夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

中国の列車事故隠蔽体質

2011年07月29日 | 外交問題
 日本中、いや世界中がびっくり仰天、そして呆れ果てただろう。人間を人間とも思っていないその考え方には驚き呆れる以前に戦慄を覚える。まあ、中国の共産主義政府を信用などしていなかったが、ここまでえげつなく、恥も外聞もなくその姿を見せられてしまうと、ただただ言葉も無い。
 先日、久しぶりに秋葉原に行ったら、楽しそうな中国人達の買い物客に出会った。勝手ながら、私は彼等に違和感を感じた。何か、自分だけ一人幸福に酔っている、とそんな感じがしたのである。私の心の底には、中国のひどい差別情況などがあったのは間違いない。
 そして話はあの日本の領海内で、安全を守る船に体当たりをして来た中国漁船の問題になる。あの時、日本は中国政府に遠慮して、漁船の船長を釈放してしまった。中国政府に対してもきちんと抗議などしなかった。肝心の撮影したビデオでさえ、国民の目から隠した。それに賛成した議員達も少なくなかった。

 人を人とも思わない中国に対して、何でそんなに遠慮し配慮をする必要があるのか。こうなると、多分、そうした配慮は自分達の利益のためだけだったのではないか、と疑られても文句を言えないだろう。あの時の新聞の縮刷版を見て、政府や役人、そして議員達、産業界の大物達、有識者と称する人達、マスコミの態度などなどをきちんと総括して置く必要がある。
 無条件に相手を信用した、その相手の素性を実は知らなかったのだ、とは言わせない。

ブログをしばらく休みます

2011年07月25日 | Weblog
 昨日、妻が鎖骨を骨折してしまった。救急病院で骨の固定だけはしてもらったが、今までしていた事が出来ない。日常の買い物や食事の支度などを私がする事になる。学校は夏休みに入ったが、まだ仕事がある。そして夜も仕事がある。結局、朝から寝るまで用があるので、ブログを書くひまが無い。そこでしばらく休みます。ただ、私としてもずっと休んでいるのは出来るだけ避けたいので、時間を見付けて書きたいとは思っています。

福島県産の肉牛の出荷がすべて停止された

2011年07月20日 | 社会問題
 どこかの畜産農家は、餌の稲わらは去年の物だったはずなのに、と言っていた。現在、含まれている放射性物質の量を計っているが、福島原発の事故以前ではどうだったのだろうか。その結果を我々は知らされていない。事故以前は、どこも熱心に計ってなどいなかったのではないか。
 静岡県の茶葉からも放射性物質が測量されているが、あそこには原発が存在している。そこから漏れている恐れは絶対に無いのだろうか。つまり、福島県産の農作物にしても、以前から放射性物質が少しずつ漏れていたとは考えられないのだろうか。
 もっとも、そのような事を今更言っても始まらないが。

 そして一方では安全性が確かめられれば原発はオーケーだ、との考え方が根強くある。その安全性とは自然災害に対する安全性ではあろうが、そればかりではなく、普段の時の安全性もきちんと考えられるべきだろう。つまり、常に附近はもとより、広範囲に放射性物質の量を測定している必要がある。
 節電すれば、日本の産業は育たなくなるとの考え方があるが、それは一理あるが、それでは国外に生産拠点を移している企業を認める事は理屈に合わなくなる。安さを理由に拠点を海外に移しているのだが、原子力発電をしてまでも国内での生産を考えるなら、是非とも国外の生産を国内に移させるべきではなかろうか。
 企業の利益と国全体の安全とどちらが優先すると考えているのだろうか。

福島原発が緊急宣言解除で違法になる、と言うのだが

2011年07月16日 | 社会問題
 事故を起こしている福島第一原発は現在、三つの点で違法状態になっているのだそうだ。
1 保守点検をしているか(電気事業法)→放射線量が高く、点検が困難。
2 保安規定を守っているか(原子炉等規制法)→非常用発電機が損傷したまま。
3 「原発」と認定できるか(電気事業法・原子炉等規制法)→損傷や改造が多発している。

 違法状態が許されているのは緊急事態宣言が発令されて、事故収拾が第一とされているからである。従って、事故の収拾にめどがついて、緊急事態宣言が解除されれば、原発の存在その物が違法になる。
 こうした理屈はよく分かる。誰もがあの惨状を見て、原発がまもとではない事を知っている。あれはもう粗大ゴミ以外の何者でもないのだが、簡単に廃棄出来ないから困っている。
 そしてこうしたニュースを伝える今朝の東京新聞は、この記事の最後に恐ろしい事を書いている。

 経済産業省原子力安全・保安院はこの事態に対応するチームを組織し、国会審議の不要な省令改正で対応し、第一原発を法律の枠内に収まるよう検討している。

 これって、上に挙げた三つの違法状態をそのまま認めると言う事ではないのか。電気事業法と原子炉等規制法を骨抜きにすると言う事ではないのか。私にはそれ以外の読み方が出来ない。

 記事の見出しは「緊急宣言解除で違法に」「点検や安全設備 法的規準から逸脱」である。そして、上記の三つの問題点を表組にして分かり易く見せている。記事の9割ほどがこの見出しと表組に添った内容になっている。それなのに、それを完全に否定するような事が、ごく当然であるかのように淡々と書かれている。
 どなたか、この記事の読み方を教えて下さいませんか。

日本の上層部は完璧な馬鹿である

2011年07月15日 | 社会問題
 日本の上層部は完璧な馬鹿である。ただし、悪知恵もまた完璧である。経済産業省が古賀氏に期限付きで退職勧告をした事はすっかりばれてしまった。結局、諸悪の根源は権力を握っている政治家と官僚と大企業だと言う事もすっかりばれてしまっている。だから動けば動くほど、一つ一つの証拠が確実になるだけである。九州電力のやらせメール隠蔽作戦と同じである。やらせメールでは、会社の上層部は何も知らず、課長級くらいの社員がやらせたのだ、と責任転嫁を謀っている。上から褒められる事も無しに、そんな事をする中間管理職が居るとは思えない。それはサラリーマン社会の常識の一つなのではないだろうか。私は長い間サラリーマンではなかったから、その機微はあまり知らないが、テレビドラマなどではそうである。

 本当に、悪知恵を働かせれば働かせるほどに正体がばれてしまう。松本ナントカは、オフレコを書いた社は終わりだからな、と堂々と発言した。自分自身のすべてが分かってしまう事になんのためらいも無い。日本の上層部すべてに共通するアホな性格である。それでもまだ、「上層部の人々」は国民が何にも知らないとでも思っているらしい。電力会社が地域独占企業だと言う事など、普段は意識していないだけで、考えればすぐにも分かる事である。ガス会社と比較したって分かる。
 日本国民は世界有数の識字率を誇っている。その文字の知識たるや世界中のどこの地域や国にも負けない。何しろ、全く構造の違う言語である中国語を取り入れて日本語を操っているのである。漢字は中国語その物なのである。それを日本語風に飼いならしているだけで、漢字は氏も素性も中国語その物である。古代において、朝鮮民族はそれをしなかった。出来なかった。私は今、万葉集に真剣に取り組んでいるが、古代人の漢字に対する真剣さを見ると、それが庶民の間にまで行き渡っていた事を考えると、いかに日本国民が優秀であるかをつくづくと感じてしまう。
 そんな優秀な国民が何にも知らないと思っている彼等こそ、何も知らないのである。ただ、優秀な国民が一時的に馬鹿になっている現象は確かにある。と言うか、馬鹿にさせられているのである。その元凶の一部はマスコミにある。寄ってたかって、国民を馬鹿にさせてしまうような報道に熱心になっている。テレビの娯楽番組などその最たる物である。新聞の報道記事だって、油断をしてはいけない。

 今や、空前絶後とも言える最高の機会がやって来ている。文字通り、国民が目覚める機会が目の前にぶら下がっている。ここで、我々の運命を変えようじゃありませんか。自分自身の力で切り開ける運命に。そう、ここで松本ナントカの発言が生きて来る。「自分で努力しない奴は助けないぞ」。考えてみれば、彼はいい事も言っている。それは彼の意図した意味とは完全に違っているのだが。努力の一つが、「完璧な馬鹿」である日本の上層部を完全に見限る事である。

東京新聞「本音のコラム」の考え方がよく分からない

2011年07月14日 | 言葉
 今日7月14日、法政大学教授の竹田茂夫氏が書いている。

 公共事業の入札談合、株のインサイダー取引、政治家への企業献金、少数者によるメディアの独占的支配はなぜ禁止するべきなのか。答えは自明ではないし、時代や社会や学問分野によって答え方は異なる。市場競争の効率性ですべてが説明できるわけでもない。

 まずは「答えは自明ではないし」が分からない。入札談合やインサイダー取引が禁止すべき事柄であるのは、公平性や平等性を欠くからだろうと思う。少数によるメディア支配は、独占企業が許されないのと同様、ごく少数の人達だけの権利や利益が優先されてしまうからだろう。政治家への企業献金はちょっと考えてしまうが、これもやはり企業が自分の有利なように政治家を動かす恐れがあるからだろう。
 こうした事柄が禁止すべきであるのは「自明である」と私は思う。「時代や社会や学問分野」によって考え方が変わるとも思えない。時代や社会、と言ったって、今更、封建時代や封建社会などが出て来るはずも無い。単に、20世紀後半と21世紀前半と言った「時代の違い」に過ぎないのではないか。「社会」も「民主主義社会」と「共産主義社会」の違いを指しているとは思えない。「総中流意識社会」と「総下流意識社会」などの違いくらいしか考えられない。それに「学問分野によって変わる」とはどのような事なのだろうか。学問とはその時代のその社会の人々に貢献すればこそ、そこから独立して象牙の塔に籠って、時代や社会の現状とはまるで違う事を考えているはずが無い。
 「市場競争の効率性ですべてが説明できるわけでもない」と言うが、市場競争の効率性とはそんなにも尊いものなのか。私はむしろ、市場競争の効率性などを考えるから、世の中かおかしくなるのだと思っている。でも「市場競争の効率性」って、一体、どのような事を指しているのだろう。私にはよく分からない。
 ただ、コラムは最後に次のように言っている。

 カネや権力によって歪曲されないコミュニケーションや情報の平等性は、政治的安定性や経済効率性より上位の価値だと考えなければ、これらの問題には答えられないはずだ。

 そう、私もそう考えている。だから、先に同氏の挙げている内容がよく分からないのである。上記のような結論であるのに、なぜ、冒頭に挙げたような分かりにくい事を言うのだろうか。私の読み方が間違っているのか。

「首長」は「くびちょう」なのか

2011年07月10日 | 言葉
 今朝、10時からのテレビ朝日の番組を見ていた。渦中の古賀氏が登場する。官僚の末期的症状が露呈しているだけで、心の底から寒くなる。私は時代劇のファンで、毎日、テレビ朝日の時代劇の再放送を楽しみにしている。暴れん坊将軍は好きではないが、大岡越前や八丁堀の七人、銭形平次などは好きな番組だ。子連れ狼は無常観の世界なので、あまり好きではないが、でも熱心に見ている。そこに共通している役人と大商人の社会が何と現代の日本の役人と大企業の社会とそっくりな事か。
 時代劇は勧善懲悪の世界だから、すっきり出来るのだが、現実の日本はそうは行かない。時代劇のようにばっさりと行けばどんなに胸がすっきりとする事だろうか。

 タイトルの件は、11時2分頃の放送にあった。誰か重要な人の発言だったらしいが、その中で、確か「自治体の首長がどうのこうの」と言う内容だったと思うが、「くびちょう」と聞こえたのである。「しょちゅう」と「くびちょう」の発音を聞き間違えるほど私の耳は駄目になってはいない。その発言はすぐにCMになって二度と再現されなかったから確認は出来ないのだが、「首長」を「くびちょう」と言う人が居る。
 「出張所」が地域によっては「ではりじょ」である事はあるらしいが、「くびちょう」は無いだろう。こうした事をなぜ問題にしているかと言うと、これは単なる漢字の読み方の問題ではないからだ。それは国語力の問題であり、普通には常識の問題であり、結果的には考える力の問題になるからである。物事を考えるには一つ一つの言葉を積み上げて行く必要がある。考え方が正しくて、それを構成している言葉が不正確である、は成り立たないし、その逆もまた成り立たない。
 取り上げたのは漢字の読み方の問題ではあるが、こんな基本的な事が出来ていない人がほかの事だけはきちんと出来ているとはとても思えないのである。この人は年がら年中「くびちょう」と言っているはずである。それなのに、周りは誰もそれを注意しない。それは多分、その人の発言を誰もが重く受け止めてはいないからだろう。だから内容についてもチェックはされない。

 いい加減な言葉を積み重ねて、さも正しいかのような結論を生み出している事が多々ある。言葉の積み重ねの結果はそうなるのだが、その言葉が正しく理解されていなければ、その結論が正しくないのは火を見るよりも明らかだ。しかし、そうした論理が横行している。
 話は違うが、九州電力の社長が、やらせメール問題で社長の責任を問われて、こう答えた。「社長だけの責任問題ですか」と。つまり、この社長は九州電力全社を挙げて責任があるのだ、と言っている事になる。でも、本心は違うだろう。自分だけが責任を追及されるのは心外だ、といっているはずだ。
 しかし社長とは全社についての全責任がある。そうした事すらも理解が出来ていない。それは多分、現在の社長と言う存在がそうした責任の無い、単に名称だけの社長になっている事の証拠にもなる。たかが、言葉の一つ、と馬鹿にしてはいけないのである。

安全よりもそんなにカネ儲けが大事か。馬鹿の蔓延がそもそもの原因だ

2011年07月07日 | 社会問題
 九州電力のやらせは、海江田も菅も「けしからん」などと言っているが、そんな生易しいものじゃない。人でなし、人、それでもまだ言い足りない。「人でなし」を国語辞典は「外貌は人間でありながら、恩義や人情の分からない人」などと説明しているが、そもそも、恩義も人情も分からないのではなく、持ち合わせていないのである。自分の持っていない物を分かるはずがない。わずか9日間の大臣だった松本龍もそうだが、そんな人間が現実に存在していて、しかも威張っているのである。松本なんか、あれほど非難囂々だったのに、けろっとして被災地を訪れたりしている。人間の良さを全く持ち合わせていないから、そんな事が平気でやれるのである。人間なら、恥ずかしくて人前には出られまい。

 こんな人間がうようようしていて、社会を牛耳っているのに、何で国民は大人しいのだろうか。何で暴動にならないのだろうか。それは国民の方がずっと人間が出来ているからだ。馬鹿を相手に文句を言っても始まらないと諦めている。でも諦めてはいけないのである。馬鹿の代わりは何人だって存在しているのだから、一人の馬鹿がやめて交替しても、また馬鹿が出て来る。その繰り返しじゃないか。
 「馬鹿」は差別語だとも言うが、そんな事はない。「馬鹿」は「馬鹿」と言うしか無い。そんな事を遠慮しているから馬鹿が蔓延してしまうのである。民主主義おおいに結構。しかし今の民主主義は本当の民主師主義ではない。「人でなし」が「人間の外貌をしていながら、恩義も人情の分からない人」だと言うように、外面だけは民主主義なのだが、民主主義の何たるかをまるで知らない。国民が知らない。

 九電のやらせは独占企業のエゴに過ぎない。それは民主主義とは対立する関係にある。だから、「けしからん」などと言っている場合ではないのだ。日本が本当に民主主義国家なら、国民は民主主義を守るために立ち上がらなければいけない。その結果としては、九電を土下座させて謝らせるか、潰すしか無いだろう。変な所で正義漢ぶったり、良識を示したりするから、民主主義を踏みにじる国賊を跋扈させるのである。

ブログがなかなか書けないお詫び

2011年07月04日 | 趣味
 今、私は万葉集に取り組んでいる。歌の中に専門的な解説書でもきちんと説明の出来ていない歌が幾つもある。その内の幾つかを取り上げて、自分なりに解釈を試みた。専門家さえ出来ていない事が素人に出来るはずが無い、とは言えないのである。専門家だから出来ない事もある。素朴な考え方が出来ないのである。それにメンツや学閥もある。自分ではそう思っていても口に出せない事があるらしい。その点、素人は気楽なものだ。ただ、私にはそれを本にしたいとの思いがあるから、気楽では出来ない。
 それで毎日のように考え直しているから、なかなか完成しない。仕事が無い時には朝から晩まで取り組んでいるから、ブログに取り組む時間が無い。テレビもほとんど見ないし新聞もあまりよく読まないから、書くネタも無い。今の所、無い無い尽くしなのだ。

 万葉集の学者が匙を投げている歌は本当に難しい。独断と偏見ではどうしようもないから、解説書の説明を引き、他の本の説明も引き、辞書にはこうある、と書かれていればそれを確認する。そうして自分なりにきちんと漢字の意味と言葉の意味を調べて論理を立てているつもりなのだが、どこかにちょっとした穴が開いていたりする。それはもちろん調べて埋めなければならない。
 そうした事を年がら年中していると、自画自賛ではないが、あれっ、俺って意外と分かってるじゃないか、なんて思ってしまう。だって、様々な本などよりもずっと高度の事を考える事が出来ている。でもうぬぼれは禁物だ。そして私は勝手な想像を自分に厳重に禁じている。あっ、これは面白いと思う想像が出来る場合が少なくない。しかし所詮は想像に過ぎない。それを確実に証明出来なければ単なる想像で終わる。
 けれども世の中にはそうした想像で終わって、しかも大胆な提言をしている本が少なくない。とても羨ましい。確証も無く、想像を史実だと言い切るその大胆さはとても真似が出来ない。「ではないだろうか」と一応は謙虚に言うのだが、どうしてどうして。そこには自信がたっぷりと盛り込まれている。

 こうした言い方は実に便利に使われている。自信があるのなら、「…である」と言い切れば良い。「…であると思う」でも「…であると考える」でも良い。しかしうそうではなく、「…ではないだろうか」とか「…ではないのではないだろうか」などと言われると、えっ、一体どっちなんだよ、と言いたくもなる。
 結局は自信が無い事を書いて買ってもらえる訳が無いのだから、「…ではないだろうか」は謙遜の言い方なのである。読者に判断を求めるような振りをして、つまりは結論がどんなにいい加減で曖昧で杜撰な結果であっても、その一つ一つが読者の判断を仰ぐような「…ではないだろうか」になっている事を通して、結局は読者に責任を押っ付けてしまうのである。
 なんて書いてしまった以上、私も今書いている原稿に「…ではないだろうか」が無いよう、もう一度見直す必要がある。でもそれをやっていると、またまた考え直し、書き直す必要のある所が見付かってしまうのだ。でも何とかして決定稿を作らないと切りが無い。そして早くブログを書かなけれぱ。

優先席での携帯の電源オフを徹底すべし

2011年07月02日 | 社会問題
 優先席にはイラストで杖を持った男性、怪我をしている人、おなかの大きな女性などが描かれている。携帯の電波は強力で、そして人体に影響を与えると言われている。しかしその具体的な姿は明確にはなっていない。多分携帯電話会社からの強硬な抵抗があるからに違いない。だが、杖を持った人や怪我をしている人に電波の影響があるとは思いにくい。影響が考えられるのは妊娠している女性とペースメーカーを入れている人だろう。だから妊娠している事を表明するラベルのような物が存在している。
 ある時、一人の女性が優先席に座っていたが、前に立った女性を見て席を譲った。座ったその女性は妊娠しているとの表示ラベルを付けていたのである。ところがである。そのラベルを付けた女性が携帯を取り出して操作を始めたのである。えっ? そのラベル、嘘なんですか、と私は思った。

 優先席には誰にもはっきりと分かるように「電源OFF」と書かれている。吊り革だって色が黄色だったりしてはっきりと分かるようになっている。それなのにそれが分からない馬鹿が居る。昼日中、がら空きの電車でわざわざ優先席に座って携帯をいじっている若者が居る。多分知恵遅れか常識が無いかのどちらかだろう。だから私は注意をしない。注意をして分かってもらえるとは思いにくい。
 鉄道会社は電源オフと決めている以上は、なぜそうしなければいけないのかを明確に表現すべきである。オフにしなくても何ら影響が無いのなら、オフの表示はやめるべきである。一応、注意はしてますけど、と言う鉄道会社の言い訳が通ると思ったら大間違いである。後は乗客の良識に任せると言うような情況には無い事くらい分かるはずである。
 曖昧でうやむやのままになっているから無法者が後を絶たないのである。今の日本、性善説は通用しない。