夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ブログをやるなら、発信は義務だと思うのだが

2012年07月30日 | 趣味
 だが、それが私は出来ていない。この熱さでダウンしてしまった。寝込んでしまった訳ではないが、ぐったりして何も出来ない。
 朝から昼過ぎまで、子供達の登下校の安全誘導をしている。正味5時間。夏休みだが、水泳指導と学習指導がある。それぞれ1時間ずつのタイムスケジュールだから、登下校も1時間ごとなのだが、登校の時間帯の幅と下校の時間帯の幅が大きいので、ほとんど出っぱなしになる。
 日陰がある所ばかりではないし、腰掛ける所がある訳でもない。立っているだけで汗がたらたら流れるほどだから、いくら水分補給をしたり、塩飴を舐めたりしていても、体力の消耗は激しい。

 1時過ぎに帰宅して、ついつい横になってしまう。やっぱり歳かなあ、とも思う。去年はこんなじゃなかったのに、とも思う。そして夜はまた別の労働が待っている。冷房の効いた室内での作業だが、やはり、全身汗びっしょり。それが3時間。
 学校の仕事は毎日ではないが、仕事がない時は、パソコンに向かって原稿を書く。
 ある賞の作品募集があって、それに応募してみようと考えたのである。それ以外にも、ある原稿のまとめの最終段階に入っているので、いくら時間があっても足りない。

 作品の応募は、駄目で元々と考えている。出来上がっている物を募集の条項に合うように書き直している。規定の枚数に届くかどうか、まだ分からない不安もあるが、何事もやってみなくては。そして、受賞は見込めなくても、何人かの審査員に読んでもらえるチャンスがある。一瞥して、はねられるかも知れないが、少しばかりは自信もある。
 原稿募集の出版社への応募では、ほとんどがすぐに自費出版のお勧め、になる。幅広く意欲作を求めていると言いながら、そのジャンルは出した事が無いので、自信が無いので、制作費を一部とは言え、負担してくれ、と言う事になる。

 さあ、今日も気持を切り替えて、頑張ろう。

またまた御無沙汰してしまいました

2012年03月11日 | 趣味
 今回もまたアルバイトが忙しいのと、原稿書きでブログを書く時間が取れなかった。原稿募集をしているある出版社に企画書を送ったらすぐに返事が来た。しかし、売れる自信がないので、210万円の負担を私がすれば本は出せる、と言う返事だった。出版社が売る自信がない物なら、私個人が売れる自信を持てる訳が無い。210万円ものお金があるなら、何も好き好んでアルバイトなどしたりはしない。
 前に私の本を出してくれた出版社は「本は著者が売るものです」と言う。無名の著者に本を売る事が出来る訳が無い。

 出版社は黙っていても売れる本を売りたいらしい。だから、無名の新人なんかに目もくれない。ある著名な出版社の社長がテレビに出ると言うので楽しみにして見た。だが、何の事は無い。単に売れている作家に目新しい物を書かせるだけが、その社長の狙いだった。皆さん、楽をして儲ける事しか考えていないらしい。
 こちらは寝る間も惜しんで原稿を書いていると言うのに。もっとも、それはこちらの出来が悪いだけの話であって、書ける人は楽々と書いているのだろう。

 小学館がノンフィクションのコンテストをする。4月末日が締め切りで、そこには「歴史の定説を覆す新史料などに基づく独自の考察」も対象になっている。私のは「新史料」ではないが、万葉集の歌と日本書紀を原文に忠実に解釈した「独自の考察」である。
 「だめもと」で、先の原稿を応募しようと考え直し、規定の枚数に納まるように書き直している。だから時間が幾らあっても足りない。
 そんな訳で、私の拙いブログを読んで下さっている方には申し訳ありませんが、なかなかブログが書けません。お詫び申し上げます。

ブログがなかなか書けないお詫び

2011年07月04日 | 趣味
 今、私は万葉集に取り組んでいる。歌の中に専門的な解説書でもきちんと説明の出来ていない歌が幾つもある。その内の幾つかを取り上げて、自分なりに解釈を試みた。専門家さえ出来ていない事が素人に出来るはずが無い、とは言えないのである。専門家だから出来ない事もある。素朴な考え方が出来ないのである。それにメンツや学閥もある。自分ではそう思っていても口に出せない事があるらしい。その点、素人は気楽なものだ。ただ、私にはそれを本にしたいとの思いがあるから、気楽では出来ない。
 それで毎日のように考え直しているから、なかなか完成しない。仕事が無い時には朝から晩まで取り組んでいるから、ブログに取り組む時間が無い。テレビもほとんど見ないし新聞もあまりよく読まないから、書くネタも無い。今の所、無い無い尽くしなのだ。

 万葉集の学者が匙を投げている歌は本当に難しい。独断と偏見ではどうしようもないから、解説書の説明を引き、他の本の説明も引き、辞書にはこうある、と書かれていればそれを確認する。そうして自分なりにきちんと漢字の意味と言葉の意味を調べて論理を立てているつもりなのだが、どこかにちょっとした穴が開いていたりする。それはもちろん調べて埋めなければならない。
 そうした事を年がら年中していると、自画自賛ではないが、あれっ、俺って意外と分かってるじゃないか、なんて思ってしまう。だって、様々な本などよりもずっと高度の事を考える事が出来ている。でもうぬぼれは禁物だ。そして私は勝手な想像を自分に厳重に禁じている。あっ、これは面白いと思う想像が出来る場合が少なくない。しかし所詮は想像に過ぎない。それを確実に証明出来なければ単なる想像で終わる。
 けれども世の中にはそうした想像で終わって、しかも大胆な提言をしている本が少なくない。とても羨ましい。確証も無く、想像を史実だと言い切るその大胆さはとても真似が出来ない。「ではないだろうか」と一応は謙虚に言うのだが、どうしてどうして。そこには自信がたっぷりと盛り込まれている。

 こうした言い方は実に便利に使われている。自信があるのなら、「…である」と言い切れば良い。「…であると思う」でも「…であると考える」でも良い。しかしうそうではなく、「…ではないだろうか」とか「…ではないのではないだろうか」などと言われると、えっ、一体どっちなんだよ、と言いたくもなる。
 結局は自信が無い事を書いて買ってもらえる訳が無いのだから、「…ではないだろうか」は謙遜の言い方なのである。読者に判断を求めるような振りをして、つまりは結論がどんなにいい加減で曖昧で杜撰な結果であっても、その一つ一つが読者の判断を仰ぐような「…ではないだろうか」になっている事を通して、結局は読者に責任を押っ付けてしまうのである。
 なんて書いてしまった以上、私も今書いている原稿に「…ではないだろうか」が無いよう、もう一度見直す必要がある。でもそれをやっていると、またまた考え直し、書き直す必要のある所が見付かってしまうのだ。でも何とかして決定稿を作らないと切りが無い。そして早くブログを書かなけれぱ。

三笠書房の企画に応募して

2010年11月24日 | 趣味
 私は毎日原稿を書いている。同時に前に書いた、本にはなっていない原稿の手直しをしている。と言うのは毎日発見があるからだ。三笠書房はその「王様文庫」の10周年記念で原稿の募集企画をした。8月末締め切りで私は5冊の原稿を送った。結果は年内に決まる。同文庫はエンターテイメント系だから、私の原稿がお眼鏡にかなうとは思いにくいが、毛色の違う物もあった方が今後の同文庫の発展のためになるのでは、などと大層な事を考えて応募した。
 人間は日々進化している。だから前にこうだ、と結論付けた事でも、日が経つにつれて、違う考え方も出来るようになる。もっと良い考えになる事もあれば、全く別の考え方になる場合もある。そこで書き直す。前述の企画に合っても合わなくても、別の出版社に売り込む事も考えて、少しでも良い方向に持って行く必要がある。
 そして、そうした新しい考えはある時、突然にひらめく。それは常に前に書いた事を反芻しているからだ。あるいはしっかりと頭の中に入っているからだ。だからそれとは少しでも違う考えが出て来れば、引っ掛かるのである。引っ掛かって、ずっと良い考えに到達出来た時の嬉しさは例えようが無い。ああ、自分はこんなに進歩しているんだ、と自画自賛である。そしてその自信が更に考えを押し進める事にもなる。

 何でこんな事を書いているのかと言うと、考える事をお勧めしたいからだ。新聞やテレビ、雑誌の受け売りではなく、自分自身の頭と心で考える。どんなつまらない事でも構わない。それが一つの芯になって、そこに様々な考えがくっついて来る。芯と相反する考えもあれば、芯を太らせる考えもまたある。そうした芯を幾つも作って置くのである。全く新しい芯が見付かればそれはそれで上々である。
 他人の意見のつぎはぎは出来ない。しょせん、発想が異なる。他人の意見を受け入れるのはいい。それを自分なりにそしゃくして、初めて自分の考えに取り入れる事が出来る。時々そうした事を無視する人が居る。で、話し合ってみると、その人の考えはどんどんくずれてしまう。他人の意見のつぎはぎとはそうした事なのである。

 そうした事を自分の専門の世界でしている人が居る。無定見に他人の意見を取り入れる。きちんとした自分の考えではないから、あちこちに矛盾が出て来る。しかしそれが矛盾だとは気が付かない。そんな程度なのである。普段から自分自身で考えている人にはその底の浅さが明確に分かる。だから、考えましょう、と言うのである。
 ただ、頑固であってはいけない。自分の考えを後生大事に守る事が能ではない。心を出来るだけ平らかにして、冷静にして、事の成否を吟味する。これは私自身に言い聞かせてもいる。私には頑固な部分がある。今の所、それは良い方向に向いているが、頑固とは元々良い意味ではない。押しの強いのは良いのだが、意地を張ってはいけない。そうそう、今、当たり前のような言葉を調べている。「頑固」も調べてみれば、きっと面白い結果が出るだろう。

朝顔を見て、光と色との関係を考えた

2010年11月23日 | 趣味
 11月も下旬だと言うのに、まだ琉球朝顔が元気に咲き続けている。一つの所に三つも四つも花芽が付くのもいいのだが、何よりも青みがかった薄紫のその色が気に入っている。今年の梅雨時に茎挿しをしたのから根が出て、茎も2本になって葉を茂らせた。知人は去年茎挿しをしたのに今年もまだ咲かないと言うので、諦めていたら、9月の終わりになってから花芽が付き始めた。茎挿しをするのは、この朝顔は種が出来ないからだ。なお、名前は園芸店では「琉球朝顔・いりおもて朝顔」などと呼んでいるが、持っている「園芸大事典」にはそうした名前は無い。「朝鮮朝顔」は別種の毒草になっている。「朝顔」の項目にも見当たらない。
 花をよく見たいので、テーブルの近くに持って来た。昨晩からの雨が上がって日が差し始め、光が当たった葉を裏側から見る事になった。その色の何と透明で鮮やかな事。これが本当の葉の色か、と思った。考えてみると、すべての物が直射日光が当たると色が薄くなる。本当の色を失う。我々は普段からその色を見て知っているから何とも思わないけれど。
 改めて、走って来る車の色を見た。12階からだから、みな屋根が光って見える。車はぴかぴかに磨かれているから、その反射光を見る事になる。その色はみなほとんど同じに見える。そして日の当たっていない胴体部分を見て、やっと、ああ、赤い車なんだな、黒い車なんだな、と識別が付く。
 何と馬鹿な事を言っているのか、と思うかも知れない。物はすべて光があるからその色が見える。で、その光量によって色が違って見える。そうなると、見ている物の本当の色とはどのような状態の色を言うのだろうか、と疑問になる。
 そうか。だから色を測定する場合の光が決められているのか。あれっ、それって光の何だったっけ。

 この朝顔は、私の場合は異常なほどの遅咲きだった。育てたのが遅かったのだから当然である。こんもりと茂って花が見えないくらいだった葉も既に相当数が黄色くなって落ちてしまった。それでもまだまだつぼみがある。一体、これらのつぼみはどこまで咲くのだろうか。まるで落葉と競争しているかのようでもある。
 よそでは、まだ花の盛りに刈り取ってしまったりしている。そうしないと根に年を越す養分が蓄えられないのだろうか。この朝顔を育てている人に聞いてみたいのだが、育っている多くが公営住宅の垣根だったりしているし、育てている人の戸を叩くのも失礼だろうし。

22・2・22の日で企業は大もうけ

2010年02月22日 | 趣味
 先日から今日は平成22年2月22日で、2並びと喧伝されている。まあ、確かに珍しい事ではある。ある人はテレビでこの機会を逃したらあと11年先になる、と言っていたが、33年3月3日はあるだろうが、33日は無い。でもそんな事を言えば、1年2月3日にしても、2年3月4日にしても珍しいし、11年12月13日も珍しかった。これ以降は出来ないけど。
 そしてテレビでは東急電鉄が記念入場券を発売して10枚セット900円で3千セット限定が瞬く間に売り切れたと報道している。これはどこでもやっているに違いない。900円×3000=270万円。使いもしないだろう紙切れがあっと言う間に270万円。印刷費は掛かるし、紙代も要る。だが「濡れ手で粟」は間違いない。

 私も以前、開通記念入場券などを買った事がある。だが、それは引き出しの中で永眠している。今取り出してみても、ああ、そんな事もあったなあ、で終わり。先日、「何でも鑑定団」で明治時代の鉄道の乗車券を集めたのが何百万円だったかの値が付いていた。それは実際に乗った乗車券であり、中には高い一等乗車券もあったから、縦型の入場券もあったし、しかも普通は回収されて乗客の手元には残らないから貴重な資料だった。
 3千セットもある記念入場券に希少価値は無い。たかが900円で楽しめれば安いもんだが、そうやって人々を釣る商売が私には納得が行かない。今日が2並びの特別の日なら、明日はその翌日の特別の日になる。あさってはそのまた翌日の特別の日になる。そう、毎日が自分にとっては特別の日なのである。
 物を集めると言うのは一種独特の気持になる事なのではあるが、鉄道側がそんなセットを売り出さなければ、乗客は自分が取っておける何らかの乗車券で、裏に22-2-22の日付が入った物を手に入れるだけの事である。普通の切符では回収されてしまうから、一日乗車券などにすれば利用した上に手元に残る。

 まあ、平和で豊かな事の証なのだろうが、私は何と無駄な事かと思う。今私は身の回りの物を徹底的に捨てている最中だから余計にそう思う。録りためたカセットテーブ、撮りためたHi8のテーブ、DVテーブ、VHテープ、βテーブ、どんどん捨てている。中には封を切っていないテーブもあるが、今やDVDの時代だ。あまりにも進歩が速過ぎるから、使い切れない内に賞味期限が切れてしまう。そう言えば、フロッピーも大量に捨てた。今、使っていないCDディスクとMOディスクが大量に残っている。これからは買い置きはすまい。
 入場券のセットなど場所を取らないと思うが、そうした物が集まると馬鹿にならない場所取りになる。「塵も積もれば山となる」のことわざを今更ながらに身にしみて感じている。

音楽は目でも見る

2009年10月26日 | 趣味
 クラシックの名曲を解剖して見せてくれる番組がある。何度も聴いている名曲がこのような作りだったのかと、感心する事しきりである。今までずっと耳で聴いて来た音楽をテレビで見て、客席からは見えない所まで見えて更に分かったような気になったのだが、今度は更にその上を行く。
 先日はブラームスの交響曲第一番の冒頭のティンパニーの連打で、右手だけで打つ人、左右交互に打つ人、両手で打つ人、と三通りの演奏を聴かせてくれた。確かに微妙に違う。持っているスコアには打ち方の指示など無い。単にフォルテの記号が付いているだけだ。だから今までそんな事、まるで考えた事も無いし、聴き分けた事も無い。良い音源で良い再生装置でないと、聴き分けるのは難しいだろうが、出だしの重要な部分でもあり、今度からはそこに注意が集中するだろう。
 こうやって、一つ一つに注意が行くようになってこそ、その音楽を楽しむ事が出来るはずだ。オーケストラのどの楽器も無駄な事はしていないにも拘らず、我々はそれぞれの楽器を意識していない。単に音楽を聴くだけの立場でそのような事が出来るはずも無いのだろうが、作曲家はきちんと意識して楽譜を書き、演奏家は楽譜に従って忠実に演奏し、指揮者はそこに自分ならではの命を吹き込む。それを堪能しなければ、本当にその曲を聴いた事にはならないのだろう。

 別の番組ではピアノの鍵盤を真上から映して見せてくれた。指の動き、それがどんなに素晴らしい動きをしているのかを、ピアニストと同じ目で見る事が出来る。あまりにも目に意識が集中し過ぎて、うっかりすると音楽が流れてしまう恐れはあるが、これまた技巧の一端を垣間見る事が出来る。
 難しかろうが、易しかろうが、音楽その物に酔いしれれば良いのではあるが、難しい曲なんだ、と知っていれば、それだけ聴くにも身が入ると言うものだ。
 大型テレビの迫力は凄いが、絵に対して音が貧弱に過ぎる。だからスピーカーを組み込んだラックをセットにして売ったりするのだろうが、ラックに対する考えが浅過ぎる。売り手がセットにした機器だけが入ればそれで良いと考えているらしい。世の中にはもっと別のたくさんの機器があるのだ。まさか既存の機器は捨てなさい、と言うのではなかろう。音質を追求すると言うのなら、ラック抜きでスピーカーだけをセットにする事も考えるべきだろう。これだけ多様な世の中で、一律に一つの物だけを勧めようとするその魂胆に大きな疑問がある。多分、そうしないと利益が追求出来ないのでしょうね。