夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

テレビ番組「和風総本家」のおかしなクイズ

2011年12月30日 | 暮らし
 テレビ東京の番組の「和風総本家」を私は大好きで、「なんでも鑑定団」同様、欠かさずに見る事にしている。ただ、仕事の都合上、始まりからの3分の1くらいは見られないが。
 昨日は「お正月大みそかのい過ごし方」だった。その中で、かなり経過した頃のクイズで「初夢はいつ見るのか」との問題が出された。答の選択肢は二つ。「大晦日の夜から元旦に掛けて」と「元日の夜から二日に掛けて」。
 だが、これは馬鹿馬鹿しい問題なのである。と言うのは、番組のもっとずっと前に、大晦日は除夜の鐘を聞いて、それから初詣をしたりして、一晩中寝ずに元旦を迎えるのが正しい過ごし方だ、と説明しているのである。
 寝ないのだから、夢を見られる訳が無い。馬鹿馬鹿しいし、眠くなったので、消してしまったが、惜しい事をしたもんだ、と思っている。なぜなら、この解答次第で、解答者の頭の善し悪しが分かるからだ。
 ただ、これは生番組ではないだろうから、話の順序が変えられている可能性もあるから、番組通りに見ていては出演者には気の毒な場合もあるだろう。しかし、それは番組制作者にとっては当然に分かり切っている事であって、いずれにしても、番組の底の浅さが露呈してしまう。
 こうした展開を見せられると、本当にこの番組を信じて良いのか、と疑ってしまう。

野田総理のおかしな発言
 野田首相は29日の民主党税制調査会と社会保障と税の一体改革調査会の合同総会で、次のように言った。定数と公務員給与削減の通常国会での対応についてである。

 「われわれがボールを投げないといけない。民主党が政治改革家の集団であることを国民に示そう」

 今更何を言うか、とちゃんちゃらおかしい。民主党内に限っては、「民主党が政治改革家の集団である」は通用するのかも知れないが、世間はとうの昔に見限っている。世間は「民主党は政治改革はしない集団である」と思っている。信用ならない政党であるからこそ、大量の離党議員が出ているのである。
 この離党問題について、佐藤優氏が本質を突いた発言をしている。離党者の中に渡辺浩一郎衆議院議員が含まれている事を問題視している。渡辺議員は野田民主党代表(首相)からのプーチン「統一ロシア」党首(首相)に宛てた親書を携えてモスクワを訪れたからである。
 佐藤氏は言う。「外交の世界で、親書を携行するのは、首脳がほんとうに信頼する人であるというのが常識である」。最側近ですら離れてしまうようなら、権力中枢に分裂が起きている、とロシアは考えるに違いない、と彼は思っている。選挙区の事情で、小沢一郎氏に近い人達が離党したのだろう、は通じないと考えている。
 常識では考えられない事が通用しているのが、この我々の日本なのである。

新聞の記事で文章の分からない人が大勢居るらしい

2011年12月29日 | 言葉
 今日の東京新聞に25日付の記事についての説明が載った。私が26日にブログで発信した詩人の水無田気流さんの記事である。問題は、何の疑問も無いので私は取り上げなかったが、「棹さす」の使い方である。「棹さす」は「時流に乗る」の意味なのだが、「時流に逆らう」の意味として誤用される事もあるらしい。
 そして水無田氏の記事はこの誤用ではないか、と複数の読者から問い合わせがあったのだと言う。私がタイトルで「大勢居るらしい」としたのは、新聞が少数の人間の意見に耳を傾ける事は少ないはずだ、と思うからだ。読者相談室では受け付けるが、このようにちょっとしたまとまりのある記事にはしないだろう。そこで、同氏のその部分の記事を引用する。長くなるので、一部、語句を省略する。ただし、文意は正しく伝わるはずである。なお、水無田氏の記事は日本が「なし崩しの社会である」と批判をしている。

 野田首相は16日、事故の工程表のステップ2「冷温停止状態達成」を確認できたとして、事故の収束を宣言した。これに対し、本紙は「達成強弁 実態は道半ば」で、本来の「冷温停止」と以て非なる「冷温停止状態」という用語を事故収束に向けたキーワードに用いた点を批判、同日特報面で「『収束』なら刑事責任問え」と痛烈に批判している。なし崩しの現実に流されないために、来る年もこれらに棹さす記事を期待する。

 今日の解説によれば、この文章の「これら」が「なし崩しの現実に流されないために」を指すとすると、誤用の「時流にさからう記事に期待する」の意味の方がビッタリと来る、と言う。執筆者に確認したら、「これら」は原発事故で政府や東電に批判的な本紙の姿勢を今後も貫いてほしい、という意味なので、「誤用ではないということをご了承ください」と書いている。
 馬鹿な事をするものだ、と私は思う。誰が読んだって、「なし崩しの現実に流されないために、これらに棹さす記事」がどのような記事なのか分かる。「~のために」は目的を表す。その目的と、それを果す手段は明確に違う。そんな間違いは普通は絶対にしないだろう。つまり、文章の理解力が、この複数の読者がとても低いのと同時に、新聞自身もとても低いのである。
 それなのに、この読者もこの記事の記者も、私が25日に「分からない」と疑問を呈した「現実を容赦なく措定する言葉も普及している」の意味とその実態がきちんと分かっているらしいのである。それほどに理解力のある人々が揃って、この「棹さす」の文意が分からないとは、それこそ分からない。

 聞かれた詩人はびっくりしただろう。でも私もびっくりした。「応答室だより」とのタイトルの解説記事だが、記者の質の程度が分かってしまった。この記事のタイトルは「『棹さす』の使い方で誤解」である。
 そうではない。「棹さす」を「時流に逆らう」と誤解したのであれば、「これら」が「なし崩しの現実に流されないために」を指しても、十分に意味が通る。なし崩しの現実に流されては困るのである。
 東京新聞の「政府や東電に批判的な姿勢」(1)は、「なし崩しの現実に流されない姿勢」(2)なのであって、どちも同じである。従って、誤解のしようが無い。(2)は明確に否定の表現になっている。「なし崩しの現実に流されない」ために「流れに逆らう」のだと誤解しても立派に意味は通っている。くどいだろうが、「なし崩しの現実の流れに棹さす」のではないのである。あー、疲れた。

季節感を大切にするなら、年賀状は元旦に書くのが筋だ

2011年12月28日 | 暮らし
 白と青を基調にした電飾のクリスマスツリーの飾りがとてもきれいだったビルがある。中央には本物のツリーがあって、そこに飾り付けがされ、上から左右に光が流れる。その更に左右には小さなツリーが、こちらは飾り物だが、真っ白で、これまた美しい。そして下には垣根のようになった白い飾りがあって、全体をまとめている。
 26日に見たら、ツリーはきれいさっぱりと無くなっていた。たが、下の垣根だけは残っている。
 なるほど、と思う。クリスマスは終わったのだ。でも、クリスマスツリーをかたどった年末年始の飾りであっても良いではないか、とも思う。何しろ、下側の部分だけは残してあるのだから。

 これは季節感を生かした風物の一つだろう。そして、その季節感だが、私には年末に一番嫌な仕事がある。年賀状を年内に書いて出す事である。年内に「明けましておめでとう」に違和感がある。
 今年も年賀はがきは早々に買って、文面も印刷してある。仕事用と家庭用に分けて、色々と案も練った。でも、宛名を書く気になれない。私は宛名まで印刷する気にはなれない。それではあまりにも事務的過ぎると思う。それで一日延ばしにしている。早く書かなくては元日には届かない事は分かっているのだが、その、元日に届く、と言う事にも疑問がある。

 確かに元旦に年賀状が来ているのは嬉しい事だ。でも、それは年内に、しかも12月25日までに出しているからだと分かっている。結果的にはそれで万事うまく納まっているとは思えるのだが、そんなにしてまで、元旦に年賀状が届いている必要があるのだろうか、と思ってしまう。
 文面は考えていても、多くの場合に、表も裏も印刷と言う事務的な仕事で終始している事に納得出来ないのである。まあ、単に自分が億劫な事への良い訳に過ぎないのだとは思うが、本当に気が進まないのだ。

 毎日、何が起こるか分からない。私の知人は今日までの仕事なのだが、今日はお休みである。なぜなら、肉親の姉上が亡くなったのだ。で、年賀状を投函していたら、喪中の年賀状になってしまう。仕方の無い事ではあるが、やはり納得が行かない。

 その喪中だが、死者を出した人が喪に服するのは分かる。それは多分、死の穢れを身内だけに留めて置こう、との気持から生まれた風習だろうと思う。けれども、他人は別である。他人は新しい年を祝って何の支障も無い。その気持が喪に服している人に届く事が、いけない事になるのだろうか。周囲の明るい気持で喪も十分に緩和されるのではないか。
 だから、年内に、相手が年賀状を書く前に、喪中のため、新年の挨拶を遠慮する、との通知をしなければならない事に、これまた違和感がある。これには二つの意味があると思う。一つは、自分が年賀の気持を受け取りたくない。もう一つは、相手に喪中の自分に年賀の気持を現してしまう無礼をさせない。
 どちらも私には筋が通らない話だと思う。

 さてと、そろそろ年賀状の宛名でも書くとするか。

日本は「なし崩し社会」だと、東京新聞で詩人が語る

2011年12月26日 | 言葉
 水無田気流と言う詩人が25日の東京新聞に書いている。どのような事が「なし崩し」なのかと言うと、本質についての議論が成されずに、すべてがあらかじめ決められた方向に向かって進んでしまう、と言う事らしい。様々な例が挙げられているのだが、それらの表現がみな違うので、頭の悪い私にはどうにも分かりにくいのである。

 本質についての議論が成されなかった例の一つとして、増税やTPP参加が挙げられている。これらは見かけ上の是非をめぐる議論はされたが、結果は最初から決定済みのようである、と書いている。
 そして、「なし崩しの社会」になっているのは、多くの人が言葉を信じないからだと言う。だから必要な討議が成立しない。
 この考えには私は大いに賛成だ。言葉が上滑りをしている。この詩人は書いている。「今年は特に政治家の失言を巡る言葉争いが頻発したが、その背後で、なし崩しの現実が進行している」と。そう、言葉がどうのこうの、とは言うのだが、その言葉が出て来た現実を少しも見詰めようとはしていない。だから言葉だけを撤回して謝れば、事は無事に済んでしまい、その陰で、重要な事が見過ごされて、着々と進んでしまうのである。

 こうした情況を詩人は見事に説明する。

 「言葉への不信が蔓延した社会では、美辞麗句が『瑕疵のない常態』として設定される。このため、少しでも傷が見つかれば、さかんに『言葉狩り』が行われる。言葉が現実を動かすよりも、現実が言葉を取り締まっていく」

 これは本当に恐ろしい事である。言葉に騙される。見知らぬ人が「ちょっとお尋ねしますが」と言って近寄って来て、いきなり「ブスリ」と同じような事になる。
 私は詩人が言及している崩壊した原子炉の「冷温停止」と「冷温停止状態」の違いがよく分からないのだが、どうも、全く冷温停止ではない情況を「冷温停止状態」だと言って騙しているらしいのだが、「状態」を付け加えたからと言って「冷温停止」ではない事が「冷温停止」だと思うと言う、その事自体が私には信じられない。それで国語辞典で「状態」を調べた。

 「状態」をある国語辞典は「事物が、その時にそうなっている、ありさま」と説明しているが、別の辞書は「我々が見たり聞いたり触ったり感じたりする事が出来る物事を、一時点で切り取ってとらえた時の、形や性質のありかた」と説明している。
 「一時点で切り取ってとらえた」と言っている。それならば、「冷温停止」とはそれ以上変化し得ない情況なのだが、「冷温停止状態」とは、単にある一時点で冷温停止になっている情況だ、と言う事になる。

 そうした事が分かっていて「冷温停止状態」と言うのはまるで詐欺だ、と言うのなら分かるが、しかし、だからと言って、それで安易に済ませてはならないだろう。きちんと、「状態」と言うのは、単なる一時的な姿に過ぎないのだ、と言う事を分からせた上でないと、こうした話は説得力を持たないと思う。でも、そうだとすると、政府はとても頭が良く、日本語にも精通している事になるのだが。

 長くなっているが、もう一言だけ。
 詩人は次のように言う。
 「一方、現実を容赦なく措定する言葉も普及している」
 この「措定」が私には分からなかった。まず、読み方が分からない。「措置」の「措」なのだが、すぐには思い浮かばなかった。それで漢和辞典の部首索引で調べ、やっとのことで「措」の文字に辿り着いたのだが、そこには「措定」は無い。何冊もの漢和辞典を調べても無い。
 そこで国語辞典を見たら、あった。
・措定=ある命題を、自明なものあるいは任意の仮定として、推理によらないで直接的に肯定し主張すること。
・措定=[哲学で]対象(客体)として規定すること。
 これではさっぱり分からない。で、もう一冊見る。
・措定=哲学で、ある事物の存在を肯定し、その内容を明白にして示すこと。

 これなら分かる。しかし詩人が上に言った事の具体的な例は、放射性物質を含む汚染水が何度も海に漏出したが、原子力保安院がそれを、緊急事態を理由に法的には流出量はゼロとして扱って来た、事なのである。
 それが「現実を容赦なく措定する言葉も普及している」例だと言われても、私にはどうにも分からない。
 そもそも、「措定」なる哲学用語など使わずに説明すべきであると思う。全体に、書かれている事は納得出来るのだが、この詩人は一体どんな詩を書いているのだろうか、と考えてしまった(失礼)。

真実を知る人はいつの時代にも居るが、理解出来ない人が圧倒的に多い

2011年12月25日 | 社会問題
 アメリカのロックフェラー財団会長のフォスディック氏が、アメリカの原爆投下直後にそれを厳しく批判している手紙が発見された。
 私がその中で一番印象に残ったのは、次の言葉だ。

 「日本の降伏がほとんど視野に入っていたのに、その機会を犠牲にした」

 原爆の投下を正義だとする人々は、日米両国の犠牲者をそれ以上増やさないためだったと強弁している。真実は、黙って何もしなくても、日米両国の犠牲者はそれ以上は増えなかったのだ。
 手紙は更に言う。

 「私たちは原爆の使用を合法化し、無差別殺戮に『認証済み』のシールを貼った。あらゆる兵器に道徳的なお墨付きを与えたのだ」

 東京新聞の解説では、フォスディック氏が単に人道主義者であるだけでなく、国際的な視野を持つ弁護士だったことと無関係ではないだろう、と言い、彼はこの手紙で、原爆投下による惨劇はやがて米国に返ってくると警鐘を鳴らしている、と言っている。
 残念ながら、新聞に載った手紙文の要約にはそれは無い。
 そしてこの解説は次のように言って締めくくっている。

 「米国がいつか被害に遭うという予測は、残念ながら2001年9月11日の米中枢同時テロで当たってしまった」

 しかし私はそうは思わない。米国が遭うと予測された被害があの同時テロだとするなら、広島・長崎の被害とは比べるべくも無いと思う。「米国がいつか被害に遭うと言う予測の『ほんの一端が』」と言わなくては正しくないだろうと思う。
 同時テロのあの惨劇は、我々はテレビで見て知っている。だから衝撃は大きい。それに対して、我々の多くもそうだが、広島・長崎の惨劇は多分、この解説者は体験していないのだろう。だから、同じ程度に考えてしまうのかも知れないが、非常に不用意な発言だと私は思う。

 そしてこの手紙が第一面のトップに載っている東京新聞のその隣には、12年度予算案決定と題しての記事で「増税前提 綱渡り」とあり、第三面には「脱原発 響かぬ野田流」の大見出しが躍っている。
 ここにもまた真実の全く見えぬ御仁が居る。それが我が国の総理大臣なのだから、お先真っ暗、としか言いようが無い。

どうにもおかしな話ばかり

2011年12月23日 | 政治問題
 新聞を読んでもテレビを見ても、最近はおかしな事ばかりである。
 八ッ場ダムにしても、途中でやめるよりも、作った方が安上がりに済む、と言うのが建設の理由だと言うのだから呆れて物が言えない。しかも周辺の都県の知事達がそう言っている。何を血迷っているのだろうか。
 東京電力は電気料金の値上げを言い出している。ただでさえ世界一高い電気料金だと言われているのに、何の反省も無い。結局は発電も送電も独占なので、そこに群がるハイエナどもが寄ってたかって料金の値上げに動くのである。
 東京電力と関西電力の筆頭株主である東京と大阪に頑張ってもらいたい。
 福島の原発事故が、様々なこれからの技術開発を使って、やっと40年後には終息するだろう、との予測なのに、それを「終結宣言」にしてしまう政府。

 新聞は「民意」でこうした馬鹿げた事どもを覆そうと言うのだが、新聞が「民意」を育てて来たとはとても思えない。権力寄りか、大企業寄りか、そのいずれかの立場に立ち続けて来ていて、今更「民意」も何も無いと思う。
 ただ、私は東京新聞は「民意」を大事にしている新聞だと思っている。東京の地方紙だ、との自覚があるからだろうと思っている。

 我々の周囲では、みんな、「民意」が力だと思っている。でも、どうやって我々の民意が生かせるのかが分からない。「民意」に沿う政治をしてくれると期待した民主党には完全に裏切られている。
 私は勝手に、政党など、百害あって一利無し、と考えているが、現在の政治体制は政党に所属していないと不利なようになっている。それを変えるのが現在の有利な政治体制の下で権力を握っている議員達なのだから、どうにもならない。
 そして「民意=衆愚」だと考えている人々が居る。そしてそうした一部の人々が様々な部門で権力を握っている。
 今生まれた赤子が、不惑の歳になるまで経たないと、原発事故の終息が期待出来ないのと同じように、「民意」による政治もまたそれくらいの年月を要しないと実現出来ないのだろうか。原発事故の終息はあくまでも「期待」に過ぎないのと同じように、「民意」による政治もまた「期待」に過ぎないのだろうか。
 まあ、今第一線で活躍している人々はほとんどがその頃には死んでしまっているだろうから、あまり考えても意味が無いのかも知れない。

私は人の話がよく分からない

2011年12月21日 | 言葉
 なぜなのか分からないのだが、私は人の話を聞き取る能力に欠けている。新聞の記事で、分からない事があるのはこのブログでも書いている。それは書かれている筋が分からない、と言う事であって、文字はきちんと読めている。けれども、人の話が分からないのは、しゃべっているその言葉が聞き取れないと言う、ずっと程度の低い話なのである。
 今日は、TBSテレビで金正日の料理人だったと言う人が出演して、様々な事を語っていたのだが、その話のほとんど半分が私には分からなかった。日本人だし、別に訛がある訳でもない。司会のみのもんた氏を始め、出演者はみんな分かっているらしいのだが、私には半分が聞き取れないのである。
 だから、何を話しているのか分かる訳が無い。金正日体制の内側に居た人の話だから興味があるのだが、諦めてチャンネルを変えてしまった。

 日常的にも、ある人の話が分からない、と言う事はしょっちゅうある。他人に話すと、自分は分かるよ、と言われてしまうので、何でだろうと、いつも考える。先日もある女性が男性に話し掛けていて、話は佳境に入っているらしいのだが、そばで聞いている私にはさっぱり分からないので、失礼ながら、二人の前で堂々と男性に聞いた。
 「ねえ、○○さんの話、本当に分かるの? 私にはほとんど分からないのだけど」
 私は男性が適当に相槌を打っているのではないか、と疑ったのである。
 だから、その女性には私からはあまり話し掛ける事はしない。私が話し掛ける人は決まっていて、私が話が分かる人に限られている。当たり前である。

 私は若い時のちょっとした事故の薬の副作用らしいのだが、常に高音の耳鳴りがしている。だから、音楽などの高音が聞き取れないのだが、それは検査をして分かると言うくらいの事であって、通常の人の話し声が聞こえない訳ではない。
 だから、何でだろうと、不思議なのだが、妻などに聞くと、それはあんたが物分かりが悪いからよ、と一蹴されてしまうので、聞かない。そして、テレビなどの話では、妻も私同様に分からないのだ、と言う事は分かっている。つまり、私達夫婦は、二人共同様に物わかりが悪いのである。
 今朝のテレビでの金正日の料理人だった人の話がやはり分からなかった、と言う人が居れば、私はとても安心出来るのだが。ただ、司会者達がよく分かっているらしいのが不審と言えば不審ではある。

さすが日本酒「獺祭(だっさい)」の社長は違う

2011年12月19日 | 暮らし
 昨日の日曜日、たまたま見たフジテレビの「ほこ×たて」は面白かったが、水道水に挑戦した日本酒メーカーの社長の味覚と臭覚には心底感嘆した。
 「絶対に水道水とバレない究極の浄水器」を三菱レーヨン(だったと思う)が作り出した。その水道の浄化水と4カ所の自然の水とのブラインドテストである。5本の水が並んでいて、その内の1本が水道の浄化水である。
 名酒と誉れ高い「獺祭(だっさい)」を作っている酒造会社(名前は忘れた)の社長が、酒造り30年の感覚を生かして、それを見分けられるか、と言う真剣勝負である。

 みんな、固唾を飲んで見守ったはずである。そして社長は見事に見分けた。味はほとんど変わらないが、1本だけ、かすかに匂いが違うと言うのである。匂いと言ったって、本当にかすかな、それこそ、達人にしか分からない匂いなのだろう。それに自然の水だって、4カ所の別々の所から汲み上げた水だから、味も匂いも微妙に違うはずなのだ。それなのに、その中から水道の浄化水を見分ける事が出来たのである。
 「絶対に水道水とバレない究極の浄水器」の完敗だった。多分、水道の浄化水には他の自然の水とは違う、何かが残っているのだろう。

 さすが、と私達家族は拍手喝采した。と言うのは、「獺祭」は私達の大好きな日本酒だからである。と言っても、高いからほんのたまにしか飲めない。それも息子が、私の誕生日とか、正月とかに買ってくれるのを、大事に大事に飲むくらいである。
 そうか、こうした熟練の達人が居るからこそ、「獺祭」は本当に旨い酒なのだ、と合点が行く。因みに「獺祭」の「獺」とはあの動物の「かわうそ」の事である。『大辞泉』によれば、「獺祭」とは「かわうそが自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう」とある。
 今度の正月用に、自分で「獺祭」を買って来よう。 ぴんからきりまであるようだから、息子の買ってくれるのに負けたくないなあ、などと意地を張ってはいるのだが。 

日弁連はどのようにして、殺された被害者を生き返らせる事が出来るのか

2011年12月18日 | 社会問題
 日弁連が死刑制度廃止の統一見解を打ち出した、と新聞が伝えている。
 日弁連が死刑制度廃止を訴える動機は二つある。東京新聞によれば、次のようになる。
 一つは、足利事件など冤罪事件が相次いだ上、福井の女子中学生殺害事件や静岡の袴田事件で再審開始に向けた動きが出始めるなど、冤罪の恐れが大きくクローズアップされている。
 一つは、オウム教団関連の裁判終結を機に死刑の執行が懸念されている。
 東京新聞の記事からは上のように理解される。

 しかしこの二つは明確に違う。冤罪はあってはならないのである。だが、オウムの裁判終結は全く意味が違う。裁判所が冷静に知を結集して合法的に被告に死刑判決を出したのである。これは記事が悪いのだと思うが、「死刑の執行が懸念されている」との言い方は、既に死刑その物が悪である、との判断をしている言い方である。つまりは、裁判所の判断が間違っていると言っている事にもなる。
 そして記事の最後には次のようにある。

 日弁連で制度廃止の議論を進めてきた小川原優之弁護士は「内部で議論を重ね、死刑存置派だった会員からも理解を得た。被害者支援が進んでいる今こそ、冷静な議論ができるのではないか」としている。

 小川原氏に問いたい。被害者支援が進んでいる今、だと言うが、どうやって殺された被害者を生き返らせる事が出来ているのか、と。
 殺害事件の被害者は殺された人である。どうやって殺された被害者の支援をすると言うのか。
 恐らく、彼は殺された本人の遺族などを被害者だと考えているに違いない。確かに遺族は被害者だが、被害者の一部にしか過ぎない。真の被害者は殺された本人以外にはあり得ない。
 多分、日弁連の弁護士達は、殺された本人はもう何も分からない状態になっている。本当に苦しんでいるのは残された遺族だけなのだ、と考えているに違いない。
 だが、本当にそう考えて良いのだろうか。

 死刑制度で人が人を殺すのには確かに問題がある。けれども、死刑制度で殺される人間は、既に、何の罪も無い人、または人々を殺しているのである。この両者を同質に考えろと言うのか。
 このように言うと、絶対に、死んでしまった人間をとやかく言っても始まらない、と言う意見が出て来る。それよりも生き残っている人間の事が大事だ、と。
 もちろん、私はそれに反対はしない。けれども、それは結果論に過ぎない。その結果を招いたのは誰だったのか。言うまでも無く、原因があって結果がある。その原因が見えなくなって、結果だけが見えている。だから、見えている結果だけを大切にせよ、は筋が通らない。原因は見ようとすれば、簡単に見えるのである。ただ、多くの人々が見ようとしていないだけの事なのである。

次の総選挙が楽しみだ

2011年12月17日 | 政治問題
 今、私の周囲に、次の総選挙で民主党に入れようなどと考えている人は一人も居ない。かと言って、自民党でも公明党でもない。民主党はこの2党以上でもなければ、以下でもない。つまり、同じ穴のむじなである。
 野党の時には何でも自由に言える。言った事に何の責任も取らされない。責任を取る立場ではないから、当然と言えば当然だ。その癖が政権を取っても残っている。ずっと責任を取らずに来たから、それが習い性になってしまっている。
 責任を取ると言う事がどのような事であるのかが分からない。だから言う事とやる事が一致しない。それで平気な顔をしていられる。何とも厚顔無恥な連中である。

 まさかそんな連中だとは思いもしないから、例えば、菅氏の厚生大臣としての厚生省の役人に隠していた事を出させたのを功績の一つだと勘違いしてしまった。どうもあれには裏があるようだ。
 蓮舫氏の事業仕分けにも拍手喝采したが、すべて尻つぼみである。
 たとえ一人か二人優秀な人材が居たとしても、残りがすべてパーだからどうにもならない。
 今度の野田総理の福島の終息宣言は一体何なのだ。人を馬鹿にするのもほどがある。まあ、前々から口先だけの男だな、とは思っていた。でもそんな男が民主党から選ばれたのだ。民主党がいい加減な党である事は歴然としている。

 大阪の動きをファシズムだと非難する人が居る。そうだろうか。日本の政治家は勉強をしていない人が圧倒的に多いから、民主的に、などと考えていたら、どうにもならなくなる。優れた人がリーダーシップを取ってでしか、日本の政治は立ち行かない。
 石原都知事にとやかく言う人も多いが、東京からあのトラックの黒煙を無くした功績は大きい。やる事をやる人は、言う事も言う。そしてその実績を見れば良いのである。

 終息など全くしていなのに、終息宣言を出す総理など、詐欺師の風上にも置けない。その詐欺師は、日本国内で廃絶しようとの動きが大勢を占めている原発を輸出しようとしている。何とも恥ずかしい事である。総理一人恥ずかしい立場に立たされるだけではない。日本国民が等しく同じ立場に立たされるのである。責任感の無い人間は何でも出来るのである。