夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

古賀氏の退職で、巨大な不毛の存在が明らかになった

2011年09月30日 | 政治問題
 電力会社と大企業、官僚が癒着して利益を貪る巨大組織が、獅子身中の虫と見られた古賀氏が辞職に追い込まれた。周囲は時間の問題だと思っていた。本来なら、古賀氏の立場を守るべき政治家達、例えば与謝野氏や枝野氏、蓮舫氏などがそっぽを向いた。蓮舫氏などは、古賀氏の本さえ読んでいないとはっきりと言った。皆さん、口では色々とおっしゃっているが、実際にはあの程度なのだろう。

 電力会社は独占企業である。日本は世界一高い電気料金を支払わされていると聞いた。その料金は国民が払う。もちろん大企業も払うが、電気料金は原価として国民の支払う代価の中に含まれる。従って、電気料金はすべて国民が支払う結果となる。
 寡占に近い大企業が国民の幸せを願って、幸福をもたらす物ばかりを作っているのなら、話は別だが、結構、無駄でどうしようもない物も作って国民に売り付けている。そして我々国民は、それで幸せになれるのだと洗脳されているから、文句を言わない。
 何の事は無い。我々の払う電気料金はすべて電力会社に入る事になる。そしてそれが独占企業なのである。そうした図式を抑えるのが官僚の役目のはずだが、その官僚が甘い汁を吸いたいと黙認するだけではなく、奨励さえしている。

 今度の福島の原発事故で、そうした図式がすっかりあからさまになってしまった。国民は全員、それを知っている。にも拘らず、相変わらず糊塗しようと彼等は躍起になっている。それが古賀氏を退職に追い込むと言う典型的な形になって現れている。
 電力会社・大企業・官僚が癒着している。「癒着」とは「必要以上に何かの組織にべったり依存する」(新明解国語辞典)だが、漢語だから、感覚的に良く分かる、とは言い切れない。我々には、と言ってもすべての人々にではないだろうが、もっと直接に訴え掛けて来る言葉がある。「つるむ」である。「電力会社・大企業・官僚がつるんでいる」。「つるむ」とは「連れ立って行動する」の意味でも使われるが、元々は「動物が交尾する」の意味である。岩波国語辞典にはその意味しか載っていない。

 「電力会社・大企業・官僚の癒着」は「交尾」なのである。そんな事を堂々と天下にさらして良いものか。当人達は厚顔無恥だから、恥ずかしいとは思わない。恥ずかしさよりも金儲けの方が遥かに抵抗しがたい事なのである。だからその金儲けがいかに莫大なものかがはっきりと分かってしまうのである。

 動物の交尾がなぜ人間が連れ立って行動する、の意味になるのだろうか。先の明解国語辞典は、それは、雅語動詞「つるぶ」の転用、だと言う。しかし、岩波古語辞典には「つるぶ=交尾する。交説する。〈つるみ〉とも」としか無い。「つるみ」には「つるびに同じ」としか無い。
 新選古語辞典(小学館)は少し違う。
・つるむ=「つるぶ」とも。1・つれだつ。「あとからつるんで来申すわ」。2・交尾する。
・つるぶ=交尾する。「つるむ」とも。
 「つるむ」では「連れ立つ」の方が原初の意味になっている。これは「つるぶ=つるむ」ではない事を示している。元々は「つるぶ」だった。それは「交尾する」である。そして「連れ立つ」姿の実態が「つるぶ」にそっくりな、言い替えれば、みっともない連れ立ち方を「つるぶ」で表すようになった。でもそれではあんまりだ、と言い方を少し変えて「つるむ」の言い方になった、と考えるのが筋が通る。
 新明解国語辞典は三省堂の発行である。そこに、「つるむ」は「つるぶ」の転用だと書かれている。にも拘らず、同じ三省堂発行の例解古語辞典には「つるぶ」も「つるむ」も無いのである。そう言えば例解古語辞典には他の二冊の古語辞典にはある「兄=え」も無かった。
 話が発展してしまっているが、古語の「え=兄」は「弟から見た兄。妹から見た姉」の意味なので、とても重要な言葉なのである。従って、「弟=おと」は「兄に対する弟」「姉に対する妹」になる。万葉集関係のある本では、「兄と言えば弟」だと言って、「兄」の表記で「(男性の)弟」を表していると説明しているが、「兄」の表記で「妹」を表している場合もある。多分、その執筆者は「兄=男性」だと思い込んでいたのだろうが、例解古語辞典だけしか持っていなければ、間違いだと気付く事は恐らくは無いだろう。辞書の責任は重大なのである。

全日空機の背面飛行事件

2011年09月29日 | 社会問題
 全日空機が1900メートルも急降下したとの話は既に知っていた。しかしそれが背面飛行だった事が明らかにされた。フライトレコーダーの分析によるのだが、乗務員は知っていたに違いない。しかし誰も真実を語らなかった。前代未聞の恐ろしい出来事だから、語れなかったに違いない。乗客は重力で座席に押し付けられている状態だかったから、気が付かなかったとしても、トイレから戻って来た機長は立っていた訳だから、当然に気付くし、無事だったのが不思議なくらいである。

 扉の開閉のスイッチと方向舵のスイッチは十数センチ離れていると、今朝の東京新聞は書いているが、テレビはその実像を見せている。数十センチなどと書かずに、それが斜め方向にずれている事も新聞は書くべきである。その実態を知れば、なぜそんな間違いをしたのかと誰だって不思議に思う。単に数十センチ離れている、では分からない。
 実際に機長を務めていた人でさえ、間違うはずが無いと言っている操作を間違えた。スイッチまでの距離感と方向感で間違うはずが無いと、素人でさえ思う。体の真横にある操作盤なのだから、体で位置を覚えていなければ、操作は出来ないだろう。
 銀行の窓口係が計算機のキーを指で覚えていて、キーなど見ずに正確に入力出来るように、パソコンのキーボードを見ずに正確に文字入力が出来るように、そんな事は常識である。今、この文章を入力している私も、キーボードは一切見ていない。目はただただ画面を見詰めているだけである。操縦士は当然に前方を見詰めていて、様々な操作は手と指の感覚でしているに違いない。もちろん、キーボードと操作盤とではスケールも全く違うのは当然だが、その当然の事が出来て一人前の操縦士なのではないか。

 新聞によると、国土交通省はバランスが回復したのは偶然に過ぎない、と言っている。と言う事は、本当に大惨事に至る一歩手前だった。偶然に過ぎない、との意味は極めて重要だ。当然にこの副操縦士はこの仕事を続けられないだろうし、そうした職員を当然のように抱えている会社自身にも大きな問題がある。「深くお詫びを申し上げます」で済む事ではないし、それで済ませる事は絶対に許されない事である。

原発推進の住民エゴは許してはならない

2011年09月28日 | 社会問題
 静岡県牧之原市が御前崎市にある浜岡原子力発電所の廃止を決定した。テレビの取材では御前崎市市長は、中部電力のこれまでの投資金額を考えると簡単に結論は出せない、と言うような意味の事を言っている。何を馬鹿な。中部電力は自分達の利益を見越して投資しているのである。誰が損してまで、地域住民はもとより、広範囲の人々の幸せのためを思って投資をするか。言うならば、投資の方針を間違っただけに過ぎない。それなのに、市長はそうした企業の肩を持つ発言をしている。発言だけではなく、心底、肩入れをしているのだろう。
 そして御前崎市の住民もテレビの取材に限っては、廃止したら財源に困るなどと抜かしている。自分達だけよければそれで良いのか。万一原発に事故が起きたら、福島の二の舞になる。それも常に見ていながら、こうした自分達の財源の事しか考えない連中が居るのである。財源の恩恵に与れる御前崎市民だけではなく、ずっと広範囲の人々に甚大な被害を与える原発に対して、損得勘定でしか物を考えられない人々の恐ろしさ。

 原発の安全神話は完全に崩れ去ったと言うのに、それすら分かっていない。こうした人々の姿を見ていると、私は日本の政治が惨めである事は決して不思議も何でもないのだ、と変に納得してしまう。見識も何も無いような議員が当選してしまうのは、そうした住民が支持しているからだ。そしてそうして当選した連中の中から、日本を導く総理大臣が生まれるのである。
 政治家が悪いのではなく、悪いのはそうした政治家を選んでしまう国民が悪いのだとは観念的には分かっているつもりだったが、こうして庶民の生の声を聞くと、それがすべての声だと言うのではないのはもちろんだが、ああ、やっぱり、自分で自分の首を絞めているんだとつくづくと感じてしまう。
 自分の首を絞めている奴は自分の事だから勝手にしてもいいよ、でもそうした奴に首を絞められる人の身にもなってみろ。

原発による交付金と自治体の財政との関係が分からない

2011年09月26日 | 社会問題
 山口県上関町で新規原発推進派の現職が三選された。福島の原発事故の終息に見通しが立たない情況だと言うのに、一体何を考えているのだろうか、と大いに不審がある。しかし町議会の言い分は「決して原発が欲しいわけではない。他に財源があるなら教えてほしい」である。言い分は分かる。けれどもその財源は何に使うのかと言うと、記事ではそれはよくは分からないのである。分かるのはわずかに、次のような事である。

1 この12月に交付金を活用した温泉施設がオープンする。施設の維持も交付金で賄う。
2 中学生以下の医療費の無料化。
3 町民全員を対象にしたインフルエンザ予防接種の無料化。

 こうした事に私には大きな疑問がある。
 温泉施設とは何なのか。町民の福利厚生の施設なのか。そしてそれは必須なのか。
 中学生以下の医療費の無料化は絶対に必要なのだろうか。例えば、私の住んでいる東京都23区では中学生以下の医療費無料化を実施しているのだろうか。
 インフルエンザの予防接種は無料である必要があるのだろうか。私の住んでいる所では有料である。
 まことに自分勝手な考え方になるが、私は住んでいる所に福利厚生施設として温泉施設は要らない。
 中学生以下の医療費無料化も不要である。
 インフルエンザ予防接種は現行通り、有料で良い。
 もちろん、上関町が欲しがっている財源はこれだけの事に使うのではないだろう。しかし、主な物がこうした事であるなら、それと引き換えに危険な原発を誘致する事は絶対に間違っている。許してはならない事である。

 上関町の幹部は「脱原発と唱えるのは簡単だが、とにかく財源が欲しいのだ」と言うのである。こうした考え方が我々、上関町以外の人間にとっても同じような切実な問題だと理解出来るかどうかは、ひとえに、何のための財源なのか、にかかっている。それを明確にしなければ、こうした論議は成り立たない。新聞もいい加減な記事ではなく、そうした事を明確に書くべきである。
 この記事は東京新聞の第一面のトップニュースだが(9月26日朝刊)、記事のしめくくりもどうも納得が行かない。

 福島原発の事故後、町長は町議会で「原発なしでの町づくりも選択肢に入れる必要がある」などと答弁。開発推進派も原発なしを視野に入れた議論に異存はないが、国の方針が定まらない限り、方向性を見いだせないのが実情だ。

 言い遅れたが、現在、政府の上関原発に関しての方針は不透明で、交付金の行方にも暗雲が立ち込めているのである。しかし、町の幹部は財源を原発に頼っている。それでいて原発なしを視野に入れた議論が出来ると言うのだろうか。
 私にはこの記事では、町長を始め、町の幹部がどのように考えているのか、そして何のための財源で、それが町のために、と言うよりも町民のために絶対に必要なのかがさっぱり分からず、何のための記事なのかも分からないのである。


東京新聞の校閲者の辞書と私のとは全く違うらしい

2011年09月25日 | 言葉
 土曜日の東京新聞の言葉についての校閲者のコラムに次のようにある。

 「全然」を肯定的に用いることが問題になっています。もともとは全然と書いて「まったく、すっかり、そっくり、まるで」などと読んでいたようで、江戸時代末から明治初期に使われるようになりました。一般的な打ち消しを伴う用法が定着したのは、大正末から昭和の初めごろのようです。
 多くの辞書に「全くその通りであるさま・すっかり・(下に打ち消しを伴って)少しも、まるで・非常に」という意味が載っています。ですから肯定でも使えるわけです。「きょうのテストは全然駄目だった」「きょうのテストは全然できなかった」は、どちらもオーケーということになります。
 問題なのは戦後ぐらいから使われだした「非常に」の用法です。新聞では「全然美しい・全然楽しい」などとは表記しません。ただ、この使い方も多くの辞書にあるので、誤りだとは言い切れない面もあります。

 「全然美しい」などの言い方が多くの辞書にあると言うのだが、私の持っている6冊の辞書にはそうした表現はすべて、「俗語」とか「俗用」「標準的とは言えない」などと書かれている。コラムの筆者の辞書にはそうした事が書かれていないらしい。そうでなければ、「俗用。俗語」が誤りだとは言い切れない、との根拠にはなり得ないと思う。
 そして私の持っている辞書はコラム筆者の辞書とは大いに違う。
 どの辞書も「副詞」として、冒頭に次のように書いてある。
・その事柄を全面的に否定する意を表わす。全く。
・程度を全面的に否定することば。すこしも。まったく。
・全く。(後に打消しの言い方や否定的な意味の表現を伴って)まるっきり。
・(下に否定的な表現を伴って)全面的な否定を表す。
・(下に打消の言い方や否定的な意味の語を伴って)全く。まるで。
・(あとに打消しの語や否定的な表現を伴って)まるで。少しも。
 最後に小中学生用の辞書の説明を挙げる。
・(あとに打ち消しのことばがくる)まったく。まるで。少しも。

 校閲者の辞書の「全くその通りであるさま・すっかり」は、私の持っている大型辞書には「形容動詞」として載っている。それは「全然たる」の言い方になっている。副詞の「全然」とはまるで違う。
 彼の辞書は形容動詞と副詞と更には俗語が渾然一体となって説明されているらしい。

 もう一つ。上記の肯定・否定のどちらでも使えるの用例に「テストは全然駄目だった」が肯定の表現になっている事に私は少なからず戸惑った。確かに「駄目ではなかった」と言うような否定ではない。けれども言っている内容は否定である。「駄目だった」を肯定だとは誰も思わないだろう。上記で私は「副詞の〈全然〉とはまるで違う」と書いたが、それは「副詞の〈全然〉とは全然違う」と言っている訳で、「違う」が否定の表現だから、これでおかしくは感じないのだと思う。
 ついでにもう一つ。「駄目」を漢字にして、「できない」を平仮名にする、その根拠は何だろうか。一般的な用字用語辞典に従っているのだろうが、根拠にしている理由をきちんと誰にでも納得出来るように説明出来るとはとても思えない。
 私はどちらも漢字にしている。それで意味が明確に分かるし、筋も通るし、平仮名の多い文章の中に紛れ込んでしまわない利点がある。もしもどうしても書き分けよ、と言われたら、私なら「だめ」と「出来る」のように書き分ける。その方が、意味から考えても筋が通る。特に「勉強ができる」と「出来が良い」などの書き分けは、絶対と言えるほど不可能である。つまり「駄目」と「できる」を書き分けているのは、言葉に対する考え方がいい加減なのである。

台風には強いはずの地下鉄が止まった

2011年09月24日 | 暮らし
 あるテレビ局が簡単なニュースに仕立て上げて説明していた。
 本来は台風などには強いはずの地下鉄がほとんど止まってしまった理由は、地下鉄と地上を走る鉄道との相互乗り入れに原因があるのだと。その証拠には運休しなかったのは、都営大江戸線と東京地下鉄(東京メトロ)の丸ノ内線だけだったと言う。確かにこの二つの路線は集電の方法が他の鉄道とは全く違うから他の鉄道との相互乗り入れが出来ない。そして丸ノ内線と同じ方式の銀座線は同線の路線事情で止まってしまったのだと言う。
 ここまでは分かる。しかし他の鉄道と相互乗り入れをしている日比谷線が止まらなかった理由が分からない。同線は南北で別々の私鉄と相互乗り入れをしている。にも拘らず、地下鉄本来の区間だけの運行にして、運行が可能だったと言うのである。それが出来るなら、他のほとんどの地下鉄が出来て当然である。

 非常に浅い考えでこうしたニュースを流しているのである。なぜこうした事を問題にしているかと言うと、相互乗り入れが原因で地下鉄が止まったのなら、相互乗り入れはしない方が良いのではないか、とも考えられるからだ。
 私などは、毎日の利用では、相互乗り入れの利便とは全く関係の無い、地下鉄の本来の路線にしか乗らないので、相互乗り入れの便利さを感じた事が無い。むしろ、乗り入れている私鉄がしょっちゅう人身事故などを起こして遅れるので、非常に迷惑を蒙っている。
 台風などの災害は年に一回あるか無いかだろうから、相互乗り入れを批判するのは間違っているのかも知れないが、帰宅難民が一体どれほど居たかも考える必要があるはずだ。毎日の直通運行にしても、そんなにも便利だと言えるのか。単に乗り換えをしなくて済むだけの話ではないのか。乗り換えに2分か3分ほど余計に掛かるぐらいの事ではないのか。ターミナル駅で乗り換えるのと違って、多くの場合に同じホームの反対側に移動して、そこに止まっている電車に乗り換えるだけの事に過ぎない。

 今回地下鉄が止まった理由は相互乗り入れだけが原因ではないと思う。二昔ほど前、開通したばかりの地下鉄東西線が荒川の鉄橋で強風にあおられて脱線した事故が発生した。荒川の手前で同線は地上に出る。それ以降、同線は強風で列車を止めるようになった。同じ事が都営地下鉄の新宿線にも言えるはずだ。
 相互乗り入れをしている路線で、日比谷線だけが運行出来た理由をそのテレビ局はきちんと説明すべきなのである。このニュースに不審を感じなかった番組の司会者の感性を疑ってしまう、と言ったら酷だろうか。

賠償金を払いたくない東京電力

2011年09月23日 | 社会問題
 原発の被害への賠償金支払いで、被害者達が困惑している。難しい申請書とその説明書。分かりにくくして、賠償請求を諦める人が少しでも増える事を東電は狙っているに違いない。迷惑を掛けているとの反省があれば、少しでも易しく、分かり易くと考えるのが通常の人間である。つまり、東電には通常の人間は居ないと言う事になる。多分、エリートばかりなのだろうが、そのエリートとは他人への思いやりなど全く無い自分の事しか考えていないガリガリ亡者なのである。

 所得税の申告の季節になると、税務署では分からないと言う庶民のために、相談窓口や申告書の作成を手伝ってくれる窓口が開かれる。だから東電もそうした窓口を被害者の居るあらゆる所に開設すべきである。人手が足りないなどとは言わせない。どんな無理をしてても窓口を開設する義務があるはずだ。高給取りの監査役とか利権に群がっている連中の報酬を一切やめて、その分を書類作成の手伝いをする人々を雇う資金に回せば良いだけの事ではないか。

 原発の資料をほとんど黒塗りにして提出し、知的財産だと嘯いているが、何が知的財産なものか。人類に危害をもたらす技術なのだから、悪魔の財産と言うべきである。悪魔の財産だから公表出来ないのは当然である。
 その汚い東電を、大株主や大企業、電力会社に利権を持つ省庁などが寄ってたかって応援している。すべて自分の利益が少しでも損なわれる事を防ごうと躍起になっている。
 その姿の何と浅ましく汚い事か。庶民にはすっかり分かっている。分かっていないのは、それらの連中の明確な素顔だけである。それだって、正義心のあるメディアが公表すればきちんと分かる。
 

NHKの気象情報についての疑問)

2011年09月22日 | 社会問題
 きのうの午後、私は都心に出掛けなくてはならない用事を持っていた。だから非常に台風が心配だった。民放はどこも娯楽番組しか放送していないからNHKに頼るしか無い。しかしNHKの情報は東京で見ているのに、もっぱら関西の奈良と和歌山の土砂ダムの事ばかりなのだ。そして浜松に上陸したとの速報が流れ、今度はそちらに目が向く。
 けれども、その映像はどうも無人カメラの映像らしい。民放のように、リポーターが現地に居ると言うのではないようだ。危険な場所にリポーターが行くのが無条件で良いとは思わないが、NHKは手抜きにしか見えない。そして繰り返し流れる情報は、ひどいのは二時間も前の物である。
 見ている私は、これからの首都圏の情報が欲しいのに、それはまるで無い。時々、レーダーでの映像が映って、何時にはどこに中心がある、とは分かるのだが、それはさっと映って、さっと消えてしまう。こちらが検討するいとまも無い。

 事件のニュースなら、後追いになる。それしか無い。しかし気象情報では何よりもこれからの事が大切ではないか。確かに土砂ダムは心配だ。しかし関西の土砂ダムを東京の人間が心配してもどうにもならない。そして、危険区域の人々は非難を完了している。もちろん、留守宅が心配なのは当然で、それは我々も同様だ。しかし地元に任せるしか無いではないか。
 そしてNHKでは頻繁に崖から水が流れる映像などが繰り返し出て来るのだが、どこの何の映像かの説明は一切無い。何か、そうした映像でごまかして時間を持たせているのではないか、と疑ってしまうような情況なのだ。

 ついでに言うが、避難勧告を受けている世帯数を言う時に、必ず人数も添える。確かに正確ではあるだろうが、見ているとほとんどが一世帯平均2.5人以下だったりしている。そしてそれは我々にとっては、今や常識のようなものだろう。何人に避難勧告が出されているのかよりも、何世帯に出されているのかの方が、ずっと情況が分かり易いのではないか。詳しいから良いのではなく、人数まで言われると、ついそちらに注意が向いて、世帯数の方がおろそかになったりもする。

電力会社の独占経営が日本のガンである

2011年09月20日 | 社会問題
 原発を廃止して、自然エネルギーに転換しようとみんなが考えている。今の所、その占める割合は極端に少ないが、これからの問題だから何とか解決は出来るだろう。そして電力の「地産地消」に積極的に取り組んでいる所もある。
 電気は送電によって3割ものロスがあると言う。だから近くで発電して近くで使えばそのロスをゼロに近く出来るだろう。それが「地産地消」で、小規模な発電所を各地に作れば良い。更にはそうして作った電力を各電力会社が買い取れば良い。
 それなのに、電力会社は買い上げる上限を決めている。そして様々な重要な数値を公表しない。すべて自分達だけの権利と金儲けの手段を死守したいからである。

 水道は自治体の経営が多く、井戸もあれば、自然な湧水もある。選択肢は多様だ。ガスもプロパンガスがあるし、ガス会社も独占ではない。しかし電力会社だけは独占企業である。独占企業が世の中にどれほどの害悪を与えているかは、周知の事実である。
 どんなに輿論が騒いでも知らん顔を決め込んでいるその体質は変わる訳が無い。省庁ともしっかりと癒着しているから、体質改善など出来る訳も無い。
 従って、国営化するより方法が無い。国鉄や郵政は民営化した。それには色々な思惑も絡んでいて、一概に民営化が良かったとは言い切れないと私は思っているが、まあ、一応は開かれた会社になっているらしい。だから、それとは反対の道を歩む事になるのだが、今のままの独占企業では絶対に駄目だ。

 今、民間の省エネはかなり徹底的に行われている。そしてそれは人々に定着しつつある。結局は国民の我慢が省エネを支えている。それなのに、電力会社は一向に我慢をしようとはしていない。そんな商売があって良いものか。
 日本経済の根幹だからこそ、電力会社は国営であるべきだと思う。

「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」の東京新聞フォーラム

2011年09月18日 | 歴史
 東京新聞と橿原考古学研究所主催の討論会が行われた。題して「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」。変なタイトルだなあ、と私は思った。なぜなら、卑弥呼の実像を古代の大和に求める、と言っているのである。それは邪馬台国は大和にあった、と言っているのと同じになる。
 出席者も結構いい加減である。例えば、武田佐知子・大阪大学大学院教授は、卑弥呼は男装していたと言う。そうしないと中国の儒教の価値観では王として認められないからだ、と言う。魏の使者が卑弥呼に会ったとはどこにも書かれていないから、「親魏倭王」の称号を与えた時には卑弥呼が女性であるのを知らなかった。それ以降のやりとりで女王であるのが分かってしまったが、「親魏倭王」として公認していたのだろう、と言う。

 卑弥呼と会った事がどこにも書かれておらず、単にやりとりだけで卑弥呼が女性と分かってしまうと言う事が果たしてあり得るのだろうか。魏の使者が卑弥呼に会ったとは書かれていないとしても、属国の身分である邪馬台国の王が、支配者である魏の使者に会わずに朝貢の国交が成り立つとでも思っているらしい。書かれていないから会ってはいない。こんな論理がまかり通ると思っているらしい。魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述は非常に少ない。そこに使者が卑弥呼に会った事が書かれていないからと言って、絶対に会っていない、などと言えるはずが無い。

 魏には女性の最高権力者に対する拒否反応があった、と武田教授は言うのだが、それなら卑弥呼が死んで、宗女の壱与が女王になった事を魏が認めているのはなぜなのか。魏は壱与に対して檄を与えて諭している。つまり壱与に積極的な行動を取れと言っている。
 卑弥呼は儒教の価値観には合わないが、娘の壱与なら合うと言うのは全く筋の通らない話である。

 出席者はほかに篠田正浩・映画監督と菅谷文則・橿原考古学研究所所長。司会は同研究所研究員の入倉徳裕氏。同じ研究所でも菅谷所長は邪馬台国大和説で、入倉研究員は九州説だから、偏ってはいないが、ざっと読んだ限りでは、篠田氏が一番まともな事を言っている。さすがに映画「卑弥呼」を作った人だけの事はあって、しっかりと研究をしているようだ。
 私はその映画を見てはいないが、映画ともなると、そこには卑弥呼の実像が必要になる。しかし学者達には卑弥呼の実像が存在していないのである。単に頭の中だけで、卑弥呼の断片的な姿を想像しているに過ぎない。だから、重要な事を考える事が出来ないのだ。
 私は今、万葉集の中の解釈の難しい歌に取り組んでいるので、それが良く分かる。歌を詠んだのは実在した人々なのに、万葉の研究者達はそこに実在した人物像を描く事が出来ていない。だから人間性を疑わせる、あるいは人間性を否定するような考え方を堂々と披瀝している。

 昨日の東京新聞は二面を使って、このフォーラムをまとめているが、出席者の写真ばかりが目立つ、中身の薄いフォーラムだなあとしか思えない。記事は司会者の次のようなコメントで終わっている。

 卑弥呼の問題、邪馬台国の問題は、短時間ではとても話し尽くせないのですが、きょうは篠田監督の鋭いご意見、突っ込みで、私たちも非常にたじたじでした。

 正直な感想だろうと思う。新聞の記事だけでは全貌はまるで分からないが、専門家が「たじたじ」になったであろう事は容易に想像出来る。しかしそれでは困るのだ。何とも頼りない専門家達だなあ、と言うのが、この記事を読んだ私の感想である。