メールマガジン「頂門の一針」1457号に、なるほどと思える事が書かれている。麻生総理が郵政民営化には反対だったと言って、小泉元総理に「笑っちゃうよ」と言われて簡単に発言を翻した事についてである。
ある政治評論家は、「笑っちゃう」と言うのは究極の否定であり、麻生総理の息の根を止める発言だ、と言っていたが、私はそうは思わない。小泉氏は笑ってごまかすしか無かったのだと思っている。そうでしょう。今、郵政民営化反対への反論はとうてい力を持ち得ない。だから悔しいけど笑うしか無い。あれは自嘲の笑いである。それに、小泉氏自身が過去に笑っちゃうような事ばかりして来たではないか。大相撲の表彰式での、よく覚えていないが、「よく耐えた、感動した」と言うような、破天荒な褒め言葉だって、大向こうを意識した効果狙いが見え見えだった。薄っぺらなのである。私は評論家の発言に「笑っちゃった」。
「頂門の一針」では、筑豊のヤマ師も横須賀のテキ屋には歯が立たない、と言うのである。テキ屋の「自民党をぶっ壊す」と言う発言は自民党ではなく、既成の利権の構図をぶっ壊すとの意味だった、と言う。それは大方の人々も今では気付いている。行革や規制緩和が国民のためではなく、自分の都合の悪い利権の構図を書き換えるためだった、と気が付いている。だって、少しも国民のためになんかなっていないもの。その象徴が麻生総理の「郵政民営化には反対だった」の一言なのだ。
私は前に、郵政民営化は小泉氏の持論ではあったが、それがたまたま、アメリカ資本の日本の侵略政策とぴたりと重なっただけの事に過ぎないと書いた。その持論に、いつごろから気に食わぬ利権の構図の書き換えが加わったのかは知らない。あるいは元々からそうした意図だったのか。そうだとすると、なんと気の長い、そして虎視眈々と機会を狙う事に熱心な人なのかと感心してしまう。
今日の東京新聞のコラム「筆洗」の言うように、「うどん」の看板を「UDON」と書き換えたからと言って、店内が急に洋風になる訳が無い。駄目な看板はいくら書き換え、取り替えたって何の役にも立ちゃしない。
そしてみなさん、看板ばかりに気を取られているが、重要なのは看板じゃなくて、中身じゃないですか。いやいや、そうではない。看板に気を取られている振りをして、中身がいい加減である事を隠そうとしているのである。国民は中身のお粗末さにとっくに気が付いているのに、何とか看板でごまかそうとしているのが、今の政治である。
で、中身が民主党に入れ替わったらぐんと改善されるのか、と言うと、これまた大きな疑問がある。何しろ、寄せ集めもいい所だからだ。なに、寄せ集めだって一人一人が良ければ言う事は無い。それはもちろん自民党にも言える事だ。
それなのに、党全体としては一向に良くは見えないのは、一人一人が良い、とは言えない、良い人の方が圧倒的に少ないからに違いない。
前にも書いたが、政党なんて有害無益なんじゃないのか。党なんて作るから、目立つような性格を作り出す必要が生まれる。そして何人か固まると一人よりは力があるから、自分の都合のいい事を押し通す事も出来る。揚げ句には、党の性格に左右される事にもなる。
結局、一人一人の良識が埋没し、烏合の衆と成り果てる。えっ? あの人がこんな事しか言えないのか、と呆れるような場面を何度も見ている。たまに突出する人が居るかと思えば、罠に落ちたのか、功を焦ったのか、自滅してしまう。とどのつまりが、駄目な「政党」と言う形に引きずられてしまうしか無い。
ある一つの政策に対して、議員個人個人が自分の信念を述べ、賛同した人々が一つのグループを作り、多数決で決めて行く、と言う方式でいいじゃないか。それが一番公平ではないか。利権が絡みそうだったら、利権には縁の無い議員達が寄ってたかって反対するに決まっている。それに、個人の主義主張ではなく、政党の力で当選するなんていい加減な事も無くなる。
「とどのつまり」と言った。「結局」と言うような意味だが、「とど」って何だっけ、と思った。辞書で引くと、「ぼらは成長して最後にとどになるから」との説明がある。だが、四冊引いて、「とどのつまり」にその成長の段階を説明しているのはたった一冊だけだった。残りの三冊は改めて「とど」を見なければならない。二度手間である。
その一度で済む辞書には「ボラがオボコ・スバシリ・イナなどと名称を変えて成長し、最後にはトドとなる」とある。
「ぼら」を引かなければならない辞書では次の通り。
1 幼魚を「おぼこ」、やや成長したものを「いな」、成魚を「ぼら」と言う。
2 成長に従って、オボコ・イナ・ボラ・トドなどと呼び名が変わる。
3 成長に従って、おぼこ・いな・ぼら・とど、と呼び名が変わる。
さてこの四冊、2と3は同じだが、他の二冊とは違う。その二冊もそれぞれに違う。
一冊で済む辞書では「ぼら」の段階がどこなのかが分からない、1の辞書では「ぼら」と「とど」の関係が不明確、と言う欠陥がある。2、3にしても、魚の呼び名は地方によって様々に異なるから、これで正解、と言うのも難しいのではないか。
世間が「権威ある」と錯覚しているある辞書では、「とど」は何と副詞だと説明している。そして、(「ぼら」は幼魚から成魚になるに従ってその名称を替え、最後に「とど」となるところから)結局。ついに。とどのつまり。と説明し、「とどのつまり」を見よ、とあるが、「とどのつまり」には「つまるところ。結局」との説明しか無いのである。そして三度の手間を掛けて「ぼら」を見る。「出世魚とされ、3~4センチメ-トルの稚魚をハク、小形のものをオボコ・スバシリ、20~30センチメ-トルのものをイナ、成長したものをボラ、またきわめて大きいものをトドなどという。」
この説明は成長の段階と大きさとがごっちゃになっている。
とどのつまり、何冊もの辞書を見ても、疑問が残る説明なのである。これが現在の国語辞典の実体である。
ある政治評論家は、「笑っちゃう」と言うのは究極の否定であり、麻生総理の息の根を止める発言だ、と言っていたが、私はそうは思わない。小泉氏は笑ってごまかすしか無かったのだと思っている。そうでしょう。今、郵政民営化反対への反論はとうてい力を持ち得ない。だから悔しいけど笑うしか無い。あれは自嘲の笑いである。それに、小泉氏自身が過去に笑っちゃうような事ばかりして来たではないか。大相撲の表彰式での、よく覚えていないが、「よく耐えた、感動した」と言うような、破天荒な褒め言葉だって、大向こうを意識した効果狙いが見え見えだった。薄っぺらなのである。私は評論家の発言に「笑っちゃった」。
「頂門の一針」では、筑豊のヤマ師も横須賀のテキ屋には歯が立たない、と言うのである。テキ屋の「自民党をぶっ壊す」と言う発言は自民党ではなく、既成の利権の構図をぶっ壊すとの意味だった、と言う。それは大方の人々も今では気付いている。行革や規制緩和が国民のためではなく、自分の都合の悪い利権の構図を書き換えるためだった、と気が付いている。だって、少しも国民のためになんかなっていないもの。その象徴が麻生総理の「郵政民営化には反対だった」の一言なのだ。
私は前に、郵政民営化は小泉氏の持論ではあったが、それがたまたま、アメリカ資本の日本の侵略政策とぴたりと重なっただけの事に過ぎないと書いた。その持論に、いつごろから気に食わぬ利権の構図の書き換えが加わったのかは知らない。あるいは元々からそうした意図だったのか。そうだとすると、なんと気の長い、そして虎視眈々と機会を狙う事に熱心な人なのかと感心してしまう。
今日の東京新聞のコラム「筆洗」の言うように、「うどん」の看板を「UDON」と書き換えたからと言って、店内が急に洋風になる訳が無い。駄目な看板はいくら書き換え、取り替えたって何の役にも立ちゃしない。
そしてみなさん、看板ばかりに気を取られているが、重要なのは看板じゃなくて、中身じゃないですか。いやいや、そうではない。看板に気を取られている振りをして、中身がいい加減である事を隠そうとしているのである。国民は中身のお粗末さにとっくに気が付いているのに、何とか看板でごまかそうとしているのが、今の政治である。
で、中身が民主党に入れ替わったらぐんと改善されるのか、と言うと、これまた大きな疑問がある。何しろ、寄せ集めもいい所だからだ。なに、寄せ集めだって一人一人が良ければ言う事は無い。それはもちろん自民党にも言える事だ。
それなのに、党全体としては一向に良くは見えないのは、一人一人が良い、とは言えない、良い人の方が圧倒的に少ないからに違いない。
前にも書いたが、政党なんて有害無益なんじゃないのか。党なんて作るから、目立つような性格を作り出す必要が生まれる。そして何人か固まると一人よりは力があるから、自分の都合のいい事を押し通す事も出来る。揚げ句には、党の性格に左右される事にもなる。
結局、一人一人の良識が埋没し、烏合の衆と成り果てる。えっ? あの人がこんな事しか言えないのか、と呆れるような場面を何度も見ている。たまに突出する人が居るかと思えば、罠に落ちたのか、功を焦ったのか、自滅してしまう。とどのつまりが、駄目な「政党」と言う形に引きずられてしまうしか無い。
ある一つの政策に対して、議員個人個人が自分の信念を述べ、賛同した人々が一つのグループを作り、多数決で決めて行く、と言う方式でいいじゃないか。それが一番公平ではないか。利権が絡みそうだったら、利権には縁の無い議員達が寄ってたかって反対するに決まっている。それに、個人の主義主張ではなく、政党の力で当選するなんていい加減な事も無くなる。
「とどのつまり」と言った。「結局」と言うような意味だが、「とど」って何だっけ、と思った。辞書で引くと、「ぼらは成長して最後にとどになるから」との説明がある。だが、四冊引いて、「とどのつまり」にその成長の段階を説明しているのはたった一冊だけだった。残りの三冊は改めて「とど」を見なければならない。二度手間である。
その一度で済む辞書には「ボラがオボコ・スバシリ・イナなどと名称を変えて成長し、最後にはトドとなる」とある。
「ぼら」を引かなければならない辞書では次の通り。
1 幼魚を「おぼこ」、やや成長したものを「いな」、成魚を「ぼら」と言う。
2 成長に従って、オボコ・イナ・ボラ・トドなどと呼び名が変わる。
3 成長に従って、おぼこ・いな・ぼら・とど、と呼び名が変わる。
さてこの四冊、2と3は同じだが、他の二冊とは違う。その二冊もそれぞれに違う。
一冊で済む辞書では「ぼら」の段階がどこなのかが分からない、1の辞書では「ぼら」と「とど」の関係が不明確、と言う欠陥がある。2、3にしても、魚の呼び名は地方によって様々に異なるから、これで正解、と言うのも難しいのではないか。
世間が「権威ある」と錯覚しているある辞書では、「とど」は何と副詞だと説明している。そして、(「ぼら」は幼魚から成魚になるに従ってその名称を替え、最後に「とど」となるところから)結局。ついに。とどのつまり。と説明し、「とどのつまり」を見よ、とあるが、「とどのつまり」には「つまるところ。結局」との説明しか無いのである。そして三度の手間を掛けて「ぼら」を見る。「出世魚とされ、3~4センチメ-トルの稚魚をハク、小形のものをオボコ・スバシリ、20~30センチメ-トルのものをイナ、成長したものをボラ、またきわめて大きいものをトドなどという。」
この説明は成長の段階と大きさとがごっちゃになっている。
とどのつまり、何冊もの辞書を見ても、疑問が残る説明なのである。これが現在の国語辞典の実体である。