夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

北朝鮮への経済制裁は続けるべきだ

2008年06月27日 | Weblog
 アメリカが北朝鮮に対してテロ支援国家の指定を解除する方向らしい。
 その事に関して、自民党の幹部らしき人が、福田首相はブッシュ大統領と会見して、待ったを掛けた、と言ったが、そんな事が出来るはずが無い。
 多分、福田氏は「北朝鮮に対してテロ支援国家指定を解除する方向で検討をなさっているのではないか、と伺いましたが、日本にとっては拉致問題がありますので、何とか再考をお願い出来ないかと言うような事を考えているような訳でございまして」などと言ったのであろう。そうした言葉を英語に訳せるとは思えない。

 ブッシュ一族は原油の利権に最も近い距離に居る、と誰かが書いていた。利権を守りたいからイラク戦争もしている。それに対しての反論を読んだ記憶は無い。多分、原油の値上がりで、笑いが止まらないのだろう。自分の事しか考えない人間に拉致問題の痛みが分かるはずも無い。その人間と握手して抱擁までし合って帰って来たのが小泉元首相であったのは周知の事実である。
 私の日本語変換ソフトは頭が良いのか悪いのか、「自民党の幹部」と入力しようとすると「自民党の患部」と変換するし、「小泉元首相」は「小泉元殊勝」と出る。それはブッシュにとっては「殊勝」でしょうよ。そして「周知の事実」は「羞恥の事実」なのである。
 ソフトのくせして、こちらの考えを誘導しようとはとんでもない。でも、思わず、お前、頭いいねえ、と感心してしまうのも事実なのである。この場合には「寒心」などとはならないのである。

 でもアメリカって、ずいぶんと勝手ではないか。イラクに対しては単に、何だったっけ、武器を隠しているとか何だかの疑いだけで戦争を仕掛けた。何の関係も無い市民を無差別に巻き込んだ。それなのに、北朝鮮に対してはなんでそんなに遠慮深いのか。日本に対してだってそんなに遠慮深くはないぞ。いやいや、むしろ遠慮会釈無しにづかづかと土足で踏み込んで来ているではないか。
 米朝関係が20年ぶりに正常化に向けて歩み出そうとも、日本は関係は無い。日本は正常化など考えてはならないはずだ。民主党の議員が言った。拉致被害者の情報を一カ月も掛かって出して来るのは、その間に完璧なごまかしをするためだと。とっくの昔に明らかになっている情報なのだ。すぐに出せて不思議はない。それだけで、北朝鮮が日本をまたまた騙そうとしている意図は明らかだと。
 そう言えば、「北朝鮮」とは書かせずに、必ず「北朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」と書かせていた新聞社があった。どことは分からないし、一社だけでもなさそうだ。そうした新聞は今でもまだ北朝鮮に騙され続けているのだろうか。

 騙されても騙されても、相手に善意の心を見い出そうとする政治家って一体何なのだろう。常に国民を騙す事に慣れてしまうと、騙す事にも騙される事にも鈍感になってしまうはずだ。もしかしたら、自分の言葉に騙されている可能性が高い。自分の言葉に騙されると言うのはビジネスマン必勝のテクニックだと読んだ覚えがある。アメリカ人の書いたビジネスマンのマニュアルである。『信念の魔術』と題する本だった。駆け出しのサラリーマンだった私はこの本を真剣に読んだ。
 相当に酔った男が洗面所の鏡の前で、「俺は酔ってない、酔ってない」と何度も繰り返して、みるみる酔いが醒めて行ったなどの記述もあった。スピーチをする場合には、等身大の鏡の前で、効果を十分に確認しながら何度も練習をせよと言う。
 日本の政治家はスピーチではせっかくの指南を全く受け入れず、相変わらず、部下の作った原稿の棒読みをしている。それにも拘わらず、自分の言葉に酔うテクニックだけはマスターしている。
 正しい力を持つ人が自分の言葉に騙されて更に強い正しい力を持てる事は納得が行く。それと同様に、駄目な人間が自分の駄目な言葉に騙されれば……。

 北朝鮮に交渉に行った代表団が持ち切れないほどの土産を持って帰国した、との話は単なる無責任な噂話だったのだろうか。日本の首脳がアメリカ大統領に面会に行くのは権力の保証を受けるためだ、も噂話なのか。
 「仏の顔も三度まで」の格言も、政治家の中では多分、「仏の顔は何度でも」になっている事だろう。

うなぎの偽装と東京中央郵便局

2008年06月26日 | Weblog
 何の関連があるのか、とお思いだろうが、我々が騙されていると言う共通点がある。
 今日は朝からテレビが中国産うなぎの偽装やら、しゃぶしゃぶ食べ放題での肉の使い回しや東京中央郵便局の建て直しなどで騒いでいる。
 うなぎの偽装は200万尾にも及び、ぼろ儲けは3億何千万と言うが、消費者からは詐欺罪で訴える事が出来ないだろう、と弁護士が言っている。それがどうにも納得出来ない。二つの会社がぼろ儲けをし、その二番目の会社は「まるは」のマークで知られる大手水産会社の100%の子会社である。スーパーなどの小売商は騙されはしているが、損はしていない。損をしたのは消費者なのに、なぜ訴える事が出来ないのか。出来ないだろうと得々として話す弁護士を私は信頼する事が出来ない。こうした現実のおかしさに挑戦するのが弁護士の仕事ではないのか。

 食べ放題での使い回しでは、またもや「もったいない」の言葉が使われた。食べ放題で商売を成り立たせている以上、客が食べ残しても、きちんと客からは金を取って採算は合っているはずなのだ。だから少しももったいなくはない。単に濡れ手に粟の金儲けが出来なくて惜しい、と言っているだけである。がめついだけの話である。ここで「もったいない」などの言葉を使うとはとんでもない事である。

 東京中央郵便局の建て直し問題では、名建築とされる同局の建物の外側だけを残して、高層ビルを建てるのだと言う。テレビ朝日などでは、建築家の「形だけを残す許されない建築だ」との意見を紹介していた。建物の外観だけ残してどうなる。外観だけで重要文化財などと喜ぶ事は出来ない。単にまやかしに過ぎないではないか。考えてみれば、日本には見かけだけの物が氾濫している。見かけだけの官僚、見かけだけの政治家などを始めとして、ひきも切らない。
 しかしフジテレビでは、このままでは空間がもったいない、と司会者が言っていた。この人には東京じゅうを超高層で埋めないともったいない、との考えしか無いらしい。広々とした空間を潰してしまう事の方がもったいないのだ、との考えは出来ないのだろうか。同じような考え方が日本橋川の上に高速道路を造ったのである。ソウルでは、川の上の高速道路を撤去して広々とした空間を取り戻した。日本橋川の上の高速道路も撤去しようとの計画がある。

 効率効率と誰も彼もが口にするが、それほどまでにも東京は効率化が必要なのだろうか。なんでこんなになんでもかんでも東京に集めないと満足出来ないのか。日本は東京だけで持っているのではない。言うまでも無いが、北海道から沖縄まですべてが日本を成り立たせているのである。
 沖縄でサミットを開催した。しかしそれは一時の繁栄で終わった。今度は洞爺湖だと言う。これまた夏の花火で終わるのではないのか。地方はいつもいっときだけのお祭りで、東京は永遠の繁栄を、と言うのでは、あまりにも勝手である。これでは超大国のエゴと全く変わらない。アメリカやロシア、中国の汚さを丸出しにしているみっともなさを見れば、そんな事簡単に分かるはずだ。しかもその繁栄だって、すこぶる怪しい。直下型の大地震が起きたらひとたまりも無いのではないのか。

 東京中央郵便局の目の前では、東京駅が戦前の姿を取り戻そうと工事が始っている。あまりにもアンバランスではないか。しかも今度の新しいビルは外国人の設計により、折り紙のイメージだと言う。外国人からは日本は折り紙のイメージなのだと言う。それは外国人の意識の問題であって、我々日本人にはまるで関係が無い。何で日本の中央に作る建物に外国人のイメージが必要なのか。
 そうか、郵便局は小泉によってアメリカに売り渡された。ゆうちょ銀行と言う名の大銀行になったにも拘わらず、銀行の業務が出来ないのだと言う。単にアメリカの資本が乗り込み易い受け皿を作っただけの話に終わる。それに唯々諾々と従った郵便局ならではの発想である。納得が行く。
 多くの人が「ゆうちょ銀行」と言う名の郵便局だと思っていると言われているが、私も同じだ。郵便局のATMは休日でも無料で使えるから私は多くの振り替えをしているが、普通の銀行に変えようかとも思う。ただ、大手の銀行もあまり良心的とは言えないようだから、地元の信金にしようかとも思うが、信金は引っ越した時に不便になるので、その選択肢もままならない。結局、今の日本はほとんど暮らしに選択肢が残されていないのである。一部の大手が日本を牛耳っているのである。
 年金で暮らせる人が永住ではなく、長期滞在で外国に住みたがるのは納得が行く。

地震国日本の安全な町作りが最優先だ

2008年06月24日 | Weblog
 もしも大昔にプレートテクトニクス理論が分かっていたら、東南アジア方面から日本列島に漂着した人々は決して住もうとは思わなかっただろうね。朝鮮半島や大陸から海流に流されて来た人々も同じだろうね。知らないから定住して、こんなに人口増えちゃった。
 日本列島すべて危険地域だろうから、どうしようも無いだろうが、それでも比較的安全な所ってあるはずだ。そうした所を計画的に開発して街を造ったらどうなのだろうか。東京なんか、徳川幕府が海をどんどん埋め立てて造ってしまったから、私の住んでいる所なんか、至る所が液状化現象で瞬く間に全滅だね。
 それなのに、超高層だって。もっとも、それは岩盤深く掘り立てているらしいから、安全なのだろうが。でも、岩盤ごと動いてしまえば、何の役にも立たない。それに自分の目で見た訳じゃないから、信頼仕切ってはいない。

 今回の地震で、山中の家は土石流の被害に遭っている。平地だから土石流の被害に遭わないとは言わない。だが山中よりも被害を少なくする手はあるはずだ。これだけ科学が発達しているのだから、もっと土木の面でも文明のメリットを生かす事は出来ないものか。
 安全な地域に低層の共同住宅を建てる。そして生活に便利な町作りをする。イタリアのナポリの南に断崖に沿って発達した世界遺産の街がある。あれは地震の心配の無い所だからなのだろうね。日本なら、とっくに無くなっている。
 地震で山間部の高架の道路が無惨に落ちている。町が変な所にあるから、それを繋ぐ必要も出て来る訳だ。「変な所」と言うのは、「危険が一杯の所」の意味である。自然発生的に町が出来ているからどうしたって、そうなる。それで地方は道路が必要だと言って財源をガソリンに求めている。

 東京では至る所で再開発の名目の下に、古い物をぶっ壊し、どんどん新しくしている。もっぱら経済的効果だけが目的の貧乏人根性である。いい加減に、金儲け目的ではなく、人間の幸せのための再開発に切り替えたらどうなのか。「幸せ」と入力しようとすると、毎回、どうしてか「しわよせ」と打ってしまいそうになる。そうなのだ。今、我々には「しあわせ」は無くて、「しわよせ」ばかりなのだ。

 お断りをしておくが、新しい安全な町作りには絶対に利益目的では参入出来ないからね。災害のせいで、一体どれほどの人命とお金が失われているかを考えれば、抜本的な方策を考えるべきではないのか。日本にはそれをやるだけの力がある。無いのは頭だけだね。それと思いやりの心が無い。自分さえ安心ならそれでいい訳だ。我々庶民がそうであるのは力が無いのだからしょうがないが、政府のお偉方がそうであってはいけないだろうよ。大手企業の経営者も同じだ。金儲けの知恵をもう少し人々の幸せのために使えよ。
 いい車がしあわせだって? そりゃ、私だっていい車欲しいよ。でも、誰も彼もが車を欲しがって乗り回しているから道が混雑して、バスの運行もままならぬ。最大の被害者が庶民の足の路面電車だった。個人の乗り物を優先して、公共の乗り物を廃止してしまった。車産業の繁栄のために、庶民の足切りをした。本末転倒もはなはだしい。
 その代わりになるのが地下鉄らしいが、網の目のように行き渡り、しかもすこぶる利用し易い路面電車とは比べ物にならない。速さと効率だけが取り柄で、でもせっかくの速さが、乗り換えの不便さとか、地上とホームとの連絡に非常に時間が掛かる事などを計算に入れると、少しも速くなどない。

 そして、一人しか乗っていないマイカーのいかに多い事か。それは運転者だから、用があって車を降りれば、その車は邪魔者にしかならない。それを公道にとめさせて料金を取る。
 折から東京新聞ではトヨタの下請けの構図を連載した。車産業は日本の経済を引っ張る力にはなっているが、その経済の本質をよくよく見れば、それが「しあわせ」とは限らない。それこそ「しわよせ」にしかなっていない事実が幾らでもある。

 何が本当の「しあわせ」なのかを履き違えているような国が、国民の安全のための町作りを出来るはずが無い。私はもうとっくに諦めている。でも、地震で建物の下敷きになって死ぬのは嫌だ。

「死刑執行=死に神論」での死刑囚の人権・人格とは何か

2008年06月23日 | Weblog
 凶悪な殺人事件の要因の解明を(同じような事件を防ぐ)役に立つからとやっている人々が居る。原因は様々な所にある。家庭環境もあれば、教育環境、社会環境もある。そうした様々な環境が人間の性格を歪めてしまう。それだって、同じ環境でも性格が歪まない人間も居る。そうなると個人差の問題にもなる。持って生まれた性格の問題にもなる。
 そうした複雑な事件の背景を解明して、さてその次の段階が私には分からない。解明した事で、改善しなければならない事も分かって来る。家庭に原因があれば、それは親の問題であろうし、夫婦の問題でもあろう。だが、それは星の数ほどの違いがある。全くの個別の問題なのではないのか。
 Aの家庭に問題があって、事件が起きた。では、Aと同じ情況の家庭を探し出して、その家庭を改善すれば次の事件は防げるのか。別の問題を抱えているBの家庭なら、事件は起きないのか。
 凶悪犯には共通した事柄があるようだ。
・家庭の放任主義あるいは重過ぎる期待感
・学校での仲間外れ
・社会人になってからの疎外感
・孤立して自分だけの世界に閉じこもる
・被害者意識=敵対意識
・空想世界
 こうした様々な要因が重なって、歪んだ性格を作り上げてしまう。歪み方も様々あるが、共通して最も危険なのが他人がすべて敵に見える事ではないのか。どのような要因があっても、最後は結局は敵対意識になる事が危険なのではないのか。
 つまり、どのように加害者を分析・解明しても、行き着くのは敵対意識だけの歪んだ性格になる。結局、個々人の性格の問題に尽きるような気がしてならない。要するに、どうやって性格を歪ませないか、なのだが、わずかな事で歪んでしまう人間も居れば、かなりの重圧にもめげない人間も居る。
 人間の性格を制御出来ない以上、制御出来たらこんな怖い事は無いのだが、性格異常者を生み出さないなどと言う事はあり得ない。

 今日の東京新聞に、死刑囚の人権・人格を抹殺する究極の行為が死刑執行だ、との論理があった。生きている以上、人権も人格も存在する。
・人格=人がら。法律上は法律行為の主体(岩波国語辞典)。
・人格=その人の物の考え方や行動の上に反映する、人間としてのありかた。法律では、未成年者・禁治産者・精神異常者などを除いた人を指す(新明解国語辞典)。
・人権=人間が人として本来もっている権利(岩波国語辞典)。
・人権=人間に当然与えられるとされる権利。例、生命を保障され、自由・名誉などを享受する権利(新明解国語辞典)。
 だが、辞書を引き合いに出すまでもなく、人格も人権も正常な人間に対してしか通用しない。人格を失ってしまったから、凶悪な犯罪を犯した。人格を失った人間に人権があるはずが無い。

 死刑の執行が人権・人格の抹殺になると言うのだから、執行されない以上、つまり生きていさえすれば人権・人格が存在すると言う事になる。いつ命を絶たれるか分からない人間に人格や人権が考えられるだろうか。当たり前だが、明日をも知れぬ命を懸命に生きている人と同列には出来ない。それを同じように考えて、生きているから人権・人格があるとの考え方に私は納得が出来ない。

 この話は、朝日新聞の「死刑執行=死に神論」に対して鳩山大臣が「死刑囚にだって人権も人格もある」「(表現は)執行された人への侮辱でもある」と言った事に関してである。やりとりの詳細は私は関心が無い。ただ、言葉の理解に関心がある。
 死刑囚には本当に死の直前まで人権や人格が存在するのか、である。確かに死刑囚とて人間だ。では、何度も言うが、殺された人間には人権や人格は存在するのか。故人としての人格はあるだろう。それは永遠に消えない。だが、人権は、有るはずが無い。
 人殺しの凶悪犯を、生きていると言うだけで、一人の人間と見るから話がおかしくなる。殺された被害者を、生きていないからと言うだけで、無視するから話がおかしくなる。
 生きている、生きていないが全く別の次元の異なる事態である事は誰にだって分かる。まるで別の事なのだから、きちんとそれに合った考え方をしなければいけない。それが出来ていない。

 早まってもらっては困るが、生きている人間を死んだ状態にすれば同じになる、などと言っているのではない。もっとも、そうするべく、司法は死刑の判決を下したのは事実である。だが、死刑判決、即刻執行、ではあまりにもむごい。もちろん、人を殺すのはもっとむごい。
 そこでどうやったら釣り合いが取れるか、と考えるのが人間の知恵なのではないのか。殺された人間に今更人権を与える事が不可能である以上、生きている死刑囚の人権を奪う事しか無いではないか。だが、どのように奪ったとしても、生きている限りは完全に人権を抹消する事は出来ない。衣食住はきちんと与えられているのである。そんなの人権なんかじゃない、と常識で言っても、死刑囚にとっては十分に人権に値するかも知れない。

 人間は最後の最後までその生を全うすべきだと私は考えている。それは死刑囚にもあてはまる。そんな事は十分承知していても、殺された被害者には何の手も差し伸べられない悔しさもまた十分に考えてもらいたいのである。出来ないものは出来ない、などと言わないでもらいたい。死者は供養する事で、冥福を祈る事で慰霊になる、などと安易に言わないでもらいたい。変な所に、信じてもいない宗教を持ち出さないでもらいたい。自分が殺されてみて分かっても、もう遅いのです。

鳩山法務大臣の死刑執行と朝日新聞の「死に神」論

2008年06月22日 | Weblog
 朝日新聞が死刑を執行している鳩山法務大臣を死に神と称して、大臣が激怒した。
 鳩山大臣は不用意な発言をしたりして、私はあまり良い感じは持っていないが、激怒したのはよく分かる。誰だって死刑執行の判を押すのは嫌だろう。だが、死刑は司法が決めた事である。執行の無い死刑なんてまるで意味が無いではないか。
 朝日は以前、死刑囚と被害者の遺族が面会する制度の話で、遺族に「僕らと彼ら」と言わせた。経緯はどうであれ、結果として紙面に載った言葉はそれである。読者はそうした言葉で判断するしか手段が無い。
 遺族が言った「彼ら」とは言うまでもなく、死刑囚達を指す。この遺族は弟を殺されている。一人殺しただけで死刑なのだから、この死刑囚に情状酌量の余地は無さそうだ。言うならば、殺人鬼である。それを「彼」と言う、この遺族の心情が私にはとうてい理解が出来ない。そしてそれをそのまま記事にする朝日に対しても不信感しか残らない。
 「僕らと彼ら」ではなく、「殺された被害者の遺族と殺人鬼」と正しく言い直したら、読者はどのようにこの話を読んだだろうか。「殺人鬼」が言い過ぎだと言うなら、「弟を殺された私と殺した男」と言い替えてもいい。
 「僕らと彼ら」には「殺人」の「さの字」も感じられない。「僕ら」などと被害者の遺族の代表でもあるかのような発言も許されないはずだ。遺族みんながこの遺族と同じ気持とはとうてい思えない。

 遺族が死刑囚と会い、死刑囚は多分、心からお詫びをしたのだろう。「同じ空気を吸ってしまった」と、この遺族は語った。温かな心を持つ人ほどそうなる。弟は死んでしまった。目の前にいる死刑囚は生きている。生きている人間にせめてもの事、償いをさせて心安らかに死に臨ませてやりたい。そう思っても不思議は無い。
 遺族の心温かな心情は理解出来なくはない。しかし私が被害者だったら、絶対に夢枕に立つ。
 おいおい、そんなに簡単に殺人者に同情するなよ。少しは俺の事、かわいそうだと思ってくれよ。おれ、あれから何も出来ないんだ。千の風になる、なんて思っている人もいるらしいけど、そうなれるんならそれでもいいか、と思うけど、ただ、薄暗い所にぽつんとしているだけなんだ。とても寂しくて辛いんだ。
 遺族が考えを変えてくれるまで、何度でも夢枕に立ってやる。

 司法当局はなぜか殺人を犯した人間に同情的である。好意的と言ったって間違いは無い。それに対して殺された人間にはまるで無感動である。かわいそうだとは思わないらしい。弁護士はなんのかんのと言って殺人鬼の罪を少しでも軽くしようとする。それが弁護士の任務だとしても、私なら、そんな仕事は御免こうむる。
 殺された人間は一体どうしてくれるんだ。そうした弁護士達は被害者を生き返らせようと努力をした、とでも言うのか。無理な発言である事は百も承知している。しかしあまりにも不公平ではないか。

 生きている殺人鬼は法廷で発言する事が出来る。だが殺された被害者は何もしゃべれない。その代理である遺族は発言権が無い。何と言う不公平。だから殺人鬼は殺意は無かったなどとほざく事が出来る。弁護士がよってたかって、そのように仕向ける事も可能なのだ。なぜ、殺された人間は無視されなければいけないのか。生存していないのだから仕方が無い、などとふざけた事は言わせない。
 その一方で、冥福を祈る、などと無責任な言葉を吐く。冥福とは死後の世界を信じていてこそ、その意味がある。そして冥福を祈るためにはそれこそ絶える事無く、祈る必要がある。そのような事を何もせずに、ただ、他人事のように「冥福を祈る」と言うのである。あまりにも無責任過ぎる。

 死刑の執行を躊躇する側には、冤罪の疑いがある、との理由もあるらしい。しかし、それは考え方が逆立ちをしている。冤罪などあってはならないのである。それがあり得るのは、司法当局の怠慢に過ぎない。そんな事のために死刑の執行を躊躇出来るのか。
 裁判官は自信を持って死刑を言い渡したのである。それを法務大臣が執行してどこが悪い。 
 朝日新聞は死に神と称したコラムである「素粒子」を、短く評論をしているだけで、他意は無いと弁解したとテレビ朝日のニュースが伝えた。馬鹿を言ってはいけない。そんな軽口のような冗談を夕刊の題字の下と言う最も目に付く所に書くなんて言語道断である。訴えたい事だからそのような場所に書いたのではないか。それに冗談ならもっと上等であるべきだ。品位を疑わせて何の疑問も持っていない。

 先の遺族の死刑囚との面会の記事は、光市の母子殺人事件での遺族である本村洋さんの記者会見の記事とまるで表裏関係になるような配置であった。最高裁が審理を広島高裁に差し戻した06年4月18日の事である。
 「裁判が終わるまでいかなる文、手紙も読みません。謝罪の気持ちがあるなら裁判の後にして欲しい」「自分の命を失う恐怖を通じて、与えた罪の重さを知る契機になれば」と言うのが本村さんの真意である。
 表裏関係になったのは多分偶然だ、と思っていたが、今回の「素粒子事件」での朝日の態度を見ると、やはり殺された被害者の事はまるで考えていない事が明確に分かった。殺人鬼の肩を持つかのような発言に、国民は激怒すべきだと私は思う。

台湾産の「国産うなぎ」と「もったいない」の関係

2008年06月21日 | Weblog
 20日の東京新聞のコラム「筆洗」に国産と偽った台湾産のうなぎの話があった。
 普通の商品にならない幼魚、通称ビリを輸出して「里帰り」させた形にしていたが、実際には日本に“実家”の無い、ただの台湾産が多く含まれていたと言う。
 これは初めての事で、しかも量はわずかだそうだ。だからか、同紙はとても同情的に「ビリも活用しないと、もったいない、の思いからだろうが、それで信用に傷をつけたことの方が、よほどもったいない」と締め括っている。まあ、この話はこの程度の話ではある。初犯でしかも微量。ただ、この話ちょっとおかしい。

 なぜかと言うと、ビリは普通には商品にはならないと言う。それを台湾に輸出して里帰りさせれば、立派に商品になる事になる。それはれっきとした産業であり、「活用しなければもったいない」との話にはならない。それに、ここに「日本に実家の無い台湾産」が絡んで来る。それは「もったいないの思い」とは全く関係が無い。悪く言えば巧妙に話をすり替えているし、良く解釈すれば勘違いをしている。

 それだけではない。ここに二度出て来る「もったいない」に私は違和感を感じた。
 最後の「信用に傷をつけたことがもったいない」は、確かにそう言える。「もったいない」とは、「真価を発揮出来ずに惜しい」の意味である。この信用に傷を付けたのは愛知県一色町。養殖うなぎの生産日本一だと言う。だから、信用に傷を付けて「もったいない」。
 だが、信用を大切にしようとするなら、このような偽善行為は最初から念頭には無いはずだ。台湾産が混じっていた事に気が付かなかったとは言えない。結果的には明白になっているのである。この事は「活用せずにもったいない」などと言う甘い事ではない。台湾産を国産と偽ったのである。国産は安全でしかも旨いとみんなが認識をしている。まあ、台湾産は安全性は確保しているとしても、旨さまで確保出来ていると言えるのか。うなぎの養殖がそんなに簡単に出来るなら、高価な商品だけに、誰だって手を出すはずである。

 先日、近所のスーパーで中国産と銘打ったうなぎを買った。非常に安い。店員に聞くと、中国でもきちんと検査をしているから安全で、しかも同店でも独自の検査をしていると言う。騒がれた後の方が安全なんですよ、それに、国産と偽った中国産もありますからね、とも言う。そのうなぎにはその店の安全性の証明書が付いていた。
 物は試しと買った。だが、味はいまいちだった。こってりとした旨みが無い。確かにうなぎではあるが、非常に淡泊で、うなぎを食べたと言う充実感がまるで無い。

 一色町が信用を傷付けたのは少しももったいなくはない、と私は思う。身の丈に合った事をしたまでの事である。もったいない事をしたのではなく、馬鹿な事をしたのである。
 そして、台湾産が混じっていた事を、ビリを活用しないともったいない、と擁護するのはとんでもない。これは全く、船場吉兆の女将の方針と寸分違わず同じである。もったいないから次の客に回したと言うが、ぼろ儲けを出来ないのが惜しいから、が正解である。汚い根性を満足させられないから惜しい、と、真価を発揮出来ずに惜しい、はまるで次元が違うのである。
 吉兆の料理はきちんと真価を発揮している。食べなくても、それが客の前に出ただけで、その料理は十分に真価を発揮したのである。自分の店がそうした店である事をこの女将は十分承知している。にも拘わらず、料理を二度使いさせようと汚く考えたのである。

 台湾産のうなぎは、堂々と台湾産と名乗ってこそ、真価を発揮出来る。台湾産が国産うなぎの真価を発揮出来ない事くらい、小学生にも分かる。いや、台湾産だって、十分国産うなぎと言えるくらい旨いのだ、とでも言いたいのなら、JAS法は悪法だから是非とも改める必要がある。我々は「国産」の言葉にそれだけの価値を認めているのである。もっとも、牛肉の場合には、「国産牛」はその地位を譲って、「和牛」が最高位になるが。
 「もったいない」を安易に使い過ぎると、その意味がいい加減に処理されてしまう危険性がある。このコラムがそれを端的に示している。昨日は「対話」と言う言葉のいい加減な意味の横行を書いたが、世界から素晴らしい言葉だと絶賛されている「もったいない」も、うっかりすると、同じ境地に立たされる。新聞だからこそ、言葉をもっと慎重に使うべきなのだ。私、今、東京新聞、好きなんですよ。

拉致事件に甘い顔を見せてはならない

2008年06月20日 | Weblog
 子供が誘拐された。親は何でも言う事を聞くから、子供を無事に返して欲しいと懇願する。それを、そんな無法を許してはこの手の犯罪は無くならないと、子供の命は守るから、自分達に任せてくれ、と乗り出すのが警察の仕事である。
 だが、北朝鮮による国民の拉致事件では、国はそうした考えを持たなかった。自分の人気取りに利用した政治家さえいた。まんまと丸められて帰って来た。それなのにまたもや、ほんのちょっと妥協をしたかのような素振りに騙されて、対話で解決すべきだと大甘な主張をする馬鹿な政治家が居る。
 対話ってね、対等に話し合う事なんですよ。こちらの言う事に聞く耳を持たず、一方的に自分の立場だけを主張する事を対話とは言わない。
 規範となる国語辞典だと豪語している『広辞苑』からして、「対話」の意味を誤解させるような説明しかしていない。

・向かい合って話すこと。相対して話すこと。二人の人がことばを交わすこと。会話。対談。

 「会話」を引けば、「二人あるいは小人数で、向かいあって話しあうこと」としか説明していないし、「対談」だって期待はしていない。「対談=相対して談話すること。(二人の人が向かい合い)特定の問題について話し合うこと」。以上は同書第五版。第六版になったからと言って、基本的な考え方が変わるはずも無い。

 「話し合う」にしても、「妥協点を見出すべく」との目的が明確になってこそ、意味がある。同書の「話し合う」は単に「互いに話す」なのである。妥協点を見付ける事などまるで考えていない対話だから、何の収穫も無いのは当然の事。それを前回の代表団は「対話をして来た」と大威張りで帰国した。馬鹿言ってるんじゃないよ。
 拉致被害者の石岡亨さんが身の危険を冒して外国人に手紙を託した顛末がメールマガジンに載っていた。その手紙が有本恵子さんの家族に届き、彼女が北朝鮮に居る事が分かった。御両親が外務省に陳情したが、売国奴の同省はまるで無視。そこで地元選出の国会議員である社会党の土井たか子委員長に陳情したが、これまた無視された。
 ところが、土井氏はこの手紙の件をあろう事か、朝鮮総連に密告したのだと言う。
 これは公知の事実だと言うのだが、私は見聞が広くなく、知らなかった。
 右を向いても左を向いても外国の手先ばかり。アメリカの占領が終わったと思ったら、今度は各国入り乱れて日本を占領している。それに対して率先して敢然と戦うべき連中が手先になりさがっている。こんな御し易い国は世界でも稀だろう。

 アメリカが自分達の牛肉を買えと命令すれば、いとも簡単に従ってしまう。相手に危険部位があるとの認識が無ければ、危険部位云々は空手形に過ぎない。世間はこれをアメリカのポチと評したが、それではポチがあまりにかわいそうである。
 我が家の愛犬はまだ二歳だが、自分の主張は徹底的に通そうとする。こちらがたじたじとなるくらいの剣幕で吠え立てる。粗相した時でも、人間からは粗相と見えても、犬にとっては縄張りの主張である場合があるらしい。だから本人(犬)は正当な行為だと思っていて、頭から叱ると昂然と反抗するのである。にらみつけても駄目。こちらの気持を敏感に察知して、抵抗する。
 アメリカやロシアや中国や北朝鮮、その他もろもろの無理難題を吹っ掛ける国に対して、吠え立てる事の出来る政治家が現在居るだろうか。私は一人だけ居ると思っているが、風当たりは強い。
 売国奴連中には愛犬の爪の垢を是非とも贈って差し上げたい。とても足りないだろうけどね。

 吠え立てる事も出来ないのであれば、せめて威嚇出来る武器を持ちたいと私は思う。それを自衛のためだ、などとほざくから嘗められるのである。犬じゃないんだから、嘗められて喜んでいてはいけない、と言おうとして、あっ、そうか、彼等は犬にも劣るんだった、と気が付いた。
 誰とは言わないが、外国の手先になっているなら、戦争放棄を金科玉条の如く守ろうとするのは当然の筋道である。そうか、それで納得が行く。武器は持ちたくない、と言うなら、せめて盛大に吠え立てるべきである。

 獣医は犬の健康のためにも去勢をと、勧める。前の犬は同じ犬種だが、停留睾丸だったため、健康な方も取ってしまった。そのせいか、とても大人しかった。正直言って、私は今度の犬には手を焼いている。しかし去勢には踏み切れない。去勢された政府のお偉方を見るたびに、ああ、我が家の犬はああはしたくない、と思う。

 いい加減に、日本は属国になるのを待っています、とでも言っているかのような態度はやめようよ。相手を信頼する事が相互信頼になるなんて言うのは、同じ言葉が通じる世界での話。宗教だって何の力も無い。力があれば、イスラム教が命よりも大事なイスラム世界の血で血を洗う戦いなどあり得ない。世界中が相手を信頼出来ないと考えているから、みんな軍備を持っている。
 憲法第9条は素晴らしい思想である。日本がそれを保持して、いつの日か世界中がなびくなら、歯を食いしばっても守り抜くべきである。でもそれは百年河清を待つに等しい。いや、今の人類の程度では永久に無理だろう。戦争なんて、何千年も前からやってるんだものね。
 日本の首脳陣だけではない、民間人までもが日本は根性無しだと声を大にして叫んでいる。国旗と国歌を蔑む連中である。どこに自分の国の国旗と国歌を馬鹿にする国があろうか。そんなに嫌なら、どうぞ星条旗を、とか、五星紅旗を、なんて誘われて、ついふらふらとする連中も出るかも知れない。それを自分の信条を貫くのだと、全く関係の無い理屈で通そうとする。自分のちっぽけな信条が国を売っている事に気が付かない。

 民が駄目ならお上も駄目。お上が駄目だから民も駄目なのか。民が駄目だからお上が駄目なのか。民と無関係にお上が存在出来ない以上は、どちらにも責任がある。持ちつ持たれつ、永遠に循環し合う関係にある。目先の事ばかり考えているから、大局的な見地に立てない。でも、それもまた無理の無い話なのだ。大局的な事を考えようとすると、片っ端から潰されるのだから、嫌でも目先の事しか考えられなくなるよね。
 陰で甘い汁を吸ってるのは一体どいつなんだ。

たばこの必要性を主張するJTと愛煙家と政治家の欺瞞

2008年06月19日 | Weblog
 東京新聞の読者の投稿欄に愛煙家の投稿があった。1箱千円なんて、ふざけるな、と。その言い分がまことに筋が通っている。
 千円の根拠は増税と健康被害を少しでも少なくする事にある。それは医療費の削減にも繋がる。ただ、喫煙者が減れば目に見えての税収は減るから、意味が無い、などとそれこそふざけた発言をする政治家が居る。
 投稿者は次のように言う。

 「たばこがそれほど健康を害するものなら、“禁煙運動”でなく、麻薬並み扱いの「禁煙法」で禁止薬物にしたらいい。できるわけないよね。自民党の票田で何かと優遇してきた葉タバコ栽培農家や、たばこ店を失業させられないし、税金だけはがっぽり頂こうなんて虫がよすぎる。
 あなたたちの言う“害毒”を吐き続けるたばこという“麻薬”。それを民間企業とは名ばかりで、政府の意のままになる日本たばこ産業(JT)に独占的に扱わせて、原価の十倍もの値段で売りつけるのか。これは本物の麻薬を扱う闇社会の人たち以上の小汚い商いじゃないのか。
 ま、千円になったら、私はどんなに困難でもきっぱり禁煙する。が、それでもたばこを買う愛煙家がいたら、現在のように肩身の狭い思いをさせないで、「高額納税者」として、いろんな場所で優遇し、丁重に扱ってあげてくださいな」

 いちいちごもっともである。今だって、吸わない人間の健康を守ると言いながら、きちんと税収だけは確保している。嫌煙権があるなら愛煙権もある、などと公平に見せ掛けて、その実、目的は税金とたばこ産業に関わる人間からの支持だけが目的なのである。
 日本たばこ産業は、その正式名称は隠して、「JT」などと公称して、「たばこ」の名前を使わないようにしている。そしてあのギョーザ騒動で馬脚を現した。
 愛煙家と言うと、すぐに喫煙権を声高に主張する人間が登場する。そこでは常に人間としての基本的な権利の言い争いに終わり、たばこの税収としての価値には目もくれない。だが安心した。こうしたきちんと判断の出来る愛煙家も居る。単にそうした人々の出番を奪っていたに過ぎない。

 プールで毎日のように来ている人とたまたま話す機会があった。十年前にたばこをやめたら、食事が旨くてどんどん太ってしまった。それで今は増えた体重を泳いで減らしているのだと言う。咳も出なくなったし、たばこは良い事少しも無い、と言う。今では泳ぐのが仕事になってしまった、と笑っていたが、本当に健康その物に見えた。
 喫煙権と言う美名の下に税金だけが目当てで、人々の健康を損なって、何とも思わない。汚い政治家も日本たばこ産業のお偉方も、この先は長くはないから、それで良いが、未来のある若者を犠牲にする事は絶対に許せない。

 自分一人の寿命を縮めるだけなら、どうぞ御自由に。だが、他人の大切な命を損なう事は断じて許してはならない。そんな事ごくごく当たり前の事だ。だがその当たり前がなぜか通らない。それは金儲けにしっかりと裏打ちをされているからである。そこで筋が曲げられてしまうのだ。「喫煙権」を主張するのはそうした事なのである。
 たばこが許されるなら、マリファナだって許される道理である。麻薬と同じ作用があるのは同じである。全く同じとは言わないが、習慣性や健康への被害で言えば、同じである。だが、マリファナでは税金は取れない。だから禁止しているに過ぎないのである。
 ホント、たばこで汚い金儲けをしている人々よ、どんどんお吸いなさい。愛煙権を堂々と主張なさい。そしてどんどん御自分の寿命を縮めなさい。何をしようとあなたがたの自由なのですよ。ただし、言っておくが、それは自分一人の範囲内での事である。

東京地下鉄の新線・副都心線が開通

2008年06月17日 | Weblog
 この話は本当は6月14日にするつもりだった。だが地震が起きたり、無差別殺人事件の続きがあったりで、延ばしていた。そうしたら、今日の東京新聞に、新線は開業当日から数々のトラブルがあり、それが三日も連続したとの記事があった。
 その一つが乗り入れのミスであり、急行運行のミスである。急行なんて馬鹿馬鹿しいと私は書いたが、それが如実に現実となった。以下は6月14日の原稿そのままである。

 東京の地下鉄新線が開通した。池袋―新宿―渋谷間で山手線・埼京線と並行するので、両線からの客を奪う事になると言う。言い替えれば、両線の混雑緩和に効果がある。もちろん、混雑緩和の目的が無ければ、意味は無い。単に客の奪い合いになる。この混雑緩和は、もう一つのメリットももたらす。東武東上線と西武池袋線からの乗客は乗り換え無しで新宿や渋谷に直行出来るのだ。
 その結果、東上線は有楽町線と競合している和光市―池袋間の客を有楽町線に取られてしまう事になる。東武側はその損失を年間15億円と見ている。

 ただ、JR東日本は混雑の緩和だけではなく、新線のもたらす「人の移動の活性化」の効果も見ている。その活性化は既存路線にも相乗効果を生むと言う。従って、山手線などで一時的に乗客が減っても、中長期的には元の数に戻るかも知れず、混雑の解消にはつながりにくいのでは、と見ているらしい。

 そうか。短期的には混雑緩和になるが、それも短い間の事なのか。しかしその原因が「人の移動の活性化」にあるとなると、話はまた複雑になる。元に戻ると言うからには、今よりもまた多くの人が都心に出て来ると言う事になる。それを「移動の活性化」と言っているのだが、果たしてそれは本当に活性化なのか。
 と言うのは、新幹線の開通で地方都市の「人の移動」が活性化した。だが、地方都市は活力を失っている場合が圧倒的に多い。人が東京へ東京へと流れて来てしまうのである。本当は東京とのパイプを太くして、もっと交流を深めよう、と言うのが狙いだったのではないのか。それが、地方の活力を東京に吸い上げる結果になっている。地方都市の中心部で、シャッターの降りた商店街の姿を見ると、何のための新幹線だったのか、と大きな疑問が生まれる。

 東京地下鉄(私は決して東京メトロなどとは呼ばない。首都の地下鉄をフランス語で呼んで何が嬉しいのか。馬鹿らしい)が単に利益を増やしただけに終わる可能性もある。確かに総工費は莫大だろう。だから簡単に利益が挙がるとは言えないだろう。しかし掛けた金は絶対に回収出来るのである。それにその金だって、会社が自腹を切っているのではなかろう。今までに儲けた利益の中から出しているのではないのか。たとえ借金だとしても、利益が見込めるからこそしている事だ。

 JR東日本が「人の移動の活性化」だと評価するその真意は分かる。同社とて、それで利益を得ているのである。本来ならばしなくても良い移動をさせて儲けるのが、同社の目的だろう。もちろん、移動をしなければならない人の便宜を図る目的もある。そして本当はこれが真の目的であって、しかもそれだけで良いのだと私は思う。
 こんな事を言うのには訳がある。JR東日本は新幹線が開通すると、情け容赦も無く、在来線を切り離してしまう。儲からない事業はやらないのである。それが公共の交通機関のする事か。切り離された鉄道の運賃が上がって辛い思いをしている人はたくさんいる。切り離さなければ、新幹線で得た利益を不採算部門に回す事が出来るのである。それが嫌だから簡単に切り離すのだ。

 元国鉄だったJRがこのざまである。東京地下鉄が同じ考えを持っていたとしても、少しもおかしくはない。そして客寄せのためだろう、池袋―渋谷間で山手線より4分短縮するために急行を導入したと言う。同区間の山手線は15分。新線も同じ駅数だから、同じはずだ。それが11分になる訳だ。15分の所の4分だから大きいと思えるが、たかが4分である。4分で出来る事って何がありますか?
 問題は、4分短縮するためにどんな犠牲が払われるか、である。この急行はどこかの駅で各駅停車を追い抜く事になる。その時、追い抜かれる電車は通常の時間で走れるか、である。たいていは、追い抜かれるためには普段より余分に停車する必要がある。つまり、急行は追い抜かれる各駅停車の犠牲の下に4分の短縮が出来るのである。
 急行を利用出来る人はいいかも知れないが、利用出来ない人は単に不都合なだけである。4分くらいでがたがた言うな、とは言えない。その4分くらいを後生大事に短縮すると言っているのである。

 それだけではない。何でも短縮だの早くだのと言い過ぎる。その弊害は短絡的な考え方しか出来ない人間を生んでいる事に端的に現れている。あまりにも能率を考え過ぎる。そのせいで、重要な事が十分に考えられていない。何でも即決なのである。この事についてはまだ言いたい事があるが、長くなるので、別の機会にする。

 新線もいいけど、もっとほかに考えるべき事がたくさん山積みになっているんじゃないですか? もっとも、この新線の計画は有楽町線の計画と同じ時からあるから、将来を見据えて着々と実行して来た訳だが、それが真実必要であるかどうかとは、あまり関係が無い。

秋葉無差別殺人で識者はどうあるべきか

2008年06月16日 | Weblog
 秋葉原の無差別殺人事件で、東京新聞の二つの記事を御紹介する。
 一つは「本音のコラム」(執筆者は山口二郎氏)は、事件の原因を人間を物扱いして尊厳を無視している事に求めている。そして、「人間の尊厳が守られる社会を回復するために、それぞれコストを払わなければならない」と締め括っている。
 でも、そこまでは誰でも容易にたどり着けるのですよ。誰だって、労働の価値がぐんと下がってしまっている事を知っている。でも、どうすれば人間の尊厳が回復出来るのかの答が簡単には出ないのである。それを示すのが、こうしたコラムを書く人々の仕事ではないのか。
 我々の答はおぼろげながらではあるが、出掛かっている。
 まずは政治が悪い。規制緩和とか何とか言って、アメリカの要求を簡単に受け入れたあの小泉の悪政から様々な事が始まっている。彼は自分の政治生命の延命を北朝鮮に拉致された人々の運命を犠牲にして図った。わずかな人々の解放で手を打ってしまった。それは誰もが非難している事実である。
 第二には飽くなき金儲けを企んでいる巨大企業が悪い。銀行は寡占化が進み、デパートを始め、どこもかしこも合併合併の大合唱。すべて金儲けのためである。彼等は原材料が高騰すれば、簡単に末端価格を値上げして処理出来る。
 第三には金儲けの手段と癒着している政治家が悪い。議員を国民のためではなく、自分自身の立身出世のためと心得ている議員諸氏が悪い。一体、国民のための議員なんて居るのだろうか。
 第四には自分の地位と収入の事しか頭に無い官僚が悪い。
 世の中の仕組みがすべてと言えるほど「悪」ばかりでは、どうにもならない。

 そして、重要な事は、これらの悪を撲滅し正義を取り戻すために、コストは払う必要は無い。正しい道を取り戻すのに何でコストが掛かるのか。同氏の言う「コスト」とは、それぞれが損をする事を指しているのではないのか。
 正しい道に戻るには、多分、今の政治家は全員退任すべきだろうし、企業は損失を覚悟する必要がある。議員も旨い汁は吸えなくなる。官僚も相応の身分に収まるしか無い。
 そうなのですよ。今まであぶく銭を手に入れていた連中がコストを負担すれば良いだけの話なのですね。だから話はとても簡単である。

 このコラムのすぐ下にあるのが、「週刊誌を読む」と言う連載(執筆者は月刊「創」編集長・篠田博之氏)。
 事件現場で、野次馬が一斉に撮影をしている姿を週刊誌の記事で紹介し、次のように締め括っている。

 被害者の友人が「たまらなく嫌な気分になりました」という携帯のカメラの放列という光景を、どう考えたらよいのだろうか。

 ねえ、いやしくも月刊誌の編集長であり、新聞の連載コラムの執筆者ともあろうお人が、「どう考えたらよいのだろうか」は無いでしょうよ。
 ここには様々な嫌らしい人間像が手に取るように見えているではありませんか。
 通行人がやたらと手を出せないのは分かる。しかし心肺停止の人もいたり、うめいている人だっている現場を遠巻きにしているだけならまだしも、カメラのシャッターを押していると言うその心底が不気味である。それこそ、他人の不幸は蜜の味、を地で行くような光景である。
 どう考えたらよいのだろうか、ではなく、そうした人々をまずは指弾すべきである。人間の心を持たない獣だと。現場に居合わせた人でなければ撮れない貴重な映像もあるだろう、と言うが、私には貴重な映像があるとはとても思えない。ねえ、教えてくれませんか? どのような写真が貴重な映像なのですか。その映像はどのような役に立つのですか。
 死者が生き返るはずも無いし、重傷の程度が軽くなる訳でも無い。救助の仕方の反省が出来る訳でも無い。役立つと言えば、殺人鬼の罪状を確定する事だけしか私には思い至らない。だから、教えて下さいと言うのである。
 殺人鬼の罪状は明々白々である。証拠写真も何も要らない。写真や目撃者の証言が無いと罪状が明確にならない、とでも言うなら、写真も無く、目撃者の証言も食い違っていたりしたら、この殺人鬼の罪状が確定出来ないとでも言うのだろうか。

 なにか、根本的な事がずれているような気がしてならない。