5月16日の「産経抄」である。経済白書が「もはや戦後ではない」という有名な言葉をはいたのは昭和31年のことである、との書き出しで始まる。色々な戦後の事件を挙げ、沖縄返還へと話は進む。私が驚いたのは次のような文章である。
沖縄返還をめぐっては、佐藤栄作首相が「祖国復帰が実現しない限り戦後は終わらない」と述べ、多くの共感を呼んだ。しかし復帰は同時に、平和に対する幻想を国民に抱かせた。戦後の冷戦構造が去り、米軍がいなくとも日本の平和は守れるという勘違いだった。このため沖縄の米軍基地について常に「本土の犠牲」とか「負担」という声が聞かれ、邪魔物扱いにもされてきた。だが復帰から40年たった今、日本の守りはむしろ厳しさを増す一方だ。
「米軍がいなくとも日本の平和は守れるという勘違い」と言うが、本当に勘違いだと考えて良いのだろうか。この「勘違い」は日本が戦争を永久に放棄した事に始まると私は思う。もちろん、戦争を仕掛ける事は永久に放棄で当然だ。しかし日本を自分の手で守る事を放棄したのは間違いだ。冷戦構造が無くなって米軍がいなくとも日本の平和は守れる、のではなく、米軍がいなくとも日本の平和を守らなければならない、と考えるべき所を勘違いしたのである。
上のコラムで、沖縄の米軍基地が「本土の犠牲」とか「負担」だとの声が間違った声だと言っている。つまり、沖縄人の辛さを微塵も感じていないらしい。沖縄が本土の犠牲だ、と言っているのは、当然に、沖縄以外の都道府県が基地を自分の所で負担しようなどとはまるで考えていない事を指摘しているのだ。
コラムは次のようにも言う。
中国の温首相の言葉は、「尖閣をよこせ」という恫喝にも聞こえる。そうした危機感抜きで米軍の駐留を論じるのはあまりにも無責任というものだ。
「尖閣をよこせ」の恫喝が危機感になるのは、米軍の駐留に頼り切って来たからではないのか。アメリカを頼りにして、日本は自分の言いたい事を言わずに来た。そうした姿勢が「尖閣をよこせ」の危機感を招いているのではないか。諸外国から嘗められ切っているのは日本の自主性の無い外交である事を棚に上げ、米軍の駐留のお陰だと言い切る、その考え方に驚くのである。
沖縄返還をめぐっては、佐藤栄作首相が「祖国復帰が実現しない限り戦後は終わらない」と述べ、多くの共感を呼んだ。しかし復帰は同時に、平和に対する幻想を国民に抱かせた。戦後の冷戦構造が去り、米軍がいなくとも日本の平和は守れるという勘違いだった。このため沖縄の米軍基地について常に「本土の犠牲」とか「負担」という声が聞かれ、邪魔物扱いにもされてきた。だが復帰から40年たった今、日本の守りはむしろ厳しさを増す一方だ。
「米軍がいなくとも日本の平和は守れるという勘違い」と言うが、本当に勘違いだと考えて良いのだろうか。この「勘違い」は日本が戦争を永久に放棄した事に始まると私は思う。もちろん、戦争を仕掛ける事は永久に放棄で当然だ。しかし日本を自分の手で守る事を放棄したのは間違いだ。冷戦構造が無くなって米軍がいなくとも日本の平和は守れる、のではなく、米軍がいなくとも日本の平和を守らなければならない、と考えるべき所を勘違いしたのである。
上のコラムで、沖縄の米軍基地が「本土の犠牲」とか「負担」だとの声が間違った声だと言っている。つまり、沖縄人の辛さを微塵も感じていないらしい。沖縄が本土の犠牲だ、と言っているのは、当然に、沖縄以外の都道府県が基地を自分の所で負担しようなどとはまるで考えていない事を指摘しているのだ。
コラムは次のようにも言う。
中国の温首相の言葉は、「尖閣をよこせ」という恫喝にも聞こえる。そうした危機感抜きで米軍の駐留を論じるのはあまりにも無責任というものだ。
「尖閣をよこせ」の恫喝が危機感になるのは、米軍の駐留に頼り切って来たからではないのか。アメリカを頼りにして、日本は自分の言いたい事を言わずに来た。そうした姿勢が「尖閣をよこせ」の危機感を招いているのではないか。諸外国から嘗められ切っているのは日本の自主性の無い外交である事を棚に上げ、米軍の駐留のお陰だと言い切る、その考え方に驚くのである。