夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

原子力ムラの学者が駄目なのは、学者の体質ではないか

2012年03月20日 | 歴史
 どうも学者が体制側にくっついているのは、昔からの事で、それは生きて行く上での必須の知恵だったのではないか、とこの頃考えている。今でこそ、反体制側に居ても報酬は得られるだろうが、昔はそうではなかったと思う。
 何でこんな事を考えているかと言うと、今私が追究している万葉集と日本書紀の解釈に関係があるからだ。

 全文が漢文で書かれている日本書紀はそのままではとても難しいから、我々に易しく理解の出来るように現代語訳が出ている。その中に天智天皇の病気に関して、不審な現代語訳がある。
 「疾病弥留」を「病が重くなって」と訳している。「弥」は「弥生」のように使うが、旧暦3月の「弥生」は「いよいよ生える」が語源らしいが、「弥=久しい。いよいよ」が基本的な意味である。「留」は「とどまる。残る」の意味である。従って「弥留」は、ある状態がそのまま続いている、との意味である。「弥=いよいよ」の意味を採っても、「いよいよ残る」くらいにしかなり得ない。「いよいよ重くなる」とはならない。「弥留=重態」とはならない。

 何でこんなおかしな現代語訳になるのかと言うと、この場合の「疾病弥留」を昔から「やまいあつしれて」と読み下しているからなのだ。「あつしれて」は「熱さに痴(し)れる」で、「痴れる」は「この痴れ者め」などと言うように、「心が馬鹿になる」。つまり「あつしれて=熱でおかしくなる」。そこから「あつしる=病が重くなる」の意味として使われている。
 けれども「弥留」を「あつしる」と読む事は絶対に出来ない。「久しきに渡る」としか読めない。それなのに、漢和辞典までもが同調して「弥留=重態」だと説明している。我々は漢和辞典がそう言うなら、それは正しいと思ってしまう。そしてこの漢和辞典の説明が、実はとんでもない「食わせ物」なのであって、それを私はきちんと証明出来ているが、話が複雑になるので、ここでは割愛する。

 日本書紀の原文である漢文では天智天皇について「疾病弥留」としか言っていない。それを「重態」とするのは、実は皇后が天皇は山科で殺害された、と歌に詠んでいるからなのだ。これは万葉集に載っている。しかし日本書紀を始めとする歴史書にそんな事は全く書かれてはいない。私は、重態だとするのは、天皇は病死したのだ、と説明するためだと思っていた。それなら皇后の歌を否定出来る。皇后の歌は忠実に解釈しなくても何とかなる。実際、ほとんどの解説書が曖昧な意味の良く分からない解釈しかしていない。私は「解釈していない」のではなく、「解釈出来ない」のだと思っていた。
 しかし、そうではない事が判明した。恣意的にわざときちんと解釈していないのである。それには重大な理由が存在していた。

 実は皇后の詠んだ歌と同じような記述が歴史書である『扶桑略記』にあるのだ。私はその記述をまだ読む事が出来ていない(史料が簡単には手に入らない)が、平成2年に伊沢元彦氏が『隠された帝・天智天皇暗殺事件』(祥伝社)と言う推理小説に引用している。その記述の現代語訳は次の通り。

「天皇は馬で山科に出掛けて帰って来なかった。山林に入って亡くなった所を知らない」

 この記述の信頼性はかなり高いらしい。それはもちろん、『扶桑略記』の信頼性が高いからだろう。皇后の歌のように曖昧に解釈して済ますと言う訳には行かない。だからと言って、歴史書の記述を抹殺する訳にも行かない。しかし抹殺するのではなく、その記述を否定する事が出来る。どうするのかと言うと、天皇を重態にして置けば良いのである。重態の天皇が馬に乗って山科に行く事は不可能だ。その時の天皇の宮は山科から直線距離にして約5キロほど離れた近江の大津である。
 だから、学者は「天智天皇の病が長引いている」との記述を「天皇は重態になった」などとして、我々を騙すのである。それは日本書紀の記述だけが正しいのだ、と言う「信念」があるからだ。

 こうした「騙し」はあちこちにある。もちろん日本書紀の解釈にも万葉集の解釈にもある。一つの嘘が更に次の嘘に繋がり、結局、破綻してしまっているのだが、それでもなお足掻いている。だから無惨この上ないのだが、どうも学者達は無惨だとは思っていないらしい。辞書には、ねえ、よくそれで漢和辞典だと言えますねえ、とか、よくそれで古語辞典として通ると思えますねえ、と言いたくなるような実態がある。
 そうした事は私は以前、『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)で書いた。そしてその後も国語辞典について調べているし、二冊の本にもまとめているが、今の所、出してくれる出版社は無い。日本語の表記についても駄目な表記が日本語を破壊している事について本を書き、その対策も本にしてあるが、やはり出してくれる所は無い。

 原子力ムラなら、真相が公表されれば、我々にもその真実が理解出来るが、日本書紀や万葉集、そして辞典類の事になると、真相が分かったからと言って、我々が簡単に真実を理解出来るとは限らない。だから、いい加減な考え方がはびこるのである。それに多くの人が「金権がらみ」以外にはあまり興味を持ってくれない。日本文化の危機ですよ、と言っても、文化ではカネにはならない。
 「長い物には巻かれろ」の体制側に付く学者の体質が、実は日本の歴史の真実を隠し、文化を破壊してしまう結果になるのである。そうした学者の体質が原子力ムラの学者にも「正しく」伝わっているに過ぎないのである。

万葉集の原稿に夢中になっています

2012年02月02日 | 歴史
 ここしばらくブログを休んでしまって、せっかく立ち寄って下さったのに、申し訳なく思っております。言い訳ですが、外での仕事が忙しいのと、自分の万葉集の原稿の仕上げに夢中になっているからです。

 この原稿は去年中に完成して、年明けと共に売り込みを始めたいと考えていたのだが、読み直していて、もっと良い書き方がある、と思い付いたのが運の尽き。これを「運の付き」にしたいと懸命になって書き直している。そうすると、不思議な事には次から次へと書き直した方が良い部分が出て来る。何か、勢いに乗った、とでもいいたくなるような情況になっている。そして収拾が付かないような情況にもなっている。

 『扶桑略記』と言う歴史書は「天智天皇は山科野に入られて帰って来なかった」との説を紹介している。これを基に、伊沢元彦氏が平成2年に「隠された帝・天智天皇暗殺事件」と題する推理小説を書かれている。
 その天智天皇暗殺だけではなく、私は天武天皇も命を奪われていると考えている。その証拠は天智天皇の皇后、つまり後の持統天皇の、天武天皇に対する二首の挽歌にある。
 「燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや面知らなくも」が二首の内の一首である。「燃える火」で天皇を表していると私は考えている。それを「取って」「包んで」「袋に入れ」てしまうのである。そんな事が出来ると言うのに、皇后は天皇の顔を見る事が出来ないのだ。何とも不思議な歌である。

 どの解説書も天皇が亡くなって、皇后は悲しんでいるとの解釈しか出来ていない。天智天皇への挽歌にしても解説書は曖昧な解釈しか出来ていない。
 その理由は明確だ。日本書紀では二人共病死になっているからだ。しかしどちらも皇后が、天皇の崩御と言う重大事に詠んだ重要な歌なのである。当然に皇后は当時の歴史の中に生きている。後の世の我々が歴史書で知っている事なんて、たかが知れている。
 歌を詠んだ本人を信じなくてどうするか、と言うのが私の考え方なのである。
 更には有名な「熟田津に」の解釈にも全く新しい解釈を私はしている。
 万葉集中、有名な誰もが読み解けていない難訓歌も私は読み解いている。

 このいずれも原文の漢字と言葉を正確にきちんと調べて追究した結果がそうなっている。いい加減な想像など一切存在しない。そして日本書紀も漢文の原文で読んで、正確な史実を掴もうとした。なぜなら、現代語訳に信じられないような間違いがあるからだ。それは承知してやっている誤訳である。自分達が解釈している日本書紀の記述に合わせるために敢えてしているのだ。それはつまりは、日本書紀の記述を全面的に信頼しているとの証拠でもある。
 誤訳はあまりにも念の入った誤訳で、古語辞典や漢和辞典も使っての事だから、非常に複雑な事になっている。そしてなぜか、古語辞典も漢和辞典も間違った解釈を、それも日本書紀の間違った読み方を取り入れて堂々と展開しているのである。
 一流の学者達が「ぐる」になってしている事だから、一素人が立ち向かうにはそれこそ万全の構えが必要になる。

 だから難しくて複雑にもなる。それを何とか、易しく分かり易く表現しようと心を砕くから、何度も何度も考え直し、書き直す事になる。でも、それだから、私の論理の展開には類書にあるようないい加減で雑な展開は無い、と自負している。
 こうした考え方が世に受け入れられないのであれば、学問とは一体何のために存在しているのか、と言う事にもなる、と私は考えている。

潜在意識は素晴らしい

2011年10月10日 | 歴史
 この一年間、万葉集の新しい解釈に取り組んで来た事は先日書いた。一応脱稿したとして、面識のある編者者に売り込んでいる最中なのだが、時々、夢の中に万葉集の事が出て来る。昨夜は歌その物ではなく、歴史的な情況に関する事だった。
 一人の天皇が二度皇位につく事が古代に二度あった。これを重祚(ちょうそ)と言うが、いずれも女帝で、中継ぎである。普通は次の天皇が即位するのは前の天皇の死を受けてである。だから、重祚の出来る天皇は生前に譲位をした訳だ。史上最初は皇極天皇で、乙已(いっし)の変(以前は大化の改新と呼んだ)で、目の前で蘇我入鹿が惨殺された衝撃で、皇極天皇は退位した。しかし変の首謀者である皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が即位しないので、皇極天皇の弟が即位した。孝徳天皇である。そしてその孝徳天皇が死んで、それでもまだ皇太子は即位せず、ほかに人材が居なかったので、皇極天皇が重祚したのである(斉明天皇)。
 孝徳天皇は姉の皇極天皇と甥の中大兄とに裏切られて失意の内に亡くなった。そこで皇極天皇が重祚したのだが、これを「生命の再生復活だ」と言い張る万葉の研究者が居る。「生命の再生復活」で、有名な誰も読み解けていない難訓歌の解釈をしようと言うのである。とんでもない。実の弟を憤死させてその結果再び皇位につくのが、何で「生命の再生復活」になるのか。

 そして二例目の孝謙天皇について、私はなぜ天皇が退位したのかを考えた事がなかった。その事が夢に出て来たのである。なぜか突然、「孝謙天皇が退位した理由を私は分かっていない」と夢の中で気が付いたのだ。そこで目が覚めた。寝床の中で考えてみたが、その通りである。
 気が付くと居ても立ってもいられない。まだ真夜中だが、日本史のその時代の部分を見た。索引で孝謙天皇を探し、一つ一つ見て行くが、該当記事は無い。そしてあったのは「758年8月、ついに孝謙天皇が譲位し、大炊(おおい)皇太子が即位した。淳仁天皇である」との説明だけである。その前をずっと見て行くが、どこにもそれらしい記事は無い。何と言う歴史本かと呆れるが、しょうがない。

 こんな事がどうして万葉集の歌に関係があるのかと言うと、問題は持統天皇にある。持統天皇は天智天皇と蘇我氏の母親の間に生まれている。だから蘇我氏を滅ぼした藤原氏を憎んでいる。天智天皇も同罪だが、父親を憎んでは始まらない。そして持統天皇は夫である天武天皇と自分の直系の子孫だけに皇位を継がせようと考えていたから、藤原の血を濃く引く聖武天皇を即位させるつもりはなかった、と私は考えている。持統天皇の孫である文武天皇は藤原氏の娘を夫人にして聖武天皇をもうけている。
 文武天皇はなぜか母の持統の意志を受け継ぎ、死ぬ前に、母である元明天皇(持統天皇の異母姉妹)に即位を同意させている。その元明天皇は自分の後継に、娘であり、文武天皇の姉である元正天皇を即位させたのである。聖武天皇の出番は無い。
 こうした持統天皇の自分の血筋だけを重視する意志が様々な事柄に関連して、万葉集の歌の解釈にも影響を及ぼしている。だから、歴史をしっかりと見ないと、歌の解釈も出来ないのである。

 そして元正天皇は未婚だったから、後継者は居らず、藤原の血を引く聖武天皇が即位して、持統天皇の意志は挫折する。その聖武天皇が死を前にして、娘の孝謙天皇に譲位しようと言う。なぜならば、天武天皇の皇子を父に、天智天皇の皇女を母に持つ長屋王と言う強力なライバルが存在しているからである。
 そして結局は長屋王は藤原氏によって粛正されてしまう。藤原氏の力がそれだけ強大になった訳だ。それで藤原の血を引く孝謙天皇は安心して退位し、藤原氏が擁立した淳仁天皇に譲位すると言う事になる。

 夢の中の孝謙天皇の譲位への疑問にはこれだけの事を考えないと解決が付かないのである。そしてこうした歴史的背景が万葉集の歌の解釈にとってどれほど重要か。それなのに、私は孝謙天皇の譲位の理由を考えた事が無かったのだ。
 つまり、潜在意識は私の盲点を見事に突いて、気付かせてくれたのである。歴史的な事を詠んだ歌なのに、肝心のその背景をまるで考慮しない解釈が、専門家の解釈として堂々とまかり通っている事を私は苦々しく思っている。

「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」の東京新聞フォーラム

2011年09月18日 | 歴史
 東京新聞と橿原考古学研究所主催の討論会が行われた。題して「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」。変なタイトルだなあ、と私は思った。なぜなら、卑弥呼の実像を古代の大和に求める、と言っているのである。それは邪馬台国は大和にあった、と言っているのと同じになる。
 出席者も結構いい加減である。例えば、武田佐知子・大阪大学大学院教授は、卑弥呼は男装していたと言う。そうしないと中国の儒教の価値観では王として認められないからだ、と言う。魏の使者が卑弥呼に会ったとはどこにも書かれていないから、「親魏倭王」の称号を与えた時には卑弥呼が女性であるのを知らなかった。それ以降のやりとりで女王であるのが分かってしまったが、「親魏倭王」として公認していたのだろう、と言う。

 卑弥呼と会った事がどこにも書かれておらず、単にやりとりだけで卑弥呼が女性と分かってしまうと言う事が果たしてあり得るのだろうか。魏の使者が卑弥呼に会ったとは書かれていないとしても、属国の身分である邪馬台国の王が、支配者である魏の使者に会わずに朝貢の国交が成り立つとでも思っているらしい。書かれていないから会ってはいない。こんな論理がまかり通ると思っているらしい。魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述は非常に少ない。そこに使者が卑弥呼に会った事が書かれていないからと言って、絶対に会っていない、などと言えるはずが無い。

 魏には女性の最高権力者に対する拒否反応があった、と武田教授は言うのだが、それなら卑弥呼が死んで、宗女の壱与が女王になった事を魏が認めているのはなぜなのか。魏は壱与に対して檄を与えて諭している。つまり壱与に積極的な行動を取れと言っている。
 卑弥呼は儒教の価値観には合わないが、娘の壱与なら合うと言うのは全く筋の通らない話である。

 出席者はほかに篠田正浩・映画監督と菅谷文則・橿原考古学研究所所長。司会は同研究所研究員の入倉徳裕氏。同じ研究所でも菅谷所長は邪馬台国大和説で、入倉研究員は九州説だから、偏ってはいないが、ざっと読んだ限りでは、篠田氏が一番まともな事を言っている。さすがに映画「卑弥呼」を作った人だけの事はあって、しっかりと研究をしているようだ。
 私はその映画を見てはいないが、映画ともなると、そこには卑弥呼の実像が必要になる。しかし学者達には卑弥呼の実像が存在していないのである。単に頭の中だけで、卑弥呼の断片的な姿を想像しているに過ぎない。だから、重要な事を考える事が出来ないのだ。
 私は今、万葉集の中の解釈の難しい歌に取り組んでいるので、それが良く分かる。歌を詠んだのは実在した人々なのに、万葉の研究者達はそこに実在した人物像を描く事が出来ていない。だから人間性を疑わせる、あるいは人間性を否定するような考え方を堂々と披瀝している。

 昨日の東京新聞は二面を使って、このフォーラムをまとめているが、出席者の写真ばかりが目立つ、中身の薄いフォーラムだなあとしか思えない。記事は司会者の次のようなコメントで終わっている。

 卑弥呼の問題、邪馬台国の問題は、短時間ではとても話し尽くせないのですが、きょうは篠田監督の鋭いご意見、突っ込みで、私たちも非常にたじたじでした。

 正直な感想だろうと思う。新聞の記事だけでは全貌はまるで分からないが、専門家が「たじたじ」になったであろう事は容易に想像出来る。しかしそれでは困るのだ。何とも頼りない専門家達だなあ、と言うのが、この記事を読んだ私の感想である。

万葉集の解釈のし直しがやっと完成した

2011年09月15日 | 歴史
 5月の末に万葉集の解釈のし直しをしています、と書いた。それなのに、ほとんど毎日、土日も取りかかっていて、9月の半ばになった今、やっとそれが完成した。あれから何と4ヶ月も掛かっている。なぜかと言えば、読み直すたびに新しい事に気が付くからである。それは今まで考えていなかった事にもなるのだが、そうでもない。一日一日と考え方が深くなって来ているので、今まで気付かなかった事に気が付くようになったのである、と本人は思っている。

 定評ある解説書や関連する本を読むたびに、何でこんないい加減で浅い考えで満足しているのだろうと不思議になる。参考にしている日本書紀の文章一つまともに読めないのである。だから、古語辞典の説明だってきちんと理解が出来ない。そのような人々が本を書いている。でも一旦信用されると、その信用は最後まで付いて回るらしい。羨ましい限りである。
 私など、二冊ほどの本を出してもらったが、信用される身にはなっていない。著書の一冊は「こんな国語辞典は使えない」と言う辞書の批判書で、私の住んでいる所の区立図書館には4館に置かれていると言うのに、そして国立国語研究所のデータとしては別の一冊の一部が現代の書き言葉のデータとして入っていると言うのに、情けない。

 まあ、本は大量に出版されるし、今は出版不況と言われているから、私などの出番は無いのかも知れない。それでも渾身の力を込めて書き上げた。題して「万葉集で分かった古代史の真実」。本当に信じられないような事を皇后が歌に詠んでいるのである。信じられないような事だから、従来の研究者達は、無難な解釈をして通り過ぎて来たのである。けれども彼等が神の書のように信じている日本書紀にさえ、皇后の詠んだ信じられないような事実を証拠立てるような記述があるのだ。もちろん、それは日本書紀の文章を読み込む力が無ければ出来ない事ではあるのだが。
 そしてその史実から、周辺の歴史が今までよりもずっと明解に分かるようになる。様々な断片的な出来事が見事に一つに繋がって来るのである。だから、歴史書には書かれていない史実が重要になるのだ。

 出来上がった原稿を、以前、ちょっとした事を書いた事のある出版社に持ち込もうと考えているが、さて、どうなる事やら。駄目でも、その報告は正直にするつもりです。

学者の論理はなぜ筋が通らないのか

2011年01月27日 | 歴史
 表題の事は、当然ながら、私にもその内容が分かる事柄についてである。だから日本語とか古代史に関する事柄になる。古代史についても、私にも理解出来る説明での事になる。
 『古代日本七つの謎』 と言うタイトルの本を読んでいた。ずいぶん昔の話だが、千葉県市原市の稲荷台古墳から、短い銘文のある鉄剣が発見された。全12文字で、「王賜□□敬□」 「此廷□□□□」 とわずかしか読めない。でも、 「王賜」 とあるから、 「王が誰かに下賜した刀」 だろうと推察出来る。ここまではいい。
 さて、その王とは誰なのか。それをある学者は次のように言う。

 この銘文によって、この剣は大和朝廷の大王が、官の刀として、大王に従う市原市附近を治めた地方豪族に授けたものだと考えられる。

 何故に 「王」 が大和朝廷の大王だと決定出来るのか。だから当然にこうした考えに反対の考えもあって、この学者は次のようにも言う。

 銘文には 「王」 とあり、そこに 「大王」 と記されていないことから、王と自称した関東の大豪族が稲荷台一号墳の被葬者に鉄剣を与えたとする意見もある。     

 普通に考えれば、この考えの方がずっと筋が通ると思う。しかし、そうはならないのである。学者は続けて次のように言う。

 しかし、そこまで考える必要はない。奈良時代に、 「大王」 の語も 「王」 の語も 「オオキミ」 と読まれていることや、当時の関東の鉄器の多くが大和からもたらされたこと、埼玉県行田市の稲荷山古墳からも、乎獲居という豪族が。大和朝廷の大王に従ったことを示す銘文をもつ鉄剣が発見されていることから、 「王賜」 の鉄剣は大和朝廷が下賜したものであるとみるのが良い。

 上記の文章には多くの問題がある。
 一つは 「そこまで考える必要はない」 と断言している事である。もちろん、その理由は以下に述べているのだが、普通は 「何何だから、こうなる」 と言う論理の展開をする。 「何何だから、そこまで考える必要はない」 と言うような展開になる。それを、そうした原則を外して、まず先に断言してしまう。だから、その理由の追究はいい加減に終わる。
 第二に、確かに 「王」 は 「オオキミ」 と読まれている。そして我々はそうした人の名前を知っている。例えば最も有名なのは 「額田王」 だろう。けれども 「長屋王」 とか 「鏡王」 など 「おう」 と読まれる人々も含めて、 「王」 は「 大王」 つまりは後の天皇ではない。 「大王」 と 「王」 は違う。重要な身分上の違いを一緒くたにしては学問は成り立たない。
 第三に、関東の鉄剣の多くが大和からもたらされたとしても、この剣がそうである確証は無い。 「多くが」 なのだから、 「少なくは」 そうではない可能性は非常に高い。
 第四に、稲荷山古墳の 「乎獲居」 が大和朝廷の大王に従った、との証拠はどこにも無い。それは単に学者がそうだろうと推定しているだけに過ぎない。問題の鉄剣は 「ワカタキロ」 としか読めない銘文を、無理に 「ワカタケル」 と読んで、 「オオハツセワカタケ」 の名前である雄略天皇に当てはめているのである。雄略天皇は 「ワカタケル」 などと呼ばれた事は一度たりとも無いのにである。しかも百歩譲っても、 「ワカタケル」 と「 オオハツセワカタケ」 は同一人物にはならない。これは人にとって最も重要な個人の識別名称なのである。同じだと言うなら、古代史はめちゃくちゃになる。
 この第四の理屈が最も危険である。

 普通に常識で考えれば成り立たない理屈を持ち出して稲荷山古墳の鉄剣の持ち主が雄略天皇に従った豪族だ、と決め付けてしまう。そしてこの理屈は更に乱暴に暴れ始める。熊本県の古墳から出土した鉄剣はその銘文から、反正天皇が下賜したと結論付けている。 「蝮□□□歯大王 」と読める銘文で、 「蝮=タヂヒ」 「歯=ハ」 だから、これは 「タヂヒミヤミズハ」 大王だと言うのである。しかし 「歯」 は実は 「鹵」 であって、これは 「ロ」 としか読めないらしい。それを 「ミズハ」 としたいがために無理を承知で「 歯」 と読んでいたのである。
 しかも3文字は完全に読めないのである。5文字の内、わずか1文字だけで 「タヂヒミヤミズハ」 が成立して反正天皇になってしまう。どこかの検察よりもずっと恐ろしいでっち上げである。
 更には、稲荷山古墳の鉄剣の銘文の 「獲加多支鹵」 は 「ワカタキロ」 としか読めないと言いながら、 「ワカタケル」 と無理に読んで、 「蝮□□□歯」 の 「蝮」 を 「獲」 に直し、 「歯」 を元の 「鹵」 に戻して、今度は 「雄略天皇」 だと言うのである。読めない3文字を、以前は 「宮彌都 (みやみず) 」と推定していたのを、今度は 「加多支」 を嵌め込んでいる。
 本当にこんな無理が通れば、黒は白になる。
 都を遠く離れた東西から雄略天皇の名前のある鉄剣が出土したから、雄略天皇は日本列島を広く治めていたのだ、との理屈が生まれてしまうのである。

 こうした馬鹿馬鹿しい理屈が大手を振って通っているのには、もちろんはっきりとした理由がある。大和朝廷が日本全国を統治していたのだ、と思い込んでいるのである。だから何とかして天皇 (当時は大王) の名前に結び付けたいと必死の、それこそなりふり構わずのみっともない理屈を振りかざすのである。
 そんな、小学生にも分かるような屁理屈をこねないで、素直にそのまま銘文を読んだらどうなのか、と思う。自分達の知らない名前の大王が、あるいは銘文が欠けていて読めない大王が埼玉県や熊本県に居て、配下の豪族に剣を下賜したと考えれば良いのである。素直ですっきりとした解釈になる。そこから、新たな古代史の視点が開けるはずである。

 一つの妄想が更に妄想を生み、でも、最初の妄想が妄想ではないと勝手に決め付けているから、次々と妄想は 「真実」 になってしまう。こうした学者の体質は枚挙にいとまが無い。
 『古代日本七つの謎』 に、天皇陵の話がある。

 中尾山古墳も 『大和志』 が文武陵に擬していたものであり、火葬墓と考えられるその内部構造も、文武を火葬したとする 『続日本紀』 の記載と一致し、文武陵の可能性が大きい。

 火葬墓と考えられるその内部構造が 『続日本紀』 の記事と一致していると言う。歴史書に内部構造が書かれている例を私はあまり見ていないが、それは私が無知なだけだから、 『続日本紀』 の文武天皇の巻を読んでみた。

 慶雲4年 (707) 6月15日、天皇が崩御した。遺詔して哀悼の声を発する拳哀の儀礼は三日間、喪服を着けるのは一ヶ月とした。親王や官吏に殯宮での行事に仕えさせ、拳哀と喪服の着用は、もっぱら遺詔のとおり行わせた。初七日から七七日まで、大官・薬師・元興・弘福の四大寺で斎会を行わせるようにした。
 10月3日、親王や官吏達を御竃を造る司に任じ、別の官吏達を山陵を造る司に任じ、王と官吏を喪儀の装束を調える司に任じた。
 11月12日、飛鳥の岡で火葬した。
 11月20日、檜隈の安古の山陵に葬り申し上げた。

 以上、儀式の事はかなり細かく書かれているのに、山陵の事は上の事だけである。つまり、 「火葬墓と考えられるその内部構造」 は 「文武を火葬したとする 『続日本紀』 の記載」 には無い。崩御以前の記事は読んでいないが、崩御の前に山陵の事を書くだろうか。
 古墳の内部構造が一致していると言われれば、従わざるを得ない。ところが、とんでもない。 「文武天皇を火葬して山陵に葬った」 と 「山陵は火葬した遺骨を納めてあった」 が一致しているだけなのである。これを普通はペテン師と呼ぶ。

 古墳に関してはまだある。上記の本に次のようにある。文章は長いのを分かり易く短くまとめてある。

 7世紀中葉から8世紀初めにかけて、大王墓として、近畿地方に八角形の平面を持つ八角墳が出現する。そして墓が特定出来ない天皇が何人か居る。それらの古墳のほかにはその地域には7世紀の大王陵と考えられるような古墳は見られないところから、天皇陵である蓋然性はきわめて大きい。このことは、7世紀中葉以降、即位した大王にのみ固有の墓、すなわち 「陵」 として、八角墳が創出されたことを示すものであり、また逆に、これらの八角墳が7世紀中葉以降の各天皇陵にほかならないことを傍証するものといえよう。

 八角墳を天皇陵だと推定するのは良い。○○天皇の墓として名前は分かっているのだが、場所が特定出来ない。でもそうした八角墳をそれに当てなければ、ほかには天皇陵に該当する物が無い。だからこの理屈は通る。しかし、八角墳以外を天皇陵にした可能性は皆無なのか、との疑問はある。更には、天皇陵以外に八角墳にした人物は居ないのか、との疑問もある。歴史的にはこれしか無いからと考えるのだろうが、我々の知らない歴史上の事実が無いと断言は出来ない。 「また逆に」 の論理が納得行かない。

 ある学者は 『日本書紀』 の理解不能な記事と、ある別の事柄を、ほんのわずかな類似点を使って強引に結び付けて、その理解不能な箇所はこのように解釈するのだ、と勝手に決め付ける。そしてその記事を今度は別の事柄の証拠として使う。そして、こうした事から、 『日本書紀』 の今まで読めなかった部分が読めるようになる、と断言している。
 『日本書紀』 には色々と不可解な事がある。それなのに、それを元にして古代史を読み解き、その読み解きを事実だとする事で、今度は 『日本書紀』 の別の不可解な部分を解明出来るのだ、と言うのである。
 本当にどうしたらこんないい加減な考え方が出来るのか、非常に不思議だ。分かり易く言うなら、これでは冤罪は絶対に無くならない。 

天皇陵の発掘に関する宮内庁の考えは間違っている

2010年12月13日 | 歴史
 宮内庁が管理する天皇陵と称する陵墓の発掘は許されていない。理由は「現在の皇室の祖先が葬られ、今も祭祀が行われている墓である」にある。尊崇の対象だから、静安と尊厳の保持が何よりも優先されねばならない、と言うのである。
 その理由は一面では正しい。しかし日本の古代史に関してはあまりにも謎が多過ぎる。なぜなら、伝えられている様々な歴史書には間違いが多いので、正しい歴史書を作る必要があると言って作られたのが『古事記』であり『日本書紀』だから、そこには当時の皇室の自分達だけが正統な存在である、との勝手な思いが充満している。そこで、対立するあるいは並立する様々な権力の存在を認める歴史書は抹殺された。だからこれらの歴史書に古代史の真実が存在している訳が無い。
 けれども、陵墓には嘘は無い。陵墓は雄弁に事実を物語る。従って、本当に真実の古代史を追究するなら、そうした陵墓の発掘は避けて通れない。
 そして、先の一面では正しかった理由は、次の事情で正しさが減殺されてしまう。それは宮内庁の陵墓の指定は正しくない、との理由である。
 最近、奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が斉明天皇と娘の間人(はしひと)皇女の合葬墓であるとの見方がより強まっている。同古墳の隣の古墳(越塚御門古墳と命名された)が斉明天皇の孫の大田皇女の墓である事が有力視されているからだ。『日本書紀』には、斉明天皇と間人皇女を合葬した墓の前に大田皇女を葬った、と書かれていて、今回の発見と一致している。
 これに対して、宮内庁はここから約2・5キロ離れた車木ケンノウ古墳と近隣地を斉明陵、大田皇女墓として指定している。これに関しては、新聞の記事には、それが『日本書紀』の記事とどのように合っているのか、合っていないのかの言及は無い。多分、根拠が無い指定なのだろう。

 今回の発見は宮内庁の指定があまり確たる根拠が無く行われているらしい事の一つの証拠になるが、これ以外にも数多くの天皇陵が単なる言い伝えを根拠にして指定されていると言われている。つまり、宮内庁は何の根拠も無く、古墳の発掘を拒否している事になる。
 たとえ、先祖の墓として今も祀られているとしても、その発掘が先祖の尊厳を損なうとは思えない。もしも発掘が尊厳を損なう行為なら、徳川家の将軍の墓の発掘をした徳川家の子孫達はとんでもない事をした連中だ、と言う事になる。しかしそんな事は無いのである。そしてその発掘で様々な新事実が判明したのである。
 皇室の宗教である神道では死者はその家を守る神となる。その神としての存在こそが祀られるべき存在であり、その白骨が祀られている訳ではなかろう。それに発掘は墓を暴くのでもなければ、盗掘をするのでもない。純然たる学問的発掘に何のやましい事があろうか。
 理不尽な拒否を続けていると、宮内庁は皇室に不利な何かが発見されるのを恐れているのではないか、としか思えなくなる。新たな何かが発見されなくても、古代において、皇室の系統には不自然な点があるのは周知の事実である。その一つが継体天皇にある。更には大和朝廷以外にも日本には大王の存在があった事は、学者が認めようが認めまいが、中国大陸の歴史書が完全に証明をしている。
 だからこそ、天武天皇は自分達が正統である事を主張しようと、歴史書の編纂を命じたのである。
 先祖の尊厳や宗教的理由を持ち出して、我々日本人全員の歴史に勝手に幕を引いたり、隠したりする事は許されない。もっともらしい理屈を付けて古墳の発掘を拒否するのなら、宮内庁は、天武天皇が様々な歴史書を抹殺した責任を取るべきではないのか。それが全日本人に対する正しい責任の取り方だと私は思う。

卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった、と言う学者が居る

2010年11月08日 | 歴史
 今、ある古代史の本を読んでいる。そこにタイトルのような事が書かれている。その本文は次の通り。

 『魏志』倭人伝によるならば、卑弥呼とは邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国をはじめとした数十の国々より構成された倭国の女王、ということになっている。(中略)倭国というのは、中国の皇帝から認知された日本列島内部の独立政権のことであり、その所在地や支配領域は時期によって異なった。
 第一次倭国大乱後に、倭国は西日本全体を基盤とするものに拡大・発展したと考えられるが、『魏志』倭人伝は、卑弥呼をこの倭国を統治した女王と位置づけているわけである。

 倭国の女王であるのは間違いない。しかし、だからと言って、邪馬台国の女王ではないとまで言い切れるだろうか。著者が「倭人伝によるならば、卑弥呼は邪馬台国の女王ではない」と言うのだから、その倭人伝によって、書かれている事を検討してみよう。
 冒頭に「倭人は山島に依りて国邑を為す。今、使駅通ずる所三十国」とある。この全体を「倭国」と呼んでいる訳だ。そして「郡より倭に至るには」で始まって、まずは「その北岸狗邪韓国」に至り、始めて海を渡って、として対馬国が紹介されている。次に一大国、末廬国、伊都国と紹介され、「世々王有るも、皆女王国に統属す」と書かれている。代々、王を頂いているが、その王達は皆女王国に属している、と言っている。「女王国」が存在している。
 ただ、この女王国の登場の仕方が唐突ではある。何故に突然現れるのか。それは倭人伝の著者にとっては、「倭人伝」の主たるテーマであり、前提になっているからとしか考えられない。何しろ、倭国の風俗などはかなり概括的に書かれているのだが、卑弥呼に関してはその遣使の内容も、隋の皇帝からの返礼の内容も非常に具体的なのである。
 そしてその後も「女王国より以北」とか「郡より女王国に至る万二千余里」などと言っている。それで分かる、との前提なのである。
 伊都国の後は、奴国、不弥国、投馬国と続き、その後に「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所」となって、やっと邪馬台国が登場する。原文は「邪馬壱国」だが、ここでは「邪馬台国」としておく。女王の都する所が即ち邪馬台国だ、と言っているのだから、卑弥呼は邪馬台国の女王になる。そうではないと言うのなら、邪馬台国の王は誰なのか。
 と書いて、紹介されている国の王の名前などまるで出て来ない事に今になって気が付いた。「世々王有るも」と書かれているのにも拘わらず、出て来るのは「官」であり「副」なのである。それは当然である。国々には現在は王は存在しないのだ。それぞれの国が王を頂いている状態では国同士の争いが収まらないので、共有の王を立てた、と言っているのである。だからその下には役人である「官」や「副」しか居ない。
 卑弥呼が出て来るのは倭人伝の半分以上過ぎた所である。そしてそれ以降は卑弥呼の事が中心となっている。

 其の国、本亦男子を以って王と為(な)し、住(とど)まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰(い)う。

 さて、この「其の国」とは一体どこを指しているのだろうか。普通は前にある国を指す。前は、と見ると、伊都国がある。しかし伊都国が「其の国」ではないのは明らかだ。それにこの部分は、「女王国より以北には、特に一大卒を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す」なのである。
 先に卑弥呼が登場するのは半分を過ぎた所だ、と述べた。その前半分は倭国の説明である。従って、「其の国」は「様々な国を含む倭国」だと考えるのが普通の理解の仕方だろう。多分、この本の著者はこうした部分を捉えて、「其の国=倭の諸国」なのだから、卑弥呼は「倭の諸国」の王なのであって、邪馬台国の女王ではない、と言うのだろう。でもそうなると、「女王国」が何を指すのかが分からなくなる。「女王国」が「倭の諸国」の中の一国を指しているのは明らかなのだ。
 確かにこの文章は卑弥呼は「倭国の女王」だと言っている。その倭国とは「倭国と称する諸国」である。だからこそ「相攻伐する」とか「共に一女子を立てて」と言っているのである。
 つまり、「倭国」と言う名の下に諸国がある。その諸国には王は存在しないのである。しかし諸国はある。卑弥呼はその諸国の女王である。しかしまた、邪馬台国の女王でもある。それがおかしな事だろうか。
 現在のイギリスは「グレート・ブリテンと北アイルランドの連合王国」である。イギリスの女王はグレート・ブリテン王国の女王であり、同時に連合王国の女王なのである。北アイルランドには王は存在しない。このグレート・ブリテンを小さくして、北アイルランドなどの国を多くすれば、倭国の情況に似て来る。それでも倭国の女王は邪馬台国の女王ではない、と言うのだろうか。
 グレート・ブリテンと北アイルランドの関係は事細かな事まで分かっている。しかし邪馬台国とその他諸国との関係は明瞭ではない。『魏志』に書かれている事を根拠にするしかない。そしその記述は十分だと言えるのか。その記述を元にして、卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない、と断言するのはあまりにも専断と偏見ではないのか。

 卑弥呼が倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではないと言うのは実際にはどのような意味を持つのだろうか。それで邪馬台国関連の古代史が変わって来るのだろうか。変わらないのであれば、何も卑弥呼が邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王である、と目くじらを立てる必要は無い。
 と言うのは、こうした事を言うからには、それが正しい論理であるのかを考えなくてはならなくなる。そして、私はこの論理がおかしい、と思っている。そうなると、著者の次の論理展開もまた、簡単に、はい、そうですか、と聞く事は出来なくなる。
 そのすぐ次の論理展開は「卑弥呼は女王の名前ではない」なのである。「卑弥呼」を当時、どのように発音したかは分からないが、著者は「特殊な霊力を持った貴人」または「特殊な霊力を持った高貴な女性」と考えている。だから後世で言うならば、「ひめみこ(皇女・女王)」に相当する言葉だと言う。
 ここから、卑弥呼とは職名であり、初代卑弥呼職に就任した女性の名前は残念ながら分からないが、二代目はなぜか明確に「台与」(原文は「壱与」)と分かっているのであり、「中国史料が倭人の名前に関して大きな誤解を犯すことがあることにもっと注意を向ける必要があろう」と言うのである。

 これが何を意味するかは明白だ。例えば『隋書』は朝貢して来た倭国の王を「姓は阿毎、字は多利思比孤」と紹介している。これを大王の名前を姓と名に分解すると言う間違いを犯している、と言うのである。「阿毎多利思比孤」で一つの名前だと。それはこれがほかならぬ聖徳太子であると、信じているからである。そうしないと、この名前が聖徳太子の名前の説明にならないのである。その説明もまたとんでもなくおかしいのだが、すべて著者の頭の中には一つの日本の古代史が出来上がってしまっている。そしてそれに合わせたいと思うから、それとは事実の異なる中国の史書を間違いだと断言するのである。

 このような論理展開になって来ると、非常に危険である。そこでは中国の史料を疑う事から始まるのである。中国の史料を原文に忠実に読むのではなく、頭から誤解を犯しているのではないか、と疑って読む事になる。疑っているから、当然に忠実になど読めはしない。先に引用した倭人伝の部分でさえ、原文に忠実に読んでいるとはとても思えない。
 古代史の門外漢である私でもこの著者の考えはあまりにも皮相だと思う。魏志倭人伝に書かれている事をそのまま素直に受け取って、私は倭国を統率するのが卑弥呼の邪馬台国である、と解釈している。しかし著者は違う。つまり、倭人伝の読み方がまるで違うのである。
 ただ、私はほかにも、この本で著者の読み方の間違っている事を見付けている。えっ? 何でそんな読み方しか出来ないんだ、と驚くばかりだから、この著者の文章の読み方の程度を知っているつもりである。そうした雑な読み方で論理を展開しているから、その展開の仕方も雑になる。だからそのほかの有益に思える部分もどうしても疑いを持ってしまう。そして、その疑いは疑いとは言い切れない。なぜなら、論理の展開が飛躍するのである。A=Bで、B=Cだから、A=Cである、と言うのだが、A=Bである事を、B=Cである事を何ら証明しない。あまりにも断言した言い方なので、読む方はなるほど、そうか、と思ってしまうが、よくよく考えると本当にA=Bで、B=Cなのか、と言う疑いがもくもくと湧き上がって来るのである。たとえ著者の別の著書でそうした事を述べているとしても、それでは通用しない。
 しかしこの著者は様々な出版社から色々な古代史に関する著書を出している。だから誰もが考え方が間違っているとか、文章の読み方がおかしい、などとは思ってもいないはずである。そしてかなり先鋭的な事も言っている。だからこそ、余計にその内容を吟味しなければならないのだ、と私は思う。
 でも本当に疲れる。著者の言う事実が正しいのかどうかを考える前に、言っている事が正しい論理なのかどうかを吟味しなければならないのである。当然に、これが事実だ、と言う事と、言っている事が正しい事とは次元が違う。そんな吟味をしていたら、とても本など読めやしない。
 そう、だからこそ、中身がどのようであろうとも、一定の評価を受けている著者の本は文句なく売れるのである。

 中国の歴史書がどんなにいい加減かを説明している部分を一つだけ紹介しておく。もちろん、私はいい加減だとは思っていない。
 著者は卑弥呼を職名だとしている。その卑弥呼職にあった女性が女王とされたのは、『魏志』倭人伝を書いた中国人のもつ中華思想と男尊女卑思想ゆえの誤解と偏見にもとづくという方向で十分に解釈が可能なのではないかと思われる、と言うのである。
 中華思想は認める。男尊女卑思想も認めよう。しかしそれと、卑弥呼職にあった女性を女王とする事と、何の関係があると言うのか。卑弥呼を女王だと言っているのはその中華思想の持ち主なのである。中華思想なら、倭国など野蛮な国の一つに過ぎない。そこでは女王などは存在せず、単にシャーマンとしての卑弥呼職があるくらいなのだ、と言うのでなければ筋が通らない。男尊女卑思想ならば、まさに卑弥呼は卑弥呼職でしかなく、女王などと呼ぶはずが無い。
 このおかしな論理展開がこの著者の考え方の基本なのである。

 これで終わりにしようと思っていたのだが、そうそう、神功皇后の話があった。仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母である。皇后を架空の人物だとする説もあるが、『日本書紀』は神功皇后で一つの巻を立てている。それは十分に天皇に匹敵するとの意味になる。
 ただ、神功皇后の治世は異常に長い。摂政として69年も政務を執り、何と100歳もの長寿を全うしている。そこには創作がある。後の武烈天皇の崩御は継体天皇の即位と関わるので、ごまかしが利かない。そこでそれ以前の天皇の寿命を長くする事でつじつまを合わせている。そのひずみの一つが神功皇后なのである。それともう一つ、皇后を卑弥呼だとしたいがためでもある。
 摂政13年、太子を中心にした宴会が開かれた。皇后の話はそこで一旦終わる。次の話は26年も飛んだ39年である。なぜなら、これが倭の女王が魏に朝貢した景初3年に相当するからである。しかし実際には3年は間違いで2年である。続いて40年、43年と魏志の記事が引用されている。この三つは本当に魏志の記事だけである。皇后の事は何の言及もしていない。倭の女王卑弥呼が神功皇后だと言いたいだけなのである。
 日本書紀の編纂者達は知っていた。その昔、大和朝廷以外の国があった事を。彼等は先進文化国である中国大陸の歴史書を信用している。そこに邪馬台国とあり、女王卑弥呼が居る。それを無視する事は出来ない。そこで神功皇后にすり替えようとしたのである。
 つまり、日本書紀編纂の時代でさえ、卑弥呼は女王だと信じられていたのである。大和朝廷には女王は存在しなかった。だからこそ、神功皇后を立ててまで、女王卑弥呼を取り入れたのである。日本書紀の完成は720年、卑弥呼の朝貢は239年、およそ500年経ってはいるが、卑弥呼より1700年以上経った現代の時点よりもずっと真実に近いではないか。技術の点では、現代ははるかに進んでいるが、物事の捉え方や表現の仕方などが、古代よりもずっと進歩しているとは思えない。多分、同じ程度なのではないのか。そんな程度の人間が、一つの事実を500年後に考えるのと、1700年後に考えるのとでは、どちらがより真実に近いだろうか。それに、卑弥呼が単なる職名だと言うのなら、神功皇后も単なる職名になる道理である。
 何よりも神宮皇后の巻があるのはなぜなのか。そして唐突に卑弥呼朝貢の事が出現する理由は何なのか。そうした事をきちんと解決して、始めて、卑弥呼は女王ではなかった、などの話に入れるのではないだろうか。



学者は文章をきちんと読んでいるのか

2010年11月04日 | 歴史
 先に私は、日本書紀には隋からの使者、裴世清が筑紫に到着したのが4月とあるだけで、4月の何日か書かれていない事に言及した。だから、日本書紀としてはいつの到着だったか分からなかった、それは筑紫への到着は大和朝廷には関係の無い事だったからだ、と述べた。
 しかしたとえそうだとしても、日本書紀はそれでは役目が果たせない。だから先述したように、すぐさま天皇が迎えの使者を出したかのような文言にしている。ここで4月の日にちを捏造する事は簡単だ。しかしそれはしていない。文章をきちんと正確に読めば、4月の日にちが書かれていない事は重大な不審事になる。それを学者達は不審とは思っていないらしい。恐ろしく粗雑な神経である。多分、気が付いていても、何で捏造しなかったのか、との疑問に答えられないからだろう。
 これは日本書紀編纂者の良心なのではないのか。日本書紀としては隋書にある日本への使者の派遣が、大和朝廷ではなく、別の倭国だった、とは口が裂けても言いたくない。それに実際に大和にも来ている。だから大和朝廷とは別の倭国に来た事もそれとなく記録しておきたい。それには難波到着よりも2ヶ月も前に筑紫に来ている事を書けば良い。だからと言って、筑紫来訪が主な目的だったのだとは思われたくない。
 そうした苦肉の策があの日本書紀の記述になったのだ、と私は考えている。同書が意外にも良心的である事はほかにも証拠がある。一群の「一書に曰く」である。異なる話が幾つも挙げられている。まるで、この中に真実があるんですよ、それを読み解いて下さいな、とでも言っているかのようである。
 日本書紀は大和朝廷が正統だと言う宣伝文書である。従って、「一書に曰く」などは全く不要なのである。たとえ編纂者が分からなくても、分かるような話にすれば済む事なのだ。そんな話を作るのはいともたやすい事である。そうした根本的な事をきちんと理解していないから、せっかくの日本書紀の「好意」が分からない。

 日本と百済の連合水軍が唐の水軍と戦った、あの有名な白村江の戦いを、日本書紀は非常にあっさりと書いている。現代語訳では次のようになっている。

 大唐の将軍は、軍船一百七十艘をひきいて白村江に戦列をかまえた。二十七日に日本の軍船の先着したものと大唐の軍船とが会戦した。日本は敗退し、大唐は戦列を固めて守った。二十八日に、日本の将軍たちと百済の王とは、戦況をよく観察せずに、「わが方が先を争って攻めかかれば、相手はおのずと退却するであろう」と協議し、日本の中軍の兵卒を率い、船隊をよく整えぬまま、進んで陣を固めた大唐の軍に攻めかかった。すると大唐は左右から船を出してこれを挟撃し、包囲攻撃した。みるみる官軍は敗れ、多くの者が水に落ちて溺死し、船のへさきをめぐらすこともできなかった。

 不思議な事には、唐は軍船一百七十艘とあるのに、日本は全く記述が無い。『旧唐書』には「倭国軍の舟四百艘を焼き払った」とあり、『三国史記』には「倭船千艘」と書かれているらしいが、いずれにしても、日本軍の方が圧倒的に数が多い。それなのに無惨に大敗したから、数は明確にはしたくなかった、との気持があるとしても、無言と言うのは分からない。船の規模が同じくらいなら、唐の軍船より少なくしておけば良いのだろうし、どちらにしても、この戦いをどのように評価するかで記述は違って来る。
 唐の軍船が圧倒的に大規模な艦船であり、日本は小さな小舟のような物であった、との説もあるから、それでは恥ずかしくて、明確な事が書けなかったのか。しかしそれは隠せば良い事である。そして互角の戦いだったが、不幸にして日本は敗れた、とでもしておけば良いのである。日本書紀のほかの所は多くがそうした都合のよい説明で満ちているではないか。

 こうした事から、これは意外に正しい記述だったのかも知れない、との考え方も出来る。どのような事かと言うと、日本はこの戦いの主力ではなかった、と考えるのである。だから戦況を知らない。知っているのは伝え聞いた事柄だけである。主力は「倭国」である。
 この話は「倭国=大和朝廷」との考え方からは絶対に生まれはしない。主力があの多利思比孤の後裔である倭国であって、大和朝廷ではない、と考えなければこの話は成り立たない。その話が十分成立する余地がある事は今までに色々と述べて来た。
 何しろ、後になって、唐では「日本」と「倭国」の関係が大きな問題になっているのである。それに対して「日本」の使者がいずれも傲慢な態度で真実を語らない、と書かれている。四国の松山の道後温泉で、百済の救援に向かう斉明天皇の一行が、二ヶ月ものんびりと過ごしていた事実がある。日本書紀は斉明天皇は軍を指揮しようと、博多に向かった、と書いている。そしてその前には何人もの将軍達を派遣している。しかし軍隊を派遣したとはどこにも書かれていない。将軍の名前は重要だから書いたが、軍隊はどうせ無名の連中だからどうでもいいのだ、とはならない。それこそ、軍隊の人数は重要事項である。そう、百済には「万余の日本兵が救援にやって来る」と伝えているのである。

 軍隊の人数と言い,軍船の数と言い、非常にいい加減に処理されている。つまり、そうした認識が無い。軍隊を出す気も無ければ、軍船を派遣する気も無い。そうとしか考えられない。この戦いの主力は大和朝廷だと言うのなら、なぜ軍隊の人数も軍船の数も明らかにしていないのかを説明する必要がある。重要な戦いなのである。天智天皇は唐の侵攻に備えて、あちこちに防御の施設を造っている。そして唐からの使者が、勝ったのにも拘らず普通の顔をしてやって来て、負けた日本も普通の顔をして応接をしている。そんな不思議な事があろうか。これも、学者はその理由を説明する必要がある。
 私にはとても不思議な連中、人情も何も解せない連中が跳梁跋扈していた時代としか思えない。なにしろ、そこには通常の人間の感性がまるで存在していない。いや、そうではない。通常の人間の感性があるからこそ、ああした記述になっているのである。何か大事な事をひた隠しにして述べるとするなら、常識を逸脱しなければならなくもなる。その逸脱ぶりがきちんと明瞭に表れているのである。その逸脱ぶりは、明らかに通常の人間の感性のある証拠である。学者にはなぜ、そうした事が読み取れないのだろうか。

正倉院の宝物の写真が2紙でわずかに違う

2010年10月31日 | 歴史
 正倉院の宝物を記帳する「国家珍宝帳」に記載されていて、「除物」の付箋が貼られ、持ち出された事が確実だった2本の宝剣が、あの大仏の足元にあった事が分かった。明治時代に発見されていたのだが、それが正倉院の宝物だと言う事が分かったのである。
 聖武天皇の遺愛の品で、大仏と一体となる事で、国を見守る力になると光明皇后が考えたのではないか、とも言う。宝剣の由緒が分かった事と、「国家珍宝帳」の記録とその行方が明らかになった意義は大きい。
 今頃になって分かった理由が今回のこのブログのテーマである。
 元興寺文化財研究所が保存修理中にエックス線調査をした。そして刀身に「陽劔」「陰劔」の象嵌の銘文が見付かった。その写真が朝日と日経に載っているのを見た。もちろん他紙でも載せているはずだが、私の見たのはこの2紙である。最初に見たのは日経で、「陽劔」「陰劔」のそれぞれを白抜きの点線で囲んで分かり易くしているが、よく見ないと分からないくらいに薄い。特に「陰劔」がはっきりしない。
 まあそんな物だろうと思っていたが、朝日の写真を見て驚いた。日経の約1・3倍の大きさで、「陽劔」「陰劔」の文字が非常に明確に写っている。なぜなら、朝日の方が濃淡がはっきりしている。写真の提供者は同じである。よくよく見ると、朝日の方が全体に黒っぽいのである。だから白く抜けた文字がはっきりと分かる。
 同じ写真のはずなのに、なぜこんなにも明らかな違いがあるのだろうか。

 新聞の発掘調査の写真では、記事では分かるのだが、写真がどうにもよく分からないと言う事が決して少なくない。たくさんの物が写っていて、一体、このどこが記事に書かれている物なのかがまるで分からない。また分かっても、どうにも腑に落ちない事もある。
 奈良で、堀で囲まれた大きな建物の跡が発見された。堀は石張りで深さも幅も堀として建物群を守るのに十分な大きさである。その写真もある。当然に我々はそこには当時は水が張られていたのだろうと思う。しかしそうではなかった。堀はL字型をしており、L字の上の端(北)と右の端(東)は開放されたままになっているのだ。なぜなら、そのどちらも谷に面しているからだ。谷が天然の要害になっている。だからこの堀は空堀なのである。水を溜める事は絶対に出来ない。
 けれども、記事にはそのような事はまるで書かれていない。カラー写真があっても、遺跡で崩れているから、そのような説明が無い以上は分からない。

 つまり、この記事を書いた記者にはそれが空堀である事の十分な認識が無かった。記事の内容を提供した文化財研究所にもそうした認識が不足していたのだろう。水があろうと無かろうと堀でさえあればそれで良いと思ったに違いない。そんないい加減な事がまかり通っている。いや、空堀だとは知っていましたよ、と言うなら、きちんとそう知らせるべきである。
 「ほり」には「堀」と「濠」の二つがある。辞書には「城の場合には濠とも書く」などと説明しているが、「濠」と書くのは、水を意識しているからだろう。常用漢字ではないのを承知で敢えて「濠」と書く。しかし国語辞典はどれもこれも「堀=地面を掘って水をたたえた所」と説明をしている。もしも、水が無ければ堀としては役に立たないのだ、と言うのなら、この記事でははっきりと「空堀」である事を書くべきなのである。
 結局、あっ、素晴らしい発見がありましたよ、で終わっているから、今一つ認識が足りない。記者自身がきちんと理解出来たかどうかはまるで関心の的にはならない。もしかしたら、とても理解力の不足している記者が仕事をしているのか。
 先の宝剣にしても同じである。提供された写真がどのようなのかは分からない。しかし元々がエックス線撮影の写真なのだから、言うならば、作り物である。文字をはっきりと見せようと、濃淡をより強くしたっておかしくはない。何よりも、これで読者がきちんと分かるか、との思いが大切だと思う。