夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

民主政権、初の死刑執行

2010年07月30日 | 社会問題
 民主党の政権になって初めての死刑執行が物議をかもしている。
 その主な理由は、
1 千葉法務大臣は参院選で落選して民間人の法務大臣である。
2 任期満了直前である。
3 千葉氏は死刑廃止論者である。
4 死刑に立ち会った事、今後刑場を公開する方針である事。

 しかし、死刑は確定したら6ヶ月以内に執行しなければならない、と定められている。自民党政権時代、鳩山法務大臣が相次いで死刑執行に署名した事で、朝日新聞は同大臣を「死神」と誹謗して、世間から指弾された。今回も同じような流れに見える。
 でもおかしいではないか。法律の定めを守って、なぜ非難されなければならないのか。
 確かに、千葉法務大臣の発言にはおかしな部分もある。でも、法務大臣としての務めを果たしてなぜ非難されなければならないのか。
 死刑は確かに一種の国家的殺人行為ではある。しかしそれを言うなら、まず第一に、裁判所が「被告人を死刑に処する」と判決を下した、その事自体を非難しなければおかしいではないか。更には法務大臣は6ヶ月以内に死刑を執行しなければならない、との決まりがおかしいではないか。
 死刑執行に文句を付けるなら、裁判所が死刑の判決を下した時点で非難すべきではないのか。そして確定後6ヶ月以内に執行しなければならない、との決まりを非難すべきではないのか。
 そうした事をしないで、法務大臣が決まりを守った事を非難する。人間が人間の命を奪う事は出来ないのだ、と言って非難する。
 まずは、そうした根本的な事を議論すべきである。それをしないで、法律に則った事を実行した事を非難する。それはおかしいと、私は思う。

 みなさん、すごい自分勝手である。面倒な事は考えたくない。でも簡単に非難出来る事なら、非難する。誰かが言い出せば、簡単に尻馬に乗る。
 死刑はとても難しく、重い話である。人が人の命を奪う事が果たして合法的なのか、はとても重い問題だと思う。しかし、人を自分の利益のためだけに殺した事をそんなに簡単に許して良いのだろうか。
 死刑は駄目だ、と言うのなら、終身刑や重労働の刑を科する事を絶対に考えるべきである。終身刑の制度も無く、あるのは無期懲役のみ。無期限に懲役刑に服するのかと思えばさにあらず。単に刑期が定められていないだけに過ぎない。だから、簡単に出所も出来る。無期懲役とは限らないが、出所した殺人犯が、自分を訴えた相手を殺した事件が実際にある。
 ある殺人事件に何の関係も無い人間が、死刑は殺人行為だ、と言う事に、殺された人間の遺族は絶対に承服は出来ないと思う。理不尽にも人を殺した人間が守られ、殺された人間は無視される。そんな事があって良いものか。みなさん、自分が、自分の愛する人が殺された経験など無いから、勝手な正義を主張するのである。
 確かに、人が人を殺すのが正当だとは思わない。でも、だからと言って、殺され損で良いのか。江戸時代のあだ討ちではないが、殺された側はどんな理由があるにせよ、殺した相手を憎み、その相手を殺そうとする。それでは切りが無くなる。憎しみの輪はどこかで断ち切らなければならない。
 でも、死刑反対論者の言う通りなら、殺され損になるし、泣き寝入りになる。どうして、殺した人間の人格が重んじられて、殺された人間の人格は無視されるのか。そこには、死んだ人間はもう何も出来ないが、殺した人間にはまだ未来がある、との単純な考えしか私には見えない。

 もしも、あなた自身が何の理由も無く殺されて、殺した相手が許されるのを見て、あなたは草葉の陰でそれを納得出来るだろうか。もしもそれが出来るのなら、あなたは仏様のような完全な人間である。それなら、今、生きている現在、今後、絶対に何事にも文句は言わない事です。
 こうした考えは多分、絶対に反発を食らうだろう。それは覚悟の上。でもそうやって様々に論議を尽くす事が必要なのである。人の命と言う絶対的に重い物を、ほとんど関係の無い人間が自分の立場だけで簡単に考えるのはおかしいのである。

「コソボの独立は合法」に拍手

2010年07月24日 | 政治問題
 セルビアからのコソボの独立が世界中で賛否が半々に分かれていると言う。反対している国々には、国内に民族問題を抱えているロシア、中国、スペインなどがあるそうだ。それはそうだ。コソボの独立が認めれれば、我も我もと名乗り出るのは目に見えている。
 でも考えてみれば、民族問題を抱えていると言う事がそもそもはおかしい。民族が民族の独立を要求するのは当然だ。それでこそ「民族」と言えるのではないか。ユニークさを標榜している新明解国語辞典は、「民族」を次のように説明している。

 言語・宗教・生活慣習など、文化的な観点から見て、共通意識をいだいている一まとまりの人々。〔他民族に対する時は、個々の利害を超えた緊密な連帯感を持つことが多い〕

 これは見事な説明だと思う。岩波国語辞典も次のように説明する。

 人種的・地域的起源が同一であり(または同一であると信じ)、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団。

 これまた見事だと思う。
 例えば全く違う二つの家族が、これは同一家族なんだよ、とされて一緒に生活させられる事を考えてみたら分かる。国と家族とは規模がまるで違うから、国の場合には家族ほどの強烈な問題にはなりにくい。しかし根は同じである。単に感じ易いか感じにくいかの違いである。
 そもそもは「国」とは、ある特定の有力者が自分の住んでいる周辺の地域を統合した方が自分にとって都合が良いから、と囲い込みをしたのが起源なのではないのか。都合が良い、とは富を優先的に手に入れられる事を指す。
 地域が一つにまとまるのは、他に別の集団があると認識するからだろう。別の集団だから、下手をすれば奴隷にされる危険性がある。何をもって別の集団と考えるかは色々と問題があるが、現代のような発達した世の中で、我々は違うんだ、と強烈に認識するには、それだけの理由がある。
 こうした地域紛争は地域の住民に決める権利があるはずだ。そこに住んでいる人々が、我々は別の国なんだ、と認識すれば、それは別の国である、と私は思う。多くの民族を無理してまとめた国には無理がある。ソ連邦は崩壊した。ユーゴスラビアだって、チトー大統領の強力な力が無くなって、崩壊した。中国は今なお健在だが、それは中国の強権的な政治体制がかろうじてまとまりを保っているからだ。

 自分達だけではやって行ける自信が無いから、お互いに一つの国としてやって行きましょう、と言うのも手だろうし、相手の国におんぶにだっこ、と言う形だってある。あれ? どこかの国に似ているぞ。それはその国が決める事であって、ほかからとやかく言われる事ではない。
 コソボの独立は合法だと認めた国際司法裁判所の判断は正しいと私は思う。

ブログが書けないお詫び

2010年07月22日 | Weblog
 このところ、ブログをご無沙汰してしまっています。と言うのは、ちょっと難しい仕事に取り組んでいます。
 ある広告代理店のライター募集に応募した。すぐに面接を受けて、その印象は悪くはなかった。でもその後、連絡が無い。一ヶ月経って、やっと連絡があったが、それはライターの仕事とは距離のある、ちらしの制作についてだった。まあ、出来ない事は無い。今までにずっとDTP制作をしていて、中にはデザイナー的な事もしなければならない仕事もあった。だが、デザインともなると、報酬の金額がずっと違ってしまう。
 まあ、あまり高くはない返事をしたのだが、その後やはり音沙汰が無い。二ヶ月過ぎてケイタイに電話が入ったのだが、土地の売買の文章は書けるか、との問い合わせで、まあテストのつもりでやらせてみて下さい、と頼んだのだが、やはり結論は出ない。面接も連絡もすべて社長がしている。多分、忙しいのだろう。
 そして本当に忙しいのだと分かった。と言うのはやっと課題を出されて、打ち合わせに出かけた。社長の言うには、一つ一つ説明している時間が無い。社内で流れている仕事とは違うので、説明が要る。つまり私がどれだけ仕事が出来るのかが分からない。それは当然だ。でも、面接の時、私は自分の作った数々の本を持参して見せている。みんな私が執筆した(監修者は別に居るが)本ばかりである。
 私が一を聞いて十を知る能力があれば、外部スタッフとして使える、と言う訳だ。でも募集広告には社内勤務とあった。在宅での勤務も相談に応ずる、とあったのに、どうも最初から話がずれている。
 でもいい。課題を出されたのだから、それに精一杯応えるだけだ。そんな訳で、今、それに取り組んでいます。気の利いた発信が出来ない事をお詫び致します。

もっと疑り深くなろう

2010年07月16日 | 社会問題
 ある人から、インターネットでは今度の参院選は不正選挙だったとの噂が流れている、と教えられた。私は「民主大敗」「自民復活」との言い方は非常に薄っぺらな見方だと思っているが、それだって、民主への支持が自民へ回ったのだとしたら、なんと不甲斐ない有権者なのか、と思う、と自分のブログに書いた。
 政治家に対してそんなにも簡単に諦めてしまう、そしてそんなにも簡単に信用してしまう。そんなぶらぶらしている気持だから簡単に騙されているのである。
 私は最近とても疑り深くなっている。と言ってもある人々からはまだまだ甘いよ、とたしなめられてしまうだろうが。そんな甘い私でも、本当に今度の選挙の結果は腑に落ちない事が多々ある。私は当初、選挙民の不甲斐なさに理由を求めたが、不正選挙だったとするなら、早まった判断をしてしまった事になる。

 冷静に考えてみて、世の中の出来事には一つの筋書きが想定出来る。外交上の機密文書が公開されて、無い無い、と言っていた事が本当は有ったのだ、と分かった事は幾つもある。無いと言って国民を騙さなければならなかったのは、アメリカに尻尾を振っていたがためである。つまり筋書きの裏にはアメリカが存在している。機密文書と言う暦とした証拠があるのだから、アメリカに操られている事を誰も否定は出来ない。そのアメリカによる操作が終わったはずが無い。世界一の覇権国家を自認するとはそうした事である。
 アメリカのイラク戦争が果たして正義だったのか、は今我々の目の前に明らかになっている。そうした事柄をすべて積み重ねて考えれば、誰だって自ずと一つの筋書きが見えて来るはずである。
 しかしマスコミはそうした「積み重ね」をさせないようにしている。すべてが断片的な一つ一つの話に終わってしまう。何事もすべてそうなっている。小沢氏に対して、東京第一検察審査会は不起訴不当、とした。日本振興銀行が不正をして、金融庁の検査妨害をしたとの話も同じ線上にあるはずだ。誰もが議員は金儲けにつながるからなりたがる、と考えている。それと同じく、企業を興すのはそれで金儲けがしたいからだと考えている。だが、議員には庶民のため、国のため、との大義名分がある。起業家も同じで、庶民の暮らしのために、との大義名分がある。ほとんどの人々はそれに目をくらまされている。
 確かにそうした大義名分は疎かには出来ない。しかしその大義名分とそれで儲かった金額の巨大さを比べたら、とうてい納得は出来ないはずなのだ。その事は前にも書いた。そうでしょう。いくら一流企業の社長だからと言って、年収8億円もあって良いはずが無い。

 もっともっと疑り深くなりましょうよ。日本人が疑り深くないのは、島国である安全性に原因があると思う。他国からの侵略を簡単には受けない。しかし過去はそうであっても、現在は違う。世界のどこからでも核兵器が飛んで来る時代なのである。
 我々が疑り深くない証拠は幾らでもある。日常のテレビや新聞にそれがある。分からない事が平気で見逃されている。私はこのブログで今までにも何度もそうした分からない記事の事を書いて来た。文章が通らなくても、記事として通ってしまっている。何でそれで分かるのか、と私は大いに疑問なのだが、多分、表面的に見て読んでそれで終わりだからなのだろう。本などではおかしな論理が堂々とまかり通っている。先入観無しに読んでも、あれっ、筋が通らないぞ、と思う本などは幾らだってある。でもそれがベストセラーになったりしている。
 結局、読む力が無いのである。学校の国語の読解力が良くたって駄目なのだ。文章全体として、何を言いたいのかをきちんと捉えていない限り、読解力など簡単に騙されてしまうのである。
 私は一流の研究者や学者があまりにも文章を読む力が無くて、いい加減な事を言っている事実をたくさん知っている。そうした事柄を様々に取り上げて幾つもの本の原稿を書いている。だが、きちんと読む習慣の無い人に向かって、そうした原稿を見せても乗ってはくれない。ただ、口うるさいだけにしか思われない。きちんとした事よりも、面白おかしい事の方が優先するのである。テレビを見ていれば、それは明白に分かる。
 悲しい事には、一流出版社の編集者までもが、面白おかしい事を追い掛けている。でもそれではじり貧になるのは目に見えている。
 そろそろ梅雨明けも間近である。しかし列島を襲っている被害の大きさを見ると、明るさへの期待も吹っ飛んでしまう。これまた山国である日本の宿命なのか、とも思ってしまうが、宿命と諦めるにはあまりにも悲惨である。国を挙げて、日本列島改革なんて、出来ないものだろうか。かつてあった経済的に列島改革をするのではなく、庶民の安全な暮らしを守る列島改革である。参院選に不正があったによせ、無かったにせよ、あんなていたらくでは、とても庶民の安全を守る事など望み薄だが。
 だからこそ、やっぱり、もっと疑り深くなりましょうよ。

安定せずに何が出来るのか

2010年07月13日 | 政治問題
 参院選で、民主大敗、自民躍進、の見出しが躍っている。それに乗って、自民党やみんなの党党首は、さあ政権交代だ、と息巻いている。世界の事情を私はよく知らないが、こんなにもころころと政権の変わる国があるのだろうか。あるとしても、それではどこからも信用などされないだろうと思う。私だって、どこかから仕事を貰うにしても、相手の社長がころころと替わるような会社では信用が置けない。
 自民党政権では駄目だ、と見限った人々が民主党に乗り換えた。その人々が今度は民主党からほかに乗り換えた。その乗り換え先が自民党であり、みんなの党なのだろう。気持としてはよく分かる。自分が信じられると思った相手が実は信じられなかった。だから信じられる相手を探す。
 それは分かるのだが、それではあまりにも自分が惨めにならないだろうか。自分自身の判断力の駄目さを感じはしないのだろうか。一体、自分は何を根拠に信じたのだろうかと。
 私は今、民主党を支持している。駄目な民主党ではなく、理想的な民主党をである。蓮舫氏のような筋金の入った、頭の良い、性格も良さそうな政治家に代表されるような民主党をである。民主党の駄目な政治家だけを見て、民主党を見限ったりはしない。自民党を支持しないのは、そうした立派な政治家が見当たらないからである。たとえ居たとしても、周囲の古参のそれも金権政治にどっぷりと浸かった古狸たちによって、よってたかっていじめられ、実力を発揮は出来ないと思うからである。

 そして、衆参ねじれ国会だと言い、それがいかにも駄目な事のようにマスコミは言うが、私はそうは思わない。衆参両院を民主党が仕切ってしまう事の方が怖い。一つの法案が簡単には通らずに、色々と「異見」を戦わせ、様々に検討した結果を踏まえて、より理想的に修正される事が理想なのではないか。ねじれ国会で良いのである。
 もしも、下らない、あるいはおかしな「異見」に左右されると言うのであれば、そんな「異見」を出すような政治家がおかしいのであり、そんな政治家を支持した選挙民が悪いのである。ねじれ国会の方が、議員の本当の考えや性格が明確に分かる、と言う利点は無いだろうか。内輪でしゃんしゃん、では実情は分からない。外でもまれる事で実情が明確になるのではないか、と私は思っている。

電車内の忘物には気を付けて

2010年07月11日 | 暮らし
 電車を降りて、乗り換えホームへ向かって歩き始めて、車内に忘物をした事に気付いた。慌ててホームにある事務所に駆け付けたが、なんと不在で扉も開かない。仕方なく、またまたホームを走って駅員を見付けて事情を話した。処置が早ければ、2駅か3駅行くまでに見付かると思ったからだ。
 だが、事務所とは違うから連絡先なども即座には分からないらしい。それに次の電車が入ってくるから、その対応もしなければならない。それでどんどん時間が過ぎて行く。10分ほど経った頃、やっと駅長が来てくれた。障害者の車椅子を押していたのだと言う。人員が少ないものですから、と駅長は謝るが、必要の無い所には高給取りの人員がたくさん居るのに、こうした所にしわ寄せが来ている。
 手前の駅から始めて次々に遠くの駅へと連絡を取るが、どこでも発見出来ない。私が乗っているのは都営地下鉄で、途中駅で同じ都営の別の路線に乗り換える。私の降りた駅からは普通は8つ目の駅で折り返し運行となる。そこまでが都営地下鉄の電車の運行範囲なのである。けれども運の悪い事には、私のいつも乗っている電車は相互乗り入れをしている私鉄の路線に入って10駅先まで行く。だから、見付けた人が降りるまで発見されないと言う場合もある。
 30分ほど経って、私鉄に入って4つ目の駅で発見されたと分かった。その駅まで引き取りに行かなくてはならない。もっと近くの駅までせめて私鉄の始発駅まで運んではもらえないのか、と聞くと、そうしたいのだけれど、遺失物法に規制されて厳しいのです、と言う。
 仕事の帰りに引き取りに行ったのだが、何と、私鉄路線内で人身事故があって、ダイヤが大幅に乱れていると言う。電車はなかなか来ないし、やっと来たかと思うと、途中で何度も止まってしまう。通常の倍以上も掛かってやっと目的の駅にたどり着いた。
 遺失物法に規制されていると聞いていたから、さぞかし内容の確認も厳重なのだろうと思っていた。私は中に入っている物を残らず的確に説明する自信があるから何の恐れも無いし、本人だとの証明は確実に出来る。
 ところが、何と言う事か、連絡をしてもらった都営線の駅名と私の名前を名乗っただけで、ごく簡単にあっさりと品物を引き渡してくれるのである。私は引き取り書に住所・氏名・電話番号を書くだけなのである。遺失物法に規制されて厳しく管理されている、が聞いて呆れる。まあ、忘れ物をした自分が悪いのだから文句を言っても始まらない。

 人身事故があった私鉄だが、事故は私が乗った1時間前に起きた。だから混乱しているのは分かる。でも今はコンピューター時代である。的確な運行指令が出来てもおかしくはないはずだ。例えば事故で30分、全列車が止まったとする。そうしたら、すべての列車を元のダイヤの30分遅れで運行すると言う手段は取れないのだろうか。都営路線との乗り入れもあるから複雑な事になるのだろうが、だからこそコンピューターの出番ではないのだろうか。
 私が乗ったのは快速列車で、自分の行く先に停車する事は確認してある。だが、途中駅で後から来た急行と接続して、急行が先に発車すると言う。しかし私は急行が目的駅に止まるのかどうか知らない。車内アナウンスは急行が先に、とは言うのだが、その急行がどの駅に止まるのかは教えてくれないのである。いつも乗っている客なら分かるだろうが、私のように始めての客も居るのだ。急行が到着するまで時間的に余裕があったのだから、急行はどこどこに止まる、とアナウンスが出来て当然なのに。
 それでいて、何時何分ころに○○駅で人身事故があり、そのせいでダイヤが乱れていてお客様にご迷惑をお掛けしております、と言うアナウンスをうるさいくらいに何度も何度も繰り返すのである。口先ではご迷惑をお掛けして、などと言っているが、電車がいつごろ来るのかも、途中駅で何分くらいとまるのかも何も教えてはくれないのである。それは決して「ご迷惑をお掛けしている」とは思っていない態度である。事故が起きちゃったんだから仕方ないじゃないか、と言っているように私には思えてしまった。
 だがみなさん、とても人間が出来ているらしく、誰一人として文句を言わない。ただ黙って待っているだけである。慣れっこになっているのか。そう言えば、この私鉄から都営路線に入って来る電車は、私が夕方5時過ぎに都営線のあるいつも決まった駅で乗る時、必ずと言って良いほど遅れて来る。乗り入れの無い純粋の都営路線電車であれば定時運行をしている。乗り入れをしていない列車の方が本数が多いのだから、5分間隔で運行している場合に3分も遅れれば、次は2分後に来る段取りである。だから遅れている電車はぎゅうぎゅう詰めなのに、次の電車はがら空きである。それで私はいつも遅れた電車をやり過ごして、がら空きの電車に悠々と乗っている。
 慢性的に遅れるにはそれなりの訳がある。それをなぜ解決出来ないのか。
 電車に事故は付き物である。そうしたら日頃からそうした場合の予行演習が出来ていて当然である。様々な場合を想定してそうしたシミュレーションがやられているはずである。
 私は運の悪い事に、一日の内に、それもかなりの短時間の内に二度も不運な目に遭ってしまった。実は、その不運はそれだけではないのである。あと二つ不運が重なっている。その内の一つは私の日頃の行動が悪かったからではあるのだが、一日に四つも不運に見舞われれば、ここ当分は不運な目には遭わないだろうと、思っている。

東京には面白い川がある

2010年07月05日 | 暮らし
 住んでいる近くに小名木川と言う徳川家康の開かせた運河がある。西の隅田川と東の中川を結んで、行徳(千葉県)の塩を江戸に運ぶのが主な役目だったと言う。近年まではこの沿線に木場があったから、丸太を組んだ筏が長い列を成して運ばれていた。東西の河川を結ぶのだから、小名木川は東西に流れている。東京で南に東京湾を控えた地域では、自然の河川は北から南へと流れている。
 こうした前提で、小名木川には面白い現象がある。小名木川に南から注いでいる運河の一つに仙台堀川がある。この地域としては自然の河川とは逆行になるが、それは運河だから成立している。
 それは良いのだが、この仙台堀川の水位が実は小名木川よりも高いのである。仙台堀川の水が落差を伴って小名木川に流れ込んでいるのがその証拠である。
 小名木川と隅田川は繋がっている。そしてその下流で隅田川と仙台堀川は繋がっているのである。自然の河川と下流で繋がっている運河が、どうしたら上流で繋がっている運河よりも水位が高く存在出来るのか。

 しかし多くの人はこうした疑問を持たない。私が問い掛けたとしても、別に興味を持つのでもない。そのままうやむやになって終わりである。
 この秘密は小名木川には水門があって、まるでパナマ運河のように水位の調節をしている事にある。だから本来は高くあるべき水位が低くなっているのだ。以前は周辺地域の海抜がどんどん低くなって、小名木川は護岸を高くした。そのせいで道路からは水面が見えなくなった。ずっと続く高い護岸はまるで拘置所の高い塀のようで、とても雰囲気が悪かった。
 それを改修している。積み上げた護岸を削り、道路から水面が望めるようになった。同時に護岸内に遊歩道を設けて、川が憩いの場になった。これで定時運航の水上バスでも走れば言う事はないのだが、多分、水門がネックになるのだろう。

 小名木川にはもう一つ面白い風景がある。横十間川という名の運河と十字交差をしているのである。他の都市にもあるかも知れないが。この十字路に掛かる歩行者専用橋は当然ながら四角形をしている。その横十間川は小名木川よりもっと徹底して水辺を楽しめる運河になっている。掛かっている橋の数も多い。つまり、川が通行のじゃまをしていない。それでこそ、川は生活の中に生きる事が出来る。
 住んでいる近くの小名木川は、以前は1キロ以上も橋が無かった。すぐ目の前の対岸に逝くのに歩いて20分以上も掛かった。その途中に橋が一つ出来ただけで、生活はがらっと変わった。
 東京はもっと全体的に水辺の景観を生かした都市づくりをすべきである。日本橋はもとより、日本橋川全体を屋根のように覆ってしまっている首都高速道路を移転しようとの計画があるが、果たして実現出来るのか。
 高度成長計画時代の効率だけを優先した街作りがいびつな東京を作り上げ、そしてそれは今もなお続いているのだ。やたらに超高層ビルばかりを建てているのが何よりの証拠である。

商品は買った消費者の所有物である

2010年07月03日 | 社会問題
◆商品は買った消費者の所有物である
 包丁の切れ味が落ちたので研ぐのだが、今一つ、刃全体の汚れと言うかくすみと言うか、それが落ちない。父親の使っていた砥石を使っているのだが、どうも四五本あるそれはすべて仕上げ砥らしいのだ。そこで荒砥を買って来た。
 その荒砥にはべったりとラベルが貼ってある。それをはがすのだが、糊が頑固で一部が残ってしまった。それをはがそうとするのだが、なかなかはがれない。売られている商品にラベルが貼ってあるのは当然の事。しかしその商品が買い手の手に渡った途端に、その商品は生産者の手から離れて消費者の所有物になる。その、大枚をはたいて買った所有物に何で生産者のラベルが堂々と残っていられるのか。冗談じゃない。
 砥石に衣料品のようなタグは付けられない。だからラベルを貼る事になるのだが、それならそれでもっと考えるべきである。はがし易く、はがした跡の残らないラベルにするべきである。ラベルをはがす溶剤などを売っているが、それこそ本末転倒である。これが消耗品であれば、私は二度とその商品は買わない。砥石のような半永久的な商品では仕方が無い、泣き寝入りするしかない。多分、だからこのメーカーは金輪際、そうした事に気が付かないのだろう。

◆歩道で商売をするな
 いつも通る道に飲み物の自動販売機が置かれた。歩行者専用の信号機のあるすぐ前である。自動販売機としては格好の場所でもあろう。しかし歩いて来て信号が見えなくなってしまった。けれども置いてある場所は民家の軒先で、私有地だから文句は言えない。
 ところが、空き瓶や空き缶を入れるゴミ箱が何と歩道の上に堂々と置かれているではないか。歩道の道幅の三分の一を取っているから邪魔でしょうがない。そこで私は設置したベンダーに電話をした。歩道にゴミ箱を置くのは違反ではないかと。
 出た従業員は調べておきます、と言ったが、その後三四日、私はそこを通らないからどう処理したかはまだ分からない。もしもそのままなら、近くにある警察署に聞きに行くつもりである。

◆横断歩道で客待ちをするな
 いつも渡る横断歩道に、夜間だが、必ずタクシーが横断歩道の半分を占領して客待ちをしている。なぜ横断歩道にはみ出ているかと言うと、横断歩道から出ようとすると、レンタカーの営業所の出入り口を半分ほどふさぐ形になるからである。
 しかしこれは明らかに道路交通法違反になる。以前は、「タクシーの客待ち禁止」の表示があったのだが、いつの間にか消えて、そしてタクシーが堂々と客待ちをするようになった。止まっているタクシーは毎度顔ぶれが違う。つまり、運転手みんなが違反をしている訳だ。
 不況で客が少ないのは分かる。だが、そうだからと言って違反を許せる事にはならない。

◆歩道はどこでも自転車が通れる訳ではない
 今は当たり前のように歩道を自転車が走っている。しかもかなりのスピードで。雨の日には違反の傘差し運転をしているし、ケイタイを見ながらの危ない奴も少なくない。みんな勘違いをしている。自転車は歩道を通行出来るのだ、と。
 自転車は軽車両だから、原則として車道通行である。しかし車道は危険でもあるので、場所を限って歩道の通行も認めているのである。だからそうした歩道には「自転車通行可」の標識がある。つまり、その標識が無い歩道は自転車は通行出来ない。それはきちんと警察の本署に行って確かめてある。
 しかし絶対多数の人が自転車はどこでも歩道を走れるのだと錯覚している。交通法規を知らない事もあるが、警察にも責任があると私は思う。信号にしても歩行者と自転車が一緒になっている事が多いからである。軽車両の自転車が歩行者と同じ信号に従わなければならなくなっている。そうした事を常々続けていれば、どうしたって、自転車は歩行者と同じなんだ、と思ってしまう。だから歩道はどこだって走れると思うのは当然と言えば当然なのだ。
 これは明らかに歩行者と自転車を同じように扱っている側が悪い。確かに自転車は車に対しては弱者だが、歩行者にとっては車と同じ危険物なのだ。考え方が間違っている。自動車対歩行者・自転車なのではなく、自動車・自転車対歩行者でなければいけないのである。
 その話をしたら、ある人が「この歩道は自転車通行禁止」の標識を出せば良い、と言った。それは本末転倒である。何よりも自転車の通行ルールを徹底させる事が第一なのだ。

目的語を主語のように使うのはやめてくれ

2010年07月02日 | 言葉
 前にも「○○が発売」はおかしい、と書いた。CMを作る連中がそうした使い方をするから、どうしたって目に入る機会が多くて、いつの間にかそれが正しい当たり前の言い方だと思われてしまう危険性が高い。
 この危険性が高い、との言い方にしても、ある著名な国語辞典は「可能性が高い」とも言う、と胸を張って言っている。もちろん、この用例で言っているのではないが、もっと分かり易い用例で、それは「遭難する可能性が高い」なのである。
 言うまでもなく、「可能性」には期待感がある。なって欲しくない事、やられては困るような事に「可能性が高い」とは普通は言わない。きちんと言葉を考えていれば、言わない。
 しかし、いい加減に言葉を使う人にはそれは通じない。それが当たり前のようになってしまう事を私は恐れている。「○○が発売」もその一つなのである。
 昨日来たNTT東日本の料金の通知に入っている広告文にも「ご登録いただいたメールアドレスに、パスワードが通知。」とある。その続きは「ホームページにログインし、お客さま情報を登録」と正確な文章になっている。この後者の文章は言うまでも無く、「お客さまがホームベージにログインし、お客さまがお客さま情報を登録する」との意味である。
 そうした正しい日本語で理解するなら、前者の文章は「ご登録いただいたメールアドレスに、パスワードが○○を通知する」との意味になる。しかしそうではない。これは明らかに「ご登録いただいたメールアドレスに、NTT東日本がパスワードを通知する」である。
 通信や情報の伝達を商売にしながら、このいい加減な日本語の実態。それで大威張りをしているのだからあきれ果ててしまう。

◆愛用のキーボードが使えるようになった
 OSを入れ直したら、愛用の親指シフトキーボードが使えなくなった事を書いた。ADBポートのキーボードをUSBで使おうと言うのだから、変換部品が要るし、そう簡単には行かないのは分かる。簡単にキーボードの接続を変えてしまうメーカーのアップルにも腹が立つが、それは言っても仕方の無い事。
 そこで、変換せずに使えるようにと、わざわざ中古の古い本体を買った。ただ、安いし古いから、どうしても頭が悪い。能率も悪い。でも親指シフト入力をするにはそれしか手が無かった。
 私はもう20年以上もパソコンを使っているのに、昔は命令をいちいちコマンドで打ち込むパソコンを使っていたにも拘らず、肝心の重要な事をすっかり忘れていた。きのう、新しく入れたOSにUSBをADBに変換する部品のドライバーを入れてない事に気がついた。でもおかしい。使っていたマックは古いOSである9と新しいOSのXを起動出来る最後の製品である。そして壊れたのはXの方で、9の入っているHDは大丈夫だから、そのままにしてある。だからこちらにはドライバーが入ってる。それなのにキーボードが使えなくなったのである。だから、まさかドライバーが原因だとは思わなかった。
 で、ドライバーをダウンロードして、Xに入れた。9には入れ直した。そうしたら、復活したのである。古い本体は予備として使えばいいし、これで万々歳である。これならブログの文章を書いて、そのまますぐに発信出来る。DTPで本の体裁を作りながら原稿を書くと言う今までの作業もそのまま続けられる。それが出来なかったこの一ヶ月は本当に辛かった。原稿を書く気さえ失せてしまうような具合だった。
 今更言うまでもないが、入力の能率がどんなに文章を書くのに重要であるかをつくづくと思い知らされた。キーボードの事を考えているようでは、良い文章は書けない。思った言葉がそのまますぐに文字になる事が必要だ。言うならば指で文章を書くのである。それは当然ながら、指で筆記具を持って文章を書くのと全く同じ作業なのだ。筆記具よりもずっと素晴らしいのはどんな難しい漢字でも簡単に出て来る事だ。漢字に気を取られずに済むから、能率だっていい。途中で思考を遮られる事が無い。それに挿入・削除がいとも簡単で、常に清書した状態で文章を確認出来る。これは非常に重要な事である。時々、筋の通らない文章や、頭と尻尾の整合が取れていない文章にお目に掛かるが、それは多分、キーボードがうまく使えていない事が原因だろう、と私は思っている。そう言う私の文章がきちんとしているとは言い切れないが。キーボードの事で御助言を下さった方々には感謝しております。