夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日本の平和度指数が世界第3位だって

2010年06月28日 | 政治問題
 確かに日本は平和である。と言うか、平和ぼけしている。だからすぐ隣に怖い国々が控えているのにも拘わらず、相変わらず脳天気である。そして近隣諸国の事もよく知らない。だいぶ前にビルマがミャンマーと国名を変えた。日本は最後まで「ビルマ」を使っていた。それを新聞が、よその国ではとっくの昔にミャンマーに変えているのに、日本だけ遅れている、と非難するような書き方をした。そして一斉に「ミャンマー」になった。
 ところが、そのミャンマーは民主主義などくそ食らえの独裁軍事政権だった。「ミャンマー」の国号はその独裁軍事政権が名乗った名前だったのだ。つまり、日本のマスコミはその独裁軍事政権を公認し、その肩を持ったのだった。アウンサン・スーチーさんが軟禁状態に置かれているのを知っていながら。
 そうした日本が世界第3位の平和国家だと言うのである。犯罪率が低い事と、防衛費の占める割合が国内総生産の1%にも満たない事が評価されたのだと言う。では、犯罪率は置くとして、日本と総人口がほぼ同じで、国内総生産が10倍もある国がその1%にも満たない軍事費だったら、やはり平和度が高いと言うのだろうか。軍事費の絶対額は日本の10倍もあると言うのに。

 アメリカが85位で、「ああ戦時国家なのだと改めて思う」と読売新聞の「編集手帳」は書いている。以下はその要約である。

 アメリカはテロ組織の根絶を図ってアフガニスタン戦争に突入している。その戦争をオバマ大統領は「必要な戦争、正しい戦争」と位置づけ、兵力を10万人に増強した。その戦いが思うようにいかない。戦死者は千人を越し、ベトナム戦争を上回る最も長い戦争になった。
 政権批判の発言をした駐留米軍司令官を解任した。「平和は犠牲を伴う」という大統領の言葉が重く響く。

 流れで読むと、司令官の政権批判はアフガン戦争に対する批判で、解任されたと言うからには、その戦争が無意味である、と言ったと思われる。それが何で、「平和は犠牲を伴う」と言う大統領の言葉と関係があるのだろうか。
 平和は犠牲を伴う、との言い方は、尊い犠牲があって、やっと戦争が終わり、平和になった、と言う事だと思う。つまり、アフガン戦争での千人以上の戦死者と言う犠牲があって、戦争が終結した場合には、そう言える。しかしまだ戦争は続行している。更には兵力を増強している。だからこの先犠牲者が何人増えるか分からない。
 それなのに「平和は犠牲を伴う」と言えるのか。そんな言葉が何で「重く響く」のか。私は編集手帳氏の言っている事が全く分からない。

最近気になる事

2010年06月25日 | 社会問題
◆相撲界の賭博事件とNHKの相撲中継
 NHKは昔、美空ひばりが暴力団と関係があると言う事で、彼女をNHKへ出させなくした。確か、ひばり側が辞退したのではなかったと記憶している。それなのに、今回の大相撲名古屋場所の中継はいまだにやるのかやらないのか未決定だと言う。
 なるほどね、と私は思った。ひばりはファンは多かったが、NHKの視聴者の数に比べれば、どうと言う事はなかったのだろう。それに対して相撲ファンの数は圧倒的に多いのだろう。つまり、強制的に徴集している受信料との関係だ。視聴者の期待を裏切っては強制徴集は出来なくなる。
 そう言えば相撲中継はNHKの独占だ。これはなぜなのだろう。そうそうもう一つ。私はほとんど相撲の中継を見ないからあまり明確な事は言えないのだが、ここ一番と言う取り組みには懸賞金が出る。その出資者の名前は誰の目にもはっきりと分かる仕組みになっている。そして放送はその部分をカットしたり、ぼかしを掛けたりはしないのだ。何かと言うと特定商品名の表示には驚くほど敏感に反応して、ビールなどは裏側を常に見せるとかしているのにも拘わらず。
 私はNHKのテレビ番組のテキストを作った事があるから知っているが、使う材料など一切の物に対して、銘柄が分からないようにして撮影する。どうしても隠せない物にはシールを貼る。担当者はそんな事、常識だよ、と言う。それなのに、相撲中継ではその常識が通じない。

◆消費税の値上げ
 自民党が10%を目標にしたからか、民主党が簡単に同じ事を言い出した。新聞は欧米各国の消費税の実体などを載せているが、読者はどうしたって、消費税額その物に目を奪われてしまう。そして欧米各国に比べれば、10%は非常に低いと言える。しかし欧米では食料品が無税だったりするし、社会保障だって日本と比べ物にならないくらい充実していたりもする。
 そうした一切を無視して、単に10%にする、と言う議論はおかしい。街の人々に聞けば、政治家や役人達の無駄遣いを先に改めよ、と言う人が多い。議員の数だってもっと減らせる。彼等の経費だって無駄が多い。何しろ、あの自民党の新人議員があまりの好待遇にびっくりして、思わずマスコミに語ってしまったくらいである。民主党の名前をど忘れしたが、政府の要職に就いている議員の会計報告だっておかしな事だらけである。それを民主党はよってたかって正当な収支だと弁護している。
 なぜそんな馬鹿な事をしているかと言えば、弁護している彼等自身がそうした無駄な金を使っているからである。彼を非難すれば、それは自分自身にも跳ね返ってくる。それを知っているから、庶民が見れば簡単に馬鹿な事言ってるなあ、と分かってしまうようなお粗末さを堂々と発揮出来るのである。自分の馬鹿が分かってしまうよりも、現在の利権を失いたくない気持の方がずっと強いのである。

◆高額所得の法人役員の報酬額の公示
 確か10日ほども前に発表された事を今頃になってあるテレビ局が話題にしている。そんなに日数が経っているのだから、もっと掘り下げたニュースに仕立てているのかと思えば、なんともお粗末な情報しか流していない。しかも高額ではないとか、様々な反対意見に同調している観がある。ここでも欧米に比べてそんなに高くはないなどの議論がある。
 消費税もそうだが、欧米に比べて云々は意味が無い。日本の国民の生活水準に対してどうなのか、と言う視点がまるで無い。世界中から鶏小屋だとか言われている住居の情況も無視して、やれ1億円以上の年俸が高くはない、などと平気で言っている。たとえどんなに優秀であっても、そんなに高級が取れるほどの働きを実際にしているのだろうか。
 10人足らずの社員の会社で社長が1億円で、社員が400万円だったりする事は少ないだろう。しかし大企業になればそれがいとも平気で当たり前になる。その大企業の社員が小さな企業の社員よりも格段に優れて素晴らしい働きをしている訳ではない。どんなに優秀な人だって、自分一人だけでは高額な報酬は得られない。自分の下で働く人々や自分達が作り出したサービスを利用する人々が居るからこそ、高額な報酬は成立出来る。そうした人々の事はまるで無視して、自分一人の成果であるように思うのは傲慢である。

一番大事な所が分からない

2010年06月23日 | 言葉
 営々として作り上げたデータ(原稿)が6本も一瞬で失われてしまい、専門技術者によっても復旧出来ず、心機一転、作り直す事にした、と書いたら、流蛍さんが「前向きですねえ」と褒めて下さった。しかし私の前向きは実は無理をしている。本当の所を言えば、私はどちらかと言えば後ろ向きな人間なのだ。後ろを向いている方が楽なのだ。だから12万円の金額でデータが復旧するなら、後ろ向きのままで居られる。それが気楽だったのである。
 そのまま復旧したデータを使うよりも、新規まき直しで作り直す方がずっと良い物になる事が分かったけれども、それはかなりな前向きの気持を必要とする。だからこの所ずっと気が重い。原稿の作り直しは着々とやってはいるが、何しろ時間が掛かるし、面倒な事ばかりである。それが更に気を重くしてしまう。新聞やテレビを騒がせているニュースを見てもあまり心が動かない。それでついついブログも御無沙汰してしまっている。
 2台のパソコンを使い分けなければならないのも気を重くしている原因になっている。スムーズな入力(親指シフトキーボード)の出来る、けれども機能的に劣るAで文章を作り、スムーズな入力が出来ないけれども機能的に優れているBでブログの発信をする。それは思ったよりはずっと面倒な作業だった。
 親切な人がキーボードの機能を取り戻す方法があると教えて下さったが、まだすぐには実行に移せない。で、しばらくはこうした情況が続いてしまう。
 後ろ向きな人間が前向きになるのは、そうした指導書を読んでも、そんなに簡単に出来る事ではない。何十年も掛かって後ろ向きになった性格をわずかな日数で変えられるはずが無いと思う。いや、そんな後ろ向きだからダメなのだ、とは分かっているのだが。
 そんな愚痴ばかりこぼしていても何も始まらない。
 そんな中で、最近ちょっと気になった事を一つ。

◆最後の一番大事な所が分からない
 新聞の名物コラムはいい事を言う。朝日新聞が「天声人語」なら、読売新聞は「編集手帳」である。その「編集手帳」に、ちょっと古くなったが、6月11日、「悔いの種をまき散らしながら、人は生きていく。(中略)悔恨あっての、負数あっての人生である」との言葉がある。
 その最期の段落が私には分からない。

 「日本一短い手紙」の秀作集から引く。〈あのとき/飛び降りようと思ったビルの屋上に/今日は夕陽を見に上がる〉(中央経済社刊)。心の傷口から血の噴き出す経験をした人だけが、眺めることができる。負の陰翳を身に刻んだ人の目にだけ映る。そういう美しい夕陽が、きっとあるものを。

 この「きっとあるものを」の意味が私には分からない。
 「心の傷口から血の噴き出す経験をした人だけが、眺めることができる」と「負の陰翳を身に刻んだ人の目にだけ映る」は同格だ。その対象が「美しい夕陽」である。そこまでは分かる。だから最後が「そういう美しい夕陽があるのを」なら納得が行く。「そういう美しい夕陽を」でも良い。しかしそうではなく「夕陽があるものを」なのである。
 「…なものを」との言い方はあるし、その意味は分かる。「もう少し早く家を出れば、間に合うものを」などの使い方である。しかしそれは「そういう美しい夕陽がきっとあるものを」の場合とはまるで違うはずだ。この「ものを」は一体、どのような意味なのだろうか。

ハードディスクからのデータの取り出しは駄目だった

2010年06月15日 | Weblog
 壊れたハードディスクからデータの取り出しを依頼していると書いた。初期診断は無料。初期診断で復旧率90%と出た。それでそのまま依頼した。料金は成功報酬で、すなわち、欲しいデータが復旧しない限り、料金は無料になる。成功報酬の上限は見積もりでは12万円。欲しいデータは6冊分の本の原稿だから、一冊当たりにすれば決して高くはない。授業料としても高くはない。
 納期は依頼日から1週間以内となっているのだが、一向に連絡が無い。多分、難しい事になっているのだろうと思っていた。そうしたら2週間経って、残念ながら復旧は出来ないと連絡があった。思いの外、傷が深かったと言う。私も残念だが、一生懸命に作業に取り組んだ会社も残念な事になった。何しろ、ただ働きになってしまった。
 初めはあきらめていたデータだが、復旧可能と聞くと、欲が出る。そこでとても楽しみにしていた。支払いの12万円はきついけれど。だから2週間、それらの原稿にはまるで手を付けなかった。と言うのは、少々古いバージョンなら、別に保存していたデータがある。もちろん決定稿にはかなりの距離のある物だが、自分の原稿なんだから、なんとか復旧の手はある。ただ、とても時間が掛かるので、12万円と引き替えにしたのである。

 駄目だと分かった時点で、きのうから、その一つに取り組み始めた。もちろん、決定稿と同じにはならないが、実は別の大きな収穫があった。と言うのは、決定稿には遠い原稿なので、かなり手を入れなければならない。改めて見直して見ると、かなり改善すべき箇所がある。それをしてみたら、覚えている決定稿とは大きく違って来てしまった。もちろん、現在の考え方の方がずっと優れている。決定稿の不足している部分が自覚出来たから、それが分かるのである。
 つまり、A1→A2→A3→A4→A5と変化して来た内容は、前の内容を踏襲しての事だから、結果としてA1とA5はかなりよく似ている場合が多い。けれども今回はA2、A3、A4、A5が無い。特に決定稿のA5が無いのは致命的で、考え方は大きく振り出しのA1に戻るしか無い。A1とA5はよく似ているとは言ったが、A5を経た上で改めてA1を見直すと、その不完全さが分かるのである。

 何を言いたいのかと言うと、発想の転換の重要性である。初心に戻る事の大切さでもある。自分の中では順調に進んで来ていると、どうしても発想の転換や初心に戻る事とは距離が遠くなる。事故が起きれば良いと言う訳ではないが、事故はそうしたきっかけにはなる。災い転じて福と成す、のことわざがある。
 変な話、12万円掛けずに、それ以上の成果を得る事が可能になった。もちろん、どこかの出版社がこれらの原稿を認めてくれての話ではあるのだが、私なりに大きな成果だと思っている。
 私がデータ復旧の依頼をした会社は東京・銀座の日本データテクノロジー。親切な対応に感謝している。二度とデータが失われてしまうような事はすまいと、今はきちんと別の所への保存を心掛けている。途中でのこまめな保存も忘れない。
 だから再びお世話になる事は無いだろうが、私の記憶からは消えないだろう。本当はこうした仕事は無いに越した事はないのだが、不幸にして泣く人も居て、助かる場合も多いのだろうから、重要な仕事ではある。何とも複雑な気持である。

「○○が発売」はやっぱりおかしい

2010年06月14日 | 言葉
 テレビのCMでも印刷物の広告でも同じだが、「○○が本日発売」などと言っている。本来なら「○○が本日発売される」とか「○○を本日発売」と言うのが正しいはずだ。こうした漢語は名詞でもあり動詞でもあるが、動詞の場合、これは他動詞だろう。自動詞にはならない。だから単に「発売」とあれば、「誰が何を発売する」と言う意味になる。従って「○○」が商品名のはずがない。商品なら、その「○○」が何かを発売するのだ、と言っている事になり、その肝心の発売する物が全く影も形も無いのだからおかしいのである。
 理由は分からなくはない。「○○本日発売」の表現がある。「○○」と「本日」の間にわずかな切れ目があって、「○○」が発売する対象物である事が分かる表現である。「誰が」を明確に言わないのは、言う必要が無いからである。
 そうした微妙な表現を乱暴にも「が」と言う明確に主語を表す場合の多い助詞を使ってしてしまうから、話がおかしくなるのである。
 でもCMはたいていがそのおかしい表現を平気でしている。多分、コピーライターに日本語のきちんとした知識が無いからだろう、と私は思っていた。しかし、そうではない現実を見付けて、まさに驚天動地の心境になった。
 6月11日の読売新聞の夕刊の「語源ハンター」と言うコラムに「感謝感激雨霰」の語源が書かれている。軍用船が敵艦の集中砲火を「雨霰」と浴びて沈没した事件を題材にした琵琶歌の歌詞に「乱射乱撃雨霰」とあるのが有名になり、その語呂合わせで「感謝感激雨霰」になったと言う。大変役に立つ知識である。
 ただ、私はその説明の文章に引っ掛かった。

 軍に輸送船として徴用されていた日本初の近代的大型客船、常陸丸が、沖ノ島付近を航行中にロシア艦隊の集中砲火をまさに雨霰と浴びて撃沈、千人余りの犠牲者を出したのだ。

 これがその文章。「常陸丸が撃沈」とある。「○○が発売」と全く同じである。私は「撃沈された」と続くと思って読んでいたから、「撃沈」で終わっているのを見て、頬杖を突いていた腕を払われたように愕然とした。私は「敵艦を攻撃して撃沈する」の言い方は知っているが、「攻撃された船が撃沈する」と言う言い方を全く知らないのである。あわてて国語辞典を引いた。

・撃沈=名詞・ス他動詞。艦船を砲撃・爆撃・雷撃によって沈めること。
・撃沈=―する。爆撃・砲撃・魚雷などで敵の船をうち沈めること。

 別の二冊の辞書も全く同じ。「撃沈」に「撃沈される」などの意味は無い。上の文章は単なるミスなどではない。普段からそうした言い方をしているから、ごく自然に出て来たのだと思う。執筆者は放送作家、とある。当然にこの原稿も読み直して、これでオーケーとしたはずである。まさか、「沈没する」の被害の大きいのが「撃沈する」だと思ったのではあるまい。
 プロがこうした表現をするから、一般人ならこれで良いのだと思ってしまってもおかしいとは言えない。いや、本当はおかしいと思わなくてはいけないのだが、どうも日本語に対する感性がどんどん衰えて来ているらしい。普段から、きちんとした日本語を使っていない限り、簡単に間違いの方向に行ってしまう。
 執筆者には悪いが、私は、ははあ、放送作家とはそうした程度なのか、と思ってしまう。テレビがどんどん悪い日本語を流し続け、次第に世間はそれに感化されてしまう。テレビで育った人々は、たとえプロであっても、そうしたテレビ用語に洗脳されているから、もうどうしようもない、と言う事になるのだろう。

 私は常にテレビの底の浅さを感じているが、これは放送作家が新聞に書いている文章である。そうであるからには、当然ながら、新聞社の校閲の手が入っている。それなのに見逃されている。つまり、新聞も同じ程度だと言う事なのか。
 先に「沈没する」の被害の大きいのが「撃沈する」だと勘違いしたのか、と書いたが、もしかしたら、本当にそうなのかも知れない。でもそうなら、事はやはり重大だ。その程度の日本語力で言葉が命である仕事をしている事になる。

金に汚い人ばかり

2010年06月10日 | 社会問題
●民主党の荒井大臣の事務所問題
 まあ、よくもぬけぬけと問題は無い、などと言えたもんだ。家賃も払っていない事務所代は切手代などだとか。でも通信費は使っても使わなくても多額の金が別に支給されているはず。衆議院議員会館で使った備品のリース代なども大層な金額になっているが、そんなに高額でたくさんの備品を使っていたのか。
 なにしろ、議員でなくなった期間もそれらの費用は支払われていたのだから、真っ赤な嘘だと誰にでも分かる。
 もしも我々がこのような収支報告で税務申告をしたら、とたんに調査が入り、追徴金を取られたりする事、間違い無し。身内から「罪人」を出したくない気持は分からなくはないが、下手な保身は党の身を誤る。謝って済む問題ではないだろう。
 私はごくごく零細な有限会社を経営しているが、ここの所、とんと仕事が無い。それでもきちんと税務申告をしている。法人税はもちろん0だが、東京都からの住民税がかかって来る。それは最低7万円。年間の総売上が100万円にも届かないのに年間7万円もの税金は払えない。以前は分割にしてもらって支払っていたが、あまりにも不合理なので、休業届けを出した。
 それに比べて、議員ともなると、年に何千万円もの金が無税で自由になる。
 荒井氏の問題はどんな言い訳をしたって、通るはずがない。それを問題は無い、などと周囲が言い張れば、その周囲もみんな同罪である。

●1億円以上の役員報酬開示
 金融庁が年間1億円以上報酬をもらっている企業の役員の報酬開示を義務づけた。そうした報告をする義務の発生する企業は日本中で100社くらいにしかならないと言うが、それでも経営側からは不満の声が挙がる。曰く、個人情報が守れない、欧米企業に比べて一人当たりの報酬額が少ない、単なる金額を見て社会的な批判や格差的な感覚が出る、などなど。
 それでもこれは上場企業に限られるようだから、決して全面的な開示とはならない。上場していない大企業は決して少なくはない。
 税務署の外の掲示板には管内の多額納税者が明示されている。それは個人情報ではないと言うのか。欧米企業に比べて、と言うが、それでは、欧米企業を規準として社員の賃金などを決めていると言うのか。単なる金額を見て、と言うが、年間1億円以上の報酬が「単なる金額」だと言えるのか。それが格差的な問題ではない、と言い切れるのか。
 これに対しての亀井大臣の発言が素晴らしい。「企業は社会的存在だ。たくさんもらっている人は、良い仕事をしていると胸を張ればいい」。
 そうなのである。企業は大勢の庶民によって支えられているのである。それをすっかり忘れているらしい。自分自身の能力だけでもうけているように錯覚しているらしい。多分、良い仕事もしていないでたくさんもらっているから、それが分かっては困るのだろう。
 市場関係者の「企業の業績に見合った報酬かどうか点検でき、株主保護につながる」との意見も一部真実を突いている。株主保護の面からではなく、本当は消費者保護の面から考えるべきだろうが、発言者が市場関係者だから仕方がない。
 私が読んでいるのは読売新聞だが、そこにはこうした企業側や市場側からの考えしか無い。それに「欧米で金額を開示の条件にしている国はなく、日本の措置は異例だ」との同紙の見解には問題がある。これは企業側が「1億円以上とする根拠がよく分からない」と反発している事に対する見解である。だから、まるで1億円以上と決めたのが悪い事のように思えてしまうではないか。同紙はちゃんと欧米での役員報酬の開示ルールを表にして示している。
 最高経営責任者、最高財務責任者、報酬上位3人を開示……米国、カナダ
 全員開示……英国、ドイツ、フランスなど
 最高経営責任者のみ開示……フィンランド、スウェーデンなど

 欧米の報酬がどれくらいなのかは知らないが、「全員開示」などは、欧米の方がもっとずっと厳しいではないか。いずれにしても、ここには庶民の目はまるで存在していないようにしか私には思えない。そう、新聞社も「大企業」だものね。
 世の中の多くの人々が金が無くて困っていると言うのに、何ともあっけらかんとした人々である。

不真面目なCM

2010年06月09日 | 暮らし
 テレビ朝日で、散歩の番組からごく自然にコマーシャルに入り込んでしまう巧妙な番組がある。もうすっかり慣れ切ってしまっているから、すぐに消すが、午前中に外での仕事が無い時は、パソコンに向かいながら、私は次の時代劇の再放送を見るのでそのままにしている。その時代劇も何度も同じ番組の再放送どころか再々放送、もしかしたら再々々放送もしているかも知れないが、まあ、時代劇を見ると言う事がそもそもは言うならば馬鹿げているのだから、それは措く。
 さてそのコマーシャル番組だが、当然に主婦が対象になるから、商品も家庭向けの物が主になる。今日の商品は抗菌保存容器。日持ちもするし臭いも付かない。それをある主婦を相手にもやしといちごを一週間保存して確認させている。まずはもやしを入れた容器を出して、中身を点検する。
 私がわざわざこのような話を持ち出したのは、その時の冷蔵庫の状態が問題だからである。
 私なら、容器を取り出したらすぐに冷蔵庫の扉を閉める。ところが、このCMでは扉はずっと開けっ放しだったのである。それもすっかりと全開した状態で。更に次にいちごの容器を取り出したのだが、それもまたそのまま開けっ放しで説明が展開するのである。

 家事に関する商品を紹介しながら、その肝心の家事がいい加減にされている。これを仏作って魂入れず、と言う。このCMを作った人々の常識を私は疑ってしまう。この商品を作った人々は何よりも新鮮さをどれほど長持ちさせるか、臭いをいかに遮断するか、に創意工夫を凝らした事だろう。それなのに、一般的な常識をすっかり忘れている。そんな状況で果たして商品の開発が出来るのか。私は出来ないだろうと思う。
 冷蔵庫の扉の開けっ放しなんて、単にちょっとしたミスではないか、などとは言えない。私は少しでも扉の開閉を少なくしたいと、片開きではなく、両開きの冷蔵庫を使っている。それでもなかなか片側だけでは済まない事が多いけれども。

 CMの制作者が不真面目なのか、商品の開発者が不真面目なのか、それは分からない。けれども、どちらにしても不真面目なんだなあ、と思った事だった。

ケータイの情報ってそんなに素晴らしい?

2010年06月07日 | 社会問題
 毎日地下鉄に乗っているが、乗客の半数くらいは全員ケータイの画面に見入っている。面白い事に、ほとんどがエスカレーターに乗ると同時にケータイを開く。それは立ち止まっているからいいが、迷惑なのはホームを歩きながらケータイを見ている。いや、ケータイを見ながら歩いていると言う方が当たっている。だからのろいし、周りの人が見えていない。それで自分勝手な動きをする。あんた一人のホームじゃないんだよ。
 ケータイの情報ってそんなに有益なのだろうか。片時も離せないほど役に立つ情報なのだろうか。そんな事はないと、私は思う。新聞や雑誌の情報だって、役に立つのはほんのわずかしか無い。そんな役立たずの情報を見る一方だから、自分では何も考えてなどいないだろう。だから簡単にマスコミの誘導にも乗ってしまう。そうか、ケータイの普及に、マスコミは陰で大いに力を発揮しているのか。大手三つのケータイ電話会社が儲かると同時に、マスコミもまた儲かる仕組みになっているのだろう。
 そうやって、日本人からどんどん考える力を奪って行く。あんた達だって同じ日本人なのに、なんでそんな危険な事に手を貸しているのか。もっとも、洗脳されている人間は、洗脳されている事自体を認識していないから、自分のしている事は正しいと信じているらしい。

 日本に来ている外国人達が例外なく言っているのは、自分達の国ではケータイは話をする道具だが、日本では見る道具になっていて、とてもおかしい、と言う事である。道具を使うのではなく、反対に道具に使われている。そうでしょう。話をするには自分が無くては出来ない。しかし、情報を見るだけなら、自分なんか無くたって構わない。なんせ、そこには受け身の自分しか存在していないのだから。
 積極的な自分を見つけようとすると、それはどうしても外見だけの物になってしまう。普段から中身に注意を向けていないから、化粧とか服装とか持ち物とか、そんな物ばかりに目が行く。

ローマ字入力のベテランさん、教えて下さい

2010年06月03日 | 文化
 愛用のキーボードが私の使っているマシンでは新しい方で使えなくなって困っている。私のキーボードは直接仮名を入力する親指シフトキーボード。一つのキーに二つの仮名が割り当てられていて、下段にある仮名を入れる時はそのまま素直にそのキーを押す。上段にある仮名を入れる時は、その手の親指を同時に使い、親指でJISキーボードでは変換キーになっているキーを押す。
 だから一つのキーに二つの文字があっても、その二つの文字は全く別の指の動作を必要とするから、その一つのキーは同じであって同じではない。指がすっかりそのように覚えてしまっている。
 それに対して、ローマ字入力ではそうはならないと私は思っている。と言うのは、「は」を入れる時、右手の人差し指でHを押し、左手の小指でAを押す。つまり「は」はあくまでもH+Aなのではないのか。左手の小指は単独なら「あ」だが、Hと組み合わせられる事で「は」の一部になっている。だから左手の小指は常に「あ」とそれ以外の「あ」を母音とする「か・さ・た・な・は・ま・ら・わ」のほか、拗音なども含めて、様々な仮名の一部も担っている。その点で、親指シフトキーの場合の左手の小指とは違う。親指シフトの場合には、左手の小指は単独では「う」であり、親指と同時では「を」になる。つまり、指はとても単純な事しかしていない。そうした違いは脳にとっては大きく違うのではないか、と思っている。

 そうした状況から、私はローマ字入力では、常にローマ字が頭にあるのではないか、と疑っている。「は」と思えば、瞬時に右手の人さし指と次いで左手の小指が動くのだとは思うが、それは明確に仮名の「は」ではなく、あくまでもローマ字のHAなのだろうと思っている。
 ベテランさんの答を聞く前に結論を出すのは早すぎるのだが、我々は常に漢字仮名混じりで日本語を考えている。難しい漢字が多ければ仮名の多い漢字仮名混じりで考える事になる。それはごく自然な事である。そしてローマ字では絶対に考えていないと思う。それに駅名などの表示では、例えば「東京」はTOKYOであって、TOUKYOUではない。原則として、日本語変換はTOKYOでは出来ないはずだ。同じローマ字綴りであっても、このように違いがある。それは「とうきょう」と入力してそのまま「東京」になる仮名入力とは大きな隔たりがあるはずだ。

 親指シフトでの入力では、キーボードを意識する事は絶対に無い。もちろん、それは熟達の程度によるが、私の場合、頭の中にキーボードを思い浮かべようとしても出来ない。でも指は瞬時に思ったそのキーを押している。だから常にホームポジションを守らないと、左右のどちらかに一つずつずれたキーを押してしまう事になる。指には目が無いのだから、仕方がない。
 私がお聞きしたいのは、ローマ字入力に熟達すれば、キーボードを意識する事は無くなるのかどうか、である。言い換えれば、頭の中のキーボードではアルファベットのキーの位置が分からなくなっているかどうか、である。頭では分からないが、指が覚えていると言う状況になれるのか、である。

 ただ、それが可能だとしても、私がローマ字入力に切り替える事は無い。仮名入力と両立する事は難しいだろうと思う。幸いに、マックの親指シフトキーボードは2台あるから、たとえ一つが壊れても大丈夫だ。そしてそれも壊れたら、ウインドウズに乗り換える手もある。
 だから私のために、なのではない。キーボードと言えばすっかり英文タイプライターのキーを踏襲したキーボードしか無い現状を打破したいからである。日本人に変な遠回りをした考え方を押し付ける権利は誰にも無い。日本人の圧倒的大多数は仮名タイプの代わりにパソコンを使っている。それなのに、開発者が技術バカと言うか、英語のコマンドを打ち込む必要のあったパソコン時代からちっとも進歩していないから、こうした現状に甘んじなくてはならない。
 英語のタイプライターのキーの配置はどうやって生まれたかご存じだろうか。あれはわざわざ打ちにくい配列にしてあるのだそうだ。昔のタイプライターは長い棒の先に活字が付いている方式で、早く打つとその棒がからまってしまう。それを防ぐために、わざと早くは打てない配列にしたのだと言う。
 これは英語の事情だから、日本語をローマ字にして打つ場合には事情が異なるが、「あさ」などが打ちにくいのは誰も同じだろう。日本語の事を全く考えずにここまでやって来てしまった。あまりにも経験として長いから、今さらどうにもならないのだろうが、だからと言って、これではあまりにも不毛だと私は思う。

パソコンに引っ掻き回されてしまった

2010年06月01日 | Weblog
 発端はマックのハードディスクが壊れた事にある。事情がよく分かっていれば被害は最小限で収まっていたはずだ。HDは3台入れてあるのだから、CDでOSを別のHDに再インストールすれば済む。しかしマックは複雑な事になっていて、旧バージョンのOSがインストールされていないとバージョンアップ後のOSはインストールが出来ない。しかしそうした事情はもう何年も前の事なので、すっかり忘れている。それやこれやでCDを取っ替えひっ替えしている内に、どんどんHDのダメージが大きくなって(これは後から分かった事)結局は大きな被害になってしまった。
 ダメなHDを取り外して、新たにOSを入れて戻って来たマックは、しかしながら、愛用のキーボードが使えなくなってしまった。それなりのドライバーを入れてあるから使えないはずはないのだが、ある特定のキーが入力出来ない。
 更にはほんのわずかの間にインターネット接続が出来なくなってしまった。マックはサファリと言うソフトを使うのだが、何度やってもエラーになってしまう。
 仕方が無いので、空いているHDにOSを新たに入れる事にした。しかし事はそう簡単には行かない。大量のフォントを入れ直したりもしなければならない。結局、半日掛かりで何とかやり遂げた。

 愛用のキーボードを使えるように、古いマックを買って、それもメールやインターネットや各種ソフトが使えるようにするのに相当な時間が掛かっている。それでも、おかしな事にはメールの受信は出来るが送信が出来ない。使っているプロバイダーのソネットの担当者も原因が分からないと言う。変な事だが、画面上では送信エラーなのだが、別のパソコンで見たら、ちゃんと送信は出来ている。
 そんなこんなで、本当に引っ掻き回れてしまった。

 そして話は失われたデータの事になる。私はすっかり諦めていたのだが、と言うか、自分で書いた原稿なので、古いデータがあれば、書き直す自信があった。だが相当に手間ひまが掛かる。そこで5万円から出来る、とホームページでうたっている所に問い合わせをして、取り敢えず初期診断は無料との事なので、出してみた。診断の結果、かなりの重症だが、9割は復旧出来ると言う。しかし価格は最大で12万円になる。すべてのデータが対象になるが、私の一番欲しいデータが復旧出来なければ、復旧費用は0円だと言う。
 当面は売れる見込みの無い原稿なので何とも高いと思ってしまうが、6冊分だと考えれば、1冊2万円だから、高くはない。それにデータコピーをしていなかった反省料だと思えば、仕方が無いか、とも思える。
 そんな訳で、只今、データの復旧作業をしてもらっている最中である。作業をしている会社は銀座だから、結果が出たら、行って自分の目で、欲しかったデータがきちんと復旧出来ているかを確認出来る。日本で最高の技術を持っているとの事だから、その結果が良ければ、社名とその結果を御報告したい。几帳面にデータ保存をしている人には無縁の事だろうが。

 目を社会に転ずれば、おかしな事ばかり続出している。結局はどこもかしこもおかしな事だらけ。私のパソコン騒動は誰のせいでもなさそうだが、政治とか経済はどうも仕掛人と言うか、悪の張本人が居るらしい。パソコンでも転ばぬ先の杖で、重要な物は別にコピーを持っている必要があるのと同じように、この社会も下手に他人を信用してはならないようだ。我々日本人は島国育ちのせいもあってか、どうもお人好し、それも底抜けのお人好しのようだ。