夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

リニア中央新幹線と東京物語

2009年01月21日 | Weblog
 リニア新幹線に三つのルート案がある事が先日発表された。今まで東京・名古屋の直通ルートにこだわっていたJR東海が、沿線自治体の協力を得るために、迂回路線も構想に入れると決意したと言うニュースであった。
 それなのに、20日、再び東京新聞にそのニュースが載った。タイトルは「リニア構想本格化」だが、一番大きい見出しは「地元との調整難航も」である。
 何だ、全然進んでいないじゃないか。なんでこんな事、また採り上げてるんだ?

 そして私はやはり、「のぞみ」よりも1時間短縮の、東京・名古屋間最速40分に大きな疑問を持っている。東京から名古屋はホント遠いいよ。それが1時間40分だと言う事だって驚きなのに、なんで更に短縮しなきゃならないんだ?
 そんなに我々は忙しいのか。今、仕事だってどんどん減っている。もっとも、それはここ二、三年の事だと思われているが、でも、果たしてそうか。能率ばかり考えて来た事が裏目に出ている事は無いのか。中身ではなく、外側だけをうまくやって来た、と言う事は無いのか。
 東京・名古屋間を40分で移動しなければ絶対に立ち行かないと言う人々がどのような人達なのか、是非ともその姿を見せて欲しい。私はそうした人には近づかないようにしたい。そうした人達は、多分、一年も掛かる大河ドラマなどまどろっこしくて見ていられないんだろうね。
 物事には「序破急」と言う段階がある。オペラには「序曲」があり、書物にだって「序章」がある。東京・名古屋40分を目指す人は、序曲や序章など目もくれないのだろうね。もっぱら結論だけを急ぎたがる。「せいては事をし損じる」「急がば回れ」の諺だってあるじゃないか。諺は先人の知恵なのだ。

 その1時間を節約した人が、その1時間でどのような有意義な事をするのかは非常に興味深い問題である。まあ、そんなに切羽詰まった人なんか、面白くなんかなくて、多分、付き合いづらい人間だろうよ。

 同じ日の東京新聞の「本音のコラム」に鎌田慧さんが書いている。題して「下町物語」。隅田川に近い下町の商店街が歯の抜けた櫛状態で、活気の無い町になって久しい、と言う。かつての商店が独房よりも狭い宿に変貌しているのだそうな。下町が山谷や釜ケ崎のようなドヤ街化しつつあるのか、と疑問を呈している。そしてそれを「東京の貧困化がすすんでいる表れであろう」と見抜いている。
 新幹線が開通した事で、地方は活性化するはずだった。しかし地方の人々が東京に吸い上げられてしまう結果になっている。地方はどんどんシャッター街になりつつある。そしてまた、その東京もシャッター街になっている。
 地方も都会も、活性化している部分は活性化している。しかし、そうでない部分は徹底的にそうでなくなっている。二極分化が激しい。現在の日本の経済情況と瓜二つである。

 地方と都会、それも東京を結ぶはずだった新幹線が、どうもあまり役には立っていないような気がする。結ぶのではなく、一方をもう片方が吸い上げるだけに終わっているのではないのか。そうした事と、スピードや便利さだけを追い求めた結果がどうも結び付いている気がする。
 必要な「無駄」がある。「無駄」と言っては駄目なのだが、効率だけを考える人々にとっては「無駄」としか言いようが無い。そうではない人々にはそれは「ゆとり」として映る。そう。ある一つの事柄に対して、それを「無駄」と考えるか「ゆとり」と考えるか。それが大袈裟に言えば、人生の岐路になる。
 今までは、「無駄」と考える人々がこの国の行く末を握っていた。それが現在のような結果を導き出している。これからは「ゆとり」だと考える人々に行く末を担ってもらわなければ駄目なのだ。

 リニア新幹線は手一杯になった東海道新幹線のバイパスの役目もあると言う。東海地震が起きた際の防災上のバイパスにもなる。でも、それは現在の新幹線と同等の技術で十分間に合う。でも、その前に、なぜ東海道新幹線が手一杯になっているのかを考えてみる必要がある。東京・名古屋・大阪間の移動がそんなにも頻繁に行われなければ日本は立ち行かないのか。そんな事ばかりしているから、地方が疲弊するのではないのか。
 名古屋や大阪の事は知らないが、東京はどんどん住みにくくなっている気がしてならない。何でも一極集中だから、地価は高いし、その結果、物価だって高い。世界一物価が高いなんて、何の自慢にもなりゃしない。それだけ生活程度が低いと言う証明にしかならない。
 ねえ、ホント、目の前の現実をしっかりと自分のその目で見詰めましょうよ。それで何の知恵も湧かない人は、どうぞこの世界からお引き取り下さい。

残間里江子さんの人生相談に疑問

2009年01月20日 | Weblog
 20日の東京新聞の人生相談。
 父親が物を捨てないので困っている。切り抜きのための新聞、仕事関係の書類、衣類などが自分の部屋だけでなく、居間にもあふれているのだと言う。
 残間さんの回答は二つに分かれる。
1 若い頃から物を捨てない人の場合
 父親の価値観になっている。従って、よほどの事が無い限り、「片付け好き」にはならない。解決方法としては、価値観の違いを認識してとことん話し合うか、駄目なら別居、最終的には離別するくらいの覚悟が必要。
2 加齢による場合
 多くは片付けが面倒くさいだけの単なる「だらしない人間」である。もったいないブームと不況で、本人は色々と言い訳をするだろうが、何と言われても片付けてしまえば良い。
 しかし、いきなりすべてを処分すると父親のメンツにも関わるので、時間をかけて少しずつ廃棄する。案外、父親も何を保有しているか分かっていない事もある。

 提案の2は、なるほどとも思える。加齢が原因だと言うからには、精神的な障害でもあるのかも知れない。であれば、「何を保有しているか分かっていない事もある」のは「案外」なのではなく、「実際に」の場合の方が多いはずだ。「案外」なら、加齢が原因とは限らない。
 加齢が原因で、何を保有しているのか分からないのであれば、処分したって問題は少ない。そうでしょう。持っている事を知らない物を捨てられて、誰が文句を言うか。捨てられたと思わないのである。

 しかし、1は大きな問題だと思う。回答者自身、「価値観になっている」と考えている。つまり、「とことん話し合う」は価値観の変更を迫る事になり、「別居・離別」は価値観の否定その物である。
 へーえ、本当にこの人はこのように考えているのかと、驚いた。優秀なプロデューサーと聞いているが、もしかしたら、私の勘違いだったかも知れない。しかも、取ってあるのは「切り抜きのための新聞」「仕事関係の書類」だとも言う。私だって、それを場所を取るからと勝手に処分しようと言うなら、烈火の如く怒り狂う。
 とことん話し合えば、価値観を変更する事は可能かも知れない。しかしそれは並大抵の事では出来ないと思う。そんなに簡単に変えられる価値観だったのか、と言う事にもなる。とことん話し合え、と言うのなら、どのように話し合えば良いのかを具体的に示してくれなければ、無責任だと私は思う。

 誰だって、はたから見れば、何でこんな物を、と思われてしまうような物が大事な事がある。物を持つ、と言うのは単に保有するのではない。使えば用が済む、あるいは価値が無くなる物を取っておく事はまずは無い。取っておくのはそれ以外の物だ。
 欲しくてたまらなかった物。持っていて愛着の湧いた物。そこには、持ち主の考え、ひいては人生がこもっている。だから、他人からは何の価値も感じられないのは当然なのだ。持ち主本人だって悩んでいるのだ。使用価値が減っているあるいは無になっているにも拘わらず、自分の感じている価値観は少しも減ってなどいない。
 そこで、自分自身の悩みを解決するには自分で自分の価値観を変える必要がある。それがどこまで出来るのか。
 価値観、それは人生観でもあるはずだ。それを簡単に、他人から言われて変えられるのなら、そんな人間を私は信じたくはない。人間、誰しも価値観、人生観がある時、パッと変わる事がある。それには大きな転機が必要なはずだ。
 他人の価値観、人生観を安易に否定するなら、自分の価値観、人生観も安易に否定される。そんな事、当たり前の真実である。

権力者側と庶民は住む世界が違う

2009年01月19日 | Weblog
 神奈川県が分煙・禁煙で手抜きとも言える修正案を発表した事を批判した。権力側が権力者にしか顔を向けていないと書いた。現在の政府しかり。野党の民主党だってどうだか。大企業の幹部がメディアの企業批判は不当だと言っている事も書いた。
 結局、変な言い方をすれば、いわゆる力を持っている人々と何の力も持たない庶民とは、住んでいる世界が違う。そうでしょう。力ある人の中には地下鉄なんか乗った事の無い人だって居る。そうそう、力ある人の「力」の中には権力だけではなく、金力も含むのである。
 我々はアメリカの庶民が何を感じて、何を考えているかなどは分からない。同じく中国人がどうか、も分からない。世界がまるで違うのである。基本的にしている事には変わりが無いが、その根本にある考え方まで同じとは言えない。いやいや、考え方が違うと言う現実を我々は様々な機会に体験しているではないか。
 それと同じ構図が日本の国内に厳然として存在している。強者と弱者、政治権力と庶民、金持と貧乏人、色々な言い方があるが、すべて「力を持つ者」と「力を持たない者」である。異なる世界を理解しようと努力する事はされている。しかしそれは理論的な理解なのであって、文字の上の、言葉の上の理解に過ぎない。心底からの、感覚的、感情的な理解とはほど遠い。
 早い話、毎日勤めに出ている人に、クビを切られ、しかも住む所まで失ってしまった派遣社員の生活振りが、困窮が、分かると言えるだろうか。確かにある程度は分かる。分かるがそれは身に染みてなどいないから、「ぬくぬくとした分かり方」なのである。そんなのが「分かった」とは言えないのは言うまでもない。
 誰だって、そうだ。私だってそうだ。自分の身は安全圏に置いて考えている。そこに真の理解があり得ようはずが無い。「分かった」と言うのは、その物と一体になった時に初めて感じるのだと思う。一体になれる道理がない場合には、だから「分かって」などいないのである。

 そんな事を言っていては、どうにもならないじゃないか。その通り。だからこそ、互いに分かり合おうと努力するのである。お互いの意見を採り入れて、自分の立場を譲歩する。民主主義ってそう言う物じゃありませんか? だから絶対多数で寄り切るなんてもってのほか。それでは各種の政党が存在する意味が無い。
 夫婦なんて性別も違えば、育った環境も違う。考え方や感じ方が違って当然である。だが、亭主関白では立ち行かない。たとえ表面的にはうまく行っているように見えても、それは奥さんが我慢をしているから成り立っているに過ぎない。その反対でも同じ。
 だから夫婦は互いに譲り合い、助け合って一家を支え運営している。その姿は子供に正確に受け取られ、移し(写し)取られてしまう。それで、子供を見れば親が分かる、のである。
 健全な夫婦の真似事でもすれば、この国は、企業は、そして様々な事がうまく行くはずである。時には盛大な夫婦げんかだって必要だ。でも互いを尊重し合うとの精神が消えていない限り、円満はすぐに戻る。
 配偶者がとんでもない精神異常者だったりすれば別だが、そう簡単に離婚してはいけないのである。努力もせずに、嫌だから嫌だ、で離婚する夫婦が増えているらしい。特に芸能関係ではごく当たり前のように報道されている。馬鹿な事をしているもんじゃない。互いに何の努力もせずに良い夫婦関係が成り立つはず無いじゃないか。
 それと国や社会の事は同じである。現在の政治を見ていれば、すぐに分かる。何の努力もしていない。単に既成の権力の座に安住しているだけだ。大企業は「企業の利益→株主の利益→企業の利益」と循環しているだけに過ぎない。確かに消費者の利益もあるにはあるが、それは本当に「おまけ」に過ぎない。
 前にも書いたが、消費者の利益と言うなら、それは企業の経営が順調に行っている事で釣り合いが取れている。消費者の利益に見合った利益を企業は求めれば良いのであって、それ以上の莫大な利潤に繋がる利益は無用なのである。それじゃあ経営している意味が無い、などと思うのはカネに目が眩んでいるからである。「消費者のため」と言うのはそうした事なのである。カネに目が眩んでいては「消費者のため」の製品は作れないし、売れないのである。

医者の見立てと運動不足の関係。立ったままの事務仕事

2009年01月18日 | Weblog
 昨日は休んでしまった。夜中に突然背中が痛くなった。前から時々痛くなっていたのだが、今回のは特に激しい。トイレで腰掛けると、立ち上がれなくなってしまうほど痛い。結局、寝ているか立っているかのどちらか。椅子に座ってパソコンなどもってのほか。
 前に整形の先生に相談したら、運動不足だと一言の下に決め付けられた。確かに一日中パソコンに向かっていたりもする。まあ、何とか運動不足を解消しようとは思っている。でも泳いでいても、背中が痛い。
 そして今朝、朝のジョギングから帰って来た同年輩の知人に話した所、運動不足とばかりは言えないよ、と言われた。調べてもらった方がいいと助言を受けた。別の医者に診てもらうとするか。
 医師の見立てに私は時々不審を抱いている。以前、右足のかかとが突然痛くなり、全く歩けなくなった。トイレへも這って行った。少し歩けるようになって、大病院の整形外科にかかった。レントゲンも撮り、医師の言うには、アキレス腱が成長していて、成長の止まった骨との関係で痛みが出ているのだと。
 えっ? この歳でアキレス腱の成長ですか? と聞いたが、そうだと言う。そうした事はしばしばあると言う。そして痛みはいつの間にか消えた。
 何カ月か経って、同じ場所がまた激しく痛んだ。かかりつけの整形の先生は痛風の発作だと言う。確かに血液検査をすると、尿酸値が異常に高い。早速投薬が始まった。お酒を飲まなければ薬も飲まなくていいんですよ、と言われても、浴びるほどではないが、晩酌程度はする。350ミリリットルの缶ビール1本と純米酒1合か1合5勺くらいで、そんなにも尿酸値が上がるものなのか、とは思うが、数値が高い以上は薬を飲まなければならない。
 薬のお陰か、以後、発作は起きない。ただ、私はやはり何となく疑っている。痛風とは文字通り、風が当たっても痛いと言うくらい痛いらしいし、また主に手足の指の関節に起こると言う。私はそうした事はまるで無く、痛むのはまだ2回だけだが、右足のかかとと決まっている。
 しかし医者から、そうした例はありますよ、と言われれば、そうですか、と頷くしか無い。薬は夕食後はどうしても飲み忘れたりして、指示の半分くらいしか飲んでいないが、それでも最近の検査では肝機能も尿酸値も正常である。薬のお陰なのか、それとも……。幸いにして右のかかとの痛みはもう2年近くも出ないが、今度はこの背中の痛みである。
 同じ部位の同じ痛みで診断が全く違う。本当は痛い時にまた別の医師に診てもらえば良いのだろうが、そう思っていると、不思議と発作は出ないのである。

 腰掛けての作業だが、これはどうも体にとっては良くないらしい。旅行代理店の仕事ぶりを見ていて気が付いたのだが、彼等は立ったままコンピューターを使っている。その方が能率が良い。私も立ったままパソコンの作業が出来ないか、と考えている。話は簡単である。作業机の高さを上げれば良い。だが、変更は簡単には行かない。
 今、パソコン台として使っているのはダイニングテーブルである。高さが机よりも低い事と、大きい事がメリットになっている。本当は横幅は今の120センチよりもっと広く、せめて140センチは欲しい。奥行きは今の80センチよりはあと15センチは欲しい。
 大きさはともかくとしても、高さをこのまま上げるのは大仕事になる。だからなかなか実行に移せない。
 人類は四つ足歩行から二足歩行になった事で負担を抱える事になった、と読んだ記憶がある。それが腰に来る。しかし私の患部は背中である。それはどうしても背中が丸くなるからではないか。立ち仕事なら高さが適当であれば、背中が丸くなる事は無いと思うのだが。
 どなたか、立ってパソコン作業をしている方からの御助言を頂けないものだろうか。

「小規模飲食店は禁煙対象外」神奈川県の方針に疑問

2009年01月16日 | Weblog
「小規模飲食店は禁煙対象外」
 このタイトルの事を神奈川県は決めたと言う。不特定多数の人が集まる公共的施設に禁煙または分煙を義務付ける仮称「受動喫煙防止条例」の素案について、100平方メートル以下の小規模飲食店やパチンコ店などの施設を規制対象から外す修正案を発表した。
 これらの施設を「特例施設」として、「禁煙・分煙は努力義務にとどめ、未成年者の立ち入り制限も努力義務とした」のである。何と言う後退振りか。しかも既に「3年間の適用猶予」もされているのである。
 県の言う理由は次の通り。
 「小規模飲食店は分煙設備設置が物理的に難しく、資金負担が重いとし、パチンコ店など風営法対象施設が分煙設備を設置する場合は、構造変更の事前許可などが必要で営業停止を余儀なくされる」
 更には、「旅館などの宴会場は、施設管理者が〈喫煙〉も選択できると変更した」との修正のおまけ付きである。

 これは実質上の骨抜きである。神奈川県知事は「経済状況が大変悪くなり、一部事業者に配慮が必要となった。禁煙の実現へ、強制的でなく、皆さんの自助努力を引き出すアプローチが必要と判断した」と言う。
 何と言う言い訳か。カネのためなら人々の健康など問題にはならないのだと言う。恐れ入った感覚である。しかも、分煙設備の設置が物理的に難しいとは何事か。分煙が絶対に必要だから、本当は禁煙に踏み切るべきなのだが、設備を設置するのである。それについて物理的に難しいも何も無いのである。物理的に難しいと言うのはそのために客席とか営業の施設に負担が掛かるからである。
 確かに客席の数も制限を受けるだろう。だが、根本的な事が間違っている。営業ありきではないのだ。客の健康ありきなのである。そうでしょう。どの店だって「お客様のために」をモットーにしているはずだ。それともそれはほんの体裁だけで、単なる客引きのためのキャッチフレーズだとでも言うのか。
 更に更に。
 パチンコ店などは「構造変更の事前許可などが必要で営業停止を余儀なくされる」とは何たる言い分か。それなら、事前許可の制度を改めれば良いではないか。それともこれは国の法律で決まっていて、地方には手が出せないのか。それだって、何らかの方法はあるはずだ。それに、事前許可が何で営業停止になるのか。営業停止にならない事前許可の方策を考えれば済む事じゃないか。

 ねえ、規模が小さい店だからこそ、喫煙が他者に大きな影響を与えるんですよ。だから小規模飲食店こそ、禁煙を実行しなければならないはずである。
 そして飲食店と並んで、パチンコ店が規制の対象外になっているのが腑に落ちない。最近テレビにパチンコのCMがのさばり始めた。聞く所によると、小沢民主党党首が韓国を訪問した際、韓国側から規制を緩めて欲しいとの要望が出されたのがその理由だと言う。おかしいね。小沢氏は単に野党の党首に過ぎない。テレビCMの規制にまで力があるとは思えない。
 要するに、韓国人の経営者が多数であるパチンコ店の経営をもっと安定させろ、との要求に日本は屈服したらしい。こうした事と神奈川県と言い、どうしていつも庶民を足蹴にするのか。政治の権力を握る者は常に権力者側にしか顔を向けていない。それが如実に分かる。

「企業批判は正当か」の記事タイトルは「不当だ」と言っている

2009年01月15日 | Weblog
企業批判は正当か
 これは12日の東京新聞の「記者の目」と称する紙面の「メディア観望」と題する欄のタイトルである。
 これだけを見ると、企業批判に対する疑問を呈している。つまり、言いたいのは「企業批判は正当ではない」になる、と誰もが思う。正当だと言うのなら「企業批判は正当だ」になるはずなのだ。ただ、「企業批判は不当だ」とまでは言っていない。
 しかしながら、次の二つを比べて見れば一目瞭然。
1 企業批判は正当か
2 企業批判は不当か
 そしてこの記事は次の文章から始まる。

 「民間企業が世論やメディアにたたかれるいわれはない」。まもなく五十歳の企業幹部は激しい口調になった。怒りの矛先は「大企業がクビにした人を中小・零細企業と税金で助けている。大企業は何もしていない」「大企業は巨額な内部留保を取り崩してでも雇用を守れ」との世論だ。
 「絵に描いたもち。感情論と言ってもいい」と彼。
 「人員削減せずに赤字になれば、株主から批判される。株価が暴落し、銀行もカネを貸してくれなくなる。それで企業がつぶれたら、逆に雇用が減るじゃないか。メディアも、少しは勉強しろよ」

 こうした意見をこの特別報道部の記者は「弱気を助け、強気をくじくのが記者」と言う環境に囲まれて来たので、「企業批判することの正当性」を理論づけて考えたことなどなかった、と言うのである。正面から問われると、うなってしまう、とも言う。
 正直言って驚いた。そんな正義感だけでやっているのかと。
 そして彼の結論は35年前の最高裁の判決に行き着く。
 試用期間終了間際にクビを言い渡された男性が、憲法14条の「法の下の平等」などに反するとして雇用契約確認を求めた訴訟である。判決は「大企業のような“社会的権力”は、公権力に並ぶ力を持っているのだから、あまりにひどい人権侵害の場合は、憲法は個人(私人)が権力者からいじめられないよう守ってくれるツールとして良い」との学説が最高裁に受け入れられたのだ、と説明している。
 だから、この「企業だって個人と同じ弱い立場なんだ」と、企業側が不満を抱くとの問題は、既に35年前に、ある意味で決着が付いているのだ、と言うのがこの記者の考えなのである。

 最高裁のお墨付きとは心強い。しかし問題はそんな事ではないはずだ。最高裁が何と言おうと、企業側は不満なのである。最高裁の考え方は先に引用しように、とても抽象的である。だから、冒頭の企業幹部の言うような、「株主から批判されて株価が暴落して、企業が潰れたらどうしてくれるんだ」との反問に答えられない。そんな事、最高裁は念頭になど置いていないからだ。
 この問題は、企業幹部が指摘した通り、株主から批判を受ける事が最大の問題なのではないか。その事については先日書いた。株主はカネだけが目的である。社員がクビになろうがどうしようが、と言っては差し障りがあるかも知れないが、株主の目は株価にしか向いていない。言い換えれば、企業の業績だけが問題なのだ。目的が違う。
 更には銀行がカネを貸さないとの現実がある。銀行はエリートだと自負しているらしいが、とんでもない。単に金貸しに過ぎないじゃないか。私は中小企業の、いやいや、零細企業の経営者だった人々から話を聞く機会があるが、銀行は相手にしてくれない。相手になってくれるのは地元の信用金庫や信用組合だけである。銀行が我々庶民、1千万円以下の預金者はゴミとしか思っていないと言われているのはどうも確実な事実らしい。
 
 こうした経済体制が大きな問題を抱えている事は明らかである。現在のような不況になると、なおさらそれが目立って来る。だから、この不幸を良い機会としてそうした経済の仕組みに目を向ける、徹底的に考え直す事を考えたら良いではないか。それを具体的に出来るのが、この企業幹部の不満に取り組む事なのだ。
 それを35年前に決着していると言って済ましてしまう事に私は大きな疑問がある。だからこそ、記事のタイトルが「企業批判は正当か」になってしまうのである。そしてこの企業幹部の疑問も我々が抱く疑問も解決されないままに終わってしまうのである。

温かい料理で暖かなもてなし。表記の矛盾・その2

2009年01月14日 | Weblog
温かい料理で暖かなもてなし
 昨日、「鍋は暖かくて温かい」の事について書いた。「あたたかい」と言う言葉の表記の問題である。
 そこで一つ問題を出す。
●タイトルの言葉の意味は何か。

 答としては、「出来たてのあたたかな料理で心あたたまるもてなし」の意味だと解釈するのが普通だろう。
 しかしそうだとすると、表記は「普通には」、「暖かい料理で温かなもてなし」となる。 タイトルの表記を、表記を厳密に解釈すると、と言っても「厳密に」に問題があって、単に一つの解釈には過ぎないのだが、次のようになる。
 「あたたかい冷たいに拘わらず、心のこもった料理で、冬なのだろう、部屋をあたためてのもてなし」となる。
 なぜなら、昨日も御紹介したように、
・温かい=抽象的表現。
・暖かい=主として気象・気温に。
と言うのが表記辞典の考えで、それが一般的とされているからである。
 だが、これは理屈に過ぎる。そして普通は、誰もこのような解釈はしないはずだ。「あたたかい料理であたたかなもてなし」と言えば、料理はあたたかで、もてなしは心がこもっている、と思うのが普通の考えである。
 「あたたかい」と言えば、何があたたかいかで、何がどのような具合なのかは分かる。それが我々日本人の正当な考え方であり、正当な日本語なのである。例えば、「頭がやわらかい」と言えば、まさかたこを食べる場合ではなかろうから、頭脳が柔軟だと分かる。「身がかたい」と言えば、食料の肉や魚の事ではなく、身持ちが確実なのだと分かる。

 こうした言葉は表記などに頼らずとも、発音だけで意味が分かるのである。だからこそ、言い方は一つしか存在しないのである。「やわらかい」「かたい」「あたたかい」など、皆そうだ。決して漢字を書き分ける事で分かっているのではない。
 漢字の力は侮れない。しかし万能ではない。と言うよりもむしろ漢字の力は日本語としては弱いのである。中国語では「温・暖」は発音はもちろんの事、意味が異なるはずだ。それを日本語に採り入れた時に、音読みこそは異なるが、訓読みでは同じになった。訓読みとは意味の事だから、「温・暖」は意味の同じ「あたたかい」になったのである。
 こう言うと、それなら何も漢字を使わなくてもいいじゃないか、と短絡的に考える向きがある。特に和語は仮名書きで良いと言うのである。ところが、日本語は漢字に頼る事で、自分自身を磨く事を怠った。全部を仮名書きにしたらまるで分かりにくくなってしまうのが何よりの証拠である。この直前の文章にしても、「分かる」と漢字にしたからまだ良いのであって、「仮名書きにしたらまるでわかりにくくなってしまう」だったら、文字通り、何とも分かりにくくなってしまう。その事が分からない人々が多い。言葉に関わる仕事をしている人にさえ大勢居る。

 「あたたかい」を「温・暖」の二つの漢字があるからと言って、無理に書き分けようとなどするから変な事になる。今まで使い分けて来た慣用に従おうとする。「慣用」は人によって解釈も違う。その証拠には漢字の意味による書き分けが二つの辞書で全く正反対になっている場合がある。
 そんなあやふやな事に引きずり回されている愚かさを知るべきである。
 これは一人、書く側の好き嫌いでは収まらない。読む側も、書き分けよ、と思い込まされているから、必死になって読み分ける。それが問題に出した事のようになる。
 私の答ですか? もちろん、「どちらでも良い」である。「暖かい」が好きならそう書けばいいし、「温かい」の方が好ましいと言うのであれば、それでいい。そしてその時々によって変えたって一向に構わない。「どちらでも良い、意味は同じだ」と解釈している以上、それで事はまあるく収まるのである。
 平仮名の「き・さ・そ」に二種類の文字があるのをご存じですよね。書体によって違う。それをおかしいだの、いけないだのと考える人などいやしない。
 「中澤」さんを「中沢」さんと書いたからかといって、人格が変わる訳がない。もしもそうなら、新聞などはこうした失礼な事を常にしている事になる。こうした人名の事はまた別の問題なのだが、平仮名だけでは納得してもらえまいと思って例に挙げたに過ぎない。
 つまらない漢字の書き分けを熱心にするよりも、意味を明確に伝える努力をこそすべきなのである。

鍋は「暖かい」だけでなく「温かい」。表記の妙味と矛盾

2009年01月13日 | Weblog
 タイトルの前半は12日の東京新聞のコラム「筆洗」の最終行である。この言い方に誰も反対はしない。もっともな言い分だと納得する。それを納得させている力が、鍋料理の魅力に加えてこの「暖かい」と「温かい」の書き分けである。
 さて、コラムの文章の意味は何だろうか。文章全体から言うと、「鍋は部屋を暖かくして心を温かくする」である。なぜなら、鍋は暖房にもなる、との主旨だからだ。
 しかしこの文章は「鍋は体を暖かくして心を温かくする」とも読める。コラムを離れて考えれば、むしろ、こちらの方が主流なのではないか、とも考えられる。
 だが、ここで問題が起きる。
 体があたたかくなれば、心もあたたかくなる。つまり、どちらも同じではないか。それならどちらも「暖かい」か「温かい」のどちらかで同じに出来る。
 部屋があたたかくなれば、体も心もあたたかくなる。これまた「暖かい」「温かい」のどちらか一つになる。

 普通、「暖かい=寒の対語」「温かい=冷の対語」と考えられている。代表的な表記辞典はほとんどがこうした見解である。だが、「さむい」と「つめたい」はそんなに明確とは言えない。
 心は「寒い」とも「冷たい」とも言えるからである。また、温度にしても、「空気が冷たい」とも「部屋が寒い」とも言える。「空気が冷たい=寒い」である。ここから、「冷たい」はその物自体の温度の事で、「寒い」はそれによって起きる感覚の事である、と言えそうではある。心が「冷たい」のは心臓ではなく、思いやりが「冷たい」のである。それを相手が感じれば、自分の心が「寒く」なる。
 こうした「冷たい」と「寒い」の曖昧さに加えて、その対語であると表記辞典の言う「あたたかい」にはこれ一つしか言い方が無いのである。

 そこで表記辞典は、「寒・冷」の対語と言うだけではなく、
・温=一般用語。抽象的表現。
・暖=主として気象・気温に。
と、使い分けている。
 そこで、このコラムは「鍋は部屋の気温を暖かくして、心も体も温かくする」と言っている事がはっきりと分かる。
 しかし、「部屋をあたたかくする」場合に、部屋が冷たく冷え切ってしまっている時には、「部屋を温かくする」となり、部屋が寒いと感じれば「部屋を暖かくする」となりそうである。言っている本人には分かるとしても、これを読んだ側は、単に「部屋を温めた」あるいは「部屋を暖めた」とあった場合に、一体どちらだと解釈すれば良いのか。
 もちろん、そんな事はどっちだって良いのである。つまり、「あたたかい」と聞いたり読んだりした時に、その人が感じたままで良いのである。そこまで詳しく言うならば、「あたたかい」の一語ではなく、言い方を変える必要がある。ちょうど、「さむい」と「つめたい」で言い分けているように。

 『岩波国語辞典』も『新明解国語辞典』は、「あたたかい」でも「あたためる」でも「暖・温」の使い分けを示してはいない。どちらでも良い、と言っている。
 だが『新選国語辞典』は「あたたかい」ではどちらでも良い、ただ、反対語が「寒・冷」のどちらかで使い分ける、とは言っているが、「あたたまる・あたためる」では明確に使い分けを示している。
・部屋が暖まる・暖める
・ベンチを暖める
・スープが温まる
・心が温まる
 一見、無難かな、とも思えるが、「ベンチをあたためる」は別に温度を高くするのではない。結果的にはそうなるが、それを比喩的に使って「登場の機会が無い」事を示している。だから、まあそれでもいいよ、となると、心だって、本当にほんわかとあったかな感じがする時には「心が暖まる」と言いたくなるではないか。
 『明鏡国語辞典』も面白い。「一般的に」ではあるが、
・暖=気候・気温など、気体による全身的な体感。
・温=固体・液体による触感や、気体による部分的体感。
だと言う。
 でも、あたたかい食べ物では口や喉があたたかいと感じる(部分的体感)のだが、体全体もあたたかくなり、心もあたたかくなるのではないのか。
 このほか、大型国語辞典も動員するともっと面白いのだが、収拾が付かなくなる恐れもあるし、長くなるので、この辺で。
 「あたたかい」としか言いようが無いのを「温・暖」の二文字があるからと無理に使い分ける必要は無い。表記辞典は「暖・寒」と「温・冷」を対語扱いにしているが、エアコンは「暖冷房」である。気温で言えば「暖寒房」であり、部屋その物で言えば「温冷房」である。
 本当に、どっちだっていいじゃないか、と言いたくなる。

商店街での楽しみ。つまらない事の繰り返しに人生がある

2009年01月12日 | Weblog
 近所の商店街で、たくさんある八百屋の中で、小さいが新鮮で価格も的頃な店を見付けた。そこでしょっちゅう買いに行った。当然、店の人とも顔見知りになり、今日はこれ買いなよ、などと勧められたりもする。
 そして忙しさが続き、他の物も買うので、ついついスーパーで野菜も済ませていた。しばらくしてその店に行ったら、まるで見知らぬ人のような対応である。「しばらく見なかったねえ、元気だった?」くらいの挨拶が返って来てもおかしくはない、と私は思う。
 そうか、今まで顔見知りのように思われていると感じていたのは、私の錯覚だったのか。あれは店の商売っ気その物だったのだ。それっきり、その店にはほとんど行かなくなった。そうだろう。商売っ気なら、いつだって発揮すれば良い。客に不信感を抱かせるような売り方はするべきではない。と勝手に思っている。

 全く同じような事が前にもあった。
 事務所の近くにレストランがあった。言うならば洋食屋である。そこでよく昼食を食べた。残業する時には夕食も食べた。常連になると、夕食はメニューに無い物を出してくれる事もある。嬉しい事だった。
 私が制作に関わっている月刊誌のファンだと聞いたので、毎月、雑誌が出来るたびに差し上げていた。
 昼にプールに通い始めて、プール仲間と一緒に近くの店で昼食を取る事が多くなった。そこでいつもの店には御無沙汰となる。それがずっと続いて、何となく行きにくくもなっていた。
 ある日、近所のスーパーでその店の奥さんとばったりと出会った。奥さんは店に出ている。私は旧知に会ったつもりで、当然に挨拶をした。ところが、まるで見知らぬ人を見るような顔で、ちょっと頭を下げただけ。と言うか、怪訝な面持ちにさえ見えた。はて、誰だったかしら、と。
 場所は下町、それも学生街である。気さくな所が身上である。「あら、どこかに可愛い子の居る店でも見付けたのかと思ってたのよ」くらいの挨拶をしたって罰は当たるまいに。
 その店はそのずっと前、まだ先代の御夫婦が健在の時に一度ふらりと立ち寄った事があった。当時私は医者が処方した目薬を定期的に差す必要があった。それを見て、その奥さんは、「目を悪くしているの? お大事にね」と言った。初めての客である。まあ、そんな事を言われると、人の事だ、黙って見てろ、と思う人もいるだろう。だが、私は嬉しかった。商売用のおべんちゃらを言っている顔には見えなかった。本当に心配そうな顔だったのである。そして、その後、近くに行くたびに寄るようになった。

 私は結構、店の人に覚えられてしまう。妻は、変な人だからよ、と素っ気ない。多分、普通の人とはちょっと違った事を言ったりするからだろう。それが妻に言わせれば「軽い」のである。
 スーパーのレジでも、あまり寒くない時に足元にヒーターがあったりすると、「あっ、そこ寒いんだ」などと思わず言ってしまう。するとレジ嬢は「そうなの、とても冷えるのよ」と言葉を返してくる。「いらっしゃいませ。はい、1525円です。2025円お預かりします。はい、500円のお返しです。有難うございました」だけを一日何度も何度も繰り返しているだけなんて、つまらないではないか。
 だから私は顔を覚えられる。レジに立つと、彼女はにっこりとほほえんでくれる。外で会っても挨拶をしてくれる。我々の毎日はこうした何気ない、つまらない事の積み重ねで成り立っている。ならば、その一つ一つに真剣に立ち向かわなければ本当につまらない。もちろん、そうした事をしているから、仕事にも真剣に向かえるのである。
 マニュアルにあるような事しか言えない店員なんて、やっていて張り合いが無いじゃないか。店員は、スーパーでさえ、この肉とこの肉、どこがどう違うの? と聞いたら、それこそ得意そうに説明してくれる。もらろん、人を見てそれをやる。単に商品を並べているだけのように見える店員に聞いたって無駄だ。
 でも、並べるのがとても上手い店員もいる。そうした時、私は思わず見とれていたりする。そしてついつい、口が滑る。「ホント、手際いいねえ」と。
 だから私は「軽い」のである。下手をすると馬鹿にされるのである。でも、相手がどう出ようと、私は変わるはずが無い。自分を偽って飾って生きたってつまらない。

「前世」を商売にする汚さ

2009年01月11日 | Weblog
 我が家の前の犬は後ろ足が弱かった。現在の犬は足はものすごく丈夫で家の中を駆け回っている。ジャンプ力もある。で、私達夫婦は、この犬は前の犬の生まれ変わりだね、前に出来なかった事を今やってるんだね、と無邪気に考えている。誕生日もわずか2日違うだけ。更には今の犬の誕生日は我々夫婦の結婚記念日と同じなのである。因縁浅からぬ、と言ったところである。犬の生まれ変わりを考えているのは、足の弱かった前の犬に対する我々の思いである。
 これはペットの事だから笑い話で済む。だが、前世を商売にするとなると話は全く別の様相を見せて来る。その場合は、前世の人への思いではなく、今、目の前に居る人に対する思いに前世を利用しているのである。
 前世を透視する番組がある。本もある。我々の運命はどうも前世の影響を受けているらしい。そうなると、前世がどうであったかは非常に重要になる。しかしそんな事言われても、今更前世を変える事など出来ない。そこから色々な事が提案されている。でもこれっておかしいよね。ある一人の人が以後ずっと生まれ変わり死に変わり、新たな個性を持って生まれて来た人に対しても影響力を持てるなんて。それじゃあ、何のために新しい命が生まれたか意味が無い。
 
 それに人類はどんどん増えて今や全世界で50億とか60億とか言われている。でも、現在のような人類が誕生した時、その数は多分、数えるほどだったはずである。それらが生まれ変わって50億人になんかなるはずが無い。
 単純に考えて、二人の人間から4人の人間が生まれるとする。つまり倍々になって行く。以下、数だけで単純に考える。
 最初の二人を●と□として、そこから4人が生まれる。●はその4人の一人の前世として生まれ変わり、□もまた同じとする。残る二人を△と×とする。つまり、4人の内、前世のあるのは半分の二人である。こうした経過が次々と続く。だから常に人口の半分は前世を持たない。
 半分は幸か不幸か、ずっと前からの前世を受け継いで行かなければならない。それが果たして良い事なのか悪い事なのか。前世に栄耀栄華を極めたからと言って、その前世を受け継いでいる人間が幸せとは限らない。人も羨むような栄耀栄華ならば、その分、世間の妬みや憎しみも受けている。そんなのを背負わされるなんて真っ平御免である。

 今、半分は、と考えたが、そうも行かない。中には前世が途中でお休みしている場合がある。美輪明宏と言う人は前世は江戸時代の天草四郎時貞だと信じている。前世が彼だと言う事は、彼はその後ずっと休んでいて、生まれ変わりはしていない。こうした人間が多ければ、前世を持つ人間は半分よりもずっと少なくなる。
 せっかくこの世に生まれて来たからには、自分自身の力で生きたいではないか。それなのに300年とか400年も経って、昔の人間が生まれ変わるなんてとんでもない。人類は本能的な部分ではまるで進化していないが、その他の部分ではかなりの進化を遂げているはずである。なのに、古い進化していない人間が新しい人類の背中にへばり付いているなんて、やはりとんでもない。
 そうした意味で、平安時代の人が生まれ変わった人は迷惑な事だろう。それにしても、何で突然に目が覚めたのか。勝手な行動を取られると現世の人間は困惑するではないか。天草四郎はずっとそのまま「前世を生きていた」訳だ。何でほかの人に生まれ変わらなかったのだろう。機会が無かったのか。誰かに生まれ変わっていれば、天草四郎と言う前世は無くなっていて、別の人間の前世になっている。天草四郎は美輪氏をそれこそ「我が前世を賭けるべき人」と見込んで生まれ変わったのだろうか。

 しかし、前世が見えると言う霊能者達はそうした疑問に答えようとはしない。そうした疑問など彼等には皆無なのである。疑問があったら、とても霊能者などやってられない。
 確かに、見た事も無い現場の絵を描ける人が居る。アメリカでは、そうした人を事件の捜査に協力願っていると言う。これには現場と言うれっきとした証拠がある。しかし「前世」には証拠が無い。まあ、中には、祖先の霊が、当代の人間が知らない事を告げた、などの例はあるようだが、これは霊の技とは限らない。
 私の母親の家は商売をしていた。その常連客の一人が、ある日、店の階段の下に猫が埋まっている夢を見たと言う。あまりにも真剣なので、掘ってみたら、確かに猫の死体だか骨だかがあったと言う。不思議な事もあるもんだ、で一件落着していたようだが、でもだからと言って、その客が霊視の能力があった訳でもない。
 こうした不思議な事は結構ある。でもそれは商売にはならない。商売にしてはいけないのだと思う。雲を掴むような話で金儲けが出来るなら、こんなおいしい話は無いのである。今、世界はアメリカが起こしたそれこそ雲を掴む儲け話の破綻で恐慌に陥っている。