
      *
 飽くなき利益の追求が社会を悪くしている元凶だと思う。ほどほどに生きて行ければ良いではないか。もっとも、そのほどほどが難しい問題ではある。だが、少なくとも巨富を得る事ではないだろう。どんなに繁栄していようが、「おてんとさまと米の飯」が回って来ないような人々が存在している限り、幸せな世の中とは言えない。

JR西日本とJR東海・宣伝と謝罪の関係

2008年03月08日 | Weblog
 昨日の続きで、JR西日本の事故と宣伝の関係について。

●お詫びをするなら、宣伝は出来ないのか
 普通はそのように考えられる。頭を下げながら、さあ、いらっしゃい、は成り立たない。それが我々の感覚である。
 しかし、本来、「お詫びと反省」と「本業」とは相反する事ではない。JR西日本は「お詫びと反省」をしながらも、自社の仕事をするのに遠慮は要らない。むしろ、より誠意のある仕事をする必要がある。「他の仕事もすべて自粛せよ」と言うなら、何よりも福知山線の運行再開を自粛すべきである。
 しかしそうは行かない。運行再開は沿線住民の足の確保として必要だ。では、観光宣伝は不謹慎なのか。通勤・通学や買い物にJR西日本を利用するのと、観光でJR西日本を利用する事に違いがあるか。観光が楽しみだと言うのなら、買い物はどうなのか。そして通勤や通学も楽しみでしている人だって大勢いる。何で観光だけをいけないとするのか。
 JR西日本が浮かれ騒ぐのは自粛すべきだ。だから忘年会や新年会などを自粛するのなら分かる(本当に自粛したのでしょうね。そしてこの自粛は被害者の傷が癒えるまで続けなければならない)。しかし観光は立派な仕事だ。JR西日本が謝るのと我々が楽しみを奪われるのを一緒くたにされるいわれは無い。そして観光を仕事としている人々から、その仕事を奪う事も許されるはずが無い。
 「倉敷・岡山観光」を自粛すると言うJR西日本の態度は、まやかしにしか見えない。これこの通り、反省の意を表しています、とのポーズにしか見えない。それなら、あの「ハンセイ!」の猿にだって出来る。ポーズだからこそ、JR東海はその代役を平気な顔をして引き受ける事が出来るのだ。
 ただ、お詫びと宣伝は両立するのかしないのか、はとても難しい。両立しないと考える方が、常識としては正論だろう。
 しかしその場合に、観光は慎むべき行為だと言う事になってしまうのは避けるべきだ。宣伝の自粛イコール観光は駄目、ではない。

●事故を起こした会社がするべき事とは
 これは鉄道は何をすべきか、事故を起こしてしまった会社は何をすべきか、の問題である。もしJR西日本が宣伝は自粛すべきだと考えたのであれば、JR東海が「のぞみで西へ」の宣伝をする事をやめて欲しいと言わなければいけない。「のぞみ」のJR東海の管轄内での停車駅は名古屋・京都・新大阪だけである。速い事を除けば、それは「ひかり」と同じである。それを「のぞみ」ですれば、必然的にJR西日本の管轄内の宣伝になるのは誰にだって分かる。
 そしてJR西日本は観光業務にはきちんと精を出さなければいけない。宣伝を自粛してどこまでそれが可能なのかは、同社の腕の見せ所だったはずである。

●朝日新聞のホンネ
 JR東海がJR西日本と繋がっている事を無視して、他社宣伝だと言うのを見ると、同紙は本当にこれを他社宣伝だと思っているらしい。JRは正真正銘、分割されたのだと、考えているらしい。
 しかし同紙の考えはどうにも分からない。と言うのは、この記事で面白い事がある。何だつまらない、と思ってはいけません。今回の同紙の記事では、何と「福知山線(宝塚線)」と表記しているのである。同紙としてはまさに画期的な表記だ。同紙は事故直後からずっと、「福知山線」を「JR宝塚線」と呼び続けている。他紙がどうであれ、テレビがどうであれ、自社の信念を貫き通している。その呼び方が首都圏版の読者には通用しない事など、全く考えてはいない。この呼び方はJR西日本がその経営方針から始めた呼び方であり、決して利用者のためではないのだ。
 更に、このほんの1週間前の8月3日、同紙に都営地下鉄の小さな記事が載った。ATS(自動列車停止装置)を新型にするとの記事で、そこに「福知山線の事故後に」の言い方がある。私が同紙でこの表記を見たのは、少なくとも気付いた限りではこの2回だけ。その後はまた「JR宝塚線(福知山線)」に戻ってしまった。
 こうした表記の不統一は非常にみっともないし、同社の方針を疑わせるに十分である。単なる言葉の表記ではないのだ。JR西日本の経営方針と密着している路線名表記なのだから、そこでふらふらされたのでは、読者はたまらない。当社はJR西日本の方針をもっともだと思うので、同社の宣伝している愛称を使っているのです、とはっきり言えば良いのである。でもどうせ正しく書くのなら「福知山線(JR宝塚線)」である。「宝塚線」は阪急電鉄が本家である。
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 もう一つ。こちらは正真正銘つまらなくはありません。
 引用の記事には「脱線事故でJR西日本がPR自粛に追い込まれたことから」とある。この受身の言い方は、まるでJR西日本が被害者のような表現になる。「受身」とは「自分から積極的に出ないで、他から動作や攻撃を受ける」である。どの国語辞典も同じような説明だ。こうした言い方をすれば、なぜ自粛をするのかの明解な考え方抜きで話を進められる。

●「PR」と「自粛」の関係を考える
 「PR」の意味は、「企業体や官庁が、事業内容などの公共的価値を大衆や関係方面によく知ってもらい、その信頼・協力を強めようとする宣伝広告活動」とか「広く公衆に、事業(営業)内容などを分かってもらう」のように、国語辞典は説明をしている。だから、事故を起こした会社だから自粛しなければならない、と言う事にはならない。
 事故を起こした会社なら、再発防止策に全力を尽くしているとPRする必要がある。被害者にはこのように誠意を持って対応しており、安心して利用してもらえる鉄道にするためにこのように頑張っている、とPRする必要がある。自粛をしてはどうにもならない。
 自粛だと言うのは、PRが客寄せだけになっているからだ。旅行を楽しみにしている人や観光業者の事など微塵も考えていない観光宣伝、つまり自社の鉄道の乗客を増やす事だけを考えている宣伝だからだろう。
 しかしながら、前述したように、自粛しているはずの宣伝をJR東海が代わってしている。JR西日本が出来ないから、JR東海がする。あるのはそれだけ。そこには、なぜ出来ないのか、しなければならないのは何なのか、と言う一番大切な考察が欠けている。きちんと考察していればJR東海は代役など務めたりはしないだろう。
 JR西日本の経営方針に事故の原因があると同紙が考えるなら、「JR東海が他社宣伝」などと、脳天気には言えない。本当にJR西日本の責任を追及し、JR西日本自身が事故の原因を作ったのだとの認識があるのなら、この記事は批判の記事になるはずである。
 JR西日本は非常に重要な事を忘れている。
 被害者の損害賠償には莫大な金が要る。だから乗客を増やす事も必要になる。他社の乗客を奪うのではなく、独自に乗客を増やすには、観光宣伝しか無いだろう。
 それを自粛するJR西日本は本当に謝罪の気持と事故再発防止を真剣にする気持があるのかと大きな疑問を抱かざるを得ない。そしてJR東海がそうしたすべてを理解して乗り出したとは思えない。もしそうなら、朝日はその事を特筆大書してもおかしくはない。
 損害の賠償金の財源は本当に、どこにあるのだろう。
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 あれだけの事故を起こしておいて、その後のJR西日本の真摯な取り組みは一向に見えては来ない。ただ、福知山線のダイヤはほんの少々手直しがされている。これは前述した。
 06年4月18日の朝日の夕刊は、新幹線の往復料金が、ネットで切符の予約をすると行きと帰りとで支払額が違う現象がしばしば起きる事を伝えている。東京都区内―大阪市内で210円の差が出る。その理由がJR東海とJR東日本の「不仲のツケ」だと言う。
 こうなるとJRは全体で一社ではなかった。JR東海とJR西日本は東海道新幹線と山陽新幹線の直通運行を通して仲が良い。しかしJR東海とJR東日本の直通は無い。しかも東日本の牙城である東京駅から発着する東海道新幹線はJR東海なのだ。「仲良く」は無理だろう。結局、自分達の都合だけなのだ。そうであれば、JR東海とJR西日本の仲の良さもどこまで本気なのかと疑ってしまう。まあ、私の嫌な性格なのでしょうけど。

●この記事のポイント
 長くなったので、焦点がぼけてしまったかも知れない。「ヒント」も兼ねてまとめる。
 この記事のポイントは、JR西日本が事故で宣伝を自粛したから、その代理をJR東海が買って出た、と言う事だけである。それをそのまますらっと読めば何でもないような記事である。
 ただ、よくよく考えてみると、この記事が言っている事は何が重要なのかがまるで分からない事に気が付く。言っているのは次の事だけだ。
(1)JR東海がJR西日本管内の岡山・倉敷観光の宣伝を始めた。
(2)他社宣伝は初めてである。
(3)東海道・山陽新幹線は、「のぞみ」の増発で航空機からのシェア奪回を図っている。
(4)JR西日本は事故で宣伝を自粛している。
 これは取り立ててニュースにするような出来事とは言えない。(1)(2)は単なる企業の宣伝の話である。公共的なニュース価値がある訳ではない。(3)(4)も同じで、単に企業の経営方針の話である。何も麗々しく目立つような記事にする必要は無い。
 しかし、本書で検討したように、ここには重大な様々な事実が隠れている。それを発掘するなら記事の存在理由はある。しかしそうではない。読者の読解力次第なのである。
 更には(3)にはまた別の問題がある。航空機とのシェア争いが適切か、である。航空機の所要時間は1時間前後。それに対してJRは3~4時間前後になる。競争にはならない。だが、航空機は空港へのアクセスや搭乗手続などの問題があり、総合的な所要時間や便利さを比べれば競争が可能になる。
 本当は、競争はそうした事でするべきだろう。JRが所要時間を10分詰めるために、どれほどの最高時速を出さなければならないのか。それが安全性といかに逆行する要素になるのか。もちろん、技術の進歩には驚く。だが、その進歩した技術は何よりも、安全性の確保にこそ向かうべきである。
 鉄道が航空機と速度で競えない事は誰でも知っている。それぞれにするべき仕事がある。「飛行機? あれはビジネスマンの乗物だよ」と言った外国の大富豪の話がある。時間に追われている人々が居るのは知っている。しかしすべての航空機利用客がそうなのではない。新幹線だって同じである。少しでも速く、は技術者としては当然の目標なのだろうが、何で、少しでも楽しく、は選択肢が無いのだろう。
 私の住まいの最寄りの駅は地下鉄だ。だからどうしても地下鉄に乗る。息子が幼かった時、「おそとの見える電車がいいー」といつも言われた。私自身、たまにJRに乗ると、心の底からほっとする、と言うか、ああ生きてるんだな、と大袈裟ではなく、そう感じる。地下鉄の閉じ込められた空間には、単に目的地に向かう人々の姿しか無い。しかし外を走る電車の車内には、外界との繋がりがある。しかもその地下鉄には急行電車が走っていて、地下鉄路線内で幾つかの駅を通過するのである。慣れると、一つ一つ止まっているのが嫌になる。15分の所をわずか5分短縮するだけなのだが、その5分に大きな価値を見出してしまう。そしてその急行のダイヤに合わせるために、私は余分な時間を使っていたりする。単に急行に乗りたいだけなのだ。
 世の中が、寄ってたかって急げ急げと言い続けている。
 各地で観光の目玉としてSLが復活している。路面電車の見直しもされている。
 話がそれたが、「のぞみ」に旅情は無い。新幹線は「線」ではなく、「点」になっている。「点」の周囲に住んでいる人にとってはそれで良いだろうが、それよりずっと多くの人々が「線」沿いには住んでいる。
 新幹線や空港は地方の復活になると我々は思っていたが、どうやら、地方の活力を失わせているのではないのか。強い物、大きい物、速い物、目立つ物、そうした物だけがちやほやされて、日本全体が沈没して行く。
 長くなっているが、もう少しお付き合い下さい

●国営事業と民営事業
 航空も鉄道も国営から民営に変わった。そこでそれらの企業が目的とする事の第一が利益を挙げる事になった。航空の理念も鉄道の理念も関係が無い。あるのは利益だけである。だから新幹線が開通すると在来線が見捨てられる。
 競争は良い事だ。国営企業としての安住の境地からは国民への奉仕などは生まれない。自分達への奉仕になっていたから、国民は国鉄の民営化に賛成をしたのである。そしてその期待は見事に裏切られている。脳天気なある大臣が、国鉄は民営化してサービスが良くなった、などと寝言を言っている。このサービスは当然の仕事なのであって、本分を取り戻しただけに過ぎない。
 その裏で、大切な国民の足を奪っていると言う、犯罪行為にも似た事にはまるで気が付かない振りをしている。
 競争とはサービス競争であるべきなのだ。利益競争などをすれば、サービスが低下するのは目に見えている。航空機も鉄道もそれぞれの本分を守る事だけに邁進すべきなのである。その本分を忘れているから、思い掛けない大事故にも遭遇するのである。