夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

東京新聞が、それも校閲がそんな考えじゃ困るんだけど

2009年01月23日 | Weblog
 「全然大丈夫」とか「全然オーケー」などの会話がテレビでも街中でもよく聞かれるが、個人的には違和感がある、と東京新聞の校閲部の人が書いている。
 私は会話としてなら、それこそ「全然オーケー」である。わざと決まりから外れた言い方をしているのだと思っている。この場合は「全然」と言う否定を伴う言い方をわざと肯定的に使っているから、「全然」が強く、効果を挙げている。もちろん、それはその場の雰囲気に合った言い方になっているはずだ。いくら会話だからと言ったって、社会的な立場のある人の交わす会話ではなかろう。それにそんな言葉で効果を狙うのは、あまりにも低級な行為である。
 関西地区で、紙面や放送で、こうした言い方を使っているかとアンケートを採ったところ、回答した16社中、2社が過去も現在も使っている、1社が過去は使っていなかったが、今は使っていると答えたそうだ。
 東京新聞は使わないが、やがて市民権を得るのでしょうか? と記事を結んでいる。

 過去も現在も使っている、過去は使っていなかったが今は使っている、と答えた3社のような行き方が、多分言葉を変化させて行く要因になるのだろう。記事中にもあるが、昔は「とても」は否定を伴う言い方だった。それが現在では肯定に使われて、全くおかしくは感じられない。それと同じと見ているように思われる。
 否定だった「とても」が肯定に使われるようになった経緯は知らない。これは「とてもかくても」が本来の言い方だったと辞書にはある。「どのようにしてもこのようにしても」が原意だった。従って、否定の言い方が続くことが予定されている言い方になる。
 「とてもかくても」の形が確保されていれば、「とてもかくても大丈夫」の言い方は多分、生まれなかったのではないか。日本人の正常な言語感覚からはそうとしか思えない。それが「とてもかくても」ではなく「とても」に省略された時から、その意味が失われて行った。そうでしょう。中途半端な言い方なんだから、元の意味をその言い方に求めるのは無理だ。
 「とても」は「とてもかくても」とは全然別の言葉と考えるべきではないのか。どちらかと言えば意味不明の言葉で、しかし「とても素晴らしい」などと使われているから、「非常に」と同じ意味だと考えるのは自然である。

 しかし「全然」は違うのだ。下に否定の言い方を伴う「全然」と全く同じなのだから、肯定に使える道理が無い。岩波国語辞典は「全然平気だ」は「全然気にしない」「全然構わない」との混交か、と説明している。否定と肯定の言い方の意味が同じなので、肯定でも使えると思われたのだろうか、と言っているのである。
 「全然平気だ」には一理あるが、それを認めないのが我々の日本語としての良識なのである。「混交」つまりは勘違いによる同一視なのだから。
 「全然」の否定の気持をそれこそ否定されたら、許し難い。それは我々の大切な日本語を破壊する事に繋がる。言葉だけではない。我々の感情や感覚をも破壊している。断じて許してはいけないのである。あくまでも「俗な言い方」として許しているだけである。
 上記の「今も使っている」「今は使っている」などと馬鹿な事を言っている新聞、放送を許してはならないのである。

 水は低きに流れる、と言う。何事も羽目を外せば切りが無くなる。知らないで使っている場合も、知っていてわざと変な使い方をしている場合も、せっかく先人が努力を重ねて磨き上げて来た言葉を、傷付け汚くしているだけである。そんな事を許して良いものか。使っているあなた自身を汚くし、価値を貶めているのと全く同じなのである。
 自由な世の中なのだから、本人がそれで構わないと言うのなら、いいでしょう。その代わり、私達はあなたを相手にはしませんよ、と明確に言うべきである。
 東京新聞は「全然大丈夫」がやがて市民権を得るのでしょうか? などと無責任に自信無さげに言うべきではない。「全然大丈夫」は絶対に市民権を得てはいけないのだ、と強く主張すべきなのである。それが言葉を大切にする新聞人の正常な感覚だと私は思う。