夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

JR西日本の尼崎脱線事故で、社長は無罪

2012年01月28日 | 社会問題
 罪を問われた事故当時の社長が無罪になった。事故に明らかに責任がある事が証明されない限り、罪には問えない。ここが裁判と言う制度の泣き所である。もちろん、冤罪で罪を着せられては大変だが、そうかと言ってこのような事故で誰もが責任を問われないと言うのはおかしい。
 一番の責任者は脱線事故を起こした運転士だが、死んでいるから何の証言も得られない。けれども客観的な証言ははっきりとある。

 事故列車の速度計の示している115キロと言う信じられない速度。乗客が思わず恐怖を覚えたほどのスピードだった。
 現場のカーブは時速70キロに制限されている。
 事故列車が停止位置を間違えて遅れ、伊丹駅で2分の遅れが出ていた。
 JR西日本は競合する私鉄に勝つために、運行速度を上げていた。競合する私鉄の軌道は広軌であり、JRは狭軌である。安全なのはもちろん広軌。
 列車の遅延などを起こした運転士には草むしり作業などの処罰が待っている。
 事故列車は尼崎駅で3分後に発車の東海道本線の快速長浜行きに接続していた。
 自動列車停止装置(ATS)は未設置だった。
 JR西日本は、これは他のどのJRとも同じだが、列車の運行を管理するのは鉄道部門ではなく、収益を重視する経営部門だった。一年後に改正はしたが。
 事故列車に乗り合わせていた運転士が会社に事故の連絡をしたが、会社からはそのまま出勤するように命じられた。
 事故を知った同社の社員達は、予定通りボーリング大会に参加していた。

 もっとほかにも様々な情況があるが、こうした会社の風土を考えると、誰に責任があるのかは誰にだって分かるはずである。社長は何のためにトップに座っているのか。取締役や管理職は何のために存在しているのか。

雪かきで、住んでいる人の心が分かる

2012年01月25日 | 暮らし
 おとといの雪は東京でも積もった。昨日の夕方にはほとんどの所で雪は残っていなかったが、今朝になっても、まだ残っている所には残っていた。今朝、私の自転車の前に、後ろに女の子を乗せた若い母親が走っていた。そこは一車線の車道で、タイヤの跡だけを残して、所々に盛大に雪が残っている。そこは雪かきをした訳ではないから、タイヤの跡も踏み固められているだけで、凍っていて危ない。そして母親の自転車が転倒した。私は急ブレーキを掛けたので、危うく転んでしまう所だった。私は後ろに重い荷物を積んでいたから、簡単にひっくり返ってしまう。

 ほとんどの家や店が自分の所の前の雪かきをしている。しかしその雪かきの仕方が問題だ。間口の狭い家は雪かきもそう大変ではないだろうが、間口の広い家が大変らしい。そこで、出入り口の前だけの雪かきをして、後はほったらかしにしている家が多い。
 それは商店でも大きなマンションでも同じである。大変なのは分かるが、特に商店なら、大事な客も通るのである。マンションなら管理人が居るだろう。そして、私が問題だと思っているのは、そうした家が道の南側に建っていれば、北側の道路は日陰になって、なかなか雪が溶けない。日陰を作り出しているのは自分達なのだから、日陰になっている部分の雪かきをして当然だと思う。すぐ前に道路があって、彼等は十分便利な思いをしているはずなのである。

 昨年の大雪の時だったが、交差点の角にある大手コンビニが自分の店の前の雪かきを全くしていなかった。そこは学童の通学路にもなっている。大きな変則交差点で、交差点の中が広いので、そのコンビニの前に平気で買い物客が駐車してしまう。横断歩道を渡るのに、視界が遮られて危なくてしょうがない。そこで、私は警察署にお願いをした。そうしたら、駐停車禁止(当たり前なのだが)の看板を出してくれて、「警視庁」の名前入りのコーンも提供してくれた。だから私達は、通学の時だけ、そのコーンを出して車が駐車するのを規制している。
 そのコンビニはそうした迷惑な車での買い物客も対象にしているのだから、当然に店の前の雪かきをすべきなのだ。
 あまりにも自分の事しか考えていない店なので、私はその店で絶対に買い物はしない。チェーン店だから、多分、そうした方針は他の店でも共通しているのだろうと思って、そのコンビニの他の店も絶対に利用していない。

 家の前に道路があって、迷惑もするだろうが、便利さもあるはずなのだから、大変だろうが、自分の家の前は自分で雪かきをすべきではないか、と思う。老人だけだったりして手が足りない家もあるのだろうが、そこは日頃からのご近所のお付き合いがある。そうしたお付き合いがきちんと出来ていれば、隣の家が手を貸してくれるはずである。
 雪かきの仕方で、住人の心が分かってしまう、と私は思っている。だから私ならみっともなくて、ほったらかしになどして置かない。たとえ面倒だなあ、が本心でも、そうした本心は見せないようにする。

読者に向かって「申されるな」と言う東京新聞の非常識

2012年01月23日 | 言葉
 今朝の東京新聞のコラム「筆洗」を読んでびっくりした。1秒の定義についての話なのだが、その中で「たかが一秒、と申されるな」とあるのだ。
 「申す」とは言うまでもなく、謙譲語である。他人のする事には使えないのは常識である。「と申されますと」は明確に間違いだ、とされている。『問題な日本語』(第1巻しか読んでいないが)と言う間違いの非常に多い本には「申される」の言い方は古典にもあるので、間違いではない、と書かれているが、単に古典の読み間違いに過ぎない。

 同書が例に挙げている「申される」は、『平家物語』からの引用で、岩波の『日本古典文学大系 平家物語』では「所望なさる」の意味で使われる事が少なくない、と説明している。例えば「小松殿のやうやうに申されけるによって」などの使い方である。
 これは「小松殿が懸命に所望なさったので」である。「所望」を使わなくても、「小松殿が懸命に申されたので」でも良い。なぜなら、小松殿が申した相手は、多分、平清盛である。小松殿とは清盛の息子の重盛である。
 重盛が清盛に対して「申す」、それを著者は重盛に敬語を使って「申される」とするのである。

 『問題な日本語』の学者も、東京新聞のこのコラムの執筆者も、何と言葉を知らない事よ、と私は呆れ返っているが、彼等の責任はそれでは果せまい。このコラムの場合には「たかが一秒、とおっしゃるな」が正しい言い方である。
 そしていつも思うのだが、何で校閲がこうした事に気が付かないのか、と。私は何度も東京新聞の校閲の杜撰さに苦言を呈している。好きな新聞だからこその苦言である。

物は大切に使いたい

2012年01月22日 | 暮らし
 デジタル対応をしていなかったので、私の仕事場と息子の部屋のテレビは見られなくなった。居間のテレビは見られるからあまり不都合は感じていなかった。仕事をしながらテレビを見ると、どちらかがお留守になってしまう。それにそれほど見たい番組も無い。
 ある量販店で前からデジタルチューナーを売っているのは知っていた。でもどうせならデジタルテレビに買い替えたいとも思っていた。それで買わなかった。けれども息子がデジタルテレビを買って、アナログテレビを捨てる事になった。それで私がそれを貰い受けた。何しろ、私のテレビは1986年製だったのだ。息子が「うちは骨董屋か」と言うくらい、私は古い製品を使い続けているのである。ほとんど使ってはいないが、ソニー製のβのビデオデッキも健在である。オープンリールのデッキも健在である。

 私としては新しいと言えるアナログテレビが来たのを機会にデジタルチューナーを買った。ビデオクリーナーをほんのわずかに大きくしたくらいの大きさでデジタルのBS放送も見られる。画面が小さい事もあるのだろうが、画質に不満は無い。
 ただ、アナログチューナーしか内蔵していないDVDの録画機の接続が出来ていないので、それが宿題になっている。
 8000円ちょっとでデジタルテレビが見られるのだから、物は使いようである。昔はもっと物を大切にしていたはずである。

平仮名でいろは歌を書いた皿が出土した

2012年01月20日 | 文化
 三重県の斎宮跡から、「いろは歌」を書いた皿の破片が出土した。斉宮とは斉王の居た所。斉王は、天皇に代わって伊勢神宮に祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕える独身の皇女である。良く知られているのが、天武天皇の皇女で、持統天皇によって謀反の罪を着せられて殺された大津皇子の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)である。皇女の弟の死に対する悲しみの歌は、万葉集に何首も載せられていて、読む者の涙を誘う。

 出土したのは「ぬるをわか」と「つねなら」の部分で、私には「つねなら」の方はそうとは読めないのだが。この「ぬるをわか」の文字だが、「を」は今とは形が違うし、「わ」も新聞のカラー写真ではそうとは読めないが、「ぬる」はとても良く分かるし、「か」も点の部分が欠けているが、分かる。
 記事には「斎王に従って都から来た女官は教養を持っており、皿のいろは歌は、地元で採用された下級の女官が文字を覚えるために書いた可能性が高い」と書かれている。
 この言い方は、地元の下級女官は教養が無く、それでいろは歌で文字を練習したのだ、と言っている。そうでなければ、何も「都から来た女官」と「地元で採用された下級女官」などの言い方をする必要は無い。

 しかし、私にはこれらの文字の形がとても素晴らしく見える。特に「ぬるを」は素晴らしいと思う。平安時代や鎌倉時代に書かれた平仮名の和歌集の書道の手本が何冊もあるが、そこに出て来る文字と遜色が無い、と私は思う。
 私は平仮名に特別の興味を持っている。現在使われているパソコンの文字でも、平仮名の形が悪くて使いたくないフォントが幾つもある。全部が悪いのではないが、いじけていて嫌だなあ、と思える文字が幾つもある。
 だから、自分で平仮名書体を作ってみようと、平仮名の手本とされている和歌集の写本の写真を色々と調べている。

 そしてこの文字が書かれている場所にも不審がある。皿の内面の外側に「ぬるをわか」が書かれていて、外面のやはり外側、内面の外側と同じ所に、「つねなら」が書かれている。初めから「いろはにほをへとちりぬるを」と書き始めたのなら、続く「わかよたれそ」があって、その次が「つねならむ」になる。外側に「わかよたれそ」まで書いたとしても、まだ皿には余白が十分ある。それなのに、すぐ次の「つねならむ」を外側に書く、と言うのが不自然に思える。
 写真をつくづくと眺め、歌の続き具合を考えるのだが、どうにも腑に落ちない。
 そして、上に述べた「地元で採用された下級女官が文字を覚えるために書いた」に大きな不信感がある。



原発の危険な安全評価

2012年01月19日 | 政治問題
 「安全評価が危険」。こんな馬鹿馬鹿しい話は無い。
 昨日の午後5時半頃、霞ヶ関の仕事場に行ったら、何台もの装甲車らしき車の赤色灯が点滅し、何やら拡声器で訴える声が聞こえる。暗いのでよく分からない。何かのデモかな、と思った。そして3時間後、帰る時にもまだそれは続いていた。
 今朝の新聞で、それが経済産業省での安全評価の意見聴取会に対する抗議らしい事が分かった。私の仕事場は、経産省の一軒置いた隣にある。

 原発の寿命が40年から簡単に60年に引き延ばされた。福島県で採取された砕石が放射線を浴びていて、それを使ったマンションが放射線の被害を受けている。
 そして相変わらず、原発に厳しく対処すれば、電力が不足する懸念がある、との考え方が跳梁跋扈している。一体、いつになったら、そうした悪夢から目覚めるのか。
 今朝の東京新聞の社説は次のように語っている。

 電力の供給不足を訴える電力業界への配慮より、安全、安心を求める国民の、作業員たちの期待に応えるために、原発の延命には、厳しく歯止めをかけるべきである。
 私たち消費者にも、新時代に踏み出す覚悟はある。

 まさに、国民の声その物である。身に合わない贅沢を求めず、真剣に実質的な暮らしをしよう、と国民は考える事が出来ている。そうした国民の認識にも及ばない、その遥か下の方で自分達の欲得にあくまでもしがみついているのが、日本の今の指導者達かと思うと、背筋が凍る思いがする。

日の丸・君が代問題への最高裁判所の判断

2012年01月17日 | 社会問題
 最高裁は処分を甘くする判断を下した。減給以上の懲戒処分には慎重な考慮が必要だ、と。ただし、あくまでも処分の妥当性の問題としてである。
 子供を教育する立場の人間が、自分の信条だけを唯一絶対に正しいとして、子供達に押し付ける事に私は違和感がある。押し付けてはいない、との理屈は通らない。目の前で、恩師がしている行為を見れば、感化されない方がおかしい。
 何で日の丸と君が代が忌避されなければいけないのか。イギリス国歌などは君が代よりもずっと明確に「神代女王を救い給え」と歌っているではないか。そしてその国歌を国民が一部であっても忌避しているとのニュースを私は聞いていない。

 マスコミは、すべての国とは言わないが、主要国家に対して、国旗と国歌を忌避している動きがあるのか無いのかを、きちんと調べて報道すべきだろう。もしもそうした動きが大勢を占めるのなら、日本の教職員の日の丸・君が代忌避は世界的な流れとして認めるしかないのかも知れない。
 けれども、そうした国がほとんど存在しないのなら、やはり、日本の教職員の一部はどこかで道を踏み外しているとしか考えられない。

消費増税と野田内閣

2012年01月15日 | 政治問題
 昨日の東京新聞に「消費増税シフト始動」の大きな見出しがあり、「首相、一体改革決意」とあった。いよいよ消費税の増税に取り組む気構えが明確になった。見出しでそうだと分かるが、でも「シフト」とは一体どのような意味なのか。何となく分かるのだが、正確には分からない。

・シフト=(米語で「位置の移動」の日本語形)1・変形守備態勢(野球で)「バントシフト」。 2・入れ替え(自動車のギヤの)
・シフト=1・形勢・配置の変更。特に、野球で、打者に応じた守備位置の移動「バントシフト」。2・切り替え。「ギアシフト」「シフトキー」

 そうか、パソコンの「シフトキー」ってそう言う意味だったのか。いつも使っているくせに、その意味を考えた事が無かった。でもパソコンの場合に「シフト=チェンジ」とは思いにくい。
 それにしても、何でこんなカタカナ語を使う必要があるのだろうか。「消費増税態勢かためる」でいいではないか。記事を分かりにくくしてどうしようと言うのか。多分、この見出しを付けた記者なりデスクは「シフト」でとても分かり易くなった、と考えているのだろう。だから、時々、分からない文章が出て来て、私は頭を抱えている。

 そして今日の同紙。共同通信社の新内閣発足を受けての全国緊急電話世論調査の結果が発表されている。改造効果が全く見られないのに、ほっとする。国民はそんな事で騙されたりはしないのである。ただ、目玉としての岡田氏の登用に「期待する」が59・4%もあって、一瞬、あれっ? と思った。世論は増税を支持しているのか、と。
 けれどもそうではなかった。国会議員定数と国家公務員給与の削減が実現しない場合には「増税すべきでない」との回答が79・5%にも達しているのである。

 首相が岡田氏に期待している「ぶれないで、逃げないで結論を出してくれる政治家だ」が実現する事を心から祈る。でも常に「ぶれて、逃げてばかりいる」首相が、そう期待するのを本当に信じられるだろうか、との疑念は大きい。首相が逃げないのは、原発を輸出すると言う、信じられない政策からだけである、と私は思っている。

人の心は簡単に分かってしまう

2012年01月14日 | 暮らし
 とても詰まらない話をする。私は仕事が無くて、仕方なく夜間の掃除の仕事をしている。霞ヶ関にあるビルの一流会社を担当している。その会社では毎年仕事始めの4日に社員全員に樽酒が振る舞われる。こもかぶりの大きな樽が二つ。お祝いだから、たくさんは飲まない。それでたっぷりと残った樽が二つとも我々に「お下げ渡し」になる。それを20名のスタッフで頂く。現場監督の女性がペットボトルに詰めて5日に我々にくれる。

 ところが、今年は私が出勤すると、ほんのわずか前に監督の女性は帰ってしまっていて、私はその酒をもらえなかった。楽しみにしているだけに本心がっかりした。多分、新年会などがあって急いで帰ってのだろうが、その時間帯に出勤するのは私一人しか居ないのだから、机の上に、私宛のメッセージを付けてボトルを置いておけば、それで用が足りる。そして彼女の机の下を見ると、そこには大きなペットボトルに入った樽酒が置いてある。色で、それが樽酒だと分かる。私は能天気に、そうか、これは私用なのだな、などと考えていた。それに、その会社の担当は、私なのである。

 そして翌日、やはり彼女は先に帰ってしまっている。いつもは私の顔を見て、あなたが来たから帰るとするか、と言って帰るのに、二日間も早帰りである。そして机の下を見ると、何と、ペットボトルは消えていた。
 そうか、私にはくれないつもりなんだな、と思って、不愉快になった。何しろ7、8、9と三日連休なのである。くれるつもりなら、6日にくれるはずである。本当に我ながら卑しいと思うのだが、例年の事でもあり、楽しみにしているのだから、それを無視されては不愉快になる。勤労意欲にもかかわる。

 そして三日間の休みで、私の不快感は消えた。10日、妻は、案外、今日くれたりして、と言うが、私は否定した。そんな誠意の無いような事をする訳が無いと。誠意があれば、本当に5日とか6日にくれているはずである。ところが出勤すると、はい、これ樽酒、と言ってくれたのである。そうか、くれないつもりではなかったのだ、と思い直したが、彼女の言葉はただそれだけである。遅くなったけど、の一言も無い。それにそのペットボトルは5日の私が見た彼女の机の下のボトルよりも遥かに小さいのである。

 本当に下手なやり方だなあ、とつくづくと思ってしまった。
 私なら、先に言ったように、書き置きをしてボトルを置いて帰る。ほかの人よりも五日も遅れて手渡すような事はしない。遅くなったのなら、その理由も言う。そうでなければ気持は伝わらないと思う。それに、大きなボトルを見せて置いて(本人は見せたつもりは無いのだろうが)、小さなボトルを渡すようなへまもしない。

 正直なのかも知れない。私は彼女が口で言うほどには重く見られてはいないのだろう。単に真面目で重宝な人間だと思っているのだろう。それでも、口で言っている事に合わせる努力をするのが普通である。しかも現場監督なのである。所詮は、働かせる立場と働かせてもらっている立場の違いだろう。そして、それを「働いてもらっている」立場と「働かせてもらっている」立場にするのが、上に立つ者の役目だろう。ただ、私は清掃の仕事を「働かせてもらっている」とは微塵も考えていない。罰当たりかも知れないが、仕方なくやっているに過ぎない。でも、ずるいから、そんな本心は絶対に見せない。信用出来る仲間の一人とは、そうした事を話し合ってはいるけれど。

 こんな浅ましい話をしているのは、ひとえに本心は無防備に出てしまうのだ、と思うからである。そして自分が無防備だとは露ほども思っていない人が居る。私ももしかして、そうした無防備状態になっている場合があるのかも知れない。十分、気を付けなければいけない。自分が駄目な人間だと分かってしまうのは仕方が無いが、それが場合によっては相手を傷つけている事に気付くべきだと思う。
 

原子力を扱っているのはのは素人ばかりだと分かった

2012年01月13日 | 社会問題
 12日の東京新聞のトップニュースは、核燃料サイクル事業が批判の中で着々と再開されていると伝えている。

 福島第一原発事故を受けた新たなエネルギー政策が決まっていないのに、使用済み核燃料再利用する「核燃料サイクル」事業の中核的な二施設で、試験運転や建設を再開する動きが出てきた。核燃料サイクルは中止になる可能性があり、そうなれば不要な施設となる。専門家からは批判の声が出ている。

 結局は、中止になる前に荒稼ぎして置きたい、との気持がはっきりと現れている。
 そして今日13日には次の大きな見出しが躍っている。

 原子力安全基盤機構 検査手順丸写し まん延

 原発関連の検査を行う独立行政法人の原子力安全基盤機構が作成した核燃料の検査方法の手順書が、検査を受ける側の燃料加工会社が作った手順書と全く同じだった事が分かったのである。
 検査を受ける側の手順書がどのような物かが分からないのだが、自分達に不利な手順になっているはずが無い。だから厳正で公正な検査をするためには、検査する側が独自に手順書を作る必要がある。ただし、それには検査を受ける側からの設計図や性能などの、検査に必要な情報を得る必要がある。それと、検査の手順書とは発想の方法が違うはずである。
 それなのに、検査を受ける側が自分達に有利に作った手順書をそのまま使って検査をした、と言う事になる。その事について、指摘を受けた原子力安全基盤機構は「完全に自前の手順書など作れない」と言う。新聞はそれを「開き直りともとれる反応」と批判している。
 完全に自前の手順書が作れないのであれば、検査をする権利は無い。けれども、それでは金にならない。そこでいい加減な検査をして荒稼ぎをするのである。

 その東京新聞のコラム「筆洗」は、茶道をたしなむ伊達政宗の逸話を取り上げている。自分の持つ最も高価な茶碗を落としそうになった政宗が思わず動揺した。そして「百万の敵にも動じないつもりの自分が、いくら高価でも茶碗ごときのことでハッとなった。残念至極」とつぶやくや否や、その茶碗を投げ割った、と言うのである。
 その故事を小沢一郎と四億円に結び付けて、小沢は四億円ごときの金ではびくともしない、と豪語しているようだ、と揶揄して、コラムを次のように結んでいる。

 「天下国家」に比べれば、国民など…。

 気の聞いたオチだと思う。そのオチは、この原子力安全基盤機構にもぴったりと当てはまる。
 「原発推進」に比べれば、国民など…。