夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

人間は万物の霊長か。心を磨く事を忘れた「お猿さん」

2009年01月22日 | Weblog
 20日の東京新聞夕刊に「人間は万物の霊長か」と題して、板橋興宗と言う僧侶が書いている。
 人間の「考える」能力の素晴らしさを讃え、「しかし、文化生活の進歩に比例して人類はしあわせになったか」と問い掛ける。その同じ紙面には「名古屋の拉致殺害 3被告に死刑求刑」の大きな見出しがあり、小さいながらも「刺殺事件公判 元陸自少年に無期懲役求刑」の見出しがあり、「国有地入札 大前議員が不透明取引 7000万円安く入手」の見出しもある。
 名古屋の事件では、3人は携帯電話サイト「闇の職業安定所」で知り合ったと言う。それこそ、「考える能力」が最悪の面に向かって開花してしまっている。
 「便利さ」と言う魅力的な言葉に惹かれて、人類は次々と不可能を可能にして来た。そうした技術を磨く割には心を磨いて来なかった。と言うよりも、科学技術と人間の心の乖離は非常に大きい。
 どうでも良い事だろうが、やはり同じ紙面に、ジェルネイルと言う爪の装飾にはまっていると言う東京大学工学部特任教員の女性のコラムがある。美容業界は科学技術と柔軟に融合していると書かれている。単なるマニキュアではなく、「重合反応」と言う化学変化を利用しているのだそうな。私は以前からけったいな事してるなあ、と感心しているのだが、爪を磨くより、心を磨いて欲しいと思っている。

 一日前の夕刊のコラムには、大学での講義における学生との約束事と称する事が書かれている。
1 遅刻は欠席とみなす。
2 携帯電話は使用禁止。
3 私語をつつしむ。
4 帽子をかぶらない。
5 飲食の禁止。
6 前列から着席。

 「当たり前すぎて恥ずかしい限りだが」と執筆者は言うが、ホント恥ずかしいねえ。これって小学生に言う注意じゃないの? と思ってしまう。それなのに、「無気力、無目的に見えた彼らの態度がこの約束事だけで一変した」とも言う。コラムのタイトルは「コーチング論」であり、スポーツ界のコーチングに言及する、その枕になっている。
 コーチングの最終目的は、自分の特性に気づかせ、自発的な行動を引き出すことだ、とある。その技術の一つがこの六つの約束事のように、「いろんな現場での約束事の取り決めである。机上論だけでは務まらないのが現代のリーダーだ」と締め括っている。
 主旨は分かる。分かるが、これが「現場での約束事」だと言われると、本当に「技術と心の乖離」は絶望的に大きいのだと思えてしまう。コーチングって、ずいぶんと程度の低い事から始めなきゃならないんだなあ、と同情してしまう。でも、それでいいんだろうか。
 板橋師は、10人あまりの修行仲間と猫たちに囲まれ楽しく暮らしている、と紹介されている。そう、我々は犬や猫から学ぶべき事がたくさんある。数日前、パリには野良犬しか居なかった、との話を読んだ。尾道などの町と同じように、犬が気ままに町の中を歩き回り、人間と共存しているらしい。そうした犬の姿から人間は何かを学べるはずだ。
 だが、日本のように、野良犬を廃絶し、犬はすべて鎖に繋いで家で飼う事しか出来ないと、何も学べないのではないのか。野良犬は危険だ、との考えは人間の独善的な考えだと思う。犬をそこに追い込んでいるのは人間なのである。
 同師は、人類とお猿さんを分けたのは、人間が「考える」能力を持った事で、「万物の霊長を誇った人類の衰亡を、樹上のお猿さんたちに笑われないような英知を私たちは持てるでしょうか」と問い掛けている。
 私は今現在で、もう既にお猿さんに笑われていると思っている。