夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

二位以下だった下位が連合してトップになるのはおかしい

2011年08月30日 | 政治問題
 民主党の代表線で、第1回投票で二位に41票の差を付けた海江田氏が第2回投票では34票しか上積み出来ず、二位だった野田氏が113票も上積みしてトップになった。政界の常識を破ったと新聞は書いているが、政界だからこそ、こうした事が起きるのではないだろうか。
 誰もが信念を持って立候補しているはずだ。それぞれに信念が異なるから何人もの候補になっている。それが、トップになれなかった候補を支持している議員達が連合した。それって、候補者の信念はどうなってしまうのか。これは明確に、トップになった海江田氏に政権を渡したくないと言うだけが動機になっているはずだ。
 つまりは、元々が支持した動機が不純なのである。親小沢か、反小沢か、が支持の基盤になっているのだから不純この上無い。
 東京新聞の政治部長は、この選挙を「ドラマチックな展開」だなどと言っているが、少しもドラマチックではない。最初から魂胆が見え見えである。これをドラマチックだと捉えるなら、単にうわべだけを見ている事になる。

 民主党にしても自民党にしても、みんなちっぽけな政党ではないか。大きな視野を持てないから、誰一人として、原発をどうするのかを明確に言えない。数だけを揃えたに過ぎない。そんな連中がコップの中の争いを真剣になってやっているらしいから、まるで茶番劇を見ているようで、何の関心も持てない。世論の過半数が相変わらず、誰が総理になったっておんなじだ、と諦めている構図は変わらない。、
 議員のみなさんよ、結構な報酬をもらっているのだし、様々な特典だってあるのだから、もう少し真面目に、真剣になってもらえないだろうか。ここまで馬鹿さ加減を発揮する事は無いと思うよ。まあ、耳に痛い事は全く聞こえないと言う都合の良い耳をお持ちだろうから、言っても仕方がないけれど。

車のちょっとした事故で、東京新聞の記事の意義を考える

2011年08月28日 | 社会問題
 東京はJR有楽町駅の高架下を通行していたトレーラーが、荷台のコンテナを高架の柱にぶつけた。車体が傾いただけで済んだが、原因は高さの表示にあった。
 表示がどこにあるのかは東京新聞の記事では「高架付近」とだけあって、明確になっていないのだが、JRの表示は「制限高4.1メートル」。運転手は車の高さが4.1メートルなので通れると思った、と言っている。だからこのJRの表示を見た訳だ。でもそれで通れると思った、と言うのが私には納得とは行かない。
 「制限高4.1メートル」とは、4.1メートルは通れるのか通れないのか。通れるとするなら、高架下の空きは4.1メートル以上ある。通れないとするなら、高架下の空きは4.1メートル未満しか無い事になる。だから、車の高さが4.1メートルジャストなら、運転手は迷うはずだ。通れると考えても本当にこわごわと通るはずだ。それなら、ぶつかってもそのままで済む。車体が傾いたのだから、多分、こわごわとではなかったのだろう。

 そして警視庁による表示は「高さ制限四メートルを示す交通標識の〈4.0〉である」と新聞は書いている。この標識を見ていたなら、運転手は通れないと分かっただろう。この二つの表示の一体どちらがより見易かったのだろうか。もっとも、どちらも「4.0メートル」だったとして、もしも車の高さ4.0メートルジャストだった場合に、運転手は通れると判断するのか通れないと判断するのかは分からないのだが。

 そしてJRと警視庁は二つの表示が違っている事に気が付いているべきで、きちんとその対策を取っているべきではなかろうか。問題はもう一つある。JR東日本は次のように言っていると言う。

 「表示は高架の高さを表したもので、通行可能なわけではない」
 道路に架かる高架に、何の理由があって、高架の高さを表示する必要があるのか。表示するからには通行可能な高さに決まっているではないか。こんな言い訳が堂々と通るらしく、新聞は何の批判もしていない。

 同紙は記事本体と同じくらいの大きさの車体が傾いた写真を載せている。それで情況は良く分かる。そして見出しは4本。
 有楽町駅高架にトレーラーごつん
 制限高JR4.1メートル
 交通標識は「4.0」
 運転手「通れると思った」

 写真と以上の見出しで情況は分かる。分かるが、ただそれだけだ。それで終わるなら、単に面白おかしい話にしかならない。特に「トレーラーごつん」の表現には面白おかしさしか私には感じられない。私が感じたような納得の行かない事にはまるで関心が無いようだ。

恥ずかしい政治家の考え方)

2011年08月27日 | 政治問題
 民主党の渡部恒三氏が次のように言っている。

 「どなたが新代表になっても全面的に支え、『やはり政権交替してよかった』と国民に思ってもらえる内閣にしないといけない」

 何とまあ、当たり前の事を麗々しくおっしゃっているのだろうか、と思ってしまう。「やはり政権交替して良かった」は抜きにしても、これは誰が、どの党が政権の座に就いても当然に通用する事である。通用しなければいけない事である。
 なぜ渡部氏がこんな事を言っているのかと言えば、当の民主党にそうした考え方が無いからである。党の代表選の候補者を、鳩山は誰を推す、とか、小沢は誰を推す、などと言っている。これは選挙の時だけではないだろう。自分が推していない候補が代表になれば、多分、そっぽを向く。現に、菅総理の時がそうだった。「誰が代表になっても全面的に支え」などと言う構図はまるで見られなかった。
 そんなに一つの党にまとまれないのなら、鳩山党を、小沢党を作ればよいではないか。でもそれだと少数政党になって政権が取れない。何の事は無い、政権の座に就きたいがために、形だけ「民主党」と言う一つの党になっているだけではないか。政権を取れなければ口を出せない、と言う日本の政治の現実が駄目なのだが。

 党の実力者が自分の政治信念に最も近い候補者を推すのは分からなくはないが、誰々の政治信念が最も良い、などと言う事はあり得ないと思う。それぞれに一長一短があり、それぞれの意見を出し合って互いに歩み寄り、多くの人々が賛同出来る方針を打ち出すのが本当の政治ではないのか。

 上記の渡部氏の考えは野党に対しても通用する原理である。「どの党の誰が総理になっても、全面的に支え、『今のような政治家達で良かった』と国民が思える政治でなければいけない」のである。
 言うまでもなく、内閣は国民に全責任を負っている。その内閣が誕生した事には野党も含めて、全国会議員が責任を負っている。野党が与党になれなかったのは単に支持者の数が足りなかっただけの事である。白か黒か、で争い、負けたのではない。ほとんどが灰色の中の濃淡の差でしかない。
 言うならば、ドングリの背比べであって、国民はあのドングリは駄目で、このドングリは良い、などと思ってなどいない。どのドングリだって同じだとしか見ていないはずだ。同じドングリなのだから、変な政権争いは見苦しいだけではなく、心底、その人間性が疑われてしまうのである。ああ、恥ずかしい。いや、恥ずかしいのは当の議員達であって、我々国民は悲しく、怒り心頭に発しているのである。


首相は菅氏では駄目で、なぜ他の人間なら良いのか

2011年08月26日 | 政治問題
 菅さんは総理の器ではないらしい。しかしそれならなぜ彼が民主党の代表に選ばれたのだろうか。いや、全員一致じゃないよ、と言うのかも知れないが、多数であった事は確かである。そして全員一致ではなくても、自分達の党の代表で、それが一国の首相になるのだから、全員一致で後押しをするのが党としての役目ではないのか。結局、民主党もその他の党と全く同じで、内部の派閥が権力を握っているのだ。党のため、それは国民の暮らしのため、に直結しているのだが、そんな事は毛頭考えていない。派閥の意向に沿った政治をしたからと言って、国民が幸せになるとは思えない。
 代表選では今、前原氏が話題になっている。しかし、鳩山がどうの、小沢がどうの、と取り沙汰されている。彼等が協力しなければ、たとえ前原氏が首相になったとしても、党内の協力が得られなければ駄目なのだ、と言っている事になる。
 菅さんの場合だって、鳩山や小沢が協力すれば、良い政権になったのではないのか。
 庶民はみんな、誰が首相になったって同じだよ、と、とっくの昔に諦めている。そう、庶民はみんな知っている。この国の政治がどんな連中が駄目にしているのかを。

新エネルギーの占める割合はわずか1%だと言う

2011年08月24日 | 社会問題
 廃材を燃やす事などによるバイオマスを始め、風力、太陽光、地熱による新エネルギーだが、その割合は何と全エネルギーの1.1%に過ぎないのだそうだ。電力会社10社の推計では、様々な火力が61.7%、水力が8.1%、原子力が29.2%である。
 わずか1%に過ぎないのだから、政府はその内訳を把握していなかったと言う。しかし原子力に頼る事が出来ない事は明々白々の事実になっている。それでもまだ原子力に未練たらたらの連中は少なくない。原子力が3割も占めている現状を見させられれば、そう思うのも無理は無いとも言えるのだが、それでは過去に足踏みしてしまう。
 3割も占めているのだから、背に腹は代えられない、と考えるのではなく、もっと大胆な省エネを考えるべきだろう。エネルギーが不足するから海外脱出だ、とか製造を縮小するのだ、などと短絡的に考えていては何事も進まない。大胆な省エネを実行するにはそれこそ大胆な発想の転換が必要になる。本当に無駄な電力を使っているなあと、つくづく思う物は身近に幾らでもあるではないか。
 もちろん、そうした無駄な物を牛耳っているのがテレビだったり、有力産業だったりもするから、簡単には行かない。彼等は自分達の儲けを削ってまでやろうなどとは毛頭考えもしない。

 新エネルギーは冒頭に挙げたように、四つもの選択肢があるのだから、それぞれを真剣になって伸ばそうとすれば、全体での1%との数字はこれからの努力次第で十分伸びるはずだ。そうした事にこそ日本の技術力を生かすべきではないか。テレビの進化やケイタイの進化なんかよりもっとずっと大切な進化させるべき物がたくさんある。
 そうした事をどんどん提言して、実行に移す力を与えるのがマスメディアの任務だろう。バラエティーや目の前の事件にばかり食い付いていては任務を果たせない。

みんな政治に絶望している

2011年08月21日 | 政治問題
 地震の被災者達が怒っている。国会は我々を馬鹿にしている、と。誰だってそう思う。国会議員達の頭の中にあるのは、自分達の利益の事だけである。中には心から被災者の事を思っている国会議員も居るだろうが、その姿は見えては来ない。圧倒的多数の人でなしの国会議員達の中に埋没してしまっている。国会はまさに烏合の衆だ、と言おうとして、辞書を調べたら間違っていた。「烏合の衆」とは、統一も規律も無く集まっている連中を言う。国会は変な統一や規律はある。自分達の利益を守るとの点で、統一の形を取り、ある種の規律もある。正義の人を造反者だと言って排斥する「規律」がある。
 それに烏はある程度、頭が良い。しかし国会議員は頭が悪い。頭が悪いのではなく、性格が悪いのだと思うが、いやいや、頭も性格も悪いのだろう。

 様々な被害を含めれば何万人もの人々が苦しんでいると言うのに、何も出来ない連中を頭も悪ければ性格も悪いと言って、何の不都合があろうか。いやいや、また間違えた。何も出来ないのではなく、自分達の権益を守る事だけは出来ている。
 民主党の首班指名に誰が立候補するのかとマスコミは話題にしているが、国民のみんなが、誰がなったっておんなじだよ、と匙を投げている。大事なのは誰が総理になるか、ではなく、政治に携わる全員が力を合わせて被災者を救い、国民全員のしあわせのために努力する事しか無い。それには抜本的な政治感覚の改革が必要だから、まあ、絵に描いた餅でしかない。

 外国から見たら、本当に馬鹿だと思うだろうねえ。総理がころころ変わる。そんな信用の置けない国なのに、円だけは強いなんて、本当におかしい。日本は資源は乏しいし、食糧の自給率は4割を割っているから、日本にどんどん物を売り付け、産業をどんどん国外に流出させ、日本を潰そうと言う陰謀があったっておかしくはない。日本には、下手すると、陰謀に加担する連中ばかりが居て、陰謀を潰そうとする人なんて居ないのかも知れない。そもそもは陰謀がある事にも気が付かないだろう。
 いくら自分の権益を守ったって、日本全体が沈没してしまえば、元も子も無いのに。日本は地震や津波で沈没するのではない。人でなしの連中によって、沈没させられてしまうのである。

原発の規制をする人間が推進する人間と同一人物である

2011年08月20日 | 政治問題
 歴代6人の保安院院長の内、5人までもが原発推進側の資源エネルギー庁に在籍の経験があった。もっとも、規制する原子力安全・保安院と推進する資源エネルギー庁が同じ経済産業省の管轄の下にある事自体が間違っているからどうしようも無いのだが。
 こうした事から分かるのは、5人の院長は何ら自主性の無い人間だった、と言う事である。原発を推進するとはどのような事なのか。原発を規制するとはどのような事なのか。幾つもの面があって、ある面は推進して、ある面は規制する、などと言う事ではないはずだ。原発は使いようによっては大きな効果があるが、その反面、大きな効果が大きな危険になる。効果と危険は常に隣り合わせになっている。大きな危険があるからこそ、それをプラスに生かせば大きな効果になる。だからマイナスになれば途端に今度の事故のように危険度7と言う災害になる。

 つまり、一つの事柄をプラスから見る立場とマイナスから見る立場は、一つの立場なのである。だから一人の人間がある時はプラスだと思い、別の時はマイナスだと思う事になる。それを一人の人間が使い分けられると思えるだろうか。使い分けられるなら、情況に応じてどのようにもなる主体性の無い人間でしかあり得ない。
 現在の院長は次のように言っている。

 「私の経験から申し上げて、同じ役所の中に規制側と推進側があることにより、安全規制をゆがめたことはなかったと思う」

 新聞は、問題ないとの認識を示した、と書いているが、つまり、この院長は規制側と推進側を行ったり来たり師しながら、何の問題にも直面しなかった、と言っている。それは真面目に仕事をして来なかったと言っているのと同じだと私は思う。すべて、いい加減にやりこなして来たからこそ、安全規制をゆがめた事はなかった、などとうそぶくのである。
 安全規制を歪めたのではなく、安全規制に何ら関心を持っていなかったのである。もちろん、それはこの院長だけには限らない。すべての推進派の連中が安全規制などに関心が無かった。テレビや新聞での発言を見聞きしていれば、そんな事は誰にだって分かる。それが「想定外の事故」との言葉に明確に現れている。

役人は骨の髄まで腐り切っている

2011年08月17日 | 政治問題
 経済産業省と文部科学省が交付金で原発の後押しをしている。それは既に分かっている。その交付金の財源が我々の税金である事も分かっている。原発も誘致している自治体は、原発無しでは生活が成り立たないと言うのは事実だが、原発関係で働く事で収入を得ていると言う事自体は原発に関する労働の対価だからいいが、その原発を稼働させる事に関して我々の税金がふんだんに使われている事は筋が通らない。結果としては、原発関係で働いて収入を得ているその収入の何分の一かは我々の税金だと言う事になる。

 こうしたおかしな事が堂々とまかり通っている事自体が許せないが、今日の東京新聞には原発新設の後押しを上記の二官庁がやっていた、と書いている。新設の場合、交付金を増額するのである。しかもそれを決定した日が問題だ。福島原発の事故の国際的尺度をチェルノブイリと同じレベル7に引き上げた翌日なのである。
 当然にそれらの官庁の役人はレベル7に引き上げられた事を知っている。そしてその後始末がいかに困難であるかも知っている。それなのに、である。
 新聞はそれを「改正」だと書いているが、「改悪」の間違いである。評価を抜きに報道するのが新聞の役目であると言うのなら、「改訂」あるいは「改定」とすべきである。「改正」には既に「正しい」との評価が含まれてしまっている。

 それにしても役人の奴等は非常に姑息である。資源エネルギー庁はこの改定を記者発表はせず、ただ官報に告示しただけだったと言う。これは4月13日の事である。しかし今日は8月17日だ。昨日分かった事実なのだろうが、何と官報での告示から4ヶ月も経っている。その間、誰も気が付かなかったのか。新聞社には官報を読む役目の人は居ないのだろうか。官報は簡単に手に入る。官報などの販売書店は各地にあるはずだ。
 役人のやっている事は何から何まで、ほんの小さな事からすべてチェックする必要があるだろう。全く違う話になるが、税務署など、租税の申告書のほんのわずかなミスまでも厳格にチェックし、税金を徴収している。カネの事だから細かくうるさくなるのだろうが、どんな仕事だって、結局はカネの問題になるのだから、税務署並みの厳格さが求められるだろう。
 この改定の責任者である海江田万里と高木義明の二人の大臣の責任は厳格に追及されるべきである。

駄目な民主党が再び駄目な代表を選出する

2011年08月13日 | 政治問題
 駄目だ駄目だ、と言われている菅さんを選んだのは民主党の議員達だ。その全く同じ連中がどうやったらもっと良いと思える代表を選べるのか。まあね、全員一致で菅さんを選んだ訳でもないのだろうから、やり直せば少しは増しになるかも知れないが。本当に「少しは増し」だろうね。なぜって、あんなに大きな被害を与えている福島原発の事故を目の当たりにして、しかも現在も被害は拡大していると言うのに、原発によるエネルギーはエネルギー全体の問題として考える必要がある、などと馬鹿な事を言っているのである。エネルギー全体の問題なんて言えば、原発を否定する事は誰だって出来ないじゃないか。エネルギー全体の問題、などと言うのは、現在の日本をそのまま肯定している考え方に過ぎない。

 庶民は今までの贅沢な暮らしを反省している。夜でも昼のように明るい暮らしはおかしいのだ、と気付いている。だから様々な節電にも協力しているではないか。今、世の中の事を一番よく知っているのはそうした庶民だけである。苦しさに直面しているからこそである。しかしながら、政治家達は誰も苦しさに直面などしていない。更迭される人間に上積みの退職金を支払って当然だと考えている連中なのである。

 北海道の高橋はるみ知事を私は骨のある人だ、と思っていた。しかし簡単にその思いは裏切られた。安易に原発再稼働にゴーの指示を出したのである。

 みんな、背骨の無い連中ばっかりではないか。頭も無い。顔だけはある。その顔は時によってどのようにも変わる。まるで化け物だ。そんな化け物連中が牛耳っている日本が良くなる訳がないじゃないか。これは多分、百年河清を待つ、だろうね。

 知人が、新聞に素晴らしい俳句が載っていたと言う。
 「八月や六日九日十五日」
 三つの日付を並べただけで誰にでも共感の出来る名句になっている。こうした思いを果たして政治家達は身に沁みて感じているだろうか。まずは絶対的に感じてなどいないだろうね。東北大震災の被害者の事も福島原発の被害者の事もすっかり忘れて自分達だけの事しか考えていない連中に、人間としての最低限の事さえ期待は出来ない、と私は思う。

更迭されたのに1200万円も退職金が上積みされる

2011年08月12日 | 言葉
 福島第一原発の事故で、3人の責任者が更迭された。経済産業省の事務次官、資源エネルギー庁の長官、原子力安全・保安院の院長の3人だ。しかし、「組織上の都合で退職を求めるため」だから勧奨退職の対象になると言う奇妙な屁理屈を付けて退職金が上積みされた。東京新聞は「泥坊に追い銭」と書いているが、誰だってそう思う。
 こうした判断をした海江田万里大臣が総裁選に立候補するらしい。とんでもない事だ。こんな連中ばかりなら、トップを変えたって、一向に日本の政治は良くなりはしない。

 その東京新聞の記事(コラム「筆洗」)に「更迭」は辞書では「役目や職などについている人がかわること、また、かえること」とあって、ニュース用語としては、普通は後者の意味で使われる、と書いている。
 あれっ、と思った。私はニュース用語として「役目や職などについている人をかえること」だとは思っていなかった。無能な人の首を切って、新たな人を任命する事だとばかり思っていた。もっとも、新たな人が有能だとは限らないが。「人がかわる」と「人をかえる」は単に自動詞と他動詞の違いに過ぎないではないか。
 そこで手元の辞書を見ると、6 冊共に新聞と同じ意味になっている。ただ、『大辞泉』だけは「かわる」は無くて、「かえる」だけになっている。私はこちらの方が正解に近いとは思うが、それでもまだ納得が行かない。その中で『新明解国語辞典』は「大臣の更迭(=首のすげかえ)」の用例を挙げている。『明鏡国語辞典』は「成績不振で監督が更迭された」の用例を挙げている。他の辞書のような「大臣の更迭」では分からないし、「大臣を更迭する」でもまだ分からない。

 「役目や職などについている人をかえる」理由や事情は多々あると思う。その人が別の役職でもっと能力を発揮出来る事が分かって「かえる」場合だってある。ほかから、望まれてそこの役職に就く事は十分に考えられる。その場合にそれを「更迭する」と言えるのだろうか。
 「大臣の首のすげかえ」には「この人では駄目だ、と烙印を押す」イメージがある。「成績不振で」なら言う事は無い。世間ではこうした意味で「更迭」を理解しているはずである。
 国語辞典の「更迭」の意味の説明は今のままで十分なのだろうか。そして新聞がそれで世間も納得していると思っていて良いのだろうか、と大きな疑問がある。疑問と言うか、大きな不審である。不信と言っても良いかも知れない。