夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

正倉院の宝物の写真が2紙でわずかに違う

2010年10月31日 | 歴史
 正倉院の宝物を記帳する「国家珍宝帳」に記載されていて、「除物」の付箋が貼られ、持ち出された事が確実だった2本の宝剣が、あの大仏の足元にあった事が分かった。明治時代に発見されていたのだが、それが正倉院の宝物だと言う事が分かったのである。
 聖武天皇の遺愛の品で、大仏と一体となる事で、国を見守る力になると光明皇后が考えたのではないか、とも言う。宝剣の由緒が分かった事と、「国家珍宝帳」の記録とその行方が明らかになった意義は大きい。
 今頃になって分かった理由が今回のこのブログのテーマである。
 元興寺文化財研究所が保存修理中にエックス線調査をした。そして刀身に「陽劔」「陰劔」の象嵌の銘文が見付かった。その写真が朝日と日経に載っているのを見た。もちろん他紙でも載せているはずだが、私の見たのはこの2紙である。最初に見たのは日経で、「陽劔」「陰劔」のそれぞれを白抜きの点線で囲んで分かり易くしているが、よく見ないと分からないくらいに薄い。特に「陰劔」がはっきりしない。
 まあそんな物だろうと思っていたが、朝日の写真を見て驚いた。日経の約1・3倍の大きさで、「陽劔」「陰劔」の文字が非常に明確に写っている。なぜなら、朝日の方が濃淡がはっきりしている。写真の提供者は同じである。よくよく見ると、朝日の方が全体に黒っぽいのである。だから白く抜けた文字がはっきりと分かる。
 同じ写真のはずなのに、なぜこんなにも明らかな違いがあるのだろうか。

 新聞の発掘調査の写真では、記事では分かるのだが、写真がどうにもよく分からないと言う事が決して少なくない。たくさんの物が写っていて、一体、このどこが記事に書かれている物なのかがまるで分からない。また分かっても、どうにも腑に落ちない事もある。
 奈良で、堀で囲まれた大きな建物の跡が発見された。堀は石張りで深さも幅も堀として建物群を守るのに十分な大きさである。その写真もある。当然に我々はそこには当時は水が張られていたのだろうと思う。しかしそうではなかった。堀はL字型をしており、L字の上の端(北)と右の端(東)は開放されたままになっているのだ。なぜなら、そのどちらも谷に面しているからだ。谷が天然の要害になっている。だからこの堀は空堀なのである。水を溜める事は絶対に出来ない。
 けれども、記事にはそのような事はまるで書かれていない。カラー写真があっても、遺跡で崩れているから、そのような説明が無い以上は分からない。

 つまり、この記事を書いた記者にはそれが空堀である事の十分な認識が無かった。記事の内容を提供した文化財研究所にもそうした認識が不足していたのだろう。水があろうと無かろうと堀でさえあればそれで良いと思ったに違いない。そんないい加減な事がまかり通っている。いや、空堀だとは知っていましたよ、と言うなら、きちんとそう知らせるべきである。
 「ほり」には「堀」と「濠」の二つがある。辞書には「城の場合には濠とも書く」などと説明しているが、「濠」と書くのは、水を意識しているからだろう。常用漢字ではないのを承知で敢えて「濠」と書く。しかし国語辞典はどれもこれも「堀=地面を掘って水をたたえた所」と説明をしている。もしも、水が無ければ堀としては役に立たないのだ、と言うのなら、この記事でははっきりと「空堀」である事を書くべきなのである。
 結局、あっ、素晴らしい発見がありましたよ、で終わっているから、今一つ認識が足りない。記者自身がきちんと理解出来たかどうかはまるで関心の的にはならない。もしかしたら、とても理解力の不足している記者が仕事をしているのか。
 先の宝剣にしても同じである。提供された写真がどのようなのかは分からない。しかし元々がエックス線撮影の写真なのだから、言うならば、作り物である。文字をはっきりと見せようと、濃淡をより強くしたっておかしくはない。何よりも、これで読者がきちんと分かるか、との思いが大切だと思う。

相変わらず国語辞典はひどい

2010年10月30日 | 言葉
 大岡越前の時代劇で「とんでもない」を取り上げて、似たような形の「くだらない」についても私見を述べた。漢字表記をすれば「下らない」となる。つまり、「下る」の否定である。これはその後の顛末だが、5冊の辞書を調べて、その内の3冊に「下る」+「ない」との説明があった。しかし「下る」の意味は「高い所から低い所へ」が元々の意味で、そこから「程度が劣る」の意味が派生している。
 「下らない」は「つまらない。価値が無い」などの意味である。従って、「下る」の否定なら、「程度が劣る」の否定になる。それは即ち「程度が劣らない=程度が良い」である。そんな馬鹿な話は無い。
 つまり、「下らない」が「くだる」+「ない」だと言うからには、その「下る」には「上等な」の意味が無くてはならない。そして先の3冊の「下る」にはそのような意味は無い。それはほかの辞書でも同じである。「下る」にそのような意味を挙げる馬鹿な辞書は存在しない。
 そう、こうした説明は破綻している。それなのにそれを堂々と書いているから「ひどい」と私は言っている。「相変わらず」はこんな事はよくある事だからである。それを私は『こんな国語辞典は使えない』と言う本に書いた。あまり売れなかったようで、出してくれた洋泉社は以後の私の原稿には目もくれない。
 ひどい説明の中でも『岩波国語辞典』は「下る」の項で、「下らない」は「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意からという、と説明をしているから、まだましなのだが、それでもおかしな説明になっている。
 「下らない」は「連語」で、「下る」の2と3を見よ、とある。その3は前記の「読みが下らぬ」などの事である。しかし2は「ある規準量より少なくなる。下回る」なのであって、それは「連語」とは言えないだろう。用例は「死者は十名を下らない」で、説明にも「多く打消しの形で使う」とあるが、それは、少なくは「下る」の形でも使うとの意味になるはずである。
 この『岩波』の説明にしても「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意味が簡単に分かるとは言えない。「下る」に同書は「筋が通る」などの意味は全く挙げてはいないのである。「筋が通る」は肝心の「下らない」の説明に「価値がない。筋が通らず、ばかばかしい」とあるだけなのである。そしてこれが「下らない」の説明だから、その説明が成り立っているに過ぎない。「下らない=価値がない」なのだが、「下らない=筋が通らない」ではないのだ。「下らない=筋が通らず、ばかばかしい」なのであって、「ばかばかしい」が重要な意味なのである。

テレビの時代劇「大岡越前」は良く出来ている

2010年10月30日 | 言葉
 これは再放送、多分、再々放送のはずである。いや、もしかしたら再々々放送かも知れない。なぜなら、再放送として、私は既にこれを二度見ている。私が見る以前に再放送していた可能性は十分にある。
 それでも、話がとても上手く出来ている。いい加減な所が無い(私にはそう見える)。話のつじつまも合うし、きちんと伏線も張られている。ある話では、無実の罪で男が捕らえられた。その牢屋の場面で、囚人が持病で苦しみ出し、それ医師を、と大騒ぎをする場面があった。そうか牢屋ではそうした事もあるのだなあ、と私は思って見ていた。
 無実の男が牢屋で病死した。そしてそのまま葬られた。死人に口無しで、男の罪が決まった。しかしそれは大岡越前の罠で、そこから真犯人をあぶり出す、との筋書きなのだが、結局、無実の男は生きていた。埋葬されたのは、前の場面で持病で苦しみ出した男だったのだ。
 これなど、空の棺桶を埋葬したって良さそうなものだが、そうはしない。もしかしたら、死人が出たと言う事がヒントになってこうした作戦が生まれたのか、とも考えてしまうような伏線の張り方である。

 そして出演者がいい。特に北大路欣也の大岡がいい。本当に心のある名奉行を見事に演じている。10月26日、落語でも知られる白州で二人の親が子供を取り合う話が出て来た。一件落着したその話の結末に「良い下り酒が手に入りましたので」と言う短い言葉が流れた。うっかりすると聞き流してしまうような場面である。
 古語辞典を調べても「下り酒=上方産の酒で江戸へ輸送されたもの」くらいの説明しか無い。その辞書には「下らぬ=つまらない。とるにたりない」の説明しか無いのだが、私はずっと「下り物ではない=下らない=つまらない物」と思っていた。
 当時、いくら「江戸時代」と言う名称ではあっても、それは幕府が江戸にある、と言うだけの事であって、文化的にはやはり上方は先進文化圏なのである。だから加工品にしたって、上方産の方が優れていて当然である。だから「下り酒=上等な酒」なのである。
 先の「良い下り酒が手に入りましたので」のせりふは、「おいしいお酒が手に入りましたので」で十分に意味が通じるし、むしろ、その方がずっと分かり易い。上方からわざわざ輸送された手間の掛かった酒の意味も大事だろうが、それなら、東北地方から輸送された酒でも良い理屈になる。「下り酒」には「上等な酒」の意味が十分にある。だから、「おいしいお酒」には言い替えられないのである。
 この脚本を書いている人は素晴らしい人だと思う。

 と書いて終わりにしていた。ところが、次の回には「とんでもございません」が出て来た。とんでもない話である。現在は「とんでもございません」を認める学者も増えて来たが、それでも本来は「とんでもない事でございます」が正しいのである。だから江戸時代に「とんでもございません」があったはずが無い。「とんでもない」との言い方が江戸時代にあったとは限らないが、江戸時代に「とでもなし」の言い方があったのは確かである。

 そして「とでもなし」と意味のほとんどよく似た「とんだ(飛んだ)も江戸時代にはあった。
 しかし、「とでもなし」はそれで一つの言い方になってしまっている。この「なし」は「とでも」あるのか、なしなのか、ではない。元々は「ある・なし」だったのだが、「とでもなし」で一つの言葉なのだから「ありません」「ございません」にはならないのである。
 そのあたりが混乱して、「とんでもない=とんだ」なのだから、「とんでもない」は「とんだ」の否定であって、「とんでもございません」が成立する、との考え方になるのだろう。
 「見とうも無い」が「みっともない」になって、それは語源が忘れられているから「みっともございません」にはならないのと同じように、「とんでもない」も語源が忘れられて、「とんでもございません」にはならないのだ、と言う考え方の方が正論なのである。

 「下り酒」も「とんでもない」も決して易しい言葉ではない。そして今では使う人が居ないような言葉である「下り酒」などを使っているからには、相当に言葉を知っている人に違いない。でも、その人が「とんでもございません」と言っている。
 そうなると、このドラマの脚本家は一体どんな人なんだろうか。

CMはやはり日本語の勝ち

2010年10月29日 | 言葉
 テレビなどのCMでどのような言葉が記憶に残るか、と言う調査をした。これは日経の「春秋」と言うタイトルのコラムの記事。参考までに今年の上位五つは次のようになる。
・お口の恋人
・お、ねだん以上
・あなたと、コンビに
・あしたのもと
・ココロも満タンに
 因みに私は全部分かったが、「あなたと、コンビに」は時々、「あなたのコンビニ」のように聞こえてしまうが、それで話がおかしくなる事はない。まあ、つまりはどうでも良い、とも言える訳だ。それほど「お口の恋人」だとは思っていないし、「あしたのもと」だとも思っていない。ただ「お、ねだん以上」はそうだな、とは思うが。
 上の「お口の恋人」は9年連続で分かり易さのトップだそうで、8割以上が正解だったと言う。その理由として「簡潔で分かりやすく、具体的な商品やサービスと重なるものが記憶に残りやすい」そうだ。
 そして「逆に消費者の心に届きにくい広告にも共通の特徴があるらしい」とコラムは言う。何がそうかと言うと「あれこれ詰め込み過ぎ長くなったものと、英語だ。一見もっともらしいが、何を言いたいかよく分からない」と書かれている。

 ごくごく当たり前の事である。for beautiful human ilfeは最近見なくなったが、相変わらず、make it possible wlth ○○とかideas for lifeとかやっている。ただ最近は英語の字幕だけ流して、発音したりはしない事も多い。こうなると、まさに見てくれ、だけの事になる。特に命令調の英語など、何をこの野郎、と言った感じになるから、発音はしないのかも知れない。
 コラムは「調査担当者によれば、企業の身の丈に合った言葉を使うことが大事だそうだ」などと言っているが、そんな事は調査担当者によらなくたって、新聞記者なら当然に知っている事である。いや、知っていなければならない事だ「新聞は身の丈に合った言葉を使うべきだ」と。だから、それはコラム氏としての見識として書くべきだと私は思う。
 コラムは最後に「消費者に近づくための努力の多くが、逆に距離を広げているならもったいない」などと書いているが、もったいない、のではない。近付くための努力が距離を広げているのだと言う事を企業がまるで認識していない事が問題なのだ。コラムは次のようにも言う。
 「いま人々が求めているのは、身近に寄り添ってくれる家族や友人のような会社や商品ではないか」
 でもそれは今に始まった事ではないと思う。昔から人々はそうした会社や商品を求めて来た。そしてそれに合った会社や商品が売れて来た。それを我々は肌身に感じて知っている。しかし企業はそれを知らないし、知ろうともして来なかった。して来たのは、自分をさも上等そうに見せる事だけだった。その延長線上にあるのが、長口上や英語でのCMなのである。
 もちろん、みんなからよく分かると思われて浸透しているCMの会社や商品だって、身近に寄り添っているとは限らないが。そうであれば、これはまことに見事なCMだと言うしか無い。
 このコラムは日経のだから、企業に寄り添ってしまうのは分かる。庶民の味方のような格好をしても、そうはならない。こうした何でもないような所に、その企業、この場合は新聞社、の本音が出てしまうのだと思う。

古代史をいい加減に扱う人々・最終回

2010年10月28日 | 歴史
 聖徳太子について考えた。彼が問題になっている最大の理由は、推古天皇の時に遣隋使が派遣されて、隋からは答礼の使者も来ていると言うのに、『隋書』にはそれが全く記録されていない事にある。
 推古天皇の15年(607)小野妹子を派遣し、鞍作福利を通訳とした。16年4月、隋の使者・裴世清と12人の部下が妹子に従って筑紫に到着した。天皇は難波吉士雄成を迎えに出した。6月15日、客人達は難波に船を着け、飾り船30艘で出迎えた。8月3日、客人達は飛鳥に入り、飾り馬75匹を遣わして迎えた。案内役は額田部連比羅夫、阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人。
 以上は日本書紀の伝える内容である。
 一方、似たような内容を『隋書』は伝えているが、細部が明確に違う。
 推古天皇の15年、多利思比孤が朝貢。国書に曰く「日出づる処の天子(以下略)」。帝はこれを見て喜ばず、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以って聞するなかれ」と命じた。16年、隋の使者・文林郎裴世を遣わした。倭王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従えて儀杖を設け、鼓角を鳴らして迎えた。10日後、大礼可多?を遣わし、二百余騎を従えて迎えた。

 日本側から使者を送り、翌年隋から使者がやって来た事は年代は両書共に同じ。隋からの使者が裴世清であるのも同じである。しかし日本側の使者の名前がまるで違う。出迎えたのも、日本書紀では最初は飾り船30艘であり、2ヶ月後に75頭の飾り馬である。隋書では、最初は数百人、10日後に二百余騎となっている。

 ここでもまた、名前が違うのは、発音の一部を写したからだ、と学者は考えている。阿輩台は「おほしこうちのあたいぬかて」の音の一部か、と言い、可多?は「ぬかたべのひらふ」の「かたべ」の音を写したのだろう、と言う。先には、「たらしひひろぬか」が「たりしひ」になり、今度は「ぬかたべ」が「かたべ」になる。何とも出来も悪ければ耳も頭も悪い役人どもである。
 この二つの出来事を、異なる出来事であると考えれば何の問題も無い。しかし日本書紀は姑息な事をしている。遣隋使は「大唐」に派遣した事になっているのである。解説書は簡単に「大唐(隋)」として処理しているが、仮にも朝貢した相手国である。その名前を次の時代の国にするとはとんでもない事である。
 なぜこんな事をしたのかは明白である。日本書紀編纂当時、隋書は存在していた。それなのに、その中には自分達、大和朝廷の事はまるで書かれていない。あるのは、知らない(本当は知っているのだが、日本列島には大和朝廷しか存在しないのだ、との大義名分からはそうは言えない)人々の名前ばかりである。だからそれは一切無視した。しかし隋書を読む人間も居るだろう。そうなると困る。そこで隋書の記事は遣隋使であり、日本書紀の記事は遣唐使であるとして、ごまかしたのだろう。西暦を使っているのではないから、全く困らない。隋書だから、遣唐使の事が書かれていなくても当然である。

 上の日本書紀の記事で腑に落ちない点がまだある。隋からの使者が到着したのは筑紫で、それは4月の事。そして天皇は使者達を召し、難波に新しい館を造った、とある。まるで、着いたと同時に出迎えて飛鳥の都に召したかのように書いてある。しかし飛鳥と筑紫は船で20日ほどもかかるほど離れているのである。だからすぐ次には使者達は2ヶ月も後になって難波に船を着けた、と正直に書いているのである。
 こうした文章の流れを学者達は一向に気にしない。と言うか、気が付かないのか。あるいは気が付かない振りをしているだけなのか。気が付けば、このおかしさをまた別の説明で解決しなければならなくなる。もうこれ以上、どうやってつじつまを合わせたら良いのか分からないのである。
 これは実に簡単な事なのである。
 隋からの使者は筑紫に上陸した。筑紫に何の用も無ければ、上陸などせずにそのまま瀬戸内海に入り、難波に船を着ければ良いのである。日本書紀で、筑紫到着が単に「4月」で、難波到着が6月15日、飛鳥に入ったのが8月3日と日にちが事細かに書かれているのはそれが事実だからだろう。「4月」としか書けないのは、4月の何日かは分からないからだろう。なぜなら、それは大和朝廷には関わりの無い事だからである。
 隋の使者は筑紫の多利思比孤の国にやって来たのである。それが4月の何日かは分からない。だが、難波に着いたのが6月15日である。斉明天皇の一行は難波から松山まで8日間かかっている。そこから博多までも同じくらいの距離だから、20日はかからないだろう。仮に20日かかったとして、使者の筑紫出発は5月25日頃と考えられよう。4月の何日に着いたのかで違って来るが、どう考えても筑紫に一ヶ月は滞在していた計算になる。使者の一行は筑紫で何をしていたのか。彼等はあの無礼な国書を書いた王がどのような人物なのかを実際にその目で確かめるためにやって来たのである。そして王から大歓迎を受けている。
 それは当然である。多利思比孤は自分の書いた国書が煬帝の怒りを買った事を伝え聞いている。これは困った事になった、と思っている。だから渡りに船なのである。そして裴世清は多利思比孤と会って「朝命既に達せり」と伝えて来た。会見しただけで煬帝の命令が達せられたのである。彼は多利思比孤の実情をその目で見て、「日出づる処の天子云々」の文言が多利思比孤の尊大さ故ではない事を知ったのである。「朝命」とは言うまでもなく、「多利思比孤の朝貢を認める」である。
 この後で裴世清一行が飛鳥に向かったのは明白である。隋書には「朝命既に達せり、請う即ち塗(みち)を戒めよ」との彼の言葉がある。道中の警備をしてくれ、と頼んでいる。彼等はこれから未知の道を行くのである。
 そして隋書は最後に「此の後遂に絶つ」との不思議な文言で締めくくっている。多利思比孤の後継と思われる倭国の使者はその後も唐と交渉を持っている。それは『旧唐書』にも書かれている。多分、多利思比孤との通交は絶えたと言うのだろう。
 だから、多利思比孤を聖徳太子である、などと言わないほうが身のためなのだ。大和朝廷が「此の後遂に絶つ」ではないのは誰の目にも明らかなのだから。つまり、学者達はこの文言を無視している。これまた自分達に都合の良い部分のみ認めて、都合の悪い所は無視する例の態度で一貫している。
 
 多利思比孤を聖徳太子だとする事でこんなにもでたらめでいい加減な事が行われている。二人は違う別の人物なのだ、とすれば、すべてがまことに見事に解決するのである。そこには何の苦労も細工も要らない。隋書と日本書紀の記述に何の矛盾も無くなる。子供にも分かるような単純明快な事が、学者には分からない。なぜならば、正しい事が分かってしまえば、今までの古代史に関する解説本はすべて書き直さなくてはならなくなる。それどころか、学者としての命までもが危うくなる。そんな危険な事が出来る訳が無い。
 何億円もの不明金があって、誰もがそれは○○氏が手に入れた、と思っているのに、そしてその一部を贈ったと贈り主が白状しているにも拘らず、当の本人は相変わらず知らぬ存ぜぬで通しているのと全く同じ構図である。学問とは一つの権力でもあるのだ。何とかは噛み付いたら雷が鳴っても離さない、と言う。それと全く同じで、権力は一度手にしたら、絶対に離したくはない物なのである。

古代史をいい加減に扱う人々・その6

2010年10月27日 | 歴史
 前回、「ワカタケル大王」がいとも安易に「オオハツセワカタケ大王」に変身する技をご紹介した。名前と言う個人にとっては非常に重要な事柄が非常に安っぽく取り扱われている。古代の日本人にとって漢字は難しかったのは分かる。でもだからと言って、明らかな間違いが許される事にはならない。それほど日本人の程度が低かったはずがない。何しろ、複雑な発音を表す漢字を単純明快な日本語の発音に当てはめると言う素晴らしい事が出来たのである。更には漢字の意味を採った訓読みまで発明している。これこそ、世界に類の無い、素晴らしい発明である。それほどの事が出来たのである。
 「オオハツセワカタケ」を「ワカタケル」と表記したと信じている学者は古代人を馬鹿にし切っていると思う。「オキナガタラシヒヒロヌカ」を「タリシヒコ」と表記したと言うのも、人を馬鹿にした話である。それほどに古代人の能力が信じられないのだろうか。しかも後者は先進文化国である隋の役人のした事である。そうした学者達は他人を舐めて掛かっている。自分以外はみんな馬鹿だと思い込んでいるらしい。それで結局は、そうした自分が実は一番馬鹿だった、と言う事になるのである。その最も顕著な例が「倭の五王」である。

 『宋書』の「夷蛮伝・倭国」通称「宋書倭国伝」に5人の大王が登場する。讃・珍・濟・興・武である。宋書には「倭讃・珍・濟・興・武」と書かれている。「珍」以降は「倭」の名前が冠されていないが、「倭王の弟」とか「倭王の子」などと書かれているから、何も「倭珍」などと書く必要も無い。特に「倭讃」は皇帝の勅書に書かれている文言なのである。「倭讃」などは中国風の名乗りだから、多分、讃以外も、倭珍・倭濟などと名乗ったと思われる。と言うのは高句麗の大王も百済の大王もそうした「国名+宋風の一字名」を名乗ったからだ。日本よりも先進国である高句麗や百済がそうしている以上、日本もそうしなければならない。
 この讃・珍・濟・興・武を5人の天皇に当てるのが古代史の常識となっている。なぜなら、日本書紀の記述にはこれら5人の大王の名前は登場しないからだ。代わりに、同じ頃に存在した、履中・反正・允恭・安康・雄略の5人の天皇が居る。この5人の名前を宋は聞き間違いや書き間違いをして讃・珍・濟・興・武としたのだ、と言うのが日本史の常識となってしまっているからだ。
 その間違いは次のようになっている。諸説あるが、一番年代の近い天皇を挙げておく。
・讃=履中天皇。諱の去来穂別(イザホワケ)の「ザ」の音を写した。
・珍=反正天皇。諱の瑞歯別(ミヅハワケ)の「瑞」を「珍」に間違えた。
・濟=允恭天皇。諱の雄朝津間稚子宿禰(オアサツマワクコノスクネ)の「津」を「濟」と間違えた。
・興=安康天皇。諱の穴穂(アナホ)の「穂」を「興」と間違えた。
・武=雄略天皇。諱の大泊瀬幼武の「武」を採った。
 「讃」は名前の一部の発音を模した。「珍」は「瑞」の書き間違い。「濟」は「津」の書き間違い。「興」は「穂」の書き間違い。これは同じ発音での間違い。「武」は実名の一部を採った。
 この中でかろうじて理屈として通るのは「武」だけで、後はあまりにも人を馬鹿にした話である。名前の一部を写した、も、名前の一部を採った、も、どちらもあまりにも宋の役人を馬鹿にしている。

 その前に考えておくべき事がある。国書での署名をどのようにするか、である。当然に国書は漢文で書かれている。その漢文の中に、日本独自の固有名詞を入れる場合に、どうしたら良いだろうか。例えば、履中天皇ならば、「去来穂別」と書いたら良いのか。宋側では、これを当然に宋の漢字の発音で読む。それ以外に読みようが無い。しかし固有名詞で重要なのは発音である。絶対に表記の文字ではない。日本語の「去来穂別=イザホワケ」は漢字の訓読み、つまりは漢字の意味を採っている。そしてそれは日本語での意味である。だからそれは宋側には伝わらない。「去」と「い」には何の関係も無い。「ザ」の音を写したとされる「来」を史官はどのようにして読めたと言うのか。「去来」が「イザ」になるのではないのか。
 だから、日本としては「去来穂別」なら、「イザホワケ」と宋側で読める漢字表記にする必要がある。それが「去来穂別」ではない事は誰にだって分かるはずである。つまり、倭の五王達は「去来穂別」のような署名はしなかったはずである。どのような署名になるのかは分からないが、一つ分かる事がある。
 それは5人の大王自らが一字名を名乗った、である。百済の王は「余映」と名乗った。「余」は高句麗の一族であり、百済の祖である「扶余」の事であり、その「余」の「映」なのである、との名乗りである。それが宋に対する儀礼でもあった。

 大体、倭の王が、日本語でしか読めないような漢字表記を署名としてした、と言うのがおかしい。第二には、宋の役人がひどい聞き間違いや書き間違いをする、と言うのがおかしい。彼等は専門職の役人である。そんないい加減な事で務まるとでも思うのか。本当にどこまで他人を馬鹿にすれば気が済むのか。
 そればかりではない。五王イコール5人の天皇、とする事の一番大きな欠陥が年代が完全に違う事である。
 5人の天皇の在位期間は分かっている。履中天皇は400年に即位。雄略天皇は479年までである。
 讃の朝貢の記録は425年である。では讃とされている履中天皇の在位はいつまでだったか。それは405年なのである。425年に在位していたのは、履中天皇の次の次の允恭天皇なのである。それだけで、讃=履中天皇、の論理は崩れる。当然ながら、それ以前の仁徳天皇説が成り立つはずも無い。
 五王の中で最も確実とされている雄略天皇を見てみよう。学者は年代から見ても雄略天皇に間違いはない、と言っている。雄略天皇の在位は456~479年である。一方、武王はいつから在位しているかは分からないが、478年にあの有名な上表文を書いている。その点では武イコール雄略は成立する。しかしながら、別の中国側の史書では、武王が479年よりも後に爵位を与えられているとの記述がある。
 そこで前の興を見る。興は462年に宋から爵位を得ている。しかしながら、興とされている安康天皇の在位は456年までなのである。462年は明確に雄略天皇の治世になっている。

 つまり、宋書か日本書紀か、そのどちらかが間違っているとしか言えない。五王イコール5人の天皇説を成り立たせるためには、年代としては日本書紀が正しくて、宋書が間違っているとするしか無い。そしてそれは通りそうではある。何しろ、重要な大王の名前を簡単に間違えるほどの歴史書なのである。
 しかし、そんな事を言うのなら、そもそも、倭の五王なる者の存在その物が疑われてしかるべきである。しかし学者は宋書を疑ったりはしない。単に書き間違えがある、と言うだけである。そう、武王のあの上表文は十分に雄略天皇の偉大さを認めるのに使えるのである。
 明らかな年代の矛盾を無視してまでも、武王を雄略天皇に仕立て上げたいのか。ある著名な学者は「年代は大体合っているのである」と、いとも無責任な発言をしている。一体、どこがどのように合っていると言うのか。多分、この学者は簡単な算数がお出来にならないのだろう。
 自分はこんなに馬鹿なんですよ、と堂々と発言している事をなんで学者は分からないのだろうか。馬鹿だから分からないのだ、で済ませる事ではない。これは笑い話ではないのだ。

古代史をいい加減に扱う人々・その5

2010年10月26日 | 歴史
 埼玉県の稲荷山古墳から115字もの金象嵌をした鉄剣が出土した。その中に「獲加多支鹵大王」と読める部分がある。これを「ワカタケル」と読み、即ち雄略天皇であると言うのが大方の考え方である。雄略天皇の名前は大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)である。
 つまり、「ワカタケル」と「ワカタケ」が同じだ、との考えである。誰が考えたってこれが同一人物だとは思えない。それが常識である。しかしその常識が通じないのが古代史の世界なのである。

 上に「獲加多支鹵」と書いたが、この「鹵」は象嵌の文字では四角囲みの中が違う文字になっている。本来は「必」なのだが、それが「九」になっている。しかしそのような文字は無い。そこで、「必」の上の三つの点を省いて、それが「九」になったのだと考えるのだと言う。「鹵」は「ロ」である。だから「ワカタケロ」にはなるが(それも、「九」が「必」の省略だとの無理をして)、「ワカタケル」にはならない。
 そこでどうするかと言うと、奇妙な論理が展開するのである。
 「ロ」は「ル」としばしば交替すると言うのである。「盧遮那仏」の「盧」は「ロ」だが、「るしゃなぶつ」と読んでいる。だから「鹵(ロ)」も「ル」と読めると言う。これは屁理屈である。しかも挙がっている例はこれだけだ。もっとほかに様々に「ロ」が「ル」と読める例を出さなくては単なる屁理屈で終わる。
 「支」にしても「これはふつう、キと読む」と言って、「ケ」にしてしまう。その理由も同じ。古事記では出雲建(いずもたける)を「伊豆毛多祁流」と書いて「タケル」と読んでいるから「祁=ケ」であるが、日本書紀では「祁」を「キ」と読んでいるから、「キ」は「ケ」とも読める。従って「支=キ」も「ケ」と読める。
 全く馬鹿馬鹿しい理屈である。これを大の大人が、しかも一流とされている学者が言うのである。更には次のように言う。

  ただ「支」を「ケ」と読む例証はないのですから、あるいは本来は「ワカタキル」というように発音していて、それがのちに「ワカタケル」と発音されるようになったのかも知れません。

 ならば、雄略天皇は古くは「ワカタキル」だったのかと言うと、そうはならない。「ワカタキル」はこの鉄剣の場合だけなのである。これまた非常に勝手である。
 これがなぜ「ワカタケル」になったのかと言うと、熊本県の江田船山古墳から出土した銀象嵌の大刀の銘文に「治天下??□□□歯大王」と読める部分があるからなのだ。「??」は「蝮」と同じで、虫へんが獣へんになっているが、「タヂヒ」と読む。そこで欠けている三文字を「宮彌都」とすれば「丹比宮に天の下しろしめしし瑞歯の天皇」、即ち反正天皇になるとの理屈がある。
 でも、雄略天皇とは結び付かない。そうまだ先があるのだ。
 この銘文の「歯」はどう見ても「歯」ではない。けれども「歯」にしないと反正天皇にならない。別に反正天皇にしなければならない理由は何も無いのだが、何としてでも大和政権の力が地方にも及んでいたとの証拠にしたいのである。そしてこの船山古墳の場合もこれは「鹵」の中が「九」になった文字なのである。しかし今まではそれでは話にならないから、無理をして「歯」にしていただけの話なのである。
 ところが、「ワカタケル」と読める銘文が出て来たと言うので、それっとばかりに「歯」を打ち捨てて、「ワカタケル」に乗り換えたのである。この船山古墳の場合の欠けた三文字を「宮彌都」にはしないで、「カタケ」とすれば、稲荷山古墳と同じく「ワカタケル大王」になると言うのである。
 つまり、「ワカタケル大王」と読める銘文が日本の東西から出て来た。これは単なる一地方の王ではない。これは絶対に雄略天皇だ、と言う事になる。もちろん、そうしたいからそうなるだけの話である。

 金や銀で象嵌した銘文がいい加減に作られる訳が無い。大王の名前は正確でなければならない。雄略天皇の名前は明確に「オオハツセワカタケ」である。その「オオハツセ」を省き、更には「ワカタケ」を「ワカタケル」と今までに誰もが考えもしなかった名前に勝手に変えてしまう。そんな事が当時許されただろうか。
 鉄剣は何のために古墳に入れられていたのか。副葬品として、そこに葬られた人間の経歴を語り、栄誉を讃えるためである。その銘文が不正確であって良い訳が無い。
 そうした常識が無い。多分、この学者は自分の墓碑銘が間違って刻まれても文句は言わないのだろう。心の実に広いお方である。しかしそれは学問には通用しない。
 船山古墳の被葬者が、稲荷山古墳の被葬者が、雄略天皇ではなくても一向に構わないではないか。それぞれにその地方の大王だったと、認めれば、それで良い事である。そうした素直な取り組み方をすれば、そこからまた別の新たな発見があるかも知れないではないか。雄略天皇が、ひいては大和朝廷が全国を制覇していたのだ、との証拠にするよりも、もっと有益な事実が発見出来るかも知れないのである。

 すべて、既存の自分達の知っている事で解決しようと安易に考えている。だから自分達の手に負えない事実はすべて無視するか、別の既存の事に強引に結び付ける。こんな事が「学問」であって良いのだろうか。「学文」「額問」なら構わないだろうが。前者は「学問を一文二文と言うゼニカネにする」の意味、後者は「金額を問題にする」の意味である。すべてが自分の立身出世のためではないのか。学界には先達の知識を守り育てて行くと言う奥床しい礼儀があるのだそうな。だから先達の考えを否定などしたら、立身出世はあり得ない。あれっ? どこかで聞いたような話だ。そう、検察の世界がそうらしい。裁判官の世界もそうらしい。例えば、上級審の下した判決に楯突けば、絶対に昇進は無いのだと言う。検察なら、被疑者を犯人に仕立て上げなかった正当なる検察官は転々と地方回りをやらされて一生うだつが上がらないのだと聞く。
 古代史なら生命には別状は無いからと、勝手気ままにされたのでは、我々は迷惑する。歴史は我々の共有の財産なのである。

 

中共政府はやはり反日デモを利用していた

2010年10月25日 | 政治問題
 反日デモは反政府デモの目くらましだと思っていたら、案の定、真実が現れて来た。貧富の格差を訴えるプラカードや住宅の高騰を訴えるプラカードが出て来た。中共政府は反日デモである限りは目こぼしをして、それが反政府デモに向かい始めたら、抑圧すると言うストーリーが初めから出来ていたと私は思っている。警察が反日デモを取り締まるように見せて、その実、それは反政府デモを取り締まる役目を担っていたと思う。それは日本人の反中国感情を抑えるのに役に立つ。でも、駄目なマスコミは真実を見ずに、それを反日デモを抑える映像としてしか流さなかった
 事実は一つであっても、見方によってそれは異なる。それは当然である。だからこそ、マスコミと称する連中は物事のあらゆる見方が出来なければ、その資格は無い。では、誰が見ても同じように見える映像をどうやって流せば良いのか。だから解説者が存在している。解説者があらゆる可能性を説明すれば良い。それによって、視聴者や読者のその映像の見方は変わって来る。

東京の町名について

2010年10月25日 | 暮らし
 きのう、中学校の同期会に出た事を書いた。学校の名前は「東京都板橋区立上板橋第一中学校」。しかし現在、それは「上板橋町」には無い。学校が移転した訳ではない。町名が変わったのである。元は正真正銘、「上板橋町」にあった。それも一丁目に。私の住んでいた所も一丁目で、番地まで覚えているが、336番地だった。
 学校のぎりぎりの所を私鉄の東武東上線が通っている。そこには「板橋」の付く駅名が三つもある。都心に近い方から、「下板橋・中板橋・上板橋」で、それぞれ、間に一つずつ別の駅がある。学校はその「中板橋」に近いのだが、町名は「上板橋」なのである。「上板橋」と言う地域が非常に広かったのでそうなっていた。
 それを板橋区は町名の地域と名前を変更して各町を小さくした。学校のある地域は「弥生町」になった。友達は「東新町」や「東山町」などに分散し、恩師は「桜川」になった。そうした事をしながら、逆に「小山」「茂呂」「根ノ上」は合併して「小茂根」になった。そして「上板橋町」はずっと縮小して鉄道の「上板橋駅」周辺になった。中板橋駅の近くは「中板橋町」となった。駅名と町名は一応は合致するようになったのである。

 考えてみればこの方がずっと分かり易い。しかし別の区ではそうではない。例えば東京都港区では小さな特徴のある幾つもの町を合併して、一つの「赤坂」にしてしまった。いや、一つではない。赤坂一丁目から九丁目になった。この「赤坂一丁目」と言うのは歴とした町名である。だから「1丁目」とは書かない。いや、書けない。普通には「赤坂1の1の1」などと書くが、それは便宜的な方法なのであって、正確には「赤坂一丁目1の1」などとなる。
 わずらわしいだろうが、元の町名を挙げてみる。
赤坂伝馬町・赤坂田町・赤坂新町・赤坂丹後町・赤坂一ツ木町・赤坂表町・赤坂台町・赤坂新坂町・赤坂檜町・赤坂中ノ町・赤坂氷川町・赤坂福吉町・赤坂溜池町・赤坂榎坂町・赤坂霊南坂町、と言った所である。
 自分の目的地が赤坂表町なのか、赤坂一ツ木町なのかは重要な事である。そしてまるで違う町名なのだから間違えるはずが無い。しかしこれが「赤坂一丁目」と「赤坂二丁目」だったらどうだろうか。どちらだか分からなくなる場合が圧倒的に多いはずである。それは単なる数字の違いにしか過ぎなくなっている。

 町名とは一体何のためにあるのだろうか。庶民の暮らしの場としての便利さがまず第一ではないのか。整然とした所番地は探す人にとっては便利だろう。でも果たしてそうした「よそ者」のための便利さが優先するだろうか。もちろん、ずっと住んでいる人にとっては、一丁目と二丁目の違いは歴然としている。別に「表町」とか「一ツ木町」ではなくても迷ったりはしない。
 そうなると、どうも日常的に住んでいる人のためでは無さそうでもある。しかしである。「赤坂一丁目」と「赤坂表町」とではどちらが親しみの持てる町名だろうか。
 東京都中央区には「日本橋○○町」と言う町名がたくさん残っている。これは多分、元は「日本橋区」だった名残だろう。地元の住民にとっては「日本橋区」の名前が消える事が堪え難かったからに違いない。つまり、地名は住人の大切な財産でもあるのだ。千代田区には「神田○○町」がまだ幾つも残っている。これは元は「神田区」だった。しかし番地の整理が済み次第、「神田」の名前は取ってしまう方針だと言う。現実に隣同士で「神田神保町」「小川町」となっている。くだらない事をしているなあ、と思う。
 幸いに東京都新宿区にはまだたくさんの小さな町が残っている。私の本籍は新宿区神楽坂。元は「牛込神楽坂」だった。古くは「牛込区」だったからだ。昔は戸籍謄本を管轄の「箪笥町出張所」に取りに行った。そのたびに、ああ、箪笥町っていい名前だなあ、と思った。
 そう言えば、「神楽坂町」も一時「神楽町」になった事があった。戸籍謄本を取った母親がそう言ったのを覚えている。「神楽坂」と「神楽」ではまるで違うではないか。そうした歴史も庶民感情も何も考えない、味噌も糞も一緒にしてしまう行政官など要らない。要らないのではなく、居てはいけないのである。

同期会で楽しい思いをさせてもらった

2010年10月24日 | 暮らし
 中学校の同期会に行って来ました。5年ぶりの開催だ。ウン十年も経っているので、多分、道ですれ違っても分からないだろうけれども、会場でなら、あっ、○○くん、○○ちゃん、と当時の面影がよみがえる。当時は1クラスが50人から60人で、それが8クラスもあったから、中にはほとんど知らない友達も居るけれど、途中で3度ほどクラス替えがあったから、知っている顔は多い。何しろ共通の話題がある。
 3時間と言う時間が短いとさえ思うほど楽しい語らいがあった。今回で3度目なのだが、私は初めて出席した。やっと会えたね、と何人かから言われて、嬉しかった。何だ、こんなに楽しいのなら前も出席するんだったと今更後悔しても遅い。幹事は大変だろうが、出来る事なら毎年開いて欲しい、と勝手に思う。そうすれば、今回は都合の付かなかった友達も来られるのではないか。
 みんなそれぞれに様々な人生を生きて来たから、話し出すと切りが無いが、本当にえっ? と思う事ばかりである。自分が忘れていた事を思い出させてくれる友達も居る。今回来なかったけれども、是非とも遭いたいと思う友達がまだ何人も居る。
 ほんのひとときだが、完全に当時に帰っている。そしてトイレに立って、鏡を見て、ああ、と現実に引き戻される。まあ、当時に戻ったままではどうしようもないものね。
 会場は学校から少し離れた所だが、私の住んでいた所から近いので、早めに行って商店街を見て来た。こちらはほとんどの店が変わってしまっているから、当時を思い出させる物は何も無かった。公共的な建物も変わってしまっている。そうか、変わらないのは人間だけなのか。たとえ姿は多少は変わっても、中身は変わってはいない。そして思い出をきちんと持ち続けている。
 来月は高校の同期会がある。こちらも確か5年ぶりだ。こちらは前回も出たから、それほど変わってはいないだろうが、これまた楽しみだ。