夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

変な言葉を定着させるな

2009年07月31日 | 言葉
 青森県でなまこのストラップが人気を呼んでいると言う。東京新聞の記事だが、「ブサかわいい」と喜ばれているそうだ。この言葉に「キモかわいい」と同格の地位を与えているらしい。
 「ブサかわいい」は「不細工でかわいい」だから分からなくはない。「不細工」には「格好が悪い。器量が悪い」の意味しか無い。だが「キモかわいい」つまり「キモイ」の「気持」には「気持悪い」だけではなく「気持良い」があるのは誰でも知っている。その片方だけを取って「きもい」なる言葉を作るのはあまりにも身勝手過ぎる。
 若者がそう言って喜んでいる分には問題はない。だが、新聞がそうした表現を認めるとなると大きな問題である。そうか、今やマスコミは「社会の木鐸」などではなく、「社会と言う名の金魚のしっぽ」に過ぎない。ついでに「木鐸」とは「指導者」の意味である。なぜ「木鐸」かと言うと、昔、中国で法令などを人民に触れて歩く時に鳴らした大きな鈴の舌が木で作られていたから、だそうだ。これはどんな国語辞典にもあるはずだ。

 自分達の知って使っている言葉をもっと大事にしましょうよ。きちんと役目を果たさせましょうよ。そうした事をろくにしないから、既存の言葉では言い足りないとばかりに新しい奇妙な言葉を作る。それは目新しいから目立つし、すぐに跳び付く軽薄な人間にはもてはやされる。
 大体、日本人は言葉を磨く事を知らない。簡単に外来の言葉を利用して済ませてしまう。その代表格が字音語である。現在の日本語のほとんどが字音語で占められている。それはもう仕方の無い事だが、単に漢字の発音を使っているだけだから、文字を離れたら、途端に意味が分からなくなる。
 「とっさ」とか「がっこう」とか、ほかに同じ発音の言葉が無かったり、ほとんど使われなかったりすれば、発音だけで十分に用が足りる。そうした言葉と文字を離れては存在出来ない言葉とは明確に違う。

 例えば、テレビである医師が「熱中症では死んでしまうと言う後遺症がある」などと、とんでもない事を言っていた。これは稀に見る例だろうが、病気とか怪我が治っても影響が残るからこそ「後遺症」なのである。それはどなたもご存じのはず。死者に何の後遺症があるのか。因みに「後遺症が残る」は重言になる。
 比喩的に「鉄道ストの後遺症」などと使われるから、「後遺症」が単に「悪影響」などの意味で捉えられてしまう事にもなる。「遺=のこる」の意味を分からなくさせてしまうような漢字改訂が行われた結果である。

 字音語が重宝に使われるのは、重々しく響くからだ。易しい言葉では誰もが有り難がらない。自分の病気について別の医師の意見を聞く事を「セカンド・オピニオン」と言う。日本語なら「第二の意見」である。
 だが、「第二の意見」では誰も有り難がらない。「セカンド・オピニオン」と呼ぶから、威厳があるのだ。従って、医師達は絶対に「第二の意見」などを支持しないだろう。そして残念な事に患者も同じである。「意見」を「見解」などに変えて、「第二の」を「二次」などに変えて、「二次見解」とかにしなければ、いやいや、それでも駄目だろう、「見解」では弱い。「二次診断」などではかろうじて受かるかも知れない。
 いずれにしても、それらしい体裁を作らなければ、納得はしてもらえない。
 逆に、どのような意見であっても「セカンド・オピニオン」だから承服するのであって、「第二の意見」なら、「納得行かないから、第三の意見を聞こうか」と言う事にもなるだろう。

 どのような言葉であっても、少しでも意味を明確にしよう、分かり易くしよう、と言うのが、「社会の木鐸」たる新聞・テレビの使命である。一般人にはなかなか出来にくいからこそ、新聞・テレビが先に立つ必要があるのだ。彼等が率先してすれば、庶民は渋々でも付いて行くだろう。それなのに、先に立って軽佻浮薄な言葉に跳び付いている。情けない。
 まあね、日本にはその昔、国語をフランス語にしよう、などと真面目に言っていた文学者がいらっしゃる訳だから、本質的に駄目なのかもね。

 これは私の思い違いかも知れないが、以前は「マスコミ」と言っていたのを最近は「マスメディア」と言うようになったと思う。「マスコミ」はもちろん「マスコミュニケーション」で、「マス=大衆」「コミュニケーション=伝達」だから「大衆伝達」になる。ただ、この言葉には「大衆伝達(方式)」の意味と「大衆伝達(媒体)」の意味の両方がある。それが「マスメディア」であれば、「メディア=媒体」だから、明確に「大衆伝達媒体」の意味になる。
 私はずっと「マスコミ=大衆伝達媒体」だと思っていた。なぜなら、「コミュニケーション=通信・伝達」は抽象的な言い方であり、日本人はカタカナ語の「マスコミ」として、具体的な「媒体」の方を選んだのだと思う。以前は新聞やテレビ・ラジオを「マスコミ」と言っていたと思う。もし、私のこの感覚が正しいなら、「マスメディア」は正しい言葉の使い方の方に舵を切ったのだと思う。ある辞書には「マスコミ」を「マスメディア」の意味に用いるのは俗用、と書かれている。それに「コミュニケーション」は「コミニュケーション」と間違え易い。
 こうした事が出来るのだから、マスメディアはもっと日本語を磨く事に専念すべきだと思う。

政権政策とマニフェストは違うのか。鳩山代表の資質に疑問

2009年07月30日 | 言葉
 たまたまつけたテレビで話題にしていたのだが、民主党の鳩山代表がどうも政権公約と違う事を言ったらしい。そこで批判が集中した。その言い訳として「あれは政権政策集でありまして、マニフェストではありません」と言ったらしい。事柄の詳細は知らない。知らないが、知らなくても言える事がある。
 「マニフェスト」などとつまらぬ分かりにくい英語を使うから問題が起きるのだ、と。
 これはカタカナ語とも言えない。なぜなら、きちんと日本語があるからだ。俗にいうカタカナ語とは、「テレビ」などのすっかり日本語として定着した言葉ではない。日本語に訳しにくい言葉を言う。例えば「イデオロギー」のような言葉である。簡単に口にしたりするが、ではその正確な意味は、と聞かれたら、簡単には答えられない。
 ある国語辞典は次のように説明している。
・イデオロギー=人間の行動を決定する、根本的な物の考え方の体系。狭義では、それぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指す。
 もう一つ引く。
・イデオロギー=歴史的・社会的立場に基づいて形成される、基本的なものの考え方。観念形態。一般に、政治的・社会的なものの考え方。思想の傾向。

 二つ目の辞書は簡単に「思想の傾向」と言っているが、「イデオロギー」をそのような意味で使っている人は多分居ない。「思想の傾向」などでは済まないからこそ、「イデオロギー」と言っているのである。
 結局、「それぞれの立場によって異なる基本的な考え方」である。それなら「あなたの基本的な考え方はどうなんですか」と聞けば良いし、「私の基本的な考え方はこうなんです」と言えば済む。何も「イデオロギー」などと分かりにくい言葉を使わなくても良い。
 つまり、誰もが「固有の基本的な考え方」との解釈を通り過ぎて、何かふわふわした意味で捉えている。そんな事で大事な事が議論出来るのか。

 何で日本人はこんなにいい加減な考え方で物を考えるのか。言葉の意味がいい加減でどうやって明確な事が言えるのか。「マニフェスト」がその最たる物なのだ。
 我々が使っている「マニフェスト」の意味は「政権公約」である。しかしそのようにはっきりとは言わない。だからふわふわと捕まえどころが無い。政党の代表が明確に発言するなら、それは単なる政策ではない。
 先に挙げた国語辞典の「マニフェスト」の意味を挙げる。
・マニフェスト=宣言。宣言書。
・マニフェスト=宣言。宣言書。
 まさにそっくり同じである。持っている4冊の小型辞書ではこの2冊にしか載っていない。たとえ最近になってカタカナ語として認められるようになったとしても、その意味は単なる「宣言」なのである。だから「マニフェスト(政権公約)」なる説明無しに単に「マニフェスト」と言っている限り、その意味は曖昧なままに終わる。
 多分、言っている人間も曖昧なままなのだろう。だから「政権公約ではなく、政権政策だ」などと阿呆臭い事を言うのである。次の政権を目指している政党が掲げる「政権政策」が「政権公約」その物である事は常識ではないのか。それとも、そんなに日本語とは微妙な性格なのか。もしもそうだと言うのなら、そんな言葉遣いの微妙な政党に国政を任せる訳には行かない。
 事は鳩山代表の資質の問題では済まない。彼の言い訳が通らないのは先の「故人の個人献金問題」で明らかになっている。問題は日本人の考え方にある。物事を明確にせずに無責任に話す。基本になっている言葉が曖昧なんだから、きちんとした事が言えないし、考えられないのは当然なのだ。

国土の安全化を図れないか

2009年07月29日 | 社会問題
 ここの所の各地の雨による被害はまことに悲惨な情況になっている。災害のたびに思う事がある。もしも縄文時代に日本列島がプレートの上に載っていて、地震の巣窟であると分かっていたら、日本列島に漂着した人々はすぐに逃げ出しただろう。気候も結構温暖で、自然にも恵まれているのでうっかりと定住してしまった。それでも大地震は滅多には襲わないから、何とかやって来られた。人口もまだまだ少なかったから安全な場所に住む事が出来ていた。
 それがそうではなくなった。人口が増えて、人々は今までは住まずに済んでいたような場所にも住まなくてはいけなくなった。森林地帯が国土の7割を占めている島国で、ほかにどこに行きようがあると言うのか。

 でもそれならそれで覚悟を決めて、何とか住み易く努力するのが人間だ。野生の動物達を追い詰めているくらいだから、過酷な自然を開発する事は出来ている。野生の動物とも共存しながら、人間の安全に住める場所を切り開く事は出来るはずだ。
 変な話だが、自然は飼い犬とよく似ている。愛情を込めて面倒を見てやれば素直に言う事を聞く。しかし人間が勝手をすると、途端に牙をむく。我が家の愛犬は、自分が納得しなければ、とことん反抗する。納得しないのには何か訳がある。今の所、飼い主の私の努力が足りないので、うまく飼いならせていない。
 自然も同じである。勝手に河川の改修をしたり、海を埋め立てたりしているから、自然からしっぺ返しを受ける。森林を変にいじくるから地下に逃げられない水が暴れ出す。
 関東地方ではその昔、暴れ川だった利根川を江戸湾から太平洋へ導く大工事をしたと言う。東京湾に流れ込んでいた古い川は「古利根川」として残っている。東京では大正時代には既に荒川の下流を隅田川とは別に「放水路」として東京湾に流す工事が始まっている。現在のような人口密集地ではなかったから、大規模な土木工事が出来た。
 そうした事を災害の起こりそうな地域で実施する事は出来ないのか。

 地方では道路の建設が住民の生活の向上のために必要だと言う。そのために多額の費用を掛けて道路を造る。確かに交通は便利に越した事は無い。しかし多少不便であっても、安全に暮らせるならその方がずっといい。交通が不便なら不便なように暮らしは成り立って行くのではないのか。
 世間一般と同じような暮らしが必ずしも良い訳ではないだろう。私など、暮らして行けるなら、あまり贅沢は望まない。自由にあちこちに行けなくても構わない。もともとが狭い島国ではないか。私は外国生まれのくせに、成長してからは外国に行った事が無い。それでもまあ、いいか、と思っている。
 安全な国土造りを考えようではないか。島と島を結ぶ道路建設ばかりに夢中にならずに、島には島の良さがあると得心していればそれで良いではないか。今の日本には便利さよりも何よりも安全性が求められていると思う。
 豪雨などのたびごとに尊い人命が失われるのは、自然の偉大さではなく、自然を侮った結果ではないのか。飼いならせる自然をそのままに放っていたりはしていないだろうか。

 防府市の高齢者の施設に土石流が流れ込んで何人かが亡くなった。国の担当機関は危険を察知して自治体に連絡をした。ところが防府市は担当の職員がその重大性が分からず、市民への連絡が遅れたと言うのである。呆れて物も言えない。そんな事の分からない人間が市役所の職員、それも管理職を務めているのである。いやいや、務まってなどいない。これは単に「勤めている」としか言えない。と言うのは、「勤め人」の中には仕事の出来ない人もいるからだ。
 でも念のため、二つの言葉を調べておく。
・務める=自分に与えられた任務・役割としてその事を責任を以て行う。
・勤める=団体の職務や引き受けた役割を怠りなく行う。
 これはあるユニークさを売り物にしている辞書の説明。「勤める」には「務める」にある「責任を以て」が無い。代わりにあるのが「怠りなく」である。「怠る=なまける」だから、なまけさえしなければ、責任はまるで問題にはならない。
 別の辞書を見る。
・務める=役目を受け持つ。
・勤める=仕事につく。
 これだけ見ている限りではあまり明確な違いは無さそうだが、「役目=仕事」だから、「受け持つ」と「つく」の違いがある。その辞書の「受け持つ」の意味は「自分の責任範囲として、引き受けて扱う」である。やはり「務める」には「責任」がある。
 防府市の先の担当職員は文字通り「勤め人」なのである。そしてそれは実は氷山の一角に過ぎない。

暴走族が「ダサイ族」に

2009年07月28日 | 言葉
 沖縄県の宜野湾市警察が全国的にも有名な暴走族の取り締まりで、名前を「ダサイ族」に決めたと言う。これはフジテレビの朝のニュースワイドで知った。「暴走」などと言うからかっこいい、なんて思うのだから、それこそ「ダサイ」名前にすればいいじゃないか、との発想である。市民の応募の中から選ばれた。
 どれほどの効果があるのかはよく分からないが、地元では確実に苦情が減っていると言う。
 司会者の夏休みで臨時司会者になった葛西アナウンサーが、言葉でその実態が分からなくなっている事がある、と言ったのは同感だ。彼が挙げた一つに「援助交際」があった。これは「未成年売春」と言えば良い、と言う。確かに「援助交際」にはあまり悪い意味は感じられない。ただ、これを「未成年売春」と言って良いか。成年だって援助交際をしている。そっちは成年だから許されるのか。
 「未成年の援助交際」を「未成年売春」と呼べば良いと言うだけの事ではないのか。つまり、「援助交際=売春」である。
 幸いに2003年に出来た国語辞典にはまだ載っていないが、「買春」ならその辞書にはある。「売春」と紛らわしいので「かいしゅん」と読む。売春にしても買春にしてもニュースになるのはいずれも相手が未成年の場合である。と言う事は、成人の間では、売春も買春も普通に行われていて、何もニュースにする事はないのである。「未成年売春」として「援助交際」の言葉が使われ、同じく「買春」の言葉が使われていると、本当に「売春・買春」は成人間なら問題ではない、と言っている事にならないだろうか。

 これらとよく似ているのが25日にも書いたが「マニフェスト」なる言葉である。「政権公約」ではないから、かっこいい、宣伝文句のように思えてしまう。政党は明らかに「政権公約」の意味をぼかすために使っていると私は思っている。だからマスコミは「マニフェスト」と言ってはならない、と信じている。
 先日は「マニフェスト」一点張りだった東京新聞が、今日は第一面のトップ記事でまず最初に「マニフェスト(政権公約)」と書いていた。やっと気が付いたか、と言いたい所だが、そうは行かない。そのあとずっと出て来る「マニフェスト」にどうしたって、考えが甘くなってしまう。ずっと「マニフェスト=政権公約」と読み替えて記事を読んでいる訳が無い。
 新聞は文字を大きくした時に記事の文体を変える工夫をした。当時定期購読紙は朝日だったが、朝日はそれを明確に述べた。少ない文字数で同じ事を表現するには文章が決め手になる。だから「マニフェスト」の6文字よりも「政権公約」の4文字の方が、文字数からも意味からも絶対的に優れているのである。
 宜野湾警察署が「暴走族」を「ダサイ族」に言い換えたのは言葉の持つ力を信じているからだ。ところが、大の新聞が言葉の力を信じていない。何たる事か。

 東京新聞は51回に渡って連載した「東京歌物語」を本にした。親しまれ愛されて来た歌謡曲を様々な面から掘り下げていて、私も好きな連載だった。書いたのは東京新聞編集局だ。だから「同編集局が本にした」と言うのが正しいと思った。ところが、これが本の広告になると「著書としてまとめた」になる。
 この「著書」に私は違和感がある。「著書・著作・著述」などの言葉にはある個人を感じてしまうからだ。もちろん、著作権などでは団体に所属している場合も多い。でも「著作権」は「原則として著作者の死後50年間存続する」などと説明されている。この場合の「著作者」は明らかに個人を想定している。
 つまり、「著者・著作・著書」などの言葉には個人のにおいがつきまとっている。まあ、「著作」では個人のにおいは薄くはなるが、特に「著者」には「人」の気持が十分にあると思う。その「著者」が「著作」したのが「著書」である。だから新聞の編集局が本にまとめた事を「著書としてまとめた」とは言わないのではないか、と思うのである。

 つまらない事にこだわっているなあ、と思うかも知れないが、新聞の使っている言葉だからこそこだわるのである。言葉を突き詰めて考えないから安易に「マニフェスト」などが乱発されているのだと思うのである。


新聞は駄洒落よりも真実に真剣になれ

2009年07月27日 | 言葉
 朝のニュースワイドショーで、面白い新聞の見出しを紹介した。東京・銀座のからすに異変が起きていると言う。
 ミツバチ 苦手カァ
 これに対して、漫画家でコメンテーターの石坂啓さんが苦情を述べた。犬なら「なんとかワン」、猫なら「なんとかニャー」などと言うのは動物に対して失礼だと。本当に、あまりにもお手軽でお決まりのジョーク、いや「冗句」としか言えない。「冗」は「冗談」の「冗」ではなく、「冗漫」の「冗」である。
 司会者はそれが記者の見せ所でもある、と言うような事を言った。正確な引用ではないが、私はああ、何と情けない事を、と暗澹たる思いがした。
 確かに新聞は何とかジョークを飛ばそうと真剣になっているような気がする。一瞬、あはは、と笑ってしまうのだが、すぐに馬鹿馬鹿しい、と思ってしまう。これって、人気番組「笑点」の木久扇師匠の駄洒落とどっこいどっこいである。観客からは先に言われて、きのうなどは、司会者がそんなのを褒めるな、と客に文句を言ったりもしていた。

 テレビは常にそうだが、何とか面白おかしく事実を報道しようとする。それと同じ事を新聞もしている。民放テレビは無料だからそれでも良いが、新聞は有料である。我々は真剣に新聞を読もうとしているのに、それを冗談で飾る。何か勘違いをしちゃあいませんか?
 冗談に頭を捻るひまがあるなら、もっと真剣に正しく分かり易い記事を書く事に徹するべきだと思う。私はしつこい性格もあるが、しょっちゅう、分かりにくく曖昧な記事に憤慨をしている。

 石坂啓さんだが、私は彼女の出過ぎない、しかも気取らない意見が好きだ。でもニュースワイドショーその物が好きではないから、あまり見る機会が無い。何で見たのかと言うと、7時53分くらいからの星座占いが好きで見ている。その続きで石坂さんとほんのわずかお会い出来ると言う訳だ。ただ、この占いが日によって時刻が微妙に違う。そんな事が気になるのは、実はその直前は別の局の「きょうのわんこ」を見ているからだ。わずか1分ほどの番組だが、日替わりで毎日楽しい犬が登場する。
 終わると大急ぎで星座占いに変えるのだが、私の生まれ月が終わってしまっている時がしばしばある。こんな物くらい、きちんと時刻を決めて放送出来ないのか、と思う。だらだらと同じ番組を見ている限りは問題が無い。
 そして最後に「わんこ」の局で同じような星座占いを見る。同じような星座占いなのにほとんどの場合、両者は極端に違う。で、星座占いとはこんなもんなんだ、と分かるのだが、馬鹿な私は結構真剣になって見てしまう。

 ニュースワイドショーを好きではないのは、「ショー」だからである。「わんこ」の局は若い女性が対象になっているらしいので問題外だし、それにその司会者の話し方が非常に分かりにくい。抑揚があり過ぎて、分かるのは半分ほどしか無い。どうせたいした事は言っていないのだろうが、それでも聞き取れない話に耳を傾ける気力は私は持っていない。
 新聞記事の紹介をテレビですると言うのも、あまりにも芸が無さ過ぎるんじゃないだろうか。他人のネタの横取りにしか思えない。まあ、新聞を見る時間の無い人へのサービスなのかも知れないが、テレビを見る時間があるなら新聞だって読めるはずだ。それにそんなわずかな時間で得た情報にどれほどの意味があるのだろうか。
 あれあれ、新聞についての話だったはずなのに、いつの間にかテレビになっている。そう、どっちもどっちなのである。新聞とテレビはほとんどの場合に同じ資本系列なのだから当たり前と言えば当たり前か。

テレビでの花火見物がつまらない訳

2009年07月26日 | 文化
 きのう、やっぱり隅田川の花火をテレビで見た。そしてじきに消してしまった。やっぱり面白くない。私も何度か近くまで見に行った。特等席ではない。近所の人々と同じように道端で見たのである。家の中からよく見える人達は親戚や知人達を招待して接待しながらの見物だ。
 素晴らしい花火が上がれば、当然に歓声も上げれば、拍手もする。それが決してうるさくは感じられない。自分もその一人になっている。それは明確に共感を呼ぶ。ところが、テレビではそうではない。歓声を上げているのはゲスト出演達ばかりなのである。
 当然である。テレビの画面は最近は40インチ以上も増えているだろうが、32インチぐらいが多いのではないのか。私のも29のブラウン管だから、液晶にすれば32ぐらいには相当する。それでも決して迫力があるとは言えない。現場で見ているのとでは、迫力と言い、美しさと言い、格段に劣る。
 そこに映し出される花火を見て、歓声は上がらない。拍手も出来ない。ああ、きれいだな、と思う程度だ。それなのに、画面の中のゲスト達はそれこそ大はしゃぎなのである。それが面白くないのは当然である。

 実際に見ている場合には花火は巨大だし、迫力も満点。それに比べて観衆の歓声や拍手は小さい。すぐ耳元で起きているのに、うるさくは感じない。それなのに、テレビではそれが逆転する。花火は小さいし迫力も無いのに、歓声と拍手だけが盛大なのである。馬鹿馬鹿しくて見ちゃいられないのは当たり前である。
 テレビ局は分かっている。自分達が伝えている映像がどれほどの物かを。だから伝えられない美しさ、迫力をゲストの歓声と拍手とコメントで補おうと思うのである。それが裏目に出ている事を認識出来ない。

 現実に行われている花火を実際通りに素晴らしく伝える事は出来ない相談である。どんなに努力したって、実物よりずっとみすぼらしくなる。そんな当たり前の事がテレビ局は理解出来ない。せめて、忠実にその姿を伝えるしか仕方がないではないか。その忠実も、それは言葉だけの事であって、ほんの一部しか伝えられない。それが「伝える」と言う事の宿命である。実際に体験する事と天地雲泥の差がある。
 だから少しでも「真実」に近づこうと思えば、淡々と映像と音を流すしか方法は無いのである。下手な演出は百害あって一利無しなのだ。周囲の感動を伝えたってどうにもならない。我々は他人がどのように感動しているかを知りたいのではない。ひとはひと。
 現場に行けないからこそ、少しでもその現場を真実に近い形で見聞きしたいのである。自分とは全く感性の異なる他人の感動を通して感動したいと思う人など居やしない。

 同じ事を食べる番組でいつも体験している。おいしそうな料理をほんのわずか見せただけで、あとは出演者が食べて感想を述べるだけなのだ。味に対する感覚なんてそれこそ千差万別である。花火に対する感覚よりも遥かに微妙な所がある。それをあまり味に敏感とも思えないゲストが喜んで食べて感激しているのを見て、ああ、本当に旨いんだな、と思えるだろうか。
 これは差別ではないが、芸能人達は忙しくて、お金があってもあまり旨い物を食べる機会が無いと聞いている。普段、ロケ弁とか楽屋弁当しか食べていない人達なら、感激するのは当然だろう。だから感想も常にほとんど同じ。
 料理番組と言うのは本当は食べ慣れた人が評価して初めてその真価が分かるのだと思う。そこには味に対する感想だけではなく、見た目の美しさとか、料理の仕方や材料に対する深い洞察力がある。これまた差別で言うのではないが、ろくに正しい箸の持ち方も出来ない人が何を偉そうに、と思ってしまう。食べ方もとても汚い。きちんと正しく箸を持てる人が食べている姿は決して醜くはない。だが、駄目な箸の持ち方をする人は本当に醜い食べ方をするのである。
 それにこれは私だけの感じ方かも知れないが、物を食べている姿と言うのは決して美しくはない。人間の三大本能と言われる行為がある。食べるのはその一つに入っている。残りの二つ、一つは「眠る」だが、その姿は決して美しくはないし、あまり見たくもない。電車の中で居眠りしている姿など、本当にあほらしくなる。口をぼっかり開けて隣に寄りかかっている姿など、無惨である。
 さて、残る一つ。それはセックスだが、それは見せてはならぬ物とされている。見たがるのは美しいからではないだろう。欲情を刺激するから見たいだけの事。
 食べる姿はそれほどとは言わないが、私は決して美しいとも、いいなあ、とも思わない。いや、思えない。出来れば見たくない。大きな食べ物を一口にほおばり、口をもぐもぐなど、本当に嫌だ。そこには本能にすっかり身を委ねた表情しか見えない。演奏家が陶酔したような表情で楽器を奏でているのとはまるで違う世界である。なによりも、演奏ではそこに美しい音楽が流れている。だが、食べている姿には本能以外の何物も無い。
 せっかくの美しい料理なんだから、少しでも長く見ていたいではないか。箸を付けるのが惜しいくらいな料理はふんだんにある。味が分かるのか分からないのか、よく分からないような人のあまり美しいとは言えない食べる姿を見せられるよりも、黙っていても訴え掛けて来る力を持っている料理その物を見たい。
 素晴らしい料理はその姿で真相を伝える事が出来るのだ。もちろん、それには食べ慣れている視聴者が対象になる。と、ここで気が付いた。そうかテレビはあらゆる人を対象にしようと考えている。だから食べ慣れていない人にも何とか旨さを伝えたいと無駄な努力をしているのである。そして出演者が感激して食べている姿を見せて、それで目的が成就したのだと錯覚をしている。
 もちろん、私はこのような番組はほとんど見ないが、物事を伝えるとはどのような事なのかを考えてみたまでの話である。

1票の価値は車1台分

2009年07月25日 | 言葉
 23日の東京新聞の一面トップに面白い記事が載った。2面、3面とも連動する記事で、その大見出しがこのブログのタイトルにした「1票の価値=車1台買う気持ちで」である。
 その計算の根拠は、
国家予算=80兆円。その4年分=320兆円。それを有権者数1億人で割ると、320万円になる。つまり、車1台分になる。
 選挙で勝った政党の政策の重要ポイントは「税金の使い道」だからである。
 ただし、車の方がいいから、俺は投票は遠慮するよ、と言う訳には行かない。しかしそれだけの重みが1票にあるとは思いもしなかった。多分、政治家の方(これは「ほう」と読みます。念のため)もそれだけの重みを感じてなどいないだろう。ただ、権力を握って甘い汁を吸っている連中には分かっているはずだ。1票=車1台にはならないが。

 新聞は自民党の継続か民主党による変化か、としか見ていないから、両党の主な政策が表になって分かり易く掲げられている。そうした点では参考になるのだが、まあ、私としてはどちらにも大きな期待は寄せていないから、あまり参考にはならない。そして冒頭からある「マニフェスト」の言葉にがっくり来て、記事のその続きを読む気がなくなった。
 新聞もテレビも誰も彼もが「マニフェスト」の一点張り。「マニフェスト」って一体どんな意味なんだ? 4冊のいつも使っている小型国語辞典を引いたら、2冊にしか載っていない。そしてその意味は「宣言。宣言書」で、全く同じ。単にそれだけの意味しか無い。
 参考までに英語の辞書を引いたら、当然に想定する綴りでは形容詞「明らかな」とか、動詞「明らかにする」しか無い。1冊には最後に名詞として「飛行機の積荷目録、乗客名簿」としか無い。何だ何だこれは。
 そして次の次にようやく見付けた。それはmanifesto。発音はマニフェストウで、明らかに英語としても外来語である。tomato、トメイトウと同じだ。
 1冊の辞書では「宣言。声明。宣言書。声明文」である。
 もう1冊では「(政府、政党などの出す)声明(書)、宣言(書)」である。
 国語辞典とほぼ同じだ。

 私はずっと「政権公約」だとばかり思っていた。「公約」その物が「政府・政党など」がとの前提であれば、「政権」は無くても、単に「公約」でも良い。辞書の説明は、
・公約=政府・政党など、公の立場にある者が選挙などの際に世間一般の人に対して、約束すること。また、その約束。[実行を伴わないことも多い]
 上記の説明はユニークさを看板にしている『明解国語辞典』の説明。普通はこの説明の前半だけだ。
 英語の意味にも「公の」は無いが、政府や政党が出すのだから「公の約束」である事は間違いない。

 それなのに、どの辞書も日本語、英語もどちらにも明確な「公の約束」の意味が存在しない。
 そうなのだ。「マニフェスト」には「公の約束」などの意味は存在しないのである。単に「党の方針」に過ぎない。別に一般の人々に対して「公約」した訳ではないから、実現しなくても、実行しなくても一向に構わないのである。
 その実態が分かっているからこそ、マスコミは揃いも揃って「マニフェスト」なる言葉を使うのである。と私は思っている。
 ただ、同じ同日の東京新聞の社説には、政権公約(マニフェスト)、とある。その見出しは「マニフェスト最優先だ」である。何を今更。そんな事、当ったり前じゃないか。政権公約無しに、どうやって投票が出来ると言うのか。それに「政権公約(マニフェスト)」なる言葉は1面トップの記事にこそ有るべきなのである。

 私は大の外国語好きである。高校の時にイタリア語が好きになって、それは大好きな女優がイタリア人だったからでもあるのだが、独学で学んだ。通っていた高校では第二外国語が選択出来て、そこにはフランス語、ドイツ語、中国語しか無かったから、フランス語を取った。外から招かれた講師はシャンソンを聴かせてくれたりして、生きたフランス語が学べた。ラジオの講座も役に立った。だからイタリア語よりはフランス語の方がよく分かる。大学ではドイツ語を取った。と言ってもいずれもほんの初歩の初歩に過ぎないが。
 それでも、外来語は分からない。つまりカタカナ語は分からない。つい最近まで、トラウマが分からなかった。ハイブリッドも分からなかった。そうした人間は絶対に多数派だと思う。たとえ分かっているにしても、ニュアンスまでは分からない。
 そこへ持って来て、マニフェストである。明確な理解が無い事をもっけの幸いと、マニフェストの一点張りである。因みに「一点張り」とは、ばくち用語で一カ所にだけ賭ける事を言う。まさにマニフェストは「ばくち」なのである。
 騙されてはいけない。選挙民には「政権公約」のような顔をして、その実、単なる「口約」に終わる公算が強い。あるいは簡単にはがせる「膏薬」か。因みに、ユニークな国語辞典では「口約」には「口で約束すること。またその約束」としか無い。こちらにも「実行を伴わないことも多い」の説明が要るのでは、と思う。本当はこちらの方こそ「実行を伴わない」のだが、「公約」にその説明を譲った所が、同書のユニークさの真骨頂なのかも知れない。
 我々は何度も何度も煮え湯を飲まされて来た。小泉の騙しだって、つい最近の事だ。だから今度こそ、「学習」の成果を発揮して見せるぞ。




政治家の「人」見極めよう

2009年07月24日 | 政治問題
 本ブログのタイトルは借り物である。
 18日のブログで、臓器移植法改正案の賛否を通じて民主党への不信感を述べた。拙速な論議で衆院も参院も通過させてしまった事に大いなる不満を述べた。
 この事に関して高村薫氏が東京新聞に書いている。上記タイトルはこの高村氏からの借用である。

 「人の生と死を操る臓器移植法改正案について、たった二日間、衆院厚生労働委員会で審議しただけでさっさと採決に付してしまうような政治家たちを、人として信任できるのか否か。」
 「そもそも臓器は個人の存在とは関係ない部品なのか。ほんとうに脳の活動だけが人間の生死を決めるのか。そんな初歩的な議論も十分には行われていない。」

 同氏は的確に問題点を突いている。上記に引用した文章と相まって、次のような論点が展開されている。
1 技術的に救える命を救うために、技術的に救えない脳死者からの臓器提供を認める法律である。
2 移植で救える命と、心臓死を待つだけの命が秤にかけられ、前者が優先される。
3 移植医療は、先端医療にとって可能な技術ではあっても、死にゆく個人とそれを看取る家族にとって、そんなに合理的に受け止められるものでもない。
4 いったん与えられた生存の可能性を患者から奪うことはできないゆえに、脳死者から臓器の提供を受ける道を法的に作っておくというのが、現行法の目的である。

 こうした前提の下に様々な論議が尽くされなければならないはずなのに、それをしようとはしない政治家達を同氏は断罪する。
 「脳死者本人の意思に関係なく、一般拡大しようという以上、政治家はもっと真剣に議論してしかるべきだろう。救える命だの、死生観だのと口にしながら、本会議場では私語に余念のなかった国会議員たちの姿を、私たちはよくよく記憶しておかなければならない。」

 口幅ったい言い方になるが、私が常々考えている事と全く同じような事である。政治家達の言った事、やった事をしっかりと覚えておかなくてはいけないのはもちろんである。どんなにきれい事を言っても、人一人の死を安易に考えるような人間に大切な一票を投じてはならないのである。
 自分が約束した事が実行出来ないような人間は二度と選んではならないのだ。実行出来なかったのは、政界に理解者が居なかったからだ、などとの言い訳は通用しない。そもそも、そのような情況の判断が出来ない事が政治家としての資格が無い事を証明している。理想を述べるのは結構。しかし口先だけなら誰だって言える。実際に確実に出来る事を約束しろよ、と言いたい。多分、そうなると、小さな事しか言えないから、それでは訴える力が無くて駄目なのだろう。
 そうだよ、あんたにはそれだけの力しか無いんだよ。でもそれで良いではないか。小さな事が積み重なって大きな働きとなる。小さな事を無視しての大きな事など絵に描いた餅なのだ。悲しいが、政治家達が寄ってたかって大言壮語しているから、我々のためになる事が実現しないのである。誰もが理想を掲げるのはもっともだが、実現しない理想ならまさに、羊頭狗肉である。
 我々庶民の生活は何よりも現実に足場を置いている。理想じゃ生きて行けない。だから、どんなに小さな事でもいい、確実に我々の生活が向上するような事を約束し、実行して欲しい。最初っから多くは望まない。望んでも得られないなら、何の意味も無い。でも、そうかと言って、定額給付金みたいのは駄目だ。支給するのに非常に無駄なカネが掛かっている。
 でも政治家は理想で生きて行く事が出来ている。多くの政治家が自分の生活はしっかりと保障されているから、生活とは掛け離れた理想を追求出来るのである。いやいや、理想を追求するようなポーズが取れるのである。

 繰り返しになるが、政治家の「人」を見極めよう。出来る事と出来ない事の区別をしっかりと付けよう。本当にやる気があるのかどうかを見定めよう。
 そうした事は、政治家達の過去をきちんと振り返れば出来る。そうなると、新人の出番が無い。いや、そうではない。多くの政治家達が振るいに掛けられ、落とされるから、その分が新人に回るはずである。誰もが駄目な候補者に入れなければ、少ない得票数でも新人が勝てる。それほど既存の政治家は信用がならない。新人は未知数だが、なに、民主党政権だって未知数なのだ。やらしてみなければ分からない。

「自民か民主か」は卒業しましょう

2009年07月23日 | 政治問題
 衆院総選挙を目の前にして、マスコミは自民が勝つか民主が勝つか、と大騒ぎをしている。街に出ては人々を捕まえて意見を聞き回っている。自民党は自民党で麻生降ろしでみっともないざまを展開している。私は麻生さんてあまり汚さを感じないのだが、鈍感だからだろうか。もっともっと汚い人々はたくさん居る。
 自民党にだって良識ある人は居る。逆に民主党にだって良識の無い人は居る。二百人とかの団体様になれば、絶対に一色で染められる訳が無い。人それぞれで結構。だが本質的に共通していなければならない事が一つある。それは思いやりのある人でなければ絶対に駄目だ、と言う事である。
 頭なんて多少悪くたっていい。思いやりがあれば何とかなる。反対にいくら頭が良くても思いやりが無ければ、自分の得する事ばかり考えてしまうはずだ。「みぞーゆう」と読んだからっていつまでも馬鹿にしてんじゃないよ。そう言うあんたは漢字を間違いなく読み書き出来るか? 出来っこない。これは断言出来る。

 政治は力だ、と言う。だから政党はしっかりとしたボスが居なければやって行けないと言う。民主党には幸いにして小沢が居る、と多くの人々が考えている。自民党は今の所、そのボスが見当たらないと考えている。
 そうだろうか。力あるボスが一人居ればそれで良い政治が出来るのか。力があると言うのは絶対に思いやりに満ちているからではない。思いやりは本当の所は、力にはなり得ない。政治の世界の力とは思いやりとはまるで逆の非情である。それがカネであり、権力であり、もっとも権力が即カネに結び付くのだし、カネが権力に結び付くのだが、要するに醜い欲望である。
 だから見てごらんなさい。実力者と言われる人はことごとく悪い人相をしている。人相と言っても美醜の事じゃない。欲得はどうしたって顔に現れてしまう。みなさん、何でその事を恥ずかしがらないでいられるのかと、私はいつもとても不思議に思っている。多分、だからいわゆる「偉い人」は無表情を装っているんでしょうね。お面をかぶっていれば、本当の表情は隠せる。ちらっとのぞく何気ない表情をとくとご覧あれ。ああ、いい笑顔だなあと感心する人も、思わずぞっとしてしまう人も居る。

 みんなマニフェストがどうのこうの、とおっしゃるが、そんなカタカナ語を使っているから余計に分からなくなる。きちんと日本語で「方針」とか「党是」とか言えばいいじゃないか。その「方針」にしたって、それはあくまでも一つの理想に過ぎないはずだ。それが簡単に実現出来る訳が無い。何しろ、理想の実現を邪魔しようと虎視眈々と狙っている役人どもが居る。政党が掲げる「方針」は国民の幸せのためが大義名分である。その国民の幸せと対極の立場に立っているのが諸々のお役人どもではないか。
 たとえ民主党が政権を取ったとしても、我々国民が幸せになる政治はそう簡単には出来っこない。だから自民党の政権だってそれは実現させようと思えば出来るのだ。要は、思いやりがどれほどあるか、である。いくら民主党が勝ったって、思いやりの無い人の方が多ければ、理想は実現出来ない。根本の所で間違っているからだ。私はその目安の一つとして、臓器移植法改正案への賛否を考えている。人一人の命の重さをどのように考えているかを目安にしている。

 政党なんかにこだわるから騙される。だから私は政党なんか要らない、と思っている。要らないと言うよりも邪魔だと思っている。もちろん、思いやりの有る無しでそれぞれに政党を作るのなら、政党は有っても良いと思うけど。

日食が見られなくてがっかりした。テレビ局にもがっかりした

2009年07月22日 | 文化
 東京では部分食だが、それでも期待をしていた。フィルムの露光していない真っ黒の部分を切り取って、他人の分も用意していたのに、全く出番が無かった。で、テレビを見た。日本では46年ぶりだと言うのに、民放各社の扱い方は最悪と言うしか無い。皆既食が始まっていると言うのに、CMである。そりゃあ、CMあっての民放だが、スポンサーだって少しくらい融通したっていいではないか。何度も言うが、そうした決定的瞬間にCMで割り込むスポンサーには嫌悪感しか持てない。そんな事も分からないのか。
 CMが時間で割り振られているとしても、こうした世紀のショーの場合には融通を利かして欲しい、とテレビ局に申し入れをしたって罰は当たるまい。テレビ局も馬鹿ならスポンサーも馬鹿だ。

 仕方が無いから、我が家では非常に映りの悪いNHKを見た。どうした訳かゴーストが本当に半端じゃないのである。何しろ、太陽が二つあるのだ。それでもきちんと報道をするからと見た。だが、やっぱりがっかりさせられた。
 局アナの感想など聞きたくも無い。ゲストの感想も同じ。それよりもしっかりと日食を報道して欲しい。ただ黙って日食だけを映していればそれでいいのだ。皆既食のダイアモンドリングやコロナ、プロミネンスなどはしっかりと見せて欲しいが、空が真っ暗になって、金星やオリオン座が見える光景も映してもらいたい。画面を二分すれば簡単に出来るではないか。金星はかろうじて見えたが、オリオン座などは単に話に出ただけではないか。それとも我が家の受信状態が悪過ぎて、見えなかったのか。

 どのテレビ局も同じだが、何とか面白くしたいと知恵を絞る。しかし決して面白くなどなっていない。大体、テレビは面白いもんじゃないんだよ。忠実にその場の光景を報道する事に意義があるんじゃないのか。その場に行けない人に代わりにその場を見せてくれる。その光景をどのように解釈しようが、それは見た人の勝手である。
 それを臆面も無く、自分の解釈を押し付けようとする。視聴者とほとんど同じ人間が何を出しゃばってしゃしゃり出て来る必要があるか。人間、ちょっとばかり特殊な立場に立つと、そうした基本的な事を忘れてしまうんですね。
 夕焼けのような光景が360度広がるのも、考えてみれば不思議な光景である。だが、上空が暗くて地平線が赤く染まっている風景は普通の夕焼けと変わる所が無い。単にそれが普通は夕日の沈む方向にしか無いのに、皆既日食ではあらゆる方向が夕焼け状態になると言うのが不思議ではある。だが、それだって、周りをぐるりと見渡さなければ分からない。その場に居る人には不思議とも言える光景だろうが、テレビで見る側にとっては、自分で見るほどの不思議さは無い。
 そんな事よりは、本当に皆既日食その物をしっかりと見たいのである。解説を加える事で、何か非常に素晴らしい事をしていると錯覚をしているのだろうが、そんな事は全く無いのである。自然その物が素晴らしいのである。自然の神秘さの前には言葉を失うのが正常な人間の感覚なのである。
 テレビ局はそうした人間の正常な感覚を失ってしまっている。公営だと称して、堂々と受信料を取る放送局がそうなのだから、あとは推して知るべし。テレビ東京が放映する隅田川の花火大会も同じである。只で良い桟敷に居られるゲスト出演者の感想などどうでもいいのである。そんな事よりも花火その物を見たいのである。
 本当なら花火などは会場に行けば良いのである。でもそれが出来ないからテレビで我慢をしているんじゃないか。そのせめてもの楽しみを何の遺恨があって邪魔するのか。いい思いをしているゲストの感想なんか聞きたくも無い。やっかんで言っているだけではない。幸運に有頂天になっている馬鹿なゲストがあほらしいだけなのである。