夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

国会議員の程度が低過ぎる

2010年11月29日 | 政治問題
 国会中継のニュースを見ていると、本当に情けなくなる。あまりに程度が低過ぎる。相手のちょっとした非をまるで鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てる。北朝鮮の馬鹿げた爆撃の時の総理官邸の対応のまずさを非難するのはまだいい。自衛隊を暴力機関とか何とかだと言ったと問責決議をしてどうなると言うのだろうか。ある人は広辞苑にそうした説明があると投書をしていたが、確かに自衛隊は暴力機関になり得る。それは官邸が言論の弾圧、圧政機関になり得るのと同じ事ではないのか。自衛隊は暴力機関になり得るからこそ、国を守る事も出来るのだと思う。官邸は圧政機関になり得るからこそ、有事に際してはやはり国を守る事が出来るのではないのか。
 物事の解釈は人それぞれに違う。性格もまた違う。議員とか政治家とはそうした存在で良いはずだ。常識があって、思いやりがあって、などが基本的な事だとしても、その「常識」とか「思いやり」にしても、人によって解釈が違う。この世の中に、これこそ文句無く満点を付けられるような人物は存在しない。みんな何かしらの欠点を持っている。そうした人間が互いに切磋琢磨して、色々と相談して大事な事を決めれば良いだけの話である。ただし、あまりにも欠点の多過ぎる、または大きい人は資格が無いが。

 国とは家庭と同じだと思う。家庭には農家の家庭もあれば、商家の家庭もある。サラリーマンの家庭もあれば、社長の家庭もある。代々の遺産で楽して暮らして行ける家庭もある。それと同じ事が国家にも言える。国はそれぞれにみんな性格が異なる。その国をどうやって運営して行ったら良いのか。
 それは家庭の運営と同じだと私は思う。夫と妻が常に文句を言い合っている家庭が、果たして良い暮らしの出来る家庭だろうか。それぞれに欠点や失敗があっても、それを補い合い、助け合いながら暮らして行くのが人間の暮しだと思う。
 でも今の日本の国は違う。事あるごとに相手を非難し、ののしり合って暮らしている家庭と全く同じである。選挙で多数を取った与党にしても、我々国民はその与党の絶対多数ですべてを乗り切ってくれ、などと頼んではいないはずである。舵取りをするのは与党であって良いが、独断では困ると考えているはずである。与野党が知恵を絞ってより良い道を探ってほしい、と思っている。
 何で与党と野党は対決姿勢になるのかねえ。それは単にそれぞれの議員の人間性が駄目な証拠だろう。○か×かだけで乗り切れるなんて本当に思っているのだろうか。まあ、国会でのあのやりとりを見ている限りでは、本当にそう思っているとしか思えない。そうした議員達を選んだのは我々の責任だ。でも、そうした議員候補しか居ないのもまた事実である。
 たとえ選挙中は立派な人だなあ、と思えても、当選して、どこかに属してしまうと、途端に変わってしまう。うーん、これは人間性だけの問題ではなく、政党とかの問題なんだろうなあ。でもその政党を率いているのは個人個人なのだから、結局は人間が出来ていないと言う事になるのかも知れない。そうした人間が日本を引っ張っているのである。

名古屋市議会リコール不成立に疑義がある

2010年11月27日 | 政治問題
 名古屋市議会の解散請求に対する署名が法定数を1万2千人分下回り、リコールは成立しないと発表された。
 その理由を日経新聞は次のように説明している。

1 署名者が選挙人名簿に登録されていない。約4万3千人。
2 代筆や署名集めをする「受任者」以外の人物によるなど収集方法に瑕疵がある。約2万3千人。
など。
 河村市長は24日夕、11万人以上の署名を無効とした審査結果に「悔しい。恐るべき民主主義の危機だ」と怒りをあらわにした。

 この記事を読んで、なるほど、選挙人名簿以外の署名は、これは駄目だろうな、と思う。しかし、2の「受任者」以外の人物による収集方法に瑕疵がある、との説明がよく分からない。
 しかし、朝日の記事を読むと、少し分かって来る。以下は朝日の記事。

 無効とされた署名の主な内訳。
1 署名した人の名前が選挙人名簿にないもの 4万3818。
2 署名の集め方に問題があったもの。2万2990。
3 自署ではなく、代筆とみられるもの。1万6787。
4 同じ人が2回以上署名したとみられるもの。1万0082。

 日経の2と朝日の2は同じである。この事について、新聞の記事を読み直しているのだが、私が見た記事がどこにも無いので困っている。それは確か、「受任者」以外の人が集めた場合は、そこに集めた人の署名が要る事になっているのだが、その署名が無い、と言うのである。それで無効になっていると言う。
 そして、その署名した人は、1でもないし、3でも4でもないらしい。その事は書かれていない。つまり、集めた人の署名が無いだけで、その署名は有効だとも考えられる。そうなると、その数を入れれば法定数を上回る事になる。だからリコールは成立する。
 この審査を行ったのは市選挙管理委員会で、その委員4人の内の3人は市議OBだと言うのである。そこに市長側の疑念も生まれている。
 こうした審査にどうして公明正大と誰もが思う人が選ばれないのだろうか。中身がどうあろうとも、リコール成立の法定数に近い署名が集まったのだから、事は重大である。市議側も民意を尊重すると言っている。それだけに、もっと誰もが納得出来る審査をすべきではないだろうか。

官邸の情報収集力

2010年11月25日 | 政治問題
 テレビの朝のニュースワイドショーでは必ず新聞各紙の色々な記事を紹介する。そしてそれは記事をそのまま見せるだけである。そこにテレビ局独自の取材など皆無である。なぜか。取材をしていないからである。テレビが取材をしているのは、大きな事件とかで報道各社が一斉に出動する時だけのように見える。テレビの今までのニュースを録画している訳ではないから、明確な事は言えないが、事、情報に関してはテレビは遅れていると思う。
 テレビは新聞社から情報を貰っているのではないのか。そのテレビを見て、総理は今度の事件を知った。今回のテレビ報道が一番早かったのだろうとは思う。何しろ常に情報を流しているのだから、新聞は太刀打ちが出来ない。だが、それと総理がテレビで情報を知った事とは関係が無い。
 総理を経験したら、やめられない、と聞いた。何がそんなに魅力的なのか。聞く所によると、それは情報力だと言う。どんな情報も入って来ると言う。知らなくても良い事までもが入って来る。それはきっと面白いだろう。居ながらにして、裏の裏まで分かるのである。もっとも、それは官邸の力次第でもある。
 情報は何で官邸に集まるのか。それは情報が金になり、権力や利権に結び付くからだろう。何の得にもならないのに、御注進、御注進、とばかりに情報を持ち込むのは腰巾着くらいのものだろう。官邸には黙っていても情報が集まる仕組みなのだ。
 それが菅総理の官邸には無い。総理に力が無いからである。利権を餌にしていないらしいのは良いのだが、良い人材を登用すると言う方法はある。しかしそれすらしていないようだ。総理には、何よりも組織の長としての力が必要だ。それは人間性だけでは駄目だ。人間としての魅力も無い、組織力も無い、では当然に求心力が無い。多分、どんなに号令を掛けても情報は集まらないだろう。こうした時、普通は「私の不徳のいたす所でございます」と反省する。でも、総理には開き直りしか見えない。

 私は民主党内閣は不慣れでもあるから、初めからうまく行かなくても仕方がないか、と思っている。不慣れを問題にするなら、慣れた自民党内閣なら良い政治が出来る事になるが、そんな訳が無いのは国民がよく知っている。だからこそ、不慣れを承知で民主党を支持したのではないか。
 だが、不慣れもここまで来るとお手上げになる。一体、どれくらいの時間があれば慣れると言うのか。これはどうも慣れの問題ではないらしい。資質の問題である。「玉石混交」と言う言葉があるが、石ころばかりの中に二つとか三つくらい玉がある程度だろう。中には石ころではなく、どっかと居座った邪魔な石もある。なお、この「玉」は「たま」ではなく「ぎょく」である。「ぎょく」とは宝石の事である。
 宝石ばかりの内閣なんてあり得ないだろうから、仕方が無いが、それにしても石ころが多過ぎるのではないだろうか。菅さんはどうも磨いても光らないようだし。昔は光っていたように見えたけどなあ。その光だってまやかしだったようだから、もう、何をか言わんや。

 でも、こうやって、日本には情報力が無い、と言う事が世界中に知れ渡ってしまう事が恐ろしい。もっとも、そんな事はとっくの昔に知れ渡っていて、だから中共もロシアも日本に対して勝手をし放題なのだ。情報力も無い、知恵も無い、力も無い、となったら馬鹿にされるのは火を見るよりも明らかである。

三笠書房の企画に応募して

2010年11月24日 | 趣味
 私は毎日原稿を書いている。同時に前に書いた、本にはなっていない原稿の手直しをしている。と言うのは毎日発見があるからだ。三笠書房はその「王様文庫」の10周年記念で原稿の募集企画をした。8月末締め切りで私は5冊の原稿を送った。結果は年内に決まる。同文庫はエンターテイメント系だから、私の原稿がお眼鏡にかなうとは思いにくいが、毛色の違う物もあった方が今後の同文庫の発展のためになるのでは、などと大層な事を考えて応募した。
 人間は日々進化している。だから前にこうだ、と結論付けた事でも、日が経つにつれて、違う考え方も出来るようになる。もっと良い考えになる事もあれば、全く別の考え方になる場合もある。そこで書き直す。前述の企画に合っても合わなくても、別の出版社に売り込む事も考えて、少しでも良い方向に持って行く必要がある。
 そして、そうした新しい考えはある時、突然にひらめく。それは常に前に書いた事を反芻しているからだ。あるいはしっかりと頭の中に入っているからだ。だからそれとは少しでも違う考えが出て来れば、引っ掛かるのである。引っ掛かって、ずっと良い考えに到達出来た時の嬉しさは例えようが無い。ああ、自分はこんなに進歩しているんだ、と自画自賛である。そしてその自信が更に考えを押し進める事にもなる。

 何でこんな事を書いているのかと言うと、考える事をお勧めしたいからだ。新聞やテレビ、雑誌の受け売りではなく、自分自身の頭と心で考える。どんなつまらない事でも構わない。それが一つの芯になって、そこに様々な考えがくっついて来る。芯と相反する考えもあれば、芯を太らせる考えもまたある。そうした芯を幾つも作って置くのである。全く新しい芯が見付かればそれはそれで上々である。
 他人の意見のつぎはぎは出来ない。しょせん、発想が異なる。他人の意見を受け入れるのはいい。それを自分なりにそしゃくして、初めて自分の考えに取り入れる事が出来る。時々そうした事を無視する人が居る。で、話し合ってみると、その人の考えはどんどんくずれてしまう。他人の意見のつぎはぎとはそうした事なのである。

 そうした事を自分の専門の世界でしている人が居る。無定見に他人の意見を取り入れる。きちんとした自分の考えではないから、あちこちに矛盾が出て来る。しかしそれが矛盾だとは気が付かない。そんな程度なのである。普段から自分自身で考えている人にはその底の浅さが明確に分かる。だから、考えましょう、と言うのである。
 ただ、頑固であってはいけない。自分の考えを後生大事に守る事が能ではない。心を出来るだけ平らかにして、冷静にして、事の成否を吟味する。これは私自身に言い聞かせてもいる。私には頑固な部分がある。今の所、それは良い方向に向いているが、頑固とは元々良い意味ではない。押しの強いのは良いのだが、意地を張ってはいけない。そうそう、今、当たり前のような言葉を調べている。「頑固」も調べてみれば、きっと面白い結果が出るだろう。

朝顔を見て、光と色との関係を考えた

2010年11月23日 | 趣味
 11月も下旬だと言うのに、まだ琉球朝顔が元気に咲き続けている。一つの所に三つも四つも花芽が付くのもいいのだが、何よりも青みがかった薄紫のその色が気に入っている。今年の梅雨時に茎挿しをしたのから根が出て、茎も2本になって葉を茂らせた。知人は去年茎挿しをしたのに今年もまだ咲かないと言うので、諦めていたら、9月の終わりになってから花芽が付き始めた。茎挿しをするのは、この朝顔は種が出来ないからだ。なお、名前は園芸店では「琉球朝顔・いりおもて朝顔」などと呼んでいるが、持っている「園芸大事典」にはそうした名前は無い。「朝鮮朝顔」は別種の毒草になっている。「朝顔」の項目にも見当たらない。
 花をよく見たいので、テーブルの近くに持って来た。昨晩からの雨が上がって日が差し始め、光が当たった葉を裏側から見る事になった。その色の何と透明で鮮やかな事。これが本当の葉の色か、と思った。考えてみると、すべての物が直射日光が当たると色が薄くなる。本当の色を失う。我々は普段からその色を見て知っているから何とも思わないけれど。
 改めて、走って来る車の色を見た。12階からだから、みな屋根が光って見える。車はぴかぴかに磨かれているから、その反射光を見る事になる。その色はみなほとんど同じに見える。そして日の当たっていない胴体部分を見て、やっと、ああ、赤い車なんだな、黒い車なんだな、と識別が付く。
 何と馬鹿な事を言っているのか、と思うかも知れない。物はすべて光があるからその色が見える。で、その光量によって色が違って見える。そうなると、見ている物の本当の色とはどのような状態の色を言うのだろうか、と疑問になる。
 そうか。だから色を測定する場合の光が決められているのか。あれっ、それって光の何だったっけ。

 この朝顔は、私の場合は異常なほどの遅咲きだった。育てたのが遅かったのだから当然である。こんもりと茂って花が見えないくらいだった葉も既に相当数が黄色くなって落ちてしまった。それでもまだまだつぼみがある。一体、これらのつぼみはどこまで咲くのだろうか。まるで落葉と競争しているかのようでもある。
 よそでは、まだ花の盛りに刈り取ってしまったりしている。そうしないと根に年を越す養分が蓄えられないのだろうか。この朝顔を育てている人に聞いてみたいのだが、育っている多くが公営住宅の垣根だったりしているし、育てている人の戸を叩くのも失礼だろうし。

こんな原稿を書いています。感想をお聞かせ下さいませんか

2010年11月22日 | 言葉
 私は毎日売れない原稿を書き続けている。今は日本語の様々な面白い言葉を追究している。しつこく考えていると、そこに、思いもしなかった姿が現れて来る。だから面白くてやめられない。それを本にするべく売り込みたいと思っている。最近話題になった失言問題で、「失言」について考えてみた。
 こうした事が面白い、本になったら読みたいと思って頂けるかどうか、是非ともお聞かせ願えないかと、このようなブログにしました。

失言
 政治家などがよく「失言」してもめる。だが、「失言」の意味に関してはもめたりはしない。その証拠には国語辞典はみな同じような説明をしている。ほとんど同じだから、一々引用する事も無いが、あまりにも同じだから、かえって面白い。
 以下の略称は、(岩)は『岩波国語辞典』、(明)は『明解国語辞典』、(小)は『新選国語辞典』、(鏡)は『明鏡国語辞典』。

(岩)しつげん【失言】言ってはいけない事を、うっかり言ってしまうこと。また、その言葉。
(明)しつげん【失言】言ってはいけない事をうっかり言ってしまうこと。また、その言葉。
(小)しつげん【失言】言ってはならないことを、うっかり言うこと。また、そのことば。いいそこない。
(鏡)しつげん【失言】言ってはならないことを、うっかり言ってしまうこと。また、そのことば。

 ここまで同じだと、いっその事、清々しい。そして本質的な事ではないが、こうした説明にその辞書の方針が明確に現れる。
 (岩)と(明)は「事」と「こと」が違うと考えている。(小)と(鏡)はそうした区別をしていないらしい。「らしい」と言うのは、区別をしていないとは限らないからである。それこそ「うっかり」と同じ表記にしてしまった、と言う事もあり得るからである。
 (鏡)は「こと」の意味を全部で23も挙げている。そしてその表記を、(1)は「実質名詞」で、それ以外は「形式名詞的用法」と言い、かな書きが一般的だと言う。更には(1)も、近年かな書きが増えてきた、と言う。
 その(1)の「実質名詞」の「事」とは「事が起こる前に手を打とう」「力を尽くして事に当たる」「事は重大だ」「心臓発作でも起こしたら事だ」などである。意味としては、「この世に起こる現象や出来事、人間の行為、また、それらの成果・推移などを広くいう。特に大きな出来事や事件をいう」と説明している。
 しかしこれらの「事」が「実質名詞」だと言われても、その実体がよく分からない。「事に当たる」の「事」とは何なのか、「事は重大だ」の「事」とはどのような内容なのか。(1)以外とされている22もの「形式名詞的用法」のその筆頭には「どんなことがあってもそこを動くな」などの「こと」がある。これは意味としては「それによって特徴づけられるさまざまな事柄をいう」と説明されているが、よく分からない。「どんなこと」と「事が起こる前に」の「こと」と「事」の違いを明解に説明出来るとは思えない。
 例えば、「出来事」は「事」だと言う。「事が起こる前に」は「出来事が起こる前に」である。仮名書きだと言う「どんなことがあっても」は「どんな出来事があっても」でも立派に通用する。この二つを「事」と「こと」に書き分ける理由は何か。
 「こと・事」の問題は簡単には片付けられないので、ここではこれ以上取り上げない。ただ、「うっかり言うこと。また、その言葉」との説明が言い表しているように、「うっかり言う」は「言葉」になって現れているのである。それが果たして実質的な意味が無い、と言えるのだろうか。
 「言葉」を標準表記として掲げておきながら、「失言」の説明では安易に「ことば」と仮名書きにするその方針は決して信頼出来るとは言えない。「言って・言う」と「いいそこない」の表記の不統一も、方針のいい加減さを示している。

 本題に戻ろう。「うっかり言ってしまう」ような事に、「嘘」は入らない。だからそれは真実である。その真実がうっかりとは言えない。なぜなのか。一つには相手に対して失礼になるからである。もう一つには隠して置かなくてはいけない真実だからである。
 相手に対しての失礼な事とは、相手には責任の無い事であって、相手と密接に関わっている事柄などである。例えば、何らかの欠陥をあからさまに表現してしまう、など。これは明確に失言になる。自慢をしてその結果、相手を低めてしまうような事柄も失言になる。
 では隠すべき事とは何か。一つには、真実が分かったら大騒動になるような事がある。例えば、外国との密約など。長い目で見て自国に利益があると信じている事柄で、短期的には損だ、と思える事柄がある。これは大局的見地からでないとその真価が分からない。だから当面は隠して置く必要がある。
 これとは全く異なる隠すべき事がある。政治家の発言で問題になるのはこちらである。その政治家の駄目な面を明確に語ってしまうような言葉である。本当は偽らなければならない、隠して置かなければならない駄目な部分を、それこそつい「うっかり」と言ってしまう。中には、それが駄目な事だとはまるで思っていない場合もある。だから脳天気に、リップサービスのようについつい出てしまう。それは本心だからこそ出るのである。そしてある場合には、それは政治家にとっては共通の駄目な部分でもある。自分なら当然に隠しておく事を、しゃべられてしまっては、身も蓋も無い。だから怒って大問題にする。でも、そんな政治家を選んでしまう我々にも責任はある。
 
 この種の失言を撤回せよなどと声高に追及する必要は無い。これを「失言」などと体よく言うからいけないのである。これはまさしく「本音」なのである。だから撤回などもとより出来る訳が無い。撤回は嘘をつく事にもなる。あるのはその職から引く事だけである。下手に撤回などされたら、臭い物には蓋、になってしまう。
 そうした意味で、4冊の辞書の説明はいずれも言葉が足りない。「失言」とは「失礼な言葉」「失敗の言葉」であって、自らの無能さをさらけ出すのは、失礼ではない。偽っている方がずっと失礼である。ただ、失敗の言葉ではある。黙っていれば分からなかっただろうから。
 「失言」は次のように説明すると真実に近くなると思う。

しつげん【失言】他人に対して失礼になる事や多くの人々にとって不利になる事を、うっかりと言ってしまう事。また、その言葉。自らの愚かさや無知を証明する言葉は入らない。それは本人にとっては不利だが、他人にとっては単なる真実に過ぎず、かえって役に立つ。

 

裁判員裁判の死刑判決に裁判長が異例の付言をしたのはなぜか

2010年11月21日 | 政治問題
 裁判員裁判で初の死刑判決が出た。裁判長は被告に控訴を勧めるとの異例の付言をした。これに対して二つの見方がある。
 一つは、裁判員の心労に対する配慮だ、との見方。誰だって死刑の判決を下すのは辛い。だから、再考の余地があるんだよ、と裁判員に告げている、との考え方である。
 もう一つは、プロの裁判官が裁判員を信頼していないのだ、との見方。控訴になれば、今度はプロの裁判官だけになる。
 どちらも一応はもっともに思える。前者は、プロの裁判官がしても再び死刑の判決が出れば、裁判員の苦悩は少しは緩和されるかも知れない。だが、本質的な解決にはならないだろう。いくらプロと同じく死刑の判決を支持したのだとしても、その行為と言うか考えと言うか悩みと言うか、それは決して解決はされないはずだ。そこには人間が人間に対して死の宣告をする、と言う極めて重大な事が、相変わらず横たわっているからだ。
 後者は、もしかしたら判決が覆るかも知れないと言う思いがある。しかしそれは苦渋の選択をした裁判員に対する侮辱になる。
 どちらにしても、何ら解決にはならないと私は思う。死刑反対の考えは根強い。同時に死刑支持の考えもまた根強い。人間が人間に対して死を与える事への嫌悪感と、他人の人間としての存在を根本から否定してしまった殺人に対する絶対に許せない思いとは、同時に存在し得る。このどちらをも両立させるには終身刑しか無いだろう。アメリカには200年とか300年とかの刑があると言う。何で日本では無期懲役などと言う、いい加減な制度があるのだろうか。恩赦などの無い終身刑を設定すれば、被告を殺さずに、しかも罪の償いに近い事はさせられるだろう。
 死んで罪を償うと言うのは、一見残酷で、一見易しい。人間を平然と死に追いやる事は残酷だ。そして人間、死んでしまえば、もう何も出来ない。楽しみも無い代わりに、苦しみもまた無い。宗教で考えれば話はまた別になる。死んでも地獄の責め苦が待っていると信じていれば、何も死刑にしなくても、生きて罪を償えると考えるのだろう。
 宗教と言う目に見えない、心の世界の問題がからんで来ると話がややこしくなる。もちろん、裁判員の心の問題も重要だ。そして殺された遺族の心の問題もまた重要である。だから、一人の人間の命を断って事を終わりにするのではなく、生きている限り考えさせる事の方がずっと有益だと私は思う。生きられる命を無惨にも断ってしまった罪はそれほど大きいと考える。

国会が柳田法務大臣の失言で揺れている

2010年11月20日 | 政治問題
 法務大臣右は失言をしたのではない。単に本音を漏らしたに過ぎない。漏らした事が失策だっただけの事である。「失言」については調べた四冊の国語辞典が全く同じ説明をしている。曰く「言ってはいけない事をうっかり言ってしまう事」。
 言ってはいけないのは、それが他人を害したりする事もあるが、多くは本音だからである。本音を漏らした事はどのように言い訳をしても元には戻せない。うっかりと他人を害してしまう事はある。例えば、差別用語の使用など。私は差別用語との考え方をそもそもは信用していないが、盲目の人を「めくら」と言って、当人から不快感を示される事はあるだろう。話は飛ぶが「めくら」で私はすぐに思い出す事が一つある。それは昔『暮しの手帖』に載った話で、ある大阪の盲学校の児童が言った言葉である。
 「めくら、めくら、と馬鹿にするな。心の目が見えとるわい」
 本当にそうである。世間には心の目が見えない人が何と多い事か。そうした人を指す言葉としては「めくら」は誠に言い得ていると思う。そして盲目の人に対しては決して差別用語にはならないと信じている。差別とは、何よりも発言者の心の問題だからである。
 差別用語が失言になる事はある。しかし柳田法務大臣の場合はうっかりした失言などではない。うっかりはしている。それは本人が「うっかり人間」だからである。「うっかり=ぼんやりしていて忘れたり、気が付かなかったりする事」である。ぼんやりしていて、本音を漏らしてはいけない事に気が付かなかっただけの話なのである。

 こんないい加減で駄目な人間が一国の大臣を、それも法務大臣を務めている事がそもそもは信じられない。「今後何事にも真摯に当たる所存だ」などと言っているが、土台、そんな精神が無いと思えてしまうのだから、いくら真摯に、と言っても無駄である。駄目な考え方や感性に真摯になったって、どうにもならない。
 しかし、法務大臣は実は真実を語ったのだ、と私は思う。そうではないか。政治家の発言はみな、どれも立派に見えるが、その実、本心は案外とこうしたいい加減な気持に満ちている事が決して少なくない。だから野党が「国会を侮辱している」と怒るのも無理は無い。自分達のいい加減さを代弁してしまった事になるからだ。
 そうした野党の考え方の代表的な一つを山本自民党議員がしている。曰く「政権打倒」である。
 民主党政権は我々国民が選んだ結果である。政権を担当する事に不慣れな面は多分にある。それは国民は知っている。百戦錬磨の自民党ではないのだ。自民党はそれこそ汚い事もたくさんして来た。それを国民が嫌がって、政権の座を追われたのである。
 「打倒民主党政権」などと言われると、それこそ国民を侮辱している事にならないだろうか。確かに内閣支持率はじり貧である。しかしこうした世論調査は単なる人気投票にもなってしまう面がある。その証拠には支持率は簡単に上がったり下がったりする。そんないい加減に支持をしているのか、と思うほどである。一喜一憂していては、政治など立ち行かない。もっと不動の精神が必要だろう。
 あのねえ、山本くん。政治はさあ、○か×かじゃないんだよ。民主党が駄目なら自民党だ、なんてならないんだ。自分達だって、民主党政権が決めた事はすべて絶対反対だなんて思っていないはずだ。国民は政権担当者として民主党を選んだ。あとは、その方針を巡って、与党、野党が議論を戦わせれば良いだけの話ではないか。良い案なら賛成すれば良いのだし、納得の行かない案ならば、徹底的に議論を戦わせれば良いのである。
 だから私はねじれ国会で良いとさえ思っている。何でもかんでも多数党の思う通り、では駄目なのだ。ただ、日本の政治はまだまだ未熟だから、どうしても対決姿勢になってしまう。それが「政権打倒」の言葉となって現れてしまう。

 政権を担当する事は決して名誉な事でも得する事でもないはずである。言うならば火中の栗を拾う役目ではないのか。良い例が、対中国問題であり、対ロシア問題である。こんな難しい事は無いだろう。おどしたり、すかしたり、なだめたり、いやいや、もっも様々な手練手管が必要だ。私は相手は「ごろつき」と「暴力団」だと思っている。そんな奴らを誰が相手にしたいもんか。
 そうした難しい様々な問題に現実にぶち当たるのが政権なのであって、与党も野党もその応援こそするべきなのであって、いちゃもんを付けて退陣に追い込むのが仕事ではないはずなのだ。
 今、様々な失言が取りざたされている。失言はもちろん問題だが、それをどう考えるかに、政治家達の本音が現れている。それなのに、それに気が付かず、相変わらず、鬼の首でも取ったかのように錯覚して、自分自身を売り込んでいるその醜悪さ。
 それで、私はこうした失言騒動はとても有益な事だと考えている。みなさんの素顔が丸見えになる絶好の機会だからである。

海上保安庁の映像流出問題と朝日新聞の社説と

2010年11月18日 | 政治問題
 17日の朝日新聞の社説の一つが映像問題だ。以下はその要所の抜粋。●の段落が抜粋。△が私の感想。

●忘れがちだが、捜査の基本は在宅調べで、逮捕は証拠隠滅や逃亡の恐れがある場合の手段だ。これに照らせば身柄拘束にこだわる必要はない。肝心なのは流出に至る真相の究明である。これまでの捜査で驚かされたのは海上保安庁の情報管理のお粗末さだ。
●映像はどう保管され、ネットとどうつながり、どこまでの職員がアクセスすることができたのか。(略)映像は刑罰を科してでも守る秘密だったのか否かの判断にも影響する重要な問題だ。

△最初の段落で、そうか逮捕は最後の手段なのか、と改めて気付かされる。そして海保の情報管理のお粗末さは誰もがそう思っている。しかし、そのお粗末さの中身が明確にされる事と、映像が刑罰を科してでも守る秘密だったのか否かの判断とは明らかに別の事だと私は思う。
 以下、抜粋を続ける。

●朝日新聞は国民の知る権利の大切さを唱えてきた。だが外交、防衛、治安情報をはじめ、すべてを同時進行で公にすることがその中身ではない。
●情報の公開とそれに基づく討議は民主主義に欠かせぬという認識を互いに持ち、ケースごとに全体の利益を見すえて公開の当否や時期を判断する。この積み重ねこそが社会を鍛える。

△確かに、知る権利=すべての公開、ではない。相手との駆け引きがあれば当然に秘密の部分はある。そしてその重要な判断は、それこそ国民が政治を任せた以上は政治家の責務のはずである。しかしながら、今回は重要な判断が政治家には出来ていなかった。その事を社説は次のように書いている。

●今回の混迷のもとには、漁船事件に対処する方針がぶれたあげく、検察庁に責任を押しつけ、自らの姿勢を国民に丁寧に説明してこなかった政権に対する不信がある。そして、大国化する中国への感情やナショナリズム、党利党略がないまぜになり、感情論や思惑含みの発言が飛び交っている。

△この「混迷のもとには、…説明してこなかった政権への不信がある」との言い方が私にはよく分からない。説明が出来ていない政権への不信が混迷の要因になっているのではない。政権がきちんとした考えを持っていない事が不信の第一番の原因なのだ。それに、様々な事がないまぜになって発言が飛び交っているとは思えない。更には「混迷」しているのは、この書き方では我々を含む世間だ、と言っているようにしか取れない。「混迷のもとには、不信がある」と言っているのだからそうなる。
 しかし混迷しているのは政権その物であり、様々な報道機関である。我々は混迷などしていない。

●まだ真相が見えない。捜査を尽くし事実を解明する。それがネット時代の情報の公開や保全のあり方について冷静な論議を進めることにつながる。

△上記は社説の結論部分である。真相、つまりは事実の解明が重要だと考えている。複雑なネット情況で、何をどのようにしたら情報の保全が出来るのか。今回の真相が別のネット情況の保全につながるのか。情報の保全を図るのなら、ネットなどで流さない事が肝要ではないのか。情報は原本一つだけにとどめて、それを最高責任者が保全を図る。それだけで済むのではないのか。
 今回の事実はただ一つしか存在しない。日本の領海内で不法に漁をしていた中国漁船が、警告した海上保安庁の船に体当たりをして来た。その映像を秘密にした。それが漏れた。ただ、それだけである。ここに不信があるとすれば、それが日本領海内だけだったのか、だけだろう。
 映像の流出については、二つの見解がある。
 一つは、どのような事があろうとも、組織の仕組みは守らなければならない。つまり、漏洩は罪になる。
 一つは、国民の利益になる事が秘密にされたら、それを明らかにするのが、仕事とは別に、国民の役目である。
 組織に属している以上、組織に従うのは義務である。そして、国民としての役目も忘れてはならない。特に「国民として」は、「人間として」と置き換えられると思う。つまり、これは一種の内部告発ではないのか。
 話を複雑にして分かりにくくしているのは、この事件を取り上げて様々な論評をしている連中なのではないのか。そうした「混迷」の原因の一つがこの社説でもある。社説のタイトルは「まだ流出の真相が見えぬ」である。社説は今回の真相を突き止める事が「情報公開や保全のあり方についての冷静な議論」の要因だと結論している。
 流出の真相とは、本当はなぜこの映像を秘密としたか、のはずである。一番重要な事がすり替えられているとしか思えない。

 この社説を読んで、私は自分の文章の読み方が果たして正しいのかどうか、分からなくなっている。

都営地下鉄は油断していないか

2010年11月16日 | 社会問題
 きのう、二人の同僚に先週の金曜日の地下鉄の話をした。地域的な職場なので、二人とも同じ地下鉄を利用している。そうしたら二人とも、同じような時刻に乗り合わせたと言う。一人はバスの中で運転士から地下鉄がとまっている事を知らされたと言う。そこでJRを利用して最寄り駅から15分近く歩いて帰ったと言う。もう一人は地上の地下鉄の入口が大混雑をしているのを見て、さっさとバスに乗り換えたそうだ。バスの運転士さえ同じ都営の地下鉄の事情を知っていて、乗客に便利なようにと情報を伝えている。それなのに、同じ都営地下鉄同士でそれが出来ていない。バスの営業所に連絡をするより、地下鉄の営業部なのか、各駅へなのかは知らないが、そちらの方がずっと簡単だと思う。だから何ともいい加減だと思うのである。
 二人とも賢明な処置が取れた訳だ。たかが、2時間ほど全線がとまっただけでこんな事を書いているのは、都営地下鉄にはずっと以前から東京の地下鉄の統合計画があるからだ。東京には他の都市と違って、公営地下鉄と民営地下鉄の二つがある。歴史的には民営の方がずっと早い。何しろ我が国初の地下鉄なのだ。その民営地下鉄は東京都と旧国鉄が半々の出資をしていた。現在は旧国鉄の分は確かJR東日本が肩代わりをしているはずだ。
 その地下鉄を一本化したいと東京都は考えている。路線は都営は民営の半分以下だが、いずれにしても、両方の路線を乗ると、互いに初乗り料金が上乗せされる。割引にはなっているが、同じ経営の二路線以上の乗り継ぎより格段に高くなる。利用者にとっては、単に経営者が異なるだけの事なのに、不合理である。どちらかに統合される方が便利だ。競合路線は極めて少ないから、互いにサービスで切磋琢磨するような事にはならない。
 相互乗り入れをする民営鉄道も自分勝手な事を考えている。これにははっきりと証拠がある。
 都営地下鉄が新線を計画した。乗り入れ先の民営鉄道は二路線。一つの駅から二方向へ分かれる。そこで都営地下鉄は二つの民営鉄道に合わせて狭軌で建設をした。最初の都営線は両端の二つの乗り入れ民営鉄道の軌道に合わせて広軌で建設されている。
 それなのに、最終段階になって、両民営鉄道は乗り入れ先を変えてしまったのである。民営地下鉄の新線が近くを走る事が分かったからである。民営の方が路線数も多く、従って多くの乗客を見込めると踏んだのである。利用者の便利さではなく、自分達の利益だけを追求しようと考えたのである。

 だから都営と民営とを比較すれば、JRの前例があるからはっきりと分かるが、利用者へのサービスよりも自社の利益の方が優先する。国鉄はJRになって良くなったじゃないか、と思うかも知れないが、元があまりにも悪過ぎただけである。
 民営地下鉄の利益は大きい。それに比べて都営の方は芳しくない。それは路線の立地条件にもよるから、経営が下手なのだ、とは言い切れない。だから私は公共交通機関は公営であるべきだとの持論からも、東京都による一本化が望ましいと考えている。しかしこうした事故での処理能力を見ると、非常に不安になる。公営と言う事で油断をしているのではないか、と思うのである。