夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

TPPと日本の農業の関係

2010年11月12日 | 経済問題
 「環太平洋パートナーシップ」とか何とか。要するに太平洋を囲む諸国が貿易の自由化を図ろうと言う構想だ。それに日本が積極的に取り組もうとしたら、農家の団体から猛反対が起きた。関税自由化で日本の農業は潰れると。
 でもそれは今に始まった事じゃない。日本の農産業はとっくに潰れている。その証拠が自給率わずか4割との事実である。何でそんなに駄目になったのか。これについて、最近、恐ろしい本を読んだ。日本の農業を駄目にしたのはJAだ、と言う本である。JA、つまり世界的に超有名な「農協」である。「ノーキョー」がそれほど有名なのは、それだけの力があるからだ。たかが「農業協同組合」にどうしてそんな力があるのか。もうそれだけで、ある程度の答は出てしまう。以下はその本の受け売りである。
 個々の農家は跡継ぎが都会に出てしまって、じいさん、ばあさんだけになってしまった。あるいは兼業農家になってしまった。そこには進歩は無い。落ちて来た体力でほそぼそと、あるいは片手間にやっている、と言うような農業である。だから、そうした農地を買い取って大規模農地を作り、機械化によって効率の良い農業を、と思う。そうすれば、価格も安く出来る。だが、それが阻まれるのである。阻むのは誰か。それがJA、農協である、と言うのである。「JA」なんて言うと、さもかっこいい存在のように思えてしまうから、もちろん、それが目的で名前を変えたのだが、私は以下、「農協」と呼ぶ。

 なぜ農協が零細な農家の存続に固執するかと言うと、零細な農家には国から補助金が出る。それを農協が一手に集めて自分の資金にするのである。だから零細な農家の存続は農協の死活問題なのだ。農家がどのように生きられるかではなく、自分達農協がいかに生き延びられるかだけしか考えていない。
 農産物がいくら高くても関係が無い。安い外国産に高い関税を掛ければ良いのである。
 だから農産物の関税撤廃などと言う問題に猛反対をして、農家をあおり立てて反対運動をさせているのだろう。もちろん、農業に命を掛けている農家が存在するのは知っている。だからこそ、そうした農家を育てる事を目的にするべきなのである。そのためには何が必要かを考えなければならない。そこには当然に、零細農家の農地の集約も入るだろう。それを根本から断ち切ろうとしているのが、どうも農協らしいのである。

 細かい事は分からない。様々な事情が絡んでも来る。しかし分かっているのは、そうした農家をまとめているのが農協であり、今や「JAバンク」などと称して金儲けに邁進している。だから「JAバンク」のCMを見るとへどが出そうになる。以前、そのCMで、内容がよく分からないのだが、その行員がある家庭を訪問して質問しているのがあった。御主人が「いや、妻は」などと行員に反論するシーンがある。すると行員はそれを遮って、いいえ、私は奥様のお話が聞きたいのです、と、したり顔に言う。その妻は「私は主人が良ければ…」のような事を言う。和久井映見の妻が、遠慮がちに、でも御主人を信頼しているような印象を私は受けていた。どうも主旨がよく分からないのだが、私には御主人をけちょんけちょんにして得意そうな顔をしている行員がただただ憎たらしく、バカらしく思えただけだった。
 現在のCMを見ても、何を訴えたいのかよく分からない。まあ、便利で得する銀行なんですよ、と言っているらしいが、それだけだから、サザエさんの両親や松下奈緒さんを引っ張り出さなくてはならないのだろう。

 繰り返す。細かい事は分からない。そして細かい事は我々にはあまり必要ではない。肝心な、今日本の農業がどのような情況にあるのかを知る事が重要なのだと思う。自給率の極端に低い日本の農業が、関税撤廃で打撃を受けるのは確かだろう。でも、だからノー、ではなく、だから日本の農業を育てる方法を考えなくては駄目なのである。そうではないか。国内では消費仕切れないほどの収穫を挙げている国は決して珍しい存在ではないのである。その代表がフランスだ。そこには何らかの共通の努力や技術があるはずだ。最も重要なのは土と気候と水と肥料など、自然に近い物くらいしか考えられない。
 日本の土壌が、作物の収穫が難しいほどに悪いとの話は聞いた事が無い。気候は温暖で、台風などを除けば優しい気候と言える。水にも恵まれている。肥料だって劣るはずも無い。だから決して難しい事ではないはずだ。まあ、フランスなどに比べると山が多くて平地が少ない事はある。しかし、平地で、見放されて荒れ果てた畑地などあちこちで見掛けるではないか。となると、何かが日本の農業の発展を阻んでいるとしか考えられないのである。そしてその答は、前述のように既に出ている。
 そうでしょう。農家と共に歩んで来た農協が、農家が苦境に立っていて、自分だけ一人勝ち出来る訳が無いのである。

中国がレアメタルの日本への輸出禁止を解くらしい

2010年09月30日 | 経済問題
 レアメタルの生産は中国が世界の96%を占めていると聞いていた。だがそれは産出の96%が中国に限られているのではなかった。埋蔵量の3分の2は他の国々が持っているのだと言う。生産による環境破壊とコストの高さから、他の国々が生産を見合わせているに過ぎないのだと言う。
 結局はカネの問題がどこでも優先されている訳だ。独占がどんなに怖い事かは世界中が知っているはずなのに、カネで迷わされている。日本もやっと他国での生産を考慮し始めているらしい。日本の花形産業の生命であるレアメタルの輸出を禁止すれば日本が困ると中国は踏んだ。でも御陰さまで、世界が目覚めた。中国の横暴さに席巻されるのは御免だと。

 日本も他国並みなのだが、特に日本は食糧の自給率が4割を切っているから、余計に心得ていなければならないのだ。何かの都合で他国が日本への食糧の輸出を禁止したらどうなるか。ただ、この4割を切るとの数字にはごまかしがあると言う。例えば肥料などが他国の製品であれば、それで作った食糧は国産とは言えなくなると聞いた。なぜそんな事をするのか。日本の食糧危機に対する認識を高めるためなら納得が行くが、どうも目的は別にあるらしい。
 この私の話は何から何まで「らしい」に尽きているが、どんな話だって「らしい」から始まるしか無いのではないか。その「らいし」がどこまで本当になるかを見極める力が要る。多くの国がその力を持っている。その力が徹底的に不足しているのが我が日本ではないのか。特に我が国はすぐにカネに目がくらむ。政治家はもとより、企業家もカネにすぐ転んでしまう。
 私ふぜいでさえ、安くても中国製品は買わないと心に決めているのに、日本を導く人間が安ければ何でも良いと飛び付いている。これを機会に、中国を生産の拠点とする事を考え直してはどうなのか。一時的に中国が強行方針を緩めつつあるように見えるが、そんなやわな国ではない事は十分に知っているはずだ。なんせ「中華」の国なのだ。自分だけが世界で一番優れているとの自負から出ている言葉である。「中華の中枢」ともなると、まさに鬼に金棒である。その「中華の中枢」は全体主義国家の長でもあるのだ。これからも何をしでかすか分かったもんじゃない。
 たとえ一時的につらい環境になったとしても、その後にはもっとずっと暮らし良い世界が待っているとしたら、その方が遥かに素晴らしいに決まっている。

銀行協会の勝手な言い分を許してはならない

2010年03月26日 | 経済問題
 亀井大臣が郵政民営化を元に戻す考えを発表した。それは郵便事業をきちんと継承して行くとの姿勢である。私は亀井氏はその尊大ぶりが大嫌いだが、この考えは支持したい。これは売国奴の小泉と竹中の考えを一蹴する考え方である。彼等は日本の資産をアメリカに只で手渡そうとしたのだ。
 このままでは地方のそれこそ僻地の郵便事情は切り捨てになってしまう。だから郵貯とか簡保での利益を郵便の損失に当てて、全国隈無く郵便配達の出来る仕組みを存続させようと言うのである。これに反対する人間など一人も居ない。
 しかし銀行協会はそうではない。国営事業は民営事業を圧迫せず、民営事業の補完をするべきなのだ、と言う。その補完とは、彼等と我等とでは考えが百八十度違う。我々の考えている民営事業が行き届かない部分とは、言わずと知れた、僻地での郵便集配業務などの儲からない事業である。だが、銀行協会の考えている事がそのような事ではないのは明々白々である。同じような事をテレビ局も考えているらしい。
 あるテレビ局は山間僻地に銀行の支店が無い市町村はほんのわずかしか無い、との数字的資料を持ち出して、国営事業が民営事業の補完をする必要は無い、との証拠にした。そんな事、我々の誰だって考えてなどいない。銀行協会の思いは分かっている。彼等は儲けられる所だけをうまく使って、儲けられない所は捨てたいのである。その捨てたい部分を国営でやれと言う。つまり、税金でやれと言う訳だ。だからその儲けられない部分が僻地での郵便の集配業務だとは考えたくないのである。
 だから郵貯の限度額などを巡って争いになっている。郵政の仕事を郵便ではなく、郵貯に目を向けさせて自分達に有利に引っ張ろうとしている。
 自分達だけは甘い汁を吸って儲けて、後は野となれ山となれ、と考えている。そんな見え透いた事が分からないとでも思っているのか。あまりにも国民を愚弄している。

 所詮、金貸しは金貸し。「銀行」と言う名で騙されてはいけない。大銀行の本店など、びっくりするような豪華な建物である。それだけ儲かっている。以前、倒産した日本債権信用銀行(前は日本不動産銀行だった)本店の前で、品格のある老婦人がハンドマイクを片手に、「泥棒銀行、カネ返せー」と繰り返し叫んでいた光景を思い出す。何かよほど腹に据えかねる事をされたのだろうと察しは付く。警備員も苦笑いをするだけで手が出せない。ずいぶんと長い時間彼女はやっていた。私も忙しかったから、一部始終を見ていた訳ではないが、さもありなん、と思った。
 そう言えば、あの銀行はどうなったんだろう。名前を変えて営業をしているはずだが、全く関心が無いから調べてはいない。それにいくら名前を変えても、私にはあの「泥棒銀行、カネ返せー」の叫びが耳にこびりついている。
 大銀行はサラ金まで支配下に収めている。それで正体がばればれになる。カネさえ儲かれば、彼等は何でもするのである。その点では、人の生き血を吸う商売をしているのだと自覚すべきである。信用が無いから、高利の金利を課すのだ、と言うのだろうが、信用の無い人間がカネを借りなければならない事情などまるで無関心なのだ。もちろん、そうでなければ、金貸しなど出来ないが。でも、そんな事言ったって、馬耳東風だろうねえ。と言うと馬に失礼になる。馬の方がもっとずっと素晴らしい。

少しでも安く、は正しいのか

2010年02月17日 | 経済問題
 生産コストを少しでも切り下げようと、海外での生産が盛んに行われている。その代表がユニクロなどの衣料品メーカーだ。聞く所によると、中国ではもう限界で、次はタイトかベトナムとかだそうだ。ユニクロの製品は確かに安い。しかし安さにも限度がある。物には見合ったコストがあるはずだ。例えば、農産物は育てた人の労働と言うコストがかかっている。更には肥料とか、光熱費とかもある。一番大きいのが労働の対価であるのは言うまでも無い。人一人が生きて行くためだから、そのコストは値切れない。
 では、中国産の野菜などは何であんなに安価なのか。そう、中国人の労働力が安く買われているからだ。でも、日本人だって中国人だって生きて行くのに必要な物は同じはずだ。いや、中国は全体のコストが安いから、生産農家のコストだって低く出来るのだ。
 でも何で? 何で全体のコストが安い国と高い国があるのか。安い国はそれなりに国内では安定しているのだろうし、高い国もそれなりに安定しているのだろう。限られた物を巡ってカネのやりとりがされている訳だから、その経済圏内でそれがうまく回っている限りにおいては、それで良い。

 つまり、コストが高い国は無駄な事をしている事になる。だってそうでしょう。買う物が高いから、自分の労働力も高く売る必要がある。そこに外国から安い物が入って来る。そうすると、その分だけカネが浮く。そのカネはどうなるか。浮いた分でまた別の物を買う。本来なら買う必要の無かった物でも買う。それは本当は無駄な 物である。カネが浮かなければ買わなかっただろうし、買わずに済んでいたはずなのだ。
 結局は、安いコストで循環をしている国を上手く利用しているに過ぎない。それは一種の搾取ではないのか。そして国外で安く作った物をそのままの安い値段で国内で売るのならまだ良いが、かなり上乗せをして売るとなると、まさに搾取以外の何物でもなくなる。
 同じように生きて働いているのに、ごく少数の人だけが金儲けを出来る訳が無い。土地が、いや資金が働いているのだ、とは言えない。何もせずに土地がカネを稼ぎ出す訳が無いし、同じく何もせずにカネがカネを稼ぎ出すはずも無い。だから、土地やカネを上手に運用しているんですよ、と言うのかも知れないが、それはやはり搾取が形を変えているに過ぎないのではないのか。

 少しでも物を安く作って、それだけ売上が増えれば、利潤も増える。そのために生産の拠点を国外に移す。しかしその結果、国内の労働力が余ってしまう。働き口を失った働き手が物を買える道理が無い。そこでせっかく作った安い物も売れなくなる。当面はそれははっきりとは目には見えないかも知れないが、その内に絶対に見えるようになる。
 一つの経済圏は価値観が同じだから成り立っているはずだ。そこにまるで別の価値観の経済圏から物が入って来れば、どうしたってバランスが崩れてしまう。極端に安い物なら、売る側の儲けになる。そんなに安くしなくても多く売れるから、儲けになる。高い物なら、買う側の損になる。ただそれだけの話だ。
 別に鎖国をせよなどと言うのではない。国際交流大いに結構。しかしそれは余っている物、足りない物の物々交換が本来の形だろう。少しでも良い物をと付加価値を加える努力は買う。だが、その付加価値はそれを作り出した人の労働の賜物なのだから、その人に帰するのは当然。何の努力も労働も無しに付加価値が高まるとしたら、そこには何らかのペテンがあるに違いない。付加価値に必要以上の価格を付ける事が出来るのも、そうしたペテンあっての事に違いない。我々はそのペテンの仕組みを見抜く必要がある。

野菜工場は素晴らしい

2010年01月11日 | 経済問題
 野菜を工場で作る。水耕栽培である。工場生産の良い所は、管理が行き届く事と、大量生産が可能な事にあると思う。地面ではないから、何階建てにも出来る。工場の建物にしても、構造だけしっかりしていれば、結構安価に出来るのではないか。
 天候にも気候にも左右されないから、砂漠地帯だって生産が可能になる。その技術に関しては日本は第一人者なのだと言う。工業立国の日本としてはこれを生かさない手は無い。国内でだって、もっともっと力を入れてしかるべきだと思う。
 大地の恵みとは言うが,土が必要なのは植物を支えるためであり、水分や養分を蓄える事が出来る所にある。だから、支えを別に作り、水分や養分を蓄える装置を別に考えれば良い訳だ。それが水耕栽培になる。
 松茸など人工栽培が出来ない物は別として、きのこ類など、今では人工栽培が主のはずだ。もやしにしても、白いアスパラにしても、本来が人工栽培だ。
 人工だからと言って怖い事は無い。農薬などの弊害はどちらにしても同じだ。中国やベトナム、タイなどで安い野菜を作らせるよりも、国産にすれば、ずっと安全だ。

 東京でも銀座で養蜂をして蜂蜜を作っている。自然農法とは変な薬を使わない事にあると思う。だから工場生産だって立派に自然農法は出来る。もちろん、様々な工夫が必要だろうが、技術大国の日本に出来ない訳が無い。
 スパコンなどよりも、私はこちらの方に力を注ぐの方がずっと正道だろうと思う。

円高を喜ぶのはおかしい

2009年12月01日 | 経済問題
 円高とは輸入には有利だが、輸出には不利との事だ。日本は輸入大国だが、輸出大国にしなければ立ち行かない事は誰もが知っているはずだ。それなのに円高を喜んでいる人々がいる。海外旅行をする連中とか海外の物を買いたがる連中はそれで良いかも知れない。また、海外で安い労働力で製品を作っている企業もそれで良いかも知れない。しかし得したと思っていても、後で大きな損失になって跳ね返って来る公算は大である。そんな一過性の魅力に囚われていて良いのか。どんなにその時、自分が得をしたと思っても、それよりももっとずっと大きな損失になる可能性もある事をなんで考えないのだろうか。
 海外生産の企業だって、海外に労働の拠点を移しているから、国内の労働者にはカネが入らない。だからいくら安い物を作ってくれても、買うに買えない。それでは自分の首を絞める事にはならないのか。

 日本人はどうしても目先の事に囚われてしまう傾向がある。なんせ、千何百年も健在である法隆寺などの建築物よりも、四、五十年しか持たない建築物を有り難がる人種である。常に目先の事しか考えていない。
 国歌・君が代の歌詞は「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」である。さざれ石とは細かな石の事。その小さな石が巌となるのは何万年掛かるか分からないくらい悠久の年月が掛かる。
 そうした悠久の年月を我々日本人は考える事が出来ていたのだ。それが何で今は出来ないのだろうか。ひとえに、現世利益の思想だろう。そうした宗教団体もある。今が良ければそれで良し。そうそう、昔ある女性歌手が歌っていたっけ。いいじゃないの、今が良けりゃ、と。
 それではいけないのだ。自分達の今の幸福と引き換えに、子供やその孫達に過大な借金を背負わせてはならないのだ。円高と借金とは関係が無いと言うなかれ。考え方が同じなのである。

巨額の横領がなぜ分からなかったのだろう

2009年11月20日 | 経済問題
 出版の幻冬社で一年間に約1億円ものカネを横領していた社員が居た。何年もの間、よく見付からなかったと感心する。売掛金にしていたから分からなかったのだと言う。確かに売掛金は利益に計上されるのだろうから、気が付かなくても不思議ではない。しかしその分だけ現金が入って来ないのだから、支払いに当然に困るはずだ。困らないと言うのは支払いもまた買掛金になっていたのだろうか。それにしても年間1億円の巨額である。何で分からなかったのか。
 1億円だけ横領して、それをずっと何年も隠し通していたと言うのなら分かる。しかし今回の場合は金額は年々増えて行くのである。利益が非常に大きくて、売掛金になっていても少しも困らなかったのだろうか。ベストセラーを出すのが上手い出版社だから、あるいはそうした事もあり得るか。そうか、ベストセラーとはそんなにもおいしい商売なのか。
 ベストセラーがおいしい商売だとは分かるが、年間1億円もの金額があっても無くても平気なくらいおいしいとは思わなかった。ただ、これは同社の事ではないが、ベストセラーばかりを狙った商売は危険だと思う。ベストセラーが生み出せている時は良いが、一旦つまづくとどんどん破滅に向かって行くだろう。なぜなら、地道に売れる本を出していないのだ。バブル経済と全く同じだろう。
 出版とは本来はとても地味な商売だと思う。採算そこそこの本で地道にやって行く出版社が多くあるからこそ、出版文化は守られる。そうでしょう。中身が薄くて俗受けする本ばかりなら、そのうち飽きて、誰もが読まなくなる。
 自分で自分の首を絞めないためにも、普段から地味な努力を続けている必要がある。
 でも本当にどうして巨額の横領が分からなかったんでしょうね。どなたか教えて下さい。

値下げは消費者を騙しているか

2009年05月15日 | 経済問題
 14日の東京新聞に素晴らしい事が書かれている。第一面の「独白 企業腐食編」と題する記事である。その大見出しは「値下げ合戦なんて消費者をだましてる」である。大手スーパーの値下げは、売れずに在庫になっている衣料品を安くしているケースが目に付く、と言う。単なる在庫一掃セールだと言う。
 言われてみればそうである。この記事を書いているのは総合スーパーの衣料品担当の店員である。経験を伴った意見だから、納得が行く。
 彼は次のように言う。
 「でもね、適正な価格で適正な商品を売るのが一番いいはずなんです。みんなが値下げして、ユニクロ化したら似たようなシャツばかりになる。それでいいんですか」

 適正な価格と言うのが非常に難しい。この事については私も前に発言している。価格は安いばかりが能ではないと。安さばかりを求めるから、農薬たっぷりだったりする商品を作らせ、売らせる商売を成り立たせてしまうのである。
 物にはそれ相応の価格が存在するはずである。それをもっともっと安く、などと考えるから、あってはならない事を許してしまう事にもなる。
 では何が適正価格なのか。
 これはとても難しい問題だと思う。作っている人間にしかそれは分からない。例えば農作物。畑の土地代は既に在る物としても、土を改良したりするための資材や肥料が要る。種子や苗の代金。病虫害を防ぐための薬品(これには自然の植物や昆虫なども含む)も要る。そして労働力の代金。
 こうした物から適正な価格が生まれるはずである。買う側にしても、自分の労働力が適正に評価されて初めて生活が成り立っている。物を作る側の労働力を適正に評価しなければ、自分の立場まで揺るがす事になる。

 それを非常に手前勝手に、自分の労働力は適正に評価せよ、買う物は出来るだけ安く買いたい、と言うのである。これが通らないのは明らかである。そうした消費者の要求に応えるには、それこそ、騙しの値下げだってしなければならなくなる。
 自分の事を認めてもらいたいなら、相手をもまた認める必要がある。それなのに、相手は認めず、自分だけ認めて欲しいなどと虫の良い事を考えている。そうした事はすべて欲から生まれていると思う。
 今日15日の同じ欄では、「ハゲタカがいるからこそ、新陳代謝が進む」の見出しで、競争を賞賛している。外資やファンドの競争主義を、日本ではハゲタカと称して毛嫌いしているが、死肉をついばむから、新陳代謝が進むのだ、と説明する。その外資を嫌って、外資が中国やインドに向かうなら、日本の将来が見限られている事の証だと言う。資本主義は欲望をエンジンにして動き、競争で良くなって行くのだ、と結論づけている。

 うーん、例えは正しい。ハゲタカが死肉をついばむのが新陳代謝を進めるのは確かである。だが、日本人がハゲタカと言って嫌うのは、そうした自然の摂理に対してではない。生きている動物を狙って食べるよりもずっと平和的である。そうではなく、我々の考えているハゲタカのイメージは、「死肉」であり、その獰猛さなのだと思う。それが嫌なのだ。決して新陳代謝を促進する事を嫌っているのではない。この論理は肝心の所でわざと的を外しているように思う。それが「資本主義は欲望をエンジンにして競争で良くなる」との結論に結び付いている。いや、この結論に結び付けたいがためにハゲタカの例を出しているのだろう。
 私は全く反対の事を考えている。資本主義は欲望をエンジンにして競争したからこそ、堕落したのだと。その欲望とは、先にも述べたように、自分だけは得したい、他人はどうでも良い、との考え方である。
 余談だが、この欄の今日の担当は国際系弁護士と称する人である。顧客は外資系の企業やファンドである。だから彼等の肩を持つのだろう。そして黒子である自分達の存在価値は名声と報酬だと言う。それを値切られたらモチベーションが下がると言う。なるほど、国際系と称するだけあって、モチベーションで動いている訳だ。決して「意欲」や「誘因」「刺激」などでは動かない訳だ。多分、常に英語で考え、行動しているのだろう。だから日本の事は分からないんだよね。