夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

記事、番組に名を借りた商品宣伝

2008年11月30日 | Weblog
 某ビール会社が明治・大正期の復刻版ビールを季節限定で売り出すとの記事が東京新聞の11月27日に載った。記事に名を借りた商品の宣伝のようなコラム記事だから、文句を言うのもどうかと思うが、でも、この商品は確か去年かおととしにも季節限定発売になっている。私も買って飲んだ。缶を取っておこうと思いながら捨ててしまって、しまった、と思った覚えもある。
 だからこれはニュースでも何でもない。単に定例の季節行事の一つとさえ言えるのではないか。まさしく記事に名を借りた宣伝である。メーカーからの強烈な売り込みでもあったか。何しろ、この某社は某外国ビールの販売権をサッポロビールからもぎとった会社なのである。もぎとったとは聞こえが悪いが、ニュースではこの某外国ビール会社がサッポロの業績低迷を嫌ったのだろうと伝えている。
 確かにサッポロは商売が上手いとは言えない。スーパーでも同社のビールだけが横一線からはみ出して高い。取り立てて個性のある商品とは言えないビールであれば、何も高い物を買わなくても済む。私は同社のビールが好きなので、他社と同じくらいの値段に出来ないものかと、いつも思っている。

 新聞では記事広告と言う手は昔からある。ただ、新聞の場合は欄外の上部に「広告」と明記してあるし、全体の体裁からも広告だと分かる。そのテレビ版がある。私が見ているのは、と言ってもほとんど見てはいないが、時々、そのまま次の番組を見ようと思って、付けっぱなしにしていて、耳に入って来る事がある。
 まさしくCMなのだが、体裁は「情報」となっている。私の見ているのはテレビ朝日の「ちい散歩」で、そのまま続きの「情報」へとごく自然に導くような仕掛けになっている。文字通り「ちい散歩」と一体化しており、長い時には25分くらいも延々と続く。
 役に立つ情報ではあろうが、何回も同じような内容を見せられているから、役に立つなどと言うのもおかしい。そんなに視聴者は馬鹿じゃない。一度見せられたら、その内容はほとんど覚えている。
 CMなら1時間に何分と限度が決められているだろうから出来ないのだが、「情報」との名前を借りれば、まさにCMと寸分違わぬ内容を20分とか25分とかも流す事が出来るのである。これが正当だと言えるだろうか。

 さて、その続きの番組だが、これがまた時代劇の再放送なのである。それもまた再放送のそのまた再放送、あるいは、再放送のそのまた再放送のまたまた再放送もあるはずだ。私はこの再放送で、短い期間に二度も同じ番組を見ている。そしてそこにまた新たにCMが入る。元手を掛けずにCM料金を手に入れる事が出来る。こんな「濡れ手で粟」のような商売が可能になる。テレビ放送と言う商売が面白いはずである。
 ね、元手要らずに金儲けが出来るんだから、先日書いたように、CMの入らないドラマを放送したって罰は当たらないのですよ。
 文句言うんなら、見なきゃいいじゃないか、と我ながら思うが、下手な現代ドラマよりもよっぽど面白いのである。もちろん、「じって(十手)」を「じゅって」などと馬鹿な科白もあるが、そんな事気にしていたら、時代劇など見られない。これは江戸時代を舞台にした娯楽番組だと割り切って見ている。
 世の中、汚い事ばかりだから、せめて架空の世界でもいいから、勧善懲悪の世界を見たいじゃありませんか。

東京地下鉄の上場と公共機関の民営化問題

2008年11月29日 | Weblog
 郵政民営化の必須の条件である上場が株価の低迷で総理が待ったを掛けているらしい。その関連で、東京地下鉄株式会社の上場の問題が東京新聞で取り上げられた。現在の株主は国と東京都である。
 都は以前から、地下鉄は一本化すべきとの考えを持っている。営団地下鉄が民営化する時に、国鉄が持っていた株を東京都が譲り受けたいと言った。そうすれば、営団地下鉄と都営地下鉄が一つになる。それが都民にとって一番良い結果になるのは目に見えている。しかし、その願いは叶わなかった。
 ここにまことにおかしな市場原理が働いている。それは利益優先の原理である。石原都知事は06年にこう言っている。
 「どうも金持ちの営団の方が、貧乏人とは結婚したくない、持参金があるならともかく、嫌だというのが実情で、これをどう説得していくか、真剣に考えなきゃいけないと思う」
 低コストで運行する営団地下鉄と高コストの都営地下鉄が統合する事で、経営の安定度が増し、都民にとってもプラスだ、との指摘も以前にされている。我々だって、乗り継ぎで割高になる現行の制度は馬鹿馬鹿しいし、第一、非常に分かりにくい。

 東京新聞はこの記事で、専門家の意見を聞いている。旧運輸省出身で、「都市交通政策論」などの著書がある交通評論家の角本良平と言う人である。以下は、その御意見である。
 「普通の会社は合併で技術を補うとか経費を減らすメリットがあるが、歴史が異なる地下鉄を統合しても利益にならないだろう」
 「都営地下鉄の欠損をどうするのか答が出ていない。統合の利益が何なのかが明確にならない限り、メトロ(東京地下鉄)側が迷惑を被る事になる」
 記事は「民間企業の論理を強調した」と書いているが、まことにその通り。私は馬鹿な取材をしているなあ、としか思えない。この記事の流れには、地下鉄を利益を生む企業としか見ていない事がありありと現れている。

 「統合の利益が何なのか明確にならない限り」だって? 馬鹿言うなよ。そりゃあ、金儲けだけしか考えていなきゃ、「利益が何かは明確にはならない」だろうよ。しかし、公共交通機関は利益を目的にしてはいけないのだ。
 言うまでもなく、「公共」とはそうしたものである。そうではない「公共」があまりにも多くのさばっているから、錯覚をしているだけに過ぎない。「公共」とは人々のためになる事である。交通機関の役割は、速くて安全で便利で安い事に尽きるではないか。たとえ、私鉄だってそうである。私鉄は本来はそうした目的で開設されたはずである。金儲けがしたいなら、もっと別の事でやるべきである。
 こんな金儲けしか頭に無いような人が交通評論家だと言う事に、私は憤りを覚える。そしてそんな人間に意見を聞いている東京新聞にも腹が立つ。

 東京新聞はこうして時々大きくぶれる。11月23日、読者の投稿欄に11月8日の社説への疑問が寄せられている。トヨタ自動車について「苦境はねかえす底力を」とエールを送った事にショックを感じたと言う。同紙はトヨタの生産構造が弱い者いじめである事を暴いている。そうした連載をした。
 私は東京新聞を購読し始めて間もなくの連載記事だったので、正直言って驚いた。こんなにはっきりと書いて良いものかと。そしてそこにマスコミとしての同紙の心根を見た思いがした。それがこの東京地下鉄の記事であっけなく崩れた。がっかりし、情けなく思っているのは私だけではなかったのだ。

 都営地下鉄が利益率が悪いのは理由がある。良い所を東京地下鉄に取られているからだ。それが、前出の交通評論家の意見「歴史が異なる地下鉄を統合しても」になる。何しろ、日本初の地下鉄は現在の東京地下鉄の銀座線だったのだ。そして東京で二番目の地下鉄も東京地下鉄が建設している。採算の合う路線を持っている事は私鉄の経営者がはっきりと言っている。明言こそしていないが、はっきりと態度で示している。
 都営地下鉄の三田線が建設される時、東京の北西部では東武東上線と西武池袋線の両線と相互乗り入れをする計画だった。だから、三田線は両者と同じ狭軌で建設されたのである。都営の第一号線は京成電鉄と京浜急行との乗り入れで広軌で建設された。この二つの私鉄では同じ広軌と言っても、軌道の幅に差異があった。そこで、京成電鉄は京浜急行の世界的に標準軌とされている軌道幅に突貫工事で直したのである。
 広軌とか狭軌とかの問題はそれほどまでに重要な事なのだ。
 三番目に開通した新宿線は京王線との乗り入れでやはり広軌になった(正確には変則広軌である)。
 狭軌よりも広軌の方が安定性が高いのは誰だって知っている。新幹線が広軌であるのが、何よりの証拠だ。
 それを敢えて狭軌で建設した。それなのに、東武と西武は営団有楽町線の建設を知って、約束を破棄して同線に乗り換えたのである。三田線よりも有楽町線の方が乗客が多いと見たのである。
 そんな程度のやからが公共の交通機関の経営者なのである。情けなくて涙も出ない。東京地下鉄がこうした私鉄と同じ路線を歩んでいるのは間違いない。
 本当に、郵便局や電話局や国鉄などの民営化は正しかったのだろうか。もう既にその弊害ははっきりと姿を現していると私は思うのだが。

民放でCMの入らないドラマは出来ないのか

2008年11月28日 | Weblog
 評判のNHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている。我が家は同局の受信状態が極度に悪い。盛大なゴーストが出て、文字は読めないし、画面は見るに耐えないほどの汚さである。それにも拘わらず同番組を我慢して見ているのは、作り方が素晴らしいからだ。
 劇中、お決まりのテーマ音楽が流れる。静かな音楽が、静かな画面にまことにふさわしく流れる。ああ、作曲家はさぞかし感激しているだろうなあ、と私は思う。一つのメロディーが様々な異なる場面で見事に生きている。
 出演者も自分の演技が、多分、幾つものシーンに分けて撮影されたであろうシーンが、緊張感のある一つの流れのある構成に編集されて、ああ、良かったなあ、と思っていると思う。
 そう、このドラマには常に緊張感がある。それは演出が上手いからだけではない。一番の功績は、CMが入らない事である。
 民放ではどんな素晴らしいドラマでも、映画でも、簡単に緊張が絶ち切られてしまう。だからちっとも面白くない。そしてCM後には、お決まりの前のシーンが繰り返される。単に冗漫なだけで、そこに緊張感などあるもんか。

 私のこのようなつまらない文章でも、一応は流れを意識して書いている。接続詞一つでもいい加減には出来ない。そして何度も読み返して書き直している。だから一つのブログを書くのに相当な時間が掛かる。そんな訳で、忙しい時はつい休みたくもなる。だがせっかく訪れてくれた人をがっかりさせてしまうのは嫌なので、何とか書いている。
 映画やドラマがぐさぐさと切られたり、一部が繰り返されたりしたら、制作者はもちろん、それに関わった人達はさぞかし嫌だろう。しかも単に切られるだけではない。全く関係のないシーンが、それこそ場違いなシーンが平気で登場する。悲しいシーンに続いて、げらげらと笑い転げているようなシーンが挿入されたら、一体、肝心の番組はどうなってしまうのか。

 CM無しでは放送が出来ないと言うのは分かる。しかし何が何でもCMが必要なのではないはずだ。テレビ局は局全体で収支が取れればよい。本当は莫大な利益など要らないのである。すべての経費を払って、次の番組が作れる余力が残るほどの利益で良いのである。それが公共の電波を使っている者の義務でもあるはずだ。
 しかし、限られた電波を使用して、限りなく利益を挙げる事が認められている。そんな考えられないような便宜を与えられているのだから、せめての恩返しをしたってばちは当たるまい。
 局がこれぞと思ったドラマをCM無しで放送するのである。儲けられればとことん儲けようなどと言う汚い根性を無くせば、簡単に出来る事ではないのか。

 大体、CMは単にイメージを流すだけで、我々の実際の役には立っていない事が多い。売りたいその商品についての情報など流しはしない。実際、私はブラザーのファクス、プリンター、コピー、スキャナーを兼ねた複合電話機が欲しいのだが、テレビのCMでは知りたい情報は何も流れない。通販でA4用紙が使える製品を売っているが、A3の用紙が使える製品がある事を知った。そのA3の製品が欲しい。仕方なくインターネットで情報を得たが、CMとはそんなものなのである。
 そんな役にも立たないCMで番組と言う肝心の売り物を安っぽくしてしまう事にテレビ局は何とも思っていない。どうやら、任務を間違えておいでのようである。もっとも、そんなCMで商品に魅力を感じてしまう人々がたくさん居るのもまた事実である。何でそんなもんで惹き付けられるのかと私は不思議でたまらない。
 パナソニックが自社の石油ファンヒーターの徹底的な回収をした事を我々は今でもはっきりと覚えている。その間同社のCMはこのお知らせだけになった。にも拘わらず、同社の同期の利益は過去最高となったのである。
 消費者はそのCMに同社の良心を見た。CMなんて、何も商品のイメージを流すだけが能ではないのだ。CMを流さない事が、かえって最も効果的なCMになるのである。
 

「出版」とはしつこい追究だ

2008年11月27日 | Weblog
 私は日本語について非常に細かい事を常々気にしており、それをまたブログでも発信している。そうした原稿もまた書いている。言葉その物だけではなく、考え方の展開にしても細かく考えている。だから、毎日、これがおかしい、あれもおかしい、と言い続け、思い続けている。
 だが、それが嫌われる。我々は自分で納得しているからこそ生きていられる。言葉の問題にしても考え方の問題にしても、私はその「納得ずく」を壊しに掛かっている。多分、それがお気に召さないのだろう。

 前著『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)で先輩達から、「あんなに難しい事を言っては本は売れないよ。もっと易しくしなきゃ。分かる分からないが問題なのではなく、分かったような気にさせる事が重要なんだ」と忠告を受けている。「分かったような気にさせる」。これが大切なのだと言う。つまり、「納得ずく」である。
 ただし、こうした先輩達がそれで良いのだと考えているのではない。仕方がない事だが、売ろうと思えば、そうするしかないよ、と言っているのである。
 何冊かのベストセラーを隅々まで読んで、分かった事がある。書いてある事におかしな事が一杯あるのにも拘わらず、何十万部も売れている。凄いのは百万部を越している。つまり、多くの読者がきちんと読んでいない。しかし納得している。分かったつもりになっている。それでいいのだ、と言う編集者は多い。
 そうか、分かったつもりにさせれば、本はベストセラーになるのか。実際に分からせるのではなく、分かったつもりにさせる。しかし、これが非常に難しい。そんなに簡単に出来る事ではない。なぜなら、おかしさに平気で目をつぶる事が出来なくてはならない。あるいは、おかしさに気が付かない鈍感さが必要である。

 こんな事言うと、お前何様になったつもりか、と言う人がいるはずだ。だが、私はそう言う人達にきちんと証拠を見せて差し上げる事が出来る。大ベストセラーのここがおかしい、と言う点を幾つも指摘して見せて差し上げられる。
 ただし、これが実は分かり易くはないのである。対象にしているベストセラーは、読者を簡単に分かったつもりにさせている訳だから、そんな簡単にぼろが出るような書き方をしている訳が無い。故意であれ、不注意であれ、用意周到な書き方がされているから、読者を納得させる事が出来ている。
 それを解剖して、ここがこのようにおかしいですよ、と言うためには、かなり複雑な展開もしなければならないし、難しい説明もしなければならない。簡単に分かったつもりになっている人々、分かったつもりになりたい人々に、そんなややこしい事を簡単に分かったつもりにさせる事はとても難しいのである。

 これにははっきりと証拠がある。私は一つの原稿をある出版社に持ち込んだ。編集者は非常に良い原稿だと認めてくれた。是非とも出版したいと言う。しかし営業がうんと言わない。その理由は簡単だ。読者を分かったつもりにさせる事が難しいからである。
 変な話、編集側は本の内容を問題にしている。しかし営業側は内容よりも読者の反応を問題にしている。当たり前だ。売れなければ営業は務まらない。その読者は残念ながら、分かろうとしたいとは思っていない。分かったつもりになりたいと思っている。
 みなさん、複雑で難しい事は嫌なのである。
 分からせようと言う本を売るには、じっくりと構える必要がある。地道にこつこつと売って行く心構えが要る。それが出来るのは実力のある出版社だけである。幾つもの名著を財産として持っていて、それだけでもやって行ける。その上に乗って、分かったつもりになる本が売れれば、それはボーナスになる。
 しかし財産を持たない出版社はどうしたって分かったつもりになれる本で勝負するしか無い。そしてそうした出版社が多過ぎる。私は勝手に、出版とはベストセラーを生み出す仕事ではないと考えている。採算を度外視しても良いなどとは思ってもいない。だが、とんとんに採算が採れればそれで良いのではないか、と考えている。人々に分からせようと言うのはそうした事であると信じている。

 こんな考え方が何でも金儲け、そのためには鉄道も郵便も民営化しか無い、と信じているような世の中で受け入れられる可能性はとても低い。と言って私の原稿が素晴らしいのだなどと言っているのではない。素晴らしくないから、営業が乗らないのに違いない。ただ、私の考えている「素晴らしさ」が世間とは多少違っているだけの話だと思っている。それくらいの自負心が無ければ、様々な原稿を色々な出版社に持ち込もうなどと言う気にはならない。

新聞でさえ言葉遣いがいい加減だ

2008年11月26日 | Weblog
 「藤雅三の油絵が米で発見」
 これは東京新聞の21日付け夕刊の「掲載記事のお知らせ」である。題字の下に、どこにどのような重要な記事があるかを示している、その内容の一つが上記である。
 さて、その記事を見る。
 「藤雅三の油彩画発見」
 この二つの言い方の違い、分かりますよね。

 以前には別の新聞で「警部が痴漢で逮捕」の見出が踊った。一瞬、私は「警部が誰かを痴漢で逮捕した」のかと思った。しかしそんな事が大きな記事になる訳が無い。だからこれは「警部が痴漢で逮捕された」のだと分かった。
 しかし、それなら、見出しは違う。「警部が痴漢で逮捕される」になる。「警部痴漢で逮捕」でも構わないが、この場合は「警部 痴漢で逮捕」のように半分でいいからアキが必要になるが。
 言うまでもなく、これは主語と補語の問題である。主語の「が」や「は」が無くても意味は分かる。同じく、補語の「を」が無くても、意味は通じる。しかしそのためには、構文がきちんと出来ていなくてはならない。

 冒頭の「藤雅三の油絵が米で発見」は、言うまでもなく、「藤雅三の油絵を米で発見」が正しい。もしこの「を」を省くのなら、「藤雅三の油絵、米で発見」「藤雅三の油絵 米で発見」になるべきである。「を」の代わりに「、」か空白が必要になる。
 この事は主語の場合でも同じだ。ただし、この「藤雅三の油絵、米で発見」「藤雅三の油絵 米で発見」では駄目だ。なぜなら、「発見」は「発見する」または「発見した」にしかならないからだ。だからこの言い方なら、油絵が何かを米で発見した事になってしまう。そんな訳はないから、読む側はこれは主語ではなく、目的語で「を」が省かれているんだな、と考えて通じているだけの話である。
 考えてみれば、我々の読解力の何と素晴らしい事か。

 「油絵」が主語なら「発見される」になる。なぜ「される」を省いてしまうのか。
 これは最近はやりの、と言っても日本語を知らない人々のはやりであるが、表現の一つである。電車の車内吊りでも堂々と「週刊○○が本日発売」とやっている。テレビでは年がら年中そう言っている。番組や局の誰かが注意をするような事は無いらしい。
 「○○が」と言いたい気持はよく分かる。それがテーマなのだ。だから「○○を」とはしたくない。だが、それならそうと、きちんと構文をわきまえてやるべきなのである。
 「発見」「逮捕」「発売」などは言うまでもなく、漢語である。つまり、中国語が元になっている。中国語では動詞の活用形などは無いから、これしか言いようが無い。そしてこれらの漢語は「○○する」に決まっている。「○○した」なら過去を表す言葉が付く。「○○される」の受身なら「被」が、「○○させる」の使役なら「使」が前に付くはずである。それらが無くて単に「○○」なら「○○する」になるに決まっている。そうでなければ、言葉は成り立たない。
 そうした事を平気で無視してしまうのが、昨今の「はやり」なのである。無視してしまう、のではなく、知らないのだ。知らないのだから誰かが教えて差し上げるべきなのに、だれもしようとは思わないらしい。多分、そうした言い方に何の疑問も持っていないからだろう。誰も彼もが「無知」で平気でいる。

 上記の「藤雅三の油絵が米で発見」のすぐ横には「10代後半7割が非正規雇用に」の見出しが並んでいる。これは「非正規雇用になっている」の略だと分かる。それと同じく「藤雅三の油絵が米で発見」が正しく理解出来るのは確かだろうが、筋が通って理解出来るのと、そうとしか解釈出来ないから理解出来るのとは違う。新聞は読者に甘えてはならないだろう。

 なんでこんな重箱の隅をつつくような事を言うかと言えば、これは日本語の初歩だからだ。それくらいの事に気が付かないとなると、記事に対する信頼度が揺らいでしまう。見出しは簡潔を旨とする。だからこそ、誰もが一目で理解出来る言葉遣いでなくてはならないのだ。こんな事、素人の一読者が言うべき事ではないはずだ。

テレビ番組の底が浅い

2008年11月25日 | Weblog
 日本テレビで古代史の謎解きをやっていた。ポンペイの話などはなるほどと思って見ていた。そして話はクレオパトラになった。彼女が毒蛇に噛ませて自殺したのは嘘だったと言う新説が登場した。そしてその証拠として挙げられた事を見て、私は唖然とした。
 毒が全身に回って死ぬには2時間以上は掛かるのだと言う。しかし彼女が自殺をしたとの知らせを聞いてローマの役人が駆け付けた時、彼女はまだ生きていたのであり、死因は全く別の事だったと言うのがそのお話である。
 クレオパトラはある建物に拘束されていた。その建物とローマの役人が滞在している建物の間は至近距離であって、すぐに駆け付ける事が出来て、彼女はまだ生きていた。
 二つの建物の間の距離が分かったのがCG画面だった。それを見て、一人の学者が疑問を抱いたのだ、と言う話になっている。馬鹿を言っちゃあいけない。
 CGを制作するには、基になるデータが要る。もちろん、そのデータには二つの建物の間の距離も入っている。何もCGなどにしなくたって、そのデータを見れば分かるではないか。何をもっともらしく、学者がCGを見て驚いたようなシーンを作る必要があるのか。これではその学者は馬鹿同然になってしまう。

 ここで分かるのは、番組は視聴者がそんな事気付いてしまう事に気付いていないと言う事実である。私はこの番組をきちんと最後まで見た訳ではない。と言うのは、自殺の真の原因に言及する前に、例の如く、つまらない、しかも面白くもない、私には何の縁もゆかりも無いCMが長々と流れる。早寝早起きを旨としている私としては、夜9時半過ぎだから、もう必死になって見ていると言うのに。もう一度風呂で暖まって寝たいし、結局、そのCMの所でテレビを消して風呂に入った。つまり、結末は見ていない。それで文句を言うのもなんだが、死因がどうであれ、自殺したのが変わらないのなら、あまり興味は無い。底の浅い作り方、言うならば、視聴者を馬鹿にした作り方を見せられて、興ざめしただけである。

 話は違うが、今朝は早くからゴルフ場に「しゅりゅうだん」が仕掛けられた話をしている。あれっ、二、三年前は確か「てりゅうだん」だったはずだ。漢字にすれば「手榴弾」。常用漢字で書けば「手りゅう弾」になる。当時、私はそれが納得出来ずにいた。確かに辞書には「しゅりゅうだん」と「てりゅうだん」の両方がある。そして「てりゅうだん」のような読み方は「湯桶読み」として馬鹿にされた。もちろん「湯桶読み」の言葉は幾つもある。辞書を見れば、「手本・見本・身分・消印・夕飯・切符・野宿」など、身近な言葉が多い。
 考えてみれば、日本語としてはこうした湯桶読みの方がずっと意味が分かり易い。「てりゅうだん」が幅を利かしたのは、表記が「手りゅう弾」だったからのはずだ。これを「しゅりゅうだん」と読むのはかえって難しい。そして「榴」が常用漢字ではないのは今も変わらない。それなのに、なぜ「しゅりゅうだん」と読むようになったのか。
 テレビで見たのはわずかに一局だけだから何とも言えないが、それにしても、節操の無い話である。

 先のクレオパトラの話と言い、この「しゅりゅうだん」の話と言い、本当にいい加減で底が浅いとしか思えない。これらは大した事ではない。しかし、だからと言っていい加減にしていれば、こうしたいい加減はどんどんのさばる。そこが怖い。我々がいい加減になりそうな所を、何とか引き留めようとするのが、マスコミの役目ではないのか。

 全くの余談だが、昨日、風呂場好きの我が家の犬には「ふろ」の言葉を聞かせないようにして「ニューヨーク」とか「合衆国」と暗号にしていると書いた。ところが、家内が「合衆国」と言った途端、犬は大騒ぎをして、私に早く風呂場に行こうとせっついたのである。うーん、困った。犬を騙すのはどうも難しいらしい。それに比べて、我々の何と騙され易い事か。

犬は言葉を覚えるのに、人間は言葉を知らない

2008年11月24日 | Weblog
 一日中犬と一緒に居ると、人間は犬語を覚えないが、犬は人間の言葉を覚えてしまう。我が家の愛犬は現在2歳8カ月になるオスのポメラニアンだが、幾つかの言葉を覚えている。特に気になるのが、「ふろ」である。なぜなら、風呂場でドアをバタバタさせて遊ぶのが大好きだからである。
 風呂の湯が一杯になった事を知らせるピピピッと言う音が台所ですると、すぐに私の所に飛んで来る。じっと私の顔を見詰め、「風呂沸いたけど」と言っている。口には出さないが、絶対にそう言っている。私が立ち上がりでもすれば、それこそ一目散に風呂場に駆けて行く。うっかりと「ふろ」などと口にしようものなら、これまた風呂場に飛んで行く。だから夫婦の間では、絶対に「ふろ」とは言わず、「ニューヨーク」とか「合衆国」とかを、それこそ小さな声で囁き合う事に決めている。これが「ふろ」だとは絶対に気付かれてはならないのである。
 ある日、息子が夜遅く帰って来て、「今日、風呂いいや。あしたの朝入るよ」と私に言った。その途端、ポンタ、あ、これ犬の名前です、が風呂場に。さすがに息子も驚いた。東京では、「ふ」の発音は非常に弱い。東京では、と言うのは、地方によっては強く「fu」と発音したりするからだ。東京では「f」になるから、「ふろ」だって「fro」である。それなのに、ポンタは耳ざとく聞き分けてしまう。
 この「ふ」を始めとして「く」なども東京では弱い発音になる。そうそう、「き」なども弱い。「おくさん」「えきしょう」などの「く」「き」が弱いのだ。ところが、特に関西のそれも女性に多く見られるのだが、「く」や「き」を強く発音する。強く発音するから、当然、その音自体も長くなる。だからとても気になる。
 「く」が弱いのは「u」がほとんど消えて「k」だけになるからだが、「き」が弱いのは「ki」と発音しているのだが、その音が短いからである。

 犬の話に戻るが、「さんぽ」も我が家では禁句である。だから「くびわ」とか「りーど」などと言い換えているが、それもいつまで持つか。その内、それが「さんぽ」と結び付いている事に気付いてしまうだろう。ただ、言葉だけが頼りではないらしい。散歩に連れて行くつもりで、「ちょっと外へ」と言っても、ポンタは首輪とリードのしまってある前に行って扉をガリガリと引っ掻き始める。こちらの気持を読み取ってしまうらしい。「ちょっと外へ」なら私の事を言っている場合もあるのだから。
 頼りに出来るのが人間だけだから、必死になって言葉や態度や気持を読み取ろうとしているのだろう。それなのに、人間はそうした努力をしようともしない。すべて自分でどうにかなると思っているからだ。だが、自分の力ではどうにもならない事が多過ぎる。それなのに分かろうとはしない。
 意思を伝え合う最大の武器である言葉にも一向に神経を遣わない。一国の総理がそうなのだから、もう万事休す。総理を取っ替えれば済むか、と言うと、必ずしもそうとは言えない所が情けないではないか。
 話してなんぼ、書いてなんぼ、と言う立場の人でさえ、時々言葉を間違える。間違えて覚えているのだ。書いている場合は、校閲が入る可能性があるからまだ救われるが、話している時は、ぶっつけ本番が多いから、どうにもならない。その人の資質が丸出しになる。だから普段から言葉を磨いているかと思えば、そうとも思えない場面に私はしょっちゅう出くわしている。

 そうそう、先日、テレビで電話取材された人が、司会者が「有難うございました」と挨拶したのに対して、非常に珍しく、「どういたしまして」と答えているのに出会った。ここ数年では始めての体験だった。昔は知らないが、今では100人が100人、「有難うございました」と言うと「有難うございました」と答える。これを「おうむ返し」と言う。
 小学校では「ありがとうカード」と「どういたしましてカード」と言うのを使って、挨拶の勉強をしている。これは人としての会話の基本である。
 中学校の英語では「サンキュー」に対して「ユウアーウエルカム」と答えると習った。「サンキュー」に対して「サンキュー」と答えるような教科書には出会わなかった。
 テレビ側が「ありがとう」と言うのは、取材をさせてもらってのお礼である。そして取材された側が「ありがとう」と言うのは、取材してくれた事へのお礼である。そうとでも考えなければ、この応答は成り立たない。
 取材をしてくれて有難う、などと思うような人の話など私は聞きたくもない。それほど取材源に飢えている訳じゃない。どうぞ、何でもお聞き下さい、私は精一杯お答えいたしましょう、と言うような人の話をこそ聞きたいのだ。そうした人が「有難うございました」と返事をするはずが無い。きちんと「どういたしまして」とか「お役に立ちませんで」とか答えるに決まっている。
 テレビは取材をする相手を間違っている。この私の考えは間違っていないはずである。

政治家は原稿を読まずに自分の言葉で話せ

2008年11月23日 | Weblog
 麻生首相の国語の能力が問題になっている。官房長官は「うっかり読み間違えることはある」とかばった。自民党の内部からも「原稿に仮名を振ってもらった方がいい」と忠告されている。
 何と言ったってお粗末な事には変わりが無い。ただ、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだ事は、そう覚えてしまったのではないか、との考えも出来る。私も馬鹿な事に長い事、「みぞうう」と覚えていた。「みぞう」の最後の「お」だか「う」だか判然としない発音がいかにも中途半端で、きちんと「う」で止めるのが正しいと思い込んでいた。そして何度聞いても、自分が間違っている事に気が付かなかった。「所蔵」などの「ぞう」と違って、何しろ「有」の文字がきちんと存在しているのである。それをいい加減に読むなんて、思いもしない。
 それはともかく、言葉を間違って覚えていた公明党の幹部もいて話題になったし、あるテレビのリポーターは、前に書いたと思うが、「相応しい」を「あいおうしい」と覚えていた。もちろん、「ふさわしい」の間違いである。
 私の知人は「有無」を「ゆうむ」と読んでいたし、「強引」を「ごうびき」と思っていた人もいる。あるいは「輸入」をずっと「輪入」と書いていた人も知っている。

 誰にでもうっかりはあるが、首相はそれが重なっていたから、残念ながら、うっかりとは思われない。「うっかりミス」だと弁明したり、「振り仮名を付けなさい」と忠告する事など、実は不要なのである。
 要するに、他人の書いた原稿を単に読み上げるだけだから、こうした間違いが出来する。自分の言葉で話せば、たとえうっかりミスはあったとしても、「頻繁」を「はんざつ」などと読む事は起きない。それに他人の書いた原稿を読むにしても、もらってすぐにそのまま本番とは恐れ入る。少なくとも二度三度と事前に読んでおくべきである。
 自分の考え、自分の言葉を持てない首相だから、他人の書いた原稿を読むしか無いのだろう。でもそんな人を首相に選んだのは我々ではない。自民党の党員である。だから共同責任である。

 先日、アメリカの次期大統領のオバマ氏の演説で感激したと書いた。しかし読んでくれた人がいつもよりずっと少なかった。タイトルの「アメリカに感激した」が悪かったのか、とも思ったが、自分の言葉を持っている人の強さがありありと分かる情景だった。だから聴衆を引っ張る力がある。
 日本の政治家のみなさん、もっと自分自身の言葉で書いたり話したりする事を勉強しましょうよ。そして演説の技を是非とも身に付けましょう。

 話は飛びますが、「○○出張所」と言う住所に「ではりじょ」と振り仮名を付けた人がいます。あなたは、これを見て、笑いますか?
 実際に笑った人から私はこの話を聞いたのだが、その時は、私もあははは、と笑ってしまった。しかしそれは私の浅はかな間違いだった。
 「出張所=しゅっちょうじょ」は「出張る=でばる」に由来する言葉である。何事も音読みの方が格好が良いと思う日本人の癖で、「しゅっちょう」と言う言葉が出来たらしい。「でばる」はちゃんと辞書にも載っている。「でばる」を東京方言だと書いている辞書もあるが、それは私は疑っている。「でばる」との素朴な言い方は地方にこそ残っているのではないか、と思うからだ。
 人の振り見て我が振り直せ、と言う。折角のよいお手本を見せてもらったのだから、我々もせいぜい勉強する事にしましょう。

即位20年を記念するとは無礼ではないか

2008年11月22日 | Weblog
 何代か前の総理を務めた森氏が天皇即位20年を記念して、来年の11月12日を祝日にしようと画策しているらしい。来年のカレンダーは既に刷り上がっており、カレンダー業界には迷惑以外の何物でもない。
 でも何で、即位20年を記念しなければいけないのか。20年が節目だと言うなら、そのような節目はあらゆる分野に存在する。何故に天皇の即位だけが節目とされるのか。考えてみれば、昭和天皇没後20年ではないか。それを記念するって? 宗教行事で何回忌と言うなら分かる。だが、それだって祝日とは相容れない。祝い事ではなかろうに。
 ずいぶんと無礼な人だな、森氏って。
 天皇の代が代わる事がそんなにもめでたい事だろうか。天皇誕生日を祝うのとはまるで意味が違うではないか。天皇は日本の元首と決められているから、その誕生日を祝うのは分かる。しかし即位は天皇の誕生日とか年齢とはまるで関係が無い。天皇は途中では退位出来ないのだから、即位20年がお祝いだと言うのを聞くと、私は、そこまで生きていられておめでとう、と言っているように聞こえてしまう。非常に無礼だと思う。
 夫婦の銀婚式や金婚式を祝うのとも違う。大きな勘違いがあるのではないか、と思ってしまう。

 強く印象に残っている事に、昭和天皇崩御の時の情景がある。天皇崩御の知らせと共に、明仁皇太子が次の天皇と決まった。その知らせを受けて皇太子が皇居に向かうその姿に、何の感情も無い、淡々とした風情を感じてしまった。そうか、日頃から親子の関係が浅いと、あのようになるのか、と変な意味で感心してしまった。そこには親の死に対する嘆きも悲しみも全く感じられなかった。そこは雲の上の人だけに、私情を振り払っていたのかも知れない。だが、そんな姿を私は見たくなかった。人間皇太子の姿を見たかった。

 天皇制を利用する人々がいる。そこに居る天皇は人間としてではなく、制度としか彼等の目には見えていないらしい。彼等は、庶民としての人間を見ずに、庶民が支払う金だけしか見えない人々と同じである。私には森氏もその一人にしか過ぎないように見える。
 天皇制に対する様々な考えはあって当然だが、それとは別に、そこには天皇、皇后を中心に天皇の家族が居る。我々と全く同じ人間である。境遇は天地雲泥の差があっても、人間性に差は無い。何よりも、天皇は天皇をやめる事が出来ない。どんなに境遇が贅沢と思えようとも、そこには選択の自由は無い。
 己の欲のために地位のために、他人を利用しようとする人々を私は許せない。自分が利用されたらどんな気持がするかを想像出来ない人を同じ仲間とは思いたくない。
 天皇の即位20年を記念して祝日にしたいと言う人々がそうした人々だとは言わない。だが、即位20年は即ち、前天皇の没後20年である事を忘れてはいけないと思う。故人を記念するなら、生誕100年とかになるはずだ。少なくとも、没後50年とかでは、祝う人の心底を疑われてしまうと思うのだが。
 祝うのではない、回想するのだ、と言うのかも知れない。では、回想は何のためにするのか。業績を偲ぶのであれば、何も何年とかには限らない。いつだって回想すれば良いのである。そして回想されるだけの事をした人なら、いつだって回想されるべきなのである。
 まあ、日頃は忘れているだろうから、この機会に再認識をしたい、との気持は分かる。でも、そうした機会はどんな時だってあり得るはずだと思う。まさか50年とかで突然に思い出した訳ではなかろう。
 我々は忙しいし、また回想すべき偉人が多い事もあって、そうなるのだろうが、私は、ふーん、100年も経つのか、といったような感想しか湧かないが。自分にとって必要な人の事はちゃんと、別の機会に調べている。

 11月22日は「いいふうふの日」らしいが、「いい夫婦」はいつだっていい夫婦でありたいものであり、誰かに指図されるいわれはない。たいていが商売がらみの事であって、だから即位20年記念もまた胡散臭いのである。

「視線」と「目線」その2

2008年11月21日 | Weblog
 人間の目は水平に付いている。即ち、左右を見るのに都合が良い。なぜなら、動物は左右に動く。鳥は上下にも動くが、それでも飛ぶ時に垂直には動かない。エレベーター方式ではなく、エスカレーター方式で動く。水平に移動しながら高さを増して行く。
 そうした物を追跡するのには、目は水平に付いている必要がある。しかも左右に二つある。顔も上下よりは左右の方が動き易い。従って、「視線」は左右に自由に動く。だが、上下には動きにくい。だから「視線」の向きも制限される。
 辞書が言う「方向・方角・位置」はその内容が微妙に違う。「方向・方角」は決して上下ではない。左右である。それに対して「位置」はもちろん「方向・方角」も含むが、それなら、何も「位置」などと言う必要はない。「位置」とわざわざ言うからには、その意味は「方向・方角」ではないはずだ。
 こうした事から、「視線」は「左右=方向・方角」と深く関わるが、「位置」を「視線」に関わらせるのは難しい。「位置」に関われるのは「上下」の動きに関係する「目線」である。「目線」はその人の目の高さによって決まってしまう。だから「位置」を表すのである。

 お分かりと思うが、「視線」は一定の目の高さで左右を向く。「目線」は左右の問題ではなく、人それぞれに高さが異なる。その高さが、いわゆる「目線」なのである。
 「視線」と言う優れた言葉があるにも拘わらず、「目線」なる言葉があるのは、その必要があるからだ。「定年」が本来は「停年」であり、「停年」よりは分かり易いだろうと考え出された言葉であるのと似て、「視線」では言い足りない所を演技での「目線」の言葉を上手く利用した言い方が生まれたのではないだろうか。
 「停年・定年」では同じ年齢を示す事になるが、「視線」と「目線」は同じ事を表す訳ではない。だから「停年・定年」のような表記だけの違いではなく、発音も表記も違うのだと思う。
 これは全くの私見であるが、そうと考えないと、現在のように「目線」が好んで使われている理由が分からなくなる。

 こうした事を国語辞典はどのように解釈しているのだろうか。『新明解国語辞典』の見解は昨日紹介したので、他の辞書の「目線」の説明を見る事にする。
『岩波国語辞典』
・目の見る方向。視線。▽映画・演劇界で使われて広まった語。
『新撰国語辞典』
・(演劇・テレビ業界の用語から)視線。「目線をそらす」
『明鏡国語辞典』
 1 映画・演劇などで、演技として行われる、目の方向や位置。「目線をもう少し下げてみよう」
 2 物事を見る場合の、目の占める方向や位置。「犯人と同じ目線で物を見ている」
 3 俗語。視線。「目線をそらす」「背後に目線を感じる」
『大辞泉』
・(映画・演劇などで用いる語から)視線のこと。「目線が合う」「目線をそらす」
『広辞苑』
・視線。もと、映画・演劇・テレビ界の語。

 『明鏡』を除いてはみな同じだ。「目線=視線」である。でも「目線をそらす」や「背後に目線を感じる」は「視線」の方がずっと自然である。「しせん」には「刺線」の響きが感じられる。だからこそ、「背後に視線を感じる」や「視線をそらす」の言い方が生きて来る。こうした場合には「目線」の影は非常に薄い。
 『明鏡』の2の説明は『新明解』と同じだが、用例の「犯人と同じ目線で物を見ている」を見ると、私の「目の高さ」だけでは言い足りない感じがして来る。「犯人と同じ目の高さ」ではあるが、「犯人と同じ目の方向」でもある。
 ただ、そうなるとどうしても「目線=視線」で終わってしまう。6冊の辞書がすべて同じなのだが、私はそれに納得してはいない。そんなのお前の勝手だろう、と言われても、納得が行かない。
 「大人の目線」と「子供の目線」は絶対に違うと思う。しかし「目線=目の向く方向・方角・位置」なら、違いは無い。だから「目線=目の高さ」は成立すると思っている。国語辞典の説明は意外といい加減だったり、曖昧だったりする事が少なくないから、私は自分の勝手な見解に固執しているし、それを不遜とは思っていない。
 国語辞典での言葉の意味の説明については、改めて言及したい。