夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

温かい料理で暖かなもてなし。表記の矛盾・その2

2009年01月14日 | Weblog
温かい料理で暖かなもてなし
 昨日、「鍋は暖かくて温かい」の事について書いた。「あたたかい」と言う言葉の表記の問題である。
 そこで一つ問題を出す。
●タイトルの言葉の意味は何か。

 答としては、「出来たてのあたたかな料理で心あたたまるもてなし」の意味だと解釈するのが普通だろう。
 しかしそうだとすると、表記は「普通には」、「暖かい料理で温かなもてなし」となる。 タイトルの表記を、表記を厳密に解釈すると、と言っても「厳密に」に問題があって、単に一つの解釈には過ぎないのだが、次のようになる。
 「あたたかい冷たいに拘わらず、心のこもった料理で、冬なのだろう、部屋をあたためてのもてなし」となる。
 なぜなら、昨日も御紹介したように、
・温かい=抽象的表現。
・暖かい=主として気象・気温に。
と言うのが表記辞典の考えで、それが一般的とされているからである。
 だが、これは理屈に過ぎる。そして普通は、誰もこのような解釈はしないはずだ。「あたたかい料理であたたかなもてなし」と言えば、料理はあたたかで、もてなしは心がこもっている、と思うのが普通の考えである。
 「あたたかい」と言えば、何があたたかいかで、何がどのような具合なのかは分かる。それが我々日本人の正当な考え方であり、正当な日本語なのである。例えば、「頭がやわらかい」と言えば、まさかたこを食べる場合ではなかろうから、頭脳が柔軟だと分かる。「身がかたい」と言えば、食料の肉や魚の事ではなく、身持ちが確実なのだと分かる。

 こうした言葉は表記などに頼らずとも、発音だけで意味が分かるのである。だからこそ、言い方は一つしか存在しないのである。「やわらかい」「かたい」「あたたかい」など、皆そうだ。決して漢字を書き分ける事で分かっているのではない。
 漢字の力は侮れない。しかし万能ではない。と言うよりもむしろ漢字の力は日本語としては弱いのである。中国語では「温・暖」は発音はもちろんの事、意味が異なるはずだ。それを日本語に採り入れた時に、音読みこそは異なるが、訓読みでは同じになった。訓読みとは意味の事だから、「温・暖」は意味の同じ「あたたかい」になったのである。
 こう言うと、それなら何も漢字を使わなくてもいいじゃないか、と短絡的に考える向きがある。特に和語は仮名書きで良いと言うのである。ところが、日本語は漢字に頼る事で、自分自身を磨く事を怠った。全部を仮名書きにしたらまるで分かりにくくなってしまうのが何よりの証拠である。この直前の文章にしても、「分かる」と漢字にしたからまだ良いのであって、「仮名書きにしたらまるでわかりにくくなってしまう」だったら、文字通り、何とも分かりにくくなってしまう。その事が分からない人々が多い。言葉に関わる仕事をしている人にさえ大勢居る。

 「あたたかい」を「温・暖」の二つの漢字があるからと言って、無理に書き分けようとなどするから変な事になる。今まで使い分けて来た慣用に従おうとする。「慣用」は人によって解釈も違う。その証拠には漢字の意味による書き分けが二つの辞書で全く正反対になっている場合がある。
 そんなあやふやな事に引きずり回されている愚かさを知るべきである。
 これは一人、書く側の好き嫌いでは収まらない。読む側も、書き分けよ、と思い込まされているから、必死になって読み分ける。それが問題に出した事のようになる。
 私の答ですか? もちろん、「どちらでも良い」である。「暖かい」が好きならそう書けばいいし、「温かい」の方が好ましいと言うのであれば、それでいい。そしてその時々によって変えたって一向に構わない。「どちらでも良い、意味は同じだ」と解釈している以上、それで事はまあるく収まるのである。
 平仮名の「き・さ・そ」に二種類の文字があるのをご存じですよね。書体によって違う。それをおかしいだの、いけないだのと考える人などいやしない。
 「中澤」さんを「中沢」さんと書いたからかといって、人格が変わる訳がない。もしもそうなら、新聞などはこうした失礼な事を常にしている事になる。こうした人名の事はまた別の問題なのだが、平仮名だけでは納得してもらえまいと思って例に挙げたに過ぎない。
 つまらない漢字の書き分けを熱心にするよりも、意味を明確に伝える努力をこそすべきなのである。