夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

沖縄米軍基地の愚論と正論

2010年04月27日 | 政治問題
 普天間の米軍基地を他県に移す案について、アメリカは移転先の意思を尊重せよ、と言っているらしい。それを26日のTBSテレビで、みのもんた氏が「アメリカがそう言っているんだよ。一体政府は何を考えているのか」と言うような趣旨の発言をしていた。これは明らかな愚論だと私は思う。
 移転先の意思を尊重するのは当然だとするなら、現在の基地を保持している現地の意思だって尊重するのが当然になる。しかも、アメリカが移転先の意思を尊重せよ、と言っているのは、例えばグアムに移転せよ、と日本が言えば、移転先のグアムの意思を尊重せよ、と言う事になるではないか。そんなアメリカの言い分を、みのもんたは正論だと思っているらしい。

 どの局だったか忘れたが、ニューヨーク市民の意見を聞いていた。
1 日本を守っているのだから、沖縄に米軍基地があるのは当然だ。
2 米軍はアメリカに基地を持つべきだ。アメリカの雇用事情も良くなる。ミサイル時代に場所は問題にはならない。
3 北朝鮮や中国の危険性を考えれば、沖縄基地は重要だ。

 ほぼこのような三つの意見に集約される。
 1は愚論である。米軍が日本を守るために沖縄に基地を置いている訳では絶対にない。アメリカ人がそう考えてもそんなにおかしくはないが、日本人にさえ、そのように考えている人間がいるから困るのである。
 2はまさしく正論である。米軍基地の在り方をこれほど正確に述べている人がニューヨークにも居るのだ。
 3は北朝鮮や中国の危険性に関しては正論だろう。だが、そのための基地が沖縄に必要だ、との点はどうだろうか。2の意見のように、ミサイルならどこからだって攻撃が出来るのだ。北朝鮮のミサイルだって太平洋にまで届いているのだ。アメリカのミサイルならグアムから北朝鮮や中国を的にするなんて簡単な事ではないのか。

 何よりも、自分の所は嫌だけど、沖縄県の米軍基地は必要だ、と考える人々の自分勝手さには腹が煮えくり返る。沖縄県も嫌だ、沖縄県以外も嫌だ、と言うからには、米軍はアメリカに戻るしかないではないか。
 26日朝の読売新聞は「編集手帳」で六、七年前の小泉・ブッシュ時代を「日米関係の黄金時代だ」と持ち上げている。冗談言っちゃあいけません。確かに日米交渉は楽だっただろう。「課長から局長、次官、閣僚、首脳と、上に上げれば、最後は小泉・ブッシュの協議で日本の主張が通ると日米双方が分かっていた」と言うのは事実だろう。
 だが、それは日本がアメリカに尻尾を振っていたからに過ぎない。アメリカが通すような日本の主張だけを上に上げていたのではないのか。「だから米側はその前段階で妥協してきた」などとも言っているが、妥協して来たのは日本であって、アメリカではないはずだ。多分、妥協した面はあるが、それはそれ以上の獲物を得る手段としてであるのに気付いていないのだろう。
 同コラムは「小泉元首相は、インド洋やイラクへの自衛隊派遣という重い決断をすることで米国の信頼を勝ち得た」とも書いているが、当たり前ではないか。アメリカの要求に沿った決断なのだから、アメリカの信頼を得たのである。それが「重い決断」なのも当然。日本国民を裏切り、アメリカに尻尾を振るのだから「重い決断」になるのは至極当然なのである。
 アメリカに日本人の貯金を格安に売り渡してしまうような郵政民営化を促進した小泉政策を持ち上げる読売新聞らしい考えである。読売を六ヶ月契約で取る事にしたが、半年持つかどうか、不安になって来た。まあ、どの新聞も大同小異だけどもね。

「組」とは何か

2010年04月25日 | 言葉
 読売新聞の土曜日のクイズ欄で私は一瞬戸惑った。次の問題の意味がよく分からなかったからだ。

 「今週はチョウのグループで間違い探しです。イ~チの中でまったく同じチョウから成るグループが2組あります。カタカナ2文字で答えて下さい」

 いずれも8頭のチョウから成るグループがイ~チまで八つある。なお、チョウの数え方が「一羽・一匹・一頭」と説明されていたのは、調べた4冊の国語辞典の内、「新明解国語辞典」のみだった。
 この「同じチョウから成るグループが2組」が分からなかった。普通に「組」と言うのは「グループ」を指す。けれども、「一組」とか「二組」と言う場合の「組」は異なるニュアンスがある。
・組=組み合わせて一そろいになるもの。
・組=合わせて一そろいになるもの。
・組=いくつかのものを合わせて一そろいにしたもの。

 上のように、4冊の辞典の内、3冊がきちんと説明をしている。
 では、その「一そろい」とは何か。「組」と同じく「一組」「一そろい」では載っていない。
 ここで非常に曖昧で分かりにくい現象が起こっている。一般的に「一組」とか「一そろい」と言う場合は、それで完成している組み合わせを指している。「茶碗が一組」「茶碗が一そろい」と言うのは、幾つかの茶碗が組み合わさってある種の完成感を達成していると言う意味である。単に幾つかの茶碗が集まっている事ではないはずである。
 だから、「同じチョウから成るグループが2組ある」は、「同じチョウから成るグループが二つある」とは明確に違う。「同じチョウから成るグループ」が八つのグループの中でもう一つだけあるのであれば、それで「同じチョウから成るグループが一組ある」事になる。それが「二組ある」とクイズの出題は言っている。つまり、「同じチョウから成るグループが一組」あり、また別の種類の「同じチョウからなるグルーブが一組」ある、と言っている、と私は思った。
 よくよく出題を見れば、カタカナ2文字で答えなさい、なのだから、「同じチョウから成るグループが一組」つまり「同じチョウから成るグループが二つ」あると言っている訳だ。でも、と私は思う。「グループ」がそもそもは「組」なのだ。だから「グループ」が二つあるのなら、「同じチョウから成るグループが2グループある」と言うのが正しい。それを「同じチョウから成るグループが2組ある」などと変な事を言うから間違えるのである。

 日本語の「組」の意味は、英語の「グループ」と全く同じではないだろう。だが、どの国語辞典もそうした考えは無いらしく、私のような疑問は抱いていないように見える。でも,「組」には単に「幾つもの物が集まっている」や「幾人もの人が集まっている」以上の意味があると思う。それが前述のような「幾つもの物が集まって完成している」との意味だと思う。
 くどいかも知れないが,クイズの意味は「同じチョウから成るグループが一組ある」でも通じる訳だ。そして勝手ながら私はずっと、そうした意味で「一組」を考えていた。
 「一対」と言う言葉がある。「二つで一組になる」である。この「二つ」はそれぞれが一つずつ独立している。クイズのチョウの場合は「チョウのグループ」がそれぞれ一つずつ独立して存在しているのだ。それがある理由で「一対」つまり「二つで一組」になっている、と出題は言っている。それが「二組ある」のである。
 これは一年一組、五年二組、などとは本質的に異なる言い方のはずなのである。

 そんなの無茶だ、と言う人もいるだろう。是非、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

常用漢字の追加案に不審がある

2010年04月24日 | 言葉
 常用漢字を増やす方向で話が進んでいる。根底にはパソコンの普及で書けないけれども読める漢字が多くなっている事がある。これは前々から言われていた事で、私は賛成である。読売新聞は大きな見出しで〈教師「書くのも大事」〉とあり、「学校では手で書いて覚えるのが基本」との教師の話を紹介しているが、それは当然で、でも読めるだけでも漢字を増やした方が良い、と言うのは正論である。そこには、日本語では漢字はどのような役目を果たしているのか、と言う観点が欠かせない。だから混ぜ書きをやめて「語彙・付箋・緻密・失踪・拉致」などが全部漢字で書けるようになるのもまた当たり前と言えば当たり前なのだ。
 「挨拶」や「曖昧」などが認められるのも大賛成。これらは文字の意味その物よりも、一つの単語としてのまとまりをきちんと表せる点に大きな利点がある。そうした事を多くの人が考えていない。漢字は表意文字、との既成観念に囚われ過ぎて,真実が見えなくなっている。

 しかし「書き分けが可能」として挙げられている漢字には全面的には賛成が出来ない。例としては次のものがある。
 臭い/匂い
 跡/痕
 張る/貼る
 書く/描く
 切る/斬る
 沸く/湧く
 本当に書き分けが可能なのか、と大いに疑問がある。多くの表記辞典や国語辞典が書き分けが出来ると考えている幾つもの漢字を私は徹底的に調べて、半分ほどは書き分けが出来ない事を実証した。また出来ても、その書き分け方は辞書類の説明とは大きく違う。そうした事を「プロでも迷う易しい漢字が書き分けられる本」のタイトルで、易しく説明した原稿を書いて売り込んでいるのだが、いまだに日の目を見ない。肝心の編集者がそうした事にあまり興味を持たないらしい。最も基本となる日本語の表記の問題を真剣に考えないで、どうして良い内容の本が出来ると言うのだろうか。
 まあ、そうした愚痴は別として、案として出されている漢字の書き分けがどのように説明されているのかを、毎日使っている国語辞典の中では新しい方に入る二つの辞典で調べてみた。(明)は「新明解国語辞典」(三省堂)、(鏡)は「明鏡国語辞典」
(大修館書店)。

・臭い/匂い
 (明)
 臭い=〔腐った魚などから漂ってきて〕鼻で感じられる悪い(いやな)刺激。くさみ。
 匂い=〔そのものから漂ってきて〕鼻で感じられる(よい)刺激。かおり。

 この説明は見事で、これなら二つの漢字は書き分けが出来る。何よりも、「臭い=くさみ」「匂い=かおり」なのである。ただ、この説明自体は、今「見事」と言ったが、実はそうではない。こうして比べて見ると一目瞭然。駄目な所は「臭い」は「悪い(いやな)」とあるのに、「匂い」には「(よい)」としかない事だ。( )書きはその前の言葉で言い換えが利く、との約束事。「臭い」には「悪い・いやな」の形容詞が付くのに、「匂い」にはそれが無い。「匂い」の場合には「よい」は有っても無くても良い、との意味になる。これでは「臭い」との区別は明確にはなりにくい。
 そうした同書の駄目な点を突いたかのように思えるのが次の説明。

 (鏡)
 臭い・匂い=そのものから発散されて感覚を刺激するもの。表記=不快なくさみには「臭」を使うが、「匂」でまかなうことも多い。

 つまり、「臭い」と「匂い」は区別がしにくい、と言っている。まあ、世の中の現実としてはそうなのだろうが、本当はそうであってはならないはずである。何よりも,(明)が説明しているように、「くさみ」と「かおり」なのである。「変な香りがする」とは言っても、「素敵なくさみがある」などとは言わない。本当は「変な香りがする」がおかしいはずだ。
 つまり、国語辞典の説明を鵜呑みにする限りは、「臭い・匂い」の書き分けは出来ない。この案を出している漢字小委員会は一体、どのように考えているのか。

・跡/痕
 (明)には「痕」の説明は無い。ただ、「表記」として、「種痘の痕」とも書く、との説明はある。しかしそれだって「跡」の表記として「址」「迹」とも書く、の一環だから、決して書き分けが出来る説明とは言えない。
 その点で(鏡)は明確に言う。「残ったしるし」の意味で、として次のように説明する。
 「痕」は根絶できないあと(特に、傷あと)、くっきりと残ったあとの意味合いで、「弾痕・墨痕・血痕・傷痕」などと好まれる。

 私は同書の「と好まれる」の言い方が非常にいやだ(かなり多く出て来る)。何かとても曖昧な気がするのだ。私達はそうは思わないんだけど、世間がねえ、と言っているように思えて仕方が無い。私の根性が曲がっているのだろうか。それは別として、この(鏡)の説明なら、書き分けは出来る。

・切る/斬る
 これもまた難しい。簡単には「切る」は物で、「斬る」は人になる。だから(明)は「斬る=刃物を使って人を傷つける(て殺す)」と説明するのだが、「一方的に退職させる」場合にも「首を斬る」とあるから、説明が分からなくなる。「情実を抜きにして、徹底的に批評する」の用例として「国会を斬る」ともある以上、「斬る=人を刃物で傷付ける」とはならないだろう。
 つまり、「斬る」は本当に人を殺すような場合とそれに匹敵するような、いわゆる「死命を制する」ような場合に使う、とすればよく分かる。

 「張る・貼る」は、「張る」の意味が非常に広いのに対して、「貼る」は布や紙を別の物に付着させる場合に限って使われる事を考えれば書き分けは出来る。だから、ポスターや掲示は「張る」ではなく「貼る」となる。

 いずれにしても、これらの書き分けは、片方の文字の出番が限られている点に特徴がある。その点を明確にする必要がある。国語辞典でさえ明確に言っていない事を、委員会はどうやって一般国民が認識出来ると考えているのだろうか。私にはとてもいい加減に考えているとしか思えない。普段からこちらの漢字も使うべきだ、と考えていた、それを実行に移す、と言う心意気しか感じられない。その「こちらの漢字も使う」との根拠があまりにも薄弱過ぎる、と私は思う。
 「におい」などは、「良い匂い」「悪い臭い」などとするのではなく、「良い香り」「悪い臭い」とすれば良いのだ、と私は考えている。「におうね」と言うのは、そのほとんどが悪い場合に限られているのだ。せっかく「かおり」と言う良い言葉があるのだから、生かせば良いのである。
 今回の提案は何か、場当たり的でいい加減で曖昧で、といった感じがする。

 上記でを使った二冊の辞書は比較的新しいとの理由もあるが、実は私が少々問題だな、と考えている事が多い辞書だからでもある。(明)はユニークさを特徴としていた前の版をわざわざ使っている。買った時点で、新版はそのユニークさが少々薄れた、との批評があったからだ。辞書のユニークさとはどのようなものかを知りたかった。そしてそのユニークさに私はほとんど感心する事が無い。「独断と偏見」で言わせてもらえば、独りよがりなのである。古い言い方を「老人語」と言ったりするのはほんの序の口。通り一遍ではない親切な説明は多いが、その親切な説明が独りよがりになったりする場合も決して少なくないのである。
 (鏡)は歴史の非常に浅い辞書で、その点では他の辞書には無い唯一の辞書を、との意気込みは感じられるのだが、それが変な方向に向かっている場合が非常に多い。素晴らしいと感嘆するような説明もあるにはあるのだが、他の辞書とは差を付けようとの思いがあるから、同じような説明になってしまう場合に故意に表現を変えたりしていて、それが間違った説明になっている事が、これまた決して少なくはないのである。

 このような事を言っているのは、世間で評判の良い国語辞典でさえ、あまり信頼は置けそうもないのだから、漢字小委員会がどうやって漢字の書き分けが出来る、などと考えているのかがとても不安に思えるからである。

 

物を捨てるのは楽しい

2010年04月20日 | 暮らし
 長い間使っていないけれどもなぜか取ってある物が結構多い。改めて自分の仕事場の中を見回してみた。使う物は年中使うが、使わない物は本当に永久にと言えるくらいに使わない。それなのにそうした使わない物がごろごろしている。なぜなのか。答は分かっている。捨てられない性格だからだ。物を粗末にしてはいけない、と言う強迫観念がある。物の無い時代に育ち、加えて貧乏だった事もある。途中にはすごく金回りの良い時もあったが、それでも地道に培われて来た性格は直らない。
 使わない物はあちこちに分散しているから目立たない。だからそれらを集めてみた。と言っても動かすのが大変だったり、また置く場所も無かったりするから、そう簡単には行かないが、出来るだけ、目に見えるようにした。
 こうした物を処分して来なかった理由もまた明らかだ。決心したくないのだ。物を処分すると言うのは決断力が要る。それはエネルギーが要る。決断するまでに様々に考えなければならない。それが面倒だ。そこでついつい、一つくらいどうでもいいや、と決断を先延ばしにする事になる。しかしその「一つくらい」が幾つもある訳だ。
 捨ててしまって、もしそれが要る事になったらどうしよう。無駄な出費になるではないか。だが、考えてみれば無駄な出費など様々な所でしている。その内の大きな一つが買いだめである。これは昔「暮らしの手帖」で花花森安治編集長が書いている。「買いだめのすすめ」として。だが、それは常に一つだけ予備を持っておく、との話だったはず。それを私は安いからとか、買いに行く手間が省けるなどの理由で二つも三つも買いだめしていた。
 まだ無駄にはなっていない買いだめ品の例としては、CDのメディアがある。データをCDに焼くつもりで買ったが、MOの方がずっと簡単でしかも安全なので、使っていない。そのMOだって、50枚ほどの予備がある。保存しておくべきデータなどそんなには無い。しかもみな厚さのあるケース入りだから場所を取る。
 買いだめしていた部品や消耗品の中には、肝心の本体が壊れたりして使えなくなり、泣く泣く捨てた事が一体何度あったか。そうした無駄を考えれば、もう一度買い直さなくてはならなくなる場合の損失など、さしたる事ではない。

 そこで、使っていない物を捨てる事にした。中には思い入れの強く残っている物もある。買った時には高かった、とか、欲しくてたまらなかった、などの気持だ。でも、買った時には高かった、は有効な思い入れにはならない。なぜなら、今は様々な高機能品が安く手に入り、価格は問題にはならなくなった。だから残るのは欲しくてたまらなかった、との思いである。これはなかなか消えない。今でも欲しかった気持が続いている。だからこれは処分が出来ない。
 そして、そこまで決断する必要は無い,と私は思っている。欲しい、と言うのは自分の生きている証でもある。そこまで禁欲的になる必要は無い。その分、思い入れの無い物は、たとえ高い物であっても捨てる。
 こまごまとした物を捨てたら、45リットルのゴミ袋が一杯になった。大きな物はその比ではない。これだけの事で、何と気持がせいせいする事か、と今更ながら思った。
 よく、保存しておく場所代が高いので、無駄な物は捨てよう、と言うが、私の場合は精神的な負担が大きいから、の方がずっと強い。場所をふさいでいる、との思いだけではなく、決断出来ない自分にイライラしている。
 私の決断力は更に高まって、今までは捨てられなかった本にまで手を出している。中にはシリーズ本だから、と捨てられない本があるが、日本の歴史シリーズのように、いい加減な考えで書いている本もある。特に古代関係が駄目だ。古代が駄目なら、中世だって駄目に決まっている。何しろ監修者は同じなんだから。
 そうしたシリーズ本は捨てる事に決めた。単行本で捨てる事に決めた本は数えたら50冊以上になった。私自身、本を書いている人間だから、本を捨てる事には大きな抵抗感があるが、古本屋に、などと考え始めたら、せっかくの決心が崩れてしまう。しょせん、捨てられる運命の本はそれだけの事なのだ、と割り切る事にした。
 ついでに百科事典もCDROMになっている別の百科事典を持っているから、本の方は捨てる事にした。これだけで相当すっきりする。百科事典を処分するほどだから、つまらない小物を取っておくような本末転倒な事は絶対にしてはならない、と自分に言い聞かせた。
 考えてみれば、物を捨てるのが楽しいのは,決断が出来る楽しさだった。

裁判員裁判で量刑が重めって、本当?

2010年04月18日 | 社会問題
 読売新聞にタイトルの内容の記事が載った(17日)。殺人事件に関しては、裁判官の量刑よりも裁判員の量刑の方が重い傾向にある、と言う。
 裁判官の量刑と裁判員の量刑を示したグラフが載っていて、確かにその二つにはずれが見られる。
 おおまかな傾向を言うと、裁判官の量刑は一つの大きな山を描くような曲線になる。16年未満~5年が高い山になっている。その頂上は13年未満~11年。裾野はずっと低くなるが、その中で無期だけは小さいながらも突出している。
 裁判員の量刑もほぼ似たような傾向にあるのだが、裁判官とは異なる特徴がある。
 一つは10年未満~9年に大きな谷底がある。裁判官の量刑にはそのような不自然な傾向は無い。
 二つは無期が裁判官よりもずっと少ない。
 そして裁判員の量刑の山の頂上は19年未満~17年。裁判官の二倍はある。ここが大きくずれていて、記事はこれを指して裁判官の量刑よりも重めだ、と言っているらしい。

 しかし無期を見れば、それは裁判官よりもずっと少ないのであって、裁判官よりも重めではない。もっとも、無期とは終身刑ではなく、単に刑期が定められていないに過ぎない。だからいとも簡単に出所出来たりしていて、世間の批判の対象になっている。従って、無期が裁判官よりもずっと少なくても、実質的にはたいした変わりは無いとは言える。
 実質的な刑期である15年未満~11年にかけては、裁判員は裁判官よりもずっと量刑が少ないのに、上記のずれだけを見て、裁判員の量刑は重めだ、と言えるのか。記事はある刑事裁判官の意見を次のように載せている。
 「裁判員は被害者の状況を自分に置き換えて受け止める人が多く、生命にかかわる犯罪や性犯罪では、やや量刑が重めになりつつあるのではないか」
 確かにそれは言える。と言う事は,裁判官は被害者の状況を自分に置き換えて受け止めてはいない、と言う事になる。現実にそれはたくさんある。被告には反省の態度が見られる、とか、家族の協力がある、などと言うたわいもない理由で、簡単に刑を軽くしてしまう。そして、受刑者が出所して再び同じような犯罪を繰り返したと言う実例が一体どれほどあったか。犯罪を他人事と見ているからそうなるのである。

 この読売の記事で、私が一番役に立ったと思ったのは、この裁判官の意見である。ただし、一つのピークだけを見て、量刑が重めだ、と言う事には大きな違和感がある。人を裁くのは難しい。公正な量刑とはいかにあるべきか、は簡単には答が出ない。でも、罪と認めた経過に過ちが無い限り、殺人事件などは重い量刑で当然なのである。新聞は軽々しく物を言っては困る。
 この記事の大きな見出しは二つ。「裁判員裁判 量刑重め」「殺人事件〈裁判官〉より」。これだけなのだ。つまりは、これがこの記事の趣旨になる。「殺人事件〈裁判官〉より」の見出しは、「殺人事件 被害者の身になって」とあれば、もっとずっと真意が伝わると、私は思う。

床屋へ行くのが苦手

2010年04月16日 | 暮らし
 私は床屋が苦手。あの大きな鏡の前に座らされるのが何よりも嫌だ。自分の家で洗面所で鏡に向かってひげを剃ったりするのは何ともない。そこに映っている自分の顔を見ているのは自分一人しか居ない。でも床屋では違う。たとえ職人が私の鏡に写った顔など見ていなくても、他人の目があるのが違う。
 だからどうしても足が遠のく。散髪し終わった時には、気持がいいものだから、今度は一ヶ月以内に絶対に来よう、と思う。しかしその一ヶ月を目の前にすると、前の覚悟はどこへやら、まだいいか、でずるずると延ばしてしまう。挙げ句、裾の毛が伸びて来て、カールし始める。私はくせ毛なのだ。それで、その部分をはさみで切って凌いでいる。でももうそろそろ、妻から、みっともないから床屋へ行きなさいよ、の声が掛かる時分だ。
 そしてふと、床屋へ行きたくない理由がもう一つあるのに気が付いた。
 人にやってもらうのが好きになれないのらしい。これ以外ではあまり人様の厄介にはならない。歯医者とか外科手術を受けるなどは別だが、それは滅多にある事ではない。だが散髪は日常的な事柄だ。その日常的な事を人にやってもらわなければならないのが、どうにも納得出来ないらしいのだ。
 ズボンの裾上げなども、ジーンズは厚手だから無理だが、普通のウールや木綿の物なら、自分でやる。ウールは針目を出さないように手縫いで、木綿はミシンを掛けてやる。店で短い股下を計ってもらって直してもらうのはあまり嬉しくはない。そう言えば、前はワイシャツの襟も裏返して縫い直して着ていた事がある。
 家のカーテンも以前はすべて自分で布を買って来て、自分で縫っていた。直線縫いだから、基本を知っていれば簡単。きちんと窓の寸法に合ったカーテンが仕上がる。しかし妻が私がミシンを掛けているのを厭がるので、それに安くなったから、既製品を買う。しかし寸法が合わない。それで結局、裾上げしたり、幅が足りなければひだをほどいて調節したりしている。本当は、そんなのカーテンとは言いたくないのだが、長い物には巻かれろ、である。妻の言う事は「はいはい」と聞いているのに限る、とみんなが口を揃えて言っている。もちろん二度返事は駄目だが。

 ただ、先日は大失敗をしたらしい。妻が夕飯は冷やし中華がいい、と言い出した。で買いに行ったのだが、季節はずれだから、どこにも売っていない。そこで普通の中華麺を買って来て、自分で冷やしのたれを作った。妻にも味見をしてもらい、旨く出来たと思ったのだが、遅く帰って来て食べた息子から、翌朝、まずくてどうしようかと困った、と言われてしまった。多分、つけ麺のたれでも良いのだろうが、東京ではつけ麺はあまり人気が無く、私の行った店では売っていなかった。
 それでも、私の作る餃子やマーボ豆腐、カレーなどは定評があるから、別に味音痴な訳でもない。まあ、こうして何から何まで自分でやろうと思っているから、たいていの事では困らない。最近は合わせ鏡で髪の後ろの部分を切り揃えるのもかなり上手く出来るようになった。だからだろうと思うが、もう二ヶ月以上も床屋に行っていないが、妻からまだ苦情は出ていない。

デジタル時計の分かりにくさと意味の分かりにくさと

2010年04月15日 | 文化
 最近電池を取り替えた腕時計が突然に止まった。しかし新しい電池に替えても動かない。どこかが壊れたらしい。直すよりは買った方が安い。次に買う時はソーラーの電波時計を、と思っていたから、すぐには買えない。息子が余っていたデジタル時計を貸してくれた。息子の持ち物だから高級品である。彼は絶対に中途半端な物は持たない主義なのだ。車に積んでいるカーステレオなど、私が良い音だと思っているアンプとスピーカーシステムの何倍もの値段で、私は開いた口がふさがらない。
 だが、デジタル時計はどうにも分かりにくい。現在の時刻は明確に分かるのだが、予定の時刻まであとどれほどあるのかが、簡単には分からない。アナログの針の時計ならぱっと見で分かるが、デジタルではいちいち計算しなければならない。大袈裟なようだが、そうなる。それが簡単ではない。

 デジタル時計とは、時刻を針ではなく、数字で表示する時計である。何を今更、と思うかも知れないが、「デジタル」の意味が気になった。テレビはもうじきアナログ放送からデジタル放送に切り替わる。そのデジタル放送は別に「文字放送」ではない。当たり前の事だが、「デジタル」とは英語で「ディジタル」で、意味は「数字の・数字で計算する」である。
 つまり、今流行りの「デジタル」は信号を数字の0と1に変換する方式の事だ。コンピューターと同じ方式だから,正確無比と言う事になる。ただ我々の語感としては「数字の・数字で計算する」ではなく、その結果としての「正確だが、融通の利かない」とか「暖かみの無い、人間性の無い」と言うような意味で受け取っている。そこには一種の飛躍があると思う。時計のデジタル表示とテレビのデジタル放送との間には大きな溝があると思う。「デジタル時計」は分かるし、テレビの「デジタル放送」も何となく分かる。でもその二つの間に共通する物が見えない。

 それは「デジタル=数字の」を忘れて、安易に何でもかんでも「デジタル」と言い始めたからである。外国語を日常語に使うと言うのはそうした事なのだ。「アナログ」にしても、我々は明確な意味をよく知らない。そしてアナログはデジタルが出現して、初めてその意味が分かる。「アナログ=数や量を連続的な物理量(=長さ・角度・電流など)で表現する方式」と言われても、「デジタル=0と1で表現する」が無ければ分からない。
 まあ、その0と1で表現するにしても、理屈は分かっても、どうしてそれで、例えば音楽などが表現出来るのかは分からないのだが。私としてはアナログ音源のクラシックのレコードを300枚ほどまだ持っているから、当分はそれを楽しむ事でもしましょう。

汚い会社はどこまでも汚い

2010年04月14日 | 社会問題
 田辺三菱製薬が25日間の一部業務停止処分になった。子会社が新薬の試験データを改竄したのだと言う。その子会社は「バイファ」と言う名前だが、旧ミドリ十字が設立している。旧ミドリ十字がエイズウイルスの混入した非加熱血液製剤の販売を続け、患者が死亡している事は誰もが覚えている。だから同社は解散して新しい会社に衣替えをしたのである。ミドリ十字の名前が消えてしまうのを危惧した人々は少なくない。確か毎日新聞だったと思うが、コラムでその危惧を書いていた。
 ミドリ十字の歴代二人の社長が業務上過失致死罪で実刑判決が確定している。今回は田辺三菱が子会社の不正を漫然と見逃したとして行政処分を受けた。
 田辺三菱製薬の社長は「人の生命にかかわる製薬会社として、あってはならないこと。深くおわびしたい」と言っているが、あってはならない事が、このようにいとも簡単にあってしまったのだから、「人の生命にかかわる製薬会社」の意識がどこまであったのか、いや、今もあるのか、大いに疑問だ。
 社外調査委員会委員長の弁護士が言っている。
 「バイファは旧ミドリ十字の経営が厳しい時に設立された会社で、同社の利益重視、安全性軽視の企業姿勢が表れている」
 田辺三菱の社長は子会社のバイファがどのような会社か十分に知っている。弁護士が言っているような事はきちんと認識している。そんな認識も無く、子会社にする訳が無い。知っているんだから、十分に注意を払うべきである。俗に三つ子の魂百までも、と言うではないか。

 厚労省は同社が不正を漫然と見逃したと監督責任を問うているが、漫然と見逃したのではないだろう。「漫然」は国語辞典には「特別の意識・目的を持たない様子」とあるから、「漫然と見逃す」とは「うっかりと見逃す」と同意語にもなる。そうではない。同社の場合は「意識的に見逃した」と言われても文句は言えない。なぜなら、要注意会社と知っていて注意を怠ったのだ。そこには明らかにある意志が存在している。もしも要注意会社との認識が無かったのだとしたら、経営者は能無しとしか言い様が無い。
 俗に子供を見れば親が分かると言う。子供は親を見て育つ。ただ、この事件は、現在の結果だけを見れば、この子供は生来の性悪者だ。それがそのまま親に移ったのか、それとも親もまた性悪だったのか。
 多分、一心同体なのだろう。類は友を呼ぶ、とも言う。

 さも通りそうな事を言い、お詫びをしている姿勢を見せたって、そんな事で騙されたりはしない。田辺三菱にしても、合併して現在の名称になった。この際、旧田辺製薬と旧三菱ウェルファーマのした事も徹底的に追跡調査した方が良いと思う。人間の性格はそう簡単には変わらない。その人間が経営しているのだから、会社の性格もまた簡単には変われない。経営が苦しかったから、は言い訳にはなり得ない。苦しいからと不正が出来るような人間や会社は、苦しくない時でも安易に不正に手を染める。それは世の中の多くの事例が明白に語っている。

米軍基地問題をもっとしっかりと考えよう

2010年04月13日 | 社会問題
 鳩山首相が窮地に追い込まれている。米軍基地問題だ。基地のお陰でたっぷりと儲けさせてもらっている人間なら別だろうが、米軍基地を歓迎する国民なんかどこにも居ない。移転の候補地に挙がった鹿児島県徳之島では、「米軍基地は要らない」の看板や横断幕が日増しに増えていると言う。
 米軍基地は要らないが、では日本の自衛隊の基地ならどうなのだろうか。やはり「自衛隊の基地は要らない」の看板や横断幕が出番となるのだろうか。
 米軍基地が厭がられるのは彼等が勝手だからだろうと私は考えている。日本を守ると言ったって、そんなのはキャッチフレーズで、本心はアメリカのアジア政策の基地の確保だろう。そのほんの一端として日本の安全も守る事になる、と言う図式だと思う。だから恩は着せるし、住民の迷惑なんか歯牙にも掛けない。
 つまり、米軍に依存しているからそうなる。多分、当てには出来ないだろう日本を守るとの約束に縛られているからそうなる。だから、そんな危なっかしい約束は破棄して、日本は自分達で国を守るべきではないのか。その場合、自衛隊の基地は要らない、とは言えなくなる。現在は米軍の基地問題なのだが、徳島の人々に、もしも米軍ではなく、自衛隊だったらどうなのですか、と聞きたいと私は思う。自衛隊なら反対はしない、と言うのであれば、やはりアメリカの事しか考えていない米軍が諸悪の根源なのだ。

 自衛隊にしても基地の問題は難しいと思う。誰だって、そんな物騒でしかも騒音をまき散らす基地なんか、自分のそばに欲しくない。どこか遠く離れた所に存在していて欲しい、と勝手な事を考えている。米軍ならなおさらの事。それを今までは沖縄に押し付けて来た。既成事実として、沖縄は我慢せよ、と言って来た。たとえ口には出さずとも、心の中でそう思って来た。そんな勝手がいつまで続くと思うのか。
 自分達の所には米軍基地は嫌だが、他の場所ならいいですよ、が通じない以上、米軍に依存する現体制を根本的に考え直すしか道は無いはずだ。
 自衛隊の基地にしても、日本のどこかには絶対に必要なのだから、それはきちんと考えるべきだ。そのためには、愛着のある土地から離れなければならない事だって起きる。でもそれは大局的見地から見て我慢すべきだと思う。その代わり、しっかりと代替地を確保して、国民の生活を守る必要がある。

 日本を守る事についても、自衛隊についても、米軍についても、政治家は国民の事をしっかりと見据えた考え方が出来ていない。長い物には巻かれろ方式で、怖いアメリカに対して恐る恐るの外交をやって来た。刃向かって失墜した人の例を見ている。
 これはアメリカだから何とかなっているが、もしもそれがロシアだったり中国だったりしたら日本はどうなってしまうのか。いや、同じ穴のむじなだよ、と言うのかも知れないが、それならそれで、ロシアや中国に牛耳られる事を想像すれば、アメリカに牛耳られている怖さも自ずと分かる。自分だけ安穏としていてこの国を守る事は出来ない。

民主党の基本理念を考える

2010年04月10日 | 社会問題
 昨日、民主党の基本政策は変わっていないと思うと書いたが,新聞によると道路建設費を賄うために高速道路の料金値下げを縮小するのだと言う。あれあれ、新たな高速道路は作らないはずじゃなかったっけ。
 現在、不要不急のマイカーが多過ぎるのではないか。確かに車産業は国力の基礎にもなっている。それに車は何と言っても便利ではある。だが、その便利さは本当に必要な便利さだろうか。これはすべての事も同じである。携帯電話はもう必需品になってしまった。かなりのお年寄りでさえ、孫とメールのやりとりをしているのだと言う。それだけ肉声での意思の疎通が無くなっている訳だ。
 児童を放課後、学童を預かる施設に託してまで母親が働いているのは、その多くが携帯電話の料金を支払うためだと聞く。本当か、と私は首をかしげるが、母親達がそう言っている。何かが狂っている。電車の中では、今流行りの指で画面を動かしたり出来る端末を得意そうに仲間に見せびらかしているサラリーマンもよく見掛ける。そうした新しい技術にはすぐに乗れるのだが、昔からのしきたりとか社会でのお付き合いの仕方などには乗る事が出来ない。おかしな頭でっかちの人間ばかり増えている。

 ろくな家に住んでもいないのに、車だけは豪勢だ、という若者も居る。家が買えないからせめて車だけでも、との思いらしいが、それは異常な考えだ。だが、そうしか出来ないとの現実がある。社会が狂っているのだ。狂わせている張本人は車とか携帯とか、バソコンとか、様々な新製品を作って買わせている連中である。彼等はそれが商売だからそれで良いのだろうが、それにうっかりと乗せられて、人生とはそうしたものなんだ、と思わせられている人間は惨めである。
 私は、民主党政権はそうした人間としての本来の在り方を取り戻してくれる政権だと思っていた。だが、どうも違うらしい。単に、高速道路の事だけで言うのは早合点かも知れないが、いやいや、車は今ではこの世の中の基本的な存在になってしまっているんだから、一事が万事である。車社会を見直そうと言うのかと思っていたらこの有様だ。
 確かに地方では車が無いと生活出来ないらしい。私も田舎に住みたいと言うと、みんなが異口同音に車が無いとやって行けないよ、と言う。でも、田舎に住んで東京に通勤している人の話を聞くと、周囲ではみんながみんな車を持ってなどいないと言う。そうした人はタクシーを利用している。車の維持費を考えたら、そんなに毎日出掛ける訳じゃなし、タクシー代なんて大した負担にはならないのだそうな。
 本当は、そうした地方にこそ公共交通機関が充足していなければいけないはずなのだが、公共の交通機関までもが、利益追求に走ってしまっているから、どうにもならない。その最たる存在が民営化した旧国鉄である。