夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

国語辞典の作られ方に疑問がある

2011年02月26日 | 言葉

 様々な用例を集めて、それぞれの意味を調べて、取り上げる言葉を決めるのだと私は考えている。集める用例は新聞や雑誌、書籍、日常的に使われている言葉などなどである。そして、その使われ方の頻度も問題となる。まれにしか使われない言い方や特殊な言い方を取り上げて意味を説明してもあまり意義は無いだろう。大国語辞典ならともかく、普通に我々が使っている小型の国語辞典ならそうだろう。
 ところが、国語辞典作りの実績のある国語学者の 『達人の日本語』 と題する本を読んでいたら、どうもそうではないらしい。なぜなら、手順として、「まず見出しとして立てる項目を決めなければならない」 と書いてある。そして1から5まで挙げているその手順の最後として 「語義解説」 について述べている。

 一つの項目の中にいくつもの意味のある場合があるが、そういう場合はブランチをどういう順に並べるかが問題になる。ポビュラーな意味からあまり一般的でない意味への順、本義 (原義) から派生義 (転義 )への順、古い意味から新しい意味への順、その逆の順など、いろいろの並べ方がある。
 語義の説明は、辞書作りで最も苦労するところである。そして、その辞書の真価が問われるところでもある。

 もちろん、これは辞書作りの順番を述べたのだとは限らない。手順は前後したりもする。ただ、上に引用した 「ポビュラーな意味からあまり一般的でない意味への順、本義 (原義) から派生義 (転義) への順に並べる」 との言い方からは、どうも辞書作りの考え方の順序が違うのではないか、と私は思う。
 私の考えている順序は次のようになる。
1 ある言葉の様々な用例をこれ以上は無い、と思えるくらいに集める。
2 その用例のそれぞれの意味をきちんと追究して、意味を大きく絞る。
3 意味が分かり、使われ方が分かれば、使う頻度が分かる。それは同時にポビュラーな意味からあまり一般的でない意味への順、本義 (原義) から派生義 (転義) への順、も分かる事になる。

 つまり、この1から3の過程で、見出しとして立てる項目は既に順序まで決まっていると思う。そこが、この本の著者の言っている事と違うと思う。その証拠はある。
 この著者は自分の監修した国語辞典の 「可能性」 の見出し項目で、意味を 「実現できるという見込み」 としながら、そのたった一つの用例として 「全員遭難の可能性が強い」 を挙げているのである。もっとも意味としては 「現実となりうる見込み」 も挙げてはいるが、「見込み」 の意味がそもそもは期待出来る事を指している。
 つまり、この辞書は 「可能性」 の最もポビュラーな用例として 「全員遭難の可能性が強い」 を採用した。そしてそこから 「実現できるという見込み」 の意味を採り出したのである。

 そんなはずは無いと誰だって分かる。上に考えたような手順なら、この著者には国語辞典を作る資格は無い。だから、言葉の意味を先に考えて、そこから当てはまるような用例を探し出したとしか考えられない。これはこの辞書の監修者の名誉のために言っている。それでも、「遭難の可能性」 を 「期待できる」 と考えているどうにも救い難い日本語に対する能力の欠陥は隠せない。

 似たような事は多くの辞書にもある。例えば 「まずい」 と言う言葉。
 「味が悪い」 「へただ」 が重要な意味だろう。そして原義は 「味が悪い」 のはずだ。人間の五感に関する言葉が最初に生まれる。そして、「良くない。具合が悪い。都合が悪い」 などの意味が生まれている。
 だが、すべての辞書に 「美しくない」 の意味が挙がっている。中には 「顔が、美しくない」 とか 「みにくい」 「みっともない」 との意味を挙げている辞書もある。そして唯一の用例は 「顔がまずい」 「まずいつら」 なのである。
 「まずい」 の言い方を様々に取り上げて、「ご飯がまずい」 とか 「やり方がまずい」 とか 「まずい事になった」 などが挙がって来るのは当然だ。しかし、その中に 「顔がまずい」 とか 「まずいつら」 などが肩を並べて出て来るとはとても思えない。しかも、「ご飯」 とか 「やり方」 とか 「まずい事」 などのそうした用例は数限りなくあるが、「顔がまずい」 や 「まずいつら」 は多分、それくらいしか無いはずだ。
 もしかしたら、私の言語生活が貧しいから 「顔がまずい」 とか 「まずいつらだ」 などと言う言葉に縁が無いのかも知れないが、そうであるなら、私は自分の言語生活の貧しさを誇りに思う。このような言い方が安易に出て来るような人とは付き合いたくない。

 ほとんどの辞書がそうだから、それが正しいのだ、とは言えない。多くの辞書が他の辞書を真似ているとしか思えない。駄目な説明までそっくり頂いている辞書さえあるのだ。今、私が取り上げているこの本には、語義の重要性の続きが次のようになっている。「辞書の真価が問われるところである 」の続きだ。

 辞書の語義は、正しくなければならない。規範でなければならない。しかし、残念ながら、現実にはそうなっていないものが多い。明らかな誤りや嘘が書いてあるものがある。ひどいのになると、意見や主張が書いてある。一冊の辞書だけを信用してはいけないということである。

 でもこの本は2005年に書かれている。この著者の監修したこの辞書の 「編者のことば」 には監修者の信念として 「今までにはないただ一つの辞典を創るということである」 と書かれていて、それは2003年の刊行なのである。多分、この本は自己反省なのでしょうね。

 

ニュージーランドの地震は人災だ

2011年02月24日 | 社会問題
 ニュージーランドの地震の最初のニュースを見た時、思った。周りの建物が大丈夫なのに、なぜ一棟だけが壊滅状態なのかと。ニュースは日本の留学生達がその建物に何人も居て、行く不明になっていると伝えているが、建物のもろさについては何も語っていなかった。もちろん、話は人間の生命の方が最優先する。でも結局は救援隊を待つしか無い。
 私は初めから日本人の行方不明者が出ているのは、人災だと思っている。地震国であるからにはその対策をきちんと取っているべきである。それがその後の報道では、エレベーターの棟はがっちりと出来ているのに、その他の居住空間がそうではないので、ねじれ現象で破壊に繋がったのだと言う。更には窓が多くて、柱が極端に少なくて弱い。
 そんな事は建築学の常識ではないのか。地震が起きれば崩壊する危険性が大である建物をそのまま放置して置くのがおかしい。教会などの建物が古くて建築基準法に合っていないというのなら分かる。しかし現代の生活に適応出来るべく作られている建物がそうであってはならないだろう。そうした安全性に欠ける建物を公共の用に供していた企業や団体に責任は無いのか。

あした・あさって・やのあさって

2011年02月21日 | 言葉
 今週の予定を話していて、ある女性が 「あした・あさって・やのあさって」 と言った。私は思わず、えっ? と聞き返した。前にも書いたが、東京では 「あした・あさって・しあさって・やのあさって」 と言う。私はずっと東京育ちだから、間違いは無い。と言っても、生粋の下町育ちではないから、あまり大きい事は言えないのだが、その言い方でトラブルになった事は一度たりとも無い。
 しかし東京以外の東日本では 「あした・あさって・やのあさって・しあさって」 と言うらしい。
 この事を確かめようと色々な人に聞くのだが、どうにもはっきりしない。私のように断言する人はほとんど居ない。この女性にしても、 「やのあさって」 の次は分からないと言う。ほとんどの人が 「あした・あさって」 までは明確に言うが、その次は、もぐもぐと、口ごもってしまう。
 現在では何曜日の言い方が出来るから、その方がずっと確実になる。でも、多 分明治になって何曜日の言い方がされるようになったのだろうから、それまでは日本人はずっと 「しあさって」の次をどのように言うかは知っていた訳だ。
 それがすっかり何曜日とか何日の言い方に押されてしまったのは、確実性の問題もあるが、 「あさって」 の次が人によって違ったり、曖昧だったりするからだと私は考えている。

 国語辞典や日本語の専門書などによると、日にちの数え方はおおむね次のようになっている。
・東日本=あした・あさって・やのあさって・やのやのあさって
・西日本=あした・あさって・しあさって・ごあさって
・東京=あした・あさって・しあさって・やのあさって
・東京周辺=あした・あさって・やのあさって・しあさって

 「やのあさって」 などの 「やの」 は 「いよいよ」 の意味。 「しあさって・ごあさって」 は 「四あさって・五あさって」 の意味。 「あさって」 の辺りに 「さきあさって」 などの言い方が存在していて、それが 「三あさって」 と思われたりして、次が 「四あさって」 となったらしい。
 私は東京と東京の周辺で 「しあさって」 と 「やのあさって」 が逆転しているらしく、その理由を論理的に考えて結論を出しているが、長くなるので、割愛する。
 それでも、事あるごとに聞いたり調べたりしていて、地方出身の人だと分かると、もちろん知人に限るが、必ず「あさっての次の日を何と言いますか」と聞くのだが、てんでんばらばらの答がいつも返って来る。京都出身の奥さんと大阪出身の御主人の夫婦が隣に居たので、ある日「あさっての次の日を何と言いますか」と別々に聞いてみた。
 奥さんは「そんな事、考えた事もありません」 
 御主人は「そんな事、人によって違うのではありませんか?」
 なるほど、夫婦でも、これで通用しているんだ、と私は感動してしまった。まあ、あさっての次は何曜日とか何日と言っているのだろうけれど、相手の言う事にあまり関心が無い、と言う事だってあり得る。特に、約束があったりする以外は、他人の言う事なんて、あまり気にしていないと言うのが本当の所だと思う。多くの人々の言葉や話す内容を聞いていると、そうとしか思えない。

国後島での中ロ合弁事業についてもっと明確に

2011年02月19日 | 外交問題
 この所、忙しくてブログを一週間近く休んでしまった。新聞もテレビもほとんど見ないけれど、それでも一向に困らない。見た所で何事かがよく分かる訳でもない。むしろ、見ない方がよく分かるのかも知れない。何しろ、自分勝手な解釈を繰り広げるのがマスメディアの本性だから。ただ、中国がロシアと合弁で北方領土で事業を始めるらしい、との情報などは見逃す訳には行かない。でも、日本としてのその対応の仕方が問題だ。
 前回、菅首相が 「ロシア大統領の北方領土訪問は許し難い暴挙だ」 と発言した事に対して、佐藤優氏が正論ではあるが、面と向かっては言えない同首相の考え方とか根性について批判をしていた事を取り上げた。その佐藤氏の書いている中で、ロシアは前原外相を信頼している、とあったのだが、そうした 「前原氏への信頼」 が果たしてこうした中ロの北方領土での合弁事業に対して、どのように発揮されているのか、はなはだ興味深いものがある。
 まるで、北方領土は歴史上、ずっと以前からロシア領だったんだよ、と言わんばかりの中ロ合弁事業を見れば、前原外相への信頼感なんて言ったって、一体どの程度のものなのか、と思いたくもなる。日本人の寛容度の広さを巧妙に利用されているだけではないのか、と、単純な考え方の私は疑心暗鬼に陥ってしまう。

 もちろん、外交とはそんなに短兵急なものではないのは分かっているつもりだし、その後の展開について知らずに言うのは無責任ではあるが、中国はもちろんの事、ロシアだって独裁国家ではない、との明確な証明はされていないと思う。

政治家があまりにも信念が無さ過ぎる 

2011年02月12日 | 外交問題
  昨日、菅総理がロシアの大統領が北方領土を訪問した事を 「暴挙」 だと批判した事に対して、配慮が足りないと言っている人々を私は非難した。交渉、交渉とお題目ばかりを唱えているのではなく、具体的にどう踏み出せば良いと考えているのか教えて欲しいと書いた。
 これはその日の10時半頃のテレビ朝日のニュースショーで、コメンテーターが配慮が足りないと言い、そうした風潮がある事が根拠だった。私はその日の東京新聞の朝刊の 「本音のコラム」 での佐藤優氏の発言を読むべきだった。そのタイトルは 「卑怯者」。
 同氏は菅総理の 「許し難い暴挙」 との非難を 「日本の国民感情からすれば正しい」 と評価している。しかし次のように書いている。

 それならばなぜ菅首相は選挙直後の11月13日に横浜で行われた日露首脳会談でメドベージェフ大統領に対して面と向かって「あなたのやったことは暴挙だ。許せない」と伝えなかったのか。目の前では温和しい態度で、3ヶ月後に公開の場で激しい発言をするような人をロシア人は卑怯者とみなす。

 そうとは知らなかった。だから迂闊には物は言えないのだが、さりとて、私如きがすべてを知っている訳ではない。つまり、この菅発言は、首相としての一貫性を欠いているから不適切になるはずだ。佐藤氏が「国民感情からすれば正しい」と言う趣旨の事を書いているのがその証拠だろうが、実は、このコラムにはもっと価値のある事が書かれている。報道には表れないが、ロシア側の前原誠司外相に対する信頼感は強い、と前置きして、次のように書いている。

 前原氏が 「マスメディアや記者会見を通して外交交渉を行うつもりはない。ラブロフ外相と交渉する。そして閉ざされた扉の中で合意した内容に反するような発言は外でもしない」 という態度を一貫して取っているからだ。パフォーマンスに依存する菅首相よりも、ロシア要人との信頼を取り付ける前原外相の姿勢の方が国益に適う。

 重要な外交方針がころころと変わるはずが無い。そこには明確な信念があるはずだ。それこそ不退転の決意が要るだろう。不退転なのだから、言動にぶれがあるはずも無い。信念とか決意などのあまりにも無い人々が多過ぎる。
 私は自分自身、知恵は無いが勇気はある、と書いた。ロシアが仕掛けて来たら受けて立とうじゃないか、と言う勇気である。それをある人が、じゃあ戦争になったらどうするんだ、と言う。私の勇気は戦争をする勇気ではない。それは勇気ではない。ロシアだって馬鹿じゃないんだから、戦争など仕掛けはしないだろう。するとすれば、あの中国がやった姑息な手段のように、重要産物で日本には徹底的に不足している物を輸出禁止にするとか、兵糧責めとかの経済的な手段で攻めて来るだろう。だから、欲しがりません、勝つまでは、と戦争中の標語みたいな覚悟をするだけである。ケイタイが無くても平気、旨い物が食えなくても平気。
 現代人はあまりにも贅沢だ。我慢と言う事を知らない。それでは外国に侮られるだけだろうと思う。

にせものの平和に騙されるな

2011年02月11日 | 政治問題
 私は難しい重大な事の知識は持ち合わせていない。例えば、菅総理がロシアのメドベージェフの北方領土への訪問は暴挙だと言った。それに対して、外交交渉なのだから、相手が存在しているのだから、交渉を損なうような事は言ってならない、と言うメディアや知識人が多い。
 そうだろうか。菅総理が言ったのは「暴挙だ」と言う言葉である。それに対して、ロシア側は「占領」と言う実力行使をしている。でも、北方領土は現在はロシア領なのだ、と言うとすれば、現況に唯々諾々としている意気地なしだと思う。言うまでも無く、北方四島は日本固有の領土である。ソ連が日本の敗戦に乗じて図々しくも無法にも占領したのである。
 そのような無法に負けてたまるか。泥棒が正々堂々と白昼横行していて良い訳が無い。ロシアは大国だから戦争になったら負ける、などと理屈は通らない。平和の時代だから話し合いで解決せよ、との理屈も通らない。ロシアは話し合いで解決する意志は毛頭無いのだ。だから問答無用だと言っている。
 現在の所、日本が自由に北方四島を訪問する事は出来ない。日本の領土なのに出来ない。それなら、せめてロシアの暴挙だと言う事くらい何でもないではないか。
 一体、メディアや知識人達は領土問題を解決する勇気があるのか。もちろん、知恵も無かろう。私は先に言ったように、知恵は無い。しかし勇気はあるつもりだ。世界中で野蛮で無謀で貪欲で勝手な国々が弱い国々を痛めつけている。人間なんて、紀元前の時代からちっとも進歩していない。科学などは進歩しているが、人間性はまるで停滞したままだ。もしかしたら、退化しているのかも知れない。
 そんな世界で、どうして正義が通用しよう。人に平和をもたらすべき宗教が戦争をしているのである。

 メディアよ知識人達よ、無法な国々を諫める方法を示して欲しい。相手が居る事だからなどと、いい加減な事を言わずに、きちんと正しい方法を示して欲しい。あなた方は、暴力団などの無法な行為を、相手の事も考えて、などと言って野放しにする事に同意をしているだろうか。暴力団に理屈や正義は通用しない。それと同じく暴力・無法国家に正義は通じない。正義の観念がそもそもは違うのである。百年河清を待つおつもりか。

自転車の傘差し運転は事故を起こさなければ違反にならない、と警官が言う

2011年02月09日 | 社会問題
 今朝は珍しく雨が降った。カッパを着て自転車に乗ると、私のはフードなので、左右の確認がとてもしにくい。だから雨の日は十分に余裕を持って出掛ける。でも見ているとほとんどの人が傘差し運転をしている。透明のビニール傘だから見通しは良い。
 たまたま今日は交番の前の道を通った。赤信号にぶつかったので、若い警官に聞いた。傘差し運転は違反にはならないのかと。当然、違反です、との答が返って来ると思ったら、違った。事故を起こさなければ違反にはならないのだと言う。聞き直したが聞き間違いではない。はっきりと「事故を起こさなければ違反にはならない」と言う。そこで私は言った。じゃあ、明日から私は傘を差して乗るよ、と。
 仕事の帰りに、近くの警察署に聞きに行った。もちろん、傘差し運転は違反である。担当者は厳重に注意すると言ったが、これは注意するとしかしないとかの問題ではない。警察官としての任務の問題である。どこまで任務をきちんと理解出来ているか、の問題になる。

 それにしても、事故を起こさなければ違反にはならない、との考え方が分からない。事故を防ぐために様々な規定が作られている。その規定を守らなければ違反になるのは、規定違反が事故に繋がる危険性が多分にあるからだ。そもそも、規定は何のために存在しているのか。事故を起こさなければ違反にはならないと言うのなら、規定は何の役にも立っていない。
 信号はなぜ守らなければならないのか。信号無視が事故に繋がるからだ。だが、信号が無い交差点もある。そこでは互いに譲り合いの運転が奨励されている。安全確認が出来ればそれで済む。安全確認が出来るから信号が無い。そこで事故が起きれば、安全確認の義務違反になるはずだ。信号無視には絶対になり得ない。そもそもは信号が無いのだから。
 馬鹿な事を言っているように見えるが、傘差し運転をしても事故が起きなければ違反にはならない、と言うのはそれと全く同じになる。事故が起きて傘差し運転が違反になるのなら、傘差し運転は違反である、との規定がある事になる。規定があるからには、守らなければならない。
 それにしても、当たり前の理屈が分からない警官が居ると言う事に、しかもそれが若い警官なのだから、警察に未来はあるのか、と言いたくもなる。

小さな事なのだが、NHKニュースはなぜ加害者を隠すのか

2011年02月06日 | 社会問題
 車椅子に乗っている妻と、それを押している夫の二人が車にはねられて亡くなった。車の無謀な運転が原因らしい。車の走って来る直前に突然に車椅子が飛び出した訳ではないだろう。そんな事をする人間など考えられない。自転車の無謀運転とは違うのだ。運転者は車を置いて逃げ去ったが、1時間後に自首した。車は事故の状況を物語っており、持ち主も特定出来ているはずだ。それなのに、ひき逃げ犯は50代の男性としかNHKのニュースは報道していない。二度目に見たニュースも全く同じだ。
 なぜなのか。二人もの命が失われていると言うのに、その加害者が分からないなんて事があるのか。事故を起こした車が残っていて、ひき逃げをしたと自首した男が居る。それなのに、まだそれは「容疑者」に過ぎないのか。名前も住所も出せない「犯罪の証拠が無い人間」に過ぎないのか。

 テレビも新聞も、ある時にはまだ疑いの段階であるのにも拘らず、平気で容疑者の名前を出したりしているではないか。中には全く無実だった人だって居る。なぜ、こんなにも待遇が違うのか。警察が明確にしないのなら、テレビ局が自分達で調べれば良いではないか。ニュースとは本来がそうした性質のものだろう。車のナンバーからは当然に車の持ち主が分かる。それをたどれば、簡単に車を運転していたのは誰か分かるだろう。調べるのが時間外だなどの制約があるだろうくらいは十分承知の上である。それでも、視聴者から受信料を取っている「公共放送」なのだから、それくらいの責任と言うか行動力があって当然ではないか。公共の役に立たない放送なら、さっさと看板を返上して、一民間放送局になるべきだろう。多くの人々が、民間放送に正しい有意義なニュースなど期待していない。テレビに対する告発書がみなそう言っている。

 私は取材の事情を知らないで言っているかも知れない。だが、被害者と加害者を片手落ちに扱わないためには、どちらをも公表しなければおかしい。被害者の公表は、当然ながら、何も知人などに事故を知らせるためにするのではない。圧倒的多数の人々が被害者とは関係が無い。同じように加害者とも関係が無い。ニュースは、こんな悲惨な事故がありましたよ、と伝えるためにされているはずだ。事故を少しでも無くすように、事故の報道をしているはずである。
 だから、必ずしも被害者を公表しなくても良いだろう。それでも公表する事で、事故は具体的となる。だから、加害者もまた、事故を具体的にするために公表をすべきだ、と思う。加害者を公表しないのは、何よりも無惨に失われてしまった尊い命に対して無礼千万である。

新聞の記事のあら探しをする

2011年02月04日 | 言葉
新聞の記事のあら探しをする
 と言っても、ほんの小さなあら探しである。
 一つは日経新聞のコラム。折からの相撲界の八百長で、手元の国語辞典で 「八百長」 を調べた、との話である。そしてその多くが、「例えば相撲などで」 と、相撲の例を引いて、昔から八百長の代表として相撲が例に挙げられている、と書いている。その記事をうっかりと捨ててしまったので、正確な事は分からないが、大きな間違いは無いはずである。
 で、私が何でここに疑問を持ったかと言うと、こうした言葉は現代に生まれたのではなく、江戸時代にさかのぼるのではないか、と思ったからだ。そうなると、江戸時代に勝ち負けを問題にするスポーツなどは相撲以外にはすぐには思い付かないから、この言葉と 「八百長」 との言い方とは深い関係があるのではないか、と言う事が考えられる。そこで、国語辞典を調べた。

・八百長=真剣に勝負を争うように見せかけ、実は前もって約束しておいた通りに結末をつけること。転じて、なれあいで事を運ぶこと。相撲社会から起こった語。八百屋長兵衛という人の名によるという。

 この説明はまさしく私が持っていた知識である。私が知ったのは、確か落語での話だった。
 別の一冊は相撲社会から、とは言わないが、次のように説明している。

・八百長=もと、八百屋の長兵衛が碁敵であるすもうの年寄との勝ち負けを巧みに調整したことから。

 相手は碁敵ではあるが、それが相撲の年寄であると言っている。
 別の二冊はそうしたいわれにはまるで関心が無い。単に 「なれ合い」 との説明しか無い。
 大型辞書の一冊は次の説明。

・八百長=相撲会所に出入りしていた長兵衛という八百屋 (通称八百長) が、ある相撲の年寄と碁を打つ際に、いつも一勝一敗になるように手加減していたことからという。

 最後にもう一冊の大型辞書の説明。

・八百長=明治初年通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合せで、常に一勝一敗になるようにあしらっていたことに起こるという。

 一冊が 「相撲社会で」 と言い、三冊が、相手が相撲の年寄だ、と言う点で一致しているが、勝負その物は相撲ではなく、碁である。そうは言っても、相手が相撲の年寄であると、ここまで言われている事を考えると、これは碁の話なんですよ、とは言いにくくなる。元々は碁から始まったのだろうが、それが容易に相撲に結び付いてしまうと言う所に根本的な問題があるのではないだろうか。
 私の江戸時代から、との想像は違っていたが、明治初年なら、勝敗を争う物としては相撲は庶民にとっては唯一とも言うべき娯楽だったはずである。東京の上野・不忍池は周囲が馬場になっていて、競馬が行われた、と言うが、相撲に比べるべくも無いだろう。

 何が言いたいのかと言うと、辞書で「 相撲などで」 と相撲が具体的な例として挙がっているから、相撲と八百長との関係は年季が入っている、と言うような事ではなく、碁の話がなぜ 「相撲などで」 と説明されているのかをもっと深く追究して欲しかった、と思うからだ。そこにこそ、もしかしたら、相撲との深くて長い腐れ縁が隠されているのかも知れないではないか。

 二つ目のあら探しは東京新聞のこれもまたコラムの記事。

 野球賭博で揺れた大相撲界に今度は八百長疑惑が直撃した。

 何でもない当たり前のような文章だが、私はそれこそ 「直撃を食らった」 ように感じた。と言うのは、「大相撲界を今度は八百長疑惑が直撃した」 だと思ったからだ。単に 「に」 と 「を」 の違いで、意味としてもほとんど同じである。それなのに、私には違和感がある。単に私の思い込みとも思えるが、念のために辞書で 「直撃」 の用例を調べてみた。

・「直撃を受ける」 「台風が本土を直撃する」
・「爆撃機が市街を直撃する」 「台風が九州南部を直撃する」 「シュートが左ポストに/ポストを直撃する」
・「砲弾の直撃を受ける」 「台風が本土を直撃する」
・「敵国首都を直撃する」 「台風が本土を直撃する」

 別の調べた二冊には 「に直撃する」 「を直撃する」 の用例は無い。一冊には同じ言い方で「 に」 と 「を」 があるが、ほとんどが 「を直撃する」 である。辞書の用例は、意味を説明するために挙げる言い方ではなく、用例を様々に挙げて、そこから共通の意味を引き出すためにある。
 だから、 「…を直撃する」 との言い方があって、そこから 「直接攻撃する」 の意味が引き出されている。
 そして、私は先に意味としてはほとんど同じだ、と言ったが、「を直撃する」 では、その攻撃する主が 「…が」 と明確になっている。コラムの文章では 「八百長疑惑が大相撲界を」 直撃するのである。
 それに対して 「大相撲界に直撃する」 では、攻撃の主は 「八百長疑惑が」 で明らかではあるのだが、 「…を」 と言う明確な対象が無いので、何となく曖昧さが漂うのである。直撃する対象は 「大相撲界」 なのではなく、 「大相撲界で何かを直撃する」 ようにも思えてしまう。

 そんな事は無い、と言うかも知れないが、文章が弱くなるのは確実である。なぜなら、 「大相撲界を」 ならはきりと対象が 「大相撲界」 その物であるのが分かる。しかし 「大相撲界に」 であれば、 「大相撲界」 は対象の「 範囲」 であって、直接の対象は別にある、と言う感じ方にもなる。 「地図を見る」 と 「地図に見る」 が違うのはお分かり頂けると思う。
 こうした事は感性の問題だから、理解頂けなくても仕方が無い。けれども 「どこどこへ」 と 「どこどこに」 の違いを曖昧にする事は少ない。その違いが分からない人も居るようだが、これは理論としてもきちんと説明が出来る。例えば 「エレベーターに乗る」 が正しくて、 「エレベーターへ乗る」 は間違いだと。 「へ」 も 「に」 も同じように到達点を表す事も出来るようになって来ているが、エレベーターなどの場合にはそれは 「到達点」 ではないからだ。
 こうした事を曖昧にする事と、 「に直撃する」 と言う事とは、 「曖昧だ」 との点でよく似ている。そうした事を続けていると、文章はもちろん、考え方はどんどん曖昧になって行く。それが怖い。

日本人がお人好しである事について

2011年02月03日 | 社会問題
 東京新聞の投書欄に日本人はお人好し過ぎるとの投書があった。私もそう思う。投書の主はロシアの事を怒っている。日本が原爆を投下されて、敗戦が色濃くなったと見ると、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本に襲いかかった。大勢の人々をシベリアに抑留し、飢えと寒さで殺した。日本固有の領土である千島を占拠した。
 ロシアになって、共産主義ではなくなったはずなのに、北方領土は返って来ない。盗人猛々しいにも程がある。その投書を読んだ同じ日、二葉百合子の「岸壁の母」を聞いた。この歌は是非とも歌い継がれなくてはいけない。

 そうした事と少しずれるが、日本を馬鹿にしている国に生産の拠点を移す事を私はとんでもない事だと思っている。例えば、中国での衣料品の生産である。日本人が安い衣料品を買えるのは事実だが、その結果、中国人労働者が潤っている。反面、日本の労働者は仕事を失っている。もちろん、これは衣料品だけの事を言っているのではない。
 中国では安い労働力のメリットがそろそろ無くなって来つつあり、今度はベトナムだと言う。中国で行われている事と全く同じ事がそこで行われる訳だ。
 こうやって、次々に少しでも労働力の安い所へと拠点を移して行って、アフリカも一巡したら、どうなるのか。そう、最後は再び日本に戻って来る。なぜなら、日本は様々な製品の生産に自らの労働力を使えず、仕事が無くて、人々が困窮する結果となって、貧乏国になる。だから労働力は安いから、安い製品が作れる。
 だが、それを買う資力が無い。ではどうするか。日本が生産拠点を移して金持ちになった中国とかベトナムに買ってもらうのである。
 以前は、企業は日本人で、作っていたのが中国人で、それを安く買っていたのが日本人だった。それが、今度は企業は相変わらず日本人で、作っているのが日本人で、安く買うのが中国人になる。えっ? それじゃあ企業の立場がおかしくなるではないか。
 いやいや、おかしくはならない。企業は初めから日本人とか外国人とかの区別はしていないのだ。金儲けさえ出来れば、作るのが誰だろうと、買うのが誰だろうとかまわないのだ。見えているのは、幸せに暮らしている人間ではなく、金儲けの対象としての人間なのだ。

 自国の人間を苦しめて、他国の人間を喜ばせて一体、何が嬉しいのだろうか。国会では相も変わらず自分達の利権を守る事ばかりの連中がああだのこうだのと争っている。先日書いたが、東京新聞のコラムでは政党や政治家の能力不足を嘆いていた。野球に例えて、ピッチャーがホームに届く球を投げて、決して投手は幼稚園児ではない事を証明する事が必要だと書いていたが、無理でしょうね。政党も政治家も「立派に」幼稚園児なのだから。馬鹿にされて悔しいと思うなら、きちんと「成人」である事を証明すれば良い。でも、悔しくても出来ないのだからしょうがない。