テレビなどのCMに触発されて、その商品を買った事がどれほどあるのか、との疑問である。
例えば何とかホームと言う一戸建ての家。別にCMの家を売っているのではない。CMは単なる商品例であって、何とかホームの素晴らしさを伝えたいのである。家を建てたいと思っている人は、そうか何とかホームと言うのがあるのか。ではショールームに見に行ってみようか、などとは考える。だが、それで「決め」とはならない。同じようにして、別のメーカーのショールームに行くだろう。そして比較検討する。
テレビにしても、現在、液晶では有力3社が争っている。CMで、絶対にあれだ、と決めている人が居るのだろうか。これだって、そうと決めていても、実際に店に行けば、他の製品にも目が行く。そして結局は比較検討する事になるはずだ。店にだって、売りたい商品がある。
車。これは多分、あの車が欲しい、と言う強い願望があるはずだ。とても、比較して検討するような商品ではないと思う。私自身、ずっと昔の事だが、最初に買ったスバル1000と言う車は当時としては画期的な前輪駆動車であって、もうそれ以外には選択肢は持っていなかった。
商品には、これしか無い、と言う個性的な物と、似たような製品が色々ある物とがある。個性的な商品なら、広告をしようがしまいが、関係は無い。CMが力を持って来るのは、似たような製品のある商品だ。選択肢の一つとして登場して来る訳だ。
そして、CMがその選択肢にどれほどの力を与えているかである。潜在意識としてはCMの商品が植え付けられているだろう。だが、現実には別の様々な商品も目にして、あるいは触っていて、比較検討している。実際に店に行けば、CMではとうてい伝えられない色々な情報が手に入る。そうした情報抜きにしては商品は選べない。
つまり、CMは「敵に塩を贈る」事にもなる。前にも書いたと思うが、その絶好の例がある。ベータとVHSが争っていた時、ベータにはソニー以外にも数社が参加していた。A社がベータのCMを打って、消費者が店に行く。で、売れたのはそのA社の製品ではなく、ソニーだった。ソニー以外の他社がベータのCMを打てば打つほど、ソニーが売れる。結局、他社は嫌気が差して、ベータから離れてしまった、と言う話。
CMで○○味噌の宣伝をする。そうだ、味噌を買わなきゃ、と思って店に行った人の一体何割くらいが、その○○味噌を買うか、である。味噌ではありきたり過ぎると言うなら、ちょっと変わったドレッシングにしようか。おっ、何か変わったドレッシングがあるぞ。店に行った時、見てみよう。そう思って買い物に行って、果たしてそのドレッシングを買う人がどれほど居るのか、である。
店に行ったら、様々なドレッシングが並んでいて、CMの物もあるが、ほかにも知らなかった物があり、それもまたなかなか魅力的だったり、更には価格もずっと安かったりした場合、どうなるか。
私は、CMでこれと決めて買いに行って、まさしくその物を買って来たのは一度くらいしか無い。結局は売り場で勉強する事になり、たいていは、目的とは違った物を買っている。目的通りの買った物とは風呂の洗剤である。こすらずに落ちるとの触れ込みに負けた。そして意気揚々と買って来て、使ってみたが、一向に落ちない。
息子にその話をしたら、「馬鹿だなあ。CM通りできれいになる訳ないじゃないか」と馬鹿にされた。以来、CMは信用していない。以後は「○○になります」と聞けば、「○○になればいいなあ、と思っております」と言っているのだと解釈している。
と言う訳で、私はCMはあまり役には立っていないだろうと思っている。ではなぜCMを打つのか。高いCM代は商品に転嫁出来るからだ。従って、転嫁出来ないメーカーはCMは打たない。そして打たなくても自社の製品が売れると考えている。
もしも各社がCMを大幅に自粛したらどうなるか。多分民放は駄目になる。もっとも莫大な利益は無くても、放送その物はやって行けるだろうが、それではせっかくの金儲けをしようとの思いが遂げられない。
つまり大企業とテレビ局がしめし合わせてCMで成り立っている民放と言うシステムを作り上げているのではないのか。こうした方式では大企業はテレビ局ほどの大儲けは出来ないが、知名度はぐんと上がる。それは絶対に役に立つ。優秀な社員が集まるだろうし、株だって売れるだろう。
結果的には両者共に万々歳。そうやって、庶民のなけなしのカネはどんどん吸い上げられて行く。以上は私の邪推かも知れないが、テレビ局がうまく行っているのは、庶民のお陰だと私は思っている。
例えば何とかホームと言う一戸建ての家。別にCMの家を売っているのではない。CMは単なる商品例であって、何とかホームの素晴らしさを伝えたいのである。家を建てたいと思っている人は、そうか何とかホームと言うのがあるのか。ではショールームに見に行ってみようか、などとは考える。だが、それで「決め」とはならない。同じようにして、別のメーカーのショールームに行くだろう。そして比較検討する。
テレビにしても、現在、液晶では有力3社が争っている。CMで、絶対にあれだ、と決めている人が居るのだろうか。これだって、そうと決めていても、実際に店に行けば、他の製品にも目が行く。そして結局は比較検討する事になるはずだ。店にだって、売りたい商品がある。
車。これは多分、あの車が欲しい、と言う強い願望があるはずだ。とても、比較して検討するような商品ではないと思う。私自身、ずっと昔の事だが、最初に買ったスバル1000と言う車は当時としては画期的な前輪駆動車であって、もうそれ以外には選択肢は持っていなかった。
商品には、これしか無い、と言う個性的な物と、似たような製品が色々ある物とがある。個性的な商品なら、広告をしようがしまいが、関係は無い。CMが力を持って来るのは、似たような製品のある商品だ。選択肢の一つとして登場して来る訳だ。
そして、CMがその選択肢にどれほどの力を与えているかである。潜在意識としてはCMの商品が植え付けられているだろう。だが、現実には別の様々な商品も目にして、あるいは触っていて、比較検討している。実際に店に行けば、CMではとうてい伝えられない色々な情報が手に入る。そうした情報抜きにしては商品は選べない。
つまり、CMは「敵に塩を贈る」事にもなる。前にも書いたと思うが、その絶好の例がある。ベータとVHSが争っていた時、ベータにはソニー以外にも数社が参加していた。A社がベータのCMを打って、消費者が店に行く。で、売れたのはそのA社の製品ではなく、ソニーだった。ソニー以外の他社がベータのCMを打てば打つほど、ソニーが売れる。結局、他社は嫌気が差して、ベータから離れてしまった、と言う話。
CMで○○味噌の宣伝をする。そうだ、味噌を買わなきゃ、と思って店に行った人の一体何割くらいが、その○○味噌を買うか、である。味噌ではありきたり過ぎると言うなら、ちょっと変わったドレッシングにしようか。おっ、何か変わったドレッシングがあるぞ。店に行った時、見てみよう。そう思って買い物に行って、果たしてそのドレッシングを買う人がどれほど居るのか、である。
店に行ったら、様々なドレッシングが並んでいて、CMの物もあるが、ほかにも知らなかった物があり、それもまたなかなか魅力的だったり、更には価格もずっと安かったりした場合、どうなるか。
私は、CMでこれと決めて買いに行って、まさしくその物を買って来たのは一度くらいしか無い。結局は売り場で勉強する事になり、たいていは、目的とは違った物を買っている。目的通りの買った物とは風呂の洗剤である。こすらずに落ちるとの触れ込みに負けた。そして意気揚々と買って来て、使ってみたが、一向に落ちない。
息子にその話をしたら、「馬鹿だなあ。CM通りできれいになる訳ないじゃないか」と馬鹿にされた。以来、CMは信用していない。以後は「○○になります」と聞けば、「○○になればいいなあ、と思っております」と言っているのだと解釈している。
と言う訳で、私はCMはあまり役には立っていないだろうと思っている。ではなぜCMを打つのか。高いCM代は商品に転嫁出来るからだ。従って、転嫁出来ないメーカーはCMは打たない。そして打たなくても自社の製品が売れると考えている。
もしも各社がCMを大幅に自粛したらどうなるか。多分民放は駄目になる。もっとも莫大な利益は無くても、放送その物はやって行けるだろうが、それではせっかくの金儲けをしようとの思いが遂げられない。
つまり大企業とテレビ局がしめし合わせてCMで成り立っている民放と言うシステムを作り上げているのではないのか。こうした方式では大企業はテレビ局ほどの大儲けは出来ないが、知名度はぐんと上がる。それは絶対に役に立つ。優秀な社員が集まるだろうし、株だって売れるだろう。
結果的には両者共に万々歳。そうやって、庶民のなけなしのカネはどんどん吸い上げられて行く。以上は私の邪推かも知れないが、テレビ局がうまく行っているのは、庶民のお陰だと私は思っている。