夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日立のお詫び広告にどれほどの誠意を感じる事が出来るのだろうか

2009年04月30日 | 社会問題
 今日の新聞の一面広告で日立が冷蔵庫の虚偽記載についてお詫びをしている。インターネットでも同じだ。現在、徹底的な社内調査による原因の究明を進めていると言うが、もう一週間も前の事件である。それがまだ分かっていないらしい。そして原因の究明と言うが、何の原因を突き止めようと言うのだろうか。なぜ虚偽の広告をしたのか、についてなのか、真剣に仕事をしていたのだが、結果的に虚偽になってしまった事についてなのか。私にはこの二つしか無いと思えるのだが、そうだとして、そうした事の原因解明が出来るのだろうか。
 もしも虚偽と分かってしていたのなら、原因は究明するまでも無い。正しいと思っていたのが、結果的に虚偽になっていた原因は、色々な部署にいい加減な思い込みがあったからである。それ以外に何があるのか。いい加減な思い込みは自己に対する慢心からである。これって、究明してどうにかなるような事だろうか。
 その結果にしても、公正取引委員会が調べて分かったらしいから、普通なら分かりっこない事だったとしか思えない。公取委はなぜ調べようと思ったのか。第三者がおかしいぞ、と思うような事を社内で分からないはずが無いではないか。それこそ、一流の技術陣が居るではないか。
 まあ、世界にも名の通った一流企業がみっともない謝り方は出来ないから、こうしたもっともらしい、対面を保った謝罪になるのだろうが、これで真摯な謝罪の気持が伝わると思ったら、あまりにも消費者を馬鹿にしていると私は思う。

 大体、社名が日立アプライアンス株式会社とは何だ。無学な私は今の今まで「アプライアンス」などと言う英語を知らなかった。一生懸命に辞書を引いてやっと、「機械、装置、特に家庭用電気器具」との説明に出会えた。一般家庭を対象にしているにも拘らず、訳の分からない社名を付けていると言うそれだけで、私はうさん臭さを感じてしまう。なんで「日立家電株式会社」じゃいけないのか。日本人のくせに日本語で考えていない性格がもろに出ている。つまり、考えが地に着いてなどいないのである。だから、いい加減な思い込みで突っ走ってしまうのである。もちろん、これはあくまでも、単純なミスだったとしての話である。

 日立と言えば、「Inspire the NEXT」である。またまた英語の辞書を引かなくてはならないのだが、引いてもまだ私にはその意味が分からない。どうも「次の事に向かって奮い立て」と言っているらしいのだが、それにしても、命令形の英語であり、実に無礼である。もしも社員に対して言っているのなら、何も広告で言うべきではない。社内標語として社内のそこらじゅうに貼っておけば良いだけの話である。あるいは年がら年中社内放送で流せば良いだけの話である。少なくとも消費者に向かって言うべき言葉とは思えない。

 言うまでもなく、我々は常に日本語で物事を考えている。感じている事だって、日本語でなのである。「ああ疲れた」と思う時に絶対に「オー、アイム、タイアド」なんて思わない。しかしこの「日立アプライアンス株式会社」では社長から社員に至る全員が常に英語で物を考え、英語で感じているらしい。だから地に足が着いていないよ、と言っているのである。
 そのような会社がどのように「徹底的な社内調査による原因の究明並びに、再発防止に向けた包括的な取り組みを進めております」と言ったって、ちっとも我々の心には届かないし、響かない。カッコいいと思って英語などを使っていると、こんな時に馬脚を現してしまう事になる。カタカナ語が大好きな人も、この際、反省した方が良いと思いますよ。
 因みに、「馬脚」とは芝居で馬の脚を演じる役者の事で、つまりは「化けの皮が剥がれる」の意味です。別に馬を軽蔑しているのではありません。

昭和の日と元号、天皇のお名前について考える

2009年04月29日 | 社会問題
 今日は昭和の日。つい近年までは「みどりの日」だった。そしてその前は「天皇誕生日」。言うまでもなく、昭和天皇の誕生日である。その天皇が亡くなられて平成の時代になって、「天皇」は常にただお一人しか存在しないから、当然ながら「天皇誕生日」は4月29日ではなくなった。では何でそれが「みどりの日」になり、「昭和の日」になったのか。そこに私は変に世論に気兼ねした、それでいて初心を貫こうとする姑息な心を見る。
 昭和天皇が亡くなり、その誕生日を「昭和の日」としては、いかにも天皇制万歳、のように思われてしまう。そして庶民としては国民の祝日が増える事は喜ぶが、減る事には猛反対する心境が重なる。そこで、昭和天皇は自然がお好きで、生物学などの研究もされていたから、「みどりの日」なら文句は出ないだろうと踏んだのではないだろうか。そして「昭和」が天皇とは離れて、単なる時代の呼び名となって来た事を踏まえて「昭和の日」と改名したのではないだろうか。たとえ、別に正しい理由があったとしても、私はこのように考えている。

 「○○天皇」と言う名前は本来は諡号(しごう)だから死後になって決まる。その天皇の業績などを主として適切な名前が考え出される。中には先の世の優れた天皇の治績を思い、自ら「後○○天皇」と称した天皇も居る。後醍醐天皇は醍醐天皇の治世を模範とし、後水尾天皇は水尾帝と称された清和天皇の治世を模範として、自らその名前を付けたと記憶している。持統天皇は自分の皇統のみの継続を願ってあれこれと画策した天皇なので、「持統」の名前が贈られている。本人は生前、そのような名前が付けられるとは予想だにしなかったはずだ。だから、歴史の本にあるような、「○○天皇が皇太子になった」などの記述は本当はおかしい。しかし後代に記述するとなると、それしか言いようが無い。本来は実名を使えば良いのだが、それは意外と知られていない。我々が知っているのは、天智天皇が「中大兄皇子」とか、天武天皇が「大海人皇子」など、一部に限られている。だから「○○皇子が」とは出来にくい。

 それが明治時代になって、元号が天皇一代に限られ、しかもその元号が諡号になった。変な話、それ以来、天皇御自身も我々も、生前にその天皇の死後の名前を知っているのである。これって本当におかしい。仏教では戒名とか法名とか宗派によって色々と呼び方が違うが、み仏の弟子となった人に贈られる名前がある。元々は生前にみ仏の弟子になるのが望ましく、そうして法名を授かっている人々も居る。しかし不信心の人が多くなったから、ほとんどが死後の法名になる。その点で、天皇は異例になる。しかも名付け親は学者なのである。皇室は神道だから仏教の法名は不適当だろうが、それにしても、宗教的な命名ではなく、学識による命名なのである。だからどうなんだ、とは言わない。だが、ごく当たり前のように思っている事柄に不思議な事が一杯詰まっている。考えてみれば、過去の天皇の諡号にしても、誰が付けていたのか、との疑問はある。
 この事を馬鹿にしてはいけない。私はずいぶん前だが、葬儀の本を作る時に、写真にするために白木の位牌に戒名を書いてもらおうとある寺の御住職にお願いした。ところが、架空の戒名は作れないと言う。なぜなら、死者の名前を見ると、その御住職には、その人の生前の事が分かり、それにふさわしい戒名が浮かんで来るのだと言う。真言宗の格式高いお寺さんからの紹介だったから、私は当然にその話を信じている。

 話は変わるが、私はこの元号が不便だと思っている。今年は2009年。その9年と平成21年がどうも混乱してしまう。今年が平成19年と時々勘違いしてしまう。お前が馬鹿なんだよ、と言われればそうなのだが、これがもしも今年が2019年だったら、どうなるか。混乱する人が絶対に増えると思う。元号はその時代を象徴すると簡単に思われる傾向があるが、短い時代ならそうとも言えるが、昭和のようにあの戦争を挟んで、世の中ががらっと変わってしまうと、絶対にそうとは言えない。戦前の昭和と戦後の昭和は大きく異なる。そうした元号が果たしてどのような役に立つのか。
 元号が良いと言うなら、日本国内の事柄に限っては元号で通すと言うのも一つの考え方である。我々にはそれで何の差し支えも無い。外国と密接な関係のある部署なら西暦を使えば良い、と言うだけの話ではないのか。我々の日常の買い物はすべて「円」で決済し、外国相手なら「ドル」や「ユーロ」で決済したりしているはずだ。我々にとって「100円(1ドル)」なんて表示が全く無意味である事を考えれば、全く同じとは言わないが、似た面があるのではないか。
 それとは反対に、巨視的に見れば、20世紀とか21世紀と言う方がずっと好ましいはずだ。だから西暦になる。
 元号を無くすと、天皇のお名前に困るなんて、馬鹿な事は言いませんよね。皇后陛下は死後に我々の初めて知るお名前を贈られる。それで誰も困ったりはしない。それに、昔から今も、今の天皇は「今上天皇」とか「今上陛下」としか言いようが無いのである。後の事は全く別の問題である。それとも、即位と同時にお名前を差し上げますか?
 考えてみれば、「元号=天皇の名前」の方式は、いやでも天皇を強く印象付けている。そうすると、天皇制反対とか君が代、日の丸反対を唱えている人々にとっては、元号は不倶戴天の敵になるのだが、そんな話はどうも聞いた事が無い。

うっかり勘違いと仕組まれた勘違い。そして民主主義

2009年04月28日 | 言葉
 時代小説を読んでいたら、「寅の刻」がよく出て来る。午前4時を中心とした2時間で、人間の最も眠りの深い時間帯だと言う。だからこの時刻を狙って様々な犯罪が行われる。
 江戸時代、東京の私の住んでいる江東区の西半分の「深川」までは江戸の町だった。江戸の東南に当たり、深川の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれて気っぷの良さが評判だったらしい。
 「寅」と「辰」に何の関係があるのか、と思うかも知れないが、どちらも時刻であり、方角である点が共通している。その「辰の刻」とは午前8時である。
 方角では南北を縦の軸とする360度で表現されている。
 時刻では、現在では、12時と6時を縦の軸とする360度で表現されている。午前12時と午後12時が同じ位置になっている。実はそこから私の勘違いが生まれている。
 時計で言えば、方角としての辰は「4」の所、時刻としての辰は「8」の所になる。同じ「辰」なのに大きく違う。それが不思議だった。
 だが、考えてみれば、私の考え方がいかにも杜撰だったのである。時刻を360度で表現していると思っていたのが大きな間違いだった。本当は午前が360度、午後が360度なのである。午前、午後の一日24時間を360度にすれば、0時と12時が縦の軸になる。それだと、「1」の所が2時で、「2=4時」「3=6時」「4=8時」になる。つまり、「辰の刻」は「4」で、それなら方角の「辰」と同じになる。

 非常につまらない事だが、こうした勘違いは結構多いと思う。このような「辰の方角」と「辰の刻」なら別にどうと言う事も無いのだが、社会的な事柄になると大きな問題になるはずだ。単なる勘違いならともかく、意識して勘違いをさせている事はあるだろう。「民主主義」とか「社会主義」などがその典型ではないのか。

・民主主義=人民が主権を持ち、自らの手で、自らのために政治を行う立場。
・社会主義=生産物・富を民主的に分配するため、生産手段を社会の共有とする制度。

 上は岩波国語辞典の説明だが、「社会主義」に出て来る「民主的に分配する」の「民主的」とは「民主主義の精神にかなっている」である。つまり、どちらも「民主主義の精神」が生きている。だから、その違いとは「民主主義=〈公平〉にはこだわらない」「社会主義=〈公平〉にこだわる」であるに過ぎない。富の分配の方式が大きく違うのだが、だからと言って、「民主主義=貧富の差があって良い」とはならない。出来る限り、貧富の差を小さくしたいと言うのが民主主義の根本のはずだ。
 そして、その「公平」が非常に難しい。何を以て「公平」と言うか、が非常に曖昧である。特に社会主義での「公平」が怪しい。中華人民共和国では驚くべき格差社会になっていると言う。「社会主義」とか「公平」とかは、そんな物なのである。
 だから、「自由民主党」であろうとも、「民主党」であろうとも、はたまた「社民党(社会民主党)」であろうとも、その実質は何ら変わる事がないのだ、と納得が行く。


 

グルジアの改名希望と外務省の考え方

2009年04月27日 | 政治問題
 旧ソ連のグルジアがロシア語での呼び方を嫌って、英語表記のジョージアと改名したいと日本の外務省に申し入れたと言う。グルジアの名前はキリスト教の守護聖人ゲオルギウスに由来するそうだ。
 ならば、ゲオルギウスではどうなのか、と私は思う。なんで英語なんだ? と。この話は25日の東京新聞の「コトバ 言葉」と言うコラムに載っている。そこには書かれていないのだが、グルジア語は無いのか。
 ウィキペディアで調べると、グルジア語はあり、Sakartvelo サカルトヴェロが国名だそうだ。「カルトヴェリ人の国」の意味である。しかしそれではグルジアとは離れ過ぎているから、グルジアに近いジョージアが選ばれたのだろう。
 そして肝心の外務省の見解はアメリカのジョージア州との混同が気になると言うらしい。でもアメリカは「ジョージア州」であって、「州」が付く。日本語では「州」無しの呼び方はあり得ない。少なくとも正しくはない。アメリカにはカリフォルニア州があり、メキシコにはカリフォルニア半島がある。これが混同するだろうか。

 当の国が日本語ではそう呼んで欲しいと言う。そこには敵対関係にもあるロシアに対する嫌悪感があるのだから、聞き入れるのが礼儀だろう。日本は変な国だ。北朝鮮は少し前までは必ず「朝鮮民主主義人民共和国」でなければならなかった。中華人民共和国を「中国」と呼ぶ事はその国は認めたが、「シナ」は絶対に許さない。そうした事には忠実に従い、今度は躊躇している。
 アメリカの「ジョージア州」と国名の「ジョージア」の混同を言うならば、現代の「中国」と「清」に至るまでの歴史上の「中国」との混同をこそ気にするべきである。前者は現代の事であり、後者は歴史上の事だ、などと言う理屈は通らない。自分勝手で強引な国には遠慮をし、そうでない国には日本の勝手を通す。多分、怖いんでしょうね。
 「強きをくじき、弱きを助く」の言葉がある。日本政府は「弱きをくじき、強きを助く」だと勘違いをしているのではないのか。「弱きをくじき」の精神を信条としているアメリカや中国、ロシアに追随しているから、どうしたって右に倣えになってしまう。それって、本当に恥ずかしい事なんですけどねえ。

ちょっと気が付いた事

2009年04月25日 | 社会問題
 東京の玉川高島屋が配管のミスで汚水を多摩川に流していた事件があった。テレビで見た高島屋側の記者会見では、「申し訳ありません」に類する言葉が一言も無かった。挙げ句には、「迷惑を掛けていない」である。本家の日本橋高島屋の建物が重要文化財に指定されたと聞いたばかりなのに、「仏造って魂入れず」の見本みたいだ。先日この重文指定で、「東京都の重要文化財」と言ってしまったが、「国の重要文化財」の間違いでした。御免なさい。

 古い話になるが、謝らない事で思い出した。生命保険会社の第一生命は20年間、配当金を支払っていなかった事が判明した時、コンピューターのミスだった、と言い訳をした。同社ではこの技術革新の著しい時代に、20年間も同じコンピューターとシステムソフトを使い続けていた、と言う訳だ。
 それにしても、延べ何万件か何十万件か知らないが、そのどこかで、あれ? おかしいぞ、と言う事態に必ず出くわすはずだと思うのだが。まあ、配当金の支払いだけがミスだったとしても、ほかの作業がよく無事で出来たもんだと感心する。
 
 4年前の福知山線の脱線事故の命日が巡って来た。遺族が悲しみの言葉を述べるのをテレビのニュースで見たが、こうした姿は何年経っても変わらないだろう。その深い悲しみは我々にだって分かる。それが取り返しのつかない事であるのもまた分かる。しかし、我々には分からない事がまだたくさんある。
 その一つが、遺族や被害者への補償や対応はどうなっているのか、である。事故から1年とわずか過ぎた2010年の5月8日、事故で入院していた全員が退院した、との能天気なニュースが朝日新聞に載った。最後の一人が20歳になる女子学生で、頸椎を損傷し、両足に麻痺が残った、と記事は伝えていた。麻痺の程度がどうなのかは、記事には無かった。まるで、「おめでとう」と言っているように思えて、私は実に嫌な気がした。
 NHKの特別番組では、事故の対応について遺族とJR西日本が対立している、との報道もあるのだ。
 本当に事後処理はどうなっているのか。それが是非とも知りたい。

 日立の100%子会社が省エネを売り物にしていた冷蔵庫で表示を偽装していた事が発覚した。そして同社は社内の連絡ミスが原因だと弁解した。更には、性能には問題は無いので回収はしない、と言った。
 たとえ本当に社内の連絡ミスだとしても、今度はそんな簡単な連絡が出来ないのか、と言う事になる。それでは「技術の日立」の名前が泣く。結果的には嘘をついて消費者を騙した事になる。回収はしなくても良いだろうが、「申し訳ありません」と謝るのが筋である。社内の連絡さえミスがあるような会社の技術に信頼が置けないのは当然である。

 すべて自分の非を認めない事によって、墓穴を掘っている。みんな、単純ミスではないのだから、考える所あっての所業だろうから、簡単に謝って済む問題ではない事は分かっている。それでも、まずは謝る事から始めなければ、自らを窮地に追い込んでしまう事にもなる。可哀想にそんな事も分からないのである。
 謝罪は最低のルールである。謝って、その上で、どうしたら被害者にその損害の補償が出来るのかをきちんと考えるべきなのである。マスコミの報道はそこまできちんとやるべきだろう。少なくとも、公然猥褻で騒ぐよりも、そのほかの事件でのきちんとした事後の追跡調査をするべきである。単に騒ぐだけなら素人にだって出来る。

イチローはホント、天才だよね

2009年04月25日 | Weblog
 水泳の水着の事を書いたら、イチロー選手の事が頭に浮かんだ。あの世界大会の時のイチローには本当に驚いた。本人が「神が降りて来た」と言っていたが、まさしく神が降臨したのである。しかし、それは本人の努力以外の何者でも無い。成長期に訓練すれば、神経と脳の結び付きが強固になり、しかもその伝わるスピードも驚異的に速くなるのだと言う。本人も偉かったけど、親も偉かったんだと思う。
 今、共稼ぎのせいで子供を 「学童」と言う名のシステムに預けている家庭が多いけれど、それで子供の教育が出来るのだろうか、と心配になる。その共稼ぎだって、生活が苦しいだけではなく、贅沢をしたいから、と言う理由もある。贅沢のために、子供の将来を犠牲にして恥じない。それこそ恥じるべきである。

 水泳の水着でも言ったが、正々堂々がスポーツの信条である。そうした意味で、あのゴジラ松井が高校野球で徹底的に敬遠された試合は今もなお記憶に新しい。あの時の相手の高校の野球部の監督は永久に汚名を着たままになった。あの時、私は仕事で奈良の中宮寺に向かうタクシーの中で、運転手からその話を聞いた。彼は「汚い」と真剣に怒っていた。
 そう言えば、王さんだって、何とか言う外国人の選手が自分の記録を破ろうとした時に、打たせなかった。周囲が、王の記録を破るのは相成らん、となったのである。それを監督としての王さんは、駄目だ、と言わなければいけなかったはずだ。
 記録にこだわるのはいいけれど、恥を晒しては駄目だろう。イチローは堂々とアメリカの選手の記録に挑戦し、アメリカ人もそして当の本人さえもそれを歓迎している。
 オリンピックの東京招致もいいけれど、スポーツの正々堂々の精神を忘れては何にもならない。北京オリンピックは様々な事で中国の威信を貶めた。口パクとかはご愛嬌だが、少数民族の扱いとか、チベット、ウイグル民族の弾圧とかはオリンピックを開催する資格の問題になる。

 でも、オリンピック委員会が東京の視察に来た時に、反対の横断幕を持って抵抗の姿勢を示した人々って、一体どこの国の人なんだろうね。東京でオリンピックを開催するのがそんなに我々の損失になるのだろうか。コンパクトで安上がりに出来そうな点が売りになっているはずである。
 まあ、国歌と国旗にも反対をする人々が居るのだから、何にでも反対は付き物なんでしょうね。そうそう、森田健作千葉県知事にも早速、法律違反だと訴えた人々が居たっけ。みなさん、ご自分の生き方に絶対の自信をお持ちのようである。
 そう言う私も新聞の記事などにいちゃもんを付けているが、それは自分はきちんと筋の通った考え方をしていて、そうした文章を書いているとの自負があるからこそ、しているのである。だから、それは間違っている、との批判はきちんと受ける覚悟もしている。あれっ? 何か変な話になってしまったが、まあ、そう言う事である。

公然わいせつ罪だって何だろう

2009年04月24日 | Weblog
 草?剛の公然わいせつ罪で、昨日からテレビが大騒ぎをしている。そりゃあ確かに大きなニュースである。本人とその行為とのギャップがあまりにも大き過ぎる。
 でも、前々からずっと不思議に思っているのだが、誰もが持っている、しかも非常に重要な体のある一部を見せるとわいせつ罪になる。「わいせつ」を平仮名で書くと何でもないが、「猥褻」と漢字にすると、実にイメージが明確になる。何で体が猥褻なんだ?
 15世紀末のイタリアに史上非常に有名な男が居る。その名をチェーザレ・ボルジアと言う。塩野七生著『チェーザレ・ボルジアの優雅なる冷酷』は話題を呼んだ本だが、その中に次のような部分がある。
 チェーザレの前に立ち塞がった宿敵の一人にカテリーナ・スフォルツァ伯爵夫人が居る。「最高の精神と度胸を持った女、疑いもなくイタリアのプリマ・ドンナ」と讃えられた女傑であった。
 カテリーナは13歳の時に父親を暗殺され、24歳の時には夫も家臣によって暗殺された。第二の夫も暗殺される。この時の彼女の復習はイタリア中を震駭させたほどのすさまじさだったと言う。そして第一の夫が暗殺された時の話が面白い。

 陰謀者たちが城塞の外に彼女の子供を連れてきて、その城塞を明け渡さなければ子供を殺すとおどした時、城塞の上に立った彼女は、やおらスカートをまくり、大声でどなり返したものである。
 「馬鹿者め、子供などこれであといくらでも作れるのを知らないのか」
 唖然として口を開けたままだった陰謀者たちは、時をかせぐという彼女の計略にまんまと乗ってしまったのである。子供が殺されなかったのはいうまでもない。(新潮文庫版同書から)

 多分、スカートの下には何も着けていなかったはずだ。日本だって、東京・日本橋白木屋の火事の時、女性達は着物の裾がめくれ上がって大恥をかいたので、それ以降、下着を着けるようになったと言う。火事で逃げ出した女性達が公然猥褻罪で捕まったとは聞いていない。
 子供を作ると言う人間にとって最大の重要事に必須の器官が何で猥褻なんだろうか。我が家の愛犬は仰向きになって寝るし、体を撫でてやる時にもその姿勢でうっとりとしている。でも、絶対に猥褻なんかじゃない。亡くなった叔母は風呂から上がった時、「ああ、いいお湯だった」と一糸まとわぬ姿で家族の前に現れるのがいつもの事だった。我が家ではそうした事は無かったから始めは驚いたが、その内にすぐに慣れた。何しろ、叔母の一家はみんな当たり前に思っていたのである。
 猥褻だと思うから猥褻になるのである。
 猥褻だと言うんなら、顔が猥褻な人間だって居るじゃないか。存在その物が猥褻な場合だってある。ね、そんな事言われたら、立つ瀬が無いでしょうが。

 性器が猥褻になるのは、それを使った行為を猥褻だと考えるからである。そんな猥褻な行為を世界中の大人どもが年がら年中やっているのである。馬鹿言っちゃいけない。
 先日も書いたが、痴漢の疑いで、被害者と称する女性は常に正しくて、加害者と名指しされた男性は常に犯罪者になる。それは裁く人間ども、そのほとんどが男性だが、彼等が自分も痴漢になり得ると考えているからである。
 そう、自分が猥褻だから、世のすべてもまた猥褻になるのである。

水着で新記録を出してもねえ

2009年04月23日 | Weblog
 私の趣味の一つは水泳である。スポーツ音痴な私が水泳を始めたのは、友達が水泳で胃下垂が治って太ったのを見たからである。生まれつき虚弱な体質で、長年胃下垂で悩んでいた。なんせ、昼の外食で「半ライス」しか注文出来なかったのである。それが水泳を始めたら、ちゃんと普通のライスが食べられるようになった。体重も増えた。
 その水泳だが、始めから泳げた訳ではない。馬鹿な事に、プールに入って、初めて、あ、俺は泳げなかったんだ、と気が付いたのである。今まで泳げると勘違いをしていたのは、海などでほんのちょこっと水に浮いているだけの事を泳げる、と思っていたに過ぎない。だから25メートルのプールを泳ぎ切る事などとても無理。
 それが努力の甲斐あって、今では結構上手だ、なんて言われている。区営のプールで監視員の募集があって、二カ所に応募したのだが、一カ所は体力が心配だ、と言われて駄目。もう一カ所は若者ばかりの職場なので、私のような年齢の人間と一緒に仕事をした事が無いので自信が無い、と断られた。つまり、泳ぎその物は一応は及第なのである。タイムは別として、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの四種目も出来るから、個人メドレーも可能だ。

 だから水泳の記録には大いに興味がある。だが、ここ近年、記録更新の陰に水着あり、なのだ。おいおい、それは違うぞ、と言いたい。水着のせいで新記録が樹立出来たって、ちっとも自慢にはならないじゃないか。確かに選手は体毛を剃ったりして水の抵抗を減らす努力はして来た。しかしそれは自分の体その物での事である。けれども水着は借り物だ。それが許されるなら、足ひれを付けるのとそんなに変わらないのではないか。
 足ひれを付けて泳ぐと体は浮くし、何しろ、倍のスピードで泳げる。だから水の抵抗も大きく、それが快感になる。そこまでは行かないにしても、卑怯な事に変わりは無いと私は思う。その証拠には、全身を包む水着は高価である。だから効果も高いのだが。その高価な水着を着られない選手が居る。で、ドイツ人だったか、それでは不公平になると、国際大会で、自分も普通のビキニスタイルのパンツで泳いだ選手が居た。しかも優秀な成績だった。これぞスポーツマンシップである。

 薬で体力を増強するのはドーピングになる。発覚すれば金メダルだって剥奪される。水の抵抗を減らす水着と言うのはそれに類した物ではないのか。水の抵抗を減らす水着は着込むのに大変な努力が要ると言う。とてもきついのだそうだ。そんな無理をする、と言うのは体を変形させるのと同じではないか。それが何で正々堂々と許されるのか。どう考えても納得が出来ない。そんな事でコンマ何秒を競ったって意味無いじゃないか。
 正々堂々と闘うのがスポーツである。水着で勝ったって、ちっとも自慢出来ないと思わないのだろうか。

和歌山カレー事件の最高裁判決に対する報道は不用意だ

2009年04月22日 | Weblog
 判決は上告棄却。で、死刑が確定した。これがみなさん、全員納得とは行かないのはご存じの通り。問題は、動機が解明されずに終わり、状況証拠だけで犯人とされた事にある。だが、この「状況証拠」が今現在、決して明確にはなっていない。一審、二審では明らかにされていたはずだが、その「上告棄却」なのだから、ここでは一切問題視されていない。状況証拠をどのように扱うかだけが問題になっているのだから、そうなるのは当然だろう。
 けれども、我々庶民に対する報道ではそうであってはならないだろう。今からもう11年も前の事件である。我々がどの程度、きちんと記憶しているか。更には、それ以前に、マスコミ、特にテレビでは林被告の怪しげな行動ばかりを報道していたではないか。10ある状況を10すべて公平に報道するのならともかく、その内の一つとか二つだけを採り上げるのでは絶対に公平とは言えない。そうやって林被告の犯人としての印象が強められた感は免れまい。

 状況証拠での判決が裁判員制度に重い課題を残したのは確かである。ただ、その「状況証拠」が果たしてどのような物であったのか、について、きちんと確認して云々しているのならともかく、「状況証拠」との言葉が一人歩きをしているとも思える。
 林被告は以前からヒ素を使って、保険金詐取を企てていた事実は明確になっている。そして自宅にあったヒ素とカレーに入っていたヒ素が同一である事は検証されている。しかし同じヒ素がほかには絶対にあり得ないとの検証はされたのだろうか。そうでなければ状況証拠にはなり得ないのでは、と私は思う。「疑わしきは被告人の利益に」は裁判の大原則である。
 新聞紙上で出来る事は限られている。しかしだからと言って、現状のような報道のやり方で、最高裁の上告棄却について云々する事は危険だと思う。十分に不足している材料だけで、極めて重要な事を論議するのは本当に危険である。
 そうした事態で、これは東京新聞だが、作家・佐木隆三氏、ノンフィクション作家・吉岡忍氏、犯罪学専門の中央大学教授・藤本哲也氏の三人の意見を示した所で説得力は無い。この三氏の意見の見出しは次の通り。
・佐木氏
 状況証拠で判断は妥当
・吉岡氏
 動機分からず後味悪い
・藤本氏
 直接の物的証拠が必要

 一応、公平に意見を聴取している感があるが、詳細を知らないでこうした意見を読んでも役には立たない。我々が以前は詳細を知っていたとしても、いつまでその記憶がきちんと保たれていると言うのか。残っているのは当時受けた印象だけではないのか。
 ではどうやれとお前は言うのか、と言われるだろう。私なら最高裁の判決のみを報道する。その評価は改めてきちんと場所を用意してする。それしかやり方は思い付かない。

房総の山が東京のビルになる。そして高島屋は残った

2009年04月21日 | Weblog
 房総半島は関東北部から流れて来た川砂が堆積したきめ細かい粒で、良質のコンクリート骨材になるのだと言う。それがあだとなり、高度成長期時代、膨大な山砂が首都圏の開発に使われた。千葉県富津市では高さ200メートルの山が10年間で消えてしまった。そして近年は羽田航空の拡張工事で再びそれが繰り返されていると言う。
 羽田空港は別として、ここに現代の日本の浅ましい姿がありありと見える。美しい自然を破壊し、墓石(「はかいし、はかいし」の駄洒落ではありません。念のため)のような街を作り上げる愚かしさ。
 東京が金儲けの出来るメッカになっているから、カネに餓えた亡者どもが集まり、金儲けの算段をする。しかし現在は都心のオフィスビルは空き室率が更に高くなっていると言う。特に外資系企業の落ち込みが大きいそうだ。まさに金儲けのためだけに東京に進出して来たのである。ただそのためだけに、自然が壊され、街もまた無秩序になって行く。数日前の新聞にはウィーンで旧市街を環状に走る路面電車の運行が始まったとの小さなニュースが載った。そんな事、今の東京ではとても考えられない。とにかく、効率優先なのである。
 交通事故撲滅の標語で「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」だったと思うが、そうしたキャンペーンが行われたのはそんなに昔ではない。それなのに、効率の良さだけを考えている。
 そうした中で、東京の日本橋高島屋が東京都の重要文化財に指定されたニュースには希望が見える。重文指定で店側は不便な事もある。店にとって売上に影響する場合があるだろう。それでも高島屋は応諾した。本当にいい話である。
 8階建てだから、守銭奴に言わせれば、勿体ない事限り無し。すぐ目の前とも言える東京駅の西側では、重文の価値が十分あると言われている東京中央郵便局の建物が取り壊されて超高層ビルになる計画が進められていた。それに待ったが掛かっている事も影響しているのかも知れないが、何も東京を超高層だらけにする必要は無いのである。
 オフィスビルは空いているし、人気の高いのはごく一部地域に限られる。これまた金儲けの効率が良いからである。根っからの東京人を自負している私は、たとえ育った所が東京の「田舎」であっても、東京に強い愛着を持っている。超高層を美しいと感じるのは美感の違いだからしようが無いが、ヨーロッパの古都の落ち着いた美しさを写真で見るたびにため息が出てしまう。落ち着いた風情の佃島だって、超高層の乱立で見る影も無くなった。
 それが東京だよ、と言うのかも知れない。無秩序でアンバランスな街。それが東京だよと言われて、私は黙ってはいられない。高層マンションが建つのは、住宅が不足しているからだけではないだろう。土地を徹底的に利用して儲けたいのが大きな理由であろう。ペットも飼えないそんな建物ばかり増やして何になるか。
 旧丸ビルに勤務していた友人がその建物の老朽化に困っていたのは確かである。だが、それは建物の耐用年数を低く見積もって建てて来た結果である。現在のマンションの耐用年数はイギリスでは100年以上らしいのに、日本ではわずか40年だと言う。そんな短期的な建築思想で東京を、日本を駄目にされるのは許せない。造って壊してまた造って、それで儲けようなどとは浅はか過ぎる。