夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

原発破壊の映像は毎日流し続けるべきだ

2012年05月30日 | 社会問題
 当ブログを訪れて、ああ、また更新されていない、と思って下さる方がいらっしゃる事は承知しているが、なかなかブログが書けない。書きたいと思う事があっても手が一杯で、逆に手が空いているのに書きたい事が無い、などと言う事が続いている。そう考えると毎日コラムを書き続ける人の苦労が分かると言うものだが、あちらは仕事である。私のは仕事の合間の作業である。

 日曜日に福島の原発の破壊された建屋の映像が公開された。一部に補強はされているらしいが、あの無惨な姿のままで、言葉も無い。こうした映像は常に長し続ける必要がある。
 原発の破壊は地震や津波のせいではない。あくまでも爆発で起きている。それは地震や津波とは段違いに確率が高いはずである。
 この映像を見ながら、原発の運転再開を主張する事は、正常な感覚の人間なら出来ないはずである。原発の運転再開を主張する人々は、電力会社の関係者か経済界、産業界の重鎮である。電力料金は庶民の家庭の電力料金から利益が生まれているのだと言う。それで産業界は助かっているはずである。
 料金の負担が重い庶民の事を考えずに、自分達企業の事しか考えない。そんな連中のために、我々庶民が犠牲になる必要は無い。テレビもエネルギー不足を心配する側に立つから、原発破壊の映像を流し続ける訳が無いが、そんな事をしているから、テレビは駄目になるのである。テレビに未来は無い、と断言している週刊誌もある。

 先をきちんと見据えて、将来の事を考えるのが賢い人間のやり方である。今の野田政権のやり方や産業界のやり方は、食べられる時に腹一杯食べて置く必要のあるライオンなどの野獣のやり方と同じである。
 そうか、政府も産業界も我が家の犬と同等なのか。いいや、けなげさやかわらしさなどは我が家の犬の足元にも及ばない。愛犬だから言うのではない。政府も産業界も、私にとっては、愛犬同様に大切な存在なのである。

スカイツリーの技術と原発の技術は関係が無い

2012年05月24日 | 言葉
 ある新聞のコラムが、スカイツリーに関しての日本の技術の高さについて書いていた(5月21日朝刊)。

 複雑な構造の鉄骨は一本一本職人たちが手作業溶接でつないだ。その結果、塔は高さに対して0・003%のゆがみしかない正確さでできあがった。モノ作りの伝統技である。耐震のための中心の柱には、法隆寺などの五重塔の心柱の技術が使われたそうだ。

 なるほど、そうだったか、と納得しながら読める。
 ところが、すぐ続いて、次のように書いている。

 原発をめぐって、福島の事故以来新たな原発の建設が長く中断すると、蓄積された技術が断絶する恐れがあるという。伝統の技術を継承することは日本の生命線である。天空の塔を見上げながらそんなことも考えたい.

 呆れて物が言えない。原発の中断で原発の技術は断絶する恐れがあるだろう。しかしそれは「日本の伝統の技術」などではない。執筆者本人が、五重塔の心柱の技術に言及しているではないか。五重塔の心柱などの技術と原発の技術はまるで違うはずだ。
 それに原発が優れた日本の技術の総決算であるなら、あんなにも無惨に破壊されはしなかっただろうとも思える。
 スカイツリー建設の技術と原発の技術を同一視するのは、明らかに「魂胆」がある。そうでなければ、非常に頭の悪い執筆者だと言う事になる。
 そう、だから、「天空の塔を見上げ」て頭を冷やすと良いだろう。

またまた産經新聞のコラムに驚いた

2012年05月21日 | 外交問題
 5月16日の「産経抄」である。経済白書が「もはや戦後ではない」という有名な言葉をはいたのは昭和31年のことである、との書き出しで始まる。色々な戦後の事件を挙げ、沖縄返還へと話は進む。私が驚いたのは次のような文章である。

 沖縄返還をめぐっては、佐藤栄作首相が「祖国復帰が実現しない限り戦後は終わらない」と述べ、多くの共感を呼んだ。しかし復帰は同時に、平和に対する幻想を国民に抱かせた。戦後の冷戦構造が去り、米軍がいなくとも日本の平和は守れるという勘違いだった。このため沖縄の米軍基地について常に「本土の犠牲」とか「負担」という声が聞かれ、邪魔物扱いにもされてきた。だが復帰から40年たった今、日本の守りはむしろ厳しさを増す一方だ。

 「米軍がいなくとも日本の平和は守れるという勘違い」と言うが、本当に勘違いだと考えて良いのだろうか。この「勘違い」は日本が戦争を永久に放棄した事に始まると私は思う。もちろん、戦争を仕掛ける事は永久に放棄で当然だ。しかし日本を自分の手で守る事を放棄したのは間違いだ。冷戦構造が無くなって米軍がいなくとも日本の平和は守れる、のではなく、米軍がいなくとも日本の平和を守らなければならない、と考えるべき所を勘違いしたのである。
 上のコラムで、沖縄の米軍基地が「本土の犠牲」とか「負担」だとの声が間違った声だと言っている。つまり、沖縄人の辛さを微塵も感じていないらしい。沖縄が本土の犠牲だ、と言っているのは、当然に、沖縄以外の都道府県が基地を自分の所で負担しようなどとはまるで考えていない事を指摘しているのだ。
 コラムは次のようにも言う。

 中国の温首相の言葉は、「尖閣をよこせ」という恫喝にも聞こえる。そうした危機感抜きで米軍の駐留を論じるのはあまりにも無責任というものだ。

 「尖閣をよこせ」の恫喝が危機感になるのは、米軍の駐留に頼り切って来たからではないのか。アメリカを頼りにして、日本は自分の言いたい事を言わずに来た。そうした姿勢が「尖閣をよこせ」の危機感を招いているのではないか。諸外国から嘗められ切っているのは日本の自主性の無い外交である事を棚に上げ、米軍の駐留のお陰だと言い切る、その考え方に驚くのである。

入れ墨の是非を問う

2012年05月19日 | 社会問題
 大阪市長の橋下氏が、職員に入れ墨の有無の調査をした。これについて、テレビは街の人々の意見を聞いている。テレビで見る限り、賛成と反対は半々のように見える。ファッションとして許されると言うが、私はそうは思わない。
 社会に何のしがらみも持たない、それこそ自由人なら、何をしても構わない。しかし、テレビが調査した所では、様々な企業が個人的な事に制限を加えている。例えば指輪は結婚指輪しか許されないとか、ピアスは駄目、ひげも駄目、などである。それは当然だ。企業に勤め、そこから報酬をもらっている以上、労働と賃金は引き換えだ、何をしても自由だ、は通らない。企業の仕事があるからこそ、そこでの労働が出来る。もちろん、企業は労働者あっての企業ではある。でも、だからと言って、両者は対等だ、とは言えない。
 対等であるなら、労働者は自分で起業して、そこで労働をカネに変えれば良い。しかしそれは難しい。

 企業に属する労働者が企業の決まりを守らなければならない、と考えているのは自分の立場が分かっているからだ。だから、入れ墨は個人の自由だ、などと言う人は、多分、厳しい仕事をしていないのではないか。
 民間の企業でさえ、企業の信頼を守るために、労働者に様々な制約を課している。公務員に制約があるのは当たり前である。税金で労働の報酬を支払っているのである。税金を納めている庶民が、入れ墨は構わないと言っていると言う事にはならない。そんな調査をいちいちしている訳が無い。
 だから、公序良俗に従った判断がされて当然である。公序良俗では、入れ墨が自由で、ファッションに過ぎない、などと考えているはずが無い。古代の倭人は顔などに入れ墨をしていたが、それは海中でサメなどに襲われないように、身を守るためだった。江戸時代には入れ墨は犯罪者の烙印だった。

 我々の多くは、入れ墨はやくざのする事だとの認識がある。いくらタトゥーなどと英語にしても、入れ墨その物の本質は変わらない。昔は親からもらった大切な体を傷付ける事として許されなかった。自分達の居る所が日本である以上、個人の勝手な考え方が通用する訳が無い。
 こうした事が勝手気ままに考えられて、それが当然のように言う人々が居る。例えば国歌斉唱と国旗掲揚に対して、無視しても構わないとの考えである。いくら法律で「君が代」を国歌と定める、日の丸を国旗と定める、とあっても、守らなくても罰則は無い。
 しかし公共の機関の仕事に就いている以上は、国の規則には従う義務があるはずだ。嫌なら公共の仕事から身を退くしか無いだろう。公共の仕事と言うのはそうした事のはずである。

無免許で居眠り運転で人を殺傷した少年の罪が軽い

2012年05月18日 | 社会問題
 我々庶民はみんな怒っている。地裁の判決に。専門家がテレビに出て来て、法律上はしょうがないのだ、と説明しているが、馬鹿を言うんじゃない。法律は裁判所や検察のためにあるのではない。庶民の命を守るためにある。
 古代から、法律は政治のために作られて来た。その悪しき伝統が今なお守り続けられている。専門家は法改正をするしか無い、と言うが、では彼等はそうした法改正に積極的に動いているかと言うと、そうとも思えない。口先だけで上手い事を言うんじゃない、と私は思う。

 確かに、法として一つの規則を守らなければ、為政者の都合によってどうにでもなってしまう。その歯止めの法律のはずなのに、犯罪者を守り、罪の無い庶民が無視される結果になっている。
 有識者とか政治家とかは、どうして人間としての根本的な在り方を考えないのだろうか。そんな状態だから、原発の危険性や原発で被害を受けた人々の事が何も分からない。彼等には生活の実感と言う物が存在しないのだろう。雲の上に居て、生活を保障されている以上、紙の上の事、論理的な事しか考えられないのは当然だろう。

 昔、浅沼稲次郎と言う庶民派の政治家が居た。都営の六畳と四畳半の住宅に住んでいた。その彼が右翼の少年によって公衆の面前で殺された。政治にとって、庶民が邪魔者でしか無い、血税を絞り取る対象でしかない、と言う事の象徴とも思える事件である。
 今は2億円ものカネが闇から闇に葬られても罪にはならない。苦しい生活の実感が無い人間が、心ある政治が出来る訳が無い。
 日本の国会議員は世界一の高給取りだと言う。JRは無料で乗れるらしいし、月100万円もの通信・交通費が掛かるはずも無いのに、無条件で支給されている。そうした恩恵には議員は異を唱えない。自分の都合しか考えていない。そんな連中に政治を任せられる訳が無い。
 国会議員ってたくさんお金をもらえるんですねー、と正直に感嘆した杉村太蔵議員は自民党幹部から厳重注意を受けた。ぬるま湯に漬かっている人間に庶民の暮らしが分かる訳が無い。

運転手がいつ加害者になるか分からない、とフジテレビは言うが

2012年05月15日 | 社会問題
 パソコンを移動したら、複雑な配線を間違えたらしく、インターネットが通じなくなってしまった。それでしばらくブログを休んでしまった。

 今朝のフジテレビでキャスターの小倉氏が、交通事故はいつ被害者になるか、加害者になるか分からない、と当然のような顔をして言っていたが、そうだろうか。
 いつ被害者になるか分からない、は真実だ。だが、いつ加害者になるか分からない、なんてそんな物騒な事が許されていて良いのだろうか。いつ加害者になるか分からない人は確かに存在する。例えば突然に意識不明になる病気などを持っている人だ。しかし多くの事故では、そうした報告はほとんど無い。多くの事故が居眠り運転、脇見運転などで起きている。
 普段から血圧が高くて、いつ脳出血を起こしてもおかしくないなどと言う症状の人は、本当なら、運転を自粛しなければならないのではないだろうか。
 だから、いつ加害者になるか分からないような運転手は居ないと私は考えている。

 同じ番組で、東京電力の幹部に出てもらい、値上げについて質問した。座っている位置から、幹部は左手でパネルを指差して説明する。その度に腕時計が映る。私にはそれが非常に高価なロレックスに見えた。もしかしたら私の勘違いかも知れないが、もしもロレッスクだとしたら、それは個人の趣味の問題だから何も問題は無いとも思えるのだが、消費者に無体な値上げを要求している側としては、趣味の問題です、とは言えないだろう。東電は巨額の赤字を値上げの理由に挙げているが、それでは今までに挙げた巨額の利益の事はどう考えているのか。そうした巨額の利益から、ロレックスも生まれているはずである。もちろん、非常に貧しい私でも、それこそ死ぬような思いをすれば、ロレックスを持つ事は出来る。しかしそれでは正常な生活感覚とは言えまい。

産經新聞の社説を読んでびっくりした

2012年05月08日 | 言葉
 原子力発電所の稼働がゼロになって、日本の新しい歩みが始まった。東京新聞は6日の朝刊で『原発ゼロ 未来へつなぐ」との大見出しを掲げていた。
 そして同じ日の産經新聞のコラム「産経抄」は次のように書いている。

 このまま猛暑の夏になると、需要急増に対応できるのか、経済界も家庭も不安にさいなまれる。むろん「原発ゼロ」を想定してこなかった電力会社の責任は大きい。だがこんな事態になっても、再稼働に指導力を発揮しようとしない民主党政権も異常である。

 何でびっくりしたかと言えば、私の考えとまるっきり正反対だったからだ。私の考えは世論の考え方とほとんど同じだと信じていた。だから東京新聞の正論に拍手喝采をしていた。上の社説は、政府は原発の再稼働を指導せよ、と言っているように、私には思える。
 もしかしたら、これは文章が中途半端なのかも知れない。
 政府は原発ゼロを維持し、その上で、それに代わる電力供給の方法に指導力を発揮せよ、と言っているつもりなのかも知れない。でも、そうであるなら、上の文章は成っていない。
 ただ、そのように好意的に理解するのもまた難しいのだ。なぜなら、一般家庭は、需要急増で不安にさいなまれてなどいないはずだ。東京新聞の投書欄を見る限りでは、一般家庭は、節電をしようと呼び掛けている。そして社説は、「原発ゼロ」を想定して来なかったのは電力会社の責任だと言うが、自分達マスメディアには責任は全く無いのだ、と言うつもりなのか。

 これを見て、私は産經新聞の読者でなくて良かった、とつくづくと思った。私は東京新聞が好きだ。時々変な文章を書いてはいるが、主義主張は正しいと思っているから、まあ、我慢して置こう。
 そう言えば、きのう、テレビで、竜巻が南西から北西へ通り抜けた、としゃべっていたアナウンサーが居た。まあ、咄嗟に出た言葉だし、気持は分からないでもない。彼は、南から北へ通り抜けた、と言いたかったのだろう。そして西とか東にはあまり関心が無かった。方向は真っ直ぐだから、そのまま『西」と言ってしまったのだと思う。
 テレビは一過性だから何とかなるが、新聞ではそうは行かないのは当然である。

原発ゼロは日本国民の最大のチャンスだ

2012年05月06日 | 社会問題
 原発の稼働が無ければ、電力が不足すると言う。中でも突出しているのが関西電力で、16%を15%に引き下げたが、本当にそんなに不足するのだろうか、と我々はほとんどの人が疑っているはずだ。あれは再稼働ありき、の脅迫だと。
 電力が足りるか足りないか、やってみようじゃないか。電力会社が根拠の無い数字を出すだけなら、それを実地に数字にするのが我々の役目ではないか。

 節電は実行出来るし、それで生活の質が落ちる事は無いだろう。今まで、やたらと贅沢と無駄をして来たに過ぎない。
 しかし原発の事故は、その被害を食い止める事が出来ない。生活の質は格段に落ちるし、現に落ちている。その原発を稼働させて来た力が、我々のやたらと贅沢で無駄な電力の消費だった。

 ここからの計算は小学生でも出来る。出来ないのは再稼働ありき、の政治家や財界人や電力会社の、いい歳こいた大人だけである。そんなにも既得権益に群がっていたいのか。原発の事故で泣いている人々が考えられないほど大勢居ると言うのに。
 原発ゼロで稼ぎが無くなる人々は現実に居る。そして原発の事故で人生がめちゃくちゃになってしまった人々が現実に居る。
 稼ぎは真っ当な事でするべきだ。人類をいつ破滅に追い込むか分からないような危険な物で稼ぐのは邪道の最たるものだ。

 原発再稼働でエネルギーが十分になるとしよう。ではその十分になったエネルギーで、原発で蒙った人々の損害をすべて補償出来るのか。十分なエネルギーはまた新たな贅沢と無駄を生み出すに違いない。
 再稼働ありき、の人々を今すぐにも福島の放射線がぎりぎり許容範囲の地域に強制移住させたらどうなるか。それでも彼等は再稼働に賛成するのだろうか。

居眠り運転が危険なのは誰だって知っている

2012年05月02日 | 社会問題
 承知していて居眠り運転をする馬鹿は居ない。脇見運転をする運転手などは決して少なくはないのだろうが、これは承知してやっている。けれども居眠り運転は違うはずだ。だからなぜ居眠り運転をしてしまったのか、の原因が追及されるべきだろう。ガードレールと防音壁の接点の構造の問題を取り上げたりしているが、考えがずれているとしか私には思えない。

 現在は自転車の運転しかしない私は、走行中、あらゆる事に気を配っている。先方に四つ角があれば、こちらが優先道路であっても、油断はならない。飛び出して来る気配は無いかと窺いながら、出来るだけ道の中央に寄ってスピードを落として走る。それでも先日、二日も続けて私は横から突然に飛び出した中年女性にぶつけられた。一人は切れて、私に文句を付けて来た。だから、そちらには「止まれ」と道に書いてあるでしょう? 文句を言うなら、110番して聞きますよ、と言ったら、やっと「御免なさい」と言って去って行った。
 正しく左側走行している自転車の方がずっと少ない。だから私は正面からぶつかるように走って来る自転車にはたいていは道を譲らない。相手を道の中央に寄せて走らせる。そうしなければ、こちらが中央寄りを走らされて危険になる。

 居眠り運転に戻るが、居眠り運転をしてしまうような労働環境が改められなければならないはずだ。もしも運転手個人の問題なら、そうした不適正な人間に免許証を与えるべきではない。免許の更新時にもっとずっと厳格なテストをしなければならないだろう。仕事で車が欠かせない事業では、国の監査機関が、安全な運行が出来る体制かどうかを監査する仕組みは作れないのか。
 この所、車の死傷事故が続いている。車は当然に現代の我々の生活には欠かせない。しかしすべてが欠かせない訳ではない。簡単に凶器になり得る機械・装置を「文明の利器」とは呼べないはずだ。「利器」を「利器」たるべくするには、扱う人間の英知が必要だろう。
 今の日本には、カネ儲けばかりがはびこって、英知を育てる事が疎かになっている。政治機構は自分達の保身の事しか考えようとはしていない。