夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「旅客鉄道」を「JR」と呼ぶのは利益が目的

2008年02月29日 | Weblog
 JRって不思議な名前だと思いませんか? 正式名称は例えば「東日本旅客鉄道株式会社」。それが「JR東日本」になる。分割したのだから、各地域を印象付ける名前が付くのが当然。「名古屋鉄道」「近畿日本鉄道」「西日本鉄道」などの私鉄はそれそれの地域名を頭に付けている。それが「名鉄」「近鉄」「西鉄」の略称あるいは愛称になる。

 しかしJRは違う。「東日本旅客鉄道」なら「東鉄」に、「西日本旅客鉄道」なら「西鉄」、これはまずい、既に九州に私鉄の「西鉄」がある。だから、「東日本会社」「西日本会社」などで十分その目的は達せられる。
 あるいは、「北海道日本鉄道」「東日本鉄道」「東海日本鉄道」「西日本鉄道」(これは一考を要するが)「四国日本鉄道」「九州日本鉄道」などで良いではないか。「JR=Japan Railway 」なのだから「日本鉄道」を生かして当然である。
 でも何で英語の名前と日本語の名前が違うのだろうか。

 それが変則的とも言える「JR東日本」などの呼び方をしてくれと、当のJR側が言ったのである。この名称の目的は「JR」にある。「JR」で6つの旅客鉄道を総称する事によって、「JR=旧国鉄」だと言っているのである。分割したとは言っても、線路はどこまでも繋がっているのだから、どこへでも簡単に行けますよ、と宣伝している。

 このどこに分割の意義があると言うのか。単に利用者には不便になったに過ぎない。直通運行を皆無と言えるほどに無くしたのだから。
 実は分割はそれほどの目的ではないのだ。真の目的は民営化にある。「民営化=利益追求が自由自在」なのである。福知山線の脱線事故で、我々はJR西日本のあくなき利益追求の姿勢をはっきりと見た。しかしマスコミはそれを明らかには言わない。

 JR西日本が安全投資の決定権を、経営全般を統括する総合企画本部から、鉄道の運行に責任を負う鉄道本部に移すと発表したのは事故から何と一年以上も過ぎてからだ。全JR各社に、鉄道部門には安全投資の決定権が無いのだと言う事もその時に分かった。
 本当はマスコミはそうした事をもっと前から知っているべきなのだ。国鉄が分割民営化する事が決まった時から、そうした研究をしていてしかるべきである。それはマスコミだからこそ出来る。大きな資本力と人材を生かす事でそれが出来る。
 しかし、マスコミにそうした見識は全く無い。だから、「JRと呼んでくれ」との言い分に何の批判も無く唯々諾々と従った。はっきり言えば、「JR」と呼び続ける事によって、JR各社の利益追求方針を認めたのである。

 それにしても安全が投資の対象になっていたなんて、想像も付かない。安全は損得なく守らなければいけない事である。それが「安全投資」だと。誰も彼もが言葉をいい加減に扱っている。「安全投資」で驚かなくてはいけないはずだ。しかし新聞も全く驚いてなどいない。それはあたかも、そんな事、前から知ってましたよ、と言っているかのようだ。

 この「運行部門に安全に関する権限を委譲した」とのニュースは、朝日新聞で見る限りはわずか11字詰め35行、400字にも満たない小さな記事に過ぎない。
 けれども、この小さな記事にJR西日本のホンネも朝日新聞のホンネもはっきりと読み取れるのである。小さな記事だからと、うっかりと読み過ごしてはいけないのです。
 ホンネを見付けようと言う事と、このJRの話をこれから少し続けます。

ロス疑惑と三浦社長無罪の関係は?

2008年02月28日 | Weblog
 私のこのブログは、駄目な日本語、駄目な物言いを斬るのが趣旨。いい加減な考えがいい加減な言葉を生み、それがまたいい加減な考えとなり、現在の日本の品格の無い情況がある。そうした発信をしたいのに、毎日のように不祥事が起きていて、つい何か言いたくなる。
 ロス疑惑の三浦社長が逮捕された。日本の弁護士はアメリカは司法の基本をまるで分かっていないと批判している。無罪と決まった者に新証拠も何も関係が無い、と言う。それは分からなくはないが、三浦氏は真犯人が分かって無罪になったのではない。疑わしきは罰せずで、有罪にするだけの証拠が無かっただけに過ぎないはずだ。

 だから様々な媒体が同氏を疑い、それを名誉毀損だと同氏は訴え、8割は勝訴していると言う。しかしその裁判の数の多い事。とても信じられないくらいだ。つまりたとえ8割勝訴していても、それは証拠不十分なのに犯人扱いした事に対して、同氏の言い分が通ったと言うだけの話である。
 多くの人々が同氏を疑ったし、いまだに疑っている人も多いだろう。妻だった一美さんの母親は、同氏の事を、顔も見たくない、考えたくもない、などと言っている。仮にも娘の夫だった人だ。よほどの事が無ければ、このような物言いはしない。

 司法の事を知らない人間の言うたわごとと思って頂きたいが、事件はアメリカで起きた。その証拠はアメリカにある。日本で無罪になったとしても、アメリカが、国内で起きた事件なのだから、日本の裁判所とは関係なく、自分達で黒白を付けるのだ、と言う事を無視は出来ないのではなかろうか。

 刑事被告人の弁護士って大変だろうなあ、と思う。被告と弁護士は一心同体。と言うよりも、被告より更に上手を行く。被告に向けられる世間の憎しみは、そのまま弁護士に向けられる。それを平気な顔でしかも被告の肩を持つ訳だから、よほどの強い心が無ければ務まらないだろう。

 山口県光市の母子殺人事件で、被告に大弁護団が付いた。そして罪を認めていた被告に犯意は無かったのだと言わせている。その事に対して現・大阪府知事の橋下氏が、それは正義ではないだろう、みなさん、抗議をしましょうと、テレビで視聴者に呼び掛けた。

 それが弁護士会で問題になった。弁護士の任務を否定する発言だと。しかし世間一般はそうは思わないはずだ。いくら弁護士の任務であり義務だとは言っても、人間としての尊厳を失わせるような事をするのが仕事なのかと。被告の弁護は大いに結構。でもそれは人間としてやって頂きたい。何か人の道を外れているような弁護士を見るように思うのは、素人のひがめでしょうか。

 テレビを見ても新聞を読んでも、毎日腹の立つ事ばかり。そして報道はとても公明正大とばかりは言えない。うっかりすると、隠されているホンネに気が付かない。私は今、そうした記事や発言の中にホンネを探ろう、と言う原稿を書いている。その気になれば、本当にホンネはいとも簡単に見破る事が出来るのです。どこか正義感にあふれる出版社は無いだろうか。


正しい日本語表記は国家の品格の必要条件だ

2008年02月25日 | Weblog
 昨日、JR東海の子会社の駅弁事件で、毎日新聞の表記の「他=ほか」について書いた。表記については誰よりもうるさいと自負している。
 私は以前、著書で日本語の表記について述べた事がある。ある人はブログで、表記なんて誰も気になどしていないよ、と言った。またある人は、漢字での書き分けに意味が無いから仮名書きにしている、と言った。
 どちらの御意見も正しい。
 だが、私はそんな分かり切った事をわざわざ言っているのではない。実際に表記を気にしている人は少ない。しかし自分では気が付かないが、表記に囚われているとは考えられないか。
 国語辞典や表記辞典は、「一般に使われているから」と、一つの表記を指示している事が多い。ではその「一般」とはどのような事を指しているのか。

 一般とは我々の事だ。表記などあまり気にしていない我々の事だ。我々は、新聞や書籍がそう表記するから、そうだと思って従っているに過ぎない。これは知らず知らずの内に表記に囚われている事を意味しないだろうか。

 国語辞典や表記辞典がしている表記の指示は、「意味の違いで表記を分ける」である。つまり、知らない内に、様々な辞典が言っている意味の違いを受け入れている事になる。もしそれがいい加減な根拠で言われているとしたら、どうなるか。
 言葉の意味をいい加減に解釈する事になる。その事を私は実際に様々な言葉を調べて実証している。
 実際、辞典類は「言う・いう」の使い分けを明確に指示している。理由は、仮名書きの「いう」には実質的な意味が無いか薄い、である。

 この説明に誰も不審を抱かない。なぜだろう。「無い」と「薄い」は違う。「無い」は「有る」に対しての言い方で、黒か白である。それに対して、「薄い」は程度の問題である。だから程度が「濃い」になるに従って、「有る」に近づく。極端に「薄い」場合には「無い」に近づく。そうした曖昧さが付きまとっている。
 そしてその程度の判断はどのようにするのか。
 そうした明確に違う情況を「無いか薄い」などといい加減に説明しているのに、どうして不審を抱かないのか。

 「という」は実際にとてもよく使われている。便利だから使われているのだ。何が便利か。言い方が自然になる。「平和というものは」などの使い方では「平和は」とは違って含みが感じられる。だが、その含みは何か、と問われて、果たして答えられるだろうか。
 はっきり言えば、「という」は、事を曖昧に処理するのに非常に便利だから使われているのである。「というものは」などとなると、更に効果を発揮する。「もの」が何を指しているのかを、言っている、書いている本人が明確に認識せずに使っているのである。あるいは、明確に言いたくない場合もある。

 いずれにしても、非常に曖昧でいい加減で無責任である。
 そんないい加減さに同調せずに仮名書きで通す、と言うのは一つの見識である。しかし、日本語は仮名書きが多くなると分かりにくくなると言う明確な欠陥を持っている。漢字を頼りにして日本語は発達した事を忘れてはいけない。
 それは漢語ばかりの事ではない。純粋の和語にしても、漢字があるから一つの言い方で足りている場合が少なくない。

 昔は、現在のように音声を遠く離れた人に伝える事は出来なかった。それは文字でしか出来なかった。だから、文字さえ明確なら、発音はあまり考慮されなかったはずだ。そのようにして日本語は発達して来た。
 電話があり、ラジオやテレビがある時代になっても、日本語はその基本的な性格を変える事は出来ない。
 そうした事を全く考えずに、和語だから漢字は要らない、などと短絡的に考える。
 私は現在の表記に対して、国語辞典や、特に表記辞典があまりにもいい加減な指示をしている事を様々に採り上げて、原稿を書いた。
 ある一流出版社の編集部で、その正当性は認めてもらえた。ただ、あまり一般的ではない、との理由で本にはならなかった。
 啓蒙よりも売れ行きが最優先なのである。

 しかし、私はとても心配だ。「という」や「こと」「もの」などが、その指している事を明確にせずに使われ過ぎている事が、我々の考え方を非常に曖昧にしているのではないか、と。
 日本語を文法的に曖昧な言語だとする学説がある。しかし私はそうではないと考えている。我々の考え方が曖昧なだけなのだ。

 曖昧な言葉が曖昧な考えを定着させ、日本を曖昧な国にしている。これは私の持論である。正しい日本語表記は「品格ある日本」の重要な条件である。

JR東海が消費期限偽装の駅弁を販売

2008年02月24日 | Weblog
 JR東海が売っていた子会社の弁当に消費期限を偽装した物があった。偽装は1年以上も前から行われていた。消費期限は製造から14時間以内と18時間以内で、それを最大5時間半延長していたのだと言う。14時間以内の5時間半は大きい。
 健康被害の報告は無いと言うが、これでは消費期限を決めている意味が無い。偽装の理由は、「弁当が売れる夕方などに出荷数を揃えるため、早めに製造した」である。
 まあ、理由など聞いても意味は無い。単にどんな汚い手を使っても儲けたいだけなのだ。偽装が判明してもそのまま当日の弁当は売り続けたと言うのだから、その執念の凄さが分かる。
 毎日新聞は2月23日にその記事を流し、建守猛社長は陳謝したと書いているが、同時に社長発言を次のように書いている。

 「法的には問題はないのではないか。健康上の実害もないと思う」

 偽装がなぜ法的に問題は無いのか。実害が無かったようだから、いいでしょう、と言うのなら、警察だって検察だって要らないよ。法的な規制はなぜあるのか、と言う基本的な事を全くわきまえていない。
 これは陳謝ではない。開き直っているのではないか。なぜ毎日新聞はこれを陳謝したと書くのか。多分、この発言の前に「申し訳ありませんでした」などと述べたのだろう。だが、続くこの発言で、それがまやかしに過ぎない事は明々白々である。
 そんな事も分からないような記者は記事を書くべきではない。

 しかしデスクはこの記事を通しているし、校閲も何の文句も言っていない。となると、常識では、これで通るらしい。私の常識とは相容れないが。
 同紙は同日の夕刊の「近事片々」と言う短いコラムでこの発言を批判し、「売り上げを伸ばすためにはウソもOKの社風のようだ。消費者の自衛には食材の産地表示なども疑う他にない」と書いている。ウソをついてどうして陳謝になると言うのか。

 これは子会社のやった事だが、親会社のJR東海は以前、JR西日本が福知山線の脱線事故でPRを自粛した時(PRを自粛すべきかどうかも大きな問題だが)、JR西日本に代わって、「のぞみ」の宣伝をして、JR西日本の管轄範囲の岡山方面の観光宣伝をした。
 朝日新聞は脳天気にこれをJR東海の他社宣伝と書いたが、他社宣伝と同時に同社の宣伝であるのは明白である。そして問題は、親戚が謝っているのに、私は関係がありませんよ、と代役を買って出る。これを「しゃしゃり出る」と言う。これでは謝っている事にはならない。そんな事も分からない会社なのである。

 俗に子供を見れば親が分かる、と言う。これは全くの真実の言葉である。

 ついでに、上に引用した記事で毎日は「他にない」と書いている。「他」は常用漢字表では「た」としか読めない。「ほか」は「外」である。これは小学校2年で習う。 同社も朝日も、市販している用字用語集で「他=ほか」を認めている。しかし共同通信社の『記者ハンドブック新聞用字用語集』では「他」は駄目だと書いてある。
 もっとも「外=ほか」の人気は非常に低く、だから同書も「なるべくかな書き」としている。
 この事も問題があるが、要は常用漢字に従ってつまらない事をしている新聞社が平気で常用漢字を無視していると言う事実である。そんなに無視が簡単に出来るなら、もっと重要なやるべき無視があるだろうに。

 「他=ほか」をつまらない事だと思うかも知れないが、他人の書いた原稿を校正する場合にはこれが大きな問題になる。常用漢字に従った表記をしている場合には「他」は「ほか」なら「外」か「ほか」にするしか無い。ところが、「た」のつもりなのか「ほか」のつもりなのかが、他人にはよく分からないのだ。

君が代と日の丸を馬鹿にする教師達・君が代不起立問題

2008年02月22日 | Weblog
 君が代不起立問題と言う妙な問題がある。
 卒業式や入学式の「君が代」斉唱時に起立せず、都教育委員会から繰り返し懲戒処分を受けた教員達がいて、その訴えと戦いを描いたドキュメンタリー映画が上映されると言う。
 毎日新聞が伝える元教員の言い分は次のようなものだ。

 「自分の頭で考える」という教育が壊されつつある。日の丸・君が代にとどまらない問題を、多くの人に考えてもらうきっかけになれば。

 「自分の頭で考える」という教育が壊されつつある、のは分かる。教員自身が自分の頭で考えていない。私はある教育関係の図書の校正の仕事もしているが、全国の教師達の書いた原稿に、本当にこの人、自分で考えているのか? と大きな疑問を抱くような、言葉だけで気持の入らない、何かの書物から引き写したような文言をちりばめたような文章が多い。

 まあ、この記事になっている古荘斗糸子さんと言う女性は、きちんと自分のを頭で考えているのだろうが、それにしても、それと日の丸・君が代と、どんな関係があると言うのか。
 君が代の斉唱を強制される事が「自分の頭で考えない」になると言うのだろうが、じゃあ、自分で考えて、なぜ君が代を歌っちゃいけないんだ?
 私は世界情勢に詳しくないので、国旗や国歌を馬鹿にする国民の居る国を知らない。そしてそれをとても幸せな事だと思っている。
 こうした教員達が国際的なスポーツ大会で優勝する可能性などゼロだろうが、万一優勝して、国旗が掲揚され、国歌が演奏されるとなると、彼等はそれだけはやめて下さいと言うのであろう。そして世界中の人々からいい笑い者にされるのであろう。

 彼等は公立の学校の教員である。公立の学校が国旗・国歌を重んじる事は当然過ぎるくらい当然の事である。大きな企業には社旗と社歌がある。大事な行事の際には社旗が掲揚され、社歌が歌われる。それを従業員が、「自分の頭で考える」事を壊すから従わない、などと言ったら、処分されるか、解雇される。
 公立学校の教員は自ら志願してその教員になったのである。誰かから脅され強制された訳ではない。国旗や国歌に従いたくないのなら、初めから勤めるべきではないのである。
 それこそ「自分の頭だけで」生きて行ける所で静かに暮らせば良いのである。

 君が代がなぜいけないのか。多分、戦争に繋がるから、と言うのであろう。しかし君が代を国歌として制定したのはつい近年の事なのである。1999年3月、「21世紀を迎えるに当たり、国旗・国歌についてより明確化を図るため、法制化を含め検討に着手する」と内閣官房から発表され、8月に国会で「国旗及び国歌に関する法律」として成立した。長年の慣行によって定着していた事を正式に規定したのである。

 もしも、戦争中に使われていたのだから、と言うなら、出征軍人達が出発したはずの東京駅は存在を許されてはいけない事になる。戦争に繋がり、今に残る物はすべて否定されなければいけない事になる。そんな馬鹿な。

 イギリス国歌は「神よ女王を救いたまえ」と歌う。それで誰かが猛反対しているとか言う話は聞かない。
 激しい抵抗をしている根津公子さんと言う人は戦後生まれである。この古荘さんも戦争中に君が代を歌った記憶はない年代である。なぜそんなに拒否反応を示すのか。 君が代は天皇の御代が長く続くように、との内容の歌だ。しかし現在の天皇は国民の象徴である。元首の幸せを祈って何が悪い。元首イコール我々の国・日本ではないか。

 それに「君が代」が「天皇の御代」だと解釈するのは非常に無礼な事なのである。古語辞典には「誰々が○○」と「が」を使うのは、親しい人とか、目下のような人に対しての使い方であり、侮蔑にもなる、尊敬すべき人には「誰々の○○」と「の」を使った、と書かれている。
 この歌は古語の歌である。従って、古語の用法に従うべきである。今までそれを天皇だとしていたのは、単に間違っていただけの話なのだ。それに国歌と制定されたのはつい最近なのだから、改めて、「君が代=大切な人」と解釈すればそれで済む事である。自分の身近な人の幸せを願う。それがひいては国の幸せを願う事になる。
  
 そうそう。とても重要な事を忘れる所だった。
 反対するなら堂々と意見を述べれば良い。それを不起立だと? 学校では児童・生徒にルールを守れと教えているはずだ。その教師自らがルール違反をしてどうなると言うのか。
 ルール違反の子供は当然、何らかの処罰の対象になる。それなのに、教師だからとそれが免除になるのだとしたら、こんな不公平は無い。
 文句があるなら、やる事はきちんとやった上で、正々堂々と意見を述べるがいい。君が代が嫌なら、それに代わる国歌を提案したらどうなのか。それも出来ずに実力行使に出る。学校では教師は一番偉いだろうが、世間ではそれは通用しません。
 こんな事を写真入りで堂々と載せる新聞もどうかしている。

イージス艦の衝突と遺憾に思う

2008年02月21日 | Weblog
 海上自衛隊のイージス艦が漁船と衝突した。
 漁船の乗組員はたったの二人。それに対して自衛艦は296人。漁船は7・3トン。自衛艦は7750トン。
 レーダーも最新鋭の物が装備されているはずだし、見張りもいるはずだ。それが漁船との衝突を避けられなかった。どんな事情があるにせよ、強者が弱者を守るのは当たり前の事。何をいい加減な事をしているのか。それに一番重要な操舵室がまるごと無くなっいる事も分かった。

 更には気が動転していて敏速な行動が取れなかったのだと言う。296人全員が能なしだったと言っている事になる。これでどうやって日本を守れると言うのか。戦争ごっこじゃないんだよ。これじゃあ、イージーミス艦だ、なんて寒い駄洒落の一つも言いたくなるではないか。
 多分、彼等は自分の身が危うくなれば、国民など見捨てて、平気で敵前逃亡するのだろう。
 21日になって、見張り員が嘘をついている事が明らかになった。2分前に気付いたと言っていたのは嘘で、実は12分前に気付いていたと言う。江戸時代の大名行列と同じで、そこのけそこのけだと言う評論家もいる。

 この事については大勢の人々が非難しているだろうから、私が出る幕は無い。ただ、防衛省の役人がテレビのニュースで「遺憾に思う」と言っていたのは聞き捨てならない。
 「遺憾に思う」は「残念だ」と言っているに過ぎない。発言の時点ではどちらに非があるのかはっきりしていないから、「残念だ」と言うしか無いのだろうと思った。しかしそうではなかった。そのすぐ後に、彼は「申し訳ない」と謝ったのである。
 謝る以上、「残念だ」では済まない。はっきりと、「申し訳ない」と言うべきだ。こんないい加減でずるい謝り方があるだろうか。
 国民の半分は「遺憾に思う=申し訳ない」だと誤解をしている。これは昨年だったか、テレビの日本語クイズ番組で、TBSだったと思うが、国民1万人の正解率と言うのを調べてあって、それで知った。残りの半分が正確に「遺憾に思う=残念だ」と理解しているに過ぎない。

 政治家はこうした事をうまく利用している。自分は「申し訳ない」と謝りたくはない。そこで「遺憾に思う」と言って逃れる。だが、国民の半分は、ああ、謝っているのだなと思う。政治家は自尊心を傷付けずに国民の半分を味方に付ける事が出来るのである。
 我々は言葉をあまりにもいい加減に扱い過ぎている。本当の意味を知らないで、語感だけで判断をしている。だからいつだって、騙されるのである。

 「善処する」がそう。新明解国語辞典などは、政治家がごまかすために使うとまで断言している。「善処=うまく処理する」の「うまく」は、それぞれ、自分にとっての「うまく」なのであって、それは容易に反対になり得る。
 「粛々と」もそう。まるで、地味ながらも着実に実行するかのようなニュアンスを感じる人は多い。ところが、「粛々」に「着実」などの意味はまるで無い。単に「厳かに。静かに。謹んで」などの意味しか無いのである。
 漢語なら更に、「羽ばたきの形容」「松風の音の形容」との意味さえある。
 重要な約束にそんなたわいもない言葉を使って逃げるのである。それを我々は、さも政治家がしっかりと約束をしてくれた、などと脳天気に受け取るのである。政治家の汚さと言い、我々のだらしなさと言い、ああ、情けない。

 言葉が複雑で、屈折した幾つもの意味を持っているのは別に構わない。すべてがあけすけな言葉でなくてはいけない、などと言うのではない。身も蓋もない言葉ばかりだったら、どうしようも無い。しかし、だからと言って、いい加減に、間違った解釈をしていて良いと言う訳ではない。
 いい加減な言葉がいい加減な考え方を生み、そのいい加減な考えが更にいい加減な言葉を作り出して行く。その悪循環が日本を品格の無い国にしている。

 国家の品格、女性の品格、○○の品格、と「品格ばやり」の昨今だが、品格なんて、そんな簡単に手に出来る物ではない。何よりも、言葉に品格が無い。だから考え方にも品格が無い。つまりは、人間に品格が無い。テレビを見てご覧なさい。やたらと大食いを競っている。世界には飢えて死んで行く人もいると言うのに、無駄な大食いをあおって、面白がっている。
 私が幼かった頃、食べ物を無駄にすると罰が当たると親は言ったものだ。しかし今ではそんな事を言う親はいないのだろう。これまた悪循環。品格本がやたら売れるのは、自ら品が無い事を自覚しているからなのでしょうか。

ベストセラーとさおだけ屋

2008年02月19日 | Weblog
 『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』が今までに150万部以上もの大ベストセラーになった。一流の会計士が、会計学を苦手とする、数字に弱い人のために、会計学を分かり易く解説した本だと、書かれている。
 となると、対象は我々一般人である。絶対に企業の経営者や商売人などではない。会計学を知らない経営者や商売人などあり得ない。会計学を知らないために損をしている我々が対象である。
 ところが、私にはどうにも関係の無い事ばかりである。著者の挙げている数字も計算も間違ってはいないが、どうにも生活に結び付かない。
 私がおかしいのかも知れないので、お知恵を拝借したい。

 さおだけ屋は金物屋の副業らしい。本業の商品を利用し、本業の人手と運搬具である車を使っているから、たとえさおだけが売れなくても、損はしない。売れれば、それだけ利益が挙がった事になる。こんなおいしい副業は無い。と著者は言う。
 さて、我々一般人として、その副業はどのように出来るのか。ケース別に考える。

・主婦……家事のほかに、介護や家事手伝いなどの副業をするとしよう。しかしその場合の買い物は、自分の買い物のついでなどでは出来ない。掃除や洗濯も自分の家事のついでには出来ない。それぞれに、きちんと時間を取らなければならない。
 これでは本業を利用した副業とは言えない。
・学生……大学生が家庭教師や塾の教師、テストの採点や評価などの副業をするとしよう。しかし、相手は小中学生が多く、あっても高校生どまりだ。それに対して自分の大学での勉強を利用するなどとても無理だろう。
・勤人……本業を利用した副業は御法度である。隠れてやっていて、ばれたら、処分を受けるか解雇される。これは本当に厳しい。転職にしても、同一業種は絶対に駄目で、円満退職にはならず、退職金も出ない。たとえ違う業種だとしても、元の会社は競合業種だと言い張って、退職金を支払わない算段をする。そうした訴訟は非常に多い。著者が知らない、は通用しない。

 著者は自分の例を挙げて、本業に関わる事を書いて本にすれば良いなどと脳天気に言うが、そんなのは、千人に一人くらいしか存在しない。現に出版社がそう言っている。それにもし成功して作家になれたら、副業などとは言っていられない。多分、本業は出来なくなる。

 著者は本業ではなく、あるいは趣味でもない仕事を副業にしたら、とても楽しめないし、ストレスばかりになる、と言う。本業関連の副業が出来ない事は上述したが、趣味で始めても、仕事となれば、楽しさだけでは出来ないはずだ。楽しみで出来ると言うのなら、それは趣味の範囲を出ない。仕事とはそんな甘い物ではない。
 テレビでは趣味で店を始めた、などの例を見る。しかしその人は全身全霊で仕事に打ち込んでいる。とても趣味では済まない。客だって、趣味に毛の生えたような店なら、寄り付かないだろう。
 著者はあまりにも仕事を舐めている。多分、自分が会計士の傍ら、本を出したり、それがぅまく当たって、テレビに出たり、新聞や雑誌などから依頼を受けたりで、案外気楽にそれらをこなしているから、そうした考えが生まれるのだろう。
 著者は平気で本業を利用した副業を勧めているが、もしそれで首になった人が現れたら、著者は損害賠償の責任を負う事になる。それでもよろしいのですね。
 ただ、今の所、そうした話は聞かない。多分、本業を利用して副業をするサラリーマンなどは居ないので、実害は出ていないのだろうと考えている。

 まずはタイトルが潰れているのだが、内容もまた我々の暮らしとはまるで縁が無い。企業が損得しか考えず、勘定だけで、感情抜きの考えで運営しているのは当然である。一連の不祥事を見れば一目瞭然。しかし我々は感情たっぷりの生活を送っている。もし企業のように損得だけで考えて暮らしている人がいたなら、私は到底、お近づきにはなれそうもない。企業のような不祥事を起こすような人なら顔を見るのも嫌だ。

 そんな当たり前の事が、会計士としての専門家である著者には見えないのである。ほかにも面白い事が書かれているので、この続きはまた、折を見て。

ベストセラーと問題な日本語・国家の品格

2008年02月18日 | Weblog
 「品格本」のきっかけとなった『国家の品格』をやっと読んだ。なぜこんなに遅れて読んだのかと言うと、「品格」とはこのような事だ、と私なりに理解しているから、特別に読もうとは思わなかった。大体、想像したような事が書かれているのだと思っていた。が、違っていた。何が違うかと言うと、とにかく私にはとても難しい。
 第1章の「会社は株主のものではない」は本当にそう思う。おっ、いいぞ、と思って第2章に入ると、「最も重要な事は論理では説明出来ない」と書かれており、「駄目だから駄目」も分かるのだが、論理ではなく、社会のルールが守れるのか、と言う事が具体的に分からない。
 なぜ人を殺してはいけないのか、は「駄目だから駄目」としか説明のしようが無いらしいのだが、でも、「なぜ人を殺してはいけないのか」と言う本が現実に売れている。

 あとまだ5章も残っているのだが、自信がなくなって来た。この本を多くの人々が喜んで読んだのに、どうして私には難しいのだろうと、悲しくなる。ただ、私には一つの疑問がある。同じくべトスセラーになったある2冊の本を読んだのだが、それは非常によく分かる。とんでもないと思われてしまいそうだが、言っている事がおかしいと言う事まで分かる。それなのに、誰もそうした事を言わない。

 つまり、これらのベストセラーは本当に読まれているのか、本当に心から理解しているのか、との疑問がある。別の2冊と言うのは、『問題な日本語』と『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』である。
 どちらも、私には幾つもの疑問がある。まず、その疑問点の一つを挙げる。どなたか、私の本の読み方が間違っているかどうかを判定してくれないだろうか。

 前者のトップにある「おビールをお持ちしました」は普通によく聞く言い方だから、我々はおかしいとは思わない。小さな居酒屋などでは「お持ちする」もへったくれもないが、座敷などが幾つかある料理屋などなら、当然の言い方である。
 しかし著者は尊敬するべき相手が居ないのに、こうした言い方はおかしいと言うのである。

 これに対して、「おカバンをお持ちします」と言うのは、例えば相手が先生なら、カバンは先生の持ち物で、だから尊敬して「おカバン」になり、謙譲の意味の「お持ちする」になるのだと説明する。
 これは納得出来る。我々もそうした使い方をしている。
 さて、おビールだが、この場合は尊敬すべき相手が居ないと著者は言う。だからおビールは誰の物でもなく、極端に言えば、運んで来た自分の物だと言うのである。自分の物だから「お」を付けるのは、自分を上品に見せるためで、これを美化語と呼ぶ、と言う。
 では、一体、何のために「おビールをお持ち」したのだろう。お持ちするもしないも無いではないか。そして自分のビールなら自分で飲みなさい。勘定は自分で払いなさい。
 もしこれが店だったら(店でなく、こんな言い方をする人が居たら、それこそ変だが)、その店は早晩潰れる。太鼓判を押す。

 この「おビール」は客が注文したビールである。だから「おビール」になる。店のビールだったのが、注文を受けた段階で、客のビールになったのである。自分のビールを「さあ、おビールを飲もうか」などと言う人が居たら気持悪い。
 客のためのビールを運んで来たのだから「お持ちしました」になる。

 学者って変でしょう?
 自分のビールを「おビール」と言う人が居てもいい。しかしそれは自分を上品に見せるためではない。我々は普通に「お茶を飲もう」などと言う。あまり「茶を飲もう」などとは言わない。それは自分を上品に見せるためではない。「お茶」と言うのが普通だからそう言うだけの話である。「おビール」と言う人は、我々の「お茶」と同じ感覚でそう言っているに過ぎない。それはその人の言葉に対する感覚の問題だから、はたからとやかく言う事でもない。

 もし、著者の言うように、自分を上品に見せるためだとするなら、誰も居ないのに、ちょっとおかしいんじゃない? と思われるだけだ。それともあの白雪姫に出て来る女王のように、毎日鏡に向かって「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」と問いかけずにはいられない心境なのだろう。

 こうした著者の考えには、当然に居るべき人が見えていない欠陥がある。それはほかにも波及する。著者は言う。この「お…する」は多くの人が謙譲語だと考えており、それに異論は無いが、「(私は会社を)お休みする」のような、行為が相手に及ばず謙譲にならない使い方もあり、美化語としか言いようが無い。

 会社を休むのが、相手に行為が及ばないのだと言う。とすると、この人は会社では居ても居なくてもいい人なんだ。休んでも会社に影響を与えないんだから、そうなる。社員が非常に大勢だから一人くらい休んでも影響は無い、とでも言うのだろうか。では、影響が出始めるのは、社員が何人からか。答えられまい。
 休んでも会社に影響を与えないなら、それは一人だけで成り立つ仕事である。休んだ分は残業をしたり休日出勤して穴埋めすれば済むような仕事しかあり得ない。
 しかしそれなら、この人は「私は会社をお休みする」などとは言わない。自分一人で完結する行為でそのような言い方はしない。
 例えば毎日の日課の散歩を休む。その場合、「散歩を休もう」とは思うだろうが、「散歩をお休みしよう」とは思わないはずだ。著者は自分の物について「私はおカバンを買いました」のように言う場合は美化語になる、と常識では考えられない説明をしているが、この「散歩をお休みする」も同じくおかしい。

 稽古事のように、休んでも他人に迷惑は掛からない場合でも、先生に対して無言では失礼になるから、「お休みします」と言うのである。休む行為は相手に及ぶのである。及ばないと考える著者の心の中では、本当に相手などどうでも良いのだろうと思ってしまう。
 面白い話はまだまだたくさんあるので、また別の機会に。そして次回は「さおだけ屋」の不思議について御意見をお聞きしたいと思っている。

消費者不在のDVDの規格争い

2008年02月17日 | Weblog
 またまた、時流に乗った話になるが、テーマは「消費者不在」とは何か、である。
 DVDの規格争いがブルーレイ(BD)の圧勝で決着が付いた。HDの東芝陣営のこだわりは、単にメーカーの面子に過ぎない。言い換えれば技術者の面子かも知れない。しかし技術者なら当然に優れた技術を目指す。技術的にどちらが優れているかは分かり易い。
 HDは従来のDVDの生産技術を利用出来るので、価格が安いのが売りだった。しかし価格なんてどうにでもなる。量産すれば安くなるのは当然の事。そんな安定性の無い事と技術とを計りにかけた。それは決して消費者を思っての事ではない。馬鹿な事をするなあ、と私はずっと思っていた。
 そして最初、売れるが勝ちと考えている様々な企業は、その価格に心を奪われ、真実を見る目を持たなかった。本当に、売れて自分達が儲けられればそれで良しとする企業が多過ぎる。

 マスコミは簡単にベータとVHSの規格争いと同じように見ているらしいが、私は違うと思う。
 両方式には格段の違いは無かった。ただ、私はベータの方が優れていると思っていた。当時、雑誌で最高と評価を付けたVHS機を買った。それと前から持っているベータを比較すると、画質はベータの方が良かった。使い勝手も良かった。
 長時間録画モードはベータは1.5倍の3時間なのに、VHSは3倍の6時間。その画質はまるで見られたものではなかった。その少し前、暮しの手帖が比較をした時、この3倍モードを標準モードとして取り上げた。私は同誌の見識を疑った。

 ベータの標準はベータ2である。長時間がベータ3。それではベータ1は何かと言うと、普通の2時間テープで1時間しか録画出来ないモードなのだ。つまり、普通の2倍の速度でテープが回るから、画質が良い。しかし普通のテレビではその画質の良さはあまり生きない。

 テープレコーダーの知識をお持ちの方なら分かるが、オープンリールのテープで19センチと38センチ(1秒間に動くテープの長さ)では38センチの方が圧倒的に音質が良い。それは誰にでも分かる。
 それと同じ事を当時のソニーはやっていた。私は今でもそのソニー機を持っている。さすがに録画はDVDでしているし、古いテープの再生もほとんどしていないが、捨てられない。

 ソニーが販売競争で負けたのは、実は質の問題ではなかった。CMでベータを買おうと思った客は、そのCMがどこの会社のものであっても、買うとなるとソニーになるのだ、と言う。ソニー以外は売れないのだと言う。そこでベータ陣営の他社はベータを見限った、と言う訳だ。一社だけでは到底勝ち目は無い。相手陣営には商売上手な当時の松下が居る。
 そしてもう一つ、海外では機械が単純なVHSでないと、保守サービスが出来なかったと聞く。高度な品質を複雑な機械が保証していたのだ。
 普通に考えても、同じ2時間テープで、ベータの方がずっと小さい。小さくて同等の画質が得られるのだとしたら、そちらの方がずっと機械は優秀である。

 こうした事はあまり言われない。だから知らない。単にVHSの方が優れていたからだ、と思っている人が圧倒的だろう。マスコミは、今回のDVDの規格争いがソニーの雪辱戦だと捉えているが、違う。たとえソニー自身がそう捉えていたとしても、それは表面的な事であって、その底には技術力への自信があるのだと思う。技術が結局は消費者のためになるとの見識がある。

 はっきり言って、HD陣営の頭の中には消費者は存在していなかった。マスコミは両者の争いを消費者不在と言うが、高くても良い品質の物が生き残ると考えたBD陣営には明らかに消費者の姿が見えていたと私は思う。

割り箸自己と親の責任

2008年02月15日 | Weblog
 割り箸事故で、親の責任だと言う意見が多くあるのを知って、もう一度考えてみた。確かに親は片時も幼児のそばを離れてはならない。しかしそばに付いていても、それでも転んで割り箸が喉に突き刺さってしまう事はあるだろう。それでも親の責任だと言えるのだろうか。もし親の責任なら、綿菓子を買い与えた事がそもそも無責任になる。そして綿菓子屋も、外で食べるお菓子に割り箸などと危ない物を使った責任がある。しかし綿菓子はこの形でしか存在出来ないだろう。
 
 たとえ親に非があろうとも、怪我を負ってしまったら、あとは医者に任せるしか無いではないか。責任を感じる事とその後にやるべき行為は違う。この母親は正しく子供に救急病院での治療を受けさせている。
 子供が怪我をした事は医者には何の責任も無い。当たり前だ。そして診療を始めたら、今度はその診療責任が医者には生じる。ここで明らかに責任の質と所在が移転している。
 それをいっしょくたにするから、話が見えなくなる。

 親の責任を問うのは構わない。しかしそれが医者の責任を不問にする事にはならない。医者は目の前に喉に割り箸の突き刺さった患者を見ている。そして喉から割り箸を抜き取った。その箸は果たしてどれくらいの長さがあったのか。
 綿菓子に付いてる割り箸は多分、割り箸一本そのままだろう。先端に綿菓子を付け、それを手に持って食べる事の出来る長さなのだから、短いはずが無い。割り箸には長いのも短いのもあるが、相応に長くないと、綿菓子には使えないはずだ。それに割り箸は簡単に折れる。抜き取った箸が割り箸のすべてだ、とどうして医者は判断出来たのか。

 医者は自分が作った綿菓子ではないのだから、それがどのような物だったか知らない。それなのに、それ以上、何の検査もしなかった。あまりにも安易ではないか。
 親の責任を問う以上、医者の責任はもっと重く問われなければならなくなる。
 ある人はこの親を非難し、親の肩を持ったマスコミをもまた非難した。医者は危なくて仕事が出来ない、と言う医師さえいた。御冗談でしょう?

 医師はそれなりの技術を習得して、国家からその資格を認められている。それがいい加減な資格ではない事は誰もが知っている。当の医師だって知っている。だから医師は世間から尊敬の眼で見られている。確か、ダイナースクラブは医師と政治家を特別扱いしているはずだ。文句なく、エリートと認めている。
 その医師の技術とは、この事件で見るような、そんなお粗末な技術ではないはずなのだ。

 救急病院が大変な事は分かる。しかし、それは無料でやっているのではない。中には救急医療体制が整っているとの事で信頼を得ている病院もあるだろう。救急の看板を掲げた以上は、きちんとやるべき事はやる必要がある。杏林病院がやる事をやっていなかった事は判決の「異例の」付言に明確に現れている。その理解が出来ずに他人を批判する事は許されない。
 もしこの病院がいやいやながら救急指定病院を受けたのなら、看板は即刻返上してしかるべきだろう。

 医師に限らない。どんな仕事でも、携わっている以上は全身全霊でやるべきだ。どんなに一生懸命にやっても、足りない部分やミスはある。だから一生懸命になってやらなければ、穴だらけになるのは目に見えている。
 
 06年、埼玉県の流れるプールで、排水口の柵が外れていて、女児が吸い込まれて死亡した。プール側は柵が外れているとの通報を受けたにも拘わらず、単に注意を呼び掛けるだけで放置していた。
 その事を私は通っているプールの監視員に尋ねた。彼は次のように言った。「母親が付いていたんでしょう。母親の責任はどうかと言う問題もありますよね」。私は絶句した。馬鹿を言うではない。誰もがプールの安全性を信じているのだ。その安全性が損なわれていると言うのに、利用者の責任だと?

 なるほど、立場が違えば考え方も違うのか。いや、そうではない。立場など違いはしない。違うのは携わっている仕事が違うだけの話である。人間としての在り方に何の違いも無い。
 母親は子供を楽しませるためにこのプールに来ている。もちろん、子供の安全には気を配る。それは溺れたりしないか、流れに流されて他人とぶつかったり、壁にぶつかったりしないか、と言うぐらいの事である。何もプールその物の安全性にまで気を配る必要は無い。海や川で泳いでいるのではないのだ。
 一方、プール側は母親が気にしているような事にまで気を配る必要は無い。それは各自の自己責任に任せるしか無い。しかしプールその物の安全性には全責任を持っている。
 そんな事の判断の出来ない人が増えている。そして無責任に他人を非難している。
 常識ではとても考えられない。そうした人々が至る所に存在しているのかと思うと、私は本当に背筋が寒くなる思いがする。