夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

分かり易くさえあれば、正しくなくても良いのか

2008年12月31日 | Weblog
 考えに考えた。それを言葉にした。そして一つのまとまりのある文章に「書いた」。だが、知恵も「欠いた」。分かり易いか、と判断する知恵である。
 この「分かり易さ」とは一筋縄では行かない。単に「理解し易い」ではないからだ。「理解した」と思える事が重要なのである。別に理解出来ていなくても構わない。理解出来たと得心出来ればそれで良い。
 何でこのような事が言えるのかと言えば、ベストセラーなどで、皆目理解出来ない本が決して少なくはないからである。理解出来ない、と言うよりも、言っている事が滅茶苦茶だ、と言う方が当たっている。もっと言えば、著者は言っている事は理解出来ているが、それが滅茶苦茶である事が理解出来ていない。
 本当にそんな本があって、ベストセラーになっているのか、と疑問を持つのは当然である。だが、私はその証拠をしっかりと握っている。
 ただし、ここに困難が一つ待ち受けている。私が滅茶苦茶だと言う事に対して、それはあんたの勝手な考えだよ、と言う人々がいるのである。自分はそれで十分納得が行くと言われてしまえば、それまで。感受性の違いで終わる。
 しかしながら、私は富士山が美しいか美しくないか、などと言っているのではない。富士山の標高が3776メートルである、それ以下でも以上でもない、と言っているのである。正式に認められている標高はただ一つ。それを云々する人は居ない。
 お前さんの勝手だよ、と言う人々は、標高ではなく、富士山が美しいか美しくないかを問題にしているのである。私が標高を問題にしているんですよ、と言ったって、聞きゃしない。それで私は簡単に却下されてしまう。

 実は、私は「論理が滅茶苦茶ですよ」と言う原稿を書いている。それを世間に訴えたい。そのためには、販売に力のある出版社に本にしてもらいたい。だが、その編集者が富士山が美しいか美しくないかを問題にしてしまえば、前途は閉ざされてしまう。
 富士山の美的問題だと見せ掛けて、その実、標高問題にすり替えてしまう事が出来れば、この難関は切り抜けられる。それが私の言う「知恵」なのである。そのすり替えはとても難しい。なぜなら、読者を騙さなければならないのである。
 だが、騙さずにすり替えをする方法が二つある。
 一つは、著者が有名である事。有名な著者であれば、読者は一も二も無く、納得してしまう。つまり、理解出来たと錯覚する。その知名度はそれほど高く無くても良いらしい。一冊でも良いから、10万部ほどのベストセラーを出していればそれで良い。さる一流出版社の編集者がそう言っている。経験からの言葉だから、力がある。
 でもそれでは新人の出る幕が無いではないか。
 その通り。しかしそれにも方法がある。ベストセラーになれば良いのである。つまり、これが二つ目の方法である。
 何だ、言っている事と矛盾しているではないか。
 そう、言葉の通りなら明確な矛盾になる。しかし、「ベストセラーにすれば良い」と言い替えれば筋が通るようになる。つまり、出版社の意向次第なのである。「たちまち重版 第○刷発行」などと、何度も広告を打てば、内容が読者の興味を引く対象ならば、ベストセラーになるはずだ。こうした広告に影響されないのは、鈍感な読者と書店だけである。

 読者は安直な事を望んでいる。この世の中の事がそんな簡単に分かる訳が無い。でも簡単に分かると信じ込んでいるから、簡単に騙されてしまう。別に振り込め詐欺ではなくても、日常茶飯事的に我々は騙されている。
 またまた富士山の話で恐縮だが、麓から登ろうとすれば、それこそ一歩一歩自分の足で歩くしか無い。現在は5合目からの登山が圧倒的に多いが、それだって、3千メートルの半分は自力で登るしか無い。その5合目からでさえ嫌だと言い、直接ヘリコプターで頂上に運んで欲しい、と願っているのが多くの読者なのである。それじゃあ、登山の楽しみなんか無いではないか、と言ったって聞かない。登るのが楽しいのではなく、頂上に立つ事だけが目的なのだ。頂上に立つにしたって、自力で登ったからこそ充実感があるのに、その充実感を無視しようとする。
 てっとり早く結果だけを手にしたいと思うから、活字ではなく、漫画になる。そう、総理の麻生さんが漫画がお好きだと言うのは、そうした事なのである。だからと言って、漫画を馬鹿にしているのではない。ただ、漫画には漫画の役割があり、効果がある、と言いたいだけである。文章ではとうてい表現出来ない世界を漫画なら表現出来る。それと同じ事が、文章の世界にもある。

 現在の出版界の大きな傾向は、簡単に分かりたいとする読者に迎合してしまっている。それがベストセラーになり易いものだから、どうしても、その安易な道を選んでしまう。効率の良いベストセラーに頼った会社は、地道に地味な本を売る努力を怠ってしまう。だから、いざベストセラーが生み出せなくなると、簡単に潰れてしまう。
 地味な活動をする技術を忘れているから、すぐにはどうにもならない。
 来年は何とかして、富士山の美しさの問題を標高の問題にすり替えてしまう技術を身に付けなければ、と思っている。いや、すり替えるのではなく、美しさの問題から発展して標高の問題に到達出来る技術を会得したい。

週刊誌の無責任さを認めてどうする

2008年12月30日 | Weblog
 東京新聞に「話題の発掘」と言う欄があり、「週刊誌を読む」とのタイトルでの連載がある。執筆者は月刊『創』編集長・篠田博之氏。12月29日は「皇室報道の真相は」と、週刊誌の解釈を巡って見解を発表している。同氏はそうした解釈を荒唐無稽だと思っているらしいのだが、そうとも言えない不思議な展開になっている。それが結末に表れている。
 「見出しをはじめ、いささか誇張気味との印象は否めないが、記事には専門家の証言も少なくない。真相は果たしてどうなのだろうか」
と言うのである。「いささか誇張気味」どころではないではないか。話題にされた人から名誉毀損で訴えられている記事は決して少なくはないのだ。
 私が特におかしいと思うのは、皇室問題とは詰まる所は一つの家庭問題ではないか、と考えるからだ。他人の家庭の事情に週刊誌が余計な口出しをして何になるか、との思いがある。皇室は単なる家庭ではないのは百も承知の上で言っている。皇太子妃が公の行事に欠席される事が多いと皇室の任務は果たせない。
 しかし我々は知っている。天皇陛下の公務が多過ぎる事を。そして公務と家庭問題が密接に繋がっている事も知っている。皇后陛下は若い時、一時たいそうやつれておいでであった。様々な噂が漏れて来た。しかしその噂の真相の一部をはっきりとニュース報道でも見ている。
 昭和天皇と皇后が海外に出掛けられる時の事だ。両陛下は大勢の皇族が見送る中を一人一人に挨拶して通られた。ニュースは皇后陛下の姿を写した。皇后は一人一人に挨拶しながら、皇太子妃だけは無視して通ったのである。

 皇室と言う所が尋常の事では済まない事は世間も知っている。何しろ、千何百年もの風俗・習慣を保ち続けている家柄なのである。その中で育った人はともかく、民間の者が簡単に溶け込める世界ではない。私の高校の恩師は歌会始の講師を務める元貴族の家柄であった。その恩師が「貴族と言う血筋を誇りに思って生きている」と言っている。良い意味での覚悟の程を言い表しているのだが、そうした血筋を誇りに思う人々に囲まれて暮らす事が、民間の出身者にはどれほど荷の重い事か。
 宮内庁長官が発言した。「皇室そのものが妃殿下に対するストレスであって、ご病気の原因ではないか、といった論がしばしばなされることに対し、両陛下は深く傷つかれた」
 この発言を篠田氏は「マスコミの論調を批判しようとしたのだ」と捉えている。それは正しいだろう。皇室その物がストレスになるのは分かり切った事である。だが、天皇としては、それは自らがストレスの原因であると言われているのと同じである。そんな事を言うべきではないのである。
 小和田雅子と言う一人の女性を伴侶に、と望まれたのは皇太子御自身である。そして彼女は皇太子の期待に応えて皇室に入る事を決意した。そうである以上、苦難は自らの力で乗り切るしか無い。それをはたからとやかく批判しているのが、マスコミの論調なのである。

 こうした事を踏まえて、篠田氏は妙な展開をする。「皇室そのものが妃殿下にはストレスであるとの論で両陛下は深く傷つかれた」との長官発言に対して、東宮大夫が「このような論に対しては、妃殿下御自身も深く傷つかれたことと思います」と発言した。
 これまた、当然の発言ではないか。こうした発言を裏の裏まで探ろうなどとするから変な事になる。発言者の言葉を、その言葉だけを捉えて本人の気持をあれこれと邪推するなどとんでもない事である。まさに「邪推」である。
 それなのに、篠田氏はそうした事を平然と眺めているように私には見える。
 先の長官の発言について、「皇室の環境が適応障害の原因という見解は雅子妃の医師団が05年に発表したもの。それを敢えて批判するのは、天皇家の皇太子夫妻に対する反発の表れ、と週刊誌は解釈したらしい」と言うのである。
 馬鹿を言ってはいけません。長官は医師団の見解を批判しているのではない。一応は診断が下っているのだから、もうそれ以上余計な口を挟まないで欲しい、静かに見守っていて欲しい、と言っているのである。
 そして東宮大夫の発言については、「週刊誌はこれを長官発言に対する皇太子サイドからの反論と理解したようだ」と言っている。本当に週刊誌の理解はそうなのか。だが、たとえそうであっても、それを「理解したようだ」と肯定していて良いのか。
 更には皇室ジャーナリスト(面白い肩書きもあるものだ)松崎敏弥さんはこう語っていると、次のような発言を引用している。
 「長官発言は陛下の皇太子に対する叱責であり、大夫発言は皇太子の宮内庁に対する反撃、否むしろ陛下に向けて発せられた言葉と見るべき」
 ただ、黙って引用しているからには、この発言を認めているらしい。勝手な憶測をそのまま平然と受け入れる。それが月刊誌の編集長の立場なのか。同氏は言う。「この記事の見出しは「陛下と雅子妃のご病状を悪化させる『宮内庁・東宮戦争』」だ。もっとすごい見出しが『週刊女性』1月1日号「『皇室から出ていけ!』雅子さまへの最後通告」。長官発言は「皇室から出て行け」と言っているようなものだというのだ」

 このように淡々と週刊誌の記事をそのまま認めている。そして記事の締め括りが最初に挙げた「見出しをはじめ、……」の文章なのである。興味本位で無責任な記事を巡って、真相も何も無いだろうに、と言うのが私の感想である。一読者の月刊誌編集長に対する感想である。

「不十分な医療」の発言を誤解されてしまった

2008年12月29日 | Weblog
 急患のたらい回しに対して「責任争いをしている場合じゃない」と私はこのブログで発信した(10月25日)。それに対して「都筑てんが」さんから今月の26日に2通のメールを頂いた。
 一つは、私が「医は明確に算術になっている。もちろん、医師の意思でそうなっているのではない。そのように仕向けている仕組みが存在する。それを私は「金儲け第一主義」と呼んでいる。すべて金、金、金。金になりさえすれば、どんな事だって厭わない」と書いた事に対して、
 「だったら何故、赤字病院がたくさん出て、倒産・破産する病院が後を絶たないんでしょうね」
と言っている。これが私には分からない。私は当のブログですぐその後に「薬だって、製薬会社が儲けのために作り出しているとの噂がある。その薬を使わせるために新たな病気を作り出しているのだ、と言うのである。にわかには信じられないが、でも、さもありなん、と思えてしまう。それくらい、今の世の中は腐っている。いやいや、腐り切っている」と書いている。これは噂に過ぎないだろうが、あの薬害エイズに関しては、当時の厚生省と製薬会社の責任は明らかになっている。これは算術が優先した結果である。
 赤字病院と医が算術になっている事とは話が全く違う。なぜそれを一緒にしてしまうのだろうか。赤字病院の件はそれはそれで別の様々な問題を抱えているはずである。

 二つ目は、「マスコミの医療破壊は大成功ですね」との見解である。
 「10リットルまでの水しか入らないバケツには、11リットルの水は入りきれません。
1リットルの水がこぼれてしまった事で、周囲の人間が「なんだこのクソバケツ!」と足蹴にしたら、バケツが凹んで、10リットル入れられたはずの物が、9リットルまでしか入らなくなりました。
…っていうのが、今の日本の医療崩壊(ていうか、マスコミによる医療破壊)の現状。
教訓とかそういう以前の問題だ」と言い、最後に「マスコミの医療破壊は大成功ですね」と言うのである。
 私は先日も書いたが、抽象的な文章が理解出来にくいと言う欠陥を持っている。このバケツの譬えは、10人の救急患者で人手も施設も手一杯の病院が一人の急患を断った事をマスコミが批判し、そのため当の病院は意気消沈して、10人受け入れられるはずの所が9人に減ってしまった、と言うのらしい。
 つまりマスコミの無責任な批判がこうした医療破壊の元凶だと言っているらしい。
 マスコミが無責任な報道をしたのなら、確かに元凶である。だが、二人いるはずの当直医が一人になっているのをそのままにしておいた、などと言う事を批判するのは間違ってはいない。だからこそ、その病院は当直医を二人に戻す、と決めたのではなかったか。
 様々な批判があって、初めて病院側は世間の考えに思い至るのではないのか。医学の世界は「象牙の塔」の一角とも見られている。素人が専門家の言う事、している事に口を差し挟むな、との態度が見える。
 我々だって同じだ。自分自身の事は見えない。はたから言われて気が付くのである。

 私がこうした「都筑てんが」さんの意見を採り上げているのは、批判なのではない。出来るだけ誤解を生まない文章を書きたいと思っているから、どこにこうした誤解の原因があったのかを探りたいのである。私の当日のブログを読んで下さった方の半分がこのように誤解して、その一人がメールをくれたのだ、と解釈する事は可能だろう。よほど賛成か反対かではない限り、なかなかメールを送るなどと言う事にはならない。
 マスコミの医療破壊は大成功だ、と私は考えていない。医療を破壊しているのは誰なのか、と考えている。だから誤解されたと思っている。マスコミは実は医療だけではなく、様々な重要な事を破壊しているのではないか、と私は疑っている。今回の経済の破綻にしても、順調だった時は、マスコミは諸手を挙げて大企業や政府の方針に賛成し、後押しをしていたのではないのか。それが手のひらを返したような発言を今はしている。これが社会の破壊でなくて、何であろうか。


パソコンは無駄金使いをさせる

2008年12月28日 | Weblog
 年賀状をいつもパソコンで作っている。さて印刷しようとしたらパソコンがフリーズしてしまった。別のパソコンでもフリーズする。プリンターのメーカーに問い合わせると、どうやら基板の故障らしい。今からでは間に合わないが、直すとなると1万8千円ほどだと言う。アルプス電気の昇華型で、インクジェットより画質がきれいなので買った。送料なども含めて2万円も掛かるなら、どうせA4までしか印刷出来ないのだから、最新のインクジェットを買う方が良いだろう。ファックス、コピー、スキャナーの機能まであるカラー機がほぼ同価格で買える。
 かくして、無駄使いとなる。大体、簡単に基板が壊れるなんて言うのがおかしい。買い替えるとなると、買い置きしておいたインクがすべて無駄になる。プリンターではこうした何度もの買い換えを余儀なくされている。ずっと前ではパソコンが劇的に変わった事によって、前のプリンターが使えなくなった。ワープロ専用機からパソコンへの乗換でも使えなくなった。数えると合計6台にもなる。その金額は、恐ろしくなるから計算するのはやめておく。
 
 それだけ使えたんだから良いではないか、との考え方も出来る。しかしあまりにも寿命が短い。それと言うのもパソコンの進化が激しいからだ。これまた、それだけ恩恵を蒙っている、とも考えられるが、何もそんなに速くなくてもいい。人間のやる事には速さの限度がある。複雑な事をするにはそれだけの時間が掛かって当然なのである。
 結局、望みもしない事でどんどん追い立てられて、カネを使って、一体、誰が得をしているのだろうか。買い替えなければメーカーは困るだろう。だが、我々はメーカーのために生きている訳ではない、当然だが。でも、カネは回らなくても困る。だが、それで無駄金を使わされるのは嫌だ。
 私はケチなのか物持ちが良いのか、25年以上も前のレコードプレーヤーも健在である。笑う人も居るだろうが、あるいは知らない人だって居るだろうが、オープンリールのテープレコーダーだって健在である。ソニーのベータのビデオデッキなど、2台も健在である。さすがに保存しておきたい物はDVDに移し変えてはいるが。
 ファックス兼用のA3の大型コピー機はモノクロだが、リース期間の5年をとっくに越えて、今や8年目を迎えている。
 こうした物は古い物でも十分に役に立つ。しかしパソコン関係は駄目だ。OSが新しくなれば、ソフトも使えなくなる事が多い。頭の良い機械は素晴らしい。けれども、使っている私はそんなに頭はよろしくはないのである。

 何が言いたいのかと言うと、どうも我々は変な事に無駄金を使っているのではないか、との疑いである。必要だから進化しているとは言い切れない。必要を生み出さなければ企業はやって行けないから進化させている面は絶対にある。なんせ、優秀な営業とは、エスキモーに麦わら帽子を買わせる事だ、と言われている。そう、我々はエスキモーで、本当に喜んで麦わら帽子を買い、かぶっているのである。
 そうした事をもっと本質的な、社会のためになる事、人間の生き甲斐になる事に切り替える事は出来ないのか。
 JR東海のリニアが、通過する県内に一駅は作る方針を認めた。通過では地元の了解が得られないからだ。同社は「高速性を重視し、中間駅を極力少なくしたい」方針だった。でも、東京・名古屋間45分と言うそんなスピードがなぜ必要なのか。満杯になった東海道新幹線のバイパスを造るに当たって、どうせならもっとスピードを、と言う気持は分からなくはない。でも、単なるパイパスだって十分に役に立つのではないのか。せっかくの技術だから生かしたいのは当然だろう。ならば、最低でも1県1駅で、十分に現在の新幹線に対抗出来るはずだ。
 こんな事、最初から決まっていても良いはずなのに、通過県の反対でやっとここまで妥協したのである。そんな効率ばかり考えないで、もっと人間らしい事を考えましょうよ。効率を最優先させたからこそ、現在の世界的な大不況があるのではないのか。我々は何千年もの昔から、ちっとも変わってはいないのである。むしろ、文明の利器のせいで、感覚も体力も、本質的な機能は衰えているのである。

カネはカネを生み出さない。複数の記事を関連付けて読む

2008年12月27日 | Weblog
 このところ、つくづくと、原因があって結果がある、と言う当たり前の事を実感している。そしてそれは一つ一つの情報を繋ぎ合わせて考える事で実現する。
 26日の東京新聞の夕刊に、「失職8万5000人に拡大」の大きな見出しが躍っている。年度末までに前月比5万5000人増、とある。その記事のすぐ下は日替わりのコラムで、星野智幸氏が書いている。

 「90年代の停滞を一気に変えてくれるかもしれないと期待して、小渕政権や小泉政権に帰依した結果、国民は国の経済に奉仕する奴隷と見なされた。「日本」に身を委ねれば委ねるほど、隷属させられ、搾り取られ、使えなくなれば捨てられる」

 そして「この一冊」と題する書評欄では、森永卓郎、吉田司著『資本主義はどこまで暴走するのか』を採り上げている。

 「カネがカネを生む投機型資本主義は、必ずバブルを呼び、「戦争」でリセットしてきたというのは歴史の事実なのだ。だから森永卓郎が何でもありの市場開放は危険だと言い続けてきたことと、彼の「戦争絶対反対」は一貫しているのだ」 

 翌27日の朝刊には「私の提言」で、ガテン系連帯事務局長の肩書きで、小谷野毅氏が「内部留保吐き出せ」と書いている。

 「もともと、企業の経営者は社会貢献するからこそ高い地位が与えられているはず。「百年に一度の不況」と言うのなら、企業も「百年に一度の社会貢献」の仕方がある」
 「特に製造業の工場は、自治体が税制優遇して誘致されている。こういう時にこそ、自治体に恩返しをすべきではないのか」

 既に臨時職員を雇う事に決めた自治体がある。そうした自治体に内部留保のカネを還元すれば良いのである。カネは損をしても、それ以上の信用を得る事が出来るはずである。カネなんて、その気になればいつだって取り返せる。しかし信用を得る事は難しい。特に一度失った信用は回復が難しい。今からだって遅くはないのである。

 そしてそのすぐ下には、キヤノンが求人票に労組加入禁止とも受け取れる記載をしていて、厚生労働省の指示で削除された、との記事がある。
 期間従業員について「労働組合は加入対象となりません」との記載があったと言う。キヤノンは「正社員でつくる組合には自動加入できない」との趣旨を伝え、ハローワークの担当者が記載の表現を考えたと言っている。趣旨がそうなら、そう書けばいいじゃないか、と言う話である。ほとんど文字数も違わないし、ずっと分かり易いではないか。
 つまり、これは巧妙な言い逃れであって、官民一体となって、労組加入を阻止しようと企んだと言われても言い訳が立たない。
 言い逃れって、本当に馬鹿馬鹿しい。そんな言い逃れをまともに信用している人なんかいない。そうした言い逃れで、なるほど、文章とはこのように曖昧に書けば簡単に人を騙せるのか、と納得はさせても、当の企業の考えを納得させる事にはならない。むしろ、悪質な正体がばれて損するだけである。

 先に「情報を繋ぎ合わせて考える」などと書いたが、そんな大袈裟な事ではない。普通に読んでいても、そうした繋がりは簡単に見えて来る。
 星野氏は冒頭に引用したような情況を「来年こそは自分たちで変える意思を持とうではないか」とコラムを締め括っている。
 同じ紙面にはクラシックの音楽事務所が自己破産したとの記事がある。「不況でクラシック公演の市場が縮小したことなどが影響した」と言う。カネはカネを生みはしたが、文化を破壊している。カネは取り返せても、文化は取り返せない。守銭奴達が文化を破壊しているのである。

渡辺大臣の造反は造反にあらず

2008年12月26日 | Weblog
 渡辺行政改革担当大臣は前々から、行革は必ずやる、と決意を示していた。24日の衆院本会議で、同大臣が「早期の衆院解散・総選挙」を求める決議案に与党としてはただ一人賛成に回ったのはその決意の一環に過ぎない。
 当然ながら、行革は国民のためにする。同じく総選挙も国民のためにする。これほど支持率が低く、不支持率が高い総理を頂いているのは国民のためにはならない、とは常識で分かる事である。国民のため、と言う線で一致している。同大臣に「ぶれ」は微塵も無い。
 
 国民のためにならない総理を頂いているのは、与党にはそれしか道が無いからである。国民の期待を裏切ってまで政権にしがみついていたいのは、権益を守りたいからである。総選挙に反対なのは、落選の憂き目に遭う恐れが多分にあるからである。
 いずれにしても、自分の事しか考えていない。国家のため、との大義名分は、「自分が国政に与っている限りにおいての国」のためなのだ。国会議員の地位を失ったら、国家のため、などとは口にしなくなるだろう。
 テレビでは、私が見た限りでは、「国会議員は国のため、国民のために存在する。以上、終わりっ」と、歯切れも威勢も良い同大臣の言葉を何度も繰り返して流していた。私はこの言葉を確認したいと、定期購読紙の東京新聞の2面に渡る記事を何度も読み返したが、どこにも無い。
 あるのは、「造反」の見出しが二度も繰り返されている事と、「拡大恐れ 大甘処分」の見出しくらいである。

 確かにこれは自民党に対する造反である。だが、国民に対しては正義である。正義が造反となるのは、造反された与党が正義ではない事の確実な証拠である。
 政党とは一体何なのだろう。まあ、念のために国語辞典の見解を見た。

・ある政治上の理由・目的を実現するために、政治権力への参与をめざして結ばれた政治的団体。
・共通の政見を実行に移すために政権を取ることを目標として結ばれた政治的団体。
・同じ主義と政策をもつもののつくる政治集団。
・政治上の主義・主張を同じくする者が政権の獲得をめざし、その政治理念や政策を実現するために結成する団体。

 小型辞典だけだが、四冊の内、三冊が「共通の目的を実現するための政権獲得」を目的としている。
 つまり、今の与党は、「国民のためにはならない」事が「共通の目的」となっている訳だ。三番目に挙げた辞典の説明にしても「同じ主義と政策をもつ」だから、やはり「国民のためにならない」事が主義・政策になっていると言う道理だ。
 まあ、こんな事は何も国語辞典の説明を引き合いに出さなくたって、誰にでも分かっている事だが、念押しをしたまでの事。ついでに、多分国会議員も常々参考にしているだろう『広辞苑』の説明は次の通り。

・共通の原理・政策をもち、一定の政治理念実現のために、政治権力への参与を目的に結ばれた団体。

 さて、以上五冊の内、四冊に「政治権力=政権」の言葉がある。そう、自分の主義・主張を実現するためには「権力」が必要になるのである。
 でも、何で「権力」なんだ? 良い事なら、国民のためになる事なら、権力なんか無くても実現出来て当然ではないか。言うまでもなく、自分の主義・主張あるいは政治上の目的が、必ずしも国民大多数のためとは限らないからである。そんな事を通すためには権力が要るのだ。
 渡辺大臣の勇気ある、そして良識ある行動から政党について考えた。普段から分かっていた事とは言え、こうした事を機会に、改めて考えてみる事は大切な事だ。何しろ、具体的だから、より分かり易くなる。


「品格」無き現代はいかさま賭博の世界だ

2008年12月25日 | Weblog
 24日の東京新聞のコラム「人間の品格」。筆者はあの『女性の品格』を始めとする数々の品格本を書いた坂東眞理子先生。

 「株主や経営者の利益を優先し働く人をコストとしてとらえ、短期収益にこだわるというアメリカ型経営の悪い面だけをまねしているのではなかろうか」
 「利益を上げることではなくて〈世のため、人のため〉に働くこと、知恵を絞ることが、このような経済状況だからこそ一番重要であり、それが人間としても企業としても品格ある生き方なのではなかろうか」

 こうした意見は今更言うまでもない。でもそんな事言ったって、品格が何であるかを理解出来ないで社会を牛耳っている連中には通じない。もちろん、彼等には品格は皆無である。いや、人間以前の存在でしか無い。
 坂東氏は様々な品格本で、人間としての品格を説いたのであろう。私は興味が無いから読んでいないが、今更「人間としても企業としても品格ある生き方なのではなかろうか」などと言う話ではないだろう。それとも、同氏は「女性の品格」だけに的を絞り、人間としての品格や企業としての品格には一言も触れなかったとでも言うのだろうか。
 品格本の嚆矢は藤原正彦先生の『国家の品格』である。この本は私には少々難しい所があるのだが、一番印象に残っているのは、なぜ人を殺してはいけないか、と言う答として「駄目だから駄目だ」と言い切っている事である。「嫌だから嫌だ」とは天地雲泥の差がある。「駄目だ」と言っているのは「天」だと私は思う。だから絶対なのである。
 総理でもなく、衆参両議院議長でもなく、最高裁判所長官でもなく、無論、天皇でもない。「天の意」に適う、それこそが「品格」であると信じている。

 今の社会を牛耳っている守銭奴どもは「天」など、はなから信じちゃいまい。信じていれば、こんな恐ろしい事など出来やしない。平気で天に唾している。それはもちろん、自分自身に降り掛かる。
 「世のため、人のため」が回り回って、「自分のため」にもなる。それは天の摂理であり、だからこそ、「情けは人のためならず」と昔から言い習わされているのである。
 守銭奴どもは、いかさま賭博の胴元である。ばくちにはまるで縁の無い我々も、どうしてかばくちの仲間にされている。もちろん、掛ける方である。なぜか知らないが、いつの間にか、ばくちに金を掛けるような仕組みになってしまっている。よくよく考えてみたら、リーダーと称するやからが、官民一体となって、胴元を陰から応援しているのである。すべてがばくちの世界になるように計らっているのである。中には自らが胴元になっているのも居る。
 だから品格など糞食らえ、と思っている。品格つまりは人間らしさ、それを馬鹿にしているんだから、彼等は人間ではない。それでは何物か。さて分からない。私はばくち打ちの胴元、守銭奴、それだけで分かると思っているが。

 同じ日の同紙の朝刊には「4万人削減の一方 大手16社 内部留保最高」の見出が躍っている。サブの見出しは「株主重視 減益の中 増配も」とある。22日の本ブログでも書いたが、こうした「公害企業」の後ろには株主が居る。それを新聞が明白に書いてくれた。「大手16社」の中身の一例が、トヨタ、キヤノン、ソニー、パナソニック。記事からはそれしか分からない。電機・精密九社、自動車業界七社としか無い。どうせなら、きちんと残りの12社の名前も明らかにして欲しかった。
 でも、そんな事をしなくても、我々にはそれがどのような会社かは分かっている。「一つ穴のむじな」なんだから、想像は付く。それに、それは大手16社には限らない事も分かっている。だから、坂東先生が言う「こうした危機の時こそ本当は長期的投資、人材獲得の好機でもあり、底値で将来への布石が打てる」なんて言うのは生ぬるいのである。「長期的投資」なんて言うと、それこそ守銭奴どもが、またまた俺達の出番だとしゃしゃり出て来る。「将来への布石」などでもない。喫緊の重要な手立てなのである。もっと正確に言えば、「こうした危機の時こそ、人間らしい生き方が、品格がきちんと理解出来る」のである。理解出来なければ落伍者になるしか無いような世の中にするのである。

冤罪は司法の犯罪だ。その告発はなぜかテレビが多い

2008年12月24日 | Weblog
 四五日前、テレビ朝日が冤罪の置き引き事件の告発番組を放送した。犯人とされた男性は何も言う事を聞いてもらえず、一方的に事が進んで行ったと言う。そうした事の一つ一つをテレビはきちんと追い、番組を構成した。
 事の起こりは、この男性が喫煙のために喫煙車の他人の座席に座った事にある。土産物を入れた自分の紙袋を持って席を立ったら、男が「バッグを盗んだだろう」と言って、バッグを突き付けたらしい。その辺の所がちょっと分かりにくいのだが、放送はどんどん流れて行ってしまうから、どうしようもない。
 男の連れ合いらしい女が、この男性がバッグを盗んで、足元の自分の紙袋に入れた所をホームから目撃したと証言。しかしテレビが実地検証をしたら、ホームからは足元の紙袋など見えなかった。
 極めつけは、バッグからこの男性の指紋の検出が行われていなかった事である。バッグを盗んだのなら、当然にバッグには男性の指紋が残っている。

 一審では無罪になった。ところが、高裁では一転、有罪の判決が出た。決定的な証拠も無いのになぜ有罪なのか。警察は指紋は調べなかったと言う。しかし、番組も出演者もみんな、調べなかったのではなく、調べたが指紋が検出出来なかったので、調べていない事にしたのだろうと推定している。
 警察のOBである出演者は、指紋を調べるのは「いろはのい」だと言う。その最も基本的な事を怠っているはずが無いと。基本を守らない警察の言い分をこの高裁は通したのである。
 この判決を出した裁判官の名前を番組は公表すべきである。守秘義務は裁判の過程の中での事のはずだ。判決文は公開されている。市販もされている。私の知人は被害者の一人として、氏名も住所も判決文に載っていた。青島元東京都都知事は、条例公布の被告として住所が、マンションの部屋番号まで明らかにされている。裁判官は判決文の最後にそれぞれ、署名をしている。
 一人の人間の一生を台無しにしてしまった裁判官を悪質な犯罪人として告発すべきである。警察はなぜか、事件の解決を急ぐ。そこで無理な捜査が行われ、往々にして冤罪が起こる。それを公明正大に裁くのが裁判官の役目ではないか。いい加減な警察に同調して、裁判官の役目が果たせるとでも思っているのか。
 我々はこうした告発番組を通じて、数々の納得出来ない判決の実態を見ている。

 こうした冤罪事件などを告発するのはなぜかテレビがほとんどだと私は思う。新聞ではあまり見掛けた事が無い。なぜだろう。
 新聞は情報が少ない。それに比べてテレビは文字は流せる上に、音声があり、動く映像まである。情報の量としては新聞など比べようも無いほどに多いはずだ。だから新聞ではやるスペースが無いのか。
 そうではないだろう。新聞はそうした告発で人目を引く事が難しい。と言うよりも、購読者数の増加に役立たない。ほとんどが定期購読であり、通勤客がスタンドで買う場合にも、たいていが購読紙は決まっている。内容を見て買ったり、読んだりする訳ではない。スポーツ紙とは違う。
 それに対して、テレビは、あっ、面白い事やってる、と言う具合で見る人が居るはずだ。本当は消そうと思っていたのが続けて見たりする事だってあるだろう。見るのを決めている番組がなく、チャンネルを変えては様子を見ている視聴者だって居る。だから、そうした浮動視聴者をうまく取り込めば、それで視聴率が上がる。そうした事が一定の視聴者を対象にした視聴率調査にどれほど反映するかは知らない。しかし、好感度を増す事は確かなはずだ。スポンサーだって喜ぶだろう。

 つまり、新聞は有意義な告発記事を載せたからと言って、収入増には結び付かない。だがテレビなら、収入増に結び付くはずだ。これは私の想像に過ぎない。だが、新聞ではなくテレビが熱心にこうした情報を採り上げるのはなぜか、と考えてみれば、こんな事しか思い付かない。それにテレビは確実に視聴率争いをしている。もちろん、それがスポンサー獲得の手段であり、CM料金値上げの手段である事は間違いない。
 ただ、テレビの情報の弱点は簡単に消えてしまい、記録が残せない事にある。再確認のしようが無い。もちろん、録画すれば済むが、再確認の必要性のためだけに録画するなんて馬鹿な事は出来ない。そうした事から、意外と無責任な言動がされたりもする。
 テレビが社会問題を告発する事を非難しているのではない。だが、何となく、説得力に欠けている気もするのである。いつも見ているのだが、たまたま用があって席を立ってしまう場合だってある。見てもらえる確率は新聞よりも確実に低いはずである。つまり、一過性の問題になってしまう恐れがあると思う。

 テレビでも新聞でも、こうした報道は世の人々に訴えるためにする。そうであるからには、その訴えた結果がどうなったか、その続きを報道する必要がある。そうすれば、テレビでも一過性の問題ではなくなる可能性が高くなる。我々は次から次へと目新しい情報が欲しいのではない。じっくりと一つの事柄に向き合いたいとも思っているのである。

山口二郎氏に大きな拍手を

2008年12月23日 | Weblog
 東京新聞の朝刊の「本音のコラム」に22日に山口二郎氏(北海道大学教授)が書いている事に諸手を挙げて賛成したい。

 「この七、八年を振り返り、(構造改革の)政策を決定した人々の固有名詞を挙げた議論こそ必要である。メディア自身も、規制緩和をどう論じてきたか、きちんと反省してほしい」

 まさに正論過ぎるほどの正論である。「水道管にわざと穴をあけておいて、今ごろ水が漏れていると大騒ぎするメディアは、善意かもしれないが、愚かである」「新聞もテレビも今ごろ何を言っているのだという疑問をぬぐえない」と手厳しい。それをきちんと新聞が採り上げている。「竹中平蔵氏や宮内義彦氏にもし会う機会があれば、構造改革の成果が上がって嬉しいことでしょうと言ってやりたい」との言い分も胸がすく。
 でも肝心のお人の名前を忘れちゃあいませんか?

 きのうも書いたが、守銭奴がこの国を牛耳っている限り、我々は救われない。投資家、企業経営者、政治家、経済学者、みんな一つ穴のむじなじゃないか。それぞれ自分が正しいと信じ切って生きている。それはいいが、その信じ切っていた事がどんな事であるのかを正確に理解しようともしない。もっとも、思ったって理解出来る器じゃないけどね。
 それでもメディアが口を揃えて正しい事を言ってくれたら、目覚めた我々の力を恐れて、愚かな連中も勝手な事は出来なくなる道理である。言うならば、メディアも、投資家、企業経営者、政治家、経済学者と同じ穴に住んでいる。それは仕方ない面もある。メディアは投資家であり、企業経営者でもあるからだ。
 だからこそ、守銭奴の血を洗い流し、生まれ変わらなければならないのである。人を窮地に陥れて、それはたとえ結果論だとしても、その事に一切責任を感じず、あるいは無関心のままの人間を我々は仲間だと思う事は出来ない。ましてや、社会のリーダーなんてちゃんちゃらおかしい。

 ホント、山口氏じゃないけど、ここ七、八年間の様々な駄目な政策を決定し、あるいはその後押しをして来た人々の実名と顔写真を大きく載せてくれるメディアは無いものか。彼等が堂々と歩けるような事を許してはならないのだ。これはれっきとした犯罪である。犯罪者が何年も監獄に入れられ、出て来ても大手を振っては歩けないのと同じく、我々庶民を徹底的に苦しめた犯罪者は処罰を受けなければいけないのである。
 そうでしょう。これは大掛かりな詐欺なんだから。国が率先して行った詐欺なんだから。
 日本人は忘れっぽいと言うか、お人良しと言うか、けなげと言うか、要するに馬鹿である。かく言う私も馬鹿である。お前は良いけど、みそもくそも一緒にするな、とおっしゃいますか? もしそう言うなら、じっくりと胸に手を当てて考えてみて下さい。自分はしっかりと、駄目な事、不正な事を阻止しようと立ち上がった事があるのかと。

 22日の東京新聞の連載漫画、「ちびまる子ちゃん」。まる子の通信簿に先生からの言葉が書いてある。曰く、
 「さくらさんは天真爛漫で空想力があります」
 「それっていい事?」
 「んー…。おおざっぱで気にしなくてボケッとしてるっていう事をやんわり書いてあるだけだな」
 我々はちびまる子と全く同じである。さくらももこさんにも大きな拍手を。

 きのう、現代の体制は「守銭奴主義」だと書いた。そしてアメリカの金融企業経営者の報酬が莫大である事が報じられた。何と、一人当たり年平均2億3千万円だと言う。最も高額は証券大手のメリルリンチの最高責任者で、約70億円で、それだけでは飽き足らず9億3千万円ものボーナスを要求したと言う。
 もしかしたら、日本の経営陣はこうしたアメリカの悪しき経営陣の精神をも見習っているのではないか、と心配になった。

「公害企業」の後押しを株主がしている

2008年12月22日 | Weblog
 きのうはブログを書いたのに、発信するのをなぜか忘れてしまった。わざわざ訪れてくれた人にはお詫びを申します。
 なぜ大企業が利益ばかりを追い掛けて、人間を見ようとはしないのか、と疑問を投げ掛けた。企業の経営体質がそうなっているのだが、その原因を私は金に目が眩んでいるのだとばかり思っていた。そんな心根の卑しい人々が経営陣となって、この国の経済発展に尽くしているのだと思っていた。
 私は株主の存在を忘れていた。
 企業の利益が減るのを株主は極度に嫌う。利益が減れば株価が下がる。投資家は資産が減る。だから株主の圧力で企業は利益を減らす事は出来ない。下手をすれば、経営者はその地位を追われる。
 何の事は無い。自らは働かず、金に働かせている輩が、「公害企業」の支配者なのだ。考えてみれば資本主義とは変な物だ。人間一人の労働力は限られるが、金の力は際限が無い。元手が大きくなればなるほど、儲けの旨みもまた大きくなる。人間の欲望は限度が無いから、金は人智を越えてどんどんのさばる。
 結局、金を働かせる人々はその金に操縦される哀れな人間になり果てる。
 そうした本人が人間失格になるのは勝手である。だが、他人を、しかも額に汗して働く人々を人間らしい生活から蹴落とすのは許せない。

 上記のような構図は想像に過ぎない。しかしなぜ企業は「公害」と名指しされる存在に成り下がってもそれを恥じないのか、と考えたら、経営者に縄を付けて引きずり回している存在に気が付いた。経営者は恥じないのではなく、恥に思う事さえ禁じられている哀れな存在なのである。
 更に考えれば、創業の経営者が代替わりしている事も原因なのではないか。創業者の名前を採った会社である松下は、トヨタは、ホンダは、今どうなっているか。自分の父親や祖父が創業者なら、多分、その名前を汚す事はしないだろう。赤の他人が経営者となるから、経営の理念が狂ってしまうのではないのか。
 もちろん、経営者の子供はもちろん、経営者その物だって狂っている企業はたくさんある。我々は年がら年中そうした連中の姿を見させられている。多分、そうした連中は「経営者イコール資本家」なのであろう。

 投資家の気持は、人々に夢を与える企業、人々を幸せにする企業に資金を出す。その夢や幸せの代償としていくばくかの利益を分けてもらう。それが本来のはずである。いくばくかの利益は多い方がいいに決まっているから、夢でも幸せでも、将来性の少しでも多い企業に向くのは当然の事。それが健全な投資だろう。
 ところが、夢や幸せに対する考え方が少しずつ狂って来た。夢や幸せがどうしても金額に集中してしまう。金額に置き換えられてしまう。言い換えれば、金があれば夢も希望も叶う、と思ってしまう。確かに金は必要だが、金がすべてではないのに。
 それは無理も無い。夢や幸せを叶えるはずの企業がこぞってその夢や幸せを金に置き換えてしまったからである。そうだろう。携帯電話一つとってもそれは歴然としている。電話とは緊急の役に立つ道具である。しかし何でもかんでも携帯でこなす事を考えて、それが出来ないと落伍者かのように思わせてしまう。そうして携帯を売り込み、電話事業を発展させている。正道を踏み外している事に気が付かない。いや、気付いているのだろうが、気付かぬ振りをしている。
 世間も褒められた物ではない。小中学生に携帯を持たすな、との声が起こって、初めて気が付く。いや、まだ気が付いてはいない。小中学生だけではなく、大の大人でさえ携帯に毒されているのに気が付かない。自転車の片手運転で話に夢中になっている馬鹿、画面に見入って歩いていて、ぶつかりそうになってやっと気付く馬鹿。
 携帯一つでさえ不始末がぼろぼろと出て来るから、他の様々な「文明の利器」を入れたら、どんな事になっているやら。
 現在の資本主義、自由経済主義を私は「拝金主義」と呼びたい。もっと言うなら「守銭奴主義」でもいい。「守銭奴」は言い過ぎではない。派遣労働者は職を失い、更には住まいをも失っている。おかしいじゃないか。生産の縮小で労働者の首を切る。だから新たな雇用は無い。派遣労働者の住んでいた住居に新たに入る人間は居ないのだ。それなのにそこから追い出そうと言う。これを「守銭奴」と言わずして、何と言おう。
 文化も文明も人間が作り出しているはずなのに、今や人間は使われている奴隷の身分に落ちた。私は奴隷にはなりたくない。