夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

NHKの原爆平和祈念典の中継は思い上がっている

2012年08月11日 | 社会問題
 広島の祈念式典は途中で気が付いて見たので分からないが、長崎の祈念式典は開始時刻を確認して最初から見た。
 ところが、式典が始まって間もなく、中継は中断され、被爆者の遺族の思いの話になってしまった。私は式典の中継が見たくてテレビをつけている。それを中断してどうしようと言うのか。中断は2回もあった。
 多分、あまり重要ではないからと、中継を中断しているのだろう。しかし、そうした最中でも、会場には列席者が居て、暑い中で、その式進行を見守っている。彼等には式典を中断して、他の事をする事は出来ない。視聴者には重要ではなく、式の参列者には重要な式進行があるとは考えられない。あるのだとすれば、式進行を考え直す必要が出て来る。

 NHKは式の進行情況を予め知って、何が何分くらいだから、とそれに合わせて取材した録画を作っているはずだ。現実に進行している式は、その時でなければ見られない。会場に行けないからこそ、テレビで見ているのである。しかし録画ならいつだって見られる。何も式の進行途中で見せる必要は無い。別の時間を使えば良いだけの話である。
 実況中継の途中でないと見てもらえない、と考えているなら、そんな価値の無い番組を作る必要は毛頭無い。

 何が重要で、何が重要でないかを、NHKの一方的な判断で決められては迷惑する。国会中継を私はあまり見た事が無いが、もしもその途中で、重要ではない発言だろうから、と、中継を中断して、別の録画を見せたら、どんな事になるか。恐らくは、NHKは存在出来なくなるだろう。

 ブログをしばらく休みます。
 出来るだけブログを休みたくない。発信したい事があるし、待っていてくれる人も居る。しかし、今、私は切羽詰まった情況に置かれている。毎日せっせと働かないと食べて行けない。1時間いくらと言う仕事だから、たいして稼げない。
 その間には家事もあるし、私は特に原稿を書く作業がある。これは仕事とは言えない。なぜなら、お金にならない。けれども、書いて、実際に本にならなければ、私は一生1時間幾らの肉体労働をし続けなければならない。

 原稿募集をしている出版社の多くは、私の原稿の出来が悪いからではあるが、自費出版かそれに近い形なら出しましょう、と言う。そんな余力のある訳が無い。原稿の出来が悪いとは言い切れない。ある社は、広く人材と内容を募集している、と言いながら、このジャンルは出した事がないので、予測が付かないので、自費で、と言う。そしてほとんど読んでくれてはいないのである。

 今、ある出版社の懸賞募集に応募しようと原稿を書いている。入賞する自信はほとんど無いが、審査員に読んでもらえる。最初から除外されるような作品ではないつもりで、全力を傾けている。だから、時間が足りない。
 それに、ほかの幾つもの書き上げてある原稿も、推敲して、様々な出版社に売り込む事を考えたい。だから、時間が足りない。
 8月のほんの2週間ほどは学校が休みなので、夜の仕事しか無い。それでも往復の時間を含めて5時間も取られてしまう。

 と、愚痴をこぼしているが、そんな訳で、しばらくブログを休みます。いつまで休むかははっきり言えず、もう、見ないよ、と言われてしまっても、それは覚悟の上です。背に腹は代えられないので仕方ありません。

平和祈念式典に、野田総理は「ノーだ」ノダ

2012年08月07日 | 社会問題
 あんなに白々しいと言うか、ぬすっとたけだけしい、と言うか、胸糞の悪くなる挨拶を聞いた事が無かった。本当は今までだって同じだったのだ。ただ、実際に日本で原発の被害に遭っていなかったから、分からなかっただけなのだ。
 原発を稼働して、更には国外にも輸出しようとしている国の総理が、核兵器廃絶を訴える事が出来るのか。核兵器と原子力の利用とが表裏一体だと言う事を我々は知らなかった。知らされなかった。
 ガスより色々な面で安全だから、オール電化にしましょう、なんて言う程度のような事で、原子力発電を利用して来たと言える。

 日本国民の大多数が原発反対、と言っているのに、その声を聞こうとはしない総理が、核兵器廃絶を訴える事は出来ないし、何の説得力も持たない。
 主催者は広島市だろうが、日本の最も大事な記念式典の一つだから、総理が出席するのは当たり前なのだろうが、こんな違和感のある出席者を私は見た事がなかった。

 いつもの事だが、平和を訴える小学生の、原稿を読むのではなく、自分達の言葉としての挨拶に比べて、市長の挨拶は見劣りするし、総理の挨拶に至っては、言う言葉も無い。
 これはもう、ブラックユーモアだと思う。

交通ルール違反の車が多過ぎる

2012年08月01日 | 社会問題
 子供の安全誘導のために私達が立っている交差点に、自転車の若い巡査が通り掛った。交差点内に2台の車が駐停車しているのを見て、制服姿の私に「がらが悪いなあ」と言葉を掛けて来た。
 その交差点は変則五叉路で、特に角にコンビニのある部分が広いから、普通車なら3台は停まれる。普段はそこに3本の警視庁名入りのポールを立てて、車が入れないようにしているが、夏休みで登下校の子供達が少ないので、ボールは出していない。
 普段、出している時でも、時間はわずか20分程度で、そこに停まるのは主に客待ちのタクシーで、それもほとんど常連だから事情は飲み込んでいる。だからトラブルにはならない。もちろん、駐停車禁止の交差点内だから、文句は言わないし、言わせない。

 その巡査は、別に駐禁をとる訳でもなく、何か本部と話していて、「絶対にとる」と言っていた。そして10分程周囲を観察して、「本部会に掛ける」と言うような発言をして移動して行った。
 私は半分期待した。きちんと駐停車禁止にして欲しいのは言うまでもない。だが、そうはならないだろう、とも思っている。
 大体が、今までずっと警察は無視し続けていたのである。我々は困ったなあ、とは思いながらも、どうせ言っても駄目だろうし、と諦めていた。
 それをその交差点内にある工務店の社長と我々の仲間がお祭りで意気投合して、その工務店のポールを5本借りて、必要な時間帯に出す事に決めたのである。工務店も自分の所の荷物の積み降ろしがその時間帯は出来なくなるのを承知の上で協力してくれている。当然と言えば当然ではあるのだが。

 そして私がその事で警察署に文句を付けに行ったのである。我々のしている事を説明して、本来、それは我々のやる仕事ではないと、強調して来た。検討すると約束した警察署は1週間くらい経って、警視庁名のはいった3本のポールを置いて行ってくれた。看板も出してくれた。ただ、その看板は、「ここは子供達の通学路です。駐停車は禁止」なので、私は大きな不満がある。通学路だから駄目なのではなく、交通法規違反だから駄目なのである。
 そんな程度だから、私はその若い巡査に期待はしたいが、諦めてもいる。

 もっと交通の取り締まりをやるべきである。その交差点では、歩行者用の信号が青になって2秒も経っていると言うのに、平気な顔をして全速力で走り抜ける車が後を絶たない。私は車の信号がオレンジになって旗を上げ、赤になって、車を遮断するような形で前方に突き出す。それは警察署の指導でもある。
 赤で突っ切る車はオレンジになっても止まらず、挙げ句には赤になってから堂々と突っ込んで来るのである。
 だが、片側3車線もあるから、旗の先をすり抜ける事など簡単に出来る。
 そうした車が通り抜けるのを見てから子供達を渡らせるが、時には青になったと同時に鋭く笛を吹き、車に注意を与えるが、どこ吹く風である。冷暖房完備で窓も閉めたままだから、多分、聞こえもしないのだろうが。
 警察は、そんなに危険だとは思っていないのだろうが、普段からの事が肝腎なのである。運転者に交通ルールを守る事を徹底させても、それでも事故は無くならないのだから、ルール厳守を徹底的にやり抜くべきである。

ブログをやるなら、発信は義務だと思うのだが

2012年07月30日 | 趣味
 だが、それが私は出来ていない。この熱さでダウンしてしまった。寝込んでしまった訳ではないが、ぐったりして何も出来ない。
 朝から昼過ぎまで、子供達の登下校の安全誘導をしている。正味5時間。夏休みだが、水泳指導と学習指導がある。それぞれ1時間ずつのタイムスケジュールだから、登下校も1時間ごとなのだが、登校の時間帯の幅と下校の時間帯の幅が大きいので、ほとんど出っぱなしになる。
 日陰がある所ばかりではないし、腰掛ける所がある訳でもない。立っているだけで汗がたらたら流れるほどだから、いくら水分補給をしたり、塩飴を舐めたりしていても、体力の消耗は激しい。

 1時過ぎに帰宅して、ついつい横になってしまう。やっぱり歳かなあ、とも思う。去年はこんなじゃなかったのに、とも思う。そして夜はまた別の労働が待っている。冷房の効いた室内での作業だが、やはり、全身汗びっしょり。それが3時間。
 学校の仕事は毎日ではないが、仕事がない時は、パソコンに向かって原稿を書く。
 ある賞の作品募集があって、それに応募してみようと考えたのである。それ以外にも、ある原稿のまとめの最終段階に入っているので、いくら時間があっても足りない。

 作品の応募は、駄目で元々と考えている。出来上がっている物を募集の条項に合うように書き直している。規定の枚数に届くかどうか、まだ分からない不安もあるが、何事もやってみなくては。そして、受賞は見込めなくても、何人かの審査員に読んでもらえるチャンスがある。一瞥して、はねられるかも知れないが、少しばかりは自信もある。
 原稿募集の出版社への応募では、ほとんどがすぐに自費出版のお勧め、になる。幅広く意欲作を求めていると言いながら、そのジャンルは出した事が無いので、自信が無いので、制作費を一部とは言え、負担してくれ、と言う事になる。

 さあ、今日も気持を切り替えて、頑張ろう。

我が家の犬がビールが嫌いな訳が分かった

2012年07月22日 | ペット
 またまた犬の話で失礼します。我が家の犬は大の酒好きだが、ビールは大嫌いだと書いた。そしてきのう、私は夕食時にビールを飲んで、えっ? こんなにまずかったか、と大いに驚いた。ビールと言っても、私の飲んでいるのは主に第三のビールである。

 きのうは、一日中パソコンに向かっていて、買い物にも出なかった。だから汗もかいていないから、ビールが旨くないのだ。考えてみれば、私は平日は毎晩汗びっしょりになる労働をしていて、だから、帰ってからのビールがものすごく旨い。
 つまり、ビールはアルコール飲料ではなく、アルコールは入ってはいるが、私にしてみたら清涼飲料と同じなのだ。それでも、サイダーでは満足出来ないのは、わずかのアルコールに騙されているのか。あるいは、ビールじゃなきゃ駄目だ、と自己暗示に掛かっているのか。

 それで、犬がビールが嫌いな訳が分かった。汗をかかない犬がビールを旨いと思うはずが無い。もっとも、これは日本のビールあるいは第三のビールの話であって、ドイツのビールなら、どうなのかは分からない。

愛犬は大の酒好きだが、ビールは駄目

2012年07月21日 | ペット
 愛犬が酒が好きだと気付いたのは、まだ1歳にもならない頃だった。夜、私は赤ワインを飲んでテレビを見ていた。少し疲れたので、横になってテレビを見ようと、ワイングラスを持って、床に移動した。
 テレビに夢中になっていたら、ピチャピチャ音がする。何だろうと振り返って見たら、何と、犬がグラスのワインを舐めているではないか。それも赤ワインである。私は白ワインも好きだが、渋みのあるフルボディの赤ワインが特に好きだ。この夜も、フルボディではないが、それに近い赤ワインを飲んでいた。そのワインを舐めているのである。

 そうか酒が好きなのか。で、次には日本酒を与えてみた。盃に注いだ酒は舐めないが、指に酒を付けて舐めさせると、ペロペロと舐める。指を取り替えて、「はい、駆け付け三杯だよ」と言って、指三本までは舐めさせる。家内もそれをやるから、合計「六本」になる。
 一升瓶から注いだ時は、瓶を床に置くとすぐにやって来て、瓶の口をペロペロと舐め回す。そして酒の善し悪しが分かるらしい。上質の、私が特に好きな酒では、その舐め具合が真剣になる。

 焼酎も、甲類、乙類を問わず、またウイスキーもバーボンも、飲んだ私の口を舐めに来る。甲類焼酎は別として、私は割ったりはしないから、アルコールもその香りも十分に犬の好みに合うらしい。

 それなのに、ビールだけは絶対に駄目なのである。グラスを向けるとそっぽを向く。私もビールはアルコール飲料とは思っていない。しっかりと汗をかいた後に飲むから旨いのだ、と思っている。だから第三のビールで結構。最近はホッピーを愛飲している。アルコール度数がその時の情況に応じて好みに変えられる所が特に気に入っている。
 でも、その後にはちゃんとした「酒」も飲むから、今の所、犬に嫌われてはいない。

料理番組の腕輪じゃらじゃらは頂けない

2012年07月18日 | 暮らし
 今朝、ついている番組を見るともなしに見ていた。名の知れた女優が創作料理を披露している。以前は、確かニラか何かをバラ肉で巻いて焼いた料理だったが、今回のは刻んだショウガをバラ肉で巻いて焼く。
 やってみようかな、とは思ったが、その前に、彼女の左腕の腕輪が私は気になってしまった。アーム何とかと洒落た言い方をするのだろうが、腕輪を三重に巻いている。その内の一つからは、短いが紐が垂れている。料理をするのに邪魔ではないか、と思う以上に、視聴者の「目に邪魔」である。腕時計をはめたまま料理をする人は多分、居ない。

 美しい、美しくないの問題ではなく、もちろん、趣味の問題でもない。料理と言う仕事の上での問題である。あまり気にした事が無かったのだが、包丁を握る料理人は結婚指輪をはめている人が多いだろうか。
 昔、愛読していた『暮しの手帖』では、写真のための手のモデル女性が居た。少しでも健康で美しい手を見せるために、彼女は夏でも手袋を外さなかったと言っていた。もちろん、けがなどしたら命取りになる。それほどまでに、読者の目に映る手の写真に気を配っていた。

 もう一つ。スポーツ選手が国外へも持参する優秀なマットレスを紹介していた。釣り糸と同じ材料で作るマットレスである。そのマットレスに番組の司会者を始め、ゲスト達が寝て感想を述べた。ところが、当然のように、全員、土足でマットレスの上に寝ている。どんなにスタジオの床がきれいでも、土足は土足である。室内では裸足になるのが当たり前の我々にとって、マットレスの上での土足は本当に頂けない、と言うよりも生理的に嫌悪を感じる。
 わずかな手間を惜しまずに、ちゃんと靴を脱いで上がりなさい、と言いたい。その方が見た目にもずっと美しいし、絶対に礼儀にかなっている。視聴者の目の前に、土足を突き付けるな、とも言いたい。
 こうした事はすべて番組のディレクターの感覚の問題だと思う。テレビは特別の世界などではありません。我々日常の生活空間と何ら変わりはありません。一体、こうしたディレクター達は、普段、どのようなお暮らしをなさっていらっしゃるのだろうか。

パソコンの進化が速いのか、私の進歩が遅過ぎるのか

2012年07月16日 | 文化
 10年ほど前に買ったMacのG4をOSX10.4で使っている。仕事にも趣味にも問題は無い。ただ、Macに添付の「ことえり」と言う日本語変換システムがとても使い難い。OSを10.6にしたら、もっと改良された「ことえり」が使えるらしいので、OSのバージョンアップを考えた。
 ところが、私のG4では10.5までしか使えない事が分かった。そしてフリーソフトなどは、ほとんどが10.6以上、となっているのである。

 パソコンなんて、ソフト次第でどうにでもなる面が多分にあると思うのだが、肝腎のOSがどうにもならないのでは、どうにもならない。パソコンがどんどん進化するのは良いけれど、そんなに進化する必要があるのか、とも思う。パソコンでやっている作業なんて、多くの人がたかが知れているだろう。
 私なんかは、文章を書くのがメインだから、何も最先端のパソコンなんかでなくても、十分に用が足りる。パソコンの進化よりも、キーボードの事をもっと考えてくれ、と言いたくなる。私のキーボードは、親指シフトキーボードで、ローマ字と同じキーに仮名文字全部が割り当てられているから、高速入力が出来る。思考を妨げる事がないので、すこぶる快適である。
 ところが、Macはそんな事はまるで考えていない。パソコンがどんなに処理が速くなっても、入力が遅ければ何にもならない。

 唯一、キーボードを考えているのが、親指シフトキーボードの産みの親である富士通で、けれども、それだって、簡単には親指シフトのパソコンは手に入らない。
 一番大事な事が抜けているよ、と私は言いたい。

 自分のパソコンが時代遅れになりつつあるのを知って、持っているソフトを見回してみた。あるある、使っていないソフトが山のようにある。中にはフロッピーディスクの物まである。CDROM付きでも、ほとんどが古いOS対応だから、まずは要らない。で、その処理をした。それらのソフトをつくづくと眺めて、時代の進化の速さを改めて感じてしまった。
 マニュアルや参考資料を含めて、45リットルのゴミ袋が一杯になってしまった。それだけの無駄な物を大切に保管していたと言う訳だ。
 そしてもう一つおまけがあった。

 「漢ぺき君」と言う漢字変換が簡単に出来るソフトがある。私の環境で使えるようにバージョンアップしてあるのだが、なぜか使えない。ずっと諦めていたのだが、改めてインストールをして、やはり使えないと分かったのだが、その時に今までずっと使いにくいと思っていた「ことえり」を一部いじったら、何と、ずっと使い易くなったのである。Macに付いている仕様書ではそうした説明が無い。
 こうやって、色々と試していると、私のMacもまだまだ現役バリバリで使えそうだ。そうなると、ウインドウズの2台ともう一台のMacの出番は無さそうである。すべてデスクトップだから、その分、部屋が広く使えるだろうが、まあ、処分はもう少し様子を見てからにしよう。

ちょっとした事で、報道の真剣さが分かってしまう

2012年07月13日 | 文化
 詰まらない事だが、報道の真剣さを考えてしまう事柄がある。
 一つは、テレビでの新聞記事の引用の赤のアンダーラインの引き方で。たまたま今朝のフジテレビの「特ダネ」だが、「。」で区切られた二つの文章にアンダーラインが引かれている。その内の途中「。」の所だけ、アンダーラインが引かれていない。「、」の部分には引かれている。そして引用の最後の「。」は引かれている。
 つまり、アンダーラインを引いた人は、途中の「。」には何の意味も認めていない、と言う訳だ。でも、「、」や「。」は文字や言葉と同等に、いや、それ以上に重要だろう。たった一つの「、」や「。」で文意が簡単に違ってしまう事が多々ある。そしてこの場合は、むしろ「、」は引かないで、「。」は引くべきなのではないのか。

 このアンダーラインで、きのうのやはり同じ番組だったと思うが、途中から始まったアンダーラインの冒頭の部分が、ボールペンによく見られる最初の出の具合が悪くて、ぼてっと、なってしまっていて、とても汚い。テレビで拡大されているから、余計に目立つ。もっと良質のボールペンを使いなさい、と言いたいし、線を引く前にきちんとインクの出具合を確かめなさい、と言いたい。
 それにしても、安易に番組が作れるんだなあ、と感心してしまう。新聞記事のそのままの引用なのだから。

 もう一つは今朝の東京新聞の「中国 したたか分断戦略」の見出しの中国と日本を含む東南アジアの地図の事である。
 問題のある国と中国とが太い矢印で結ばれている。そしてその矢印線の途中に爆弾の炸裂した形が示されていて、そこに(尖閣諸島)(スカボロー礁)(西沙・南沙諸島)と書かれている。( )内が領有権で対立している問題の箇所である。
 しかし、この矢印がおかしな所を指している。実際の場所を指しているのではなく、国名表示の所を指しているのである。だから、「日本」を指している場合には日本列島と「日本」の国名が一致しているから、爆弾マークは別として、分かる。けれども「フィリピン」の国名表示は、何と、台湾の所にある。細い線でフィリピンと結ばれてはいるが。そしてその「フィリピン」の国名表示のすぐ上に小さな●が付いていて、「尖閣諸島」とあるのだ。そして爆弾マークは(スカボロー礁)である。

 非情に分かりにくいと言うよりも、非情に馬鹿な地図なのである。もっと分かり易くするのはいとも簡単だ。
 例えば「日本」の国名は、九州と台湾の真ん中辺りに表示してそのすぐ下に●と(尖閣諸島)を示せば良い。フィリピンに対しても、同じようにする事が出来る。
 これなら太い矢印と爆弾マークと( )の場所と国名表示及びその場所が一致する。
 何でそんな簡単な事が考えられないのだろうか。パソコン上であれこれと試してみれば、一目瞭然ではないか。

 結局、アンダーラインにしても、この地図にしても、基本的な事が抜けている。こうした事を、私は「仏作って魂入れず」と言うのだと思っている。

ブログの引っ越しを考えています。
 ただ、現在のこのgooのブログは引っ越しが出来ないので、新たに始める事になります。なぜ引っ越しを考えているかと言うと、新規投稿が簡単には出来なくなりました。前はすぐに自分のブログにアクセス出来たのに、今は一回に見る事の出来るブログを最後まで送って、そこで始めてアクセスが出来ます。非能率的で困ります。そのほかにもずっと以前から不具合があるのです。まず、送信する前にどんな体裁になっているのかを見る事が出来なくなりました。続いて、コメントの管理が不便になりました。見たコメントをクローズする事が出来ないのです。

 考え中ですが、近々の内に結論を出すつもりです。本当はタイトルも変えたいのですが、「日本語ワールド」だけは残したいとも思っています。

「パンダの赤ちゃんがなくなった」はおかしな言い方だ

2012年07月11日 | 言葉
 上野動物園の赤ちゃんパンダが残念ながら死んだ。テレビのニュースで知って、えっ、と思った。あんなに大騒ぎをしたのに、あんなにみんなが期待していたのに。原因は肺炎だと言う。それなら、保育器の中で育てていた方が良かったんじゃないか、と言うのは素人考えだろう。人間でも動物でも、赤ちゃんは、ちゃんと母親の手で育てられる必要があるのだ。

 えっ、と思う事がもう一つある。テレビでは「なくなった」と言っている。字幕は「死んだ」である。
 「なくなる」は私は人間の場合に言うのだとばかり思っていた。「死ぬ」の丁寧な言い方だと思っている。そこで四冊の小型国語辞典を見た。
 面白い事に、説明がみんな違う。
 (岩波)は、岩波国語辞典。
 (明解)は、新明解国語辞典。
 (新選)は、新選国語辞典。
 (明鏡)は、明鏡国語辞典。

・【無くなる】それまであったものが無い状態になる。
 【亡くなる】「死ぬ」の婉曲な言い方。〔岩波〕

・【無くなる】無い状態になる。「財布がなくなる」「親がなくなる〔=『死ぬ』のえんきょく表現〕。
 後者の例は、「亡くなる」と書く。(明解)

・【無くなる】無いようになる。【亡くなる】「死ぬ」の丁寧語。(新選)

・【亡くなる】人が死ぬ意を、婉曲にいう語。死者に対して改まった気持ちが、聞き手に対して丁寧な気持ちがこもる。
 【無くなる】それまであったものが存在しなくなる。それまで存在していた物が見当たらなくなる。表記=かな書きも多い。(明鏡)

 (明解)は「無くなる」と「亡くなる」は、「無い状態になる」との点では同じだよ、と言っている。ただ、「死ぬ」の場合は、婉曲表現で、表記は「亡くなる」だ、と言う。同書の「婉曲」は「直接的(露骨)でなく、遠回しな様子、である。そうだろうか。
 (岩波)も「婉曲な言い方」だと言う。
 (新選)と(明鏡)は「丁寧」だと言う。私はこちらが正しいと思う。直接的かどうか、などではなく、丁寧かどうか、の違いだと思う。直接的と丁寧はまるで情況が違う。
 ただ、(明鏡)の説明が変だ。
 「死者に対して改まった気持ちが、聞き手に対して丁寧な気持ちがこもる」は文章として成立しない。「死者に対しての改まった気持ちが、聞き手に対して丁寧な気持ちがこもっていると伝わる」だろう。更には、「改まった気持ち」と「丁寧な気持ち」の二つに分けている、その理由が分からない。これは単純に、「死者に対しての改まった、丁寧な気持ち」で良いではないか。
 「無くなる」を仮名書きも多い、と言うのは(明鏡)だけである。これは単に現状を説明しているだけに過ぎない。ほかの辞書が「無くなる」としか表記していないのは、それが正当だからである。「無くなる」と「亡くなる」をきちんと識別するためばかりではなく、「無くなる」とする事で、「無い状態」を明確に表す事が出来るのである。

 パンダの赤ちゃんに戻る。字幕ではきちんと「死ぬ」とあるのに、話し言葉では「なくなる」になっているのは、「亡くなる」の意味が正確に理解出来ていないからだろう。上の国語辞典の説明でも、動物に対しては「なくなる」などとは言わない事が明確に分かるはずである。「亡くなる」が丁寧語であろうと、婉曲表現であろうと、動物に対して使う義理は無い。
 テレビで話している人々が国語辞典で勉強しているとは思えないから、多分、普段からそうした「亡くなる」との使い方をしているのだろう。それとも、テレビだから、普段の会話とは違うのだから、と身構えて「亡くなる」などと言ってしまうのか。どちらにしても、テレビで話す資格は無い、と私は思う。