夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

利権の構図の書き直しと「とどのつまり」

2009年02月28日 | Weblog
 メールマガジン「頂門の一針」1457号に、なるほどと思える事が書かれている。麻生総理が郵政民営化には反対だったと言って、小泉元総理に「笑っちゃうよ」と言われて簡単に発言を翻した事についてである。
 ある政治評論家は、「笑っちゃう」と言うのは究極の否定であり、麻生総理の息の根を止める発言だ、と言っていたが、私はそうは思わない。小泉氏は笑ってごまかすしか無かったのだと思っている。そうでしょう。今、郵政民営化反対への反論はとうてい力を持ち得ない。だから悔しいけど笑うしか無い。あれは自嘲の笑いである。それに、小泉氏自身が過去に笑っちゃうような事ばかりして来たではないか。大相撲の表彰式での、よく覚えていないが、「よく耐えた、感動した」と言うような、破天荒な褒め言葉だって、大向こうを意識した効果狙いが見え見えだった。薄っぺらなのである。私は評論家の発言に「笑っちゃった」。

 「頂門の一針」では、筑豊のヤマ師も横須賀のテキ屋には歯が立たない、と言うのである。テキ屋の「自民党をぶっ壊す」と言う発言は自民党ではなく、既成の利権の構図をぶっ壊すとの意味だった、と言う。それは大方の人々も今では気付いている。行革や規制緩和が国民のためではなく、自分の都合の悪い利権の構図を書き換えるためだった、と気が付いている。だって、少しも国民のためになんかなっていないもの。その象徴が麻生総理の「郵政民営化には反対だった」の一言なのだ。
 私は前に、郵政民営化は小泉氏の持論ではあったが、それがたまたま、アメリカ資本の日本の侵略政策とぴたりと重なっただけの事に過ぎないと書いた。その持論に、いつごろから気に食わぬ利権の構図の書き換えが加わったのかは知らない。あるいは元々からそうした意図だったのか。そうだとすると、なんと気の長い、そして虎視眈々と機会を狙う事に熱心な人なのかと感心してしまう。

 今日の東京新聞のコラム「筆洗」の言うように、「うどん」の看板を「UDON」と書き換えたからと言って、店内が急に洋風になる訳が無い。駄目な看板はいくら書き換え、取り替えたって何の役にも立ちゃしない。
 そしてみなさん、看板ばかりに気を取られているが、重要なのは看板じゃなくて、中身じゃないですか。いやいや、そうではない。看板に気を取られている振りをして、中身がいい加減である事を隠そうとしているのである。国民は中身のお粗末さにとっくに気が付いているのに、何とか看板でごまかそうとしているのが、今の政治である。
 で、中身が民主党に入れ替わったらぐんと改善されるのか、と言うと、これまた大きな疑問がある。何しろ、寄せ集めもいい所だからだ。なに、寄せ集めだって一人一人が良ければ言う事は無い。それはもちろん自民党にも言える事だ。
 それなのに、党全体としては一向に良くは見えないのは、一人一人が良い、とは言えない、良い人の方が圧倒的に少ないからに違いない。

 前にも書いたが、政党なんて有害無益なんじゃないのか。党なんて作るから、目立つような性格を作り出す必要が生まれる。そして何人か固まると一人よりは力があるから、自分の都合のいい事を押し通す事も出来る。揚げ句には、党の性格に左右される事にもなる。
 結局、一人一人の良識が埋没し、烏合の衆と成り果てる。えっ? あの人がこんな事しか言えないのか、と呆れるような場面を何度も見ている。たまに突出する人が居るかと思えば、罠に落ちたのか、功を焦ったのか、自滅してしまう。とどのつまりが、駄目な「政党」と言う形に引きずられてしまうしか無い。
 ある一つの政策に対して、議員個人個人が自分の信念を述べ、賛同した人々が一つのグループを作り、多数決で決めて行く、と言う方式でいいじゃないか。それが一番公平ではないか。利権が絡みそうだったら、利権には縁の無い議員達が寄ってたかって反対するに決まっている。それに、個人の主義主張ではなく、政党の力で当選するなんていい加減な事も無くなる。

 「とどのつまり」と言った。「結局」と言うような意味だが、「とど」って何だっけ、と思った。辞書で引くと、「ぼらは成長して最後にとどになるから」との説明がある。だが、四冊引いて、「とどのつまり」にその成長の段階を説明しているのはたった一冊だけだった。残りの三冊は改めて「とど」を見なければならない。二度手間である。
 その一度で済む辞書には「ボラがオボコ・スバシリ・イナなどと名称を変えて成長し、最後にはトドとなる」とある。
 「ぼら」を引かなければならない辞書では次の通り。
1 幼魚を「おぼこ」、やや成長したものを「いな」、成魚を「ぼら」と言う。
2 成長に従って、オボコ・イナ・ボラ・トドなどと呼び名が変わる。
3 成長に従って、おぼこ・いな・ぼら・とど、と呼び名が変わる。

 さてこの四冊、2と3は同じだが、他の二冊とは違う。その二冊もそれぞれに違う。
一冊で済む辞書では「ぼら」の段階がどこなのかが分からない、1の辞書では「ぼら」と「とど」の関係が不明確、と言う欠陥がある。2、3にしても、魚の呼び名は地方によって様々に異なるから、これで正解、と言うのも難しいのではないか。
 世間が「権威ある」と錯覚しているある辞書では、「とど」は何と副詞だと説明している。そして、(「ぼら」は幼魚から成魚になるに従ってその名称を替え、最後に「とど」となるところから)結局。ついに。とどのつまり。と説明し、「とどのつまり」を見よ、とあるが、「とどのつまり」には「つまるところ。結局」との説明しか無いのである。そして三度の手間を掛けて「ぼら」を見る。「出世魚とされ、3~4センチメ-トルの稚魚をハク、小形のものをオボコ・スバシリ、20~30センチメ-トルのものをイナ、成長したものをボラ、またきわめて大きいものをトドなどという。」
 この説明は成長の段階と大きさとがごっちゃになっている。
 とどのつまり、何冊もの辞書を見ても、疑問が残る説明なのである。これが現在の国語辞典の実体である。

寒いとはどのような事なのか。そして真のしあわせとは

2009年02月27日 | Weblog
 ここ二三日の寒さは厳しい。さすがの私も暖房を入れた。このブログでは猫がこたつに入って極楽の境地にあるが、実は私とは随分と遠い境地なのだ。気楽にのんびり、と言う私の理想郷であるに過ぎない。私の仕事場は西向きでほとんど日も当たらない。だが暖房無しで過ごせている。今回も体は寒くはないのだが、手先、足先が冷たい。足は厚い靴下を履けば済むが、手袋をしてはパソコンは使えない。私は以前から末端の血流が悪い事は調べて分かっている。その原因も何とか見当は付く。と言うのは、私は真冬でも靴下を履かない事が多い。歩けばすぐに足はほかほかとして来るからだ。そこから分かるのは、血流の循環が運動不足で良くないのだろう、と言う事である。
 躯体部分が寒さを感じにくいのは、血流の盛んな部分だからだろう。そして総体的に暑さ寒さに鈍感なのだろう。近所の人達は「薄着ですねえ」と呆れているが、「鈍感なものですから」と答えている。
 テレビで超人の番組を見たのだが、そこに氷詰めになって何時間も平気な男性が登場した。人間には背中に褐色脂肪細胞と言うのがあって、それは体中のエネルギーを熱に変える働きがあるのだと言う。幼児には豊富にあるが、成長するに従って減って行くのだと言う。もしかしたら、私は成長が極端に遅れていて、その褐色脂肪細胞が他の人よりはたくさん残っているのかも知れない。

 そうは言っても、あまり人と変わった服装も出来ない。出来るだけ世間に合わせているが、暖房の効き過ぎている所では辛い。そしてつい、上着を脱ぎ、ワイシャツを袖まくりして、変な顔で見られてしまう。でも、省エネで、経済的である。妻も暑さ寒さに強いから同じような情況で仲良く暮らせている。
 そしてこれはある程度、鍛錬と習慣のなせる技でもある。息子は空港で厳しい暑さ寒さに晒されて航空機の誘導作業をしている。成田と言うのは原野の真ん中にあるような空港で、気候の非常に荒い所なのだそうだ。だからだと思うのだが、寒い日の夕食時など、暖房入れようか、と言っても、「いい」と言う。以前は私達夫婦に「歳取って鈍くなったんだ」と悪態をついていたのが、自分も多少は「鈍く」なっているのである。

 今の日本人は便利さや快適さ、贅沢さに馴れ過ぎている。それが当たり前だと思っている。年配者なら、自分が子供の頃、どうだったかを思い出せば簡単に分かる。そして、便利さ、快適さ、贅沢さを売り物にしている商売はそれに輪を掛けてそれ以上を追求して、我々に押し売りをしている。そうしなければ儲ける事が出来ない。だから、儲けるために必要以上の事を押し付ける事だってしている。具合の悪い事には、良い事にはすぐに慣れて、次にはそれ以上の事を求めたがる。それは切りが無い。だから商売人の思うツボにはまってしまう。
 すべては慣れの問題とも言える。変な話だが、私は自分の携帯でテレビが見られる事を昨日まで知らなかった。知人が似たような機種でテレビを見ているので、もしや、と思って近くの代理店に行き(マニュアルを見たってさっぱり分からないから)、初期設定をしてもらって、見る事が出来るようになった。
 しかし、だからと言って、携帯でテレビを見ようとは思わない。それまでして見たい番組がそうそうある訳でもない。テレビなどは、慣れの最たる物である。いつも見ている人はテレビ無しでは過ごせないらしい。その多くは、見るともなしに見ているのである。
 今、未曾有の不況である。必要以上の便利さ、快適さ、贅沢さを追求しようとも出来ない情況にある。挫折があってこそ、人は成長出来る。これは千載一遇のチャンスではないか。行き過ぎを是正する絶好の機会と捉えれば、様々な改革が出来るはずである。
 見てくれだけではない、真に幸せをもたらしてくれる暮らしを取り戻す事が出来るはずである。

死刑に対する疑問に疑問を呈する

2009年02月26日 | Weblog
 自分の娘を橋から落として殺し、二軒隣の男の子を絞殺した女性(畠山鈴香被告)に無期懲役の刑が言い渡された。それを不満と、検察が控訴審で死刑を求刑した。求刑の理由は「お前はもう人間性を喪失した」だと言う。
 この事について、あるルポライターが、「隣人に『お前は人間ではない』と言えるのだろうか」と疑問を投げ掛けている(東京新聞24日朝刊「本音のコラム」)。
 だが、そうとでも言わなければ無期懲役の判決を覆して死刑を求刑する事は出来ない。

 裁判官は無期懲役にして被告の矯正の可能性に賭けた。無期懲役とはそう言う事だ。検察官はその可能性を否定して死刑を求刑した。それが「人間性の有る無し」になる。つまり、裁判官は被告に人間性が残っていると判断してその矯正が可能と考えた。検察官は言葉通りに人間性が無いと判断したのである。
 一般的な感覚からすれば、どこまでも人間を信じたい。たとえわずかな根拠でもそれにすがって人間に希望を持ちたい。だから、裁判官の判断と検察の判断を比較すれば、どうしたって、裁判官の肩を持つ。他人の死を願うより、生きる事を願う方が人間らしいと誰もが思う。それが人間なのだ。

 従って、このルポライターの問い掛けもまた多くの人々に支持されるだろう。だが本当にそれで良いのだろうか、と私は思う。検察官は殺された子供の両親に「死刑にしてもなお足りない」と証言させた。それは遺族の率直な思いだと思う。
 いつも思うのだが、殺した人間と殺された人間。この二人の間柄は決して公平とは言えない。なぜなら、言うまでも無く、生きているのは殺した人間だけなのである。死刑にせずに無期懲役にするのは、生きている事にそれだけの価値があると認めているからである。その価値ある「生きている事」が殺された人間には認められず、殺した人間だけに認められると言うのはあまりにも不公平で、あってはならない事である。
 いや、そうではなく、生きている事の価値とは贖罪だ、と言うのかも知れないが、贖罪とは言葉は美しく、もっともらしいが、実際にはどのような事か、明確に説明出来る人間が居るのだろうか。つまり、どうやって贖罪になっているのかを証明出来るのか、である。
 死ねば二度と生き返らない事を知っていて人を殺した奴を「人間である」とは絶対に言えない。どんな事情があろうとも、人間が死ぬ事をたいした事だとは思わなかった奴を「人間」とは呼びたくない。「お前はもう人間性を喪失した」と言って当然である。

 精神的な障害があって人間性を喪失していれば、罪を問わない、と言う考え方が主流になっている。一時的な人間性の喪失であって、人間性を取り戻せるのだ、と言うのがその根拠になっている。
 でも、そうであれば、どんな殺人事件でも死刑にはなり得ない。なぜなら、殺人の行為は一時的に人間性を喪失していた時の行為だから、である。そうではなく、冷静に殺したのだ、と言うのなら、その冷静さがそもそもは人間性の喪失なのである。その人間は一時的に人間性を喪失していたのだ、とどうしたら判定出来るのだろうか。
 一時的に人間性を喪失していた人間は、以後絶対に人間性を喪失しないと断定出来るのか。そんな事は誰だって言えない。人間性を取り戻した人間が、いつまた人間性を喪失するかは分からない。もしも、一回目の人間性喪失で犯した殺人を許して、再び人間性を喪失して殺人を行ったら、許した人間はどうやって責任を取れると言うのだろうか。
 私は自分が錯乱している人間に殺されて、加害者は錯乱状態にあったんだから諦めなさい、などと言われて諦めるつもりは毛頭無い。

 コラム氏は「被害者の遺族の処罰感情の強さに、検事は死刑の正当性を預けた」と書いている。そうではない。処罰感情の強さに預けた、などと言ってしまっては、単に感情論に終わる。そうではなく、検事は遺族の処罰感情の強さを通して、殺した人間と殺された人間の間での公平とは何か、を預けたのである。
 この事は、死んだ人間を生き返らせる事が出来ない限り、永遠に問われる問題である。神、イエスキリストにその答を預けた人々は、だから殺した人間を人間が裁く死刑に反対するのだろう。単に、自分達で考える事を放棄して、神頼みにしただけの事ではないか、と私は思う。人間である以上は、自分の頭で、心で考えるべきだと思う。死刑がどんなに残酷であっても、残酷に殺された人間の事も考えるべきだと思う。

 このコラムの結末は次の通り。
 「被告席で打ちひしがれ、身震いしている被告を目の前にして、裁判員制度のことを考えている。隣人に「お前は人間ではない」といえるのだろうか。

 コラム氏は「裁判員制度のことを考えている」と曖昧に言い、どのように考えているかは明確には言わない。言わないが、上の文章が明確に語っている。裁判員なら、隣人に「お前は人間ではない」とは絶対に言えない、と。
 人間性の喪失を肯定するのはそんなにも冷酷な仕打ちだろうか。私はそうは思わない。反対に、人間性をそんなにも崇高な物だと決め付ける事は危険だ、と考えている。
 以前、女性を強姦して何年かの懲役刑に処せられた男が、女性の証言を恨んで、出獄後しつこくその女性を探し出し、遂に殺してしまった事件があった。これは例外的な事件だろうか。そうではない。
 もちろん、この男を強姦罪で死刑になど出来る訳が無い。だが、この男は更生出来なかった。強姦した時の人間性を遙かに後退した野獣になってしまった。人間は弱い生き物だ。人間性を簡単に喪失したり、取り戻したりする。そうした安易な人間性に殺されていては、命は幾つあったって足りゃしない。

パソコンは進化をとめているのではないか

2009年02月25日 | Weblog
 昨日はまた休んでしまった。40字詰め40行ほど書いた所で突然のフリーズ。仕事の合間を縫っての作業だから、もう時間が無い。原因はまたもやあのにっくきATOK14。金を払って買ったのだから私の物である。自分の物の悪口を言うのにはばかる事は無い。変換で「かっこ」と入れると「( )」になる前にフリーズしてしまう現象は前にもたびたびあった。登録した変換ではなく、ソフトに備わっている変換なのだから、変換ソフトの欠陥である。使っているアプリケーションを変えても同じ現象が発生するし、マック標準の「ことえり」では起こらないからATOK14の欠陥である。
 回避するためには、「かっこ」と入力しない、常に保存を掛けておく、ATOK14を使わない、の三箇条を守る事だが、「ことえり」は頭が悪いし、考える事に夢中になっていると、つい保存を忘れる。結局は「かっこ」と入力しなければ良いだけの話なのだが、ずっと快調に動いていれば、便利だからいちいち文字パレットを呼び出して変換する事など面倒になる。
 他の変換ソフトを買えばいいじゃないか。それはそうなのだが、私は古いマックOS9を使っているから、他の変換ソフトは無い。OS Xを使えば良いのだが、これまた私の使っている親指シフトキーボードはXでは使えないと言う事情がある。キーボードのメーカーはとっくにサポートを終えている。
 親指シフトキーボードと言うのは、ローマ字と同じく三段にすべての仮名を割り当てているから、無理なくブラインドタッチ(タッチメソッド)が出来る。
 パソコンはどんどん進化しているのに、キーボードはまるで進化をしていない。マックでは事実上、親指シフトキーボードは使えない情況になっている。唯一使えるのはウインドウズである。こちらは開発元の富士通がアプリケーションソフトとして売っている。このソフトはすぐれもので、普通のJISキーボードでも親指シフトキーボードとして使えるのである。
 じゃあウインドウズでやればいいじゃないか、とは行かない。マックの親指シフトキーボードなら右手の親指で変換キーを押す事で変換の決定が出来るが、ウインドウズでは駄目で、リターンキーを押す必要がある。そうすると、指がどうしたってホームポジションから離れてしまい、ブラインドタッチの真価が発揮出来ない。
 富士通の親指シフトキーボードだって、もう秋葉原でも店頭では見掛けなくなってしまった。唯一有った店にも無い。買うには通信販売しか無い。マックとウインドウズの親指シフトキーボードを最後まで作っていたのは新潟の会社リュウドで、新しいOSで使えるのはこれが最後ですと言われて、私は両方のキーボードを合計9万円も出して買った(富士通や他社ならもっとずっと安い)。それなのに、もうサポートはしないのである。そんな事をしていたら、多分、儲からない。

 考える時、我々は仮名で考える。易しい漢字を使っているなら、漢字仮名混じりで考える。決してローマ字などで考えているのではない。だが、パソコンで入力するとなると、どうしたってローマ字で考えなければならなくなる。こんな不合理な事は無い。
 仮名入力なら、「仮名→漢字仮名混じり」になるが、ローマ字入力では「仮名→ローマ字→仮名→漢字仮名混じり」と面倒な手順を踏む事になる。意識していなくたって、そうなっている。それは脳に負担を掛けるだけであって、何の得にもならない。得なのは、最初にキーボードを覚える手間が仮名よりは簡単だ、と言う事くらいである。最初に楽をして後で負担になるか、その逆か。
 私は最初に負担を掛けたから、今では非常に楽で、文章など、頭に浮かべばさくさくと出来上がってしまう。それも絶対にキーボードは見ないで済む。これは文化である、と私は思っている。「東京」と変換する時に「とうきょう」とは思うが「TOUKYOU」などとは思わない。思うとすれば「TOKYO」である。私もローマ字入力は出来るが、どうしても仮名のようにスムーズには行かない。慣れないせいもあるだろうが、絶対にそれだけではないはずだ。脳に負担が掛かっているはずなのだ。
 
 多くの人々が簡単なローマ字入力に頼っているから、親指シフトキーボードは売れないだろう。だから作らないのか。人々の意識を変える事だって必要だろう。何よりもそれでずっと楽で自然な日本語変換が出来るのである。
 パソコンは進化を遂げている。しかし大事な所で進化を止めている。「考える」と言う最も重要な事で進化をあきらめてしまっている。それではパソコンに使われているだけに終わるのではないか、と私は危惧している。

日本には売国奴ばかり居るのか

2009年02月23日 | Weblog
 中川氏のバチカンでの行為について、今朝、テレビ朝日では11時25分過ぎのニュースで、スポーツニッポン、スポーツ報知、日刊スポーツなどで大きく取り上げた記事を紹介している。共同通信が配信したのだから、他のすべての新聞も同じように報道したのだろう。でもスポーツ紙は相変わらず、ど派手で大袈裟な書き方しかしないんだねえ。彼等はいつも日常でも騒ぎまくっているのだろうか。
 きっと新聞もテレビも恰好の話題と飛び付いたのだろう。何しろ、特別に話題を探して取材しなくても済むんだから楽だよね。落ちている財布を拾って猫ばばするようなもんだ。テレビ朝日は在バチカン日本大使館にまで電話を入れて、話を聞いている。何をそんなにくどくどと問いただす必要があるのか。バチカンは問題無し、と言っているじゃないか。
 もう、どうのこうのと言う問題じゃなくなっている。失態は失態。それを一つ一つ細かく取り上げて、コメンテーター達に発言を求める必要なんか無い。コメンテーターもコメンテーターだ。それが仕事なんだから仕方無いのだろうが、もっとほかに言うべき事、考えるべき事があるだろうに。
 マスコミはこうしたコメンテーターも含めて、一体我々日本人の味方なのか敵なのか。私にはどうにも敵にしか見えない。評論家も政治家も議員もすべて敵にしか見えない。アメリカやロシアや中国から金をもらって、あるいは脅迫されて寝返っているとしか見えない。

 きのうもさんざん書いたが、こんな事では北方四島なんか帰って来ない。竹島だって韓国に占領されたままになる。尖閣諸島だって中国の支配下のままになる。拉致被害者だって帰って来ない。アメリカは日本が承認したクローン牛(豚だったか?)の肉を買えと言っている。
 アメリカは日本に対して数々の「要望書」を出している。確か年間に何百件とかある。みんな我々の暮らしに関係ある事ばかりである。そのほとんどを日本は受け入れているのだと言う。もちろん、アメリカに都合が良くて、日本には都合の良くない事ばかりである。日本に都合がよい事なら、何も「要望書」など出されなくても日本から率先して受け入れるはずである。この「要望書」が日本に対する脅迫だと言う確たる証拠がある。
 「要望書」の原語は以前は「submission」だった。「書類などの提示、提出」「提案」などの意味もあるが、英和辞典では一番先に「服従・降服」の意味を挙げている。持っている研究社の「ライトハウス英和辞典」も、三省堂の「ニューセンチュリー英和辞典」も、どちらも同じである。
 それが近年、「submission」との呼び方を変えたのだと言う。日本がアメリカの言う事をよく聞くようになったので、もっと柔らかな意味の言葉に変えたのだそうな。そうした事を日本の役人は平気な顔をして受け入れ、隠している。知っている人々も我々には教えてくれない。

 息子が、「外でね、怖そうなお兄さんから、月夜の晩ばかりじゃないぞ、と親に言っておけ、と言われたよ」と報告した時、我々なら、すわ、と立ち上がり、警察に連絡するとかするだろう。だが、日本の「偉い」人達は、「そうだそうだ。新月の晩だってあるぞ。言う事はもっともだ」と納得してしまうらしい。あははは。
 更に悪い事には、「そもそも、月と言う物は地球の周りを29・5日掛けて回るのだから、その間に満ちたり欠けたりして、月夜だって明るさが違うのだ」などと能書きを並べるのである。「いや、そればかりじゃない。月の出は一日に50分くらいずつ遅れて行くのだから、月夜の晩その物も時間帯が違うのだ」などと、けんけんがくがく、言い争うのである。

 みなさん、確かにおっしゃる事は正しい。誰も間違った事など言っていない。でも、正しい事を言う事が、そんなにも素晴らしい、役に立つ事なのか? 「ごめんなさい、私が悪うございました」と謝って引き下がった人間に、謝り方が悪い、言っている事が前と後で違う、などと文句を付けて、いつまでも引きずって、何の役に立つのか。
 その人間が駄目だ、と思うなら、以後付き合わなければよろしい。その人間を引き立てる人もまた駄目だ、と思うなら、その人もまた、無視すればよろしい。それしか方法が無いではないか。今のマスコミのやり方は、謝った人間を今度は法廷に引き出して、量刑を科そうとしているように私には思えるのだが。
 ホントにしつこいよ。いい加減にしろよ。そうしたしつこさはもっと別の方面で生かすべき所が一杯あるじゃないか。それは難しいから、安易な事でごまかしている。我々を舐めるんじゃない。

中川問題。何で身内の恥さらしに夢中なのか

2009年02月22日 | Weblog
 おかしいよねえ。相変わらず身内の恥さらしを続けている。自民党は寄ってたかって中川氏を非難し、任命権者たる麻生総理を非難する。皆さん、御自分達で麻生氏を総理に選んだんでしょう? 総理に任命したその任命権者としてのあなたがたの責任はどうなるの?
 政党政治だから看板が駄目では戦えないと言う。へーえ、皆さんは御自分の力で選挙戦を勝ち抜いて来たんじゃなくて、自民党と言う政党の名前で勝たせてもらったんだ。もちろん、そんな事、我々はとっくの昔に知っている。小泉の刺客問題。あんな卑怯な手段でも、自民党の押す候補だから当選したのである。まあ、投票する選挙民も馬鹿だけど。
 でもそうすると、無所属議員なんて実に立派だねえ。政党政治の世界で、政党の力を借りずに自らの力で当選しているんだから。そしてその議員を選んだ選挙民も実に偉い。
 結局、政党政治とは徒党を組んで自分達の要求を通したいだけじゃないか。要求を通したいのは、それが利権に繋がっているからだ。それに決まっている。
 無理を承知で言うが、一度政党などすべて解散してしまえばいい。全員が裸の候補者として主義主張を述べ、それを選挙民が判断する。実に分かり易く公明正大である。もっとも、今の選挙民はそうやって候補者を選定する能力を磨いていないから、政党の名前で選んでいるから、そう簡単には行かないが。

 それはそうと、若手議員も含めて、テレビなどに取材されると喜んでぺらぺらと恥ずかしい身内の批判発言をしている。そうした性向が自分の値打ちを自ら下げている事に何で気が付かないのか。自分が所属している党の批判をする事は、自らを批判している事にもなるんですよ。そうか、前から批判はしているのだが、それが受け入れられないのか。でも、そうなると、何で自分達の切なる願いを聞き入れてくれない政党なんかに所属しているんだ? そうだよね、党の力で当選している事を実感しているんだもの、それしか出来ないよね。
 民主党もホントに馬鹿だねえ。そんな批判をしなければならないような内閣を作っている政党に負けている事を、はっきりと天下に示している。こんな事態になっているからこそ、人気投票では小沢党首が麻生総理を遙かに上回っているだけの話ではないか。
 きのうの夕刊に中川氏があの「もうろう会見」後にバチカン博物館で柵を越えたり、触れてはいけない美術品に一、二回触ったと言う記事がある。しかし、いずれの場合も博物館職員は問題行為とは捉えなかったし、制止もしなかったそうだ。バチカン側も今後、中川氏に抗議などをする考えは無い、と言っているそうだ。
 こうした事実はローマ法王庁の関係者の話で分かった事であり、テレビや新聞で報道された訳ではない。東京新聞の記事からはそうとしか判断出来ない。この記事は「ベオグラード=共同」とある。つまり、誰もが問題にしていない事を、共同通信社は世界にだろうか、配信したのである。
 もっとも、こうした配信があったからこそ、こうした「事件」があった事を我々は知る事が出来ているのだが、別に知らなくても一向に構わない。肝心のバチカン側が問題になどしていないのである。共同通信社のホームページには「日本を代表する総合国際通信社」とある。日本は政治家はもちろんの事、議員もそしてマスコミも揃って我々日本人の恥を世界に晒して恥じないのである。
 私は前に、自民党は誰もが同じ穴のむじなだ、と言った。そして民主党も同じだと言った。マスコミだって同じなのだ。

 我々の家族の事で考えてみる。家族の誰かの恥を世間に話して回る馬鹿が居るか? 子供を見れば親が分かると言う。妻を見れば夫が、夫を見れば妻が分かるのである。家族は一心同体。個性は違っても一心同体なのだ。
 政党ももちろん同じ。議会政治も同じ。日本も同じ。みんな一心同体で運命共同体なのである。互いに知恵を出し合って助け合い、協力し合ってこそ日本は発展出来る。仲間内に敵が居る訳ではなかろうに。
 そんな事しているから諸外国から見透かされ、勝手放題の事をされるのだ。アメリカはもちろんの事、ロシアも中国も韓国もそして北朝鮮もみんな手放しで喜んでいる事だろう。これでますます日本をいじめ易くなったってね。
 「アメリカをやめた」アメリカ人が居る。カナダに移住し、多分カナダ国籍を取得したのだろう。同じ英語が通じるからそれが出来る。しかし日本語はそれだけで生活の出来る国が日本のほかには存在しない。
 大多数の人間が日本をやめる事が出来ないんだから、もっとみんなで日本を立派にしなければ駄目じゃないか。ホント、嫌になっちゃうよ。

「裁判官の爆笑お言葉集」を読んだ

2009年02月21日 | Weblog
 昨日は休んでしまった。明け方から激しい腹痛と下痢でどうにもならない。一日じっと寝て過ごした。たまたま二日前に買った新書があったので、読んだ。前から読みたいと思っていた『世界の日本人ジョーク集』(早坂隆)と『大人の見識』(阿川弘之)はなるほど、なるほど、と感心しながら読んだ。だが、三冊目の『裁判官の爆笑お言葉集』(長嶺超輝)で、はたと手が止まってしまった。とても、なるほどとは思えないのである。
 「爆笑お言葉集」と言うからには、ホント笑っちゃうよ、と言うような言葉が集められていると思う。何で裁判官がこんな事まで言わなきゃなんないの? と思うような発言だと思うのが普通だろう。ところが、違うのだ。発言の内容がとても重い。賛同、反対、両方の意味で重いのだ。

 まず最初が「死刑はやむをえないが、私としては、君には出来るだけ長く生きていてもらいたい」。
 暴力団抗争で殺害を命じられた被告がスナックで「標的」以外にも銃を向けた「乱射事件」。関わりの無い庶民まで巻き添えにして4人を射殺した。まさに極刑はやむを得ない。そして著者は極刑を言い渡しながら「長く生きてほしい」とはどういう意味か、と問い掛ける。そして結論は、「矛盾した発言のようにも思えますが、この後、説諭はまだ続いたのです。〈遺族に謝罪を続けていってください〉と。」
 つまり、遺族への謝罪と死刑の両方を言い渡した事になる。だが、法的には死刑は宣告から六ヶ月以内に施行する事が決められている。つまり、「出来るだけ長く」と言っても六ヶ月なのだ。だが、そうは言っても歴代の法相は違反してずるずると先送りにしている。と言う事は、この裁判官はそうした法律違反を犯して欲しい、と思っているのか。
 そうではなく、六ヶ月間、徹底的に謝罪せよ、と言うのなら、「出来るだけ長く」は矛盾する。著者は「矛盾したようにも思えますが」と言っているのだから、矛盾ではないと考えている。そうなると、この言葉の意味は一体?
 見出しは「一見すると矛盾、その真意は……」である。だから真意はやはり「謝罪を続けよ」である。それも「出来るだけ長く」。そして、これが「爆笑お言葉」だと言うその意味がまるで分からない。

 こうして次々に五つばかりを読んだのだが、どこにも「爆笑」する話が無い。死刑を言い渡した被告に「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」と言うのも、おかしい、と言えばおかしいが、著者は「自らの手で始末することにためらいを感じたのか。もしかしたら、量刑相場の現状に対する抗議だったのかもしれない」と書いている。
 「量刑相場」と言うのは、「全国の刑事裁判官がお互いに空気を読み合って積み上げて来た暗黙の了解」だと言う。かなり封建的な社会と聞いているから、何しろ、上級裁判所の決定には逆らえないのだと言うのだから、相当なもんだ。だから「抗議」と言うのは当たっているだろう。だが、これが「涙ながらの異例の付言」と言われると、私にはどうにも分からなくなるのである。

 そして大阪の池田小学校の事件。刃物で8人の児童を殺害し、15人を負傷させた。誰もが当然に死刑だと思っている。判決は「科すべき刑は、死刑以外にありえない」。これまた至極当然で、笑いなどどこにも無い。
 ただ、被告は自分がこうなったのは社会のせいだ、とうそぶき、死刑にして欲しいとも言う。判決言い渡しの途中で勝手に「最後に言わせてえな。どうせ死刑になんねんから」などと不規則発言を繰り返したと言う。結局は退廷させられ、被告の居ない所での言い渡しとなった。そして執行まで7年5カ月掛かるのが平均である所、この場合は一年足らずと言う「異例の早さ」だったと言う。
 この項の結論は次のようだ。
 「ひょっとしたら、彼のようなタイプにとっては、終身刑こそが自分の罪に正面から向き合わされ、最も強い恐怖をおぼえる「極刑」だったとは考えられないでしょうか」
 うーん、考えられませんねえ、私には。
 終身刑は日本には存在しない。そしてたとえ有ったとしても、死刑と終身刑の重さはまるで違うと思う。長期の受刑者が刑務所で何をさせられているのかは知らない。しかしそこは寝る場所も食事も与えられ、病気になればきちんと医者にも掛かれる。留置場に入りたいがために罪を犯す人間は決して少なくない。
 一生出られない終身刑とは言っても、死刑にも勝る恐怖感を覚えるだろうか。「どうせ死刑になんねんから」とケツをまくる被告が、生き続ける事に恐怖を覚えるだろうか。殺した8人の児童が入れ替わり立ち替わり夢に現れるとか、地獄で責めさいなまれている夢にうなされるとかなら恐怖を覚えるかも知れない。だが、何の関係もなく、8人を殺害、15人を負傷させると言う事自体が、常軌を逸している。そんな人間、いやけだものに、大体、恐怖感などと言うものが存在するのか。
 この項の見出しは「その判決は、誰のため?」だ。つまり、被告のためにはならない、と言っているらしい。

 まだほんのわずかしか読んでいないで言うのも何だが、とうてい読み通すのは不可能だと感じた。本を読むのは、著者の考えに同感したいからである。著者は自分の考えに同感してもらおうと、誰にでも分かるような易しく、そして筋の通った話の展開をする。だから「ではないでしょうか」ではなく、「である」と言ってもらいたい。自信の無い事など言って欲しくない。そんな事読むために金を払ったんじゃない。
 内容は訴える物を持っている。非常に重い。だが、何をどのように考えたら良いのかの指針が示されていない。永年裁判の傍聴をして来た著者には分かるのだろうが、裁判には初心者の我々には分からない。
 そして一つだけ、もしかしたら、と思える事がある。それは「おわりに」に書いてある。「編集担当者の方針は明確で、〈そんなふざけたこと書いちゃダメよ。それくらいにしときなさい〉と優しく注意される31歳児の心境で、私はこの本を完成させることができました。」
 「ふざけた事」を書くから「爆笑お言葉集」になるのではないのか。何かこの本には「売らんかな」の逞しい商魂と著者の良心のギャップがあるように思う。そして「爆笑」とはまるで正反対の「お言葉」がある。これは当時、私も本当に感心したあたたかな言葉である。橋本元総理が関わった1億円献金事件での村岡被告に対する無罪判決での「付言」である。付言とは、判決とは関係なく、裁判官が己の考えを述べる事である。
 「今、ちょうど桜がよく咲いています。これから先、どうなるかわかりませんが、せめて今日一晩ぐらいは平穏な気持で、桜を楽しまれたらいかがでしょうか」
 

無期懲役とはそりゃあんまりな

2009年02月19日 | Weblog
 東京・江東区で女性を性的な目的で殺害し、遺体をトイレに流したりした殺人鬼が無期懲役の判決を受けた。あまりにもひどい仕打ちじゃございませんか。
 判決が甘い判断を下したポイントは「計画性が無く、矯正の余地の可能性がある」だ。人一人殺しても、矯正出来れば、それでいいんですか。裁判官はどこに矯正の余地の可能性を見たのだろうか。そして本当にその自信があるのか。責任を持てるのか。
 テレビで見る限り、事件後、この殺人鬼はへらへらと笑いながら、傍観者の振りをして色々と話をしている。被告の「死刑になって地獄でおわびするつもりです」と言った事を裁判官は挙げているが、犯人だとばれたからそう言っているだけじゃないか。ポイントになっている「計画性が無かった」だが、犯行後、遺体を切り刻んでトイレに流したりごみとして捨てたりしたのは、明らかに計画的に事を運んでいる。咄嗟にやった事などではない。冷静に事を運んでいるのに、計画性が無かった、矯正の余地がある、などと言うのは、あまりにも人間を知らないと私は思う。
 東京新聞は、裁判官が「自己中心的で残虐、冷酷な犯行で酌量の余地はない」と断罪した、と書き、遺体の解体については「戦慄すら覚える行為だ」と強く非難した、と書いている。
 こうした発言と「矯正の余地が残されており、死刑を選択すべき事案とは言えない」との発言がどうにも合致しない。だから私は「自己中心云々」の発言は検察官の発言かと何度も記事を読み返した。私にはとても同じ裁判官の発言だとは思えない。

 裁判官は殺害行為と遺体を切断した行為とを天秤に掛け、遺体切断の行為を殺害行為よりも過大に評価する事は出来ない、と言う。そうですかねえ。計画性が無く殺害したと言うのだから、多分、魔が差したのだろう。そうした事はままあるだろう。しかし殺した相手を切り刻むのは「魔が差した」ぐらいでは出来ないはずである。いくら解体の道具を事前に用意していなかったからと言ったって、これが計画性が無い事の証拠になるのだろうか。
 被害者が一人である事を裁判官は強調したと同紙の解説にはあるが、殺された一人の命は殺した一人の命よりも軽いのだ、とでも言うつもりか。もしも同等だ、と言うのなら、殺された女性の命を今すぐに返してくれ、と私は叫びたい。殺した人間は矯正する余地が与えられ、殺された人間は遺体を切り刻まれ、トイレに流されたのではあまりにも不公平である。
 これは、計画性の有無や、前科の有無、矯正の余地の有無などとは全く関係が無い。あくまでも、自分の欲望のための殺人なのだ。そんな事が、計画性や前科、矯正などの全く別の事情で甘く判断される道理が無い。
 そうかそうか。結局は生き残った方が勝ちなのか。目には目を、歯には歯を、とは思わないが、これじゃあ、弱肉強食の世界じゃないか。

 何でもかんでも殺してしまえ、などと言うつもりは毛頭無いが、殺されると言う事がどんなに酷い事なのか、生きている裁判官には到底想像が付かないのだろう。裁判官はエリートである。だから頭は良い。しかし何でも頭で考えるからこうした判決が出せるのである。しょせん、他人事なんだものねえ。
 それに矯正の余地があるとして、無期懲役で一生娑婆に出られないのなら、矯正した余生はどのように社会に貢献出来るのか。まさか留置場で何かの製品を作ります、と言うのじゃないだろうね。無期懲役は言うまでもなく終身刑ではない。だから、社会に出られる可能性がある。そこで矯正が問題になるのだろう。そしてその留置期間は今の所は分からない。
 聞く所によれば、10年以上服役した無期懲役囚は刑法28条により、仮釈放の対象となり、改悛の条がある事を条件に社会復帰が出来るのだと言う。
 何だ何だ。結局は許してやろうじゃないか、と言う事じゃないのか。
 無期懲役の真実とこの判決に、私は大いに不満である。

中川さん、何も辞める事はないんですよ

2009年02月18日 | Weblog
 17日、朝から晩までテレビは中川財務大臣の事ばかり。何でもいいからネタが欲しいテレビ局としては、絶好のチャンス。そうしたさもしい魂胆が見え見えである。誰も彼もが寄ってたかって中川氏を批判しているが、馬鹿な事をするもんじゃない。あれは中川氏だけの問題じゃない。政治家とか、国会議員とかの全体に関わる問題なのだ。たまたま、その一端が、ああした事態として現れてしまっただけの事である。ただ、現れ方が実にまずかったとは言える。
 あれほどまでの失態ではなく、失態を演じている政治家が居ないと言えるのだろうか。
 今まで、一体何人の閣僚が、失言や何やらで辞めて行ったか。更には首相だって、いい加減な理由で簡単に辞めているではないか。いくら首をすげ替えたって無駄。だって、誰も彼も同じような人間なんだから。
 中川氏の学歴を見て、なるほどと思った。麻布高校、東大卒である。いわゆるエリート中のエリートコースだ。そうした事から、自分自身に絶対の自信を持つに至ったに違いない。議員の多くはそうした人々だ。以前、自民党で、テレビで、「僕達みたいに偉くなると」と口を滑らせた議員がいた。あわてて、選挙民にはそう見えるらしい、と言い訳をしたが、そんな言い訳が通る訳が無い。
 民主党も馬鹿な事をしているなあ、と昨日私は言った。自分達だって、もしかしたら同じ穴のむじなになり得る可能性があるのだ。麻生政権を倒して、一日も早く自分達の政権を打ち立てようとの思いからなのだろうが、同じ穴のむじなの失態を暴く事は、自分自身を暴く事にもなりかねない。
 そうではないか。民主党にだって、永田議員のような議員が居たではないか。もしかしたら、彼は何らかの罠にはまったのかも知れない。しかし、相手を、敵を追い詰める事に夢中になって、自身が穴に落ちた。
 社民党の何とか清美さんだったと思うが、名前を忘れたが、鈴木宗男氏を徹底的に非難して、そして議員の座を追われた。
 政界とは嫌な世界だと思う。相手の失敗を殊更に取り上げ、地位を奪い、自分を売り込む。失敗を何とかみんなでカバーして、この国をより良くして行こう、などと言う気はさらさら無いらしい。誰が政権を取ろうと、日本が良くなればそれでいいじゃないか。
 多分、他人の意見などに耳を貸さない連中ばかりなので、辞めさせるしか方法が無いのかも知れない。となると、本当にどうにもならない腐った世界だ。

 民主党は予算が通ってからでは遅いと、早期の辞任を迫り、自民党内からも批判が噴出して、早期辞任を実現させた。何でそんなに急ぐのか。大事な予算なんだ、それくらい最後まで責任を持たせろよ。失態は失態、責任は責任である。一度失態を見せたから大事な事は任せられないと言うのは、大人げ無さ過ぎる。結局は、誰がやってもおんなじなんだから、との考えがありありと見える。そうか、そんなに大臣なんていい加減なポストなんだ。そう国民に思わせるような事をするのは政治家としてやるべき事ではないだろう。
 民主党は、自民党の政治が駄目だから、民主党が代わって立ち上がろうと言うのだろうが、そうだろうか。そんなにも民主党が政権を取れば、日本は劇的に変化を遂げるのだろうか。役人の意のままになっている政治を変える事が出来るのか。
 もしもそうなら、日本人はみんな馬鹿だ。そうした事に今の今まで気が付かなかったんだから。私は民主党の人々の勇気にほとんど感動している。民主党の世の中になったら、今の情況が少しずつ改善されるのだろう。自民党とはまるっきり考え方が違うらしいから、そうなるに違いない。
 そうした自信を大いに持って、立ち上がっているに違いない。もしも出来なかった時はどのようにして責任を取れると言うのだろうか。
 でも、何で世の人々はそうした期待を持たないんだ? いつだって、自民党が勝って来たじゃないか。ある時などは、自民党の圧勝だった。確かに、自民党以外の政党が政権を握った事もある。それが圧倒的に国民の支持を得ていたのなら、何でそうした政権が長続きしていないのか。何でまたぞろ、自民党に復帰してしまったのか。

 多分、国民はどの政党が、そして誰が政権を担当したって、ほとんど情況は変わらないとあきらめているに違いない。だって、政治家はみんな同じ顔に見えるんだもの。今、麻生政権の支持率が驚くほどに低下していて、反対に民主党の小沢氏に対する支持率が高まっているのも、単に人気の違いくらいのものではないのか。麻生が駄目だから小沢だ、といった単純な思いではないのか。
 自民党に唯一対等に立ち向かえる民主党とは言っても、中には元自民党も居るだろう。反自民と言う点では一致団結していても、民主党独自の顔と言うのがどうも見えては来ない。もちろん、自民党だって一つの顔ではない。様々な顔を持っている。そして唯一同じ顔と言えるのが、私にはどうもエリート意識であるように見えるのだが。

中川財務大臣で、私も馬鹿を見た

2009年02月17日 | Weblog
 きのう、「英米人って意外に馬鹿だなあ」とこのブログで書いた。あれは12日に書いたもので、書けない日もあるので、書きためておいた一つである。だが実にタイミングが悪かった。朝から中川財務大臣の失態についての話題で持ちきりになっていた。午後からの予算委員会では飲んだのか飲まなかったのか、などと言う馬鹿馬鹿しい話で大事な時間を無駄に費やしている。民主党も馬鹿だなあ。
 アルコールと風邪薬などが重大な結果をもたらす飲み合わせである事は、我々だって知っている。この「○○だって」との言い方は、当然に「もちろん、××なら知っていて当然である」との意味である。従って「××」は「我々」よりもずっと上位の人間を対象としている。
 だが、この場合、この言い方は通用しない。「××」が決して上位の人間とは言えないからだ。何しろ、酒を飲みながら、薬は二倍の量を飲んでいたと言う。もう何も言う事は無いが、一つだけ、「ゴックンはしていない」とは何事ぞ。これはまるっきり幼児語である。本人は受けるつもりで言ったのは間違いない。それはニヤニヤ顔でよく分かる。それで鋭い攻撃をかわそうとしたのだろう。
 簡単なスペルさえ間違える英米人より、漢字の訓読み、音読みを自由自在にこなす日本人は素晴らしいと書いた。麻生総理などの方がずっと優秀だ、とも書いた。こうなると、前言を撤回しなければならなくなる。今回の事件の当事者は麻生総理ではないが、その盟友とも言われる中川氏なのである。
 誰もが言っているが、そばに付いていた人は一体何のために同行していたのか。もちろん、そんな「酒と薬を一緒に飲んじゃ駄目ですよ」と言うためではない。だが、相手が幼児なら、言う必要がある。物見遊山じゃないんだよ。一国を代表して会議に臨んでいる人々が、このていたらくだ。

 結局、様々な政治家の姿を見ていると、本当に、これらの人々は大人なのか、と思えてしまう。自分の立身出世の事しか頭に無い。まあ、幼い時から、競争競争の世界を生き抜いて来た優秀な子供達だったのだろう。他の子供と苦楽を共にしてなどいたら、自分だけ飛び抜ける事は出来ない。そうした感覚にすっかり染まってしまっている。
 だから、自分の事しか考えられない。それが都合の良い事しか考えられない頭を作ってしまう。好きだから酒を飲んだ。風邪を引いているから風邪薬を飲んだ。単純明快。そんな単純な頭で、この複雑な情況を乗り切る舵取りが出来るはずが無い。
 周りもすべて同じような人々ばかりだから、本当にもうどうにもならない。きのうの東京新聞の夕刊には、日本のGDPが先進諸国の中でも稀に見る下落率の高さなのは「外需頼みの弱さ露呈」と見出しを付けている。そのような事はずっと前から分かっていたはずだ。外需ばかりに狂奔するのではなく、内需拡大をどのように図るのか、と言う重要な事を考えているべきだった。それは国政を預かる政治家の役目である。しかし外国を相手の金儲けの魅力を前にして、誘惑に負けた。

 そうした目が全く無いから、例えばアメリカが自国の外需拡大のために日本に米国産品を買え買えと圧力を掛けるのを喜んで尻尾を振って歓迎した。そうしたポチの代表があの小泉氏だった。郵政民営化はその最たる物だ。確かに民営化は必要な面もある。しかしそれはアメリカの資本が日本に流入するためではないはずだ。たまたま、小泉氏の持論とアメリカの欲望が合致しただけの話である。
 そうしたアメリカのやり方を象徴している一つが、とうもろこしの生産農家が、収穫のすべてを燃料の原料として高値で売り抜いた事である。そのためにとうもろこしの値が上がり、アフリカなどのとうもろこしを主食にしている人々を飢餓の苦しみに追い込んだ。
 政治が無力だから、と言うよりも金儲けにばかり目が向いているから、そうなる。宗主国のアメリカがそうだから、子分の日本もそうなる。金儲け主義が破綻してしまった以上、そうした考えから足を洗わなければいけない。G7会議がそうした事が出来るとは言わないが、少なくとも、何とかしようと言う会議のはずである。何とも無責任な財務大臣である。本場のイタリアワイン、さぞ旨かった事でしょうね。