月曜日の夜8時、テレビ東京に「和風総本家」と言う番組がある。日本の伝統文化に関する雑学クイズである。
7月28日、「うちわ」に関する問題が出た。漢字で書けば「団扇」。「扇」は分かるが、なぜ「団」なのか、と質問が出された。誰も答えられない。どこかの大学の教授にも聞いたが、「団子」とか「大団円」などに使っているから、「丸い」なんでしょうね、よく分かりませんとおっしゃる。
えっ! うそー、と私は思った。
『常用字解』では「団」の元の字は「團」で、「專」に「タン=うつ。まるめる。まるいつゆ」の音があると説明している。固めてまるい形にしたものをさらに円形を加えて外から包んだ形が「團」で、意味は「まるい。まるくあつまる。あつまり。まるくかたまる。かたまり」だと言う。
漢和辞典『新字源』にも「まるい。まるめる。かたまり。あつまり」などの意味が挙がっている。「団扇」には「円形であるからいう」との説明もある。
これらは別に難しい説明ではないはずだ。普通に「団=まるい」と考えられるはずである。なにゆえに、この教授は分からないと言ったのか。
私はすぐに「どんぐり=団栗」を思った。「どんぐり」は「かし・くぬぎ・なら」などの丸い実を言う。韓国の学者は古代朝鮮語で「どんぐる=円い」だと言っている。イ・ヨンヒと言う学者だが、同氏は20年近く前に『もう一つの万葉集』と言う、万葉集の前半の大半は朝鮮語で詠まれていると称している本を書き、その意表を突く考え方と出版社が文藝春秋だとの点で、ベストセラーになったが、そこにその説明がある。それが非常に面白いと言うか滑稽なのだ。
日本語の「どんぐり」の語源はこの「どんぐるり」だと言われています。「どんぐるりじ」の語幹であるこの言葉には、「ころがる」という意味が含められています。どんぐりの木の実が、ころころたくさんちらばっている上を歩くと、ころがることが多い。「どんぐるり」する、すなわちよくころがるので、この名がついたとのことです。
確証は無いとは言っているが、いやはや、と言うしか無い。どんぐりの実が散らばっている上を歩くところがる、だって? 目の良い古代人がなんでどんぐりの上を歩いてころがらなければならないんだ? それにどんぐりは貴重な食料ではないのか。食料の上を、普通、歩くか? 「どんぐる=円い」で十分説明は付くではないか。
こうした浅い考え方だから、万葉集の前半の大半が朝鮮語である、との考えもまた信用は出来ない。私はそうした同氏の解釈に一つ一つ細かく反論を書いた。見たいとおっしゃる方がいれば、いつでもお目に掛ける。朝鮮語、それも古代語を知らなくても、日本の古代語や万葉集の歌を知っていれば、常識でおかしいと思えるのである。
それは別としても、朝鮮語の「どんぐる」が日本語の「どんぐり」になっている、との考えは納得が行く。だから「団栗」と書くのだと思っている。朝鮮語の事はともかく、日本語の学者なら、「どんぐり=団栗」は常識である。「団」の漢字を見て、どうしてそうした連想にならないのか、と私は不思議で仕方がない。
そして、この番組はどうして漢和辞典を引かなかったのか、と不思議でたまらない。学者が分からないと言うなら、自分達で追究してみようとは思わないのか。
そう、思わないのですね。だから、いつもいい加減でお茶を濁しているんですね。昨日、TBSの番組で同じような批判をした。話題にしている言葉の意味を様々な国語辞典で調べようともしていない。単に二つの辞典を引いただけである。しかも使われている言葉すら正確に使えない。「呆然」を「あぜん」と読んで平気である。「呆れる=あきれる」だから「呆然=あぜん」となった、のだとは思うが、でも、言い訳にはならない。
テレビは一過性である。これぞ、と思わない限りは録画などしていない。毎日のニュースショーなどを録画していても仕方がない。だからどのような間違いがあっても、顧慮される事が無い。たまに番組の終わりで訂正があるが、それだって、何をどう間違えたかは明確にしないで、単に「○○の間違いでした」と言うだけである。そんなの訂正とは呼べない。つまり、訂正だって形式的なのである。
そうしたテレビのいい加減さを私は一冊の本にした。だが、あまりにも小さな事と思うのだろう、どこも本にはなりません、と言う。テレビについての批判書はある。私も買って読んだ。だが、大局的な見地からの批判は今一つ分かりにくい。言っている事は正論なのだが、どうにも具体的にそうだそうだ、と納得出来ないのである。
私は高邁な事が分からない。よく演繹法とか帰納法とかが話題になるが、それすらも私には分からない。なんで、そんなに難しく考えなきゃならないんだ、と思ってしまう。もっと具体的にああだのこうだのと言う訳には行かないのか、と。それが一番分かり易いではないか。難しい事、原則的な事を言うから、切実感が無いのである。切実感が無くて理解した事など、何の役にも立たない。
7月28日、「うちわ」に関する問題が出た。漢字で書けば「団扇」。「扇」は分かるが、なぜ「団」なのか、と質問が出された。誰も答えられない。どこかの大学の教授にも聞いたが、「団子」とか「大団円」などに使っているから、「丸い」なんでしょうね、よく分かりませんとおっしゃる。
えっ! うそー、と私は思った。
『常用字解』では「団」の元の字は「團」で、「專」に「タン=うつ。まるめる。まるいつゆ」の音があると説明している。固めてまるい形にしたものをさらに円形を加えて外から包んだ形が「團」で、意味は「まるい。まるくあつまる。あつまり。まるくかたまる。かたまり」だと言う。
漢和辞典『新字源』にも「まるい。まるめる。かたまり。あつまり」などの意味が挙がっている。「団扇」には「円形であるからいう」との説明もある。
これらは別に難しい説明ではないはずだ。普通に「団=まるい」と考えられるはずである。なにゆえに、この教授は分からないと言ったのか。
私はすぐに「どんぐり=団栗」を思った。「どんぐり」は「かし・くぬぎ・なら」などの丸い実を言う。韓国の学者は古代朝鮮語で「どんぐる=円い」だと言っている。イ・ヨンヒと言う学者だが、同氏は20年近く前に『もう一つの万葉集』と言う、万葉集の前半の大半は朝鮮語で詠まれていると称している本を書き、その意表を突く考え方と出版社が文藝春秋だとの点で、ベストセラーになったが、そこにその説明がある。それが非常に面白いと言うか滑稽なのだ。
日本語の「どんぐり」の語源はこの「どんぐるり」だと言われています。「どんぐるりじ」の語幹であるこの言葉には、「ころがる」という意味が含められています。どんぐりの木の実が、ころころたくさんちらばっている上を歩くと、ころがることが多い。「どんぐるり」する、すなわちよくころがるので、この名がついたとのことです。
確証は無いとは言っているが、いやはや、と言うしか無い。どんぐりの実が散らばっている上を歩くところがる、だって? 目の良い古代人がなんでどんぐりの上を歩いてころがらなければならないんだ? それにどんぐりは貴重な食料ではないのか。食料の上を、普通、歩くか? 「どんぐる=円い」で十分説明は付くではないか。
こうした浅い考え方だから、万葉集の前半の大半が朝鮮語である、との考えもまた信用は出来ない。私はそうした同氏の解釈に一つ一つ細かく反論を書いた。見たいとおっしゃる方がいれば、いつでもお目に掛ける。朝鮮語、それも古代語を知らなくても、日本の古代語や万葉集の歌を知っていれば、常識でおかしいと思えるのである。
それは別としても、朝鮮語の「どんぐる」が日本語の「どんぐり」になっている、との考えは納得が行く。だから「団栗」と書くのだと思っている。朝鮮語の事はともかく、日本語の学者なら、「どんぐり=団栗」は常識である。「団」の漢字を見て、どうしてそうした連想にならないのか、と私は不思議で仕方がない。
そして、この番組はどうして漢和辞典を引かなかったのか、と不思議でたまらない。学者が分からないと言うなら、自分達で追究してみようとは思わないのか。
そう、思わないのですね。だから、いつもいい加減でお茶を濁しているんですね。昨日、TBSの番組で同じような批判をした。話題にしている言葉の意味を様々な国語辞典で調べようともしていない。単に二つの辞典を引いただけである。しかも使われている言葉すら正確に使えない。「呆然」を「あぜん」と読んで平気である。「呆れる=あきれる」だから「呆然=あぜん」となった、のだとは思うが、でも、言い訳にはならない。
テレビは一過性である。これぞ、と思わない限りは録画などしていない。毎日のニュースショーなどを録画していても仕方がない。だからどのような間違いがあっても、顧慮される事が無い。たまに番組の終わりで訂正があるが、それだって、何をどう間違えたかは明確にしないで、単に「○○の間違いでした」と言うだけである。そんなの訂正とは呼べない。つまり、訂正だって形式的なのである。
そうしたテレビのいい加減さを私は一冊の本にした。だが、あまりにも小さな事と思うのだろう、どこも本にはなりません、と言う。テレビについての批判書はある。私も買って読んだ。だが、大局的な見地からの批判は今一つ分かりにくい。言っている事は正論なのだが、どうにも具体的にそうだそうだ、と納得出来ないのである。
私は高邁な事が分からない。よく演繹法とか帰納法とかが話題になるが、それすらも私には分からない。なんで、そんなに難しく考えなきゃならないんだ、と思ってしまう。もっと具体的にああだのこうだのと言う訳には行かないのか、と。それが一番分かり易いではないか。難しい事、原則的な事を言うから、切実感が無いのである。切実感が無くて理解した事など、何の役にも立たない。