夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

クラウド・コンピューティングって、何だ?

2010年03月30日 | 言葉
 NECの次期社長が「クラウド・コンピューティング事業の強化で成長路線を描く」と言っている。記事の見出しは「クラウドを強化」である。パソコンは毎日使っているが、こんな言葉は初めてだ。話している内容が「(インターネット経由で様々なソフトを利用できる)クラウド・コンピューティング事業の……」となっているから、それで内容は分かる。どうも、インターネット経由で、と言うのがミソらしい。
 我々がフリーソフトを使うのは、たいていがインターネット経由である。だから目新しい事ではない。ただ、事業としてのインターネット経由と言うのは,もっと規模が大きくて、と言う事らしいが、それを麗々しく「クラウド・コンピューティング」などと呼ぶ必要があるのだろうか。もっとも、米国企業が先行していると言うから、もちろん、その名称はそうした企業が付けたのだろう。英語国民だからそれで良い。多分、人々のよく知っている言葉であるはずだ。
 英語の辞書でクラウドを引いてみた。簡単に思い付くのがcrowdである。「人、物の集まり」とある。多分これに違いない。インターネット経由で様々なソフトを集めるのだから。辞書にある意味を挙げると次のようになる。
1 群衆、人ごみ、雑然とした多人数
2 大衆、民衆
3 (口語)(特殊な)グループ、仲間、連中
 と、極めて易しくしかも卑近な意味ばかりだ。この中では、口語だが、「グループ・コンピューティング」が一番ふさわしいのではないだろうか。クラウドがもっと違った綴りの言葉なら、この考えは当たらないが。

 つまり、何も「クラウド・コンピューティング」などと称する必要は無いだろう、と言うのが私の感想だ。もちろん、英語圏ならごく日常的な言葉だから、麗々しい言い方にはならないだろう。だが、それを日本語にそのまま持って来るから、麗々しくなる。もっともらしくなる。
 でも、その実、ちっとも麗々しくももっともらしくもないじゃないか。そう、だからこそ、「クラウド・コンピューティング」などと言う言い方をしなければならなくなる。つまり、言葉で素晴らしい見せ掛けをする、と言う例の手段である。
 この記事のすぐ横には大きな見出しで「トヨタ、マツダHVで提携」とある。もちろん、記事中にも「ハイブリッド」とある。確か「複合」の意味だったと思う。これは日本語で易しく言い替えたい言葉の候補の一つになっている。しかしマスコミは一向に意に介しない。その方が立派な響きがあるからだろう。
 こうやって、どんどん英語が日常語の中に入り込んで来る。日本語に言い直してくれないから、我々は仕方なくそのまま受け取るしかない。冗談じゃない。
 言葉を、意味を分からなくして、単にかっこ良く見せ掛けるためだけに、やたらと難しい言い方をする事は絶対に許されてはならないのだ。そうした「仮面」の下で、一体何が企まれているのか、分かったもんじゃない。

 分からない言葉、感覚にすとんと落ちて来ない言葉、そうした言葉を私は絶対に使わない。そうでしょう。話すにしても書くにしても、そこにはありのままの自分が無くてはいけない。そのありのままの自分が、感覚的にぴたりと来ない、あるいは感覚的に納得出来ない言葉で語れるか。言葉だけの優雅な遊びをしている余裕は私には無い。だから、やたらと難しい言葉や外国語を使う人の話は聞かないし、読まない。
 もっと自分達に分かる言葉で話をしましょうよ。

旧仮名遣いの「ありがたう」と新仮名遣い

2010年03月29日 | 言葉
 前に、古文での旧仮名遣いの事を考えた。そこで少しでも理解を深めようと、福田恆存氏の『私の国語教室』を読み返した。だが、旧仮名遣いがなぜ合理的と考えるのかが、私にはよく分からない。もちろん、古典は旧仮名遣いによる必要があるが、現代文は現代仮名遣いで良いと思っている。ただし、手直しは必要になる。『私の国語教室』を私なりに解釈すると、その一部として、どうも音便の表記に利点があるらしい。例えば「ありがたう」。これは「ありがたい」の活用形「ありがたく」+「ございます」が言い慣れて「ありがたくございます」ではなく「ありがたうございます」になったので、「ありがたい」の原形を残している「ありがたう」が理想的だ、と言うのらしい。
 しかし音便の形になって、発音は「ありがとー」になったはずである。もちろん「ありがたう」を「ありがとー」と読むと言う方法はおかしくはない。文字の綴りと発音は違って構わない。欧米語などはみなそうなっている。ただ、欧米語は一つ一つの単語から成っているとの事情がある。つまり、一つの綴りが明確になっている。ところが日本語ではそうは行かない。「単語」の概念が希薄である。だから分ち書きが出来ない。従って「ありがたう」をそれだけ、一つの綴りとして際立たせる事が出来ない。と言う事は、これが「ありがたく」の音便の形だと明確に認識する事が難しい。そうなれは、これを「ありがとー」と読むのも難しくなる。
 もちろん、これもまた慣れの問題だから,解決不可能ではない。だが、日本語がずらずら書きだとの性格を考えれば、元の形を温存する事がそれほど有利だとは思えない。「ありがたう」になった時点で、発音は「ありがとー」になっているのだ。

 ここで無視出来ないのは、これは漢字を使えば「有り難う」あるいは「有難う」であって、このどこにも「ありがたう」の形は無い事だ。ここには発音の「ありがとー」しか無い、と私は思う。だから「ありがとー」と書いておかしい事があるだろうか。
 それに「ありがとー」も同じだが、「ありがたう」に「有り難い」の意味を感じる事は出来にくい。「ありがたう」の形にこだわるのは、「ありがたく」を意識したいがためであって、その「ありがたく」は仮名書きでは「有り難い=滅多に無い」の意味は感じられない。
 もっと言うなら、「有り難う・有難う」の表記に「がたい」を感じる事が出来ている。だから何も「ありがたう」にこだわる必要は無い。もちろん、この「有り難う・有難う」の「う」の表記が合理的ではない事は承知している。

 「ありがとー」なんて表記は無い、と言うかも知れない。それが先述した「手直しが必要」と言う事である。助詞の「は・へ」が変則的でおかしい、と言うのは「を」と同じく、本当は違う仮名の「は・へ」を考えるべきだったのだ、と私は考えている。
 同じように、え列の長音とお列の長音の表記がおかしくなっている。特にお列の長音がおかしい。長音表記を許さないから、「高利・公理・功利」は「こうり」となって、「小売り」の「こうり」と区別が付かなくなる。前者を「こーり」とすれば、解決が付く。そうすれば、「氷=こおり」と「王様=おうさま」などに悩む事も無くなる。もっとも、漢字で書けばそんな問題は起きないが。
 「ありがたう」と「ありがとー」一つで旧仮名遣いと新仮名遣いの問題が解決する訳は無いが,考え方の一つとしては有力だと思う。
 促音の「っ」にしても、ローマ字表記にすれば一目瞭然だが、本来は次の発音の子音である。「にっぽん」はNippon、「はっこう」はhakkoで、前者の「っ」はpであり後者の「っ」はkである。それを「っ」で代用している訳だから、綴りとして納得していれば済む。撥音の「ん」にしても同じ。nだったりmだったり、鼻に抜けるnだったりする。それを綴りとして「ん」としている。

 旧仮名遣いを云々するよりも、新仮名遣いをもっと突き詰めて、より合理的な表記にする事の方がずっと大事だと思う。

銀行協会の勝手な言い分を許してはならない

2010年03月26日 | 経済問題
 亀井大臣が郵政民営化を元に戻す考えを発表した。それは郵便事業をきちんと継承して行くとの姿勢である。私は亀井氏はその尊大ぶりが大嫌いだが、この考えは支持したい。これは売国奴の小泉と竹中の考えを一蹴する考え方である。彼等は日本の資産をアメリカに只で手渡そうとしたのだ。
 このままでは地方のそれこそ僻地の郵便事情は切り捨てになってしまう。だから郵貯とか簡保での利益を郵便の損失に当てて、全国隈無く郵便配達の出来る仕組みを存続させようと言うのである。これに反対する人間など一人も居ない。
 しかし銀行協会はそうではない。国営事業は民営事業を圧迫せず、民営事業の補完をするべきなのだ、と言う。その補完とは、彼等と我等とでは考えが百八十度違う。我々の考えている民営事業が行き届かない部分とは、言わずと知れた、僻地での郵便集配業務などの儲からない事業である。だが、銀行協会の考えている事がそのような事ではないのは明々白々である。同じような事をテレビ局も考えているらしい。
 あるテレビ局は山間僻地に銀行の支店が無い市町村はほんのわずかしか無い、との数字的資料を持ち出して、国営事業が民営事業の補完をする必要は無い、との証拠にした。そんな事、我々の誰だって考えてなどいない。銀行協会の思いは分かっている。彼等は儲けられる所だけをうまく使って、儲けられない所は捨てたいのである。その捨てたい部分を国営でやれと言う。つまり、税金でやれと言う訳だ。だからその儲けられない部分が僻地での郵便の集配業務だとは考えたくないのである。
 だから郵貯の限度額などを巡って争いになっている。郵政の仕事を郵便ではなく、郵貯に目を向けさせて自分達に有利に引っ張ろうとしている。
 自分達だけは甘い汁を吸って儲けて、後は野となれ山となれ、と考えている。そんな見え透いた事が分からないとでも思っているのか。あまりにも国民を愚弄している。

 所詮、金貸しは金貸し。「銀行」と言う名で騙されてはいけない。大銀行の本店など、びっくりするような豪華な建物である。それだけ儲かっている。以前、倒産した日本債権信用銀行(前は日本不動産銀行だった)本店の前で、品格のある老婦人がハンドマイクを片手に、「泥棒銀行、カネ返せー」と繰り返し叫んでいた光景を思い出す。何かよほど腹に据えかねる事をされたのだろうと察しは付く。警備員も苦笑いをするだけで手が出せない。ずいぶんと長い時間彼女はやっていた。私も忙しかったから、一部始終を見ていた訳ではないが、さもありなん、と思った。
 そう言えば、あの銀行はどうなったんだろう。名前を変えて営業をしているはずだが、全く関心が無いから調べてはいない。それにいくら名前を変えても、私にはあの「泥棒銀行、カネ返せー」の叫びが耳にこびりついている。
 大銀行はサラ金まで支配下に収めている。それで正体がばればれになる。カネさえ儲かれば、彼等は何でもするのである。その点では、人の生き血を吸う商売をしているのだと自覚すべきである。信用が無いから、高利の金利を課すのだ、と言うのだろうが、信用の無い人間がカネを借りなければならない事情などまるで無関心なのだ。もちろん、そうでなければ、金貸しなど出来ないが。でも、そんな事言ったって、馬耳東風だろうねえ。と言うと馬に失礼になる。馬の方がもっとずっと素晴らしい。

普天間基地移転問題で勝手な事を言うな

2010年03月25日 | 政治問題
 誰も彼も身勝手過ぎる。鹿児島県知事は鹿児島県への移転は絶対反対だと言う。ほかの都道府県もみんな同じだ。みんな、自分の所は嫌だ、基地は沖縄で良い、と考えている。自分達は何の犠牲も払いたくないが、自分達の安全だけは守って欲しい、と非常に自分勝手な事を考えている。
 冗談言うなよ。自分の所に基地を置くのは嫌なのなら、アメリカに基地を撤廃しろ、と申し入れる覚悟が要る。そんな覚悟は当然ながら持っていない。自分は火中の栗は拾いたくないが、栗だけは食べたい。そんな身勝手が許されるとでも思っているのか。
 自民党だって勝手だ。自分達が基地撤廃など言い出せもしないくせに、民主党のやり方を批判している。どこがどのように違うと言うのか。全く同じ穴のむじなじゃないか。
 いざとなったら、アメリカを敵に回すくらいの覚悟があるのか。そんな覚悟など無いくせに、みんな偉そうな事ばかり言っている。アメリカを敵に回せないのなら、日本が受けている理不尽な事どもを、自らが背負う覚悟が絶対に必要だ。そんな覚悟もまるで無いくせに、口先だけは立派なのだ。あまりにも責任感が無さ過ぎる。

 前にも書いたが、アメリカ人で、アメリカをやめた、と言ってカナダに移住してカナダ国籍を取った人が居ると言う。同じく英語が通じるのだから、国を選べる訳だ。でも日本語は残念ながら、日本国内でしか通用しない。まあ、片言の日本語なら台湾とか韓国でも通用するようだが、そんな事をしてまで、台湾や韓国に移住はしたくない。しょうがないよね。日本人は日本にしか住めないんだ。
 だから自らの手で日本を良くするしか無い。民主党ならやってくれるか、と思ったらまるで駄目。もっとも、トップが交代すれば何とかなるかも知れないが。
 ねえ、本当に何とかしなければ。名古屋市の河村市長さんだって困ってる。オール野党になってしまっているんだから。議員はみんな御身お大切にで、自分の事しか考えようとしていない。
 でも、庶民はちゃんと見ているよ。国会や地方議会のお偉いさんがたよ、あとで後悔してももう遅いよ。

またまたくだらない言葉狩りが始まった

2010年03月24日 | 言葉
 「障害」の表記を変えるのだと言う。「障がい」と表記するのだと言う。理由は「害」が害があるらしい。東京新聞の22日の社説では、「害=損なう」だから駄目なのだと言う。昔は「障碍」の表記だった。「碍」が常用漢字から外されて、「害」で代用する事になった。その「碍」は「妨げる」だから、「害」よりは良いのだと言う。その「害」よりも増しな「碍」を使えなくしたのは一体誰なんだ。それは過去の人で、現在の人は「害」を使わされて困っているから「障がい」と書こうと言うのである。
 でも「碍=妨げる」で「害=損なう」だと言うのだが、この二つ、大きく違うだろうか。「妨げる」の方が「損なう」よりも増しだろうか。どっちだって同じじゃないか。
 それでは「障がい」の「障」の方はどうなんだ。「常用字解」(白川静)によれば、「章」に「遮る・防ぐ」の意味があると言う。偏は元は神が天に上り下りする時に使うはしごの形で、そこから「障」は神聖な所を防ぎ守るの意味だった。それが「へだてる・さえぎる」の意味となり、更には「妨げる・差し支える」の意味にまでなった。
 「障」に「妨げる・差し支える」の意味がある。「害」がどうのこうの、と言う問題ではないではないか。大体、発想が非常に貧困だ。単に自分の知っている「害」の文字にこだわっているだけに過ぎない。自分がこだわっているのだから、こだわっていない人だって居る事に気付くべきなのだ。
 新聞は表記を変えても障害者への偏見が変わるとは思えないとの考えも尊重したいと言うような事を言っているが、見出しは「呼ばれる側の立場から」となっている。つまり、「障害者」と呼ばれる身になって考えようではないか、と言っている。えっ、障害者と呼ばれる事ってそんなに嫌な事なんですか。
 私も実は身体に小さな障害を持っている。それが何だとは言う必要は無いが、他人からは想像も付かない辛い障害である。もっとも、現在の規定では障害とは認められてはいないが、私には十分過ぎるほどの障害なのだ。もしも、それが障害だと認められて、障害者と呼ばれる事になっても、私は少しもそれを恥ずかしいとも嫌だとも思わない。現に障害を持っているのである。障害者と呼ばれなくなっても、その障害が消える訳ではない。
 記事は精神分裂病を統合失調症と言い替え、痴呆症を認知症と言い替えた事を、言葉の正確さだけでなく、呼ばれる側の痛みの反映であった、と評価しているが、本当にそう思えるだろうか。

 馬鹿な事には、英語での同じような事を例に取って、それが正しいと言う。「ハンディキャップド」は「キャップ・イン・ハンド」(手に帽子)で、それは物乞いを連想させるから駄目で、最近は「パーソン・ウイズ・ディスアビリティー」(障害のある人)が一般的だと言う。
 まあね、英語の事だから私にはよく分からないが、「ディスアビリティー」って、一つには「無能」の意味じゃないか。もう一つには「身体障害・欠陥」の意味じゃないか。何を馬鹿な事やってるんだ、としか私には思えない。

 つまり、差別を言い出すと、どこでも同じ陥穽に落ちると言う事か。
 同じ紙面に女子大学生の投書が載っている。自分がバイトで勤めているケーキ屋に毎日のように買いに来てくれるのだが、商品を指で指し示すだけの客が居る。無愛想な客だと思っていたが、実は聴覚障害があるのだった。投書者は言う。こうも気付かないものなのか、と言う自分に対する無念さと、簡単に対応の悪いお客さんと勝手に決めていた恥ずかしさを感じた、と。
 本当のバリアフリーとは、相手をよく見つめ、変化に気付く事なのかも知れない、と彼女は言う。素晴らしい人だと私は思う。物事の本質が分かっている。それに比べて、表記がどうの、とか言葉がどうの、とか言っている人達の程度の低さよ、と私は悲しくなる。ホント、あんたたち、程度が低過ぎるよ。言葉とか表記にこだわっている限り、この世の中から偏見や差別は消えない。言葉にこだわる事自体が、差別を認めている事なんだからね。一度、差別とか偏見を自分の心から消してごらん。それは言うほどには易しくはないが、それが出来たら、言葉とか表記にこだわるなんて馬鹿馬鹿しいだけだと分かるから。


舛添氏のお粗末さ

2010年03月22日 | 政治問題
 少し古いニュースだが、何かと話題に上る自民党の舛添要一氏が鳩山邦夫の離党問題で次のように語っているのをテレビが伝えた。
 「鳩山政権を倒す事が国民のためになる訳ですから……」
 冗談じゃない。それはあんた達のためになるのであって、国民のためになる訳じゃない。なぜなら、国民は民主党を支持したのだ。だから民主党政権が誕生したんじゃないか。政権発足わずか6ヶ月で内閣支持率が4割を割ってしまったが、それは鳩山政権を全面的に支持しないのだ、との意思表示ではないはずだ。単に内閣の人気投票ではないか。そしてその不支持は政権の方針に対してではない。政治とカネに対する不信感なのだ。だから、鳩山政権が国民の支持を全面的に失っているのだと言うのなら,自民党のどのような政権に対しても全く同じ反応が起きるはずである。カネまみれなのは、自民党の方がずっと年季が入っている。

 舛添氏のこの発言で、同氏を始めとして、自民党がいかに皮相的な見方しかしていないかが明確に分かってしまった。彼等が考えている事は絶対に「国民のためになろう」ではない。政権の争奪戦しか考えていない。国民が本当にどう考えているのかをまるで歯牙にかけず、自分達の利益だけを重んじている。国民のためになる良い政治とは何か,ではなく、単に自分が政権与党になりたいだけの事である。だからこそ、「現政権を倒す事が国民のためになる」などと短絡的な事を安易に口走るのである。
 国民のためになる良い政治と、自民党と同じようにかけ離れているのが民主党にすり寄っている公明党。そんなに民主党が好きなら、何で自民党とくっついていたんだ。国民のための政治なら、自民とくっついていた時だって、そう主張したら良かったではないか。

 私の周辺では参院選を楽しみにしている人が少なくない。民主党がどこまで落ちるか、自民党がどこまで駄目なのか、を見届けたいと思っている。みんなの党が森派だってよ、と、そうした人達に話してみたが、森なんかもう力が無いんだから、大丈夫だよ、と言う。そう、民主党だって、小沢の力が無くなれば、もっとずっとすっきりと人気のある党になれると思うものね。でも本当に不思議な人ですねえ、小沢って人は。抜け目が無いのか、抜けているのか、わたしゃ、さっぱり分からない。

題名のない音楽会に失望した

2010年03月21日 | 文化
 今日のテーマは脳科学者の茂木健一郎氏を招いて、頭にカメラを付けて、彼が何を見ているのかを実証した。一つはオーケストラの楽員の中に席を置き、一つは指揮台のすぐ隣。でも彼のカメラが見ていたのは全く何の感動も無い単なる周辺だけだった。普通は主旋律を奏でている楽器の方に注意が向く。オーケストラの中では、キョロキョロしたり後ろを向いたりは出来ないだろうから、それで仕方が無いが,指揮台ではどこを見ようが自由自在。しかしそうではなかった。単に指揮台のそばに突っ立っていて、馬鹿馬鹿しい動きを見せているだけだった。
 脳科学者なのだから、彼の脳の中がどのように反応しているのかを見せるのかと思っていた。まあ、我々がそれを見ても簡単に分かるような事ではないのだが、アルファー波とかベータ波とかがどのように変化するのかは、音楽の進行と同時に見せれば、何らかの面白さはあるはずだ。
 何のために彼が頭にカメラを付けて登場したのかが全く分からない。彼が聞いた音楽の一部のリプレイもあったが、私には何の感動も無い。何がどのように違うのかがさっぱり分からないのだ。
 茂木氏のしし資質に関して疑問を呈している人々が居る。私は彼の著作や言動をしっかりと見ている訳ではないから、何とも言えないが、今日の彼を見ていたら、なるほど、疑うのも無理は無いなあ、とつくづくと思った。単に評価を落とすだけにしかならない。
 今日の番組はとても面白かった、と言う御意見を聞きたいと思う。何がどのように面白いのか。それが分かれば、私の反省点とする事が出来ると思う。

「与党のうまみ」とは何か

2010年03月20日 | 政治問題
「与党のうまみ」とは何か
 1週間前の東京新聞に〈手放せぬ「与党のうまみ」〉の見出しの記事が載った。そこに政治評論家の次のような言葉があった。
  「一度、与党を経験すると、与党でなければ組織が維持できなくなる。いわば禁断の果実を食べてしまった」
 これを記事は「と、与党のうまみを指摘する」と書いている。
 一度与党になると、与党でないと組織が維持出来ないとはどのような事なのか。それが「与党のうまみ」と言うからには、与党とは相当旨い物のようだ。しかも「禁断の果実」なのである。アダムとイブは禁断の果実を食べてしまったがために、楽園を追われた。そこから人類の苦難が始まっている。
 つまり、与党とは苦難知らずの「濡れ手で粟」なのらしい。それは誰もが知っている事のようだが、具体的な姿をあまり知らない。許認可の利権で業者側からは大枚のお金が貰えるんだろうなあ、とは薄々感じているが。
 そして、与党でないと組織が維持出来なくなる、と言うからには、党内のすべての人々が旨みを味わっていると言う事になる。それが与党であればこそなのだ、とつくづくと感じている、と言う訳だ。

 そんな奥歯に物の挟まったような言い方をしないで、もっとはっきりと言ってくれよ、と言いたい。
 この記事と同じ頃、「高速料金上制限 先送り」の大きな見出しが新聞に載った。「JRなどに配慮」とある。高速道路の料金を引き下げる事でJRの乗客が減る事を懸念していると言う意味だ。もちろん、配慮しているのはJRに対してだけではなく、フェリー会社に対してでもある。ただ、フェリーはJRなどとは違って大打撃になっている。それだって、あまり必要もないような海上橋を作った事が要因になっている。確かに車で島と島が繋がるのは便利ではある。だが、その便利さと引き換えに失われる物もある。一概には言えないが、往々にして、その失われる物の方が便利さよりもずっと貴重だったりする。それは過去の多くの事柄が雄弁に語っている。もちろん、橋の工事で潤沢にカネが回って来た人々が存在している。
 そのJRに対する配慮だが、これは国鉄を単なる利益優先の民間会社にしてしまったがために考えざるを得なくなっている事である。こうした配慮に関して、国民の利益とは幸福とは、と言った観点がまるで無いのが特徴である。
 つまり、これまもた与党の旨みなのか。JRやその他の業界に配慮する事によって、大きな利益を与党として得られるのではないのか。
 トラック業界の一部は、現行の割引制度よりも割高になるケースがあるからと反対しているらしいが、それがJRの利益を守る事の応援になってしまうのは筋が違う。消費材の運搬費を安くしながら、高速料金も引き下げる事は出来るはずだ。たとえ、それがJRの利益減少に繋がるとしても,一体どちらが優先されるべきなのか。
 マイカーの通行料金も引き下げになるから、そうなると、マイカーへの配慮とJRへの配慮と、どちらを優先するかは難しい問題だと思うが、それはマイカーは果たしてそれほどにも必要なのか、とか国鉄の民営化はどれほど国民の利益になっているのか、と言うような大きくて難しい問題にも関わって来る。従って、簡単に結論の出るような話ではない。
 弱気で周囲に要らぬ気を配っている鳩山首相や利権の巣窟のように見える小沢幹事長がワンマンぶりを発揮している民主党内閣に出来るような事ではないだろう、と私は思っている。

外国語は正しく翻訳されているのか

2010年03月18日 | 言葉
 朝青龍のモンゴルでの記者会見には誤訳があった、と東京新聞が伝えている。
 伝えられた発言の内容は
 「悪口は言いたくないが、気に入らない要求もたくさんあった」
 これに対して、正しくは次のようだと言う。
 「正直に言うと、しきたりは厳しかった。束縛する部分も多かった。ある程度それを守らなければならない。横綱だからね。一方では、それに束縛されすぎることがいやな場合もあった」
 この発言の内容は矛盾も無いし、おかしな部分も全く無い。その通りだと思う。相撲ファンではない私が見ても、納得が行く。やれ「品格」だの何だのとよく訳の分からない事を言い出す輩が圧倒的に多かった。いまだにそうだ。それじゃあ聞くが、今の政治家に品格のある人が一体どれほど居ると言うのか。

 私はこうした外国語での会見で、日本語が果たしてどれほど正確な翻訳になっているのかと、以前から疑問に思っていた。それに日本語としての曖昧さも重なって、本当に大きな疑問になっていた。原語が聞こえていたりする場合、その原語を理解出来る人なら、その原語と日本語訳とのずれなどすぐに分かるだろうが、日本語に吹き替えていたりする場合も少なくない。これなど、私は大いに疑っている。
 朝青龍の発言に問題を提起しているのは、モンゴル出身で東京外国語大学非常勤講師をしている46歳の男性。マスコミの報道とどちらを取るかと言われれば、私は間違い無くこの人の発言を取る。

 話はがらっと変わるが、きのう、映画「追想」を見た。ずいぶん昔の映画だが、殺されたと言われている皇女アナスタシアが生存していると言う話で、莫大な遺産がからんでいる。彼女を認めさせようと目論んだ三人が、当時の宮廷関係の人々を呼び集める。その中で、一人の式武官が彼女をあからさまに侮蔑する口調で否定した。会見の段取りをした三人の一人が煙草に火を付けようとした時、彼女の怒りが爆発した。「無礼な。許しも無く私の前で」
 それは皇族だからこそ発せられる言葉だった。皇族の前で許可無く煙草は吸えない。そんな慣習を誰もが知らない。式武官は当然に驚く。その発言が「Who are you?」である。しかし字幕は「アナスタシアか?」だった。
 これはおおいに違うと思う。彼は「一体、あんたは誰なんだ」と思わず口走ったのだ。半信半疑なのだ。だが、それは多分に信用せざるを得ない情況に驚愕しての事だ。しかし「アナスタシアか?」にはそんな気持は微塵も感じられない。もしも「アナスタシアか?」が正しいのなら、この有名な脚本家がそのようなセリフを書いているに決まっている。
 言葉の数としてはどちらもほぼ同じ。だからこの字幕の訳者を私は信用しない。感性がまるでなっていない。この訳者は脚本家を舐めていると同時に、我々映画ファンをも舐めている。この調子ですべてを訳しているのかと思うと、私は映画とは違う物語を見させられているのかと心配になってしまう。こんな事は多分、日常茶飯事なのだろうと思う。翻訳者もいい加減だが、こんな字幕で放送する局も問題だ。
 大体、日本語その物が怪しい日本人が多過ぎる。

この頃、新聞を読む気力が無くなった

2010年03月17日 | 社会問題
 記事になっているのはバカらしい事ばかり。テレビで見ているせいもあるが、内閣支持率急落、などと言っても、それみろ、言った事じゃない、で終わりになってしまう。そんな事、言われる前から分かっている。あれで支持率が下がらなかったら、それこそおかしい。世は末だ。代わって自民党が支持率を伸ばすかと言うと、そうはならない。それだって分かっていた。我々はシーソーゲームをしているんじゃない。
 これまた前から分かっている事だが、政治家もマスコミも我々を馬鹿にし切っている。単にカネ儲けの手段にしか思っていない。心から感心するのは、カネの磁力を敏感に感じ取って、その磁力の方に向かって身を処する本能を持っている事だ。本当に感心するし,羨ましい気もする。
 そうした読む気の起きない新聞だが、スカイマーク社のだらけぶりなんかは読む気が起きる。これまた今に始まった事ではない。整備期間をとっくに過ぎている機体を6ヶ月も運航させていたのはつい最近の事だ。なんのかんのと言い訳をしていたが、単に言い訳に過ぎない。しかもエア・ドウの営業を妨害しようとしたり、まあ、本当にでたらめな航空会社である。そして何の反省もしていない。だから、今回のたるみ切った社員の話にしても、日常的な姿が運悪く明るみに出た,と言うだけの事だ。

 鳩山邦夫がみんなの党に接近、なんてニュースなら読む気になるんだけどねえ。まあ、中身は問題だけど、自民でも民主でもない政党が元気になるのなら大歓迎。公明党や共産党は頭打ちだから、伸びようが無い。支持政党無しの人間が魅力を感じるような部分が無いのだから仕方が無い。みんなの党はまだ新鮮なんだから、これから、どうしたら本当に国民のためになる政党になれるかを考えたらいい。私の持論は、党是なんかは要らない、一人一人が真剣に日本と日本人のためを思っていればそれで十分だと考えている。何が日本のためになるのか、はとても難しいから、考えが様々あるのは当然。一本にまとまる方が本当は不思議なのではないか。
 考え方が一本しか無いから、時には駄目な方向にまとまってしまったりもする。三百人もの知恵が集まって、この程度か、と本当に呆れてしまう事が多い。議員さんも大変だねえ。せっかく立派な力を持ちながら,全く生かされていないのじゃないか。まあ、そうは言っても政党の力で当選したとの思いもあれば、それもまた仕方が無いか。うん、やっぱり政党は要らない、と私は思う。