夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「漢字を忘れた韓国人」との東京新聞の記事に反論する

2011年10月31日 | 言葉
 今朝の東京新聞に論説委員が「私説」と題するコラムで書いている。韓国ではもう漢字は通用しないと。当然である。日本の仮名文字に相当するハングルで表記をすると決めたのだから、漢字は使わない。しかし韓国語の語彙の内の6割余は漢字が基になっているとその記事は言う。つまりは漢字熟語だろう。漢字熟語を漢字を使わなくても正確に理解する事は可能だ。これは日本語での話だが、例えば「武器」「平和」は、「ぶき」「へいわ」と書いても、意味が分かるはずである。なぜなら、ほかに「ぶき」「へいわ」と発音する言葉が無い。しかしそうした根っからの日本語にも思えてしまう漢字熟語ばかりではない。それは韓国語にしても同じではないのか。

 記事では、民族の文字であるハングルで教育するのは、漢字は日本の植民地統治の悪しき名残だとの理屈も付いていると言う。しかしこれは全くの濡れ衣である。漢字は朝鮮文化の基礎なのである。だから日本の植民地統治の名残などではないのだ。中国への依存の名残なのである。たとえ韓国人が日本の植民地統治の名残だと考えているとしても、それをきちんと正しく訂正して記事を書くのが論説委員の役目ではないのか。

 韓国が、これは北朝鮮も同じだが、漢字を廃止してハングルだけで朝鮮語を表そうと考えたのにははっきりとした理由がある。漢字は字音語だけで使われていたからである。と言うのは、朝鮮では漢字を訓読みにする事をしなかった。漢字は中国語の発音そのままに、しかも四声と言うアクセントまでそのままに読まれていたと、ある学者が言っている。
 これは中国とは地続きの朝鮮の防衛策でもある。だから、日本で訓読みが発明されたのは中国からの離脱を意味しているとその学者は言う。漢字の訓読みは世界にも類の無い、奇抜でしかも難しい方法なのである。漢字をすっかり日本語の文字としてしまっている我々には分かりにくいが、英語で考えれば良く分かる。
 sunを英語そのままに「サン」と読み、しかも日本語の「ひ」とも読むのである。「日本=にほん」は漢字熟語である。だから英語にすれば、「under the sun」である。これを「アンダーザサン」と読むのが「にほん」の音読みで、「ひのもと」と読むのが訓読みである。今では「にほん」を漢字熟語だと認識する事はほとんど無いだろうから、「あんだーざさん」と「ひのもと」である。
 「under the sun」だから意味が分かる。もちろん、日頃から「under」が「した・もと」の意味であり、「the sun」が「ひ」の意味である事を、常に英語の綴りを使い、意味を知っていればこそ出来る事である。けれども仮名文字の「あんだーざさん」では意味が分からない。
 日本語は「under the sun」に相当する「日本」の表記を常に使っているから意味が分かるのである。ただ、現在では「ひのもと」の意味だと理解出来る人がどれほど居るかは疑問だが。

 だから朝鮮語が漢字を廃止したのは無謀な事だと思う。それを徹底させるには、同音異義語を無くすしかないだろう。漢字熟語を重要な要素として発達して来た朝鮮語がそれを減らして豊かな朝鮮語を作り上げるのはとても難しい事だと思う。漢字熟語を減らすには、一つだけ漢字熟語にして、残りは朝鮮語で言い替えるようにする事しか無いのではなかろうか。それが果たして出来るかどうか。

 このブログで私の言いたいのは、上記のような事ではなく、論説委員の「日本の植民地統治の悪しき名残だという理屈」について、同委員は明確に反論すべきだろう、なのである。

幼稚園・保育所での待機児童を減らす署名活動

2011年10月29日 | 社会問題
 タイトルのような事を要求する署名が回って来た。言っている内容が複雑で簡単には飲み込めない。そして私はこの事に関しての知識が欠如している。そこで署名はしなかった。
 待機児童が多いと言うのは、それだけ施設が少ないと言う事であり、それだけ働く母親が多いと言う事である。しかし、働く母親が多い事に私は一つの疑念を抱いている。それはそうした母親との接触が多いある女性の話なのだが、母親が働かなくてはならないその原因の一つにケイタイの料金の支払いがあると言う。何万円ものカネの掛かるケイタイとは何なのだろうか。
 そして母親同士の交際にも原因があるらしい。言うまでもなく、飲み食いや行楽の費用である。
 そうした事どもを少しばかり控えれば、外で働いて子供を預ける、などと言う必要は無くなる。何よりも、子供は自分の手で育てるのが一番なのだ。それが子供にとっても一番の幸せであるのは言うまでも無い。

 更には日本の経済の仕組みのまずさがあるだろう。二極化が進んでいる。それなのに、根本的な解決を考えずに、浮ついた事ばかりを考えて解決しようとする傾向が今の日本にはある。その典型的な例が、エネルギー不足を解決しようと原発に走る事に現れている。
 保育の施設を増やす前に、もっとやるべき事があるのではないのか。根本的な解決を目指すよりも、身近な事の解決の方が早いし安上がりだったりもするのだろう。しかしそれに目を奪われてしまっては、日本はめちゃくちゃになる。
 総理大臣が安易な事に走りがちだから、我々がそれを注視し、道を開かなくてはならなくなる。一体、何のために総理大臣が存在しているだろうか。過去の保守政権の安易な道を繰り返してはならないからこそ、野党だった民主党政権が誕生したはずである。もう一度原点を見詰め直す必要がある。

警察庁が自転車の走行に目を光らせ始めたと言うのだが…

2011年10月27日 | 社会問題
 大変良い事である。遅きに失した事である。自転車は軽車両なのに、あまりにも無謀な運転が無視されて来た。私は毎日自転車に乗っているし、学童の登下校の安全誘導をしているから、自転車の走行には特に気を使っているが、左側走行をしている自転車など、それこそほんの2割にも満たない。平気で右側を通り、左側走行のこちらとぶつかりそうになると、右側に避けるのである。だから私は危険な車側に寄る事になる。他人を危険な目に遭わせて平気の平左なのである。多分、左側走行をしなければならない義務があるなどとは思いもしないのだろう。
 信号無視など日常茶飯である。ある時、凄い青年に出会った。雨の日に、傘を差してしかもケイタイを見ながら運転している。あんまりびっくりしたので、どうやって傘を差しながらケイタイを見ていたのか、覚えていない。

 私は自転車にも運転免許証を発行すべきだと前々から思っている。人間に危害を加える恐れのある自転車を無知な人間に運転させてはならないのである。気違いに刃物、と言うと差別用語だと怒る向きもあろうが、それほどの事なのである。
 そして警察側も注意が足りない。自転車走行の規則を徹底させようとはして来なかった。そして取り締まりも緩過ぎる。私はある時、交番の巡査に、自転車の信号無視と傘差し運転は処罰の対象になるか、と尋ねた。若い巡査だったが、傘差し運転は事故を起こさなければ処罰の対象にはならない、との答が返って来た。警察官がそんな程度なのである。

 道路の片側には歩道があって、反対側には無い場合、そこには歩道であるのを示す白線が引かれている。ところが、これを自転車通交帯だと勘違いしている人が私の知人に実際に居る。そして自転車通行可の歩道なら、右左は関係が無いからとの理由で、右側走行をしている自転車が無いとは限らない。聞いた事が無いので分からないが、これだって、警察の周知徹底がいい加減だから起きているのだろう。
 そして、「歩道通行可」の意味の周知徹底などしようともしない。横断歩道を自転車に乗って通る事も禁止なのに、それも無視である。横断歩道のすぐ脇に自転車走行帯が白ではっきりと描かれているのに、ほとんど守られていない。「じてんしゃ」と平仮名で大きく書かれ、自転車の絵まで描かれているのに、何のためにあるのか、意味の分からない人間が圧倒的である。そしてその周知徹底をしない。
 「歩道通行可」の標識だっておかしい。歩道の片方にはあるのに、反対側には無い場合など決して少なく無い。ここは自転車が通れないのだな、と安心して歩いていると、反対側から自転車が来る。ここは自転車は通れないよ、と言うと、ちゃんと通行可の標識があったから通っているんだと、反対に文句を言われる。これなど絶対に警察の怠慢である。

 交通安全週間とか旬間とかになると、町会の人達が出て来て「交通安全」の旗を持って交差点などに立ったりするが、自転車の危険な走行も見て見ぬ振りである。下手に注意するとトラブルになるからと、警察から止められているとも聞く。ただ立っているだけで抑止力になるのだと言う。冗談じゃない。そんなでくの坊のような人間なら何人立っていようが役に立つはずが無い。交通の赤信号よりずっと効き目の無い、単なる民間人なのである。

 26日の東京新聞の一面には大きく「『自転車は車道』徹底」と「危険走行摘発も」の大きな見出しが躍っているが、一体、どこまでやる気があるのか、とても疑わしい。
 自転車で車道を走っていると、道路端に駐車している車があって、そこだけ大きく車道にはみ出さないと通れない事などしょっちゅうである。車道に駐車させて料金を徴収している所もあるから、そこではどうしようと言うのか。
 中途半端な思いでは徹底も摘発も絶対に出来ないだろう。本当に一から考え直して始める必要がある。そこにどれほどの知恵と根性を注ぎ込むつもりなのだろうか。口先だけに終わってしまいそうな危機感が私にはある。

「うだつが上がらない」のおかしな説明をしている本がある

2011年10月26日 | 言葉
 『日本語がとことんわかる本』と言うタイトルの文庫本を読んだ。そうだね、なるほどね、と言う話もあるが、おかしな話もまた少なく無い。その中で「うだつが上がらぬ」に大きな疑問があった。言うまでもなく、「立身出世が出来ない」の意味で使われている。
 では「うだつ」とは何か。元々は「うだち」だったらしいが、「うだつ」で考える。この本の説明は「うだつ=家の屋根裏と梁の間に立てる短い柱」である。そこから「このうだつの様子が、上へも下へも伸びる事が出来ないように見えるため、いつまでたっても出世する事が出来ずにいる状態を表すようになったと言われています」との説明になっている。私は違う説明を以前に読んでいる。

 この本と同じ説明なのが岩波国語辞典で、次のように説明している。
・うだつ=木造建築で、梁の上に立てる棟木を支える短い柱。これが立たなければ屋根がつけられない。

 つまり、「うだつが上がらない=屋根が付けられない」になる。それは決して裕福だとは言えない。
 しかし私の知っていたうだつは違う。それは新明解国語辞典の説明と同じである。

・うだつ=民家の屋根の両端を屋根より一段高くし、その上に小屋根を付けた土壁。元来、防火用であるが、町衆の自主・自立の精神を示すものといわれる。

 自主・自立の精神だとは思いにくいが、火の用心であり、それだけの財力も要る。
 大辞泉もほぼ同じ説明をしている。新明解が「元来、防火用であるが、町衆の自主・自立の精神」と言っている事を、同辞書はもっと易しく分かり易く説明してくれる。絵もあって、とても分かり易い。

・うだつ=民家で、妻の壁面を屋根より高く造った部分。また、建物の外側に張り出して設けた防火用の袖壁。

 この説明だと防火用とは限らない。多分、町衆の見栄でもあり、防火にも役に立つ、いや、反対だ、防火用で、町衆の見栄にもなる。それを新明解は、自主・自立の精神と、「美しく」表現しているのだろう。
 広辞苑も同じような説明である。明鏡国語辞典はもっと明確である。

・うだつ=商家などで隣家との境に設けた防火壁。これを高く華麗に揚げて繁栄のしるしとする。

 以上のような説明だから「うだつが上がらない=立身出世が出来ない。身分がぱっとしない」の説明になるのであって、「うだつ」が「上にも下にも伸びる事が出来ないように見える」との解釈はナンセンスとしか言いようが無い。「うだつ」が下に伸びたってどうにもならないし、上に伸びたって、そんなに屋根を高くしてどうなるのだ、と言う事になる。
 だからこんな説明で満足している著者の考えがどうにも分からない。何でこれが「日本語がとことんわかる本」なのだろうか。このシリーズには「つい誰かに話したくなる雑学の本」と言うのもあり、やはりこの「うだつ」のように底の浅い知識がある。だから、私はやっぱりおんなじ程度の考え方で書いているのだろうなあ、と思っている。

 この「うだつ」の話は絶対にこうなのだ、と言い切る事は難しいのかも知れないが、それにしても、常識で考えても、「梁の上に立てて屋根を支える柱が上がらない」が、出世しない、の意味になるはずが無い。この本の考え方なら、「柱が伸びない」でないと意味にならない。こんな考え方で満足して、「日本語がとことんわかる」と豪語している著者は一体どんな人なのかと思う。第2章だけは著者名が明確になっているから、あとは多分、雑多な寄せ集めの知識なのだろう。
 ただし、正しい事も多く書かれているから、それはそれで役に立つのだが、その正しさが反対に、こうした間違った説明を信じさせる事になるから、諸刃の剣にもなる。著者と出版社はそうした事をどのように考えているのだろうか。何しろ、この本はある出版社から前に出ていて、それを別の出版社から出し直しをしているのである。つまり、立派にお墨付きである、と言う事になる。

小学生の野外活動に付き添って考えた

2011年10月24日 | 文化
 小学一年生が近くの公園に学習で「秋を見付けに行こう」とのテーマで出掛けるのに付き添った。元貯木場だった所を大きな芝生の広場にして、所々に樹木が植えられている自然公園である。テニスコートや花壇などもあり、大人から子供まで楽しめる。学校からのコースはほとんどが川沿いの遊歩道を通るので、自転車にさえ気を付ければ安全に通行が出来る。
 子供達は川が見たいのだから、川沿いに歩かせれば良いのに、時々コースを変更して川とは反対側を歩かせたりする。後ろの先生は、何でコースを変えるのか、と不審顔である。私も不審である。そして車道沿いの歩道では、自転車通行可であれば、自転車は車道側を通行する規則だから、子供達は車道とは反対側を歩かせるのが当然なのに、それすら先生は守らない。そうした認識が無いらしい。

 さて公園で何をするかと言うと、まずは赤や黄色のきれいな落ち葉を拾う。どんぐりなども拾う。そしてノートに書く。質問は、前に来た時とどのように様子が違っているか、である。
 ところが、子供達は前に来たのがいつなのか、忘れている。出発前に答えさせたら、7月、6月、5月と分かれた。そして肝心の先生が、先生も覚えていません、あとで調べて置きます、と言うのである。
 それなのに、前に来た時と現在の様子の違いを書け、と言う。子供達が迷っているので、先生がヒントを出す。歩いている人はどうかな? 長袖を着ているね。
 でも、前にいつ来たのか覚えていないのだから、前は歩いている人がどんな服装をしていたかなんて覚えている訳が無い。運動している人はどうかな? あまりいないね。前の時だっていなかったかも知れないではないか。
 あまりにもひどい質問なので私は呆れてしまった。それに周囲の様子だって、青々とした木々ばかりで、どこがどのように違うのかなんてさっぱり分からない。せいぜい、緑の色がそれぞれに違う事くらいしか分からない。先生は、文章ではなく、絵を描いてもいいよ、と言うが、書くとしても拾った落ち葉かどんぐりの絵である。

 そうやって、1時間半ほど、なにやかやとやって、帰る事になる。子供達はどのように秋を見付けたのだろうか。これで学習になったのだろうか、と私は思う。一人の子は水筒をどこかに置き忘れてしまった。一人の子はせっかく集めた落ち葉やどんぐりの入ったビニール袋をどこかに落としてしまった。で、全員でそれを探すのかと言うと、そうではない。私達付き添いの人間が後に残って探すのである。先生と子供達は先に行って、途中の公会堂の裏庭で待っているのである。他人の落とし物を探すのも学習ではないか。
 往復も含めて2時間ちょっとの野外活動だったが、果たしてどれほどの成果があったのだろうかと、疑問になる。行き帰りの列を作って歩くのも学習である。それなのに、何度注意しても間が空いて、しょっちゅう走ってばかりいる子供達がいる。先生はほとんど注意をしない。
 私は子供達に言った。犬だってもっと上手に歩いているよ、と。すると、だって犬はリードを付けてるもん、と言う。じゃあ、君達もリードを付けて歩こうか。

 小学一年生だから、まだまだ幼稚である。でもそれに応じた教育があるだろう。秋が見付けられなかったとしても、友達の落とし物や忘れ物を一緒になって探すのは良い経験だろう。道を歩く時にはどのように注意をするのかも大切な学習である。
 先生達を見ていて、私はこれで本当に良いのだろうか、とつくづく考えてしまった。
 

電気料金の原価に宣伝費が入っているのはおかしい

2011年10月23日 | 暮らし
 電気事業連合会の会長(関西電力社長)が、東京電力の経費見直しをした政府の第三者委員会の報告書に反論した。報告書は電気料金算定の基礎にオール電化を推進する宣伝費などが含まれている事を問題視している。
 会長は「我々は最大限の効率化を織り込んで原価を算定している。中長期的に見て電気料金が安くなり、低炭素化にもつながる。原価に織り込むのは適切だ」と言っている。

 しかし電力会社は独占企業である。おととい書いたが、読売新聞のコラムは九州電力に対して、「弊社がお気に召さない方は、どうぞ買えるものなら、よそから電気をお買いあそばせ」と言わんばかりの図太い神経には恐れ入る、と言っている。独占にあぐらをかいた商売で、何で宣伝費が必要になるのか。
 オール電化はガス会社に対する挑戦である。これ以上独占に大きな顔をさせてはならない。そしてオール電化がいざ事故が起きた場合にどうにも手の打ちようが無い事は、あの大震災で経験済みである。一つだけの手段に限らず、色々な手段を講じているのが安全で安心なのは誰もが心得ている。エアコンをガスにしても、その起動には電気が要る情況なのだから、電気があってガスがあって、それで我々の暮らしは上手く行くのである。それをオール電化にせよと言う。我々の暮らしなどどうでもいいらしい。
 どこまで行ってもカネの亡者から抜け切れない。

 ガス会社と言う他者を潰し、自分だけの繁栄を図るそんな自分勝手な企業の宣伝費を我々が背負う必要は毛頭無い。そうやって更にカネ儲けを企んでいる。我々の暮らしに損害を与え、その上、我々の懐まで圧迫しようと言う、その人でなしのやり方には我慢がならない。
 因みにこの会長の名前は、八木誠である。どこに「誠」があるのか。勝手な言葉「言」を「成」しているだけではないか。恥を知れ、と言いたい。もっとも、人でなしには恥も何もありゃしない。

東京の富士見坂が消えてしまう

2011年10月22日 | 暮らし
 東京の話だが、都内の山手線の内側で唯一富士山が望める地として残っていた荒川区の「日暮里富士見坂」から富士山が見えなくなると言う。6キロも離れた所に高層ビルが建ち、それで山頂と右側稜線だけを残して見えなくなるとのシミュレーションの結果である。地元は貴重な風景遺産を何とか残して欲しいと訴えているが、建設する側はそうは行かない。今から建設中止には出来ず、大変残念だが、御理解頂きたい、と言っている。

 でも、風景遺産がどんどん無くなっているのはもうずっと前からである。唯一の富士見坂だからこうした展開になるのだろうが、貴重な風景遺産は様々にあったはずである。それをまるで考えずにどんどん高層建築が建って来た。私は常々、高層建築ばかり多くなって嫌だなあと思っている。だから、ヨーロッパの都市のせいぜ五、六階建ての建物が中心の風景を羨ましく思う。
 高層なんて少しも美しくない。単に貧乏臭いだけである。そうでしょう。土地を何十倍もの価値にして金儲けしたいだけの事なのである。欲の深い話だから、切りが無い。建てられれば奴等は百階建てでも建ててしまうだろう。あの東北大震災で、東京の湾岸にある高層マンションからは抜け出したいとの希望者が増えていると聞く。私の住まいは12階だが、やはり出たいと思っている。13階や14階の人も皆同じ事を言っている。でも簡単に売れて、別の物件を買うのは難しいから、皆あきらめているらしい。

 たとえ地震で倒壊しなくても、エレベーターは止まってしまうし、どうしようも無い。私の所など、牽引のケーブルが切れて、四日間もエレベーターが使えなかった。
 何で企業は東京にばかり集中するのか。一つには原子力村のような一カ所集中の利点がある。これまた金儲けである。
 本当にガリガリ亡者どもが、寄ってたかって東京を住みにくく、醜くしてしまう。

 富士山と言えば、私の住まいからはほとんど遮られる事なく、富士山が見える。手前の丹沢山塊の姿も見える。でもそれも一年の内の限られた季節と回数である。富士山が見える事は楽しいが、だからどうなんだ、とも言える。富士山が見える見えないに関わらず、高層建築の野放し状態は何とかしてもらいたい。

原発の事故の恐ろしさをまるで考えない人々が居る

2011年10月21日 | 社会問題
 チェルノブイリの原発事故当時まだ生まれていなかった人達が深刻な病気にかかっていると言う。それなのに相変わらず能天気な人々が居る。多分、自分には関係が無いと考えているからだろう。20日の東京新聞のトップニュースでは、計画・建設中の12基の原発の内、7基が計画通りに推進される、とある。計画・建設中の七つの電力事業者へのアンケートで分かった。中止に言及している所はゼロである。
 七つの電力事業者とは、表と記事を順を追って読んで、次の事業者であるのが分かった。
 電源開発、日本原子力発電、中国電力、九州電力、東北電力、東京電力、中部電力。
 もっと明確に書くべきだと思う。
 7基の内、電源開発がやっている大間原発は青森県にあるが、2014年11月に運転再開の予定である。それ以外はすべて東日本大震災の影響が小さかった地域である。被害の出た東北電力と東京電力、浜岡原発を停止した中部電力は建設を進めるかどうかは申し上げられる段階にはない、とコメントしていると言う。

 みなさん、「他山の石」のことわざをご存じないらしい。元々の意味とは違って、他人の意見や言動が自分を磨く助けになる、との意味で使われている。英語には「自分のより、隣の人の受けた損害から学べ」が、フランス語には「愚か者が賢者に忠告する」がある。
 人口に膾炙していることわざすら知らない馬鹿なのか、と言うと決してそうではない。単に金の亡者になっているだけの事である。読売新聞は19日の編集手帳で次のように書いている。

 (九州電力は)世間の批判など、何するものぞ。地域独占の傲(おご)りゆえか、「弊社がお気に召さない方は、どうぞ買えるものなら、よそから電気をお買いあそばせ」と言わんばかりの図太い神経には恐れ入る。経営者は、たとえ一瞬でも、「公益企業」の看板に顔を赤らめる時はないのだろうか…。

 顔を赤らめるようなそんな玉じゃないのである。図太い神経と言っているが、カネがすべてを狂わせているのである。いつも思うのだが、こうした世間の常識に反する、そして我々善良な庶民の気持を逆なでするような考えの持ち主は、こうしたアンケート調査の発表の際に、是非とも、お名前とご尊顔を記事に添付すべきだと思う。明確に企業とし意見を発表しているのだから、プライバシーを損なう事にはならないはずだ。それに「公益企業」なのである。

またまた大臣の失言「津波で逃げなかった馬鹿な奴」

2011年10月19日 | 言葉
 重要な復興の責務を負う大臣が「津波で逃げなかった馬鹿な奴がいる」と発言した。しかも笑顔で言った。彼の言い訳によると、それは同級生で、どうも愛情表現だと言っているらしい。東京などでは「馬鹿」は愛情表現にもなり得るが、それは時と場合による。亡くなった人に対して、その原因を「馬鹿」呼ばわりする事は絶対に許されない。
 テレビではコメンテーターが、ころころと大臣の首をすげ替えるのは感心しないから、このまま力を発揮させるべきだ、と言っていたが、私はそうは思わない。常日頃思っている事が何らかの機会に言葉として出て来るはずである。普段思ってもいない事が咄嗟に出て来るとしたら、その場に応じてどのようにも対応出来る素晴らしい人だとしか思えない。しかしこの大臣の場合は決してそうではないだろう。あの発言は、テレビで中途半端に見ているだけではよくは分からないのだが、「その場に応じて」の発言ではなさそうである。だから、普段から思っている事がそのままに出た。

 失言とは国語辞典は揃って「言ってはいけない事をうっかり言ってしまう」だと説明している。だから「失言」であれば、それはついうっかりと言ってしまったのであって、他意は無い、と解釈されてしまうようだが、これは国語辞典の説明が悪い。辞書の「言ってはいけない事」と言うのは、例えば差別用語などではないだろうか。差別の心が無くても、差別用語が出てしまう事は多々ある。何しろ、何でこれが差別用語になるのか、と思うような言葉まで差別用語扱いをされている。
 私は差別する心があるから差別用語になるのであって、どんなに言葉を変えようとも、差別の心が無くならない限り、新しく言い替えた言葉が今度は差別用語になると考えている。そうでしょう。「女中」を言い替えた「お手伝いさん」の本質が「女中」と打って変わった物になっているなどと思っている人は居ない。言葉を飾った、あるいは偽っただけ、悪質だと思う。

 だから失言とは、本当は隠すべき本心をついうっかりと言ってしまう事だと私は思っている。だから取り消したってどうにもならない。その人の本心があからさまになってしまった以上、どう弁解しようと、覆水は盆に戻らないのである。
 失言だから許してやろうよ、とは絶対に思えない。本当は隠すべき本心はその人の本当の心なのだから、どう言い繕っても、ええ格好しようが、その人その物なのである。それが許される事なのかどうかが問題なのである。駄目な人は所詮は駄目である。
 復興が今一番重要なのだから、復興に全力を尽くさせよう、との気持は分からなくはないが、亡くなった同級生を、冗談にせよ馬鹿呼ばわりするような人間に、大事な復興が任せられるだろうか。被災者の心を自分の心にする事の出来ない人間に被災者の被害を救済する事は出来ない。この大臣にそれが出来ると言うのなら、彼は自分も馬鹿な奴になれる、と言っている事にもなる。簡単に馬鹿になれる人間に大事な事を任せられる訳が無い。

九州電力とはとんでもない会社だと分かった

2011年10月15日 | 社会問題
 九州電力の報告に関して、枝野経済産業大臣は「理解不能」と切って捨てている。
 やらせ問題があったのは確実である。それは自分達の電気事業がうまく立ち行くための手段に過ぎない。だから不利な部分を有利なように見せ掛けるやらせを行った。電力会社に不利な部分とは、我々庶民には有利な部分になる。我々にも不利なら、なにもごまかす必要は無い。しかしながら、九電の社長は居直って、第三者委員会の見解を簡単に無視した。
 いわく、「私どもには私どもの見解があった。第三者委員会は第三者委員会の見解があった」と、それで終わり。馬鹿言ってる場合か。「私どもの見解」が世間では認められない見解だからこそ、第三者委員会が正しい見解を示したのである。それを全く無視して我を通すなら、それははっきり、国益に反する事業体だと言うしか無い。
 こんな「馬鹿で阿呆で、無知で冷酷な」指導者が指揮している事業体など絶対に存続させてはならないのである。それが独占企業だから、何が何でも存続は許されないのである。(馬鹿で阿呆で、と同じような言葉を繰り返しているのは、地方によっては、愛情ある言葉とも取られてしまうので、東西両方の言い方を挙げた)

 第三者委員会の委員長は「問題の本質を捉えた部分を一切無視しており、愕然とした」と言っているが、真剣に立ち向かった立場としては「愕然」であろう。でも言葉が足りない。「愕然としたし、唖然とした」と言ってもまだ言い足りない。つまり、どんな言い方をしても、この九電の社長に対する驚きは表現不可能なのである。それほどの人物である。もちろん「人物」に「人格や能力が水準以上の」の意味など一切無い。誤解を招かない言い方をするなら、「それほどの奴なのである」。奴でも足りないか。人と言ったら一番ふさわしくなるか。
 それにしてもこんな社長を頂いている九電の社員は情けないだろう。いや、もしかしたら、誇りに思っているかも知れない。でもそれではあまりにも我々が悲しく、寂しくなるから、そうは思いたくない。つまり、この出来の悪いどうしようもない社長は社員達の顔に厚い泥を塗ったのである。社員達が泥を塗られたと思わないのだとすれば、タイトルのように、九州電力はとんでもない会社になる。
 だからこそ、社員達が立ち上がらなければいけない。でも安定した生活のためには、自分を無にするしか無いのか。