夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

前原氏を「言うだけ番長」にしたのは誰だ

2012年02月27日 | 政治問題
 今朝の東京新聞のコラムがあだ名を取り上げて、産經新聞が前原誠司政調会長を「言うだけ番長」と揶揄(やゆ)した事を取り上げている。前原氏は腹を立てて、先週の記者会見の席から産經新聞の記者を排除した、と言う。
 このコラムは産經新聞の肩を持っている。「八ッ場ダムの建設中止に代表されるように、その表現は論評として決して見当違いではない」と言っている。一方、前原氏は「記事を読むだけで暗い気分になる。子どものいじめやペンの暴力の次元だ」と話していると書かれている。
 そうした事を取り上げて、このコラムは「次期首相候補の一人に数えられる政治家の狭量さが情けない」と締めくくっているが、私はそうだろうか、と不審に思う。

 八ッ場ダムの建設中止を打ち出した前原氏はそれこそ真剣だったと思う。しかしその真剣さに楯突いた勢力が存在する。それは身内の民主党内閣であり、官僚であり、石原都知事を始めとする首都圏の都県の知事達である。埼玉県など、やらせで建設促進に動いた事実がばれてしまっているではないか。
 八ッ場ダムについては、今までに掛かった金が無駄になる、設した方が結果的には安上がりになる、などと言うお粗末な意見に牛耳られているらしい。馬鹿も休み休み言え、と言いたくなる。

 表面的な事情だけで何かを言うのは易しい。だから、多くの人々がころりと騙されてしまう。もっともっと深い所に、沈潜して、隠されている陰険な勢力のある事を忘れてはいけない。東京新聞は決して「言うだけ番長」ではないと思っているから、私は愛読者になっているのだが、各紙を始めとして、マスメディアは、それこそ「言うだけ番長」ではないか。

万葉集の解釈で分かった重要な事がある

2012年02月26日 | 言葉
 非常に個人的な事だが、私が万葉集を取り上げてその新しい解釈をしている事は先述した。主として取り上げているのは、古来意味が良く分からずに曖昧な解釈しかされて来なかった歌である。その代表が天智天皇の皇后と天武天皇の皇后(次の持統天皇)の天皇に対する挽歌である。天皇に対する皇后の挽歌なのだから、万葉集にとってはとても重要な歌になるはずなのだが、それらがいずれも曖昧でいい加減な解釈しかされていない。
 と言うのは、歌その物が曖昧な歌だと思われているからである。
 私の新しい解釈とは、たとえ伝えられている史実とは違っても、歌を詠んでいる本人が歌にしている史実を疑わない、を大原則とした解釈である。そしてわずか一つの歌に何ヶ月も掛かっているから、次第に色々な事が分かって来る。
 そうした中に、信じられないような言葉の解釈が存在するのである。

 これは万葉集の歌その物にあるのではなく、その歌の史実を実証しようと、日本書紀の記述を読んでいる中にある。
 天智天皇の病気に関して、「疾病弥留」との表現が出て来る。これはきちんと漢語を解釈すれば、「病が長引いている」である。「弥」の文字と「留」の文字を正確に解釈すれば、それしか意味は出て来ない。ところが、これを「重態」と解釈している。もうこれは定説になっているらしい。その証拠には、漢和辞典がこの日本書紀の記述を用例として取り上げて、「弥留=重態」だと説明しているのである。漢和辞典までもがそう言うのだから、気の弱い人間なら、それで納得せざるを得ないだろう。

 けれども、私は本当は気が弱い人間なのだが、相手が目に見えない学者達なのだから、敢然と立ち向かう事が出来る。彼等がよってたかって、日本書紀の様々な所から「弥留」の言葉を引き出して来て、それらをすべて「重態」あるいは「熱で意識不明」だなどと説明している事の理不尽さを証明している。
 天智天皇が日本書紀の原文では「病気が長引いている」としか書いてないにも拘らず、読み下しも現代語訳も「重態になった」としているのが不思議だった。日本書紀ではそうした中で、突然に天皇は亡くなる。だから、その突然さを不審に思わせないように、重態になって、そして崩御したのだ、と人々を納得させる魂胆なのだ、と考えた。実は私は天皇は暗殺されたのだ、と考えている。

 そして気が付いた。天智天皇暗殺説は11世紀から存在しているのである。それは『扶桑略記』と言う歴史書にある。そこに、異説ではあるが、との但し書きがあって、天皇は山科の山林に入って、亡くなった所を知らない、と書かれている。私はこの説を下敷きにして天智天皇暗殺を唱えているのではない。基になるのは皇后の詠んだ歌だが、同時代の人々の詠んだ歌や日本書紀の文章の隙間からも、そうした考えを導き出している。
 けれども、病気が長引いている事実を、重態と偽ってまで天皇は病死だよ、と言うのは異常である。その異常さがこの『扶桑略記』の記述と結び付くのである。つまり、重態であれば、天皇が山科の山林になど出掛ける事は出来ない。従って、この異説は全くの間違いである、と言える。
 逆に言えば、それほどの事をしなければ、サギをカラスと言いくるめるような事をしなければ、この異説を否定する事は出来ないのだ、と言う事になる。このブログのタイトルで「重要な事が分かった」とはそうした事なのである。
 古代史の世界では、日本書紀には真実だけが書かれているのではない事は誰もが知っている。しかし重要な事柄は日本書紀の記述を信じている。そうしないと、それ以後の歴史が狂って来てしまう。本当はそんな事はないのだが、学者はそう信じているらしい。自分達の信念が崩れては元も子も無い。
 だから、必死になって自分達の主張を守ろうとする。天智天皇が山林で行方不明になった、などと言う事は完全に否定し去らなければならない事だと考えているのである。だから学者達は「ぐる」になってそれを遂行しているのである。

光市母子殺害事件の死刑判決は妥当

2012年02月23日 | 社会問題
 多くの新聞のコラムが死刑判決を妥当としているのを見て安堵した。
 確かに死刑制度には問題がある。法の裁きによるとは言っても、結局は人を殺すのである。反対する考え方があって当然である。死刑判決を受けた被告がいくら他人を殺したからと言っても、また「殺人」と同じ行為を繰り返す事の是非が問われてしかるべきではある。
 ただ、そうは言っても、殺された人間の事も考えなければいけない。

 この事件で、無期懲役刑が言い渡されたのは、被告の更正の可能性を考えた事にある。確かに犯行当時18歳だった被告には更正の可能性はある。しかし、殺された被害者には更正の可能性など皆無なのである。何しろ、生きる事さえ叶わなかったのである。
 そんな不公平さのある中で、どうしたら、更正の可能性、などと言えるのだろうか。
 本村洋さんが、無期懲役なら、少しでも早く被告を出所させて欲しい。そうしたら、自分が彼を殺す、と言っていたのは当然過ぎるほど当然である。

 被告の更正の可能性を取り上げて無期懲役刑を言い渡した裁判官を私は軽蔑する。と言うよりも唾棄したい。被告は獄中から、どうせ途中で釈放されるのだから、と言って、全く自分勝手な言いたい放題の事を言っていたのである。そこには自分が殺した母子はもちろんの事、遺族への何の謝罪の気持も無かった。
 死刑制度反対との理由から、約30名にも上る弁護団を組んだ弁護士達も唾棄すべき存在である。被害者を何とか生き返らせようと強姦した、と弁明していたのである。誰もがそんな馬鹿な、と思ったはずだ。彼等は弁護士の仮面をかぶった殺人鬼集団だった。彼等の名前を我々はきちんと覚えて置く必要がある。

 先日、警察署による学童を対象とする交通安全の講習会があった。話をした警察官が、裁判官の衣裳はなぜ黒いのか分かりますか、と問い掛けた。私は知っていたが、答える気力は無かった。何色にも染まらないようにと、黒なのである。
 けれども、平気で何かの色に染まっている裁判官が実際に存在している。最近判決の下された御殿場事件もそうだ。あの裁判官ははっきりと検察の色に染まってい事が見え見えである。普通の常識が通じない世界の色に染まってしまう裁判官など要らない。

 先の裁判官の衣裳の色だが、あの話は、子供は何色にも染まってしまうから、家庭のしつけが需要なのだ、との話である。

日本酒の中身と瓶の関係

2012年02月19日 | 暮らし
 酒は封を切ったら早めに飲み切る必要がある。けれども一升の日本酒は10日ほど、短くても1週間は持たせたい。10日なら一日1合の計算になるが、我が家の「人口」は約2名なので、そうも行かない。
 1週間持たせるにしても、一升瓶に入れたそのままでは、空気に触れるから駄目だ。だから小さな瓶に分けて、冷暗所に保存すべきなのだが、たまたま前に飲んだ小瓶は一升瓶の銘柄とは違ったりしているので、そうも行かない。
 と言うのは、自分の気に入っているラベルの瓶から飲む酒だからこそ旨いのである。ああ、これは「獺祭」だ、とか、「玉乃光」だ、「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」だ、などと思って飲むから旨い。

 酒の瓶の色はたいていが茶色とか緑色である。ワインにしてもそうだ。これは日光を嫌うからと聞いている。しかし私の好きな「上善如水」は例外的に無色透明の瓶に入っている。そしてそれがまた美しい。だからそれを色付きの瓶に小分けしようとは思わない。
 この「上善」を私はここ数年間飲んでいなかった。と言うのは、ある年、今年の「上善」は出来が良くないですよ、と酒屋の御主人に言われて、買うのを止めた。そして私は次第に貧乏になって、上等の酒が飲めなくなった。それで格安の純米酒だけを飲んで来た。それが、正月に息子が買ってくれた「獺祭」で考え方が変わった。旨い酒は盃一杯で満足出来る。それなら上等な旨い酒を飲んだ方が、体にも財布にも良い、と考えた。

 そして再び「上善」を飲んでみた。私の行く店ではほとんど同じ値段で買えるのに、「玉乃光」よりも旨いのである。「玉乃光」との付き合いは長い。よく行っていた京都のある料理屋さんでは、「玉乃光の好きな夏木さん。はもを梅肉ではなく、わさびで食べるのが好きな夏木さん」で通っていた。それくらい、「玉乃光」に入れ込んでいた。
 もしかしたら、今年の「玉乃光」は出来が良くないのかも知れない。でも、年によって出来不出来がある、と言う事が納得出来ない。確かに米の善し悪しはあるだろうが、そんなにも酒の出来を左右するとも思いにくい。もしかしたら、杜氏(とうじ・とじ)の腕の違いなのか。「玉乃光」はまた時期を改めて飲んでみようと思っている。

新聞の看板コラムは面白い

2012年02月18日 | 言葉
 産經新聞のコラムが「橋下市長が、府立高校2年の久保田鈴之介さんに送ったというメールは、胸にぐっと迫った」と書いている。
 難病で入院した経験から、「病院でも授業を」と久保田さんは訴えたと言う。それに対して橋下市長は言った。「久保田君一人を救えない政治なんか要りません」。

 このコラムは震災で発生したがれきの処理を島田市の桜井勝郎市長が受け入れた事に対する話で始まっている。そして受け入れ反対を貫く住民に対して、「黙れと言えばいい」の一言で支援を決めた石原慎太郎東京都知事の例を挙げて、例外的な存在だと讃えている。そこに橋下市長の話が繋がっている。

 こうしたコラムを読んでいると本当に嬉しくなる。今日の東京新聞のコラムは春が待ち遠しいとの話である。そして次のように締めくくっている。

 (春と言う)美しい季節は、かがみ込みがちだった人には飛躍の場を、何かに行き詰まっていた人にはアイデアの源泉を与えてくれるかもしれない。スプリング(spring)とは春であり、バネであり、泉である。

 本当にそうである。英語のスプリングで、「飛躍」と「アイデアの源泉」を表している。だからこそ「スプリング=春」になる。
 そして私は日本語の「はる」は「張る」ではないか、と考えたが、古語辞典ではアクセントが違うから、その説は成り立たないとある。
 「張る」は「ふくらます。ふくらむ」の意味であり、万葉集の「青柳の張り立てれば」の歌が用例に引かれている。青柳が生き生きと芽吹いているのを見て恋しい人を思い出した、との歌である。

 アクセントが違うと言うが、古代のアクセントがどれほど確かに分かっているのだろうか、との疑問もある。それに地方の違いもある。現代標準語では「張る」は「る」にアクセントがあり、「春」は「は」にアクセントがある。しかし現代でも近畿地方では「春」は「る」にアクセントがあるのではないだろうか。
 「春」のアクセントは、「春が来た」の歌では「は」にあるが、「春のうららの隅田川」の歌や「荒城の月」の歌では「は」にアクセントは無い。どちらかと言えば「はる」と平坦なアクセントになっている。
 アクセントを語源の根拠にするのは難しいのではなかろうか。私は「張る=春」だと思うのだが。でも、そう言えば、重要な基本語のはずの「はる・なつ・あき・ふゆ」の語源がよく分からない。
 「夏」は「ねつ」と関係があり、「秋」は「あきる=熟す」と関係があり、「冬」は「冷え」と関係がある、との説もある。大事な言葉が何の意味も持たないはずは無いのだから、こうした語源説は考えてみる価値があると思う。

 コラムの話から語源の話になってしまったが、私の頭の中はいつもこうした情況にある。それが良いのか悪いのか。

休眠預金を国が使いたいとは何事か

2012年02月16日 | 政治問題
 口座に眠っている庶民のお金を国が使いたいと言う。とんでもない事だ。我が家にも5口くらいの休眠口座がある。なぜ休眠になっているのかと言うと、一つには合併などでその銀行が無くなってしまったり、近くの支店が閉鎖されたりして、出し入れが出来にくくなったからである。一つには出し入れしていない期間が長くて、ATMでは認識しなくなってしまったりしているからだ。少しは預金者の責任もあるだろうが、ほとんどは銀行側に責任があると私は思う。

 その預金を早く言えば「召し上げる」のである。今の所、銀行が猛反発しているから無事だが、どうなる事やら。こうなると、早速に休眠口座を復活させる人も増えるだろう。
 休眠口座イコール埋蔵金と考えているらしいが、埋蔵金なら国には膨大な量があるだろうに、自分達の都合の悪い事は考えないのである。何とも身勝手な。
 何で安易な事しか考えないのだろうか。多分、それが彼等の「脳力」の限界だからだろう。そんな輩が国を運営しているのである。政府を形作っているのが政党で、その政党が民主党も自民党も支持率が下がる一方である。本来なら、与党が下がれば野党が上がるのに、そうはならない。政党に対する期待がどんどん小さくなっている。

 お人好しの日本人もそこまで馬鹿ではない事が少しは見えて来た。結局、自分達が困らないと目覚めないのだが、力を持っている連中はまだまだ困ってなどいないだろうから、目覚めているのは力を持たない庶民ばかりである。

仕事の現場責任者の役目とは何なのか

2012年02月14日 | 社会問題
 海底トンネルの掘削で孫請けの従業員5人が犠牲となった。一体、誰に責任があるのか。難しい問題だが、私はもっと卑近な事を考えている。
 私のアルバイト先ではスタッフが20人居て、それを1人の女性現場監督が管理している。昨日夕方5時半に出勤すると、彼女の元上司の女性が来ていて、世間話に花が咲いていた。そこにある会社の運転手らしき男性も加わっていて、ひどく賑やかだった。私が「お早うございます」と言って入っていっても、ご苦労様でもない。話に夢中になっている。その職場では、夜でも初めて会う相手にはこのような挨拶をする事になっている。馬鹿な話だが、別に抵抗する必要も無い。
 現場監督に声を掛けてもらいたいと言うのではないが、仮にもスタッフの一人が出勤して来たのだから、世間話に夢中、では通らないだろうと思う。私は彼等の前の狭い通路を通って自分のロッカーの所に行くのである。

 そして話はバレンタインのチョコレートの話になっていた。私は作業着に着替えていて聞くともなくその話を聞いていた。責任者の女性が言う。私なんて、チョコレートを上げるばっかりで、飴一つお返しに貰った事が無いと。
 我々は男だからと言って、バレンタインのチョコレートを貰う必要は無いし、私はそれは、世間の行事を利用して、仕事をしているスタッフに対するねぎらいの気持の表れだとばかり思っていたから、遠慮なく頂戴していた。それで彼女の上司としての役目が果たせるのだと、勝手に思っていた。
 だが、実はそうではなかったらしい。では、何の理由で、彼女はスタッフの男性にチョコレートを配っているのか。

 現場監督の役目とは何なのか。元上司の女性が来ていたのには訳がある。タイムカードの締め切りで、20人分のカードを翌日に本社に発送しなければならないのである。その計算が合っているかどうかを元上司に確認してもらうのである。馬鹿な話だと思う。
 わずか20人分のカードの集計が自分一人では確認出来ないのか。その集計は一日でやるのではない。もっとずっと前から一日ずつの労働時間が書き込まれている。それは原則として決まった時間だから、特別に何らかの仕事をしない限りは一定である。間違いようが無い。欄外に3(時間)とか5(時間)とか書き込んであって、それを集計する。

 こうした現場監督が、何か重大な事が起きた時に、一体どのような責任を取れると言うのだろうか。

一週間は月曜日で始まるのが正しいのではないか

2012年02月11日 | 暮らし
 これは前々から考え続けている事ではあるが、あるカレンダーを見て、再び考えている。そのカレンダーは不要品の中にあったのだが、今月の11日(建国記念の日)が赤くなっているのではなく、12日が赤くなっている。それで、これは去年かおととしのカレンダーだな、と思った。しかしよくよく見ると、12日が赤くなっているのは、それが日曜日だからなのである。

 つまり、そのカレンダーは月曜で始まり、日曜で終わっている。そして今年のカレンダーである。日本の企業ではなく、シンガポールの企業のカレンダーなのである。
 我々は土日を週末だと思っている。そして月曜からまた労働の日々が始まると思っている。国語辞典は週末を、早いものでは金曜から始まるが、「土日」と説明している。

 曜日を「第一日・第二日」などと呼ぶ少数の国を除いては、日曜日の起源は世界の半分が「太陽の日」であり、半分が「主の日」である。日曜日が主の日である国では土曜日が安息日である。だから安息日と主の日が一週間の終わりになるのだろうと思う。多分、太陽の日だと考えている国々では日の出と共に一週間が始まると考えて、日曜日から一週間が始まっているのだろう。

 上記は私の考えに過ぎないが、今、ふとフランス語の事で気が付いた事がある。私の学んだ高校は、第二外国語としてフランス語、ドイツ語、中国語が課せられていて、私はフランス語を取った。毎日ラジオでフランス語講座を聴いた。
 フランス語の教科書では一週間は月曜日から始まり、日曜日で終わっていた。ランディ、マルディ、と続き、サムディ、エ、ディマンシュで終わる。そらで言えるように何度も口ずさんだから、はっきりと覚えている。「サムディ、エ、ディマンシュ」は英語なら、「サタデイ、アンド、サンデイ」である。でも英語はサンデイ・マンデイで始まり、アンド・サタデイで終わる。
 フランス語は日曜日が主の日であり、英語は日曜日が太陽の日である。

 私の子供の頃のカレンダーは確か月曜日から始まっていたと思う。そして「げっ・かあ・すい・もく・きん・どう・にち」と言っていた。絶対に「にち・げっ・かあ」ではなかった。
 ただ、そうなると戦争中の「げつ・げつ・かあ・すい・もく・きん・きん」とは完全に矛盾する。これは土曜も日曜も無く働け、と言う意味の歌である。最初の「げつ」が日曜日で、最後の「きん」が土曜日である。
 でも敵国の英米の一週間と同じだから、これはおかしい。
 しかしこれは英米の一週間ではなく、どうも日本の連合国であるドイツの一週間らしい、と今、気が付いた。ドイツ語も日曜日は太陽の日なのである。だから一週間が日曜日で始まってもおかしくはない。

 でもいつから日本のカレンダーは日曜日で始まるようになったのだろうか。我々の「習慣」と全く違う「週間」はおかしい。これは洒落ではありません。

金子みすずの歌を使ったあるCMに疑問がある

2012年02月10日 | 言葉
 ある企業が金子みすずの詩を使ったCMを放送している。詩は二つあって、一つは私には素直に受け入れられる。けれどももう一つがどうしても納得が出来ない。それは次のような詩である。言葉と文字遣いは間違っているかも知れないが、大要は間違っていないはずである。

 こどもが子すずめ捕まえた。
 その子のかあさん笑ってた。
 すずめのかあさん、それ見てた。
 お屋根で鳴かずにそれ見てた。

 これはもの凄く悲しい詩だと私はいつも思っている。子供の母親の冷酷さと対比されているのが、何の抵抗も出来ない雀の母親だと、思っている。雀の母親は「鳴かずにそれを見ている」しか出来ないのである。
 金子みすずが何を言いたいのかは分からないが、私には悲しみと、人間の身勝手さだけしか感じられない。
 私の感性が劣っているのか。
 何しろ、CMは続く場面で母親が子供を抱き上げるシーンになるのである。もちろん、母親は笑っている。これは楽しい場面であり、将来を期待している場面でもある。
 それとこの詩とがどうしても結び付かない。
 どなたか、御教示下さいませんでしょうか。

歯の正しい磨き方は?

2012年02月08日 | 暮らし
 小学一年生の教室のある洗面所に歯の磨き方の大きな図解が貼ってあった。時間があったので眺めていたら、えっ? と思えるような事が書かれていた。
 一つは、歯の表側の磨き方である。上の前歯を例にしているが、一つ一つの歯をそれぞれに縦三つの面に分けて磨くのだと言う。歯ブラシの面積から言っても、一つの歯を三つの面に分けて磨くのは難しい。私は一つの歯は一つの面として磨いている。

 もう一つは裏側の磨き方である。歯ブラシの「あご」の部分を使って磨く、と書いてある。「あご」とは柄に一番近い部分だと図解にある。これまた難しい。私はむしろブラシの先端を使って磨いている。

 これらは想像しても分かるが、そばにいた、私とほぼ同年の女性に聞いてみたら、私の言っている事が分からないらしい。つまり、想像力が及ばないらしい。私の考え過ぎかと思って実際にやってみた。
 歯の表側を三つの面に分けて磨くのは、歯ブラシの縦の端を使ってやれば不可能ではない。しかしそれだと非常に手間が掛かるし、かえって難しい。
 歯の裏側は「あご」では柄が邪魔をして届きにくい。ブラシの先端の方がずっと磨き易い。それに「あご」の部分を使うと、裏側の先端を磨くためには、ブラシの先端が舌を磨いてしまったりもする。舌も洗った方が良いらしいが、それは歯磨きのついでにする事ではない。

 ただ、この磨き方の説明はずっと以前からそこに貼られているらしいから、子供達はそれできちんと歯が磨けているはずである。大人と子供では違うのだろうか。
 次の時にでも、先生にお聞きしたいと思っているが、失礼な事なのだろうか。