様々な用例を集めて、それぞれの意味を調べて、取り上げる言葉を決めるのだと私は考えている。集める用例は新聞や雑誌、書籍、日常的に使われている言葉などなどである。そして、その使われ方の頻度も問題となる。まれにしか使われない言い方や特殊な言い方を取り上げて意味を説明してもあまり意義は無いだろう。大国語辞典ならともかく、普通に我々が使っている小型の国語辞典ならそうだろう。
ところが、国語辞典作りの実績のある国語学者の 『達人の日本語』 と題する本を読んでいたら、どうもそうではないらしい。なぜなら、手順として、「まず見出しとして立てる項目を決めなければならない」 と書いてある。そして1から5まで挙げているその手順の最後として 「語義解説」 について述べている。
一つの項目の中にいくつもの意味のある場合があるが、そういう場合はブランチをどういう順に並べるかが問題になる。ポビュラーな意味からあまり一般的でない意味への順、本義 (原義) から派生義 (転義 )への順、古い意味から新しい意味への順、その逆の順など、いろいろの並べ方がある。
語義の説明は、辞書作りで最も苦労するところである。そして、その辞書の真価が問われるところでもある。
もちろん、これは辞書作りの順番を述べたのだとは限らない。手順は前後したりもする。ただ、上に引用した 「ポビュラーな意味からあまり一般的でない意味への順、本義 (原義) から派生義 (転義) への順に並べる」 との言い方からは、どうも辞書作りの考え方の順序が違うのではないか、と私は思う。
私の考えている順序は次のようになる。
1 ある言葉の様々な用例をこれ以上は無い、と思えるくらいに集める。
2 その用例のそれぞれの意味をきちんと追究して、意味を大きく絞る。
3 意味が分かり、使われ方が分かれば、使う頻度が分かる。それは同時にポビュラーな意味からあまり一般的でない意味への順、本義 (原義) から派生義 (転義) への順、も分かる事になる。
つまり、この1から3の過程で、見出しとして立てる項目は既に順序まで決まっていると思う。そこが、この本の著者の言っている事と違うと思う。その証拠はある。
この著者は自分の監修した国語辞典の 「可能性」 の見出し項目で、意味を 「実現できるという見込み」 としながら、そのたった一つの用例として 「全員遭難の可能性が強い」 を挙げているのである。もっとも意味としては 「現実となりうる見込み」 も挙げてはいるが、「見込み」 の意味がそもそもは期待出来る事を指している。
つまり、この辞書は 「可能性」 の最もポビュラーな用例として 「全員遭難の可能性が強い」 を採用した。そしてそこから 「実現できるという見込み」 の意味を採り出したのである。
そんなはずは無いと誰だって分かる。上に考えたような手順なら、この著者には国語辞典を作る資格は無い。だから、言葉の意味を先に考えて、そこから当てはまるような用例を探し出したとしか考えられない。これはこの辞書の監修者の名誉のために言っている。それでも、「遭難の可能性」 を 「期待できる」 と考えているどうにも救い難い日本語に対する能力の欠陥は隠せない。
似たような事は多くの辞書にもある。例えば 「まずい」 と言う言葉。
「味が悪い」 「へただ」 が重要な意味だろう。そして原義は 「味が悪い」 のはずだ。人間の五感に関する言葉が最初に生まれる。そして、「良くない。具合が悪い。都合が悪い」 などの意味が生まれている。
だが、すべての辞書に 「美しくない」 の意味が挙がっている。中には 「顔が、美しくない」 とか 「みにくい」 「みっともない」 との意味を挙げている辞書もある。そして唯一の用例は 「顔がまずい」 「まずいつら」 なのである。
「まずい」 の言い方を様々に取り上げて、「ご飯がまずい」 とか 「やり方がまずい」 とか 「まずい事になった」 などが挙がって来るのは当然だ。しかし、その中に 「顔がまずい」 とか 「まずいつら」 などが肩を並べて出て来るとはとても思えない。しかも、「ご飯」 とか 「やり方」 とか 「まずい事」 などのそうした用例は数限りなくあるが、「顔がまずい」 や 「まずいつら」 は多分、それくらいしか無いはずだ。
もしかしたら、私の言語生活が貧しいから 「顔がまずい」 とか 「まずいつらだ」 などと言う言葉に縁が無いのかも知れないが、そうであるなら、私は自分の言語生活の貧しさを誇りに思う。このような言い方が安易に出て来るような人とは付き合いたくない。
ほとんどの辞書がそうだから、それが正しいのだ、とは言えない。多くの辞書が他の辞書を真似ているとしか思えない。駄目な説明までそっくり頂いている辞書さえあるのだ。今、私が取り上げているこの本には、語義の重要性の続きが次のようになっている。「辞書の真価が問われるところである 」の続きだ。
辞書の語義は、正しくなければならない。規範でなければならない。しかし、残念ながら、現実にはそうなっていないものが多い。明らかな誤りや嘘が書いてあるものがある。ひどいのになると、意見や主張が書いてある。一冊の辞書だけを信用してはいけないということである。
でもこの本は2005年に書かれている。この著者の監修したこの辞書の 「編者のことば」 には監修者の信念として 「今までにはないただ一つの辞典を創るということである」 と書かれていて、それは2003年の刊行なのである。多分、この本は自己反省なのでしょうね。