夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

情報の質と言い、テロップと言い、テレビは不親切だ

2008年09月30日 | Weblog
 9月30日、フジテレビの「めざましテレビ」で魚の中毒の話をした。釣ったイシダイを刺身で食べた人が、腹痛と下痢、嘔吐に悩まされ、全身にしびれがあり、冷たい物に触れると激痛を覚える、ドライアイスショックとか言う症状に見舞われていると言う。
 フグの毒の20倍もの強さがあるらしい。その毒を持った微生物が海藻に密生し、それを食べた魚が感染する。以前は熱帯、亜熱帯地域の海にしか発生していなかったが、近頃は静岡、神奈川、千葉にまで北上していると言う。これまた地球の温暖化の影響である。
 このニュースを紹介したあと、釣った魚にはご用心と言い、魚の専門家に見てもらえ、と助言をしている。釣った魚だけが危なくて、漁業で捕獲した魚は危険性が無いと言うのはどのような根拠があるのだろうか。そして専門家はどのような情況を魚に見て、これは毒がある、無いと判断するのだろうか。

 そうした事には一切触れない。担当者はそれで分かったらしく、それで終わり。私は釣りをしないから、まるで関係が無いが、毒の話には関係がある。本当に、素人が釣った魚と漁師が釣った魚のどこにどのような違いがあるのか。それをきちんと説明しなければ、報道をした事にならないと思う。
 多分、この担当者はそうした事を考える能力が無いのだろう。それは番組全体の評価にもなり得るのだから、危険である。もしかしたら、私の能力が不足しているのかも知れないが、どうにも分からないのだ。どなたか教えて下さい。

 話は変わるが、テレビの報道にはテロップが付き物である。要領よく、しかも分かり易く説明してくれる。それは視聴者のために存在する。ところが、そのテロップを手に持って見せる人が居る。そしてそれが話すたびにゆらゆらと揺れて見にくくてしょうがない。見えなくて良いのなら、出す必要は無い。そして興奮すると振り回す。あれあれ、それ、視聴者のためじゃなかったっけ?
 テロップが動かなくて見易い場合でも、そこに赤や黒の油性ペンで汚らしく線を引いたり、丸で囲んだりする。それが実に汚らしい。特別に線を引いたり丸で囲んだりしなくても、そこにはそれくらいの事しか書かれていないのである。見落とすはずが無い。覚える大切な事柄を、たくさんある文章の中から目に付き易くするために、参考書などに線を引くのとは違うのだ。下手に線など引くから、かえって見にくくなってしまう。
 単に演出効果の一助とぐらいにしか考えていない。線を引くなら、丸で囲むなら、もっときれいにやりなさい。小学生だってもっときれいに出来る。多分、一過性ですぐに要らなくなると思っているから、そんなぞんざいな扱い方をするのだろう。
 それにテロップを作る人の事も考えなさい。失礼です。

 お手軽な新聞記事の紹介では、拡大した紙面で、該当部分を赤や緑の枠できちんと囲み、記事には傍線まで引いている。それをきれいにやっている。そのきれいさと、乱暴に線を引くその汚らしさはまるで相容れない。新聞の情報を頂いているのだから、丁寧に扱って、自分達の情報だから汚く扱うとでも言うのだろうか。
 みなさん、マンネリになっているから、少しもおかしいなどとは思わない。
 でもホントに気楽でいいよね。新聞がたまにテレビでの画像を写真の代わりに使う事がある。だが、それくらいだ。それなのに、テレビは新聞の記事をそっくりそのまま頂戴してしまう。そこから様々な発展があるのではなく、単に紹介してそれで終わり。

 こんな事を言っていると、多分呆れられる。細かくて、実に嫌な人間だと。だがすべて大の大人の仕事である。かなりの額のお給金を頂いてのお仕事である。それにしては少々お粗末過ぎないだろうか。こんな事で高給を頂けるテレビ業界がうらやましい。それもこれも多額のCM料が入るからだろうね。そのCM料金を実際に負担しているのは誰だったっけ。宣伝広告費がその価格の中に入っていない商品を私は知らない。

閣僚辞任で麻生総理の本質が判明

2008年09月29日 | Weblog
 中山大臣が辞任した。世間は当然と思っただろうが、私はそうは思わない。なぜなら、罷免すべきだった、と思うからだ。罷免では格好が悪いから辞任した、辞任させたに過ぎない。
 何をどのように考えてもそれは本人の自由である。しかしそれは他人に何の影響も及ぼさない限りにおいてである。
 麻生氏は、中山大臣は閣僚として言うべきではない事を言った、と批判した。つまり、政治家としてなら言っても良い事だった、と言った。とんでもない事を考えている人が総理になったもんだ。政治家と閣僚とでは責任の重さが違うと言う。確かに違う。だが、責任がある事については同じである。
 考えていても良いが、口にしてはならない。つまり口にしなければ、どんな事を考えようと自由だ、と言うのである。そうか「自由民主党」と言う名称の「自由」とはそう言う事だったのか。
 政治家である以上は、その人の考え方が様々な事に反映する。反映しなければ、何の役にも立たない。単なるでくの坊に我々は大金を支払っているのではない。

 成田問題にしても、単一民族問題にしても、日教組問題にしても、事実をきちんと確認もせずに勝手な事の言い放題。中山氏の論理は単純明快。黒は黒だ、である。どんな物事にも白から黒に至る様々な段階がある。その灰色の濃淡の方が、白や黒よりもずっと範囲が広いのに、それを一切無視する。大袈裟に言えば、99・9%を無視して、わずか0・1%にしがみついている。それで良いのだ、と平気な顔をして言うのが麻生氏なのだ。
 大金持ちの麻生氏に果たして国民の痛みが分かるのか、と先日書いた。分かる訳が無い。わずか0・1%、いや、実際にはもっともっと小さい0・01%とか、0・001%程度の人の事しか分かっていない。もっとはっきり言えば、自分自身の事しか分かっていない。

 嫌だねえ、これがあの吉田茂氏の三代目だってさ。
 その吉田茂氏も存命中もその後も、ろくな言われ方をしなかった。さんざんこき下ろされていた。しかし近年の掌を返したような評価振りは一体何なのだろうか。歴史は時が経って見なければ、本当の事は分からないとは言うが、あまりにも分からなさ過ぎると思う。
 だが、私は別の思いを持っている。以前は首相に対する希望があったから、それに対しての吉田茂氏は評価が低かった。だが、日本には首相として希望を持てる人材が払底しているとの事実を身に染みて感じて、相対的に吉田氏の評価が格上げになったのではないか、と私は思っている。
 比較しての話しかそこには無い。当の麻生氏だって、国会議員と閣僚とを比較してその価値を計っている。そこには絶対的な価値など微塵も無い。すべて、比較の世界なのである。そして学校では、その比較さえしようとはしていない。比較して等級を付ける事は差別だ、などとほざいて何から何まで平等にしようと言う。
 どうしてだかお分かりだろうか。

 どこもかしこも「どんぐりの背比べ」である。平凡でぼんくらな人間ばかりなら、努力もせずにのうのうと生きられる。そしてちょっとばかり知恵や才能があれば、それこそまたたく間に頂点に上る事が出来る。つまり、「努力せずに出世する法」なのである。
 でも、日本国内ならそれで通るとしても、一歩外に足を踏み出せば、途端にそれはガラガラと崩れる。それは現に目に見えている。単に気付かずに脳天気で日々を過ごしているだけの事である。だから北朝鮮からでさえ見くびられている。その見くびられた小泉氏は、さらに日本国民の総レベル低下を目論んでいるらしい。その顕著な現れが、次男を後継者に決めた事である。優秀な大学を出て、ほんのわずかばかり父親の秘書役をしたからと言って、政治家としての信念や心情が学べる訳が無い。議員になってそれを学ぶなどと、とんでもない事は許されない。そんなお坊ちゃま修業に国民の税金は使わせない。
 ぼんくら、白痴化を進めている日本に、今夜はやけ酒でも飲みますか。

電車の色からも人間からも個性が失われて行く

2008年09月28日 | Weblog
 電車の車両がステンレス装になり、ひとときはカラフルだったのが、帯一本にカラーを残すだけの無愛想な色彩に変わってしまった。先頭車両の形に色々と工夫を凝らしてはいるが、電車はほとんどの場合に横から眺めるのであって、ほとんど同じと言うような情況である。私はそれがとても寂しい。
 カラー車両の登場は劇的だった。東京では、中央線がオレンジ、山手線が緑、京浜東北線が青、総武・中央の緩行線が黄色だった。だから、大阪に行って、環状線がオレンジだと知って、変な感じがした。記憶では当初は山手線は黄色だったと思う。ほかはまだあのチョコレート色だったから、それは本当に衝撃的だった。そして他の路線もカラー化する段階で、黄色を譲って緑色になったのではなかったか。

 私鉄もそれぞれに個性的な色彩だった。私は特にオレンジとベージュの大胆な色彩の東武鉄道が好きだった。古い車両を塗り替えたのは冴えなかったが、新しい車両は艶と言い、何とも美しかった。どちらかと言うと、玄人好みのように思った。センスがあるなあ、と思った。もっとも、センスなどは好みの問題だ。
 東急東横線も緑一色がユニークだった。下ぶくれのスタイルと共に人気があった。
 営団地下鉄丸の内線は真紅に白の太い帯、帯の中は銀色の波模様だった。同線は目立ちたがり屋ではないが、頻繁に地上に姿を現す。それだけ東京は山と谷に覆われているとの証拠でもある。地上を走るその姿は鮮烈だった。京浜急行とよく似た色調だが、帯の太さとその波模様で差別化が出来ていた。
 そうした個性的なカラー車両が、ステンレス化で一斉に似たような色彩になってしまった。帯一本での勝負だから、似てしまうのは仕方がない。それでも緑色だった東横線が赤の帯になっているのは何とも合点が行かない。まるでイメージが違う。シンボルカラーとは一体何だったのか。

 個性的でなくなったと同時に、美しくもなくなった。私にはそう見える。いつも乗っている都営地下鉄の新宿線などは、これは当初からだが、山手線とほとんど同じ。山手線が上下二本の帯なのに対して、一本との違いだけに見える。
 電車に限らず、個性がどんどん失われて行くように思う。政治家にしても皆、粒が揃って小粒で、駄目な所もそっくりだ。新聞にしても、外国の記者は日本の新聞はどれも同じだ、と言うそうだ。たまに違うな、と思うと、つまらない細かな所だけの違いだったり、間違って違っている事さえある。
 一時は日本列島総中流化意識が言われ、今は総下流化になった。テレビによる総白痴化も言われた。秋篠宮妃の父上が「うちにはテレビがありません」と言った時など、日本中が驚いたはずだ。どうも日本人は一斉に同化するのが好きらしい。抜きん出ると叩かれる。そうやって恐る恐る他人を、周囲を窺い、生きているような気がする。抜きん出ると叩くのは嫉妬からだろう。

 昔、仲間の女性の編集者達から、へーえ、外国行った事ないの、と呆れられた。いいじゃないか、そんな事、人それぞれだ。私は腹の底で思う。俺はね、外国生まれなんだ、そして日本にやって来ただけなんだ、今更外国に行こうなどと思ったりはしないんだ。
 そんな事だから、個性化と言うと、突飛な事を考えてしまう人々が大勢いる。それも身を飾る事で。なんで生き方、考え方を個性的にと考えないのか。個性的に生きる事、考える事がどのような事か分からないからだ。メディアがそれを教えない。「品格」が流行ると見ると、それっとばかりに一斉に「品格」一辺倒になる。それもまことに底の浅いやり方で。自ら品格を失っている事に気が付かない。政治も一様な人間どもの方が御し易いだろうしね。

 話は違うが都営バスの車体はほとんどがラッピングと言って、企業の広告で包まれている。都バスの顔は前だけだ。変化に富んでいて、とても楽しい。街の景観にも利する所が多いはずだ。それを分かりにくいと非難している投書が載った。公共の運輸機関だから分かり易くなくてはいけない。だが、その理由がおかしい。前を見ないと区別が付かず、迷惑だと言うのだ。私もしょっちゅう、あれっ? これって都バスなのか、と危ぶんでしまう。でも一向に困らない。あまりバスには乗らない事もあるが、それだけではない。
 バスを見分ける必要があるのは乗る時だ。その時に、私鉄のバスはそれとすぐに分かる。特定の人しか乗れない企業のバスと間違える事も無い。なぜなら、停留所で待ってパスに乗るのだから、どこ行きかも、どこの会社のバスかも分かるはずだ。みんな、バスの来る方を見て待っている。それに企業のバスが止まるはずも無い。
 つまり、この投書の主は横とか後ろからバスを見掛けて追い掛けて乗る事が多いらしい。何とも危ない、しかも切羽詰まった事をしているらしい。もっと余裕を持ちなさいよ、と思う。見ている限りでは、走って来て、やっと間に合うような人は滅多に見掛けない。みんな、五、六分も前から並んで待っている。
 ただ、私がナンセンスだと思っても、新聞がその投書を採り上げている以上は、そうした主張ももっともだ、と思った訳だ。それとも、投書者の「広告収入ばかり考えるな」の批判に同調したのか。何とも合点が行かないのだが。

東京新聞・星野智幸氏の「分かりやすさの罠」に拍手

2008年09月27日 | Weblog
 東京新聞に作家の星野智幸氏がコラムを書いている。9月26日、「わかりやすさの罠」と題して、「文学賞の応募作品が読みやすく分かりやすい作品が多いことが気になった」と書いている。その一部を御紹介する。

 本屋や相撲界を見渡せば「品格」の嵐。スポーツ報道では執拗に「感動」を強要される。政治に目を向けると、「自民党をぶっ壊す」に始まり、「改革」「テロとの戦い」といったワンフレーズに熱狂する。「エコ」と謳われれば確かめもせずに商品に飛びつき、「ワーキングプア」と口にすることで、「格差社会」なるものの実態を理解した気になる。
 いずれも、雰囲気や現象を表しているだけの言葉で、重要なのはその中身のはずだ。それを知るには、もっと大量の説明の言葉が必要となってくる。

 結局、その大量の説明は読みにくく、分かりにくい。それは当然だ。そんなに真実が簡単に分かるはずがない。けれども現代人は、分からない事を丁寧に読み解くと言う訓練が出来ていない。ものすごく短絡的でせっかちだ。だから、同氏が言うように「つまり、ひとことで言うとどうなんだ」の要求になって現れる。その「ひとことで言うと」が「分かった気にさせてくれるキーワードなのだ」。
 そのキーワードが「罠」なのだ、と同氏は言う。キーワードに別の説明が隠されていても、それに気が付かない。だから政治や経済に騙されるのだ、と言っている。非情に身近な事では、我々は常に食品の偽装に騙され続けているのである。

 こうした事については、「罠」とは言わないまでも、慧眼の編集者にはとうの昔に分かっていた事である。私の先輩の編集者達は、私の拙いわずかばかりの著書に対して、あんな分かりにくい事を書いては売れないよ、と忠告してくれていた。分からなくてもいい、分かった気にさせる事が重要なのだ、と。それは自分の作った書籍や雑誌が体験した様々な事柄から実感された事なのだと私は思っている。
 ベストセラーを連発していたある出版社からも、私の原稿に対して、内容はその通りだと思うが、当社では本にはなりにくい、と言われ続けて来た。「ひとことで言うと、どうなんだ」が私の原稿には欠けているのである。その編集者は言った。「分かりやすくなければ売れないと言う風潮は苦々しく思っていますが、残念ながらそうしないと売れない。当社もそうした商売を恥ずかしながらしております」と。

 水泳の北島康介選手が二冠達成で、感極まって「なんも言えねー」とだけしか言えなかった。その言葉の裏に、我々は数々の努力を見ている。知らなくても常識でそれくらいは分かる。だから彼の隠した涙と共に、大きな感動で受け取った。これこそ、まさしく「ひとことで分かるキーワード」なのだ。
 ところが軽薄な小泉氏が、それを真似して受けた。だが、我々は小泉氏の数々の言動を見ている。それは北島選手の言葉とは遙かに大きな断絶がある。小泉氏は常に「ひとことのキーワード」で世間を味方に付けて来た。はっきり言えば、騙し続けて来た。こうした事を星野智幸氏は「分かりやすさの罠」と言っているのである。

 自分の事で恐縮だが、私は今、「分かり易さ」と「大量の説明の言葉」をどこでどのように妥協させるかに悩んでいる。星野氏の作品は読んだ事がなかったので、こんど是非読みたいと思っている。

三越が不採算店舗を閉鎖/商業の使命とは何か

2008年09月26日 | Weblog
 伊勢丹と経営統合した三越が不採算店を閉店すると言う。その中に東京・池袋店が入っている。池袋に三越がある? と不思議に思う人もいるはずだ。同店はかなり影が薄い。しかし池袋にあるデパートとしては老舗の内に入る。
 最盛時、池袋には、西武、東横、丸物、東武、三越の5店舗があり、しのぎを削っていた。国電は山手線と赤羽線、私鉄は東武と西武しか無い。同じ副都心の新宿や渋谷に比べて集客率は落ちる。そこで5店である。
 丸物は経営破綻して、京都の本店も消滅した。そこは今では近鉄百貨店になっている。丸物の跡は西武がパルコを作った。東横は小さいながらも本格的なデパートで(創業当時、西武は木造の二階建てだった)信用もあったが、東武と東急が地下鉄を通じて相互乗り入れを実現したのを機に、東武の地元である池袋から撤退し、東武に譲った。
 こうして東武、西武、三越の三つ巴合戦が始まった。東武と西武は鉄道のターミナルデパートだ。だから地の利が良い。その点で、三越は駅からはちょっと離れている。だが、そこはブランド力。頑張りを見せて来た。
 だが、それもとうとう、終焉を迎える。

 気になるのは、同店がどれほどの損失を招いていたか、である。不採算とは言うが、東京で言えば、銀座店、日本橋本店の利益を食いつぶしてしまうほどだったのか、と言う事である。
 冗談言うな、店とは一店だけでも採算が取れなければ意味が無いのだ、と言うのかも知れない。もちろん、店としてはそうした気概が必要だろう。よその支店が儲かっているから、うちはいいんだ、などと考えている経営者が居るはずも無い。
 しかしそれは店の事情である。客にとっては、そんな事はまるで関係が無い。損してまで経営せよなどと馬鹿な事を考えている客はいない。けれども、商売には連結決算と言うのがある。グループ全体で利益が挙がっていれば良い、との考え方のはずである。
 三越の本店は江戸時代からの信用がある。ご存じとは思うが、同店は元は呉服屋の「越後屋」である。落語家・木久扇の「越後屋、お主も悪よのう」の越後屋ではない。関西で、お歳暮やお中元で一番喜ばれるのはどこのデパートの包み紙か知ってますか、と私は京都で聞かれた。京都には四条河原町に阪急があるから、当然に阪急ですか、と答えた。
 正解は大丸だった。それと同じく、東京で一番喜ばれるのが三越の包装紙なのだ。ずっと変わらない、あの白地に赤の包装紙である。東京では大事な品物は三越で調達するのが相場と決まっていた。正田家が、皇室への輿入れの時に、花嫁道具を高島屋で調達したのが話題を呼んだくらいである。それほどの地位を三越は持っている。今では権威はそれほどではないにしても、腐っても三越なのである。

 いや、もしかしたら、三越も腐ってしまったのか。と思わせるのが、今回の池袋店閉鎖である。ブランド力、そして顧客の利便性を考えたら、不採算だから、と簡単に撤退すべきではないだろう。いかに不採算が続いていようとも、なにくそ、と踏ん張るのが老舗ではないのか。長い間のご愛顧を考えれば、ここで踏みとどまらなくてどうする、との気概があっても良いのではないのか。
 結局はすべて金、金、金なのである。伊勢丹だって、意地を見せた事があるではないか。文房具で、何か、おもちゃのようなのが流行った事がある。それが何だったか思い出せないのだが、伊勢丹は、当店ではそのような商品は絶対に売りません、と見得を切ったのだ。『暮しの手帖』で花森安治氏がその根性を褒め讃えていた。それは金の問題ではなかった。それこそ消費者のための方針だった。

 今、そうした心意気が、あらゆる部門から消え去ろうとしている。すべてが儲けに繋がっている。そんな風だから、江戸幕府は「士農工商」と蔑んだのである。もちろん、これが根拠の無い、単なる幕府に都合の良い政策であった事は承知している。だが、他人のふんどしで儲けるその根性を汚いと考えた事は確かである。商業がなくては我々の生活が成り立たない事くらい百も承知している。
 だからこそ、儲け主義ではなく、世のため、人のための商売を心掛けなければ駄目だろう、と言うのである。儲けはそのお返しくらいに思っているのが、健全な商業なのではないだろうか。そんな甘い考えでは海外からの進出に負ける、と言うのであれば、それこそ、国民が一丸となって、そうした良心的な企業を守るべきである。これは単なる「攘夷」ではない。きちんと筋の通った人間的な「攘夷」である。

テレビの「雑学」は程度が高い・クイズ「雑学王」

2008年09月25日 | Weblog
 テレビ朝日の「クイズ雑学王」を見たが、程度が高いのに驚いた。芸能人大会だったが、一般正解率3割の問題でも、大半の出場者が答えられている。私なんか、半分も分かったかどうか。
 和食の調理人はプラスチックのまな板は使わず、木製しか使わないが、その理由は? との問題があった。一般正解率と出場者の何人が正解だったかは覚えていないが、正解を答えられた人が居るのに本当に感心した。普通は「まな板」「俎」と書く。「俎」は常用漢字ではないから、一般に使われるのは「まな板」になる。だが、その前の漢字の問題では「真魚板」を何と読むかが主題されていた。これは「まないた」だ。ただし、なぜ「真魚」なのかは、出題としては全く問題にしていないので、分からないままに終わる。

 「まな」は普通には「仮名」に対しての「真名」であり、それは漢字の事だ。国語辞典でも「真魚」を説明しているのは少数だ。その一つの「新明解国語辞典」には「食用としての魚。雅語」とある。ただ、面白い事には、「まないた」の項では、「魚(まな)板の意味」とある。「まな」は「愛娘」「愛弟子」などと書くが、「真娘」「真弟子」でもいいらしい。意味は「いつくしんでいる」である。
 だから、食用にするような魚なら「まな=真魚」と書くのは分かる。だが、これは文字があってこそ成立する話で、「まな=真」をたまたま「魚」に使ったに過ぎない。従って、「まな板=魚板」は成り立たないはずだ。
 「岩波国語辞典」は「まないた」の表記こそ「俎板・俎」だが、「まな(=真魚)いた(=板)」で、もとは魚を料理する板の台、と説明している。同書には「まな=真魚」の項は無いのだが、あってしかるべきではないだろうか。

 この二つの辞書に限って言えば、私は「岩波」の方が良いと思う。「真魚」はあくまでも「まないた」があってこそ成立する話だからだ。それに、「食用としての魚」の説明はあまり感心出来ない。つまり、食用して親近感がある、との意味なのだが、「親近感」の説明は「まな=愛」にしかなく、その用例は「愛娘」「愛弟子」なのである。まさか娘や弟子を食ってしまう訳ではなかろう。それとも、食べてしまいたいくらいに愛しいのか。

・まな(愛)=その人がかわいがって育てているところの人間であることを表わす。
・まな(真魚)=食用としての魚。

 この二つの説明のあまりの断絶振りには驚くしかない。

 さて、肝心のクイズの答だが、「包丁の刃が傷まない」が正解であると言う。
 私はずっと木製のまな板を使っているが、まな板が傷だらけになるのが気になっていた。普通は良いのだが、食材を叩く時、細かい木屑が入り込むのである。まな板が削られている証拠である。だからプラスチックの製品を買って、叩く時にはそちらを使う。ただし、硬いせいか、どうもあまり手応えが良くない。適当にまな板に切り込んでいるくらいがちょうどいいのではないのか。
 それが実は包丁を保護している事にもなるのだと言う。確かに、硬い物にぶつけるよりは柔らかい物にぶつける方が、刃は傷まないだろう。
 だが、私はこの正解に疑問がある。
 調理の職人は仕事の前には包丁を研いでいるはずだ。大工が何よりも道具の手入れに時間を掛けるのと同じだ。一度切れば、刃は確実に傷む。刃が傷む事を心配していて料理が出来るのか。それよりも、私は自分で包丁を使っている感触からは、切り心地の方を大切にしたい。木製だから、生地に切り込む。その感触が良いのだと思う。
 プラスチックよりは刃が傷まないのは確かだが、そんなケチな根性で料理をやっているとは思えない。まあ、勝手な想像ですけど。

 こうしたテレビでのクイズは通り一遍の事が多い。なぜそうなるのかを追究したりはしないのだ。それは真実よりも面白さを一番に考えているからだと思う。そして解答者の瞬時に答が出る事に感心した。多分、編集して、考えている時間を短く見せているだけに違いない。頻繁にCMが入るからそれでごまかせるが、CMが入らない場合には編集をしているはずだ。そうでなければ、本当に芸能人達の頭の良さには関心するほか無い。これは妬みではありません。
 「雑学」でもいいから、もう少し芯のある番組を考えてくれないだろうか。

麻生氏の自邸は3万坪。他人の痛みの分からない人が増えている

2008年09月24日 | Weblog
 先日、不誠実な編集者について不平不満を述べた。トラックバックをもらって、そこには私の甘さが批判されていた。一部はもっともであり、一部は多少誤解されている懸念もあるが、それは公開している。そして息子からも言われた。
 社員は自分の思う通りにはならないんだ。自分が良いと思っても、上の方で駄目、と言われれば仕方ないじゃないか。立派な出版社なんだから、と。
 私は社員に対して文句を言ったのだが、会社は社員一人一人が作るのだから、結局は出版社に対しても文句を言う事になる。だが、あの時にも書いたが、言いようがあるだろう。私はいいと思ってるんですが、企画会議で通りませんでした、と言われればそうですか、と素直に引き下がる。しかし、「面白い。他社に見せているといけないので、早めに連絡した」との言葉と、「内容が散漫で駄目です」との言葉の開きの大きさに私は唖然としてしまったのだ。しかも知らん顔を決め込んだ。その考え方が許せないのである。

 今日、新総理・麻生氏の自宅が3万坪もある大邸宅である事をテレビで紹介していた。家が豪壮であって悪くはない。だが、それでは他人の痛みが分からないのでは、と心配する。それは鳩山氏も同じ事。都内の一等地にあれだけの豪邸を持っている。祖父から受け継いだ物とは言え、やはり他人の痛みが分かるのか、と心配になる。
 48年前、馬鹿な右翼少年に刺殺された浅沼稲次郎・社会党委員長は六畳と四畳半二間の長屋の都営住宅暮らしだった。だから良いと言うのではないが、庶民の暮らしの分かる人物だった。当時でさえ、この長屋暮らしを予想外に思った人は大勢いるはずだ。

 人間は誰しも自分が苦労してみて、初めて他人の苦労が分かる。偉そうな事を言っている私自身、今にも飢えで死にそうな人の気持は分からない。若い時の苦労は買ってでもせよ、と古人は言った。麻生氏も鳩山氏も、おそらくはお買いになった事はないだろう。
 そうした人に果たしてこの大事な日本の政治を任せられるのか。ブレーンだって、みんな他人の苦しみなんか知らない人ばかりになるのだろう。
 人の痛みを知らない、と言えば、あの小泉チルドレンの「刺客」はその最たるものだろう。自分が刺される痛みが分からないから、平気で他人を刺す。わざわざ、他人の痛みの分からない人間を議員候補に立てる。もちろん、小泉氏自身が他人の痛みが分からない。だからアメリカに尻尾を振って、自分だけがいい子犬になろうと画策した。北朝鮮に行けば、やはり自分一人の権力維持のために、大勢の拉致被害者を犠牲にした。

 ねえ、どうしてみんな誰も彼も自分の事しか考えないのだろう。その日暮らしの人間が自分の事だけしか考えられないのは当たり前。だが、表舞台に立つ人々は少なくともその日の暮らしは十分に成算が立っている。恐らくは一生、成算があるのだろう。
 そんなゆとりがあるのに、自分の事だけに夢中になっている。残りの四人の総裁候補だって、本当に他人の事、見知らぬ人々の事を考えていたか。
 人間の器が大きいと言うのは、それだけ何もかも飲み込める容量がある事を指している。金儲けだけ飲み込んで、あとは要らないよ、と言う人間を器が大きいとは言わない。「金儲け」を「栄誉」と言い替えても同じだ。
 「他人の痛み度チェック」なんて、どなたか発明してくれないだろうか。任天堂もさ、セガもプレイステーションもさ、子供の思考力を奪うゲームばかり作ってないでさ、もっと世の中のためになるゲームを作ったら? 政治家一人一人のありとあらゆる要素を読み込んで、誰もが自由にチェック出来るソフトなんて作れば、大人には絶対に受けると思うけどなあ。あ、もちろん、プライバシーは尊重するけどね。

口紅つけた豚・その2と東京新聞

2008年09月22日 | Weblog
 昨日書いた「口紅つけても豚は豚」は、私の思い違いではなく、やはり自民党の総裁選の事だった。
 今日9月22日のテレビ朝日のニュースショーで、口紅つけても豚は豚、がやはり自民党の総裁選の事だと分かった。ニューヨークタイムズが、アメリカの共和党と民主党の争いと同じだ、と言ったと説明した。これまたとても短い説明なので、見逃す恐れは十分にあったが。それにしても馬鹿にしている。これから行われる総裁選の結果が既に分かっている。結局、自民党の一人芝居だった。
 福田総理の辞任について、今日の東京新聞に「自民党にとって愚行か英断か」と言う記者の書いたコラムがある。面白い事を考える人が居るものだ。辞任表明を機に自民党の支持率が上がり、民主党は「総裁選劇場」の陰で埋没する危機にさらされた。
 この事を自民党にとって有利か不利か、と考えている訳だ。
 そりゃあ、一時的にも人気が回復(任期を縮めて人気回復とはこれいかに)したのは自民党にとっては幸いだろうよ。だがそんなのは砂上の楼閣に過ぎない。そんな事に一喜一憂しているから自民党は駄目なんだ。そんないい加減なふわふわした国民に支えられて大事な政治が出来ると言うのか。
 首相候補が口紅つけた豚に例えられた事は世界中が知る所となっただろう。アメリカの大新聞がそう書いたと言う事は、アメリカ政府だって、そう考えていると見て間違いはないと私は思う。豚が総理になった国をアメリカがどのように処遇するか。もう目に見えている。以前からそうだったが、それが更に増強されるだけだ。
 愚行に決まっているじゃないか。

 この記者はコラムの最後にまたまた面白い発言をしている。

 福田首相の辞任は自民党にとって愚行なのか、英断なのか。間近に迫った衆院選で、有権者が投じる一票で決まる。

 選挙で自民党が勝てば、英断だったと言う事になると見ている。となると、これについては、有権者に責任がある事になる。そんな馬鹿な。有権者は単に、自民党は実績がある、民主党は実績が無い、だけで判断しているのではないだろうか。自民党の実績がどんな物だったかを既に忘れている。ホント、日本人は忘れるのが早い。だから何度だって同じ事が繰り返される。事故の汚染米が堂々と流通している事に政府がまるで関係がないかのように思っている人だって少なくないだろう。単に業者が悪い、農水省の役人が無能なのだ、と。小さな一点しか見ていない。
 だから、愚行であろうが英断であろうが、そんな事には一切関係なく、自民党に投票する有権者は大勢いる。
 でも面白い。選挙で自民党が勝てば、有権者は「総裁選劇場」を承認した事になる。つまり、有権者は世界に背を向けた事になる。そんな大胆な事を我々はしているのか。
 選挙で勝とうが負けようが、福田の辞任は愚行に決まっている。世界中が呆れ果てたのだ。それで一挙に日本に対する価値観は下がったはずだ。それなのに、自民党一党と言うコップの中しか見ていない。それこそが愚行である。そんな短絡的な見方を記者がしている限り、有権者の一票の価値が高まる事は無さそうに思えてしまう。新聞は読者のリーダーではないのか。
 このコラムの唯一の取り柄は記者の名前が明示されている事だ。以後、この記者の記事は心して読もう、と思ったのだが、同紙はほとんどの記事に署名が無い。こうした所だけ署名入りにする、その真意が分からない。その点で、毎日新聞は良かった。小さな記事にまで、きちんと署名が入っていた。
 だが、私はまだ当分は東京新聞を取るつもりでいる。気に入っている理由の一つについては別の機会に。

「口紅つけても豚は豚」とテレビの見方を考える

2008年09月21日 | Weblog
 テレビはとても分かりにくいと言う事をこれほどはっきと自覚した事は無かった。と言うか、自分のテレビへの取り組み方に対する反省である。
 二三日前、アメリカの新聞に「口紅つけても豚は豚」との記事があった、と朝のニュースショーでやっていた。同時に日本の総裁候補についての話があった。流し見をしていた私は、五人の総裁候補について、アメリカがそう評価したのだと思った。悪いけれど私は手を打って喜んでしまった。テレビのコメンテーターの一人は「五人囃子」だと言っている。雛飾りで主役はもちろん、内裏様。親王飾りだけで済ませている家庭は多い。そして次に三人官女。これは色気があってよろしい。だが五人囃子となると、非常に影が薄い。
 男のくせに私は桃の節句の頃になると、お雛様が欲しくなる。子供は男の子一人だからお雛様には縁が無い。妻は欲しいとは思わないらしい。私が欲しいと言うと、馬鹿にしたように笑うだけだ。そんな私でも五人囃子は要らない。欲しいのは内裏様だけである。

 日本には今、元首として内裏様はいらっしゃるが、政治を司る内裏様が居ない。居ると思えば、衣冠束帯だけ立派で中身はまるで空っぽ。五人囃子が内裏様になりたいと躍起になっているが、そりゃあ無理だ。誰もがそう思っている。でもほかに候補が居ない。悲しいねえ。悲しいなんて言ってられない。日本の将来が危うい。
 マスコミは誰が本命だとか、裏取引がどうのこうの、と書き立てているが、アメリカのようなズバリとした事は言わない。結局五人の中の一人が総理になるしか無いから、豚と言っても詮無き事。
 ただ、日本では絶対にそんな事言えないだろう。豚とはなんだ、と一斉にブーイングの嵐が巻き起こるだろう。でもブーイングのブーも豚だね。
 でも五人の中で口紅をつけるのは一人しかいない。おかしい。アメリカには男性に対しても、こうした言い方がされているんだろうか、とさんざん悩んでしまった。アメリカ俗語辞典にも載っていない。

 それが私のとんでもない誤解だと分かった。「豚に口紅」はオバマ氏がペイリン氏を中傷したのでは、との記事が東京新聞に載っていた。そしてそれは米国の慣用句だ、とある。でも小型の英和辞典にはlipstickにそのような説明は二冊見たが、無い。
 それはそうと、どんどん消えてしまうテレビの映像はしっかりと見ていないと訳が分からなくなる。考えてみると、今までにもこうして誤解した事が何度もあるに違いない。そして誤解と気付かずに今日まで来ているのだろう。怖い事だ。
 だがそれを防ぐ手立てが無い。テレビはみそもくそも一緒にして、細切れで「ごった煮」のような番組にしている。そこにCMがのべつ幕無しに入るから、見ている方はどうしたって集中力を殺がれる。

 五人の候補が豚ではない事は分かった。では五人囃子を何に例えたらいいのだろうか。全く能なしの総理の後継者だ。果たして彼を乗り越えられる総理が出現するのか。大臣に全くふさわしくない太田農水相しか任命出来なかった福田総理と、この五人がどのように違うのか。
 でも私は総理候補として名乗り出る人の勇気に本当に感心してしまう。こんなに滅茶苦茶になってしまっている日本を、建て直す事が出来ると思っているのか。多分、そんな事は毛頭考えていないだろう。単に後継として、少なくとも福田さんよりはましな事をやろう、と言うだけに過ぎないのではないか。
 うーん、やっぱり私は「口紅つけても豚は豚」は五人の総裁候補に対してのアメリカの評価だと誤解したままでいたい。

 話は全く違うが、冒頭の「二三日前」をきちんと読めたでしょうか。これは「23日前」ではない。それなら「二、三日前」と書くのではないか、と思う人もいるはずだ。なぜなら、20を「二〇」と書くからだ。本来は「二十」である。だから「23日前」なら「二十三日前」となり、「二三日前」とは明確に区別が出来る。それが滅茶苦茶になっているから、正しい表記では誤解を生んでしまう。きちんとした政策が無いからこうなる。
 日本は何事においても無為無策なのだ。

全国学力テストに大きな疑問がある

2008年09月20日 | Weblog
 新聞を整理していたら、全国学力テストの検証記事が8月30日に載っていた。知らなかった。読んで非常に驚いた。小学生の国語の問題だが、何で、こんな問題の出し方をするのかと、出題者の常識を疑ってしまった。横浜国大の府川源一郎教授は「設問の仕方を変えれば正答率が上がる可能性がある」と指摘している。
 問題は作文の下書きで、書き直した方が良いと思った箇所があるので、なぜそう思ったのかの理由と、どのように書き直した方が良いのかを選ぶものだ。
 なお問題にある丸囲み数字はウインドウズとマックではコードが違い、文字化けするので、「1」のように変えた。

・問題
 「1」わたしは、六年生として学校のためになるような仕事や活動に積極的に取り組もうと思った。「2」しかし、具体的にどんなことをしたらよいのかなやんでしまった。
 「3」そこで、先生に相談すると、
「あなたの好きなことが、学校のためにつながるとよいですね。」
と、話してくださったので、花が好きなところを生かせばよいと気づいたので、花いっぱのきれいな学校にしようと思った。

・答の候補
1 「2」の文には、「だれが」という主語がぬけているから、主語となる「先生」を書き足したほうがよい。
2 「3」の文は、「~ので」が続いて長くなり、分かりにくいから、一文を分けて書いたほうがよい。
3 「3」の文の「 」の部分は、先生が話した言葉だから、〈話してくださった〉まで「 」に入れたほうがよい。
4 「1」から「3」までの文は、述語が「~した」になっているから、「です」や「ます」も使ったほうがよい。

 さて、あなたは出来ましたか? 私は出来なかった。ただ、どこを探しても解答が無く、何が正解なのかは分からないままである。
 多分、正解は2なのだろう。と言うのは、1と3は明らかに間違いだ。だが、4は間違いとは言えない。我々が読む普通の本には、「である」調と「です・ます」調が見事に調和している文章が幾らでもある。本当にそれは見事だ。私もその真似をしたいと思うのだが、なかなか難しい。だからあまりやらない。
 ただ、こうした大人でも難しい事を小学生に要求するはずが無いから、答は多分、2になるはずだ。
 と、このようにしか私には考えられない。

 大体、「2」の主語が「先生」だなどと考える生徒がいるのだろうか。3だって、ナンセンス極まりない。これがナンセンスではない、と考えるのが今の小学生の学力なら、私はもう何も言いたく無い。
 それにしても、2はかなり程度が高いのではないか。大人だって平気でこうした書き方をする。そうした原稿を私は山ほど見ている。私の仕事の一つは校正である。こうした程度の高さと、1や3のそれこそ程度の低さを同列にして考えるとは。
 横浜国大の教授が指摘している事がどのような事なのか具体的には分からないのだが、私には4の設問の仕方を変えるべきだ、と言っているように思える。
 でも、本当にこうした問題が現実に出されているとしたら、私は小学生に心から同情してしまう。こんな事をさせておいて、やれ思考力が足りないなどとほざいている大人どもの顔を見てみたい。思考力が不足しているのは、こうした問題を設定する大人の方である。