夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

いい加減な古代史の認識が大きな顔をして歩いている

2010年12月30日 | 社会問題
 今日の渡部亮次郎 「メルマ」 頂門の一針2139号に加瀬英明氏が 「日本は独立自尊の国」 と題して次のように書いている。以下はその冒頭の一部である。

今日から、1403年前になる。推古天皇16(608)年に、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として長安の都に派遣して、隋の皇帝に 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙 (つつが )無きや」という国書を、献じた。
皇帝の煬帝がこれを見て、終日、機嫌を損ねていたと、 『隋書』 が記録している。
あの時の日本は、中国を刺激することを、恐れなかった。
日本は毅然とそうすることによって、中国を囲む国々がすべて中華帝国に臣従したのにもかかわらず、唯一つ中国と対等な関係を結ぶ国家となった。日本史における最大の快挙だった。

いったい、日本はいつから中国を刺激することを、恐れるようになったのか。
アメリカや、ドイツや、インドを刺激してはならないと、いわない。中国、ロシア、韓国、北朝鮮についてのみ、いうことだ。きっと、日本国民がこれらの国々が、”やくざ並みの国” であることを、知っているからだろう。怯懦な民となって、よいものか。

 原文を勝手に二つに分けた。後半の段落は 「納得」 である。特に 「日本国民がこれらの国々が、 ”やくざ並みの国” であることを、知っているからだろう」 に諸手を挙げて賛成してしまう。韓国については少々躊躇する所があるが。
 しかし前半部分はどうにも頂けない。その理由は二つある。一つは 「日出づる処の…」 の国書を聖徳太子が書いた、と言う点である。教科書でさえそう書いていて、今やこれは日本人の常識みたいになってしまっているが、嘘は嘘である。これは 『隋書』 にしか出て来ない記事である。中国大陸の歴史書は次の時代の国が作る。ここでは 「禅譲」 と言う、天子がその地位を子供などに世襲させずに徳のある者に譲る事で国の代替わりが行われている。徳のある国を徳のある国が引き継ぐのであるから、前代の国を誹謗するような事は書かない。
 『隋書』 は唐の時代に書かれ、上記のあの史実には何の隠す事も偽る事も無いから、それは真実である。そしてそこには聖徳太子の名前など一切出てはいないのである。この国書を書いたのは 「阿毎多利思比(北)孤」 と明確に書かれている。この名前は二度も出て来る。この文字面をどのように解釈しても聖徳太子とは何の繋がりも得られない。つまり、全くの別人なのである。一国を代表する歴史書であり、しかも当時の最先端の文化国家である隋や唐が考えられないような杜撰で間違いだらけの歴史書を作るはずが無い。
 日本史における最大の快挙だと言うのだから、日本の歴史書である 『古事記』 や 『日本書紀』には当然書かれているべき史実である。だが、どちらにもそんな事は一言も書かれてはいないのである。これらの歴史書は天武天皇が、過去の歴史書には間違いが多いから今の内に正しい歴史書を作れ、と命じて作らせたのだから、日本にとって名誉この上ない、このような史実を落とすはずが無い。

 後半の段落が頂けない二つ目の理由は、 「日出づる処の…」 の文書が隋を対等の相手とした、とはとても思えない情況があるからである。冷静に当時の情況を考えてみても、すぐに分かる事である。隋は強大な国である。だから周辺の国々は朝鮮諸国も含めて、丁重に臣下の礼を尽くして付き合っている。属国にされては困るのである。たとえ日本は海を隔てているからと言っても、そんな安心していられる情況にはない。その証拠には、白村江の戦いで日本が唐に負けたあと、後に天智天皇となった中大兄皇子は日本の防備に懸命だった。
 もしも聖徳太子が 「隋ごとき何する者ぞ」 と思って対等意識を持っていたとするなら、とても危なくて国を任せられはしない。それは単に世間知らずの我がまま息子と同じである。
 前にも書いたが、この国書を呈した時、倭国の使者は煬帝に 「西の菩薩天子が仏法を興していると聞いたので、仏法を学ばせるために僧を数十人連れて参りました」 と述べている。これは倭国の大王の意思である。相手を 「菩薩天子」 と呼んでいるのに、そこに対等意識があるはずが無い。対等意識があるのなら、自らも 「菩薩天子」 になってしまう。
 煬帝が機嫌を損ねたその翌年、それでも隋から使者がやって来た。聖徳太子が対等意識の国書を呈し、相手を怒らせたのなら、その相手が自ら使者を寄越すはずが無い。そして倭国の大王はどう対処したか。大歓迎をしたのである。そして使者に言った。 「私は野蛮人で、僻地に居るので礼儀を知らない。道を清め、館を飾ったので、ここにとどまって頂いて、どうしたら国を発展させる事が出来るのかをお教え下さい 」と。
 これが隋を対等と見た王の言葉だろうか。だとするなら、倭国の王は二枚舌の、王としての品格も教養も何も無い単なる権力者に過ぎない事になる。

 こうした史実が重要なのは、加瀬氏がこれを 「日本史の最大の快挙だ」 として論議を進めているからにほかならない。同氏が 「怯懦な民となって、よいものか」 と言っているのはもちろん納得だが、それを引き出すのに間違った史実を挙げてはどうにもならないだろう。私はこの人は確か英国大使を務めた人と同一人物だと思っているが、その人がこの程度の知識なのか、それで外交をしていたのか、と驚いてしまう。もしも他人なら、ご免なさい。
 この場合は論理の結論が正しいから救われている。しかし結論が賛否両論ある問題のある結論だったら、出発点が間違っている事が致命傷になるだろう。
 推古天皇が遣隋使を派遣した事は間違いの無い史実である。しかし 『隋書』 にはその記事は一切無い。そして 『日本書紀』 はその事を知っていて、つまりはあの国書を呈したのが推古天皇ではない事を知っていて、 「遣隋使」 ではなく 「遣唐使」 にしてごまかしているのである。そこに出て来るのはすべて隋ではなく、唐になっている。唐の時代になれば大和朝廷の朝貢は中国大陸の歴史書に登場するから、 『隋書』 に推古天皇の遣隋使の事が書かれていなくても、何かの都合で落ちてしまったのだろう、で済ませようと考えたのだと思う。

 この国書の事は多くの日本人が聖徳太子の対等意識の現れだ、と思わされているから、それはそれで現実的には被害は無いだろう。しかし我々庶民がそうであるのは良いとしても、一応は庶民に何事かを教え訴えようとしている人間がそのようにいい加減であっては困るのである。現状を正確に見ていての発言なのだから、古代をも正確に見ている必要があるはずだ。と言うよりも、歴史学者がいとも安直に 「相手国の間違いだ」 と言って済ませている 事を(それは日本国民を誤らせる事になるのだが)、そんなにも簡単に納得してしまうような考え方の人間に、重大な事を考える能力があるのか、と言う事になるのである。 「怯懦」 (きょうだ=臆病で意志が弱い) などと言う難しい言葉がすらすらと出て来るのだから、それくらいの教養は持っていて頂きたいと思っている。

役人の考え方とは

2010年12月29日 | 政治問題
 24日の朝日新聞がイラク戦争で日本の取った行動は正しかったかを検証している。大きな見出しは二つ。
 一つは 「小泉氏、閣内議論せず支持」。
 一つは 「外交分析ない政治風土」。
 これだけで何が言いたいのかはよく分かる。そして 「外交分析ない…」 の横には 「英は元首相ら140人超喚問」 とある。アメリカと最も親しいと思われているイギリスでさえ140人以上の意見を聴いている。
 同紙は開戦時に内閣官房副長官補として 「小泉政権がどう戦争に対処したか」 を知る立場にあった谷内(やち)正太郎元外務事務次官に話を聞いている。彼がどう考えていたかよりも私には興味深かったのが、締めくくりの次の言葉である。

 小泉元首相はリーダーシップがあった。だから広く閣僚らの意見を募って議論する、という発想はなかった。

 つまり、それで良いと考えている訳だ。しかしながら、リーダーシップと閣僚達の意見とは全く関係が無いと私は思う。 「リーダーシップ」 とは次のような事だ。
・指導権。指導的地位。指導力。統率力。
・指導者の地位・任務。指導者としての素養・力量・統率力。
・指導力。統率力。指導者の地位・任務。
・指導者としての地位・任務。指導者としての統率力。指導力。

 いつも引く小型の四冊の国語辞典の説明である。 「指導」 とは言うまでもなく、 「ある目的に向かって教え導くこと」 である。別の辞書はより具体的に 「官庁・会社・学校などで、望ましい方向に進むように、適切な指示を与えること」 と説明している。
 つまり、リーダーシップとは 「ある方向に向かって適切な指示を与える能力」 である。一つの辞書は単に 「ある目的に向かって」 としか言わないが、一つの辞書は 「望ましい方向に」 と言っている。別の二冊は 「直接指示を下したり、説明を加えたり、質問に答えたりして、教えること」 「知識・技術などを習得できるように教え導くこと」 と素っ気ない。
 だから、教える事の内容についてはありとあらゆる事があり得る。そしてたとえ 「望ましい方向」 だとしても、誰にとって、何が望ましいのかは様々に異なる。その様々に異なる内容が、一番重要なのである。それをほったらかしにして置いて、指導力も何もあったもんじゃない。この元外務事務次官の言っている 「リーダーシップ」 とは単にワンマンであっても良い訳だ。
 様々に議論を重ねて 「望ましい方向」 を見付け出す。しかしだからと言って、全員が言う事を聞く訳ではない。そこで発揮されるのが 「指導力」 のはずである。あるいは、 「望ましい方向」 を見付け出すために指導力が発揮される必要がある。誤解されては困るが、自分の思い通りに動かすのだ、と言っているのではない。日本の政治家は本当に何も考えていない人が多いから、指導力が必要になるのだ。

 最も重要な事がすっぽりと抜け落ちている。ただ、先の 「小泉元首相はリーダーシップ云々」 の考え方が、 「彼はワンマンだったから、閣僚の意見は聞くつもりは無かった」 と批判しているのなら分かるが、そうではない。彼は 「ベストな選択とはいえず、苦し紛れということはあったが、『×』 がつく解釈だったとは思っていない」 「米国がやるから嫌々従うのではなく、日本はもっと積極的にかかわるべきだと考えていた」 と言っているのである。見出しだって 「積極関与すべきだと思った」 なのである。
 彼がそう思っているのは別に構わない。しかし、だからと言って、広く閣僚達の意見を聴かなくても良い、と言う事にはならない。リーダーシップだけで物事がすべて出来るのなら、様々な大臣など要らなくなる。

 新聞などで聞き書きでまとめる場合には、本人の本当の気持とはずれてしまう事が多々ある。ただ、読者はそうした記事を丹念に読むしか方法が無い。そうすると、この場合はやはりこの 「リーダーシップがあったから…」 の考え方が重要になる。行政に携わる人々はこうした単純な考え方で何事も決めているのかと思わざるを得ない所に私は大きな危惧を持っている。

「○○が発売」の蔓延は、日本語の破壊現象だ

2010年12月28日 | 言葉
 前にも取り上げて、コメントも頂いている言葉だが、新聞の記事でも見掛けたので、取り上げている。CMのような浮ついた話ではないから、無視する訳にも行かない。
 「発売する」は当然ながら他動詞である。国語辞典には「記念切手を発売する」「本日発売」などの用例が挙がっている。「本日発売」のような名詞どめの使い方なら、「好評発売中」「新発売」「発売禁止」「発売日」などなどいくらでもある。それらは「好評に発売している最中」「新しく発売する」「発売するのを禁止する」「発売する日」である事は言うまでも無い。いずれも間違いなく他動詞の用法である。だから、同じ事だが、「好評に発売されている最中」「新しく発売される」「発売されるのを禁止する」「発売される日」でもある。
 従って、「○○が発売」と主語が「○○」なら、「○○が××を発売する」になるに決まっている。言い替えるなら、「××が○○から発売される」になるに決まっている。決まっていなければ日本語にはならない。しかしながら、日本語にならない日本語を平気で使う人々が大勢居る。20日の東京新聞夕刊に、大阪府箕面(みのお)市で、餌やりの禁止条例が猿に続いて烏にまで及んでいる事が記事になっていた。問題は「施行」である。

 大阪府箕面市は20日、開催中の12月議会で、「箕面市カラスによる被害の防止及び生活環境を守る条例」案を採決する。可決する見通しで、2011年7月から施行する方針。

 上はその記事の冒頭部分だが、記事の最後が次のようになっている。

 箕面市では今年4月からサルへの餌やりを禁止した「箕面市サル餌やり禁止条例」が施行したばかり。

 これは完全に「を施行したばかり」あるいは「が施行されたばかり」の間違いだ。記事を書いた記者が居て、それを校閲する校閲者が居る。それでいてこの有様である。少なくとも彼等は一流紙のプロである。それがこんなでたらめな日本語を使っている。と言うか、こうした現象があちこちでまかり通っていると言う事は、現今の日本語はこんなにもいい加減な言語になってしまっている、その証拠なのだろうか。
 以前、この事についてブログを書いた時、「○○が発売」は「発売される」の意味で使われているのではないか、とのコメントが寄せられた。確かにそう言える。しかし日本語にはそんな使い方は無いはずである。無い事をさもあるかのように振る舞えば、世間の常識は破壊されてしまう。
 「ぜんぜん」と言う副詞が昔は否定を伴う言い方だったのに、現在では「ぜんぜん面白い」などの使い方がされて、それが認められるようになっている現象とは質が違う。「ぜんぜん」のそうした使い方を認めない人でも、「とても」は昔は否定にしか使わなかった事を知れば、文句が言えなくなるだろう。こうしたある特別な言葉が使い方が変わって来るのは仕方が無い。しかし「発売される」の意味で「が発売」が許されるのはまるで意味が違う。それがそのほかの様々な他動詞にまで波及してしまう。「条例が施行した」はその見本である。
 いや、違うかも知れない。これは「条例が施行」ではない。「が施行した」になっている。「○○が発売」とは訳が違う。と言うか、「はやりの」「が発売」とは違うから、もっと重大な危機なのかも知れない。

なぜ同じような事故が起きるのか

2010年12月26日 | 社会問題
 福岡県で6人もの人が亡くなった車の衝突事故が起きた。しかしどうも衝突で亡くなった訳ではなさそうだ。ワゴン車は水深3メートルの池に落ちて、なかなか救助が出来なかった。乗車を運転していた男性は助けようと池に飛び込んで亡くなったらしい。
 つまりは、全員の死亡の原因は、車が池に落ちた事にあるらしい。そして池と道路の間の柵が10メートルにも渡ってめちゃめちゃになっていると言う。東京新聞の25日の夕刊は、「柵破る事故 4年前にも」 の見出しで、福岡県での事故を取り上げている。一家5人の乗った車が柵を破って川に落ちて幼児3人が死亡した事故である。記事は次のように締めくくっている。

 (福岡県) 東区の現場では強度の低い歩行者用の防護柵しか設置されていなかったため、国土交通省の検討会が、07年にスピードが出やすい長い橋や歩道の幅が狭い場所でも、車両用の柵を設置すべきだと指摘した。

  つまり、こうした改善が、今回の事故現場では3年経ってもされていなかったらしい。写真を見ても、現場の柵は歩行者用の防護柵らしい事が分かる。貴重な命を奪った事故が何で戒めにならないのか。一体、何度同じような事を繰り返せばその気になるのだろうか。誰も彼もが他人事と思っているからだろう。心が寒くなる。
 
●言葉が足りない
 同じ新聞に 「アフリカゾウは2種類」 との見出しの記事がある。草原に生息するサバンナゾウは大柄で、森林に生息するマルミミゾウは小柄。肩までの高さで比べると、サバンナゾウはマルミミゾウより1メートルほども高いのだと言う。それでこれまでも亜種ではなく、別種とする専門家の議論が続いていたが、大規模なDNA検査を今回した事でほぼ決着がついた。
 タイトルの「言葉が足りない」と言うのは記事の文章の事である。

 サバンナゾウとマルミミゾウの遺伝子情報を比べた結果、遺伝子距離と呼ばれる相違が大きいことが判明。アジアゾウから分岐して絶滅したマンモスのDNAと同程度の違いがあったという。

 上がその文章。意味は分かるが、正しくは 「DNAの違いは、アジアゾウとアジアゾウから分岐して絶命したマンモスの間の違いと同程度だという」 だろう。 「何々と何々の違い」 と言わなくては分からない。記者は自分が分かっているから、こうした舌足らずの文章になる。でも不思議だ。またまた言うが、何で校閲部がこうした事に気が付かないのだろうか。

●新聞社としての考えは首尾一貫して欲しい
 25日の東京新聞の社説で、大阪地検特捜部の検証報告について、 「矛盾を知りつつ、公判を続行した点が見逃せない。元局長に無罪判決が出るまで撤退しなかった検察の態度は批判されるべきだ。このポイントについても、再発防止策の中で、 『引き返す勇気を持って、公訴の取り消し等を行うべきか否かを検討する必要がある』 と述べた。 『勇気』 という情緒的な言葉ではなく、 『論理』 として撤退が必要なのである。」 と主張している。まさに正論である。
 ところが、今日のコラム 「筆洗」 では次のように言っている。

 内容は物足りないが、再発防止策の中で 「引き返す勇気」 を訴えた点が目を引いた。最初に描いた見立てに固執せず、間違いに気付いたときは、公判段階であっても主張を見直そうという提言である。

 これは 「引き返す勇気」 を認めた発言である。確かにこれは一つの 「勇気」 である。なぜなら、周囲が、それも上役が許さない事をやるのである。 「勇気」 以外の何者でもなかろう。しかし、それを「 勇気」 だとしてしまうから、出来にくい事になってしまう。そうではなく、 「論理」 にすれば、それが正しければ、たとえ上役であっても従わなければならない道理である。その事を前日は語っている。だから今回もその考え方で通すべきなのである。
 このコラムは次のように締めくくっている。

 ただ、末端の検察官が 「引き返す勇気」 を奮い起こしても組織として受け止められなければ、提言は生かされない。検察幹部はそのことを心に刻んでもらいたい。

 組織として受け止められないのは、それが 「勇気」 だからである。同紙が言っているように 「勇気」 とは情緒的な言葉なのである。しかし 「論理」 ならそうはならないはずである。 「情緒」 なら○でも×でも△でも良いから、どうしても△の部分が拡張されてしまう。そこで、うやむやになる。だが、論理は○か×しか無いはずである。どうも今回のこのコラムは本当の事が分からずに口先だけで物を言っているらしい雰囲気を感じてしまう。
 このコラムは社説と並んで、同紙の 「顔」 なのである。八方美人の顔であってはならないはずである。

「とらえ返し」って知ってますか?

2010年12月25日 | 言葉
 昨日に続いてまたまた面白くもない話で恐縮だが、今朝の東京新聞の記事に上記の言葉がある。「海保、警察、検察…謝罪ラッシュ」とのサブ見出しで、メインの見出しは、「官」の幕引き「菅」不在。洒落た見出しのつもりだろうが、見出しの意味はすぐには分からない。
 「菅」不在、と言っている理由は次のような記事にある。

 一連の会見に共通しているのは、責任の所在をあいまいに幕引きを狙う官僚たちの身内による身内の処分の限界だ。そこに政治も切り込まない。

 記事は中国漁船衝突の映像流出事件、国際テロ関連文書の流出事件、厚労省事件の三つを取り上げており、「今回の個々の事件の根底には政権のふがいなさが横たわる」と記事を締めくくっている。そして「とらえ返し」なる言葉は厚労省事件に関して登場する。

 最高検が提出した報告書に貫かれているのは、あくまで大阪地検特捜部の元主任検事と前特捜部長という「不心得者」による事件という視点だ。上級機関の責任や冤罪を生む現在の検察捜査自体のとらえ返しはなおざりにされた。

 多分、「とらえ直し」のつもりなのだろうが、私は「とらえ返し」の言い方を知らない。「とらえる」を『新明解国語辞典』は「ある点を逃さず問題として取り上げる」「ある物事について…という判断を下す」と説明している。だから「見直し」でも良いだろうが、「とらえる」との言い方には具体的なイメージを感じる。
 この言葉を取り上げたのは、このような見慣れない、聞き慣れない言葉を平気で使う神経が分からないからだ。たとえ記者がそう書いたとしても、校閲が手を入れるのではないだろうか。そうではないのだから、記者も校閲者も「とらえ返し」なる言葉を知っている訳だが、実はそうとも言えない。と言うのは、知らない言葉を平気で使っているように推測されるからだ。
 その推測の根拠は校閲部の書いている同じ日のコラムにある。

 四日付け「事業仕分けを取り入れた地方自治対」の記事中の表に「美郷町と出てきました。恥ずかしながらどこにあるのか知らず、調べたら島根県でした。(中略)三県に存在する町名を、何の説明もなく表に載せてしまったことは反省しなければなりません。ただ、こう同じ名前が出てくるのには、「無難に」問題を処理しようとする行政側の姿勢が透けて見え、ため息が出ます。

 読んでびっくりした。この表自体を私は知らないのだが、市の名前でも都道府県を付けて「青森県青森市」などとするくらいだから、乱暴な話ではある。それ以上に、校閲者が知らない地名をそのまま裸で出した事に驚く。私は校正の仕事もしているが、小さな字名が出て来る事はあまり無いので、自治省が編集をしている『全国市町村要覧』を利用している。これは必携である。特別な書籍でない限りは、「青森県青森市」スタイルにしている。県庁所在地だからと油断は出来ない。そして県庁所在地以外はルビを付ける。「町」は「まち」か「ちょう」か、「村」は「むら」か「そん」かも重大な問題になる。多くの人が間違える「茨城県」はきちんと「いばらき」とルビを付ける。
 そうした事を疎かにするから、群馬県伊勢崎市を「いせざき」と間違える人が大勢いる。東京都江東区には「大島」の町名と駅名がある。「大島」は「おおじま」と濁る。以前、地下鉄の車掌が「つぎはおおしま」と言っているのを聞いて、本当にびっくりした。この人は駅名も知らずに車掌をやっているのかと。

 取り上げたコラムの校閲者は全国に同じ町名がある事を行政側の無難を選ぶ姿勢だと「ため息」をついているが、「無難に」と言うよりは、「無知で」と私は思っている。そして私は意地が悪いが、この校閲者の校閲の姿勢にため息が出てしまった。
 「無知で」には根拠がある。またまた江東区の話で恐縮だが、「砂町」と言う町名がある。今は単に「北砂・南砂・東砂」になってしまっているが、都内では有名な「砂町銀座商店街」もある事も手伝ってか、単に「砂町」と呼ぶ人も多い。この地名は江戸時代に砂村新左衛門(名前の方はうろ覚えだが)が開拓したので、「砂村新田」と名付けられた事に由来している。だから本当は「砂村町」なのである。村だった時、「砂村村」ではちょっと都合が悪いから「砂村」としたのだろうが、村から町に昇格した時に「砂村町」にすれば良かったのに、と思う。これは行政側がきちんと郷土の歴史を知っていいれば出来た事である。そんな古い地名を、と思ってはいけない。深川八郎右衛門(これも名前はうろ覚え)が開拓したから「深川」の地名が出来て、地名としては残っていないが、「亀高」さんが開拓したから「亀高」の名前が橋や小学校に付けられている。地名は歴史を語るのである。

面白くもないニュースだが、話がよく分からない

2010年12月24日 | 社会問題
 今朝の東京新聞の記事である。見出しは次の3本。
・実母からの資金
・鳩山氏に1億3000万円還付
・贈与税2年分 時効で課税免れる

 鳩山前総理が母親から贈与されたカネに関して、知らなかったと話した事は話題になった。毎月1500万円ものカネをもらっていながら、知らなかったと言う恵まれ過ぎた境遇である。その話と上記の見出しから、贈与税を納めていなかったのをある時にまとめて何年分か納め、その内の2年分は時効になっていて納めた分が還付されたのだ、と理解する。
 記事を読むと、納めた贈与税は約6億970万円で、国税当局が2002年、03年分の計約1億3千万円を時効と判断して還付していた事が23日、関係者の話で分かった、とある。
 では、時効は何年なのか。記事は次のように言う。

 02~09年に実母から計約12億4千5百万円の贈与を受け、約6億970万円の贈与税を振り込んだ。これを受け、国税当局は税務調査。その結果、前首相は資金提供の事実を知らず、悪質な仮装・隠蔽行為はなかったと判断。所得隠しと認定しなかった。
 所得隠しがあった場合の課税時効は7年間。贈与税は贈与を受けた翌年3月が申告期限となり、02年分も03年3月から7年経過した今年3月時点が時効だった。前首相は昨年12月に申告しており、所得隠しが認定されれば02年分から納付の必要があったが、国税当局は時効にかからない5年間だけさかのぼって納付を受け、02、03年分は時効として還付した。

 09年分の贈与税の納付もしているから、納付したのは今年の3月以前だったと分かる。記事にも申告は昨年12月、と書いてある。02年~08年分は完全に申告期限切れである。もしも所得隠しがあれば、時効は7年間だから、03年3月が申告期限である02年分は今年の3月を過ぎれば時効になる。しかし03年分は来年の3月を過ぎなければ時効にはならない。
 もちろん、所得隠しは無かったとされたのだから、「所得隠しの場合の時効は7年」は何の関係も無い。うっかりミスなどや計算が複雑過ぎて申告が出来なかったなどの理由が認められれば(うっかりミスなどで年に1億8千万円にも上る贈与の申告を忘れるなどはあり得ないが)時効は6年未満になるのだろう。犯罪の時効より短いのは当然である。
 記事には時効にかからない5年間だけさかのぼって納付を受け、とあるから、申告期限を過ぎていたのは08年分からさかのぼって、04年分までとの計算になる。つまり、時効は6年となる。

 でも、それならそうと、「時効にかからない5年間だけさかのぼって」などと複雑な事を言わずに、「時効は6年なので」と説明すればもっと分かり易くなるはずである。それを言わずに「所得隠しがあった場合の課税時効は7年間」との説明で、「所得隠しの無かった場合の時効は6年」だと理解せよ、と言われては困る。
 それにしても、7年間、計約12億6千万円もの贈与を申告せずにいた事に対して、所得隠しは無かった、と認定したとは国税当局はずいぶんと甘い役所なんだな、と思う。鳩山家にどれほどの遺産があるかは当局は知っているはずである。それに対してどのような調査をしていたのか、疑問になる。
 国税局は決して甘くなどない。今回の7年分の申告漏れを見逃していた事は国税当局にとっての大きな失点だ。だから所得隠しだ、とは言えないのだろう。それにしても、何らかの錯誤やミスなどでこれほどの巨額が申告漏れになると、本当に国税局は考えているのだろうか。
 私のわずかな経験だが、事業を初めて最初の年に税務調査が入った。単調な作業が多かったりするので、事務所にBGMの機器を揃えた。当時の備品の減価償却は20万円以上だった。私の揃えた備品は20万円以上だったが、これらはすべてが揃っていなくても役に立つのだから、20万円以上の備品とは認められないとされ、修正申告をさせられ、減価償却ではなく、一括して費用となった。減価償却は大きな費用を一度に計上する危険を避ける処置である。始めたばかりの本当に小さな事務所に20万円の費用がどれほど負担が大きいか。
 国税局とはそうした役所なのである。市井の一貧乏人には厳しく、資産家の政治家には甘い。とんでもない事だと思う。

尼崎脱線事故の初公判に思う

2010年12月23日 | 社会問題
 神戸地裁で21日に始まった公判。事故から5年も経っているのに、やっと今か、と驚く。検察の主張は、「JR西日本は幾つかの事故でATSの必要性が分かっていたはずなのに、設置を怠っていた」にある。それに対して前社長側は「危険性の認識は無かったし、設置義務も無かった」と真っ向から反論している。
 設置義務は無かったかも知れないが、危険性の認識が無かったとは聞き捨てならない。実際に社内会議ではJR函館線での脱線事故がATSがあれば防げた例として報告されていると言う。たとえそうした例が無くても、危険性についてはしつこいほど念入りに検討するのが鉄道側の義務ではないのか。
 急カーブでも、全線が低速度で走行しているならいいだろう。しかしJR西日本は競合する私鉄に負けまいとして、近畿圏の列車の高速化を実行しているのである。事故が起きた宝塚線では宝塚・大阪間を、競合する阪急宝塚本線よりも7分速い快速を走らせて、乗客を奪おうと必死だったのである。それも定期券の料金を安くして。なぜ定期券の料金かと言えば、定期券は多くは企業の負担である。だから企業は安い方の路線を指定するに決まっている。

 そしてその一番の売りであるスピードを守らせるために列車の定時運行がうるさく言われ、違反した運転士は懲戒処分として草むしりなどの勤務をさせられていたと言う。鉄道が好きで好きで運転士になったのに、草むしりなどさせられてたまるか。だから事故列車の運転士は伊丹駅で既に発生している1分半の遅れを取り戻そうと必死だった。伊丹・尼崎の間の5・8キロでその遅れを取り戻せるか。普通なら平均時速58キロで6分掛かる所を4分半で走らなければならない。すると、時速は77・3キロになる。現場のカーブの制限速度は70キロだ。それを7キロ上回るスピードで走らないと遅れは取り戻せない。
 現場のカーブは伊丹駅から見れば、尼崎の目前にある。その先にも急カーブがある。だからカーブを過ぎてからの遅れの取り戻しは絶望的だ。そこでカーブに差し掛かる前の直線部分で遅れを取り戻す必要がある。それが乗客が恐怖感を覚えるほどのスピードになった。それは115キロだった事が分かっている。遅れを取り戻す事に必死だった運転士はとっさの判断を誤ってブレーキをかけ損なった。そうとしか考えられない。

 義務ではないからと、ATSの設置を怠っていたのはカネを掛けたくないからである。そんなにJR西日本は利益が出ていなかったのか。とんでもない。多過ぎるほどの利益を得ていたにも拘らず、安全にカネを掛けなかったのである。更には鉄道の安全を守るのは鉄道を運行する部署ではなく、全体の経営を見守る経営本部とかの名称の部署にあったのだ。それを鉄道部門に任せたのは何と、事故から1年以上も経ってからの事だった。しかもそれはJR全社で初めての事だと言うのである。もう、あいた口がふさがらない。
 事故列車の遅れに関しては更に根深い欠陥がある。あの列車は尼崎駅で東海道本線の長浜行き新快速に3分待ちで接続していたのである。尼崎から先、京都、大津、米原を経て長浜まで行くのだから利用客も多いだろう。同線の新快速は山陽本線、東海道本線、北陸本線の三つの幹線を結ぶこの区間のメイン列車なのである。
 そのメイン列車に乗り遅れが生じたり、接続待ちでの遅れを出したりしたら、面目丸つぶれになる。運転士の懲戒も半端では済まないだろう。

 きちんと事実を押さえれば、誰に責任があるのかは分かるはずである。世間は事故の原因はJR西日本の企業体質にある、と見ている。その事を疑う人は多分、居ないだろう。

JRのサービスとは何か

2010年12月22日 | 社会問題
 19日、日曜日の東京新聞に「アイデアは即実行」「公募の鉄オタク社長」の大きな見出しで、山形鉄道フラワー長井線が特集された。例によって、国鉄の民営化に伴って不採算路線が廃止される事になり、山形県などが出資をして第三セクターとして残った鉄道である。
 アイデアのお陰で、昨年度の団体ツアー客は50倍にも増えたが、それでも赤字だと言う。そして乗客の7割を占める高校生達の通学客が減り続けていると言う。05年度には81万5千人あった乗客は09年度には72万2千人にまで減少している。
 少子化も原因の一つだが、地方の疲弊も原因になっているだろう。日本全体のどこかが完全に狂っている。
 そして「デスクメモ」と称する短い意見が本質を語っている。

 JR東日本も東海も9月中間連結決算は増収増益だった。東日本は売上高約1兆3千億円、純益971億円。誰もがうらやむ数字だ。なのにJRの顧客サービスの質は…。駅や車内にベタベタはってあるポスターは誰のためか。赤字会社の方がよほど「客本意」の仕事とサービスに奮闘している。

 デスクメモはJRのサービスを槍玉に挙げている。それはこの特集記事の目玉がアイデアによる乗客サービスだからである。しかしJRはサービスは付け足しで良いのである。何よりも安全で安い運賃の鉄道であればそれが最前のサービスになる。もちろん、緻密なダイヤも必要だが。
 いくら民営鉄道になったとは言っても、鉄道その物は元々国民のために存在している公共機関なのである。従って、莫大な利益など不要である。安全と安い運賃と適切なダイヤを保証出来る程度の利益で良いのである。我々はJRにもっと儲けなさいと言って民営化に賛成したのではない。国営による勝手で放漫な経営では駄目だからと、厳しさを伴う民営化を許したのである。
 国のカネで作った、つまりは我々の税金で作った鉄道で大儲けが出来て、国民には還元しなくても済む。こんな旨い話は無い。国民は国鉄の出資者だった訳だ。意識しようとしまいと、そうした構図のはずである。だから国鉄が損をすれば、それを税金でまかなう。つまり、我々出資者が損をしていた。
 国鉄が民営になっても、出資者である国民との関係はそのまま続いている。
 そして損をしていた鉄道が儲かる体質に変わった。であるからには、その儲けは当然に出資者である国民に帰って来るはずである。もちろん、配当金をくれ、などと言う話ではない。儲けを国に還元して、我々の税金をそれだけ安くすればそれで良いのである。

 それに今回の件では、JR東日本は山形鉄道の恩恵を被っている。と言うのは、フラワー長井線の始発駅は山形新幹線の赤湯駅である。05年度よりも増えた団体ツアー客は09年度は、16551人-363人=16188人で、何と1万6千人も増えている。その1万6千人は完全にフラワー長井線の様々なサービスを楽しみに来た乗客である。つまり、山形新幹線はそうした乗客を運ぶ事によってその分の利益を得たのである。そうであれば、その利益の半分を山形鉄道に差し上げたって罰は当たるまいに、そんな話は聞かない。

 そうしたら、今度は東海道新幹線でのハンドル型電動車いすの乗車拒否問題である。前にもあったらしいが、今回は米国人女性の乗車を拒否した。電動車いすには棒状のレバーで操作する「ジョイスティック型」と、小型スクーターのような「ハンドル型」とがあり、JRを含めて国内鉄道各社はハンドル型は重くて大きく、ほかの乗客の妨げになるとして特急車両への乗車を拒否し続けているのだと言う。
 昨年からは、一定の基準を満たし、国土交通省直轄の公益法人の認定を受ければ、特急にも乗れる事になったが、認定作業が進まない上、外国人旅行者は適用外だと新聞は伝えている。
 認定をするのが公益法人と言うのが、どうも臭いが、その認定すら進まないのだと言うに至っては言語道断である。
 米国人女性は乗り降りは自力歩行し、車いすは分解して手荷物として持ち込むと説明したのに、それすら拒否された。彼女は、障害者差別禁止法のあるアメリカはもちろんの事、欧州を旅行して鉄道に乗れなかった経験は無いと言う。私の車いすはジョイスティック型よりずっと小さいのに、何が問題なのか、と問うている。
 それに対して、JR東海は「認定ルールに基づいて適切に対応した」と言っているが、その認定ルールの適否については問答無用だと言うらしい。電動車いすでの乗車だって立派に乗客へのサービスである。JRはサービスとは何かが分かっていないらしい。証拠はある。民営化した当初、乗客からサービスが成ってない、と言われた。それに対して、JRは何と答えたか。「改札での声掛けをしています」と言ったのである。別に再札口で声を掛けてもらいたいなどとは思いもしないが、当然の事をさもサービスをしているかのようにしか考えられないのである。
 私は当初から、国鉄の民営化は国民の鉄道に変身するためではなく、自由に利益を貪る事が許される事業形態への変身だ、と思っている。

NHKのハイビジョン番組「日本の庭園」が心地良かった

2010年12月21日 | 文化
 最初にお詫びを。と言うのは今日のこのブログは19日の日曜日に発信したつもりだった。この所ちょっと忙しい思いをしているので、一日置きになっても仕方が無いか、と考えていた。で、昨日の月曜日も発信を休んでしまった。だから三日間も穴が開いてしまった。私ごときがブログに訪れて下さる方に申し訳無いと、心からお詫びを申し上げます。

 「ベスト・オブ・ベスト」と称する番組の一部を見た。ゆったりと流れる画面。静止画かと思えてしまうような止まった画面。静かで落ち着いて何の気取りも無い中村吉右衛門の語り。それらが見事に一つの宇宙を作り出している。
 まるで自分で京都の有名な庭園を散策しているような気分である。カメラ目線は原則として歩行者の高さと速度になっている。ただ、見たい所にあまりカメラがとどまっていないとの欠点(自分勝手とは思うが)はあるが、その代わり、普段は見られない所が見られる。そちらの方がずっと有益だ。時々、民放のCMで中断のような、思わせぶりなシーンの展開もあるが、CMのように延々と待たされる事は無いから、「待たされて納得」と言う事になる。
 画面と語りのほかには何も邪魔をする物が無い。ところが、ほんの時々なのだが、音楽が流れる。そしてそれはよく知られている音楽だったりする。例えばモーツァルトだったり、ラベルのボレロだったり、ゴセックのガボットだったりする。これは非常に困る。それぞれの音楽に我々は何かしらの記憶や思いを持っている。そしてそれはほとんどがこうした美しい日本庭園とはまるで関係が無いのである。
 たとえ、音楽に繋がる記憶や思いが無くても、音楽その物が一つの世界である。何事かを雄弁に語ろうとしている。だからそれが抽象的な現代音楽だって同じ事になる。そうではないか。現代音楽が何かを語ろうとしていないのなら、武満徹はあんなにも世界的な作曲家にはなっていなかったはずである。

 画面と語りで完成している世界にこの上、一体何を付け加えようと言うのか。画面に語らせれば良いではないか。画面だけでは、つまり、実際に庭園を鑑賞している人には分からない事を、語りが淡々と言葉少なに教えてくれている。それだけで十分である。現実的には鳥のさえずりが聞こえたりしているのだが、まさかそれを音楽が取って代わろうと言うのではあるまい。
 庭園を造った人の思いを我々は静かに読み取ろうとしている。そこに音楽を作った人の思いをかぶせてどうなると言うのか。BGMと言う名の下に、いい加減な事がされていると思う。

高知での境界問題、新聞の記事がおかしい

2010年12月17日 | 社会問題
「1世紀勘違い」
「境界線変更へ」
 この見出しは高知県で町の境界が間違っていたとの東京新聞の16日の記事の見出しである。事は四万十町と中土佐町で起きている。
 だから私はそうか、百年の間境界線が間違っていて、それを変更するんだな、と思った。しかし実はそうではなかった。まずは記事を読んで欲しい。(漢数字表記は横組になるので洋数字に変えてある)

 7人は長らく中土佐町民として暮らし、住民税も中土佐町に納めていた。ところが、同町が2008年に実施した地籍調査で、実際の境界は考えられていたより西側に入り組んでいて、7人の住む約200アール分は実際に四万十町に属することが明らかになった。
 これを受け、7人はことし5月までに全員が四万十町に住民登録をし直した。だが「これまでの地域生活を変えたくない」などと町側に要望。両町議会じ、以前考えられていた通りに境界を変更する議案を9月に可決、県議会も12月下旬に可決する運びだ。来年夏には国が新しい境界とし認める見通し。

   中土佐町   __________ 
    ___________∥
    | ●住宅  ∥ 四万十町
    |___________∥__________ 
          
 上の図は使っているエディターソフトでは表現の仕方が無いので、おかしな図になっているが、御勘弁を。∥から右が「将来認められる境界」、その左側の___が「現在の境界」。記事の図では四つある●は一つで代表した。
 長い事、中土佐町だと思っていた地域が実は四万十町だった事が2008年に分かった。そこで7人は四万十町の住民になった。けれども以前の中土佐町住民に戻りたいとの要望が通り、境界は以前の通りになる、との記事なのである。
 だから「1世紀勘違い」は2008年に訂正された。そしてその時点では「境界線変更へ」となった。そうした意味では上記の見出しは正しい。
 しかし、現在はそうではない。「1世紀勘違い」の元の通りに戻す訳だから、「1世紀勘違いの境界線、元のままに」の見出しが正しい事になる。「1世紀勘違い」を生かすなら、「境界線元のままに」になる。「境界線元のままに変更」でも良い。つまり、「元のまま」が重要なのである。「境界線変更へ」を生かすなら、「1世紀勘違い、元のままに」になる。やはり「元のまま」が重要になる。

 先に引用した記事の前にはリードのような記事がある。そこには次のようにある。

 行政も住民も気付かなかった百年にも及ぶとみられる勘違いは、解消される見通しだ。

 嘘を言っては困る。百年にも及ぶ勘違いは一旦「解消された」が、再び「元のままに戻る」のである。「解消される見通しだ」ではない。2008年現在「解消される見通しだ」だったが、2010年5月現在では「解消された」のだ。それが2011年夏には「以前通りに境界を変更する事を国が認める見通し」なのである。
 記事も間違っていれば、見出しも間違っている。図も親切とは言えない。「将来認められる境界」は、正しくは「2008年まで勘違いしていた境界で、現在は消失しているが、2011年に再び認められる見通しの境界」である。「現在の境界」は、正しくは「2008年まで勘違いして無かった境界で、現在は存在するが、2011年には再び無くなる境界」である。
 そんな複雑な事を言える訳が無いのは百も承知。しかし「将来認められる境界」「現在の境界」とだけでは、記事の間違いと見出しの間違いと相まって、非常に分かりにくいと私は思う。
 ついでに、記事の「実際の境界は考えられていたより西側に入り組んでいて」は「はいり込んでいて」の間違いではないのか。「入り組む」とは「物事がからみあったり、複雑に構成されていたりする」である。実際の境界は私が上に書いたような単純な物ではなく、複雑な形をしているが、「からみあった複雑さ」などは無いのである。
 記事がどこかで何か「勘違い」しているか、単に頭が悪いのか。もしも私の読み方が悪く、私の頭が悪いのであれば、謝るしか無いが、これ以外の読み方を私は出来ない。