夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

文化審議会の常用漢字案に疑義あり

2009年01月29日 | Weblog
 常用漢字表に191字追加される事になった。増えるのは大いに喜ばしい。特に「私」に「わたし」の読みを加えたのなどは、遅過ぎるくらいである。1点しんにゅうと2点しんにゅうの事は前に述べた(1月10日)。
 常用漢字とはあくまでも一般的に使う「目安」である。地名や人名などの固有名詞が対象になっていないのは当然の事である。それなのに、今回「茨城」「埼玉」「大阪」「岡山」「近畿」「韓国」などが「公共性が高い」として、それぞれの文字が入った。
 ふーん、「岡」は「岡山」が公共性が高いのか。「山岡」さんは別に公共性が高いとは言えないのは分かる。「大阪」と「阪本」さんの関係も同じ。でも都道府県名だから公共性が高いなどと一律に考えるから、「栃」などの「栃木県」以外には滅多にお目に掛かれない文字までもが常用漢字の仲間入りをしてしまう。「栃」は決して公共性が高いとは言えないだろう。

 地名などの固有名詞は人名と同じく特殊な使い方だ。一つだけの地名でしか使われない漢字があったって少しもおかしくはない。なにもそれを常用漢字にしなければならない事は無い。確かに「岡」や「阪」は公共性が高いとは言える。だが「埼」はどうか。「犬吠埼」などの場合は「さき」である。「さい」だけ認めてもあまり意味が無いのではなかろうか。
 大体、地名や人名などの固有名詞はとても勝手なんだから、常用漢字かどうかなど関係が無い。「栃」だって、漢字としてはおかしな文字だと読んだ事がある。人名にしても勝手に変な字を使って、お陰で印刷に関わる人間が大きな迷惑を蒙っているケースもある。

 「創る」「混む」などを認めた事から、東京新聞は、「作」「込」などとの使い分けの幅が広がりそうだ、などとのんきな事を言っている。「使い分けの幅が広がる」だって? 冗談じゃない。今だって様々な漢字で使い分けが混乱している。幅が広いのではなく、いい加減で曖昧なのである。私は漢字の使い分けについてはここ10年以上も追究している。様々な国語辞典を徹底的に調べ、「慣用」に引きずられない一つの案を作り出している。どこか意欲的な出版社に原稿を売り込もうと思っているが、意欲的でなければ出版出来ないくらい、それは画期的な案だと自負している。
 それくらい画期的な事を考えないと、現行の漢字の使い分けは収拾が付かないのである。お疑いの向きがあれば、二冊以上の表記辞典を使って、「創」「作」「造」の使い分けを調べれば、たちどころに分かるはずである。ただし、『朝日新聞の用語の手引き』と『毎日新聞用語集』などの同じ分野での表記辞典ではだめだ。これらは瓜二つと言って良いくらいに同じなのだ。だから新聞社系と出版社系のように、分野の異なる辞典を使う必要がある。

 「混む」だが、現在は「込む」しか認められていない。多くの人が「混む」だと思っているのは、「混雑」の言葉に引かれてだろう。だが「混」に「こむ」の意味は無い。白川静著『常用字解』には「まじる・まざる」としか無い。「昆」は昆虫の形で、「比」はその足の形だと言う。昆虫は小さな虫で、群れ集まって混雑している(いりまじっている)事が多いから、「混」は「まじる」の意味となる。以上、同書の説明である。
 いくら「混雑」だから「混む」だと思っても、それは「混乱」の結果なのだから、誤用は誤用である。何も、そのような事に引きずられる必要は無い。現在の漢字の書き分けが曖昧なのは、慣用に引きずられているからなのだ。そうした愚を繰り返すのは愚かである。

 「桃栗三年柿八年」では「桃」だけが常用漢字だ。「栗」も「柿」も見直されてなどいない。そして、「熊」や「虎」は認められ、「雀」は認められていない。身近な動物ならば、虎などよりも雀の方がずっと身近である。
 まあね、「目安」なんだから、と思えば目くじらを立てる事も無いのだが、どうしたって、出版物はその「目安」に引きずられてしまう。新聞などはその最たる物だから、我々にも大きな影響を与えてしまう。我々もそれに引きずられている。
 現行の常用漢字にしても新案にしても決して合理的とは言えないのだから、本当にあくまでも「目安」として、ほんの参考までにしておいてくれれば良いのである。新聞などが良識を発揮してくれれば、と思う。
 漢字はいくら中国語の文字だったとは言っても、今では、正真正銘、日本語の文字になっている。訓読みを与え、音読みにしても日本独自の読み方なのだから、日本語の文字なのである。それを忘れてはいけない。「あたたかい」「かたい」のように、日本語では一つの言葉しか無いのなら、それを漢字を書き分けて表そうなどと考えるのは邪道なのである。そうしたしっかりとした考えが無いから、常用漢字案にしても、変な結果になるのである。