夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

市長選挙と民意

2011年11月29日 | 暮らし
 何でこんな事を考えるかと言うと、大阪市長選に関してである。
 橋下氏は「民意が我々の主張を選んだ」と言い、「民意を無視する市職員は去ってもらう」とも言う。しかし敗北した平松氏が獲得した得票率は約41%である。つまり、民意の4割は平松氏を支持した。橋下氏を支持した6割が民意なら、平松氏を支持した4割も民意である。民意に差別は無い。
 本来、民意に大きな差などある訳が無い。あるのは小さな差だけである。安全で健康で豊かな暮らしをしたい、それが民意である。そして、何が安全で、健康で、豊かなのか、と言う事について様々な小さな違いがあるに過ぎない。
  
 二人の候補が明暗を分けたのは、こうした小さな違いが原因ではない。「大阪都構想」とか、大きな問題で賛否が分かれたはずである。そして、その問題自体にしても、賛成か反対か、で割り切る事は出来ないだろう。どちらにも考えなければならない事がたくさんあるし、それぞれに歩み寄る案だってあるはずだ。
 ただ、現実に利害が絡んで来ると、小さな違いでは済まなくなるのだろう。例えば、大阪市職員にすれば、死活問題にもなる。

 橋下氏の考え方は、国政とまるで同じような気がする。国会は常に与党か野党か、で対立している。している事、考えている事など、よく似ているし、そもそもは対立して考えるべき事柄ではないだろう。
 消費税にしても、10%を打ち出してしまうから、賛成か反対かに分かれるが、例えば段階的に最初の何年かは6%に抑える、などのやり方だってあるはずだ。現在の倍にしなければやって行けない、と言うのなら、現在の様々な行政のあり方に何らかの失敗があるからだろう。それを是正する事が先決である。

 いつも思うのだが、政党とか団体とかに属しての選挙になるから、与党と野党に分裂する。そうではなく、単に個人の人気投票なら、当選した様々な人がそれぞれに提案をして、それを検討し、最良の政策に持って行く、と言うのが理想ではないのか。
 今の国会にしても、議員の質なんて、みんな同じじゃないか。言うならばどんぐりの背比べに過ぎないのに、与党は天下を取ったみたいな物言いをして、野党はまるで自分達が無視されているかのように不平不満を並べ立てる。

 どんぐりと山猫の話では、確か、誰が一番偉いのかでもめていて、 この中で一番駄目で、みっともなくて、だらしがなくて、と言うような最低の資格を持ったのが一番偉いのだ、と言った途端にみんな黙ってしまった、と言う話だったと思う。

 政治の世界は、要するに日の当たる所に居たい。日の当たる所でないと、冷や飯を食わされる。そうではないのだ。どんな所に居ても、みんなが日の当たる所に居るのである。そしてみんなが最善の事を考える。党利党略を離れれば、みんな程度はおんなじなんだから、平等である。何事もそうやって決める。それがどんな世界でも最良の方法なのではないのか。

KDDIはとても親切だ

2011年11月28日 | 暮らし
 光電話をNTTからKDDIに替えた。その事は先日書いた。二つの電話番号を使うためには、ルーターが二つ要る。そしてルーター同士を繋ぐための推奨のスイッチングハブも買った。ところが、指示通りの接続をしているのに、電話が繋がらない。私は方式の異なる二つの電話を持っているので、相互で確認が出来る。
 それで、問い合わせの電話をした。携帯では聞き取りにくいと言うので、別の部屋にある電話を使ったのだが、何かを確認するたびに二つの部屋を行き来しなくてはならず、非常に手間取った。でも、担当者は親切に対応してくれる。

 ルーターとハブを繋ぐ線は三本。そしてハブはその接続口が点灯する。けれども、ハブを確認したら、二つしか点灯していない。ハブの欠陥か、と思ったが、結果的には私がLANケーブルを使うべき所に電話線を繋ぐケーブルを使っていたと言う、まことにお粗末極まる単純ミスだった。逆ではジャックが入らないので、すぐに分かるのだが、うまく入ってしまうので、なかなかミスに気付けない。でも、これは単なる言い訳に過ぎない。
 結局、40分以上にも渡って、延々と私に付き合ってくれた担当者に迷惑を掛けた訳だ。でも、担当者はそうしたミスはよくある事ですと、最後まで親切だった。

 プロバイダーのソネットも親切である。徹底的に付き合ってくれる。それに対して、マックのアップルは、これはパソコンでの事だが、まず最初に相談料の提示がされる。内容を問わず相談料が掛かる。たった一言で解決する事だってあるのに。そして私の質問は、たった一言を聞きたい事がほとんどなのである。だから私はどんなに困ってもアップルには相談はしない。
 ヤフーなども不親切だ。案内のテーブが回るだけで、なかなか必要な部署にたどり着けないし、そのまま終わってしまう。嫌気がさして、金輪際、聞くものか、と思ってしまう。嫌なら利用をしなければ良い。

 考えてみると、メーカーの説明書が懇切丁寧とは言えない。そんな事、分かってるでしょう、みたいな書き方が多い。ルーターとかハブとか使うには専門的な知識が要る。しかし、だからと言って、使う人間が専門的な知識を持っているとは限らない。
 いつも思うのだが、初心者にも分かる説明をするには、初心者に近い人がする必要がある。自分がどのように分からないのかがよく分かっているから、初心者にどのように説明すれば良いかもよく分かる。
 説明がくどくたって構わない。分かっている人は読み飛ばせば良いだけの話である。

世界一星空のきれいな国ニュージーランド

2011年11月27日 | 暮らし
 「世界一星空のきれいな国ニュージーランド」と言うタイトルの番組を見た。夜空に隙間が無いくらいびっしりと星が光っている。本などで普段見ている星空と違って南半球の夜空なので、勝手が違うが、これが北半球の星空だったら、多分、星座など分からないだろう。それくらい満天の星なのである。
 私は星空に憧れている。数年前、小学生の時から欲しかった天体望遠鏡をやっと買った。火星や木星、土星などは満足に見えないだろうから、月が見たかった。赤道儀式だから天体の動きを追って望遠鏡を動かす事が出来る。
 その最初の設定が望遠鏡を北極星に照準を合わせる事だった。ところが、私の住んでいる所では北極星が見えないのだ。十二階なので、周囲の住宅などの明かりに邪魔されて、星がほとんど見えないのである。以前住んでいたのは五階で、幾つかの星は見えていたし、深夜、終電で帰って来て、バスも無く、駅から歩いて帰って来る途中にオリオン座が見えていたりしたから、まさか星が見えないなどとは思いもしなかった。
 で、泣く泣く、望遠鏡はしまって、そのままになっている。

 このニュージーランドの町は、世界遺産への登録を考えているそうだが、登録されたら星空が見えにくくなるのではないか、との危惧もある。世界遺産の土地だから、観光客が増えて、それを目的に様々な商売が始まる。それが町を明るくしてしまって、星空の美しさが損なわれる恐れがある。町の発展を考えると、痛し痒しである。
 でも、町の発展とは何なのだろうか、と考えてしまう。経済的な発展イコール町の発展だと言えるのだろうか。

 お金があって、どんどん進化するケイタイを買ったり、便利な電化製品を買える事よりも、満天の星空を眺められる事の方が大事だ、と私は思う。ケイタイで様々な情報を得るよりも、夜空を埋め尽くす星を見て、そこには様々な生物や文明がある事を思い、我々自身の事を考える方がずっと有意義だと思う。

2本目の電話番号をもらった

2011年11月24日 | 暮らし
 4日もブログを休んでしまった。仕事が立て込んで来ると、ブログを書いている暇が無い。読んでもらってもあまり意味の無い事は書きたくないので、短時間にさっと、と言う訳にも行かない。でも今日はあまり意味の無い事を書く。
 今までNTTだった光電話をKDDIに替えた。私は元来面倒臭い事が嫌いなたちで、そうした事は無視して来たのだが、今回は営業マンの説明が良く、いつまでもNTTの独占ではないだろう、と替えてみた。
 そこで、一つの電話で複数使えた番号が使えなくなった。私は第二の番号をFAX専用にしていた。番号が一つでもFAXはほとんど掛かって来る事が無いので大丈夫なのだが、電話が鳴ると、FAXも同時に鳴ってうるさくてかなわない。メーカーの言う配線に替えたのだが、それでも鳴る。
 それで、やはりもう一つの番号を復活する事にした。元の番号が使えないかも知れないとは覚悟の上だが、局番まで変わるのは嫌だなあと思い、KDDIに問い合わせた。局番は変わらないと言う。安心した。そして、電話番号が決まって連絡が来た。ところが、局番は全く別の番号である。で、係の人に、局番は変わらないと言う話だったのに、と言うと、その答が想像を絶する答だった。
 「ええ、市外局番は03で変わっていません」

 東京の電話で、局番がどうの、と言う話で市外局番が問題になるとは思いもしない。だから私は言った。「あのねえ、東京の電話が045や048になる訳がないじゃないですか。東京の電話で局番、と言ったら市内局番に決まってるじゃありませんか」
 東京は23区は03で、23区以外でも例外として03の所もある。それらくい03が広範囲で使われている。そして電話に出ている担当者は私が23区の外に移転するのではない事は知っている。それなのにこの対応である。
 ただ、よくよく考えて、無理もないのかも知れないと考え直した。どこかの市と接している境界線付近の人なら、03以外の所にも頻繁に電話をする事があるのだろう。そうした所に居る人は、電話番号を言う時には、常に03から始めるのだろう。だから、局番と言うと、咄嗟に市外局番を考えてしまったに違いない。
 そうは言っても、相手は電話会社の人間なのだから、電話番号については精通していて当然だと思う。

国民総幸福量とはいい言葉だ

2011年11月19日 | 社会問題
 何とも素晴らしい言葉ではありませんか、ブータン国の「国民総幸福量」とは。何かと言うとすぐに「国民総生産」を持ち出す国とは大違い。「国民総生産」には一人一人の「生産量」はまるで感じられないが、「国民総幸福量」には、はっきりと一人一人の「幸福量」が感じられる。多分、「幸福」が具体的で分かり易いからだろう。
 この言葉を流行らせて、流行語大賞を与えたい。もちろん、「幸福」の実行を伴わなければ意味が無い。
 一人当たりの預貯金額には借金も含まれてしまうと言う統計学の世界とは、全く別の世界である。
 ブータンについて我々はほとんど知らないが、もっともっと知るべき国だと思う。日本の国会で30分も演説出来る国王も素晴らしい国王だ。もちろん、理想的な所ばかりあるのではないだろうが、理想的な所が多そうな国ではある。敬虔な仏教国である事も、良さを助長していると思う。どこかの宗教のような、熱心を通り越した狂信的な所が無いのだろう。

 日本人は多神教だが、神も仏も信じてなどいない。時と場合に応じて、寺院に行き、神社に行くと言うのは宗教心ではない。単なるご利益目当てである。それじゃあ、神様だって仏様だって、言う事を聞いてはくれまい。
 何を信じても構わないが、宗教心は持つべきだろう。神や仏を畏れる心が人間を謙虚にする。そうした心が無いから、やりたい放題ではないか。

 民間よりも遥かに高給取りの公務員が、民間よりも遥かに格安な家賃の公務員住宅に住んでいる。人間の心を持っていれば、そのような情況でのほほんとしてなどいない。既得権益を守る事で必死になって、肝心の仕事がお留守になっている。でも高級な人間だと思い込んでいる。高級ではなく、単に「高給」なだけなのに。
 人間の心を喪失しているのは、神も仏も畏れる心が無いからである。そうした人を増上慢と呼ぶ。

「みんな知り始めた」と井形慶子さんが言っている

2011年11月16日 | 社会問題
 今日、16日の東京新聞の「本音のコラム」である。
 私達は自分の目で確かめるのを敬遠する、と言う。それは恐れから遠ざかりたいからで、正しくは、真実から遠ざかりたいのかも知れない、と言う。
 そしてその話はTPPに繋がる。踏み出す不安よりも、将来、いかに農家を守っていくか、現状を直視すべきだ、と語る。それは彼女が英国の農家を取材した経験からの言葉である。英国で、生き残りを賭けて家業を継承すべく有機農法に取り組み、輸出で成功した農家を幾つも見た経験からの話である。
 イギリスは二度の大戦で経験した食料不足を、政府は作れば補助金を払い、自給率を上げて来た、と言う。

 そうした経緯は私はよく知らないし、その評価は様々あるだろうが、私が言いたいのは彼女の次のような言葉だ。

 「今後の暮らし向きがどうなって行くのか、新聞やニュースをいくら見ても分からないのは、私達が日本の農業を本当の意味で理解していないからではないか。」

 そして日本のお家芸である付加価値を付ける。不得手な交渉の腕を磨く。それが大切だ、と言う。そして最後の言葉。

 「それにしても、震災で原発、TPPで農業。私達はなぜ、こんな大切なことに長年無知だったのだろうか。」

 この言葉がタイトルの「みんな知り始めた」に繋がる。
 そう、我々はやっと「知り始めた」のである。それなのに、何とかして知らないようにして置こうとする勢力が存在する。電力会社やその提灯持ちばかりではない。新聞やテレビなどのマスメディアの一部にそれがある。
 マスメディアだって、最高権力を握っている人間を除いては、そこで働いている人々は我々と同等で、特別に恩恵を蒙れる訳でもないのに、何か思い上がっていて、真実を知らせたくないと思っているらしい。
 前にも書いたが、我々が知り始めたのは、今回の被害があまりにも大きかったからで、しかもその被害からの復旧が何も出来ていないから、関心があるのだ。だから被害からの復旧が出来てしまえば、喉元過ぎれば熱さ忘れる、のことわざ通りになるだろうと、私は危惧している。
 せっかく「知り始めた」のだから、何とかして、この熱意を持ち続けたいものだと思う。

万葉集に手こずっています

2011年11月15日 | 言葉
 この所、自分ネタが多い。暮らしに追われて日本の事を考えている余裕が無い。情けないけれど、背に腹は代えられない。
 9月に独自の万葉集論を書き上げたと書いた。そして知り合いの居る某有名出版社に趣意書を送って、読んでもらえないか、と頼んでいると書いた。
 だが「なしのつぶて」である。理由は分かる。訴求力に欠けていた。それは多分に本のタイトルのせいでもある。「難しい歌が分かる万葉集入門」だったのである。難しい歌、と言うのは、専門の学者が解釈に手こずっている歌を指す。でも、それは一見しただけでは、あまり興味を引かない。

 そこで考え直した。タイトルを「目からうろこの万葉集の秘密」とした。内容は全く同じなのに、タイトルを変えると中身までもが違っているように見えて来る。
 話は天智天皇と天武天皇の殺害事件から始まる。だから面白いはずである。しかも荒唐無稽な話ではない。なぜなら、それぞれの皇后がそのように歌を詠んでいるのである。
 専門の学者が手こずるのは当然だ。この二人の天皇が殺害されたなどと言う史実は無い。だから当然に歌の解釈が曖昧になってしまう。

 そうした事を私は丁寧に解き明かした。自分自身、少しも疑問の無い所まで徹底的に追究している。
 ところがである。その原稿を紙に打ち出して読み直してみると、あっ、ここが追究不足だ、と思う事が出て来る。それを直して印刷して全体を読み直すと、今度はまた別の所に気が付く。あるいは、何の脈絡も無く、突然に新しい考えがひらめく。それを毎日のように繰り返している。ごみになったA4用紙は千枚を越えている。直したページだけを印刷し直して、それである。いかに直しが多いか。

 原因は万葉集の難しさにある。例えば、柿本人麻呂の「ひむかしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の歌一つをとっても、原文の「月西渡」をなぜ「西渡る」ではなく「月かたぶきぬ」と読むのかに大きな疑問がある。もちろん、学者はそうした事に何の関心も持たずに解釈をしている。

 よく知られている歌の一つに謀反の疑いで殺された大津皇子に対する姉の歌がある。そこに弟を表す言葉として「弟世」が出て来る。これを「いろせ」と読むのが決まった読み方になっている。そして私も素直にそれに従っていた。
 しかし考えてみれば、それは筋が通らない事に最後の最後になって気が付いた。「いろせ」とは母を同じくする姉から言う兄弟の事で、兄も弟も指す。「いろ=同母」で、「せ」は男性を指す。年下も年上も指す。「いろ」の漢字表記は古語辞典には無い。古事記には「伊呂」がある。「せ」は「兄・夫・背」が普通で、だからここでは「伊呂背」となりそうなものだが、それが「弟世」になっている。「弟」を「いろ」と読む事は出来ない。
 さて困った。これをそのままにして置く訳には行かない。そんな事をしたら、私のこの原稿は成り立たなくなる。趣旨は万葉集の歌を原文通りに解釈する、なのである。後人が恣意的に解釈した読み方では、歌を詠んだ本人の真情に迫れない、と私は考えている。この「弟世」の結論を出すために、「いろ」を調べ、「いろ」で始まる言葉を調べ、その漢字表記を調べ、と手が掛かる。それを書き直しの段階でしているのである。

 自慢ぽく聞こえるだろうが、私の万葉研究が深くなって来ている証拠でもある。もちろん、こうした事は誰にでもあるから、本になって出てからも色々と改定されている本は多い。
 だから私はとても不思議でたまらない。万葉集の解説書は多々ある。でも、何度も考え直され、今もなお再版されている本をあまり見かけない。本屋の店先で見る限りは、いずれも新しい解説書であり、しかも非常にお手軽な解説書なのである。
 結局、万葉集を私のように真剣になって解釈しようとしている専門家など居ないらしい。だから、私は自分のこの原稿を本当に「目からうろこの」だと確信している。

リライトのアルバイトに挑戦したが…

2011年11月13日 | 暮らし
 仕事が無いので、インターネットで「副業」の「執筆・リライト」を探した。一つは現在選考中だが、もう一つはすぐに依頼があって、早速作業に取りかかった。
 私はパソコンの入力はほとんどプロ並みで、リライトも経験豊富である。ところが、やってみたら、始めてだから段取りに手間が掛かるのは当然だが、結構大変である。11本のリライトをするのに、ほぼ一日半も掛かってしまった。それで単価200円×11=2200円である。
 書き始めの1本は2時間近くも掛かってしまったが、最後の2本は1本が25分ほど。それでも1時間当たり400円と激安である。
 現在のアルバイトの相場である1時間1000円に届くためには、1時間に5本の記事を書く必要がある。

 一つの記事で最低800字は書かなければならないのだが、元になる原稿が800字に届かない。分量はあっても、同じ事が繰り返されている事が多々あるので、筋の通る、分かり易い記事にするにはかなりの部分を省かないといけない。
 でもそうすると、分量が足りない。足りない分量の原稿をどのようにしたら規定の分量になる記事に仕立て上げられるのか。
 様々な資料を物色する必要があり、それでは手間が掛かってどうしようもない。普段から自分が考えている事が記事になるなら、効率は良いのだが、たいていがある同じような商品の宣伝だったりするので、そうも行かない。

 今回提出したリライトは、自分としては出来の良い方だと思っているのだが、相手がどう思うか。まあ、気に入られなければ次の仕事は無いだろうし、あった場合にもどのように時間配分が出来るかはその時次第になる。
 何事も汗と努力の賜物だと言うから、しばらくは汗をかき、努力をしよう。

TPP参加の意義が分からない

2011年11月10日 | 外交問題
 共同通信の全国電話世論調査では賛否がほぼ拮抗している。参加した場合の影響について政府が説明が出来ていないと言うのが最大の理由である。
 意見がまっぷたつに割れているのは、それぞれの利害が対立しているからだろう。最も大きな利害は関税撤廃による日本の農業などの衰退だろう。そして食糧の自給率が現在の40%から14%にまで落ちてしまうと言う。それだけを聞くと非常に恐ろしい事になるが、あの古賀氏の説明によれば、そもそもは食糧の自給率そのものがおかしいのだと言う。何か訳の分からない事柄を規準にして出しているらしい。そうした事を農水省が明確に説明していない。

 アメリカに牛耳られてしまう事を懸念する人も居れば、古賀氏のように、それはこれからの交渉次第だと考える人も居る。当たり前だろう。参加している国にはオーストラリアも居れば、ニュージーランドも居る。そうした国々が日本のようにアメリカに牛耳られっぱなしのはずが無い。
 何で中国や韓国は参加していないのか、とか、参加した場合のメリットとデメリットについて、しっかりと考えられていないし、それが公表されてもいない。
 それぞれが自分達の立場だけを主張しているとしか思えない。もちろん、まず第一に自分の事を考えるのは必要だ。それなら具体的で現実的な事がよく分かっている。ただし、そこから発展して、それでは自分達以外の人々にはどのような影響があるのか、と考えるのが常識人の思考の仕方だろうと思う。

 そうした常識人の常に先頭に立って、人々の幸福のために情報を発信するのがマスメディアの役目であるはずだ。それが役目を果たそうとしていない。多分、カネが動いているのだろうが、どちらか有利な方に傾く傾向がある。
 今朝のテレビで、都道府県の幸福度の順位が取り上げられていた。一位は福井県、そして富山県と石川県が続く。幸福感なんて人様々だが、福井県のある女性が言っていた「のどかな事が良い」が印象に残った。そして大阪の女性が、気取らずに済み、しかも物価が安い、と言っているのも印象的だった。
 のどか、とか、気取らずに済む、と言う気持にはカネは関係が無い。そう、カネ、カネ、で動き回っているから幸福とはどんどん離れてしまうのである。
 TPP参加についても、一度自分の利害から離れて考えてみる必要があると思う。そしてそれを導くのがマスメディアの重要な役割だと思う。

「臭い臭い」は何と読むのか

2011年11月09日 | 言葉
 なぜタイトルのような問題を出すのかと言うと、「臭い」は「におい」と「くさい」の二つの読み方が認められている。だからこれは「くさいにおい」と読む。ただ、市販の表記辞典はほとんどが「におい」を認めておらず、仮名書きにせよ、と言っている。この表記辞典とは単に私の持っている『記者ハンドブック 新聞用字用語集』『朝日新聞の用語の手引き』『NHK 新用字用語辞典』『三省堂 現代国語表記辞典』に過ぎないが。
 そして、今まで認められていなかった「匂い=におい」は、今度の常用漢字の改定で認められるようになった。

 そうした前置きがあって、では、次の文章の「臭い」は何と読むのか。これはある新聞のコラムの文章の一部である。

 一般に良いにおいは「匂い」「香り」、不快なときは「臭い」と記す。

 多分、多くの人が「臭い=におい」と読んだに違いない。執筆者もそう考えて書いたに違いない。しかし私は「くさい」ではないか、と考えてしまった。なぜなら、これは「におい」をどのように漢字表記するかと言う純粋な問題から離れてしまっている。その原因は「香り」にある。
 
 一般に良いにおいは「匂い」、不快なときは「臭い」と記す。

 であれば、当然に「臭い=におい」である。しかし「香り」が途中に入ってしまったがために、漢字表記の話ではなく、言葉の表現の話にもなってしまっている。
 どうも、このコラムの執筆者は(一人だと考えて)論理的な文章を書くのが苦手のようだ。今までに幾つかこのコラムを取り上げて来たが、論理の筋が通らない事が少なくない。まあね、このコラムでもこれは話の枕だから、たとえ、多少のおかしな所があっても、本筋には関係が無いとも言えるのだが、論理の筋と言う大事な要素を考えると、こうした事が話の枕にせよ、存在する事が本論を疑わせてしまう事にもなる。
 本当にいつも思うのだが、コラムには(執筆者が偉くて)校閲者が存在しないのだろうか。小さい事ではあるが、新聞全体の記事の信用にも関わって来る問題だと思う。

 「におい」と言う言葉には私はある種の抵抗がある。と言うのは、多くの場合に「におうね」などと、犯罪ななどを想定して使われているからだ。「良いにおい」にはそれこそ「かおり」と言う良い言葉がある。だから、良い場合には「香り」と言い、悪い場合には「におい」と言えば良いのに、と思う。そうした事が定着すれば、「臭い」は「くさい」とだけ読んで、「におい」には「匂い」を充てれば済む。その方がずっと日本語のためになると思っている。