夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

光市母子殺害事件での死刑判決は妥当だ

2008年04月23日 | Weblog
 この事件で、放送倫理・番組向上委員会(BPO)が乗り出して、マスコミを批判したが、その効果はすぐに現れた。23日のフジテレビでは元少年の父親のコメントを紹介した。父親の言い分はそれなりにもっともである。
 考えてみれば、誰の言う事ももっともなのである。それぞれの立場で発言している以上、それなりにもっともであるのは当然の事である。そして東京新聞によれば、BPOが乗り出したのは、弁護団からの要求があったからだと言う。何ともだらしの無い委員会である。何の主体性も無い。委員の何人かは知っている顔ぶれだからこそ、余計に情けなくなる。私はもっと芯(真)の有る人達だと思っていた。
 一つだけ、誰もが何も言わないが、まさに公平を欠いている事が有る。BPOも、そんなに公平公正と言うならば、是非とも被害者の声も紹介するようマスコミも弁護団も説得して頂きたい。
 何ゆえに被害者の声が聞こえては来ないのか。
 当たり前である。殺されてしまっているのである。それがどんなに物凄い事なのかを、本当に彼等は身に染みて感じているのだろうか。被害者の声を聞く事が出来ない以上、弁護士が何を言おうとも、殺人鬼の声だけ聞いて何の公平か。正義か。
 元少年には心理的に未熟な所があると弁護団は指摘する。罪を感じ取れない異常さ(彼等はそうは言わず、性格的欠陥のような言い方をするが)がある。それをどのように厚生させて真人間に出来るのか、自信があるのだろうか。
 性格的な欠陥は矯正する事は難しいはずだ。強姦をして服役した男が、真実を語った被害者を逆恨みして、復讐の心をずっと持ち続け、出所後に、執拗に女性の居所を探し出し、遂にその女性を殺してしまった事件がある。私の住んでいるすぐ近くの団地で起こった事件であり、その長い詳細な判決文を私は読んだから、よく覚えている。
 罪を犯した人間が社会に戻れるのは、改心する事が当然に前提になっているはずだ。そうした期待を見事に裏切る犯罪者がどれほど存在しているか。
 例えば、情状酌量をして罪を軽減し、社会に戻った人間が、再び同じような罪を犯した場合に、誰も責任が取れない。情状酌量をした裁判官が、自分は間違っていたと反省した話など、聞いた事も無い。
 元少年の話す、どらえもんの救いや死者復活の儀式などは、荒唐無稽だと誰もが思う。弁護団長は、教戒師にも以前に語っていた事実なのだから、虚偽だと言うのは不等だと息巻くが、そう言う事を言うから、それを正当だと信じてしまう人々が居る。少年だったからそうした空想の世界を信じるのは仕方が無いとしても、成年に達しても、なおその空想にこだわるのは卑怯な逃げにしか過ぎない。真に反省をしているなら、あれは未熟な自分だったのだ、と思うはずである。大人になっても変わらないのなら、その更正の成果を私は信じる事が出来ない。
 少年であっても、死んだ人が生き返らないのは知っている。知っていなければならない。知らないのは単に精神的な発達が遅れているだけに過ぎない。そうした少年を真に導くのが社会の役目ではないのか。そしてそれは果たして出来るのか。
 藤原正彦氏が著書の『国家の品格』で言っているが、人を殺してはならないのは、駄目だから駄目なのだ。そこには理由など存在しない。そうした当然の事が分からない人間の心理状態を探る事がどのようにその人間に役に立つのか。探って、その人間を真人間に出来るなら、どうぞおやり下さい。いえいえ、どうかおやりになって下さいませ。「ませ」を付けるのは嫌味でしているのではない。ある国語辞典は「して下さい」の丁寧な言い方は「して下さいませ」だと説明しているから、それに従ったまでの事である。でも、変な国語辞典だ。

 繰り返す。様々な人々の意見を公平に伝えるのがマスコミの任務だと言うなら、是非是非、被害者の意見をも伝えて下さい。それが出来ないのは分かっている。つまり、もう既に公平など無視されているではないか。それを仕方の無い事だなどとごまかしてはいけない。残された公平さを尊重するのだ、と言うのかも知れないが、そんな中途半端な公平さを、果たして「公平だ」と胸を張って言って良いのだろうか。その不公平さを何とか是正する方法は無いのかと知恵を絞るのが、司法と検察と弁護士の仕事ではないのか。
 思い上がってはいけない。我々人間が出来る事など、たかが知れている。その昔イエス・キリストは言った。あなたがたの内、自分の意志で誰が身の丈を一寸でも伸ばす事が出来ようかと。うろ覚えなので、間違っていたら御勘弁を。でも本質は間違っていないつもりです。
 生まれて来て、死んで行くのも自然の摂理である。その摂理を冒涜しても、理由があれば許されるのだと言う。そんな理由が人間その物を冒涜している事は明らかである。人間には理性がある。その理性を存分に生かしてこうした事件に判定を下そうとしているのは分かるが、その理性が、うっかりすると、何か得体の知れない物に打負かされているのではないかと、私は心配をしている。得体の知れない物とは、理性こそが最上の物だとの考えである。
 理性とは人間が考え出した道理だろう。だからそれは、宇宙の真理には遥かに及ばないと私は考えている。難しい事を言うつもりは無い。単に、もっと謙虚に物事を考えるべきだろう、と言っているだけである。だから、本当は死刑だってあってはならない事なのかも知れない。人間が人間に対して死を与える事が出来るのか。被害者の立場から言えば、終身刑など軽過ぎると思えるかも知れないが、残念ながら、我々生きている者にとっては、死に代わる物としては終身刑くらいしか無いだろう。

 極端な考え方であるのは百も承知。私のブログはそれしか無いのです。あまり大した事は言ってはいないのです。




テレビのBPO(放送倫理・番組向上機構)が乗り出した

2008年04月18日 | Weblog
 私のブログは過激な発言を趣旨としている。本人は過激だとは思っていない。普通に筋を通して考えているつもりなのだが、カチンと来る人もいるらしい。そうした場合に困るのは、言っている事とは全く別の事でクレームを付けられてしまう事である。
 私の本意とする所はブログのタイトルからも分かるように、「私個人の日本語ワールド」なのである。私は日本語をこのように理解して使っている、と言う事を発信しているつもりである。時として、その範疇から飛び出してしまうが、それはあまりに理不尽な事が行われているからだ。それでも、私には真実を見抜く力が無いので、書かれている言葉、言われている言葉を頼りにして、ああでもない、こうでもない、と考えているに過ぎない。
 例えば、映画「靖国」に関しても、ある人は、私が「靖国を否定する人間は馬鹿だと信じている」と一刀両断にしている。そんな事は一言も言っていない。むしろ、反対に「靖国を無条件に受け入れる人間は馬鹿だ」(とは言っていないが)と取られるなら、そうか、そのように取る人もいるのだから、言葉遣いの端々に至るまで気を付けよう、と反省する。しかし正反対に取られてしまうと、反省しても駄目だ。
 たとえ、この「靖国を否定する」が「映画・靖国を否定する」になっても、同じである。私は知らない映画をどうのこうのと言うほど馬鹿ではない。

 光市母子殺害事件について「感情的に番組を制作した」とBPO(放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員会が4月15日、意見を公表した。
 どなたもご存じのニュースだろうが、東京新聞は意見の内容を次のように伝えている。

 「ほぼすべての番組が、被告・弁護団の荒唐無稽と異様さに反発し、被害者遺族に共感する内容で感情的だった」と一連の放送を分析。原因として、刑事裁判に関する番組制作者の知識不足や、被告の人物像をとらえきれず、被害者遺族の思いに頼り切った制作姿勢を挙げ、「(裁判の)全体的な視野を志向する意識の希薄さや欠落が、放送をいびつに偏ったものにした」と指摘した。

 そして別面で、被告に関する報道の問題点に関しての同機構の意見を紹介している。

 一つとして、被告人の心理や内面の分析・解明を試みた番組はなく、このこと自体が異様。

 ふーん、倫理機構の方々は本当に理知的で冷静なのだなと感心してしまった。誰が見ても、被告と弁護団は荒唐無稽で異様である。委員の方々はそれに反発を感じないらしい。そして被害者遺族には共感しないらしい。

インターネットで委員のプロフィールを調べた。
・教授で元判事
・脚本家
・漫画家
・ノンフィクション作家で評論家
・大学教授
・大学教授
・作家
 それぞれの主義主張はよくは分からないが、バラエティーに富んだ人材とは言える。我々が普通に知っている人が4人もいる。だから何となく親近感もある。テレビとか新聞・雑誌で拝見している限りでは、別に偏向した考えの持ち主とも思えない。と言うよりも、我々の感情に沿っているとも思える。
 だが、こうした極悪な事件で、どのようにしたら冷静で公正な見方が出来るのか。被告と被害者遺族を一人の人間として、可も無く不可も無い透明な人間として見て、それぞれの心理や内面分析・解明を試みよ、と言うらしい。
 では、この中には作家もいるので、お聞きするが、あなた方はこの被告の心理や内面分析・解明が出来るのですか? 母親に甘える気持で、殺した相手を死姦するような人間の心理がお分かりになるのですか? 甘えながら、幼児を惨殺するような人間の心理が分かるのですか? そうした事が出来れば、事件の理解や犯罪防止に役立つと言っているが、本当にそう思っているのですか?

 放送が偏らずに公平な報道をするのは当たり前の義務である。関西テレビがした納豆事件のような捏造はとんでもない事である。NHKが大阪の工業高校を取材してドキュメンタリーを作り、当の高校からクレームを付けられたような捏造は論外である。こうした番組は最初からテーマが決まっていて、それに合わせるように内容が展開されるのである。だからテーマに外れるような展開になれば、捏造をしてテーマに合わせなければならなくなる。
 ある特定の人物を取材する場合にも、何の目的で取材をするのかは決まっている。そのテーマに沿って話を聞き出し、まとめる。そのためには、効果的になるように出来事の前後を入れ替えたり、多少大袈裟な表現をしたりもする。しかし本人に確認してOKをもらわなければならない。だからあまりにも極端な演出は出来ない。私は何人もの人に取材してそうした仕事をしているが、ダメを出された事は無い。

 純粋な報道ならテーマは無い、と思えるだろうか。何らかの問題点があると考えたから、報道をしているはずだ。問題点とは言うならば、テーマである。何も感じない事柄を報道しようなどとは誰も思わないだろう。
 そしてすべてに人間が関わっている。淡々と撮影し、淡々と取材をし、淡々とまとめる、それを果たして普通の人間が出来るだろうか。無色透明な報道なんてあるはずが無い。
 多くの人々が、テレビにも新聞にもその会社の主義主張があると知っているはずだ。だから同じニュースでも社によって、内容が少しずつ違う。それを承知して読んだり、見たりしている。

 以前、橋本元総理の1億円問題での法廷の報道を朝日新聞と毎日新聞の2紙で読み比べた事がある。橋本氏の同じ発言が、両紙で微妙に違う。更には裁判長の発言まで違う。結局、自分がその場に居なければ、本当の事は分からないのだろう。
 ある一つの出来事を最初から最後まで複数のテレビ局が取材をしていたとする。しかしカメラの位置はそれぞれに違う。それだけで、もう既に見方が異なってしまう。何時間もの内容を編集するその段階で、採る所が違うだろうから、見る側にとっては、違う内容になってしまう。編集段階で、編集者の考えや見方などが入り込まざるを得ない。何の考えも無く、内容を切ったりつなげたり出来る人など存在しない。

 普通の淡々とした事柄でさえそうなのだから、ましてや、複雑で想像も出来ないような恐ろしい事件なら、取材者の主観に大きく左右されてもおかしくはない。現場に居合わせなかった人なら冷静になれるかも知れない。だが、いくら冷静でも、取捨選択をするには、その人の考え方が反映する。
 新聞の読者やテレビの視聴者はそうした事を知っているか、知っていなければいけない。日頃から新聞やテレビの傾向をきちんと捉えていて、与えられる報道を自分の判断力で取り入れる必要がある。
 BPOが何もしゃしゃり出る必要は無いのだ、と私は思う。出て来るのなら、あなた方がこの事件に関して自分達の主張する理想の報道番組を作り、我々に公開して頂きたい。制作のプロではないから出来ない、とは言わせない。プロでなくて良い。いかにも素人っぽい報道で十分。他人の報道のお目付役が出来るのだから、自分自身で報道番組を作るのなんて朝飯前のはずである。

 公平な報道を、と言うのなら、法廷を位置を決めた一台のカメラだけで撮影し、それを最初から最後までそのまま公開するしか手は無いと考える。一台のカメラと言うのは、裁判官に向けたカメラ、被告人に向けたカメラ、弁護士に向けたカメラ、検察に向けたカメラ、被害者の遺族に向けたカメラ、をそれぞれ一台ずつ、との意味である。

 制作サイドが知識不足だとの指摘は納得出来る。あまりにもいい加減な考えで制作している人々がいるのだから、そうした人々に、これは報道だから、などと言っても通用しない事は分かり切っている。
 だが、この問題はそうした事では乗り切れない大きな問題を抱えているはずである。

 このように書いて来て(考えて来て)、BPOが意見を言う理由が分かったと私は考えている。彼等は放送が公平な報道が出来るし、するべきだと信じている。そうしなければ、公共の報道機関としての存在が無になる。言うならば、死活問題になるからしゃしゃり出て来たのである。これは私の独断と偏見だが、そう思う。
 CMをばんばん入れて、膨大な利益を挙げている民放テレビが公平な報道など出来るはずが無い。だからこそ、視聴者から強引に受信料を徴集するシステムのNHKを「公共放送」として位置付けているのである。公共放送なら公平な報道をするべきであると。
 「公共」と言う言葉はたいした意味を持っていない。各種国語辞典を引いても、「公に関わる事」くらいの意味しか挙がっていない。全国民に関係する事なら、すべて「公共」になるのだ。だから、民営事業であっても、電力やガス事業などは公共事業とされている。
 公共放送の名の下にNHKを存続させ、自分達は楽しい番組を放送したいと言っている。これはフジテレビの日枝氏の発言だから(当然だが、あからさまには言わないが、内容はこうした事である)嘘偽りは無い。余計な事だが、公共的番組をNHKに押し付けているくせに、民放は自分達は公共的な放送をしていると言って、他からの参入を拒み、自分達の立場を守ろうとする。これはライブドアの件でも楽天の件でも同じである。
 こうした持ちつ持たれつの関係にあるNHKと民放が作る規程や倫理機構が、果たしてどれほどの公平な事が出来るのか。どれほど我々視聴者の身になっているかを、我々はそれこそ偏った報道に頼る事なく、冷静に判断しなければいけない。

 以上のような私の考えは極端だと思っている。しかし生半可な考えでは「倫理」の言葉に騙される危険がある。最初から中庸な立場など存在しない。この世の中は、極端に言えば、極右と極左の闘いで、そのせめぎあいの中から互いに妥協した立場が生まれるのだと私は考えている。そこまで行かずとも、自分自身で対極的な立場に立ってみる。
 例えば、この事件の場合は、まず被告の立場に立ってみる。そしてこの事件のすべての事に関して考える。次に被害者の立場に立ってみる。一番大事なのは、殺された母親と娘の立場に立つ事だ。そして最後に残された遺族の立場に立つ。
 そして、この複雑で正反対になるだろう立場でどこまで妥協した線が見出せるかである。それがこのBPOが求める「被告の人物像をとらえきり、被害者遺族の思いに頼り切らない制作姿勢になり、(裁判の)全体的な視野を志向する意識が豊かで何らの欠落も無い、いびつに偏らない放送」になるはずだ。

 繰り返すが、こうした公平な考えが苦労する事無く出来るとは思えない。でも、中庸な考えが出来ると過信している人なら容易に出来る。私は委員達の努力や苦労を否定するつもりは無い。様々な辛酸も舐めて現在のように人々に様々な生き方を見せてくれる事が出来ていると思っている。ただ、だからと言って、この事件のような場合に、被告即ち残虐な殺人鬼の立場に立てる事を保証する事にはならない。むしろ、お人柄の良さから言って、とてもそうした鬼の心境は理解出来ないだろう。
 極端な事を言っているのは十分承知している。少々過激な方がいい、は私のブログの主張である。


映画「靖国」の稲田議員のブログを読んで

2008年04月16日 | Weblog
 急ぎの仕事のため、三、四日ブログを休んでしまい、頂いたコメントも見ていませんでした。私の仕事は土曜も日曜も無いのです。コメントを頂いたのだが、ちょっと複雑な事なので、コメントの紹介ではなく、普通のスタイルにしています。
 流蛍さんから、稲田議員の発言を確かめたのか、と言われた。私は同議員の発言ではなく、その行為がどのような結果を招いたかを問題にしたつもりでいる。内容が問題ではないので、内容を確認するつもりは無かった。
 以前、確認を怠って失敗した事がある。割り箸事故の事で、担当医の処置を確認しないで不用意な事を書いた。だから反省をしている。しかし今回は内容を確認して、と言う話ではないつもりだった。読んでも私の考えは変わらないだろうと思ったが、流蛍さんが同議員のブログを紹介してくれたので、読んだ。内容を知っていて損は無い。

 2月に助成金支出の妥当性を検討することになり、文化庁に上映をお願いした。直前に(なって)制作会社が一部の政治家だけに見せることはできないというので、すべての国会議員向けの試写会になった。一部のマスコミに歪曲されて報道されたような私が「事前の(公開前)試写を求めた」という事実は断じてない。公開前かどうかは私にとって何の意味もなく、映画の「公開」について問題にする意図は全くなかったし、今もない。

 確かに同議員にはそうした意図は無かったのだろう。しかし同議員にとっては意味が無くても、他人には意味がある場合がある。公開前の試写など求めていない、と言うが、上映をお願いしたのは2月。上映と試写は同じである。それは当然に公開前の試写になるのではないのだろうか。だから、同議員の言っている事が私には理解が出来ない。
 映画の公開についても問題にしていない、と言うが、公開前に国会議員を対象に試写を行うと言う事は、公開を問題にしている事にはならないと言えるのだろうか、と言う疑問がある。
 なお、流蛍さんは朝日新聞の捏造だと言うが、私の読んだのは東京新聞である。同紙は中部日本新聞社の東京本社が作っている。朝日新聞の販売店が販売しているから同紙は朝日の支配下にあるのだろうか。

 話は違うが、私は三大紙をそれぞれ定期購読して比べてみた。書かれている事が真実かどうかは私には知る力が無いが、記事がいい加減かそうではないか、は分かる。そしてそれは朝日、読売、毎日ともに同等にいい加減な事が分かった。幾つもの疑問に思う記事を徹底的に検討して、導き出した結論である。
 だから、すべて眉にたっぷりと唾を付けて読んでいる。私の読みたいのは経済ではなく、世情の事だから、日経ではなく、今は東京新聞なのである。

 助成金支出の問題は、それが合法か非合法かなのだが、非合法の映画を上映する事は、果たして許されるのか。いくら表現の自由とは言っても、不正な方法で作られた映画なら、上映を禁止しよう、と考えても一向におかしくはないだろうと私は思う。
 金の出所と表現の自由は関係ないと言っても、金が無ければ映画は作れなかっただろう。国民(正確には無能なあるいは邪悪な考えを持つ役人)を騙して作った映画を上映するのは国民の利益に反する。
 稲田議員は、公開前かどうかはもちろんの事、公開についても問題にしていない、と言うのだが、私はむしろ、問題にすべきなのではないか、と考える。それは反日映画かどうか、を問題にしているのではなく、やり方が非合法だから問題になる。
 これは稲田議員の主張を読んでの事なので、私の言っている事とは直接的には関係が無い。

 世の中の事はすべて同じだが、様々な意見があり、考えがあり、それらを互いに主張し合い、人々が自由に自分で判断するしか無い。考え方を一方的に導いてしまう偏向的な考えがあっても、それを禁止する事は出来ない。
 この映画が一方的な反日映画だとしても、作った人間がいて、それを公開しようと言う人間が居る以上、見る事を止める事は出来ない。国民の大多数が騙されているな、と思えば、対抗する映画を作るしか無いだろう。

 私は今の中国政府のやりかたを嫌悪している。大体、「中国」「中華人民共和国」の名称を日本に無理強いするとは何たる無礼、と思っている。自ら世界の中央たる国との自称を、他国に強制するとはとんでもない。世界にはそうした尊大な国名を自称している国が幾つもある。だが、それらの国が他国に対してそうした自称を強制している事実は無い。日本が「支那」と呼ぶ事に文句を付ける道理は無い。世界中が中国を「支那」と同じ語源の「チャイナ」を元にした呼び方をしているのに、それには文句を言わない。言えないから言わない。日本は弱腰だから舐められている。相手は犬じゃないんだから、舐められて喜んでいてはいけない。
 聖火リレーに抵抗したり、開会式をボイコットすると明言している首長が居るのは、中国のやり方、考え方が世界の道理に反しているからに過ぎない。

 公開するしないが問題ではない、との稲田議員の考え方に沿って考えてみよう。
 映画が靖国神社を非難しているらしい事は制作者が中国人だと言う事から想像出来るが、靖国神社崇拝の映画だとしても、それを判断するのは観客である。日本の事情を知らない各国が、この映画を信じてしまっても、それは仕方が無い。映画が真実を歪曲しているなら、今度は日本がそれを否定する映画を作るしか方法は無いだろう。
 私は靖国神社が良いとか悪いとかは言っていないつもりである。ただ、合祀とは何か、分祀とは何か、を考えているに過ぎない。神社本庁の言う神道の教義に従って考えているだけの事である。私の本音としては同神社の考え方はとうてい納得出来ないし、自費だ公費だと言いながら参拝している政治家にも納得はしていない。
 だから、そうした事実を、国民が自分で考えれば良いし、それしか無いと思っている。

 繰り返しになるが、稲田議員の主張は分かるし、愛国者であるとの考えを否定するつもりも毛頭無い。が、発言や行動がどのような受け取られ方をして、どのような結果をもたらすのかについて、十分な考察が出来ているとは思いにくい。どのような発言も行動も、本人がどのように思っていようとも、判断をするのは他人なのである。
 しかも、この場合は国会議員なのである。他人が構えてしまっても少しもおかしくはない。もちろん、それだけの自負があるからこそ、こうした事を採り上げているのだと思う。単に主張するだけではなく、文化庁に申し入れをしているのである。
 私の考え方は稲田議員のブログを読む前と読んだ後でも、全く同じである。本人が意図しようとしまいと、他人はそこから読み取るしかすべが無い。そして同議員のブログの主張も、「○○だ」と言ったのではないから、「○○だ」と言ったのではない、との考えしか読み取る事が出来ない。「公開前の試写を求めた発言はしていない」と言う事と、「公開前の試写を求めた事実は無い」とは、同じではない。そうでなければ、「圧力」など存在しない。
 直前に中止にならなければ、「公開前の試写が求められた」結果になる。国会議員一同が事前に試写を見れば「公開について問題視した」結果になる。それとも、国会議員は何の力も持っていないとでも言うのでしょうか。

 我々の考えや感じ方なんて、そんなものなのである。だから、普通は誤解されないようにと用心深く、発言し、行動する。昔、美濃部亮吉氏から聞いたのだが、女優の高峰秀子さんは決して自らは言い立てない、と言う。「そうですね」とか」「はい」とかの返事しかしない、彼女は聡明で用心深い人だ、と言うのである。すべてそうとは言い切れないとは思うが、言葉がどのような受け取られ方をするかを慎重に考えている事は確かである。
 かく言う私の発言も時々大きく誤解される。だからどこにその原因があったか子細に見直している。それでもその原因が見付からない事がある。曖昧な言い方をしているのでもない。
 多分、どこか根本的な所に考えの相違があり、互いに自分の考えから抜け出せないために、一つの明確な文章にまるで異なった解釈をしてしまうのではないか、と考えている。これも一つの新聞の記事を何ヶ月も掛けて何度も何度も読み返し、様々な考え方をして検討して得た結論である。
 だから当然ながら、私の同議員の主張の読み方についても、私の偏見から読み間違いをしている恐れはあるだろう。それは考え方の違いであって、主張を読んだ読まないとは関係が無い、と思っている。
 

辞典に騙されない意思を正しく伝える日本語表記

2008年04月08日 | Weblog
「と言う」と「という」の違い
 私は「という」とはまず書かない。すべて「と言う」である。そして「と言う」もあまり使わない事にしている。これについて、私のブログをよく読んで下さる「流蛍」さんから、その違いは何なのか、との御質問があった。いい機会なので、御説明申し上げたい。

 一般的には「と言う」は直接的に言葉を発した場合、「という」は伝聞や推定の場合と考えられている。
 私もそれに反対はしない。しかし様々な文章を書いていると、絶対と言えるほどにあれっ? これは果たしてどちらなのか、と思える用例にぶつかる。
 「……と○○省はいう」の場合、「○○省」が直接そう語ったのではない。そこの役人の一人が語ったのである。だから、「○○省はいう」になるだろう。いわば、伝聞に近い。しかし、時には、「○○省は」とは言いながら、明確に「○○省の誰か」の場合がある。単に、個人の名前を出さないだけの話である。これは先の考えなら、「と言う」になる。似たような事はほかにもある。
 では、それをどのように見分ける事が出来るのか。出来ないとしか言いようが無い。これは書いた人にしか分からない。

 この「という」と似た言い方に「という人」「という場合」などがある。
 これを辞書類はすべて「〈いう〉に実質的な意味が無いか軽いから、仮名書きだ」と説明している。表記辞典だけではなく、国語辞典もそう説明する。
 「という人」は「と称する人」「と呼ぶ人」などの意味である。
 「という場合」は、「と」の前に色々と具体的な事を述べて、それをまとめて「という」と説明しているのである。
 つまり、どちらも実質的な意味を持っている。でも仮名書きだと言うのである。

 実質的意味の有無だが、「無い」は明確に分かる。有るか無いか、なのだ。しかし意味が軽いとか薄いとなると、話は非常に分かりにくくなる。「軽い・薄い」の程度が少しずつ「重い・濃い」に近づくとどうなるか。
 極端に「軽い・薄い」場合は良い。しかし「重い・濃い」との中間だったら、本当にどうなるのか。人によってその判断は異なり、「という」「と言う」の二つの表記が合理的に存在する事になる。
 それでも、実害は少ない。だが、こうした事に縛られると、「という」とあれば、実質的な意味が無いか薄いのだな、と思わざるを得なくなる。時には、いい加減に「と言う」であるべき所を「という」と書いてしまう人がいるのである。これは実際に少なくない数で存在している。新聞記事にだってある。私は校正も大きな仕事の一つなので、その目で多くの原稿を読んでいるから、実際に知っている。
 どう考えても「と言う」の場合なのに、と思って直すのだが、そうして見て行くと、単なるいい加減な表記がぼろぼろと出て来る。こうなると、お手上げになる。そして本当の事は書いた本人にしか分からない。多分本人も分かっていないのだろう。

 実質的な意味が無い、薄い、について考えてみる。
1 「漢字と仮名で書き分けるという表記の方法」
 これは「という」を省いて「漢字と仮名で書き分ける方法」と出来る。その方が簡潔で分かり易い。
 ではなぜ、簡潔ではない方法を採るのか。口調が良い事も一つだが、婉曲的な言い方になるからだ。そうではない、と思うなら、この「という」の言い方を何度も繰り返して言ってみて、本当に自分はどのように考えて「という」と言っているかをじっくりと考えてみる事をお勧めする。
 この婉曲的な言い方が度を増すと、次のようになる。

2 「それで完成というわけだ」
 「いう」も「わけ」も仮名書きである。意味が無いか薄いか、だからだと辞典は言う。
 これは「それで完成だ」の意味なのだが、そうはならない。ではどのような意味があるのか。岩波国語辞典は、「というわけだ」を「断定を幾分やわらげ、そういう事になるはずだという気持を添える言い方」と説明している。
 「それで完成だ」ではなく「完成のわけだ」になる。「の=という」である。
 「わけ」はそれが筋だ、との意味になる。自分が断定しているのではなく、「筋なんだよ」と逃げているのである。
 個人の断定と「筋」が違うのは構わない。と言うよりも、「筋」なら客観的でもある。ところが、この場合の「筋」はそのような意味ではない。なぜなら、言っている事自体が、「それで完成だ」なのだ。筋も何も無い。完成だから完成なのだ。
 これはまさに婉曲的な表現になる。

 更に、「完成のわけ」ではなく「完成というわけだ」にするにはそれだけの訳がある。ここで突如「訳」と漢字が出て来るが、本当は、上の「わけ」もすべて「訳」と書きたいのだが、辞典の説明の表記として素直に従っている。
 また、ある辞典はこの「わけ」を「当然の結果として」と説明している。だが、「やっと完成したというわけだ」が当然ではないのは火を見るよりも明らかである。なにしろ、「やっと」なのだ。「というわけだ」の変な説明に囚われてしまうと、大事な事を見失ってしまうと言う証拠である。
 「の」は「完成」と「わけ」の接着剤だから省けないが、それを「という」に変える理由は、「という」が曖昧で婉曲的だから、にある。

 この「という」は、自分が言うのではなく、他人が言うのだ、との気持である。あるいは、順序としてそうなるのだ、との気持である。それがもっとよく分かるのが、次の用例である。

3 「縁起が良いという大安の日」
 これは「縁起が良い大安の日」とすると意味が違ってしまう。「という」を省いた言い方は「大安=縁起が良い」と言い切っている。しかし、「という」を入れると、「縁起が良いと世間が言う大安の日」「縁起が良い事になっている」の意味になる。つまり、自分が言うのではない、と言っている。
 従って、この「という」は省けない。この「という」は、当然に「実質的な意味がある」。しかし辞書類はこれを「意味が無いか薄い」と言うのである。なぜなら、「という=世間が言う」などとは考えもしないからである。
 単に「縁起が良い」と「大安の日」の接着剤ぐらいにしか考えていない。あるいは、言い方を滑らかにする役目ぐらいにしか思っていない。
 この「という」をもっと複雑にしたのが、次の「という」になる。

4 「平和というものは尊い」
 この言い方から「という」を省こうとすると、「平和は尊い」のように、「という」だけではなく、「もの」までも省かなくてはならなくなる。この「もの」は、様々な意味を持っている。それなのに「もの」で済ませてしまうのは、「もの」の意味が分からないからである。あるいは明確に言いたくない場合もある。
 ではこの場合の「もの」を具体的な言葉にしてみよう。
 あなたの答はどうなりましたか?

 「平和は尊い」と言う場合の「平和」はかなり抽象的な存在になる。しかし「平和というものは尊い」とした場合には、ずっと具体的になる。少なくとも「もの」と言っている人は、そこに何らかの実体を感じているはずだ。私はそう考えているし、そう感じている。こちらは「平和である状態は」とか「平和で暮らせる事は」などと言う実際にそうした情況を感じての言い方だと思っている。
 「平和というものは尊い」と「平和は尊い」が全く同じだと思うなら、簡潔に「平和は尊い」と言えば良いのである。何も持って回ったような言い方をする必要は無い。そうしたまわりくどい言い方をするからには、そこには何からの意図がある。
 その意図は何か。しかし誰もそのような事を考えない。単に口調が良いから、ぐらいにしか考えていない。言葉は口調も大切だが、それによって意味が薄められては元も子もなくなる。
 単刀直入な言葉が一番力強いのである。ぐだぐだと言えば言うほど、言葉の持つ力は失われる。だから政治家の発言を聞いてごらんなさい。明確に短く言う人は非常に少ない。「というような事ではないかと思われる」のような、一体あんた自身はどう考えているんだよ、と言いたくなるような曖昧な言い方しかしない。
 この曖昧な「もの」を使いたいがために、「という」が必要になっている。

 以上、こうした「という」には明確に意味がある。曖昧にしたいと言うのは、はっきりとした意志の表れである。曖昧にしているくせに、曖昧だとは思いたくないから、意味が無いか薄い、などと言ってごまかすのである。
 だから、私はこれらの「という」をすべて「と言う」と書いている。もちろん、他人の原稿をそのように直す事はしない。以上のような考えを説明するのは困難だし、説明したとしても、納得してもらえるとは思えない。普段から考えていない限り、このような事を突然に言われたって、理解出来るはずが無いのである。
 これは決して傲慢な考え方ではない。

 ただ、私もすべてを「言う」とするには違和感がある。違和感は本当は慣れていないだけの事に過ぎないのだが(この「事」だって、慣れない人は違和感があるはずだ)、あまりにも世間が「いう」と書き過ぎるから、違和感無しには「言う」を見る事が出来なくなっている。
 私が違和感を持つのは、「こうした」などと言い替えが出来る場合と、本来は「言う」ではない場合の二つある。
1 「こうした」は「こういった」などの意味であり、この場合にまで「こう言った」とする訳には行かない。ただ、「何という暑さだ・何といった暑さだ」の場合、「何と暑いんだ」と実際に口に出したり、思ったりしている事も多い。これは「何と表現したら良い暑さなんだ」との意味である。
 こうした場合にまで「いう」に意味が無い、とは出来ない。つまり、こうした場合に矛盾が出る。だから「いう」にすれば良いのだ、とは言えない。そう簡単に妥協してはいけない。

2 本来は「言う」ではない場合。
 例えば「床がミシミシいう」「犬がワンワンいう」などは、本来は「ミシミシ音がする・音を立てる」「ワンワン吠える」である。そうした言い方を怠けて「いう」としているだけで、そうした場合にまで「言う」とするのは行き過ぎになる。

 流蛍さんへのお答えとしては、伝聞などの「という」には意味があるが、伝聞か直接語っているのかの識別が付けにくい場合があるので、なまじ書き分けようとするとかえって不正確になるので、どちらかに統一した方が良い、と言う事になる。
 どちらにするかと言えば、私は当然に「言う」だと信じている。なぜなら、日本語の仮名文字は単に発音しか表せないからだ。普通には表音文字と誤解されているが、違う。表音文字なら、綴りを変える事で、意味を特定出来る。
 例えば英語では「サン」の同じ発音で「sun」と「son」を書き分ける事が出来る。「ナイト」の発音では「knight」と、発音しないkやghまで残されている。これは綴りを変えて、意味を明確にする工夫である。
 しかしながら、仮名はそうした事が出来ない。「カ」の発音は仮名なら「か」としか書けないし、「か」の文字は「カ」としか読めない。更に言うなら、「く」には「ク」の発音しか存在しない。それはkuである。ところが、「ク」には母音のほとんど感じられないkの発音もあるのだ。
 「旅客機」は「りょかくき」などとは発音しない。「りょかっき」である。この「く」はkuではなく、kなのだ。しかし、例えば、「奥さん」「たくさん」をoksan、taksanではなく、okusan、takusanと「ク」を異常に強くはっきりと発音する人が居る。少なくない数で存在している。非常に耳障りなのだが、本人はまるで気が付いていない。仮名には子音だけを表す文字が無いから「ク=ku」だと思い込んでいる。

 こうした文字を表音文字とは呼ばない。仮名は音節文字なのである。だから欧米語のようには、綴りを変えて意味の違いを表す能力が無い。その代わりをするのが漢字なのである。従って「いう」よりも「言う」の方がずっと分かり易く識別も付き易いのである。

 特に日本語は分かち書きの習慣が無い。
「お前、大分使ったね」
と母親が娘に言った。
 弟が、
「え? お姉さん、大仏買ったの?」

 これは会話を仮名書きにしてみれば、すぐに分かる。
「おまえ、だいぶつかったね」
「えっ? おねえさん、だいぶつかったの?」

 適度に漢字を使えば、分かち書きにしなくても、誤解を生まなくて済む。それに仮名書きより、漢字の方がずっと理解が速いとの実験結果もある。
 普及しているトイレやエレベーターなどの絵による表示は、表語文字とも言われる。漢字も表語文字なのだ。せっかくの漢字、すっかり日本語の文字になった漢字を排除しようとするのは勿体ない。
 韓国は自尊心の強い国民性で、漢字をほとんど使わない。漢字=中国語なのだから。そして自分達が創造したハングルですべてをまかなっている。だが、字音語が多数だから、どうしても無理があると韓国人自身が言っている。
 それにハングルは完璧な表音文字で、しかも漢字のようにまとまりを表す事が出来る。例えば、大学生はテーハクセンなのだが、それを「テー」「ハク」「セン」と三つの文字にして表記する事が出来る。だから字音語だと分かる。日本語なら「だいがくせい」としか出来ないから、「だいが」「くせい」とも「だ」「いがくせい」とも読めてしまう(理屈で言えば)。
 「台が臭え」「駄医学生」とは何事だ、と怒られかねない。
 漢字の性格をきちんと認識する事が、日本語を磨く事になるのだと私は信じています。

「靖国」上映中止と尊大な国会議員と週刊新潮

2008年04月07日 | Weblog
 またもや嫌な動きが始まっている。映画「靖国」上映禁止の動きである。
 この国はどうあるべきか、について議論をしようとの動きを封じようとする。自民党の議員が国会議員のための試写会をさせろと言った事が原因らしい。制作者側は何度も試写をして、この映画を売り込んで来た。だから、そうした試写を見てくれ、と断った。そうしたら右翼が乗り出して来たと言うのである。直接的な繋がりは無いとしても、おかしな事を言い出す奴が悪い。この、試写会をやれと強要した○○会会長の女性議員を選んだ人々はさぞかし恥ずかしい思いをしているだろう。まさか、同議員に賛同しているのではないだろうね。
 映画がどのように靖国神社と関わっているのかは知らないが、「靖国」と言うタイトルとテレビで一部放映された日の丸と旭日旗を持った右翼のような参拝者の姿から、何らかの傾向は読み取れる。

 私の親族にはあの戦争で戦死した人はいない。だから分からないのだが、その前の戦争での戦死者ならいる。私の叔父で、菩提寺で祀られている。この叔父が靖国神社に祀られているかどうか、私は知らない。その事を知っている親族はもう一人もいない。
 もしも、叔父が靖国で祀られているとしたら、同神社の言う事には、一つの霊になってしまっている。しかし、私の家の墓と仏壇では、きちんと一人の人間の霊として祀っている。一つの霊が二つもあるのである。
 靖国で祀られている霊はすべて同じ事情のはずだ。家には神棚も仏壇も無く、また、菩提寺も無い、と言う人の事は知らない。霊と言う存在は便利な物で、神道での霊と仏教での霊の二つが存在出来るらしい。
 でも日本人の素朴な宗教観では、神仏は一体ではないのか。だから平気で神社で結婚式を挙げ、寺院で葬儀を行うのである。単に出先機関が違うだけに過ぎない。結婚の届を神社で行い、死去の届を寺院で行うのである。

 そうした事から考えると、一人の人間は一つの霊となり、それを神式で祀る事も出来れば、仏式で祀る事も出来る。同時に双方で祀る事も出来る。だが、それは、神式でも仏式でも二つ以上の霊として祀る事が出来ると言う事にはならないはずだ。
 何を言いたいのかと言うと、親族が戦死者を仏教で祀り、靖国が神道で祀る事は可能だが、親族が神道で祀りたいと言えば、靖国と霊の取り合いにならざるを得ないだろう、と考えるからである。

 靖国神社も含めて、日本の神社を統括する神社本庁の教えによれば、神道では、死者はその家の祖霊となる。祖霊となって親族を守り、親族から日々の奉仕を受ける。だから、靖国で祀られてしまうと、肝心の親族を守る事が出来ない。親族から奉仕を受ける事も出来ない。
 いいえ、靖国から守っているのだ、そして靖国の神官が代わって奉仕をしているのだ、だからあなたの家で祀らなくてもいいのだ、と同神社は言うのだろうか。だが、その霊は一つになってしまっているのである。一つの霊が200万以上にもなる家々を守っている事になる。まあ、霊なのだから、それくらいの力はお持ちなのだろう。
 だが、それほどの偉大な力をお持ちの霊に対して、わずかな人数の靖国の神官達が日々奉仕を出来ているのだろうかと、とても心配だ。神官が何人いるのかは知らない。仮に50人居るとしよう。200万÷50=4万。一人の神官が4万体もの霊に日々の奉仕をしている計算になる。実際には神官はもっとずっと少ないだろう。

 そんな重責を担って、本当に大丈夫なのか、と私は神官の身が案じられて仕方が無い。そんなに自己を犠牲にしてまで霊に尽くさなくても良いのですよ。戦死者の霊にはそれぞれ、日々奉仕をしてくれる家族が居るんですよ、と教えて差し上げたい。
 いーえ、奉仕はそんなに大変な事ではないのですよ、とは同神社は言えない。
 でも、もっともらしい申し分が一つある。御心配は御無用に願います。何しろ、霊は一つになってしまっているんですから。である。
 そう、だからこそ、同神社は霊は一つだなどと言い張るのである。霊とは本当に便利な存在だと思う。神社は自由自在に霊を200万分の1に圧縮出来るのである。パソコンでのデータの圧縮だって、そんなに圧縮は出来ない。なんと傲慢で無礼な事よ。

 靖国神社の宗教観に従わず、一人の人間の霊は一つしか存在出来ない、我が家は仏教なので、仏教で祀りたいから、靖国から返してくれ、と言う人々が居てもおかしくはない。それなのに、同神社は、一つになってしまっているのだから分祀は出来ないとにべもない。
 一人の人間の霊を祀る権利はその親族にしか無いはずである。他人が横取りをして許されるはずが無い。

 ここで二つの疑問が生まれる。
1 靖国神社で祀られている戦死者の霊は、いわば靖国の神である。神社とは神を祀る所のはずだ。その神の唯一の正当な奉仕者である親族が自分達で祀りたいと言っている。それを拒否するのは、靖国が祀っているその神に対する不敬・非礼ではないのか。それでも同神社は神に奉仕をしていると言い張れるのか。
2 霊が一つになるとしたら、京都の平安神宮はどのようにして二人の天皇、桓武天皇と孝明天皇の霊を勧請する事が出来たのか。
 二人の天皇の霊は皇室がしかるべく祀っている。もしもその霊が、靖国の言うように、一つになってしまっているなら、二人の霊を勧請する事など不可能になる。
 そしてその霊名は何なのか。

 神道では霊に名前を付ける。それを霊名と呼ぶ。仏教の戒名と同じである。神道では個人の生前の名前の下に「之霊」とか「之命(みこと)」とか、男性なら「大人=たいじん」、女性なら「刀自=とじ」などを付ける。それは一人一人だから出来る。
 霊が一つになってしまったら、その霊名は何と付けるのか。まさか「日本国戦死者之霊」などと言うのではないでしょうね。そんないい加減で大雑把な霊名があってたまるもんか。
 平安神宮に行って尋ねたら良い。ここにはどなたをお祀りしているのか、と。「桓武天皇と孝明天皇です」との答が絶対に返って来るはずだ。「○○の命です」などと一人の名前を挙げる事など、絶対に無いはずだ。
 東京の人なら、明治神宮でお聞きになるといい。そこには明治天皇と昭憲皇太后の二人が分祀されている。
 どなたか、こうした疑問に答えて頂けないでしょうか。

 この騒動のきっかけとなったのは、週刊新潮の記事だそうだ。同誌は多くの訴訟問題を起こしている。そして多くの場合に敗訴している。何でそんなに物議をかもすのか、不思議でしかたがない。そうした所から、どうも、有る事、無い事を捏造して面白おかしい記事にしているのだとの思い込みが世間にはある。私も少なからずそれはあると思っている。
 そうした批判が東京新聞に載った。タイトルは〈「週刊新潮」記事に疑問〉である。月刊「創」の編集長・篠田博之氏が書いている。
 山口県光市の母子殺害事件の弁護団が3月15日に集会を開いた。弁護士17人が出席し、主張を詳しく説明したのだと言う。参加は自由で約150人が参加した。様々な立場の人が居る。そうした人達の意見を紹介して週刊新潮の記事が出来ている。だが、そうした意見が非常に偏っている、と言うのが、この篠田氏の記事なのである。
 新潮の記事は、「弁護士たちの鬼畜発言録」のタイトルが語るように、弁護士達は笑いながら報告をしたと言う。それを怒りに燃えて語る人の意見が同誌には書かれている。それを読んで、篠田氏は次のような感想を述べている。
 「なるほど、そんなふうに感じた人もいたのか、というのが参加者の一人である私の感想だ。どう感じるかは人それぞれ自由だが、『週刊新潮』の記事が気になるのは、集会参加者の大半が同様に受けとめたかのように書かれていることだ」
 更に次のようにも書いている。
 「被告人を許せないとの立場からすれば、彼を弁護する説明自体が鬼畜発言になってしまう。弁護団へのバッシングは何度か論評したが、この記事もその典型だ。判決へ向けてこれからどんな報道がなされるのだろうか」

 確かに同誌には一方的な見方が書かれているようだ。私も医院の待合室で同誌のこの記事を読んだ。そこには、その他の人々の反応はまるで書かれていなかった。だが、両者の反応を冷静に書けば、それで公正中立な記事になるのか。
 弁護士達の報告を冷静に聞いた人々の反応は、新潮には書かれていないから、この記事を批判している篠田氏が書くべきではないのか。そうでなければ、我々読書は何も分からないのである。
 私は篠田氏が弁護士達が笑いながら報告した事に対して、どのように感じたのかを是非とも知りたい。弁護士達は笑わなかった、とは同氏は書いてはいない。だから笑ったのは確かな事である。

 若い母親を殺害し、しかも死姦をし、更には泣き叫ぶ幼児まで殺害したのである。まさに鬼畜その物である。しかも今になって、母親に甘えるような気持だった、などと言い出している。二人も殺しておいて、自分は生きたいと言うのである。
 その報告会である。笑い声が起きる事自体、信じられない事である。被告を憎めと言うのではない。だが、冷静に見て、この殺人者に何らかの同情を感じる人が居るのだろうか。居るとしたら、私は人間に絶望するしか無い。

 篠田氏は今までの週刊新潮に対する思いから、この記事までも偏見で読んでしまったとしか思えない。偏見は無いと言うなら、弁護士達を批判しなかった人々の反応を是非とも書くべきである。そして自分が弁護士達の主張にどのように感じたかも書くべきである。彼は、「そんなふうに感じた人もいたのか」としか書かず、自分の感じた事は無言なのである。




JR東日本が東北本線などを東京駅へ延伸する

2008年04月04日 | Weblog
 急ぎの校正とDTPの仕事があり、1週間ばかり休んでしまいました。仕事があるのは何よりも有難いのです。なんて言うと、普段はあまり仕事が無い事がばれてしまいますが、残念ながら、事実なのです。

 上野駅どまりの東北本線や上越線、高崎線、常磐線を東京駅まで延伸すると言う。上越線、高崎線は東北本線の線路上を走る訳だから、一つの路線と考えられるが、これらの延伸は、山手線と京浜東北線の混雑緩和の意味があるのだと言う。
 だが、山手線の混雑緩和とこれらの路線とはあまり関係が無いはずだ。山手線は東京都内での移動の路線である。それに対して、上記の四路線は埼玉県、茨城県と東京都との間の移動路線である。

 京浜東北線は埼玉・東京間の移動路線になるが、上越線や東北本線が埼玉県を遙かに越える地域と東京の移動路線であるのに対して、規模が小さい。
 山手線と京浜東北線の混雑緩和とは言うが、本当はもっと別の意味があるに違いない。このニュースを伝えた新聞記事は、新橋や品川方面との連絡だ、と言っている。つまり、東海道本線と直通運行をする事になる。新橋、品川には大きな意味がある。新橋は汐留であり、どちらも都心の再開発地域である。つまり、東北本線、上越線、高崎線、常磐線の乗客を汐留や品川に誘導したいのだろう。

 東北本線と東海道本線の直通に意味があるのなら、東北新幹線と東海道新幹線の直通が実現しているはずである。そもそも、上野が起終点だった東北新幹線を東京駅まで延伸した意味は何だったのか。あれほど立派な上野駅を捨てて、狭くて不便な東京駅に執着したのには、乗客への配慮ではなく、自分達の特別な思いがあったのではないだろうか。

 東京と言う所は、通過地点ではなく、集中地点である。南北や東西の連絡地点ではない。すべてをそこに集中させずにはおかない強力な力を持った所である。何でもかんでも東京に集めてしまう。その極点が東京駅ではないのか。
 都市にはある程度の広さが必要だ。特に東京のような大きな人口を持つ都市ならなおさらの事だ。だから東京には副都心と呼ばれる地域が存在する。上野、品川、渋谷、新宿、池袋、錦糸町などが相当する。
 各地域とを結ぶ鉄道はそれらのターミナルを発着点とするのが合理的だ。そうすれば、一箇所に集中する事を避ける事が出来る。各ターミナル間を繋ぐ鉄道はもちろんある。
 それを何でも一箇所に集めてしまう。それは全く日本の縮図と同じである。各地の機能をすべて東京に集めてしまう。これでは地方は疲弊してしまう。東京だけが太る。各地にあるシャッター通りと呼ばれる商店街はその象徴だろう。

 新幹線は各地を振興させる原動力になると思っていた。しかし各地の力を東京に集めてしまう効果しか無いらしい。新幹線と在来線が並行していれば、簡単に在来線を切り離したり廃止したりしてしまう。在来線は近距離間の移動手段でもあり、地域の便宜のためにも存在している。遠隔地との移動手段としては、急行や特急などがある。その急行や特急と同じ役割を果たすのが新幹線だ。だから、新幹線は初めから遠距離間の移動手段として存在している。近距離を新幹線で移動しようと思う人は非常に少ない。何よりも不経済である。

 新幹線の新大阪駅は東海道新幹線と山陽新幹線の発着駅ではあるが、直通接続駅でもある。しかし東京駅は違う。東日本の各新幹線と東海道新幹線の直通接続駅ではない。それぞれの発着駅でしかない。それはなぜなのか。
 東海と西日本は、「ひかり」と「のぞみ」の直通運行を通して仲がいい。西日本が福知山線の脱線事故で宣伝を自粛すると、その代わりを東海が買って出る。謝っている当人に代わって、関係の無い者がしゃしゃり出れば、折角の謝罪が何の意味も無くなる事に気が付かない。いや、知っていて知らぬ振りをしている。
 それだけではない。西日本の宣伝の代わりとは言うが、その実、自分の宣伝になっている。西日本の岡山、倉敷方面への観光宣伝は、東海にとっては、自分の路線を使う事になるのである。西日本の代わりを務めるなどと体の良い事を言いながら、しっかりと自分自身の宣伝をしているのである。何ともずるいやり方である。
 それほどの会社でありながら、なぜか東日本との直通はしない。

 西日本との直通運行だけなら、東海は東の拠点路線として存在し続ける事が出来る。だが、東日本とも直通運行をすれば、東海は単なる中間路線でしかなくなる。東の拠点としての存在感を増すのが品川駅の建設ではないのか。
 考えてみれば、東海道新幹線の熱海以東は東日本の管轄範囲である。東京駅は東日本の象徴たる駅でもある。そこをいわば半分占拠している形なのだが、直通をすれば、その拠点はまさに形だけになる。
 同じ事が米原以西にも言える。そこは西日本の管轄範囲である。だが新大阪は新幹線のために作った駅であり、大阪駅とは格が違うはずだ。だから新大阪が西の拠点とはならなくても、構わない。

 東北新幹線と東海道新幹線なら二社の直通だが、東北本線と東海道線の直通なら、同じ東日本での直通になる。そこに大きな違いがある。我々乗客にとっては、同じなのだが、JRにとっては、大きな違いになる。そこに大きな問題がある。
 我々の便利さと企業の儲けの違いである。

 東海が新幹線の品川駅を作ったのは、始発駅としての意味が大きいとばかり思っていた。東京駅発では本数に限りがある。そこに品川発を加えれば、本数を増やす事が出来る。だが、時刻表を見る限り、品川始発の列車は無い。すべて東京始発で、それが品川にもとまる。品川駅は一体何の役に立っているのだろう。

 東京を金儲けの土地だと考えている人々は、別に東京に愛着がある訳では無さそうだ。その証拠には東京をどんどんぶっ潰して平気である。古い物だけが良いのだ、などと言うのではない。しかし古い物は何でも駄目で、すべて新しくするのだ、との考えもまた通用はしまい。
 壊しても利益になり、作れば更に大きな利益になる。こんな面白い商売は無かろう。まるで錬金術ではないか。

 何度も思うのだが、国鉄を分割民営化した事が、こうした事に繋がっている。鉄道なんて、人々の役に立ち、鉄道自体もそこそこやって行ければそれで良いのである。そこから莫大な利益を得ようなどと考えてはいけないのである。それが公共機関としての仕事なのである。
 鉄道の利益の基になっている乗客は、金儲けのために乗っている人は非常に少ないはずだ。みなさん、何らかの必要があって乗っている。それは生きて行くための必要である。それなのに、乗せる鉄道側だけが一方的に利益を得るのはおかしくないか。鉄道は客があってこそ成り立っている。お互い様ではないか。利益の一部を乗客に還元せよと言いたい。それはサービスでしている、乗り心地とかスピードアップとか、でしているではないか、と言うのかも知れない。
 いやいや、もっと莫大な利益が出ているでしょうに。それを還元しなさい、と言っているのである。地方の鉄道では赤字続きでついに廃止した、などと言う話を聞く。人々の足なのに、廃止になる。そうした鉄道に利益の一部を回したって良いではないか。
 縁もゆかりもない会社にそれは無理だ、と言うのだろうか。しかし縁もゆかりもあったのに、と言うよりも、自分の一部であったのに、第三セクターにしてしまい、その運賃が上がった鉄道がある。切り離せば、自分の利益を儲からない部門に回さずに済むからである。

 このように、縁もゆかりもまるで関係が無いのである。だから、同じ鉄道マンとして、人々の足になっているのだとの誇りと自覚をお持ちなさい。