夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

テレビで、言葉遣いについてまたまた細かい事を言う

2009年11月30日 | 言葉
 今朝テレビのニュース番組を見ていて司会者の言葉で気が付いた事がある。
 ある殺人事件で防犯カメラに映っていた男とよく似た男が別の事件で逮捕されているとのニュースである。被害者の女子大生は友人の家を出てからの足取りが分かっていない。その「友人」をフジテレビのある司会者の一人、敢えて名前は出さないが、育ちの良いと言われている男性だと言えば、多くの人がお分かりになるだろう、その彼が「お友達」と言ったのである。
 頭に付ける「お」や「ご」は普段の言葉遣いがそのまま出る。特に注意して発言する場合以外はそうなる。日常的な言葉ほどそうなる。例えば「水・酒・醤油・味噌・金」などなど。まあ、多少の揺れはあるが、普段から「おかね」と言っている人は絶対と言えるほど「かね」などとは言わない。
 そうした事で一番印象に残っているのが、私の大学生時代の同級生だ。大学の食堂でカレーライスを食べていた時、その彼が「今日のカレーお肉がいっぱい入っているね」と言ったのである。えっ! と私は思った。私は「お肉」などと言った事が無い。「お魚」はあるが、「お肉」は絶対に無かった。彼は都心の一等地に家があるお坊ちゃんである。だが、筋骨たくましく、思いやりはあるが、筋の通った男である。スポーツも万能の観があった。言うならば男らしい男なのである。その彼が「お肉」なのである。
 なるほど、育ちが良いとはこうした事か、と私は思った。

 同じような時間帯でテレビ朝日の司会者の一人は、これとは全く別の言葉遣いをした。正月のおせち料理の話で、コメンテーターに「おせち料理をいただきますか」と聞いたのである。聞かれた人は「ええ、いただきますよ」と答えた。コメンテーターの言葉が正しいのは誰でも分かる。番組の司会者ともあろう者が、相手に対して「いただきますか」と言うのである。若い男性ではあるが、その番組の顔でもあるのだから、もっときちんとした話し方が出来なければ、失格である。
 私がよく行く有名な魚屋では、ご主人と思える男性が、「さあ、新鮮ないわし、いただいて下さいよ」と叫んでいる。いつだってそう叫んでいる。もちろん、いつも「いわし」ではない。冗談じゃない、と私は思う。「召し上がって下さい」だろうが。街の魚屋なら、御愛嬌と許されるだろうし、それに威勢の良い魚屋が「召し上がって」ではそぐわない観もある。ならば「さあ、新鮮ないわしですよ」くらいにしておけば良いのである。彼は「いただく」がどのような言葉かを知らないらしい。そして、テレビ番組の司会者では絶対に許されない。

 その番組ではアシスタントの男女の若い司会者が居る。このおせち料理の話で、黒豆、数の子、田作り(ごまめ)のいわれを説明した。すると若い男性司会者が「へー、そうだったのか」と反応した。まあね、若いから知らなくても良いだろうが、いやしくも番組を進行させる役目を仰せつかって出ているのである。事前にそれくらいの事勉強しておきなさい、と私なら言う。番組で司会者が勉強してどうなると言うのか。
 ホント、番組で勉強している司会者や進行係はほかにもたくさん居る。番組はあなた達の勉強会じゃないんだよ、と言いたくなる。
 彼等は少なくとも、自分はテレビに出ているんだ、との自負がおありだろう。その自負にふさわしい人間におなりなさい。今のままでは、自負心だけが先走りしている。だから、からっぽの人間がそこに居る。 

言葉のアクセントについて

2009年11月29日 | 言葉
 NHKの「茶道云々」の番組を見ていた。茶道にまつわる様々な文化が紹介されている。何か似たような番組を前に見た覚えがあるのだが、まあいいや。と思って見ていたら、どうもある言葉のアクセントが気になった。「茶入」と「仕覆」である。「ちゃいれ」「しふく」と読む。茶入は抹茶の入れ物で、焼物。濃茶用のお茶を入れる。薄茶用のお茶を入れるのは漆塗りの「棗」(なつめ)で、茶入の方が格が高い。その茶入を保護と美観の用途から入れる袋が仕覆である。古い時代に中国などアジア諸国から伝わった貴重なきれが使われる。
 このどちらも語頭にアクセントがある。それが「茶入」は「茶色」と同じアクセントで「いれ」が高くなっている。「仕覆」は「私服」「私腹」「至福」と同じく「ふく」が高くなっている。私は茶道は専門ではないが、十年以上関連する本の編集に携わって来た。取材をさせてもらう相手はほとんどの場合、家元か家元筋の人々である。そうした人々が、番組のようなアクセントで話すのを聞いた事が無い。
 番組で「仕覆」を作る専門職の人が話しているのを聞いても、ちゃんと「し」にアクセントがある。
 変なアクセントの「茶入」と「仕覆」が何度も何度も出て来るので、もう気になって気になって仕方が無い。私はアクセントに異常に神経質なのだ。馬鹿馬鹿しいが、この性格を直す事が出来ない。なんか、嫌になってしまって、途中で消してしまった。

 こうした番組はもちろんの事、専門家の指導を仰いでいる。そうしたら、物の名前も正確にすべきだろう。相手が「ちゃ」や「し」が高い発音をしているのに、それを無視するなんてとても私には考えられない。もしかしたら、指導者達はみな京都の人々だから、語頭が高いのは京都弁のアクセントであって、標準語は違う、とでも思ったのか。
 念のために「NHK編 発音アクセント辞典」を見たら、「茶入」はあるが、「仕覆」は無い。その「茶入」にしても、普通の家庭で使う「茶入れ」しか載っておらず(表記が違う。茶道では「れ」は送らない)、そのアクセントは「いれ」が高くなっている。つまり、専門用語は載っていないのだ。従って、この番組では、このアクセント辞典を参考にする事は出来ない。
 たとえ、ナレーターが知らないのだとしても、そこにまで気を配るのが、ディレクターの仕事ではないか。無責任である。そしてナレーターはそうした初見の言葉があれば、アクセントを確認するのが責任ある仕事と言える。
 自分の知らない事に取り組む時には、謙虚になって勉強し、相手の知識を吸収しようとするのが当然である。この番組ではナレーターもディレクターもとてもプロとは言えない。そんな人達が寄ってたかって番組を作り、さあ、受信料を支払えと迫る。どこか間違ってはいませんか。

 ついでに。民放もそうだが、教養番組のナレーターの特に女性には、強弱を付け過ぎる人が居る。それが多分、ナレーターの技量の一つだと思うのだろうが、言葉がとても聞き取りにくい。弱い所はほとんど聞き取れない。一生懸命に耳を澄まさないと聞こえないナレーションなんて、神経が疲れるだけで、くそ食らえである。森繁久彌さんのように話芸が巧みなら別だが、ナレーションに演技は要らない。分かり易く語ってくれれば、それで結構。現在の番組では、映像は雄弁とは言えない。ナレーションがあって初めて分かると言う画面などそこいらじゅうにある。テレビはもっとナレーションに気を配るべきである。

民主党政権の仕分け作業は素晴らしい

2009年11月28日 | 政治問題
 これは実に素晴らしい事だ。前代未聞の事である。今までどの政府も出来なかった、あるいはやらなかった事なのだから。やらなかった理由は明確だ。政府も省庁もぐるになっていたからだ。そこには国民のための政治なんてくそ食らえである。あるのは、自分達の都合しか無い。その「都合」は反省される事無く、延々と続いて来た。どんなに無駄な予算でも、余せば次は削られるからと無理に使う。そうした仕組みを一度根っから崩す必要がある。

 やり方が乱暴だと言う声もある。ある女性の役人は「私の言う事も聞いて下さいよ」と言って、その姿が何度も放映されて失笑を買っている。それはまことにみっともない姿だった。自分達の事しか考えていない。ノーベル科学賞を受賞したある科学者は自民党の会議で、科学分野での予算の削減は将来の夢を壊す事だと言っている。そうしたら、次にはそうした大科学者達が揃って、科学技術の発展を損なう、などと言い出した。
 そうだろうか。確かに夢は大切だ。夢から大きな花も咲く。だが、夢はあくまでも夢である。それと現実を計りに掛ける訳には行かないが、夢で人間は生きては行けない。
 人類の将来性を損なってはいけない。しかし現実の生活を損なってまで将来の夢に懸ける必要はさらさら無い。我々は将来のために生きているのではない。今、この現実を生きている。もちろん、将来の地球を損なうような「現実」を認めてはならない。だが、我々の大切にしている「将来」と、どうも科学者達が考えている「将来」にはギャップがありそうだ。科学者は自分の専門分野の「将来」だけしか見ていないのではないか。彼等が言う科学技術とは、どうも我々の生活とは離れた事のように思える。
 それにそんなに科学技術が進歩しなくたって、我々は現実に困らない。テレビの映像がどんなに精細になったって、肝心の内容がまるで進歩していなければ、何にもならない。むしろ反対に、映像の進歩に頼り過ぎて、内容を練り上げる事をおろそかにしている。
 それはテレビだけの話ではない。すべてがそうなのだ。すべてにおいて、内容よりも見た目だけが上滑りをしている。科学者達が言う科学の進歩にしても、それで日本の輸出に役立っているのか。
 技術が世界一で、その分野では世界の要求のほとんど全部を供給していると言う町工場がある。その町工場は、こうした科学者達が言う科学の進歩によってその技術を磨いたのではないだろう。
 介護の出来るロボットを開発するなどの事なら、誰も反対はしない。だが何の約に立つのか分からないような、「純粋の科学の進歩」と言うか、「科学と言う学問のための科学の進歩」なら、ひとまずは現実を優先にしてしかるべきだろう。

 省庁の役人もこの科学者達も自分の生活には不安が無い。だから夢に懸ける事が出来る。しかし現実には夢などはおろか、今この時点での生活に不安を覚えている人々がどんなに多く居るか。親の庇護の下に生きている青少年なら、自分の夢に懸けるのもいい。生活がきちんと成り立っている人なら、夢に懸けてもいい。だが、生活が不安な人間に夢に懸ける余裕は無い。
 多分、そんな事に関わっていては、日本の将来は無い、と言うのだろう。確かにそれは言える。しかし現実の日本人の現在の生活が成り立たない人々が居るのを無視してまでも、日本の将来を夢見る事が果たして健全な事なのか。科学とか技術とか、発展、推進、教育などなど、そういった言葉だけが、内容も吟味されずに大切だと言われている。みんな、言葉に騙されている。

 日本は世界で指折りの金持だと言うが、本当にそうなのか。我々は決して自分達が金持だなどとは思ってはいない。ウサギ小屋のような家に暮らし、何が裕福な国か。ODAの援助が削られた事に文句を言うが、そんな余裕があるのか。聞けば、JICAの役員が海外出張する時は、ファーストクラスだと言うではないか。そんな事が悠々と出来るから、日本は豊かだと思い込んで、他の国に援助を与えるなどと言うのである。

 我々はテレビで、省庁の役人根性まるだしのみっともない姿を見る事が出来ている。そこには特権に乗った自分勝手な考えしか見えない。その役人を応援する人々にも同じみっともない姿が見えている。しかし彼等はそれに全く気が付かない。そんな程度の人々にこの国を任せたらどうなるか。
 この仕分け作業の現場を見たいと大勢の人々が詰めかけている。子供でさえ、蓮舫議員の厳しい切り込みを見たいと言っている。こんな素晴らしい事がかつてあっただろうか。賛否両論あって当然である。何しろいまだかつてやられた事が無い事が起きているのだ。一番大事なのは、今まで秘密に処理されていた省庁の予算が白日の下に晒されて、国民がしっかりと見る事が出来る事だ。私はもっともっと過激にやるべきだとさえ思う。
 国防に関しても仕分け作業は切り込んでいる。それをとやかく言う人が居る。国防の名の下に何でも許されると思っている。これまた言葉に騙されているに過ぎない。国防はもちろん重要な事だ。その必要な経費を削れ、と言うのではない。無駄な経費を削れと言っている。それを「国防」の名によって聖域にしてしまう。何と、卑怯で汚い行為か。
 考え違いをしては困る。役人は、省庁は、我々国民のために存在している。それを、省庁のため、役人のために存在していると錯覚している。
 長い事ぬるま湯に浸かっているとそうなる。仕分け作業は我が国始まって以来の事なのだから、色々と不手際があったって当然である。自民党のベテラン議員でさえ、何でそれが自民党政権時代に出来なかったのか、と悔しがっている。国民の拍手喝采なのだから、これほど政権の有利になる事は無いだろう。まあ、政権の事はともかく、こんな素晴らしい事を尻つぼみにさせては断じてならない。これは国民が主導権を握れる絶好のチャンスだと思う。
 そう言うと、役人は、何も知らない国民に何が分かるのか、と尻をまくるだろう。そう、知らなくて良いのである。詳しい内情は知らないにせよ、無駄遣いが駄目な事は分かる。だから何が無駄遣いなのかを検証しようとしているのだ。馬鹿を言って、自分達の援護をするのはみっともない。
 ある自民党の高名な議員はこの仕分け作業を酷評している。自分がどんなに馬鹿に見えているのかも分からないで。かわいそうに、と私は思う。

いい加減な裁判所に怒りを覚える

2009年11月27日 | 社会問題
 10年前、一つの痴漢事件があった。東京の中央線の車内である。夜の11時過ぎ、車内で電話をしているのを男性が注意した。「電車の中での電話はやめなさい」。女性は「分かったわよ」と言って切った。男性は間が悪くなって、少し離れた所に移動した。次の停車駅で男性は降りた。女性も降りた。そして駅の最寄りの交番に駆け込んだ。「あの人痴漢です」と。
 そして男性は逮捕され勾留された。もちろん、現行犯逮捕ではない。結局不起訴となった。証拠があまりに無さ過ぎる。
 男性は名誉回復のために民事訴訟を起こした。しかし東京地方裁判所八王子支部(現在は名称が変わっている)は痴漢行為はあった、と認定し、男性の訴えを退けた。東京高裁も同じ。男性は最高裁に訴えた。そこで、痴漢行為は無かったと認定された。だが、女性がでっち上げたとの男性の訴えは退けられた。理由は高裁の審議が不十分だと言う事にある。

 この女性は痴漢の被害にあった、と言いながら、車内では一言も発していない。「分かったわよ」は言えるのに、なんで「この人痴漢です」と言えないのか。何よりも、男性は場所を移動する事が出来たくらいの混雑度だった。それなのに、密着して痴漢をするのは非常に不自然になる。周囲だって気付くだろう。それなのに、車内でそうした情況があったとの証言は無い。ひとえに女性の言葉だけが信用されたのだ。電話をしていた相手の男性の証言も警察はすぐに取った。それを見れば情況がより分かる。
 ところが保存期間3年を地裁は誤って1年で廃棄してしまったと言う。同裁判所の誤廃棄はほかにもあった。本当にいい加減な裁判所である。裁判官もいい加減なら、職員もいい加減だ。この裁判所の別の事件でのいい加減さも私は知っている。それはきちんと判例で読んでいる。

 以上の事は今朝のテレビで見た。しかしもっと前の段階の事もこのテレビでは報道していた。新聞にも載っていた。だから私もそれをみんな見て読んでいる。そうか、10年も続いていたんだ、と感無量の思いがある。男性のあきらめない執念に賞讃の思いである。そして私が当時考えた事が今も間違っていない事が確認出来た。

 痴漢、と言うとすぐに名指しされた男性がやったと早合点する裁判官。それはその裁判官に痴漢になり得る資質があるからだと私は思っている。自分もそうだが、男はみんな痴漢になるんだよ、とその裁判官は思っているに違いない。そうでなければ、こんないい加減な事で女性の言い分を認めるはずが無い。
 いい加減だったからかどうかは知らないが、この八王子支部は確か立川支部に統合されたはずだ。こんな事やってたら、それこそ「痴呆裁判所」になってしまうよ。つまらない駄洒落で御免なさい。
 裁判の判例は公開されているのだから、こうした判決を下した裁判官の名前は是非とも公開すべきだろう。

掃除機のコンセントの修理代が1万円

2009年11月25日 | 暮らし
 使っているダイソンの掃除機が壊れた。と言ってもコンセントの部分が断線しただけである。なんでそんな所が断線したかと言うと、犬がかじってしまったのだ。それも掃除機を使っている最中に。それはもう二年も前の事で、被覆が破れて線がむき出しになってしまったので、ビニールテープで巻いて保護して使っていた。それがとうとう断線にまで発展してしまった。
 コードの断線は結構あるからいつも自分で直していた。しかし息子が、強い電流が流れる可能性もあるから、単にねじ止めで良い物と、半田付けしなければならない物とがあるから、メーカーに聞いた方が良い、と言うので従った。その答が「修理代は1万円」である。正確には九千八百何十円かなのだが、送料込の修理代である。
 メーカーとしては使用者の自分での修理は前提とはしていない、と言うのである。そのメーカーの方針は分からないでもないが、たかがコンセントに1万円は私には出せない。そこで丁重にお断りをした。
 考えてみれば、過剰な電流が流れるなら、ソケットだって危険になる。だから掃除機だけで考えても意味が無いだろう。
 買った電気店は近所のラオックスなのだが、二年前ほど撤退してしまった。だから秋葉原まで持って行かなくてはならない。だからコンセントの部分を持って近所の量販店に行ってみようと思っている。日本ではほとんど使われていないT字型のコンセントだって売られているのだから、この掃除機に使えるコンセントだってあるはずだ。
 だいたい、いつの頃からか、コンセントはコードと一体型になってしまった。昔はみんなコンセントだけ取り替えられた。日本の電気その物が変わった訳ではないだろうに。

 このラオックスについては、私は開店した時に、店員にこう聞いた。このダイエーでの出店は前の企業はたいてい潰れて撤退したけど、勝算はあるの? 私は出店その物について聞いたのだが、店員は店のサービスが心配なのだろうと思ったようで、ご心配は要りません。私どもの本店は大丈夫ですから、と答が返って来た。
 閉店と聞いて、だから言った事じゃない、と思った。まあ、そんな店で買ったのは、一番高い製品がとても安かったからだ。ほかの店でも安く売ってはいるが、それはずっと値段の安い物だったから、その店で買ったのだ。
 このダイソンの商売は、同じ機能の製品を付属品の違いで値段に差を付けて売る。今でも同じかどうかは知らないが、私が買った時はそうだった。それに使い勝手が良いとはお世辞にも言えない。吸引力や吸った塵を吐き出さないとの点は大いに買うが、細かな作業がしにくい。多分、本国のイギリスでは大きな邸宅で使うからこまごまとした作業はしないのだろう。
 テレビでのCMでは最近になって、日本の掃除機に似た細かな作業の出来る部品も付くようになったが、本来は最初からそうあるべきなのだ。日本人の生活を知らないで日本に乗り込んで来たとしか思えない。同機の方式は特許で真似が出来ないらしいが、日本も早く同じような機能の掃除機を作り出して欲しい。日本人には日本の暮らしに合った掃除機が必要なのだ。
 

ブログのコメントで更に考えが深まる

2009年11月21日 | 文化
 ブログにコメントを頂くのはとても嬉しい。否定にしても肯定にしても、そこから更に考えが深まる。
 先日、大工仕事のかんなの刃の角度についての疑問に答えてくれた人が居る。私のそのブログはタイトルは全く別の事だった。その最後にこの問題を挙げた。それに対して返事を下さったのだから、とても注意深く読んでくれている訳だ。
 私の疑問は、テレビの番組で、確か37・5度が刃の角度としては最良なのだ、との事をその削りかすと削った板の表面の拡大写真で見せていた。しかし、その前後の角度については無言のままだった。だから、私は最良の角度にはある幅があるのでは、と疑った。そしてそれを見せない番組に不信感を持った。
 思った通りの答がもらえた。ハンドルネーム「大工」さんが、御自身の経験で最良の角度は削り方と板材の質とで違う、と教えてくれた。
 私がこうした事に重きを置くのは、「…は○○ですよ」と言われて、そのまま鵜呑みにしてはいけない、と常日頃から考えているからだ。そう言われたなら、では「…は××ではない」との証明をする必要がある。だが、世間は往々にしてそれをしない。「…は○○です」なんて事、あったり前じゃないか、と高飛車に出る。
 もう本当に一方的な事しか言わない。様々な本もそうした物が多い。

 先日、私は日本語の事で良い勉強をした。ある人が日本語は発音に無理をしないので、自然な考え方が出来る最高の言語である、と言った。他の言語では複雑に口の形を変えたり、舌を巻いたりして多くの発音を生み出しているが、その複雑さが自然な考え方を損なっていると言うような発言をしていた。日本語の単純な発音を補うのが「てにをは」で、それでほかの、語順によるしか意味が表現出来ない諸言語よりも情緒豊かな表現が出来る、と言う。言い方は違うが、趣旨は間違っていないはずだ。
 それには確かに一理ある。しかし日本語が最良の言語だとどうして断定出来るのか。他の言語では情緒豊かで合理的な表現が出来ないのだ、との証明をしなければ、それは成り立たない。分かり易い例として韓国語がある。言語の系統としては日本語とそっくりである。だが、韓国語は日本語よりもずっと発音が複雑である。だが「てにをは」もある。そうなると、韓国語も日本語ほどではないにしろ、世界で最良の言語になるはずだ。そうした証明をする必要がある。

 その日本語と韓国語の違いだが、大きな違いの一つに漢字の訓読みの有る無しがある。韓国語では漢字の訓読みはして来なかった。取り入れたすべては字音語である。だから、我々は漢字無くしては字音語の意味が分かりにくいと思っている。だが、韓国は漢字を捨てた。ハングルだけで、と言う事は日本語なら仮名だけで、になるが、それで良しとした。
 ハングルだけで用が足りているように思えるのは、ハングルは仮名とは本質的に違うからである。仮名は音節文字だが、ハングルは完璧な表音文字なのである。しかもハングルでは例えば「大学生」のような字音語を、日本語なら「だいがくせい」としか出来ないのに、「テー・ハク・セン」と三つの部分に分けて表示する事が出来る。漢字の意味は分からないにせよ、これが字音語であり、元は漢語なのだ、と分かる。それだけで、日本語の「だいがくせい」よりはずっと分かり易くなる。「だいがくせい」を文章中に取り込んでみれば、すぐに分かる。
 そうした、日本語とほぼ同じと見える韓国語では、発音の自然さはどうなのか、についてきちんと説明が出来なければいけない。

 この発言者は日本語は漢字を取り入れて、飛躍的に表現が豊かになった、と言う。それはそうだ。しかし、その陰で本来の日本語を磨く事を怠った事を何とも思っていない。上に挙げた韓国語の例はその良い例である。そしてそれで漢字を捨てている。
 それに対して、日本語は造語力が無いから字音語しか無いのだ、と言うのだろう。「造語力」を「言葉作りちから」とは出来ないと言うのだろう。だが、それは単なる思慮不足に過ぎない。ドイツ語ではこの「言葉作りちから」のような造語法を採っている。それで少しも違和感は無いし、意味がとても良く分かる。英語ではそれが出来ないようなので、やたらと難しいラテン語などを取り入れるのだ。日本語が漢語を取り入れたのと同じように。
 日本語がドイツ語のような方向をたどらなかったのは、ひとえに漢語を流用した事に原因がある。先進文化だったのだから、当然ではある。そしてそれを恰好良いと思ったのだ。それがなければ、「言葉作りちから」のような言い方がごく自然だと思われていたに違いない。疑うなら、現在、カタカナ語を安易に使いたがる事を考えれば簡単に納得が行くはずである。
 この発言者は言葉でしか考えていない。言葉が体感とか経験に裏付けされていない。それに比較して、「大工」さんは、自分の経験から物を言っている。だからこそ、その発言には貴重な重みがある。
 誤解されたくないが、私の発言が経験による重みがある、などと言うのではない。だが、きちんと様々な事をああでもない、こうでもない、と長い物では2年も3年も考えた末の結果を書いている。決していい加減な思いつきではない。

 もう一つの嬉しいコメントは、4月のブログで私がパソコンではほとんど希少とも言える親指シフトキーボードを使って、快適な作業が出来ている、と書いた事に対してである。そのキーボードが冷遇されている事を嘆いた。その事について、遅ればせながら、とコメントをくれたのだ。御自分のシステムを説明してくれて、私の励みにもなるし、参考になるホームページの紹介もしてくれている。そのホームページは知っていたが、それにしても厚意が有り難い。
 否定のコメントでは、割り箸事故で、私が事実の確認を怠っていた事を指摘された。それはすぐに訂正した。その後、事実確認は慎重にするようになった。発言は自由だ。だが、その発言には責任が伴う。

巨額の横領がなぜ分からなかったのだろう

2009年11月20日 | 経済問題
 出版の幻冬社で一年間に約1億円ものカネを横領していた社員が居た。何年もの間、よく見付からなかったと感心する。売掛金にしていたから分からなかったのだと言う。確かに売掛金は利益に計上されるのだろうから、気が付かなくても不思議ではない。しかしその分だけ現金が入って来ないのだから、支払いに当然に困るはずだ。困らないと言うのは支払いもまた買掛金になっていたのだろうか。それにしても年間1億円の巨額である。何で分からなかったのか。
 1億円だけ横領して、それをずっと何年も隠し通していたと言うのなら分かる。しかし今回の場合は金額は年々増えて行くのである。利益が非常に大きくて、売掛金になっていても少しも困らなかったのだろうか。ベストセラーを出すのが上手い出版社だから、あるいはそうした事もあり得るか。そうか、ベストセラーとはそんなにもおいしい商売なのか。
 ベストセラーがおいしい商売だとは分かるが、年間1億円もの金額があっても無くても平気なくらいおいしいとは思わなかった。ただ、これは同社の事ではないが、ベストセラーばかりを狙った商売は危険だと思う。ベストセラーが生み出せている時は良いが、一旦つまづくとどんどん破滅に向かって行くだろう。なぜなら、地道に売れる本を出していないのだ。バブル経済と全く同じだろう。
 出版とは本来はとても地味な商売だと思う。採算そこそこの本で地道にやって行く出版社が多くあるからこそ、出版文化は守られる。そうでしょう。中身が薄くて俗受けする本ばかりなら、そのうち飽きて、誰もが読まなくなる。
 自分で自分の首を絞めないためにも、普段から地味な努力を続けている必要がある。
 でも本当にどうして巨額の横領が分からなかったんでしょうね。どなたか教えて下さい。

無駄な仕事をしている人は身近にもいるらしい

2009年11月18日 | 社会問題
 郵便局でお金を下ろしたので、ついでに公共料金の支払いをした。番号札を取って、番が来て、現金と納付書を出しただけでは済まない。別の用紙に日付を入れ、名前と電話番号を書き、納付金額を書き入れて提出する。そして一旦引き下がる。でも簡単な事だから、すぐにお釣りと納付書の控えをもらえるものと思っていた。
 だが窓口氏は何かやってから、上司と思える人の所に行き、何事かのやり取りがあって、再び窓口へ。そしてまたまた上司の所へ。帰って来る途中では高い所に置いた帳簿らしきものに判を押している。
 結局4分ほどしてやっと呼ばれた。私はいつもはコンビニで払い込んでいる。コンビニなら順番を待つと言うほどの事も無いし、何よりも仕事が機敏である。バーコードを読み取り、判を押して、釣り銭と控えをくれる。最近は画面に金額などが出て、良ければ画面にタッチする手間が増えたが。その間、始めから終わりまで1分と掛からない。誰かにお伺いを立てる訳でもない。
 普通に考えても、そんなに面倒な事ではないだろう。確かに色々な納付書があり、宛先が様々に違う。それぞれに方式も違うのだろうから、面倒ではあろう。だが、結局は指定の金額と納付書を受け取り、控えを客に返すだけの作業である。納付書の金額と納める金額が合っていれば、あとはどうと言う事もなかろう。

 郵便局の窓口氏はベテランらしい男性の職員である。上司の判断を仰ぐような事は無いはずだ。だから邪推をする。多分、上司らしい人は一つ一つチェックするのが役目なのではないか。そうしないと彼の仕事が無くなる。彼の仕事を確保するために、窓口氏は行ったり来たりしなければならないし、客はその分、待たされなければならない。何ともあほくさい話である。もちろん、これは私の推測に過ぎないが。
 でも、コンビニなら、若い店員が躊躇する事無くやっている事なんだから。たとえ、郵便局には今までのやり方の歴史があるとしても、コンピューター時代に沿った方式に切り替えれば済む事だ。郵便局は今揺れているが、そうか、公務員の仕事とはこうした事だったのか、と思ってしまうような有様である。
 現在、各省庁の仕事の見直しがされているが、何とまあ、そこには要らない仕事が山積みになっている事か。ある自民党議員はそうした大鉈を振るう事に疑問を呈しているが、自民党の別のベテラン議員は、何で自民党の時にそれが出来なかったんだ、と改めて反省の弁を語っている。

 不要な仕事を確保するため、そこで働いている人の給料を確保するために、我々の税金が使われているのだ。そうした人達のために、我々は自分の子供達に多額の借金を背負わせている。
 不要な仕事でも、働いている人にとっては正当な労働になる。だから給料をもらって当然である。だが、我々一般は頼まれもしない仕事をして報酬をもらえるとは思いもしない。だから、不要な事はしない。ボランティア活動は必要だから無報酬であってもする。それなのに、誰が見ても不要な仕事をして報酬を、しかも少なくはない報酬をもらえる羨ましいような人々が存在している。そして私は思う。本当に彼らは自分のしている仕事が世の中の役に立ち、必要とされていると思っているのか、と。
 失職して良いと言うつもりは毛頭無いが、だからと言って、我々の税金を無駄に使って良い訳でもない。無駄な税金のために我々は余計に働かなくてはならないのだから。

ODAの拠出金が少ないのは恥なのか

2009年11月14日 | 社会問題
●ODAの拠出金が少ないのは恥なのか
 今日の東京新聞の投稿に日本リザルツ事務局長の肩書きの白須紀子と言う人が意見を述べていて、結論として、次のように書いている。

 途上国へのODA拠出額が、ピーク時から比べて40%近くも減少している。今回の会議に出席して痛切に感じたのは、世界に向けて恥ずかしくない援助政策を速やかに実行に移すことである。あすにも日本に「災い」が降りかかり、人の「情け」が必要になるかもしれないのだから。

 そうだろうか。日本でも貧困で自殺する人や飢えている人が居ると言うのに、それには目をつぶって途上国の援助なのか。「恥ずかしくない援助」だって? 自国の民が飢えているのは恥ずかしくないのか。
 この人は、日本は経済不況の真っただ中とはいえ、依然として経済的には世界第二位の大国だ、と言っている。では経済大国の日本なのに、なぜ多くの人々が苦しんでいるのか。経済大国とは本当の事なのか。何かの数字に騙されているのではないのか。本当に世界第二位だと言うのなら、その経済力が我々日本人のためではなく、何か全く別の事に使われている事になる。多分、この人は「雲の上の人」なのだろう。
 「災い」が降りかかって来た時には「情け」が必要だと言っているが、その根拠には関東大震災の時に世界中から援助の手が差し伸べられた事を例に挙げている。だが、これはまさしく「災害」なのだ。災害時に被災国に無事な国が援助の手を差し伸べるのは当たり前の事である。もちろん、関東大震災の時がそうで当然だ、などと言っているのではない。日本はいつだって、被災国に援助をしているではないか。
 日本がいつ「情け」が必要になるかも知れない、と言う結論にこの人の考えが明確に表れている。災害時の援助は普段からの常識の範囲内なのだ。ODAの拠出金は、そうではないだろう。確か、カネの余っている国にも渡っている。
 私はよその国に出すのなら、自分の国に出して欲しいと思っている。多くの人々がこんなに困っているではないか。国にはそれぞれに事情がある。貧乏な国もあれば金持の国もある。それは国民性にもよる。貧乏な国が金持の国に搾取されて貧乏になっているのなら、金持の国は貧乏な国を助ける義務がある。独裁政権が国民を苦しめているのなら、そちらを解決する方が先だろう。確かアメリカはイラクの国民を圧政から救うのだと言って、あの戦争に突入したのではなかったか。もちろん、それが正しい事だとは思えないが。
 世界の国にはそれぞれに特殊な事情がある。民意が低い事が発展を阻害している事もあるだろう。だからと言って、目に見える弊害だけを救っていれば、それで良いのだろうか。北朝鮮だって国民は飢えているだろう。それには知らん顔を決め込んで、カネで解決出来る事だけに専念する。まあ、何事もカネで解決するのが一番手っ取り早いのは確かだが。ODAの拠出金とは一体どのような性格なのか。
 カッコばかり付けて実質が伴わない事をして、何が嬉しいのだろうか。これは貧乏人のひがみだろうか。

●テレビの字幕に疑問がある
 テレビでテレサテンの特集をやっていた。歌も彼女も好きだから見た。その中で「北国の春」などの超有名でアジア諸国でも流行った歌を中国語で歌っていた。中国語はフランス語と並んで、世界で最も美しい言葉と言われている。日本語のような母音が主の言葉も美しいが、どうも陰影に欠ける。
 その中国語の「北国の春」で画面に字幕が流れた。だが、それは中国語の歌詞の日本語訳ではないのだ。日本語のあの歌詞がそのまま字幕として流れた。あれほど有名な歌詞なのだから、誰でも知っている。今更字幕で流してくれなくても分かっている。
 我々が知りたいのは、中国語ではあの歌詞はどのように訳されているのか、である。
 この歌だったか、別の歌だったかは覚えていないが、中国語の歌詞が、中国語そのままの字幕が出た。そんなの我々日本人が見たって分かる訳ないじゃないか。
 英語の歌なら、多くの人が英語を少しは分かるから、字幕で英語が出てもそれなりに有効ではある。もちろん、ほとんど分からなくても、まるで見当が付かない訳ではない。これは私個人の感想だが、英語の歌は英語の字幕と日本語訳の字幕の両方を出して欲しい。中にはまるっきり字幕無しもある。特にポップスの番組に多い。多分、英語の歌詞なんか知っていて当たり前だと思っているのだろう。そうした人だけを対象にしているのだろう。
 もちろん、フランス語だって出してくれるに越した事は無い。耳からでは駄目でも、目からならフランス語が分かる人だって居る。日本人の多くは目で外国語を学習しているのだから。
 けれども、たいていの歌番組がこうした事にはまるで無関心である。手間が掛かるからやらないのか、分かるとは思われていないからやらないのか。多分、どちらでもあるのだろう。まあ、番組の担当者にそれだけの見識が無いのだろう。担当者が歌詞に重きを置いていないのだろう。

 NHKに「アインシュタインの目」と言う番組がある。高感度カメラや電子顕微鏡などの映像を使って、普通には見えない物を見せてくれる。先日、宮大工のかんな掛けの素晴らしさを見せていた。そのかんなの刃の角度が確か37・5度だった。それがどんなに素晴らしい角度なのかを、ほかの角度で削った物と比較して見せる。40度(だったと思うが)でも駄目。だが、38度では、37度ではどうなのか。なぜ37・5度が一番良いとの結論に至ったのか、それは見せなかった。
 番組は90度の角度から始めていたが、誰だってそんな角度では板は削れない事を知っている。そんな馬鹿馬鹿しい事をしているくせに、37・5度に近い角度での削った結果は見せないのである。それでは37・5度が良いとの結論にはならない。そうした事から、もしかしたら37度でも38度でも良くて、板材の性質とか職人の腕とかによってばらつきがあるのではないか、と疑ってしまう。だからその映像は見せられない。けれども37・5度の結論はいかにももっともらしい。

 上記の番組はどちらも、たまたまNHKである。受信料を取っていながら、サービス精神に欠けている。本当は民放だってある意味では有料放送なのだ。番組のスポンサーに視聴者は何らかの料金を支払っている。スポンサーはその料金の中からCM料金を支払っている。だからテレビはいずれにしても、視聴者へのサービスを第一に考えるべきだろう。それなのに、NHKは高飛車だし、民放はスポンサーの顔色しかうかがわない。


小学校での英語教育・その続き

2009年11月12日 | 言葉
 一昨日書いた事に言い足りない部分があったので、再びこの問題について考えた。
 私は二カ国語以上に堪能な事は素晴らしい事だと思っているし、私自身、他の諸言語に強い興味を持っている。母語とは異なる言語に通じていれば、その言語独特の発想方法も手に出来る。それが母語同然に幼児から習得したのであれば、言う事は無い。民族が異なるのだからその言語が発音にしろ、構造にしろ、表現にしろ、発想方法にしろ、互いに違っているのは当然。それは自然発生的に生まれたのであって、あのブログのコメンテーターの一人が言っている「英語はその他の欧米諸国の言語と同様、自然から抜け出て神に近づこうとする精神性が、自然のあり方そのままでないようにことさらに人工的な脚色を加えて創られた言語」だとは思えない。何故に神に近づく事は自然から抜け出て殊更に人工的な脚色を加えなければならないのだろうか。神イエスは自然そのままを愛したのではなかったのか。
 人工的な言語に対して日本語は自然な言語だと言うのだが、その根拠の一つが自然な母音らしい。五行思想に従えば現在の日本語のような自然な母音になると言う。それが江戸時代の安藤昌益の説明を使っての次のような説明になる。

 〈たとえば、アイウエオは五行の中心である土の音で咽音と言って咽を開いて発声します。次のカ行は木音で牙音とされています。これは前歯を付けて発声するということですが、前歯を付けなくとも咽を一旦絞めてから発声すれば可能ですので私は順番的にア行の次に来ルのだと思っています。
 五行的な順番に従えば次は火音(舌音)でタ行とナ行がそれです。これは、舌を口の上壁につけてから発音します。五十音的には順番が前後しましたが、その次はサ行とラ行でこれは金音(歯音)といって奥歯を付けてから発音します。最後は水音(唇音)で唇と一旦閉じてから発音するハ行とマ行です。ハ行はパにするとより強く口を閉じることになります。〉

 だが、こうした発音は日本語独自の物とは言えない。これは人間として自然な事なのではないのか。中国語にも同じような発音はある。しかもこちらの方が五行思想の本家本元である。その中国語はこのコメンテーターの忌避する「私 好き あなた」の言語なのである。それにハ行は口を一旦閉じてから発音とあるが、現在のハ行はそうではない。パ行だった時にはそうだったが、バ行はファ行に変化し、現在のハ行になっている。そうした事は無視するのか。子音の発音がそんなに大きな問題になるのなら、パ行がハ行に変化した事で、日本人の発想法も変化したと言う訳だ。それに、サ行は中世でもシャ行だった事はどうなるのか。上の説明に無いヤ行、ワ行、ガ・ザ・ダ・バ行などはどうなるのか。更には八つあった母音が五つに減った事は発想法とはどのような関係があるのか。より単純になった事で、より自然な言語になったとでも言うの。

 朝鮮語だって五行思想の波を受けている。韓国語では曜日の火曜から土曜までは五行の木火土金水である。それは日本と同じ。暦学者はこれを惑星の名前だと言うが、それは間違いだ。この事はまた別の問題にしたいが、惑星の名前と思っているのは、本当は神の名前なのである。たまたま、多くの言語で神の名前を惑星の名前に付けているから、そう思ってしまうだけの話。だから英語では曜日の名前は惑星の名前ではないのだ。英語では惑星の名前はローマ神話の神の名前、曜日の名前は北欧神話の神の名前なのである。日本語では土曜日は土星の名前だと言うのなら、世界中で土星の名前を土曜日に使っている言語は無い事をどのように解釈するのか。土曜日の「土」は五行の「土」なのである。それは韓国語も同じ。ならば朝鮮語も明確に五行思想から考える必要がある。つまり、それは朝鮮語も日本語と同じだと言う事になる。
 次の説明も私には分からない。

 〈加えてもっと大事なことは、日本語が何故他の言語に比して認識の細かい襞を表現できるのかということです。その秘密は“てにをは”の存在にあります。それを可能にしているのが一音で意味を表せることのできる母音中心の構造ですが、これは口の構造を素直に使っているということなのです。〉

 確かに必ず母音を伴う日本語なら一音で意味を表す事が出来る。だが、それだからこそ、同音異義語が多くなってしまう。それは決して「認識の細かい襞を表現出来る」事にはならない。むしろ、細かい襞など消えてしまう。開音節(母音終わり)にしなければ、例えばkak、kat、kab、kap、kafなどの発音が可能になれば、もっとずっと細かい襞の表現が出来る事になる。
 このコメンテーターは自分が英語を使って外国人と話をする時の事を次のように書いている。

 〈私が日本語が特殊という結論に至ったのは、英語での会話を外国人として政治の話等をするとき、なぜか自分も思いやりのない外国人のようにその時なる(あたかも違う人格のように)。〉

 違う人格になったように思うのは当然だろう。発想法も何もかもすべて日本語とは異なる言語で語るのだ。それと自分も思いやりのない外国人のようになる事とは全く関係が無い。はっきりと言おう。それはこの人が思いやりの無い人だからである。だから、日本語にはあると言うその「思いやり」を英語で発揮する事が出来ないだけの話。それは単に日本語もよく分かっていないし、英語ならなおさらに分かっていない、と言う事である。日本人として思いやりを意識しているのなら、なんとかしてそれを英語でも伝えたいと思うのが当然である。テレビにも芸能人を始めとして、二カ国語以上に堪能な日本人が登場する。彼等は英語で話すと思いやりの無い人間になるのか。
 吉田茂や白洲次郎といった英語が堪能な日本人は英語で堂々と日本人の真意を相手に伝える事が出来た。日本人の微妙な心の襞をはっきりと相手に伝える事が出来た。ただ、たまたま相手の程度が悪過ぎて、そうした微妙な心の襞を理解出来なかった、あるいは理解しようとしなかっただけの話なのである。
 どこから、日本語だけが自然で優しい言語であり、欧米諸語は不自然な人工物で微妙な心を持たない言語だとの認識が生まれたのか、私には不思議でたまらない。日本人が虫の音を聴き分ける能力があり、欧米人がどの虫の音も同じにしか聞こえない事は私も知っている。しかしそれは脳の働かせ方の違いだと聞いている。それと母音が明瞭な日本語と子音を巧みに使い分けている欧米諸語の違いに結び付くとは思いもしなかった。母音が単純でおおらかなイタリア人はさぞかし日本人と同じく虫の音に聞き惚れている事だろう。
 日本語が劣っている点についても考慮する必要があるはずだ。日本人は論理的な展開が苦手な人が多い。それは前に述べた事が曖昧なまま次に進むから、どんどん曖昧さが増幅してしまうのである。例えば、何でも「もの」で通してしまう。最初の「もの」が何を指しているのかが明確になっていないで、次の展開が理解出来る訳が無い。だが、多くの人々がまあ、こんな事なんだろう、とたかをくくって済ませて文章などを読んでいるから、論理が間違っていたって気が付かない。

 小学校低学年からの英語教育に大きな疑問があるのは、それは単に「教育」だからだ。生活の中から生き生きと身に付けた言語ではないからだ。母親から子守唄などで伝えられた日本語、暮らしの中で、あるいは友達とけんかしたりしながら覚えた日本語、そうした日本語とは遥かに離れた英語で、どうやって自分の心を正しく伝える事が出来るのか。前にも書いたが「君が僕は好きなんだ」の言い方を英語では出来ないのなら、それに近い表現を工夫すれば良いだけの話である。「は」と「が」の使い分けは日本語の日本語たる代表的な能力だろうが、日本語には出来ないが英語には出来る表現もある。

 〈「日本人の情緒を壊滅させるために英語を幼児期から教えるのです。」〉
 「第二外国語での表現力は第一外国語の表現力の7-8割なので、第一外国語での表現力減少にも役立ちます。こうなると、抽象的かつ複雑な思考はできない人間になります。」〉

 幼児期から英語を教えたらなぜ日本人の情緒を壊滅させる事になるのか。この人の言う「情緒」とは一体何なのだろう。多分、ふわふわとした捉え所の無い表現を指しているのだろう。真実の情緒なら、英語を教わったからと言って簡単に壊滅するような物ではない。
 それに第二外国語が第一外国語の表現力の7~8割しか無いと言うのは分かるが、幼児期から教えられたのならば、第二外国語とは言えない。これも第一外国語になり得る。昔、受験生に英語をラジオで教えていたジェームス・B・ハリスと言う米国人が居た。日本語などそれこそぺらぺらである。ある人が尋ねた。考える時、日本語ですか、英語ですか、と。彼はちょっと考えて、「英語です」と答えた。
 本人でも考えないと分からないくらい、日本語と英語が自分の母語と言えるくらいに差が無くなっている。表現力はどちらも同じはずである。表現力に大きな差があるなら、彼は意識して日本語と英語を使い分けているはずである。それが無いのである。
 つまり、この論理は根本から破綻している。何か、頭からある種の思い込みがあって、それにがんじがらめに縛られている。
 
 〈情緒がなく抽象的かつ複雑な思考はできないにんげん、これが支配者層にとってはのぞましいものであり、現在では世界中でも日本にのみ少数のこっているのです。これを排除できないと世界支配ができないのでしょうね。〉

 一体、どこからこうした考え方が生まれているのか、私は本当に分からない。