夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

民主圧勝は面白い現象だが、変だ

2009年08月31日 | 政治問題
 自民党と民主党の勢力は、まさに選挙前の裏返しになった。
 それが変だ、と言うのはどの選挙でもそうだが、得票数と当選数がまるで合わないからだ。
 小選挙区では今回の民主党の獲得票数は47.41%。定員300に対するその割合は142。同じく自民党は38.68%で、116。
 それが民主221、自民64。民主は79も多いし、自民は52も少ない。
 そうした計算を全部の党と無所属に対してしてみる。きれいに表組にしたのだが、プレビューで見るとメチャクチャになっている。タブが使えないのだ。そこで/で区切った。
党名     得票数%/相当議席/獲得議席
民主     47.41% /142/ 221
自民     38.68%/116/ 64
公明     1.11%/ 3 /0
共産     4.22%/ 13/0
社民     1.94% / 6 /3
みんなの党  0.87% / 3 / 2
国民新党   1.03% / 3 / 3
日本新党   0.31% /1 /1
改革クラブ  0.05%/ 0/ 0
諸派     1.52% /5 / 0
無所属    2.81% / 8 / 6
合計      99.95% / 300 / 300
 得票数は小数点第3位以下切り捨てなので、合計が100にはなっていない。相当議席は小数点第1位以下四捨五入している。
 最も割を食っているのは自民党である。得票数の55%しか議席に結び付いていない。次いで共産党と諸派だ。ほとんどが損をしている。それに比べて民主党は棚からぼたもちになっている。得票の155%にもなっている。

 小選挙区制は確か自民党の主導で出来たはずだ。小選挙区制にすれば、今回の民主党と同じく、棚ぼたになる。
 結局、人を選ぶのではなく、政党を選んでいる。世の中は「政権交代」だと叫んでいるが、単に政党交代なのである。人ではなく党が政治をやっているから、自民党の政治が敗北したのである。今度はそれが単に民主党に代わったに過ぎない。これまた人ではなく党が政治をやる恐れがある。フレッシュな議員が多いが、果たしてそうした純真な議員が信念を貫けるか。政党が政治をするなら、今までの自民党と全く同じ結果になるのではないか。
 庶民は民主党の政権奪取に不安も持っている。自民党は駄目だ、代わりは民主党しか無い。そうした選択肢が果たして民意なのだろうか。

 それぞれの選挙区での候補者の得票数を政党別に全国水準で上から順に並べる。あるいは得票%でもいい。民主党は142人まで、自民党は116人までが当選者となる。そうすれば、本当に支持者の数に応じた当選者を決める事が出来るはずだ。
 政党を無くす事が出来ないのなら、せめてそうやって公平な選挙を目指すべきではないだろうか。地元との結び付きが断たれる事も多いが、地元の利益を目標に掲げる事がそもそもは国政にはふさわしくない。そんな事をするから利権が発生するのだ。
 もちろん、地元に目を向ける必要はある。だが、それは国家レベルで考えるべき事であって、鈴木宗男氏が地元で評判が良いのは分かるが、それをやっちゃあ、国政はメチャクチャになる。
 一票の格差が問題になるが、それは人口密集地と過疎地だけの問題ではない。例えば東京16区では約12万8千人の人々の意見は通ったが、約11万4千人の意見は無視されたのである。そんな事は全国至る所で発生している。これが公明正大な選挙と言えるのだろうか。

ブログの体裁変更しました

2009年08月30日 | Weblog
 三四日前からブログがおかしい。タイトルが出ないのだ。そしてログインの場所も違う。デザインは季節が冬だから、一年の4分3が季節外れだったのだが、こたつに入った猫が気に入っていたし、障子が開いて雪が降って来るのも、猫の鼻提灯も気に入っていたから、変更するつもりはなかった。
 だが、タイトルが無いのは致命的だ。シンプルなデザインを選んだのだが、文字の色との関係などがなかなか気に入らない。好みの色だと文字が目立たなかったり、色々と試行錯誤してやっとこれに決めた。本当はカスタムにしたいのだが、難しそうなので、当面はこれで行こうと思う。前に連休の時だったか、カスタムにするチャンスがあると友人から勧められたのだが、結構時間が掛かるので、その時は出来なかった。大体が、ブログの事がよく分かっていない。

 タイトルが「日本語ワールド」なので、言葉に関する事を重点にしているが、もっと自由に書きたい事がある。まあ、日記風には出来ないが、そんな事したって見たいと思う気になってくれる人など想像出来ない。
 アクセス数を増やすために検索の言葉などに工夫をすれば良いのだが、それも結構難しい上に面倒なので、していない。
 この体裁もまた変えるかも知れない。体裁は住処(すみか)ではなく、衣装だと思っているので、しばらくはこれでお付き合い下さるようお願いします。

私の嫌いなカタカナ語

2009年08月29日 | 言葉
 私はカタカナ語が嫌いだが、どうしても使わなければならない言葉は別だ。嫌いな中で、前にも書いたが、「マニフェスト」はダイッ嫌いだ。「政権公約」と言えば良いのに、意味の不明確なカタカナ語にする。原語の出所もよく分からない上に、その原語(「政府、政党などの出す声明または宣言」の意味らしい)がなぜ日本語の「政権公約」になったのかも分からない。言うならば、うさん臭い。
 うさん臭さは政治家や議員の特徴だが、だからと言ってそのうさん臭さを何も認める必要は無い。はっきりと「政権公約」と言うべきだ。「公の約束」との認識が無いから、「マニフェスト」が実行されなくてもうやむやになってしまう。まあね、「公約」と言ったって「膏薬」なんだから、簡単にはがせるさ、と言われてもしょうがないけどね。
 で、念のために「マニフェスト」を国語辞典で調べた。4冊の内、何と載っていたのはわずか1冊。持っている辞書の中では一番新しく、2003年が初版だ。意味は「宣言。宣言書」。何と、英語の辞書と全く同じである。そう、そうなのだ。「マニフェスト」はまだ市民権を得ていない言葉なのだ。だから、私の見ているのは東京新聞だが、たまあに「マニフェスト(政権公約)」とするだけで、ほとんど全部が「マニフェスト」だけである。
 つまりは単なる流行語に過ぎない。そうか、単なる流行だから、「マニフェスト」と言っているのか。言うならば「マニフェスト=流行」だと言っている。だから簡単にすたってしまう。えっ、そんな約束しました?

 「インフル」も嫌いだ。「インフルエンザ」の省略だが、「インフル」と言うその語感と尻尾を簡単に切って短くするその根性がものすごく嫌なのだ。私の勝手な感覚だが、下品でお先走りで、ああ、もう本当に嫌だ。お先走りの点は「マニフェスト」そっくりだ。
 「インフレ」だって好きではないが、今やすっかり定着した言葉になっているから、今更「インフレーション」と言うべきだ、などとは言わない。だが「インフル」はうかうかしていると、定着してしまうぞ。
 インフルエンザだが、昔は「流感」と言ったんじゃなかったっけ? 「流行性感冒」の略だ。こちらは「流行性」と「感冒」のそれぞれの頭の文字を採ったんだから、変な省略ではない。

 新聞は簡潔を旨とすると思っていた。だから「マニフェスト」よりも「政権公約」の方が2文字も少ないし、漢字と言う視覚性の高い表現方法が使える。「インフル」だって「流感」の方が2文字少ないし、同じく視覚性が良い。
 漢字に対するきちんとした見識を持っていないから、安易にカタカナ語に乗るのである。日本文化の根幹を担っている漢字に対する見識もなく、よく記事が書けるもんだと、感心してしまう。「政権公約」の訳語は定着していないと言うのなら、そんないい加減な言葉を使う事を反省すべきである。だから、どっちにしたって、救われない。

 ちびまる子ちゃんの4コマ漫画にこんなのがあった。
 「キミ、与党と野党の違いってわかるかい?」
 「わかるぞ!!」(キラッと頭の中に星が輝いている)
 「えっ、意外だなァ」
 「ばかにするなよ」
 「まさか『よ』と『や』の違いだと思ってないかい?」
 「えっ、そうじゃないのかい!?」

 私は「よ」と「や」の違いだと思っている。いや、それしか無いと思っている。思いやりの無い事はどちらも同じ。恥を知らないのも同じ。権力、金力に目が無いのも同じ。
 「与党」は国民に「よっ!」と偉そうに言う政党。
 「野党」は国会で、なんでも「やだ」と言う政党。
 ね、「よ」と「や」の違いでしょうが。

政権交代は必要だが、何とも不安でたまらない

2009年08月28日 | 政治問題
 今度の総選挙で、民主党圧勝の見方が多い。それはそうだろう。あれだけいい加減な自民党政治を見ていれば、誰だってそう思う。でも、そうした思い方が遅過ぎたのではないか。
 そこで民主党の登場となるのだが、多くの人々がそれに対して不安を持っている。私だって大いに不安だ。だって、民主党は寄せ集めの政党なんだから。
 多くの人々は自民党はもう駄目だ、でも次に期待出来る政党が無い。あるとすれば民主党しか無い。そんな消極的な思いで民主党に期待を寄せているのである。
 だが慢心している民主党はそれに気が付かない。阿呆と言うしか無い。
 自民党は駄目、民主党も駄目、公明党はもちろんの事、共産党も駄目。社民なんて今や全く力を持たない。どこをどのように見渡したって、期待出来る政党なんか無いじゃないか。
 そう、政党に期待するからそうなる。政党は確かにまとまっての力はある。政治制度がある程度のまとまりのある政党だけを認める方式なんだから、政党でないとどうにもならない。だが、政党であるからこそ、そこには多くの矛盾がある。
 個人としての意見は通らない。どんなに良い意見であっても、党として賛成出来なければ、没になる。民主主義なんて言っているがファッショとも言いたくなるような政党のどこに民主主義があると言うのか。たとえ、ファッショではないよ、と言っても、「党として」が民主党はいかにも曖昧である。何しろ、もと自民党出身者だって居るのだ。そんな党が一つにまとまる訳が無い。
 そうした事を国民は敏感に感じ取っているから、民主党が圧勝するとは思っていても、それで良し、とはしていないのだ。

 私は以前から政党なんか要らない、と考えている。政党としてまとまってしまうから、自由な考えが抹殺されるのである。「党」と言う非人格がしゃしゃり出て来るのである。人格を持たないから、どのような理不尽な事でも出来るのである。
 そうではなくて、本当に小さな党、あるいは個人としての議員が集まって政治を行えば、つまらない「党の方針」などは無いのだから、それぞれ個人の思いを主張出来る。そこには人間としての本音があるはずだ。それが無いなら、もはや人間でもないのだから、当然に議員にもなれない。
 今の政治は言うなれば、狸の団体同士の騙し合いに過ぎない。狸だって、本当はもっといい奴だと思う。それが狸団体に入ってしまったがために、くだらない存在に落ちてしまっている。

 私は今度の選挙で既に投票する人を決めていると書いた。党名を連呼する奴らなんて糞食らえである。党がそんなにも良いのか。党とあんたとどっちが優秀なんだ。多分、党の方なんだろうね。
 テレビの「ナニコレ珍百景」で94歳の女性が家から大分離れた所の風呂を無料で開放している話があった。腰が直角に近いくらいに曲がっているお年寄りである。それでも、人のために無料で風呂を沸かしている。そんな国会議員が居るか。結構な給料を頂いて、しかも名誉も伴っている。なんせ、JRは只で乗れるらしい。
 それなのに、この94歳の庶民の女性に完全に負けている。それが国民の代表である国会議員なのである。この94歳の女性の出来が良過ぎるのだが、国会議員が出来が良過ぎて何が悪いか。まあ、私は無理な事を言っている。名誉や欲得を目的に登場している連中にそんな事を望むのが間違っている。
 でも、中にはこの94歳の女性と同じ心意気を持っている候補者が居るはずなのだ。そうした人を我々はどうやって探し当てる事が出来るのか。そして、そうした人はどのように訴え掛けをしているのだろうか。
 ナニコレ珍百景の出演者に、涙が出た、と言う人が居た。悲しい事に、現在の候補者の中に涙を誘うような人が居ない事だけは確かである。

昼間も咲いている朝顔

2009年08月26日 | 文化
 朝顔の苗を赤と青の2本だけ植えた。青い方が昼間も咲いていると言う初めての朝顔だ。咲くのは普通の朝顔より少し遅れるが、朝咲いて3時頃まで咲いている。普通のは日差しが強くなるとすぐにしぼんでしまうのに、元気はつらつである。ただ、どうしても外側に向いて咲くので、家の中から見る分には少々物足りない。
 もしかしたら朝顔は道行く人を楽しませるために咲いているのかも知れない。よく通る運河を埋め立てた歩行者と自転車のための道では、堤防だったコンクリートの壁に無数の朝顔が咲いていて、とても楽しい。近くの公営住宅の緑の垣根にも同じような朝顔が群生していて、近くの木の幹にまでからみついて、見上げるような高さで花を咲かせている。これまた通るたびにその見事さに感心してしまう。あまりの見事さに、ついつい遠回りになってもそこを通りたくなる。
 そう言えば、共用廊下に花の鉢を置いている家がある。廊下が東向きで朝日が十分に当たり、それでいて風当たりも弱いので、植物にとっては絶好の立地らしい。寄せ植えの鉢だが、植え手のセンスの良さが発揮されて、廊下を通るたびにきれいだなあ、と思う。これなど、その家の人は、出かける時と帰って来た時にしか見られない訳だ。それでも毎年美しい花と緑に工夫を凝らしている。

 花も人間も南向きを好むなら、どう考えても家の中から花の真の姿を楽しむ事は無理だ。家の中から富士山が見えるからと言って、一日中富士山を眺めている訳ではない。私も冬など空気の澄んだ時、仕事をしながら時々富士山を眺める程度だ。
 花は、花が一番好きな環境で咲かせてやって、それを人間が時々鑑賞させてもらう、と言うのが筋なのだろう。花は誰にでも解放されているのだ。
 ただ、我が家の朝顔は12階のため、道からは見えない。だから余計に家の中から十分に楽しめないのが悔しい。

熱戦だった高校野球決勝戦。真価は後からでは分からない

2009年08月25日 | 文化
 居間に行ったら妻がワイドショーのような番組を見ていた。相変わらず、芸能人の麻薬問題だ。あまりにも騒ぎ過ぎるので、かえって青少年の興味を引き、麻薬に手を染めるきっかけにもなっていると言われている。本当に騒ぎ過ぎである。テレビは多分、ネタを探す必要が無いので、これ幸いと跳び付き、いつまでもその「恩恵」に頼っている。重要な情報を提供している事を看板にしながら、悪影響を与えている事を少しも考慮していない。
 あまりにも下らないので、もっとほかの番組は無いのか、と私は言った。そして回してみたら、唯一真面目な番組が高校野球だった。何と9回の裏でツーアウト。10対4と6点もの開きがある。ああ、これはもう決まりだな、と思った。そう思っていた人が多分、大多数だっただろう。それが粘りに粘って5点も取ったのだ。そして、あの最後の打球をもしも中京が逃していたら、と誰しもが思ったはずだ。「もしも」が駄目なのはよく分かっているが、それでも「もしも」と言いたくなるような展開だった。

 ご存じの人が多い話をしたのは、これだけは実況中継でないと真価が伝わらない事をつくづくと感じたからだ。試合が終わって、それまでの経過をビデオで流していたが、それは全くつまらない出来の物で、実際の試合を見ていなかった人には真実が伝わるとはとても思えない代物だった。水泳競技などなら、ハイライトシーンだけでも分かる。大体が、1分とか2分とかの競技なのだ。
 それと同じ事をしたって駄目な事は誰にだって分かる。だが、実にへたくそな事しかテレビはしていない。時々刻々と変わるその展開が手に汗を握らせる。その展開の部分が省略されてしまうのだから、面白い訳が無い。闘魂と闘魂の戦いなんだから、そこには何の偽りも無い。だから何度繰り返して見ても面白い。
 考えてみると、我々の得られる情報にはこうした面白さはほとんど無い。当たり前だが、そこには結果しか無い。あの決勝戦の9回の裏を結果だけ見せられて面白がる事は難しい。まあ、多くの情報で面白がる必要は無いだろうが、興味を持てるかどうか、と言う観点になれば、当然に興味を持てる必要がある。実況中継だって、カメラが写さない部分は我々には分からない。それでもかなりの部分が分かる。
 だから、テレビや新聞の報道はよほど注意深く取り掛からないと、視聴者や読者に真実に近い事を伝える事は出来にくくなる。裁判の情況だって、新聞二紙を読み比べれば、大きな違いがあったりする。古い話になるが、橋本元首相の1億円献金事件では、法廷で述べた被告の発言も裁判官の発言も両者で違っていた。傍聴した人間が違えば、同じ言葉が違って伝えられてしまう。間違いようの無い発言でさえこのような情況だから、単に見た事などになったら、見た人によって、どれほどの違いになるのかは想像が付く。
 そんな事は当たり前である。それなのに、テレビも新聞も、伝え手の独りよがりの見方を押し付け過ぎてはいないだろうか。遠慮と言うか、謙虚な報道態度が感じられない事が多い。まあね、あやふやなんですが、と言われて報道をされても困るけど。
 すべて、眉に唾して、とは言い過ぎになるだろうが、そのつもりでいないと、いつも騙されてばかり、と言う結果になる。今更言う事ではないけれど、あの熱戦を見て改めて考えさせられた。

楽しいイラストに心が洗われた

2009年08月24日 | 文化
 知人のイラストの個展を銀座の画廊に見に行った。ユーモアたっぷりのイラストは毎年の年賀状でおなじみだが、彼は超緻密な絵も描ける。それはもう二昔も前になるが、私が編集に加わっていたある雑誌のイラストを頼んだ時から知っていた。その時は鳥の絵だったが、植物でも動物でも何でもござれである。
 だが行ってみて驚いた。夢のような楽しい世界の絵もあるし、四コマ漫画まである。それは思わず吹き出してしまうくらいの面白さだ。本人はいいものだけを選んでいるから、と謙遜だが、どうしてどうして。
 有名メーカーの飲料のボトルのラベルの果物の絵もある。その製品も並べてあったが、印刷と原画では問題にならない。
 このような絵をいつも描いている彼は幸せだなあと思ったし、その絵に囲まれている家族もまた幸せだろうなあ、と思った。私が最初に紹介されてイラストを頼みに行った時はまだ確か独身だった。でも会場には成人したと思えるお嬢さんが居た。そう、それくらい彼とは会っていないのだ。初め、彼女が奥様かと思った。なんせ、今、ものすごく歳の離れた夫婦が流行っているものだから。もちろん、奥様にもお目に掛かった。
 サイズこそ小さいが、いつも手元に置いておけるから、多くの人々に喜ばれるに違いない。もっともっと日が当たるべきだと思った。

 そうやって絵を見ていたら、ふと、あれ? もしかしたら私の原稿に添えるイラストなどが頼めるかも知れないと気が付いた。私は易しく易しくと心掛けているのだが、なんせ扱っている材料が小難しかったり、理屈が多かったりする。それを少しでも減らそうと会話も積極的に採り入れている。そんな堅い文章に、ふと、心の休まる、あるいは笑みのこぼれて来るようなイラストがあったら、どんなにか救われるだろう。
 私は今、五、六本の原稿を持っているので、その一部を送るから考えてみてくれないか、とお願いしたところ、快諾を得た。私自身、楽しんで文章を書いているから、その楽しさをもっと具体的に表現出来れば、ホント、言う事なしなのである。ただし、私の原稿が採用されるかどうかは別問題だが。
 でもそんな事を考えていたら、余計に文章を書くのが楽しくなった。そう、今ある原稿をイラストがふさわしいような体裁に手直しをしてみよう。
 そうそう、忘れていた。彼が、あの原稿ではとてもイラストは思い浮かばない、と言って来るかも知れない事を忘れていた。ホント、楽天的なんだよね、私は。いや、抜けているのである。

保険会社の不払いが曖昧な記事で薄められてしまう

2009年08月23日 | 言葉
 新聞の結構大きな見出しに「返戻金不払い3億6000万円」とあった。アメリカン・ホーム保険が発表したのだが、傷害保険の一部で、解約を申し出た顧客に「解約返戻金」を支払っていなかった。件数は1万3205件。平均すれば1件当たり2万7000円になるから、それほど大きな金額ではない。だから支払いを受けていなくても不審に思わないのだろうと思った。
 だが続く記事では「1件当たりの解約返戻金は数十~約15万円」とある。総額約2億4千万円の遅延損害金と共に支払うと書いてある。
 えっ? 1件当たりの不払い金額が全然違うじゃないか。それにこの「数十~約15万円」とは耳慣れない言い方だ。普通なら反対で、「約15万円~数十万円」と言う。数十万円とは、辞書によって見解が違うが、最も一般的なのは四、五十万円とか、五、六十万円である。「数十」の方が先にあると言う事は、そっちの方が件数が多いと言う事なのか。

 不払いの原因は保険の販売当初に作った事務手続きの説明に誤記があり、解約返戻金が支払われない扱いになったのだと言う。誤記でも読む側はそれで当然だと解釈するから不満は出ない訳だ。
 ではなぜそれが分かったのか。05年と07年の2回に渡って金融庁から業務改善命令を受けたのをきっかけに、保険金不払いに関する自主調査をし、今年4月に発覚したと書かれている。多分、金融庁からは保険金不払いに関して業務改善命令があったのだろう。でも、何でそれが「自主調査」になるんだ?
 改善命令を受けなければ、絶対に調査などしなかったはずだ。その事を記事は「発覚した」と書いているから、本当は「自主調査」などと保険会社の言う事を新聞が鵜呑みにしてはいけないのだ。「発覚=隠していた事などが現れ出ること。ばれること」と辞書は説明している。良い事に対して「発覚」などと言う馬鹿は居ない。

 それにしても分かりにくい記事である。「数十万円」も曖昧である。「数」が曖昧なのだ。
・二、三から五、六くらいまで。
・三、四から五、六ほど。
・四から六くらいまで。近頃は三か四の程度を言う人が多くなった。
・二、三か五、六くらい。

 と、様々な解釈がされている。最後の「二、三か五、六くらい」は最初の「二、三から五、六くらいまで」とは違うはずだ。最後の言い方には「四、五」は含まれない。それとも単にいい加減な表現をしただけの事なのか。でもいやしくも国語辞典である。6冊調べた中で、「数」を説明していない辞書が2冊もあったのには驚いた。
 それにしても二、三と五、六は大いに違う。「数十万円」ともなると二十万円と六十万円とでは大きな開きがある。それをこんなにいい加減に言っていて良いのか。何から何まで曖昧でいい加減に私には思える。ただ、最後に「同社は米保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)の傘下で」とあるのは良い。もっと言うなら、「傘下には○○や××の保険会社がある」とまで言えば、更に良い。善良なる人々に注意を喚起するためである。他意は無い。
 この記事でもう一つ。
 あなたは「返戻金」を読めましたか? これは「へんれいきん」と読む。非常に難しい読み方だと思う。それなのに、記事では見出しもそうだが、記事中にも3回も出て来る。どこにも振り仮名などは無い。

 実は私は長い事、これが読めなかった。しかし困りはしない。普通に使う言葉ではないからだ。私がしょっちゅう目にしていたのは、判例文でだ。そこで出て来るのだから、読めなくても構わない。判例文を読む人には読めているからだ。
 つまり、判決と言うのは、裁判員制度を始めたり、それを機会に難しい用語を易しくしよう、などと言っているが、そんな生易しいもんじゃない、と言う事がよく分かる。そして、この記事の記者及び校閲者は、全員が「返戻金」を正しく読めていた事になる。でもねえ、自分が読めるからと言って、読者も読めるとは限らないんですよ。それとも、読めないのだが、今更恥ずかしくて聞くに聞けなかったとでも言うのだろうか。記事は8月11日の東京新聞朝刊である。
 いずれにしても、保険会社と言い、新聞社と言い、納得出来ない記事である。

死んでからもエコ?

2009年08月21日 | 社会問題
 映画「おくり人」の影響もあって、葬送の事が時々話題に上る。先日は「エコ棺」、商品名は「エコフィン」と言うそうだが、段ボールにレーヨン製の布を張った棺桶が新聞に載っていた。段ボールなので、製造に使用する木材が合板制のほぼ半分で済むのだと言う。更には火葬時の燃料消費量も棺だけなら、合板製の半分程度なのだそうだ。その結果、二酸化炭素や窒素酸化物などのガスの排出量を3分の1に削減出来るのだと言う。
 エコ結構。地球環境を悪くする排ガスの削減結構。だが、こうした事はもっとほかで実行出来る事があるはずだ。不要不急の製品の製造や利用で考えるべき事があるだろう。贅沢品の利用で考えるべき事があるだろう。
 そうした事を徹底的にやった上での事なら大変結構だと思う。しかしながら、中途半端な事をしていて、人間の最後の時に、やれ、エコだのCO2の削減だのと言う事は無いだろう。

 死ぬのは一度だけだ。その大事な死をそんなエコ感覚で私は迎えたくないし、迎えさせたくない。迎えさせたくない方の気持の方がずっと強いが。「最後の社会貢献に選ぶ人もいる」と製作・販売会社は言うが、ずっと社会貢献をして来た人なら、最後くらい、ゆったりと贅沢に送られたってバチは当たるまい。
 「人の尊厳を生かしたい」と社長は言い、一棺につきモンゴルで10本の植林をする仕組みを導入したのだそうな。亡くなった後、新しい木々が芽生え、さらにその木が人々の役に立つと言う。
 これまた結構な事だ。だが、それは人が亡くならなくたって出来る事ではないか。更にはこれが「人の尊厳を生かす」事とどのように結び付くのか。

 エコも排ガス削減も大変に結構な事だ。だが、棺桶でのエコと排ガス削減は、すべてのエコと排ガス削減が達成出来た、その最後の最後にして頂きたい。それが「人の尊厳を生かす」事ではないのか。何か、人間死んだらおしまいよ、のようで非常に虚しいし、私は嫌だ。嫌悪感ばかりしか感じない。
 肉体が死んでも、人は死なないのですよ。生き残ってその人の事を思い出したり、考えたりする人が居る限り、その人は死なないのだと、私は信じている。だから、事故の責任者らが安易に「ご冥福を祈ります」と言って、幕引きをしてしまう事に憤りを感じる。彼らの言う「ご冥福を祈ります」は絶対に幕引きでしかないのである。

新型インフルエンザの流行

2009年08月20日 | 社会問題
 5月のブログで私は新型インフルエンザは油断してはならない、と書いた。航空機の機内検疫でどれほどの事が出来るか、と疑問を呈した。マスコミは自分自身が大騒ぎをしているくせに、舛添厚生労働大臣が大騒ぎをし過ぎると非難した事を批判した。
 そして、新型インフルエンザは普通のインフルエンザよりも菌としては弱いから、大騒ぎをする事は無い、と言う専門家が現れた。だが、新型インフルエンザはもっと毒性の強い菌に変化する危険性があるとの意見もある。そこで見識の不足しているマスコミは進退窮まり、訳の分からない報道をした。
 マスコミは、これから暑さに向かう折から、心配し過ぎる必要は無い、などとも言った。必要以上に恐怖を煽るのは避けるべきだが、油断をさせる恐れがあると私は心配した。

 今回の死者3人は、持病が悪化したのが原因になっているが、新型インフルエンザが引き金を引いたのは間違い無いだろう。高校野球の選手にも患者が出ていると言う。お盆休みで人々の移動が激しかったから、広がる危険性が高かったとも言う。湿度の高い夏でさえ勢いがあるのだから、これから秋口に向かって、どうなるか。
 ほら見た事じゃない、と私は思う。大騒ぎをしてワクチンなどを製造したから、今、少しは余裕を持てるのではないのか。もしも不幸にして大流行でもしたら、心配は要らない、大騒ぎをし過ぎると言った奴らはしっかりと責任を取ってもらいたい。
 人間の力なんてたかが知れている。ガン一つ征服出来ないで何を偉そうに、と思う。もっと謙虚になった方がいい。新しいウイルスならしっかりと恐れなければいけない。何かすべてに慢心しているように思う。だから政治だっておかしくなっている。弱者に対する思いやりも無い。思いやりの心は、自分が謙虚にならなければ発現しないと思う。自分の弱さを知る者だけが、他人の弱さに共感出来るのだと思う。

 だから、弱い人々が集まって強い力になるのが良いのだと思う。弱い者同士が知恵を出し合い、心を通わせ合って、優しい政治が生まれるのだと思う。人間のための政治なんだから、人間の弱さをしっかりと見つめなければ駄目だ。自分の力を信じる事は大切だが、過信し過ぎては駄目だろう。今、自信過剰の人が多過ぎる。