夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

サプリメントの害について

2009年10月31日 | 暮らし
 「アメリカのサプリメント事情」と題する「心に青雲」の10月27日のブログから。

 凝った料理を大衆に興味を持たせ、「うまいものを食いたい」という願望を植え付けておいて、生活習慣病に誘い込み、そしてサプリメントを大量に摂取させ、それを過剰に摂取した人間がついには病院に駆け込むような仕掛けになっているのだ。

 でも、何でそんなにテレビに影響されるのだろうか。私は素直さが足りないせいか、テレビで勧められた物で従ったのはわずかしか無い。その中で唯一今もやっているのは、落花生を薄皮を付けたまま食べる事くらい。これは薄皮に非常に体に良い成分が含まれていると言うのだ。その名前や効能は忘れてしまったが、赤ワインと同じ効能があるのだけは覚えている。
 それで、今も続けているのは、単にその方が私にとっては旨いからに過ぎない。皮付きで食べるのに慣れてしまったので、皮を剥いて食べると味が物足りない。愛犬はそんな事は知らないから、薄い皮を器用に剥いて食べる。食べた後に、薄皮が元のままの丸い形で残っている。
 そうそう、もう一つやっている事があった。みかんが出る頃にやるのだが、みかんをきれいに洗って、中身を食べて残った皮を焼酎漬けにする。それに蜂蜜などを入れて一週間ほどできれいな色の「みかんの皮酒」が出来る。盃一杯くらいを寝る前に飲むとぐっすりと眠れる。
 私は体に良いと言われる物は自分で作る事にしている。にんにくのたまり漬けなども売っているのはほとんどが中国産のにんにくを使っているから、青森産のにんにくを買って作る。らっきょう漬けも国産とはあっても肝心のらっきょうが中国産が多い。そこで自分で国産の泥付きらっきょうを買って漬ける。
 そう言えば、もやしも「国産」と書いてあるが、ある店では材料の豆の原産国がきちんと「中国」と表示されている。それがほとんど。そして豆が国産のもある。だが、たいてい売り切れになっている。高いがすぐに売れてしまうらしい。今度はもっと早い時間帯に買いに行こう。

 テレビで凝った料理を見せられても、あまり食べたいとは思わない。大体、出演者の食べ方がとても汚い。だから旨いとも思えない。料理番組などでおいしく安く簡単に作れると言って紹介された物くらいにしか興味が湧かない。それに、興味が湧くのは自分で作ってみようかな、と思ったのに限られる。
 そうやって作って食べている限りは生活習慣病などにはならないと思っている。ただ、酒が好きなので、尿酸値だけは気になる。と言っても限度の7.0。それでも医者は薬を飲めと言う。男性は3.8~7.0が基準値、と検査報告書にはある。その7.0でなぜ薬を飲まなければいけないのか。基準値とは一体どのような意味なのか。尿酸値が高いと分かったのは、一度かかとが激痛に襲われた。ある大病院の整形外科ではアキレス腱が成長し過ぎた結果だと言う。えっ? いい歳になってもまだアキレス腱は成長するのか。
 そして一年ほど経って同じ場所が二度目の激痛になった時、近くの病院にかかった。そこで検査をして尿酸値が高いのが分かった。だが、私はかかとの激痛の尿酸値の高い事による「通風」の発作であるとの医者の意見を全面的に納得している訳ではない。それもあって、だから私は薬は要りません、と断っている。

 普通の食生活をしていて、どうしてサプリメントが必要なのか、私にはさっぱり分からない。年齢相応に老けるのだし、年齢よりも若く見える人と老けて見える人がいたって、それはそれぞれの個性に過ぎないし、運動の量にもよるだろう。それをサプリメントで補えるとはとても思えない。
 私はパソコンなどで目を酷使するから、ブルーベリーエキスなどが良いと思い、一時飲んでいた。でも、飲んでも飲まなくても、ほとんど変化が無い。と言うか、変化が分からない。酒を飲む人のための何とか言うサプリメントもあるが、何もサプリメントを飲んでまで酒を飲みたいとは思わない。何事もほどほどに控えて、運動をし、明るい気持で毎日を送れば、それで十分ではないか。
 サプリメントの恐ろしさは多分、効き目がはっきりしないから、大量に持続的に摂取する結果にもなり、それだって満腹感も無いし、味も素っ気も無いから、そのまま続けてしまい、それが何らかの害を体に与えるのではないか。そう言えば、この間、テレビでサプリメントの取り過ぎで、害になる症例を見せていたっけ。サプリメントに関心が無いから、何の事だったか忘れてしまったが。
 何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なのだ。高いカネを掛けて「過ぎたる」になるよりは、カネを掛けずに「及ばざる」になる方がずっと良い。及ばないのは、ほかの事で補う事も出来る。

 民族の体はその長い食習慣などで作られているはずだ。日本人は当然ながら和食でその体を作って来た。魚など、頭から尻尾まで食べた。骨も食べた。昔、さんまの骨を焼いて食べたが旨かった。私の魚の食べ方を見て、息子はまるで猫みたい、と言うが、ちっとも恥ずかしくはない。それに私は肉を食べると、どうも翌日、腸の調子が良くない。肉の消化に向いていないらしい。欧米人に比べて何が足りないなどと考える必要は無い。欧米人の体が理想的なはずも無い。単に背が高く、脚が長く、格好が良いだけの事。その代わり、肌などとても粗くて汚いではないか。それにメタボも多いじゃないか。
 ハンバーガーなどファストフードが流行るから、足りない成分が出て来る。それをサプリメントで補おうと言う。食品業者と薬品業者の恰好の餌になっている。

「平和」を唱える事で戦争は無くなるのか

2009年10月30日 | 政治問題
 10月25日のブログ、kojitan's note「非武装中立はありえない」は、SANKEI EXPRESSの記事(政治部編集委員 野口裕之氏)を紹介している。その最後、「スイス政府が全国民に配布している冊子「民間防衛」を引用して、次のように結んでいる。

「自由と独立は断じて与えられるものではない。言葉や抗議だけでは決して守り得ない。手に武器を持って要求して、初めて得られるものである」

 私もそう思う。だが、新聞などでは、読者の投稿も含めて、「平和憲法を守ろう」と言う声が高い。確かに日本の憲法は素晴らしい理念を貫いている。

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 世界中が戦争放棄をすべきである、と誰かが言わなければいけない。本当は世界が力があると認めている「大国」のやるべき事だ。世界の指導者と自負しているのだから、当たり前の事である。
 だが、誰もやらない。アメリカもロシアも中共もやらない。それを日本は率先してやっている。しかしながら、その日本の言葉を一体、どれほどの国が、どれほど真剣に聴いているか。誰も聴いてやしない。世界中の国々が戦争放棄をしようと言い、実行し始めても、そうした世界中の国々は、自分の国だけは最後までそれをするべきではない、と思っている。思っていないのは、多分日本だけだろう。
 それをどの国も分かっているから、日本を甘く見る。北朝鮮などはその典型である。多くの日本人を拉致し、ミサイルを日本に向けて発射する実験をしているにも拘らず、日本政府は強い事が言えない。たとえ言ったとしても、侮られるだけだろう。何しろ、永久に戦争を放棄したのだから、実力行使には出られない。

 平和憲法を守ろうと言う人々は、たとえ外国が日本に攻めて来ても、戦わずに無条件降伏するのだろうか。性悪説だけでは世界は救われない。しかし本来は性善説のはずの宗教が、戦争を鼓舞しているではないか。そんなとんでもないのが世界なのだ。戦争放棄の提案は良い。しかしそれはきちんと勝てるだけの戦力を保持して言うべき事ではないのか。


八ツ場ダムが無くての50年間を考える

2009年10月28日 | 社会問題
 群馬県の八ツ場ダムについて、国交相が科学的根拠がはっきりしないと言った事に対して、工事を中止する根拠もまた明確ではない、と噛み付いた人達がいる。民主党のマニフェスト自体が曖昧だ、と言う人も居る。なるほどと思っていたら、今日、テレビで高木美保さんが、50年経っていてまだ完成していないのに、その50年間、災害は起きていない、と言った。私は頭をガーンと殴られたような気がした。
 そう、地元民は50年以上も苦労をさせられて来て、今更中止は無いだろう、と怒るし、首都圏の知事達も今までに出させられて来た資金を考えると中止はあり得ない、と言う。そして都知事はダムが出来れば水利にも役立つし、と言っているが、今現在、このダムが無くて水利に困っているとの話はなぜか聞かない。

 災害を防ぐために、水利に役立つように、とこのダムは計画されたはずである。災害は大型台風による体験がある。二度と繰り返されてはならない、との気持は分かる。だが、その科学的根拠としては、既に、ダムが出来ても大型台風による災害は防げない、との科学的証明がなされている。これをでたらめだ、と言うのだろうか。
 そして切羽詰まった工事だったはずなのに、何と50年以上も掛かって、まだ完成していない。そして、その間、これと言った不都合は起きていないらしい。この50年間、ダム無しでも困らなかった。だからこれからの50年間も困りはしないだろう、との考え方と、いや、これからの50年間に困る事が発生する恐れがある、との考え方の二つがある。しかし今までの日本に、こうした50年、100年先を見通しての考え方がされた事があるだろうか。建物だって、耐用年数は50年以下である。50年も経てば、いずれは壊してしまうに違いない。そこに50年先を見据えた考え方があるとはとても思えない。

 東京タワーは1958年12月23日に完成した。50年経った現在、その電波塔としての役目は終わりつつある。その役目は東京スカイツリーに受け継がれる。もしも東京タワーが50年掛かって完成したなら、出来た時には既に役に立たない物になっている訳だ。
 だから、東京タワーを50年掛かって建設しようなどと素っ頓狂な事を考える人間は居ない。なのに、八ツ場ダムは違う。一つだけはっきりしているのは、八ツ場ダムには巨額の費用が費やされている、それは国民の税金であり、工事関係者達はそのカネで潤って来たし、これからもそうだ、と言う事だ。
 何かみなさん、大きな勘違いをしているのではないだろうか、と思われて仕方がない。

音楽は目でも見る

2009年10月26日 | 趣味
 クラシックの名曲を解剖して見せてくれる番組がある。何度も聴いている名曲がこのような作りだったのかと、感心する事しきりである。今までずっと耳で聴いて来た音楽をテレビで見て、客席からは見えない所まで見えて更に分かったような気になったのだが、今度は更にその上を行く。
 先日はブラームスの交響曲第一番の冒頭のティンパニーの連打で、右手だけで打つ人、左右交互に打つ人、両手で打つ人、と三通りの演奏を聴かせてくれた。確かに微妙に違う。持っているスコアには打ち方の指示など無い。単にフォルテの記号が付いているだけだ。だから今までそんな事、まるで考えた事も無いし、聴き分けた事も無い。良い音源で良い再生装置でないと、聴き分けるのは難しいだろうが、出だしの重要な部分でもあり、今度からはそこに注意が集中するだろう。
 こうやって、一つ一つに注意が行くようになってこそ、その音楽を楽しむ事が出来るはずだ。オーケストラのどの楽器も無駄な事はしていないにも拘らず、我々はそれぞれの楽器を意識していない。単に音楽を聴くだけの立場でそのような事が出来るはずも無いのだろうが、作曲家はきちんと意識して楽譜を書き、演奏家は楽譜に従って忠実に演奏し、指揮者はそこに自分ならではの命を吹き込む。それを堪能しなければ、本当にその曲を聴いた事にはならないのだろう。

 別の番組ではピアノの鍵盤を真上から映して見せてくれた。指の動き、それがどんなに素晴らしい動きをしているのかを、ピアニストと同じ目で見る事が出来る。あまりにも目に意識が集中し過ぎて、うっかりすると音楽が流れてしまう恐れはあるが、これまた技巧の一端を垣間見る事が出来る。
 難しかろうが、易しかろうが、音楽その物に酔いしれれば良いのではあるが、難しい曲なんだ、と知っていれば、それだけ聴くにも身が入ると言うものだ。
 大型テレビの迫力は凄いが、絵に対して音が貧弱に過ぎる。だからスピーカーを組み込んだラックをセットにして売ったりするのだろうが、ラックに対する考えが浅過ぎる。売り手がセットにした機器だけが入ればそれで良いと考えているらしい。世の中にはもっと別のたくさんの機器があるのだ。まさか既存の機器は捨てなさい、と言うのではなかろう。音質を追求すると言うのなら、ラック抜きでスピーカーだけをセットにする事も考えるべきだろう。これだけ多様な世の中で、一律に一つの物だけを勧めようとするその魂胆に大きな疑問がある。多分、そうしないと利益が追求出来ないのでしょうね。

奈良県の桜井茶臼山古墳が再発掘された

2009年10月25日 | 文化
 3世紀末から4世紀前半と見られている前方後円墳が60年ぶりに再発掘されたとのニュースをテレビと新聞が伝えていた。石室全面に水銀朱が塗られているのが特徴で、貴重な顔料の使用と言い、石材の加工と使用情況と言い、強大な力を持った初期大和王権の王の墓とされている。因みに、現在では古代においては「大和朝廷」の言い方はせず、「大和王権」と言うのだそうな。確かに、古代には様々な王権があったはずだから、大和のそれは単にその一つにしか過ぎない。そうか、学者もやっと正道に戻って来たか。
 テレビでも新聞でもその水銀朱の豪勢な使いっぶりを話題にしているのだが、石室の中央には朽ちた木棺がある。木棺が残っているくらいだから、中には遺物や遺骨などもあったのではないか、と思う。しかし、そうした話はまるで出て来ない。当然に60年前にそうした物はきちんと収集されているだろうが、何しろ60年も前の話なのだから、改めてその話をしてくれたって良いではないか。と言うよりも、朱の話なんか面白くもない。
 大王クラスの古墳はほとんどが宮内庁管理の陵墓に指定されていて、発掘が許されない。だから古代の事は分からないままになっている。貴重な古代史料なのだから、発掘させるべきである。多分、皇室の出自が朝鮮半島であるとかないとか言われるのが嫌なのだろう。しかし我々は皇室を始めとして、多くの日本人が朝鮮半島にその起源を持っていると思っている。それを恥ずかしいなどとはこれっぽっちも思っていない。
 たとえ墓は霊の住まいだと考えたとしても、1600年以上も前の霊がそのままそこに居座っていると考える方がおかしい。まだ仏教が入って来ない時代だから、当然に神道で葬られたのだろう。神道では、故人の霊はその家の守り神となる、とされているが、永久にその墓や御霊屋などにとどまっているとは考えられてはいないはずだ。神霊はそんな雑な存在ではない。絶対に天上界に住んでいるはずだ。
 その神霊が仮の住まいとした古墳をなぜ発掘してはいけないのか。宮内庁が皇室を大切に思うなら、それは日本の歴史を大切に思う事と同じである。なぜなら日本の歴史は皇室と共に歩んで来た、と多くの学者や人々が考えている。だが、現在の宮内庁の方針は歴史を大切にはしていない。それは当然に皇室を大切にしてはいない事になる。これって、屁理屈ですか?

JR西日本は芯から腐っていた

2009年10月24日 | 社会問題
 そんな事はもうとうの昔から分かっていた。事故の補償についても、被害者や遺族との話し合いはもつれている。安全対策その物が利益事業の対象になっていた。そうしたら今度は事故調査委員会へ組織的に接触していた事が判明した。事故担当の6人の委員の内の4人とまで接触を持っていた。
 国交相は「企業体質を直さないと、企業の存続自体も難しい」と述べているが、当然である。ただ、鉄道の場合、一般の企業と違って、代替になる物が無い。航空会社なら、ある会社が潰れたって、別の会社が取って代われる。しかし鉄道は路線を残さなければならない。つまり、路線その物と密着している部門、それは乗務員だったり、駅のスタッフだったりする訳だが、それはそのまま残して、それを運営統括する部門を廃止する事になる。と言う事は、現場のスタッフ以外はすべて総取っ替えをする事だ。
 ただ、現場のスタッフにしても、とても常識では考えられない体質もある。事故当日、事故列車に乗っていた乗務担当職員、確か2人居たが、彼等はそのまま出勤をしたのだと言う。事故から2時間ほど後には社内ボーリング大会が予定されていた。当然参加者達は事故のあった事を知っている。しかしボーリング大会はそのまま行われた。列車や建物の下敷きになったりして救出を待っている乗客が居る、そうした事を知っていて、のうのうとボーリングを楽しんだ。
 もっとも言い訳はある。いけないとは思っても、上司にそれを言い出す事が出来なかった社風があるのだ、と言う。つまりは現場職員にもとんでもないやからが居る。企業体質を直すと言うのは簡単な事ではない。結局、国民のためになるには、一度JR西日本全部を潰す必要があるのではないのか。だが現場スタッフには生活が掛かっている。それを保障しながら、企業を一から作り直すのは並大抵の事でないだろう。
 だが、どこかでそうした苦労をしないと、このままJR西日本はずるずると行ってしまうだろう。旧国鉄のぬるま湯に浸かったような体質は、一応は民営化で直ったらしく見える。ただ、その改革は利益追求との目的が頭上に大きくかぶさっていたからこそ出来たのである。金儲けで尻をひっぱたいたから出来たのだ。
 それが今度は無い。尻をひっぱたく動機が見当たらない。今度こそ、国民みんなが、JR西日本の企業体質を直すとはどのような事をしなければならないのかを真剣に考える時だ。「企業体質を直す」などと一口に言っていては、絶対に出来ない。人は直らない。だから人を取り替えるしか無い。それを一体どの部分までやったら良いのか。そこで、乱暴ではあっても、一度潰して新たに作り直すのが、一番確実ではないか、と私は考えたのだ。

 東京の大手タクシー会社の国際自動車が社員の勤務情況をめぐって、営業停止処分を受けた。営業停止になれば、運転手の生活は脅かされる。でも国は思い切った手段に出た。汚い事をしている企業にはそれくらいの事をしなければ、駄目なのだ。もっとも、国際自動車は事前に車をグループ企業に譲ったりして、実質的には営業停止処分にはならないらしい。本当はそんな抜け道を許しての営業停止処分は何の役にも立たないのだが。
 だから、JR西日本の体質改善は、よほど腹を括って取り掛かる必要があるはずだ。カラ発言にならない事を切に祈る。
 そうそう、国交相は事故調査委員会の体質にも言及している。接触された委員の中には、単に食事をして雑談をしただけです、などとぬけぬけと言う奴が居た。どこの世界に何の役にも立たないのに、食事を奢ってやる人間がいるか。立場をわきまえよ。公正な判断をすべき人間が、疑わしい立場の人間と馴れ馴れしくするなどと、一体何を考えているのか。事故調査委員会も一度潰して新たに作り直すべきだろう。
 今、日本は古い自民党独裁の政治を潰して新たに政治を作り直そうとしている。まだ刷新の空気が新鮮な内だからこそ出来る事がある。

菅家さんの冤罪の原因は徹底的に追及すべきだ

2009年10月23日 | 社会問題
 足利事件の再審で、司法側は正式に無罪だと決定する事で幕引きをしようと企んでいる。それに対して菅家が噛み付いたのは当然だ。自分勝手な奴らのために17年間も死刑と向き合わさせられて来たのだ。申し訳ありませんでした、で済むと思うのがおかしい。
 検察官の一人がそれは必要無いなどと破廉恥にも言っていた。いい加減な事をしたのではないと確信を持っているのなら、正々堂々と糾明に応じれば良いだけの話である。後ろ暗い所があるからこそ、簡単に幕引きをしようとするのではないか。
 JR西日本の歴代3社長に対して、神戸第一検察審査会が起訴相当と議決した。これまもた徹底的に追及すべき事柄だ。
 力ある者達が(実力ではない。単に浮ついた権力を持っている者達の事だが)実に巧みに自分の罪を逃れているのを見逃してはならない。馬鹿を見させられて泣かされているのはいつもいつも名も無き庶民なのだ。
 社会的成功者が汚い金儲けをしている典型的な例の一つとして、過払い返還請求を主たる業務としている弁護士達が申告漏れを指摘されている。
 資格を持つ者約800人中、約700人が79億円もの申告漏れである。一人当たり平均は1100万円以上にもなる。何と87・5%もの弁護士が正義漢づらをして悪徳を重ねていた訳だ。

 この申告漏れについて、東京新聞は08年度の個人や個人事業者全体の申告漏れ総額を9155億円と書いているが、申告漏れが総数何人なのかが分からないので意味が無い。総数がこの弁護士達の100倍で約92億円の申告漏れになるが、総数が7万人程度のはずがない。総数70万人で一人当たり13万円の計算になる。まあ、やる奴は徹底的にやるのだろうから、平均を出してみてもあまり意味は無いが、それでもいかに弁護士達の申告漏れの金額が大きいかが分かる。
 弁護士の収入は庶民とは桁が違う。だからこの申告漏れが収入に対してどの程度かも問題ではあるが、この金額の絶対額が庶民に対してどれほどの大きさになるのかをきちんと説明しなければ、個人や個人事業者云々の記事は意味を持たないと思う。

テレビの買い替えで考えた

2009年10月20日 | 暮らし
 テレビが壊れたので、買い替えた。テレビが壊れたと書いたら、流蛍さんが、安い部品を使って安い手間賃で作っているからすぐに壊れるんだ、と教えてくれた。それと同じ事をその店でも言う。10年前の製品だから部品も無いだろうし、修理は高く付くと言う。従って買い換えになると言う。
 本当は52インチが欲しかったのだが、ちょっと大き過ぎるし、46インチにした。それだって、店で見ればそんなに大きくはないが、家に持って来たら、やはり大きい。前から思っていたのだが、画面が大きくなると、字幕などの文字もバカでかくなる。これなど、画面に応じて文字の大きさが変わる仕組みがあっても良いと思う。つまらない番組だと画面の大きさがバカらしく、番組自体も何か虚しく見えてしまう。
 そう、精細になって細かい所まで見えるのだが、あらもまたよく見えるのだ。

 私はテレビ放送にはあまり魅力は感じていない。だが、レーザーディスクやDVDを再生して好きな映画を存分に楽しみたい。映画だけならプロジェクターと言う手もあるが、部屋を暗くしなければいけないし、家族も楽しめなければ意味が無い。
 結構高い買い物なので、通販大手のある会社で買おうと思った。スピーカーを備えたラックとブルーレイレコーダーが付いて約28万円。30回払いで無金利が魅力だった。
 申し込む直前にラックの寸法が気になった。カタログのどこにもその寸法は書かれていない。テレビとセットの写真でおおよその寸法の見当を付けた。すると、私の今持っている3種類の機器がどれも入らない。高さも幅も大幅に足りない。客が自分で組み立てる物なので、スピーカー部分だけを使えるなら、現在のラックに乗せて使おうかと思ったのだが、問い合わせてそれが駄目だと分かった。そしてテレビ単体だけでは売っていない。
 そこで近くの大手家電店に行ってみた。何と、買いたいと思っていた製品が実質15万円で買える。先着5台とあり、いつからなの、と聞くと今日(10日土曜日)からだと言う。まあ、5台は宣伝文句だろうが。価格COMで調べたところでは、最安値で約14万円だから、5年間保障も付いて15万円は絶対に安い。通販はラックとブルーレイレコーダーで13万円になる計算だ。この店が特別に安いのだが、セット商品は割安と見せて、そんなに安くはないと分かった。DVDレコーダーは多機能の物を持っているから今は要らない。配達は二日後と迅速である。
  
 結局、物は安くなったが、持ちが悪くなり、決して安くなってはいない。新しい機能が付け加わっているかも知れないが、それをどこまで利用しているか。多くの人が宝の持ち腐れになっている。結果的には物を粗末にして、資源をどんどん浪費している。
 メーカーとしてはどんどん買ってもらわなければ商売が成り立たない。そこで安かろう悪かろうの製品が跋扈する事になる。なんだなんだ、メーカーの金儲けのために資源と我々のカネが無駄に使われているんだ。こうして見ると、本当に資本主義と言う物は正義なのか、と大いに疑問になる。今更昔の物々交換には戻れないが、かと言って、このまま資本主義をのさばらせていて良いのか。
 利益の追求が世の中を発展させている面は確かにある。だが、飽くなき利益の追求が世の中を決定的におかしくしているのも事実だ。利益の追求をしてその結果大金持ちになったような人が議員として多数存在するような政党が、庶民に優しく出来るだろうか。
 余裕があるから思いやりの心を持てると言うのも真実だろうが、とことん辛い目を見たりしない限り、本当の思いやりの心は持てないのではないか、と思う。現在の民主党に果たしてそうした人がどれほど存在しているのだろうか。私の好きなブログのkojitan さんは、百害あって一利くらいだとおっしゃっているが、うーん、私は甘いから利害半々ではないかと思っている。楽観的過ぎるかも知れないけど。せっかく我々が選んだ政権なんだから、せめてそれくらいの希望は持ちたいと思う。もっとも、私は民主党は選ばなかったけどね。

JR西日本の悪辣さがぞくぞく

2009年10月19日 | 社会問題
 取締役で前社長の山崎正夫氏が辞任すると言う。でも残念でした。もう手遅れだ。事故調査委員会から調査報告を漏洩させたり、公述人として自分達の息の掛かった人間に立ってもらおうとしたり、警察の取り調べに、社員にあらかじめ答を想定させておくなど、様々な画策をした。自分達がずっと主張して来たように、JR西日本には事故の責任は全くないのであれば、何も汚い事をこそこそとやる必要は無い。堂々と思った事を、信じていた事を話せばそれで良い。いや、それしかやる事は無い。
 結局は、ありとあらゆる手を使って責任逃れをしようとしたその魂胆だけが、大きく浮かび上がってしまった。そしてその汚い根性は決して山崎氏一人の物ではない。全社員と言ってしまっては間違いになるが、少なくとも上層部の人達の共通の根性であるはずだ。

 首都圏の人達はあまりよく知らないが、JR西日本は路線を不自然に切ったり、繋いだりして、新たな路線名を付けた。我々がある一つの新聞だけで目にしたのが「JR宝塚線」である。これは正式には「福知山線の半分ほど+東海道線のごく一部」である。そんな事、首都圏の人間は知らない。だから記事は「JR宝塚線(福知山線)」のような書き方をしていた。それがひどい時には単に「宝塚線」になる。もちろん、他のメディアはそんな馬鹿な事はしない。きちんと「福知山線」と呼んでいる。
 上に挙げた「東海道線のごく一部」とは尼崎―大阪で、これは当然に東海道線と重複する。そうした無理をしてまで「愛称」を付けるのは、阪急の宝塚本線と競合すると考えているからだ。確かに始点と終点は同じだが、途中の経路が大きく違う。しかしJR西日本は同じ路線なんだから、速くて安い当社に是非お乗り下さい、と言っているのである。速いったって、全線でわずか7分。しかもこれだって、最速の列車をとっているだけの事のはずだ。
 同じ事を「京都線」「神戸線」でもやっている。これらの不自然な路線名の付け方は福知山線に同じ。これも阪急の「京都本線」「神戸本線」と競合する。

 全く汚いやり方である。私鉄はずっと長い事、地元の足として活動して来た。JRは元国鉄だから、全国が対象だった。地元は私鉄に任せておけば良い。それが民営化した途端、地元にまで目を向け、私鉄が努力して培って来た乗客を横取りしようとする。この事は、明確に、事故当時の新聞の記事として書かれている。
 そうした高速化や過密運行によって客を奪おうとした事が、あの事故に繋がっている。直接に繋がっていないとしても、そうした考えが事故を招き易い体質を作り上げた。すべて上層部の責任である。そうした責任を感じているからこそ、こそこそと汚い手を使った。
 私は何年か前に、大阪の知人に尋ねた。「JR京都線」とか「JR神戸線」って納得できますか、と。答は「よく分からないけど、何か、そないな事言うてはるなあ」と言う感じしか持っていないと言う。
 交通機関はどのような物でも公共の物である。資本主義下での商売だから、利益が目的になるのは仕方が無いとしても、何 が何でも金儲けではないだろう。私の持論は、利益が目的なら交通機関を経営する事から手を引け、である。列車やバスが大好きで、どうしても交通機関の経営をしたいと言う人にだけその権利があるとさえ思っている。安全と便利のためには様々な努力が必要だから、そのお礼として生き甲斐に出来るような利益を差し上げよう、くらいである。大幅な黒字なんか要らないのだ。
 もちろん、その黒字を赤字になっているへんぴな地域の交通機関の運営に回す、と言うのであれば、利益は大きくたって良い。だが、みんな自分の事しか考えていないから、他社が赤字だって、自分の所さえ儲かっていればそれで良し。だから本当は国鉄は分割民営なんかじゃなくて、一括で良かったのだ。もちろん、民営なんかも不要。しかし民営にしなければ、つまりは目の前に儲けと言う餌をぶら下げない限り、あのぬるま湯に浸かったような体質からの脱却は出来なかった。
 腐っても鯛、とは言うが、JR西日本の場合、そのことわざは通じない。腐った鯛は処分するしか無い。

みんな、漢字を忘れている

2009年10月18日 | 文化
 プリンター、コピー、スキャナー、ファックスの機能があってA3用紙も使える複合機を買った。レーザーではなく、インクジェットなので安いのだが、それにしても格安である。多くのユーザーがA3のスキャナーの魅力で買っている。新聞記事の読み込みなどにはさぞ役立つだろう。
 領収書を書いてもらおうとしたら、品名に「複合機代」と書こうとして3画目くらいまで書いた所で店員の手がはたと止まった。そして領収書に大きな×を書いて、紙を改めた。
 同じように金額を書いて、さて品名でやはりとまどっている。私は最初に×を書いた時点で、ははあ、「複合」の文字が書けないんだな、間違って書いたと思ったんだなと察してはいたが、あまりにも失礼なので黙っていた。相当の年配の店員である。ちゃんと日本人でもあるのは、しゃべり方で分かる。
 そして「複合機」ってどう書くんでしたっけ、と聞いて来た。で私は別の紙に書いた。それを見て試し書きをするのだが、衣偏を示偏で書いている。いや、示偏ではなく、衣偏ですよ、と言ったのだが、この両者の区別が付かない人が結構居る。
 知人に常識も十分あり、人格も申し分無く、一流の仕事をしている人が居る。その人が「補習」の「補」を示偏で書いていた。あれっ、これ示偏になってますよ、と言うと、えっ、示偏でいいんだよ、と言う。そうして両方を書いていたら、私もいささか自信が無くなって来た。もしかしたら、私が間違って覚えていたのか。
 で、家に帰って調べたら、やはり衣偏である。それで、次に会った時、「甫」は根を包み込んだ苗木の形で、物を包み込む意味がある、それで衣服のほつれを包み込むようにして補修する事を「補」と言うそうですよ、と教えて差し上げた。それなら衣偏である理由がよく分かる。皮肉な事に、この人は一流のテーラーなのである。
 こうしたちょっとした間違いは非常に多い。形としては単に点が一つか二つかの違いに過ぎない。本当は「単に」ではなく、意味としては大きな違いがあるのだが、それにしてはあまりにも違いが小さい。それに、「犬」であるべきなのに「大」に変えてしまった国語政策がある。だが、すべてそうしたのでは無い。ある文字は「犬」のままで、ある文字は「大」に変えた。国の役人からして、漢字をそんな程度の物としか見ていない。
 「舎」は屋根の下に、下の方が長い「吉」を書くが、ずっと昔、私は「舌」のような字を書いていた記憶がはっきりとある。これは旧字だ。「学」と「學」のような新字と旧字なら分かり易いが、この「舎」のような場合は非常に分かりにくい。なんで、こんな場合に新字、旧字があるのかと不思議になる。つまり、新字なんか要らないのではないか。

 そうした弊害を引きずっているから漢字が分かりにくいとの理由はあるが、もう一つには文字を手書きしなくなったのも大きな理由だろう。平仮名を入力すれば、黙っていても漢字になる。後は出て来た文字の中から選ぶだけ。微妙な違いの文字が出て来る事など無いのだから、選ぶのは簡単だ。だから無造作になる。それでは漢字に注意が行き届くはずが無い。
 そう考えていたら、どうも世の中は自分で考えずに、何かを選ぶスタイルになりつつある事に気が付いた。よく行われる世論調査などその最たる物である。初めっから答が決まっている。そこに無い答なら、「その他」で片付けられてしまう。あるいは「分からない」。馬鹿にするな、と言いたくもなる。その選択肢の何と不毛な事か。答は既に決まっているのである。その既成の答に導こうと様々な仕掛けが施されている。
 「どちらにしようかな。天の神様の言う通り」なんて選んでいては絶対に駄目なのだ。きちんと自分自身の頭で考えましょう。