夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

鍋は「暖かい」だけでなく「温かい」。表記の妙味と矛盾

2009年01月13日 | Weblog
 タイトルの前半は12日の東京新聞のコラム「筆洗」の最終行である。この言い方に誰も反対はしない。もっともな言い分だと納得する。それを納得させている力が、鍋料理の魅力に加えてこの「暖かい」と「温かい」の書き分けである。
 さて、コラムの文章の意味は何だろうか。文章全体から言うと、「鍋は部屋を暖かくして心を温かくする」である。なぜなら、鍋は暖房にもなる、との主旨だからだ。
 しかしこの文章は「鍋は体を暖かくして心を温かくする」とも読める。コラムを離れて考えれば、むしろ、こちらの方が主流なのではないか、とも考えられる。
 だが、ここで問題が起きる。
 体があたたかくなれば、心もあたたかくなる。つまり、どちらも同じではないか。それならどちらも「暖かい」か「温かい」のどちらかで同じに出来る。
 部屋があたたかくなれば、体も心もあたたかくなる。これまた「暖かい」「温かい」のどちらか一つになる。

 普通、「暖かい=寒の対語」「温かい=冷の対語」と考えられている。代表的な表記辞典はほとんどがこうした見解である。だが、「さむい」と「つめたい」はそんなに明確とは言えない。
 心は「寒い」とも「冷たい」とも言えるからである。また、温度にしても、「空気が冷たい」とも「部屋が寒い」とも言える。「空気が冷たい=寒い」である。ここから、「冷たい」はその物自体の温度の事で、「寒い」はそれによって起きる感覚の事である、と言えそうではある。心が「冷たい」のは心臓ではなく、思いやりが「冷たい」のである。それを相手が感じれば、自分の心が「寒く」なる。
 こうした「冷たい」と「寒い」の曖昧さに加えて、その対語であると表記辞典の言う「あたたかい」にはこれ一つしか言い方が無いのである。

 そこで表記辞典は、「寒・冷」の対語と言うだけではなく、
・温=一般用語。抽象的表現。
・暖=主として気象・気温に。
と、使い分けている。
 そこで、このコラムは「鍋は部屋の気温を暖かくして、心も体も温かくする」と言っている事がはっきりと分かる。
 しかし、「部屋をあたたかくする」場合に、部屋が冷たく冷え切ってしまっている時には、「部屋を温かくする」となり、部屋が寒いと感じれば「部屋を暖かくする」となりそうである。言っている本人には分かるとしても、これを読んだ側は、単に「部屋を温めた」あるいは「部屋を暖めた」とあった場合に、一体どちらだと解釈すれば良いのか。
 もちろん、そんな事はどっちだって良いのである。つまり、「あたたかい」と聞いたり読んだりした時に、その人が感じたままで良いのである。そこまで詳しく言うならば、「あたたかい」の一語ではなく、言い方を変える必要がある。ちょうど、「さむい」と「つめたい」で言い分けているように。

 『岩波国語辞典』も『新明解国語辞典』は、「あたたかい」でも「あたためる」でも「暖・温」の使い分けを示してはいない。どちらでも良い、と言っている。
 だが『新選国語辞典』は「あたたかい」ではどちらでも良い、ただ、反対語が「寒・冷」のどちらかで使い分ける、とは言っているが、「あたたまる・あたためる」では明確に使い分けを示している。
・部屋が暖まる・暖める
・ベンチを暖める
・スープが温まる
・心が温まる
 一見、無難かな、とも思えるが、「ベンチをあたためる」は別に温度を高くするのではない。結果的にはそうなるが、それを比喩的に使って「登場の機会が無い」事を示している。だから、まあそれでもいいよ、となると、心だって、本当にほんわかとあったかな感じがする時には「心が暖まる」と言いたくなるではないか。
 『明鏡国語辞典』も面白い。「一般的に」ではあるが、
・暖=気候・気温など、気体による全身的な体感。
・温=固体・液体による触感や、気体による部分的体感。
だと言う。
 でも、あたたかい食べ物では口や喉があたたかいと感じる(部分的体感)のだが、体全体もあたたかくなり、心もあたたかくなるのではないのか。
 このほか、大型国語辞典も動員するともっと面白いのだが、収拾が付かなくなる恐れもあるし、長くなるので、この辺で。
 「あたたかい」としか言いようが無いのを「温・暖」の二文字があるからと無理に使い分ける必要は無い。表記辞典は「暖・寒」と「温・冷」を対語扱いにしているが、エアコンは「暖冷房」である。気温で言えば「暖寒房」であり、部屋その物で言えば「温冷房」である。
 本当に、どっちだっていいじゃないか、と言いたくなる。