考えに考えた。それを言葉にした。そして一つのまとまりのある文章に「書いた」。だが、知恵も「欠いた」。分かり易いか、と判断する知恵である。
この「分かり易さ」とは一筋縄では行かない。単に「理解し易い」ではないからだ。「理解した」と思える事が重要なのである。別に理解出来ていなくても構わない。理解出来たと得心出来ればそれで良い。
何でこのような事が言えるのかと言えば、ベストセラーなどで、皆目理解出来ない本が決して少なくはないからである。理解出来ない、と言うよりも、言っている事が滅茶苦茶だ、と言う方が当たっている。もっと言えば、著者は言っている事は理解出来ているが、それが滅茶苦茶である事が理解出来ていない。
本当にそんな本があって、ベストセラーになっているのか、と疑問を持つのは当然である。だが、私はその証拠をしっかりと握っている。
ただし、ここに困難が一つ待ち受けている。私が滅茶苦茶だと言う事に対して、それはあんたの勝手な考えだよ、と言う人々がいるのである。自分はそれで十分納得が行くと言われてしまえば、それまで。感受性の違いで終わる。
しかしながら、私は富士山が美しいか美しくないか、などと言っているのではない。富士山の標高が3776メートルである、それ以下でも以上でもない、と言っているのである。正式に認められている標高はただ一つ。それを云々する人は居ない。
お前さんの勝手だよ、と言う人々は、標高ではなく、富士山が美しいか美しくないかを問題にしているのである。私が標高を問題にしているんですよ、と言ったって、聞きゃしない。それで私は簡単に却下されてしまう。
実は、私は「論理が滅茶苦茶ですよ」と言う原稿を書いている。それを世間に訴えたい。そのためには、販売に力のある出版社に本にしてもらいたい。だが、その編集者が富士山が美しいか美しくないかを問題にしてしまえば、前途は閉ざされてしまう。
富士山の美的問題だと見せ掛けて、その実、標高問題にすり替えてしまう事が出来れば、この難関は切り抜けられる。それが私の言う「知恵」なのである。そのすり替えはとても難しい。なぜなら、読者を騙さなければならないのである。
だが、騙さずにすり替えをする方法が二つある。
一つは、著者が有名である事。有名な著者であれば、読者は一も二も無く、納得してしまう。つまり、理解出来たと錯覚する。その知名度はそれほど高く無くても良いらしい。一冊でも良いから、10万部ほどのベストセラーを出していればそれで良い。さる一流出版社の編集者がそう言っている。経験からの言葉だから、力がある。
でもそれでは新人の出る幕が無いではないか。
その通り。しかしそれにも方法がある。ベストセラーになれば良いのである。つまり、これが二つ目の方法である。
何だ、言っている事と矛盾しているではないか。
そう、言葉の通りなら明確な矛盾になる。しかし、「ベストセラーにすれば良い」と言い替えれば筋が通るようになる。つまり、出版社の意向次第なのである。「たちまち重版 第○刷発行」などと、何度も広告を打てば、内容が読者の興味を引く対象ならば、ベストセラーになるはずだ。こうした広告に影響されないのは、鈍感な読者と書店だけである。
読者は安直な事を望んでいる。この世の中の事がそんな簡単に分かる訳が無い。でも簡単に分かると信じ込んでいるから、簡単に騙されてしまう。別に振り込め詐欺ではなくても、日常茶飯事的に我々は騙されている。
またまた富士山の話で恐縮だが、麓から登ろうとすれば、それこそ一歩一歩自分の足で歩くしか無い。現在は5合目からの登山が圧倒的に多いが、それだって、3千メートルの半分は自力で登るしか無い。その5合目からでさえ嫌だと言い、直接ヘリコプターで頂上に運んで欲しい、と願っているのが多くの読者なのである。それじゃあ、登山の楽しみなんか無いではないか、と言ったって聞かない。登るのが楽しいのではなく、頂上に立つ事だけが目的なのだ。頂上に立つにしたって、自力で登ったからこそ充実感があるのに、その充実感を無視しようとする。
てっとり早く結果だけを手にしたいと思うから、活字ではなく、漫画になる。そう、総理の麻生さんが漫画がお好きだと言うのは、そうした事なのである。だからと言って、漫画を馬鹿にしているのではない。ただ、漫画には漫画の役割があり、効果がある、と言いたいだけである。文章ではとうてい表現出来ない世界を漫画なら表現出来る。それと同じ事が、文章の世界にもある。
現在の出版界の大きな傾向は、簡単に分かりたいとする読者に迎合してしまっている。それがベストセラーになり易いものだから、どうしても、その安易な道を選んでしまう。効率の良いベストセラーに頼った会社は、地道に地味な本を売る努力を怠ってしまう。だから、いざベストセラーが生み出せなくなると、簡単に潰れてしまう。
地味な活動をする技術を忘れているから、すぐにはどうにもならない。
来年は何とかして、富士山の美しさの問題を標高の問題にすり替えてしまう技術を身に付けなければ、と思っている。いや、すり替えるのではなく、美しさの問題から発展して標高の問題に到達出来る技術を会得したい。
この「分かり易さ」とは一筋縄では行かない。単に「理解し易い」ではないからだ。「理解した」と思える事が重要なのである。別に理解出来ていなくても構わない。理解出来たと得心出来ればそれで良い。
何でこのような事が言えるのかと言えば、ベストセラーなどで、皆目理解出来ない本が決して少なくはないからである。理解出来ない、と言うよりも、言っている事が滅茶苦茶だ、と言う方が当たっている。もっと言えば、著者は言っている事は理解出来ているが、それが滅茶苦茶である事が理解出来ていない。
本当にそんな本があって、ベストセラーになっているのか、と疑問を持つのは当然である。だが、私はその証拠をしっかりと握っている。
ただし、ここに困難が一つ待ち受けている。私が滅茶苦茶だと言う事に対して、それはあんたの勝手な考えだよ、と言う人々がいるのである。自分はそれで十分納得が行くと言われてしまえば、それまで。感受性の違いで終わる。
しかしながら、私は富士山が美しいか美しくないか、などと言っているのではない。富士山の標高が3776メートルである、それ以下でも以上でもない、と言っているのである。正式に認められている標高はただ一つ。それを云々する人は居ない。
お前さんの勝手だよ、と言う人々は、標高ではなく、富士山が美しいか美しくないかを問題にしているのである。私が標高を問題にしているんですよ、と言ったって、聞きゃしない。それで私は簡単に却下されてしまう。
実は、私は「論理が滅茶苦茶ですよ」と言う原稿を書いている。それを世間に訴えたい。そのためには、販売に力のある出版社に本にしてもらいたい。だが、その編集者が富士山が美しいか美しくないかを問題にしてしまえば、前途は閉ざされてしまう。
富士山の美的問題だと見せ掛けて、その実、標高問題にすり替えてしまう事が出来れば、この難関は切り抜けられる。それが私の言う「知恵」なのである。そのすり替えはとても難しい。なぜなら、読者を騙さなければならないのである。
だが、騙さずにすり替えをする方法が二つある。
一つは、著者が有名である事。有名な著者であれば、読者は一も二も無く、納得してしまう。つまり、理解出来たと錯覚する。その知名度はそれほど高く無くても良いらしい。一冊でも良いから、10万部ほどのベストセラーを出していればそれで良い。さる一流出版社の編集者がそう言っている。経験からの言葉だから、力がある。
でもそれでは新人の出る幕が無いではないか。
その通り。しかしそれにも方法がある。ベストセラーになれば良いのである。つまり、これが二つ目の方法である。
何だ、言っている事と矛盾しているではないか。
そう、言葉の通りなら明確な矛盾になる。しかし、「ベストセラーにすれば良い」と言い替えれば筋が通るようになる。つまり、出版社の意向次第なのである。「たちまち重版 第○刷発行」などと、何度も広告を打てば、内容が読者の興味を引く対象ならば、ベストセラーになるはずだ。こうした広告に影響されないのは、鈍感な読者と書店だけである。
読者は安直な事を望んでいる。この世の中の事がそんな簡単に分かる訳が無い。でも簡単に分かると信じ込んでいるから、簡単に騙されてしまう。別に振り込め詐欺ではなくても、日常茶飯事的に我々は騙されている。
またまた富士山の話で恐縮だが、麓から登ろうとすれば、それこそ一歩一歩自分の足で歩くしか無い。現在は5合目からの登山が圧倒的に多いが、それだって、3千メートルの半分は自力で登るしか無い。その5合目からでさえ嫌だと言い、直接ヘリコプターで頂上に運んで欲しい、と願っているのが多くの読者なのである。それじゃあ、登山の楽しみなんか無いではないか、と言ったって聞かない。登るのが楽しいのではなく、頂上に立つ事だけが目的なのだ。頂上に立つにしたって、自力で登ったからこそ充実感があるのに、その充実感を無視しようとする。
てっとり早く結果だけを手にしたいと思うから、活字ではなく、漫画になる。そう、総理の麻生さんが漫画がお好きだと言うのは、そうした事なのである。だからと言って、漫画を馬鹿にしているのではない。ただ、漫画には漫画の役割があり、効果がある、と言いたいだけである。文章ではとうてい表現出来ない世界を漫画なら表現出来る。それと同じ事が、文章の世界にもある。
現在の出版界の大きな傾向は、簡単に分かりたいとする読者に迎合してしまっている。それがベストセラーになり易いものだから、どうしても、その安易な道を選んでしまう。効率の良いベストセラーに頼った会社は、地道に地味な本を売る努力を怠ってしまう。だから、いざベストセラーが生み出せなくなると、簡単に潰れてしまう。
地味な活動をする技術を忘れているから、すぐにはどうにもならない。
来年は何とかして、富士山の美しさの問題を標高の問題にすり替えてしまう技術を身に付けなければ、と思っている。いや、すり替えるのではなく、美しさの問題から発展して標高の問題に到達出来る技術を会得したい。