夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

話の本質が分からない人が少なくない

2012年06月30日 | 言葉
 昨日、学童交通安全誘導の仕事の講習会があった。様々な仕事でプロの仕事とはどのような事かを教えるのが専門の講師が来て話をした。我々のしている仕事を良く知っている女性だった。だから、渡された資料もごく一部を除いては理解出来るし、具体的も話も筋が通っている。
 ごく一部を除いては、と言うのは、「基本動作を知り、分かっていることと出来ることの違いを認識しましょう」との文言がおかしいからだ。これは講師の説明で分かったのだが、「分かっていることと出来ていることの違い」なのである。わずかの違いだが、この違いは大きい。

 何で講習会が開かれたのかと言うと、区民からの我々の仕事の仕方に対しての苦情があるからだ。その多くはほんのちょっとした行き違いが原因であり、言葉や態度がカギを握っている。だから、そうした対応の仕方の講習なのである。
 私達が日頃からしている事を改めて言われていると言った感じだから、疑問には思わないが、何もわざわざ呼び出されてまで受ける講習ではない、と思った。

 しかしながら、私が感じた大きな違和感はもっと別の事にある。この講習は二回に分けて行われていて、私達のグループの半分の三人は既にこの講習を受けている。その彼等が言うには、区民がお客様なのだから、学童以外の区民にもいつもニコニコして居なさい、と言われたと言うのである。
 事前にその話を聞いた我々は、そんな馬鹿な、それじゃ、単なる馬鹿じゃないか、と思ったし、児童の安全を守るのにニコニコしながら出来るか、と怒りさえ覚えた。
 そこで私は、今回の講習と前回の講習とは中身が違うのか、と質問した。答は、説明の取り方が人によって違うのだ、であった。そうだろうと私も思う。確かに「ニコニコ」のような表現は今回もある。だから、我々の仲間にこうした説明が分からない人が居ると言う事になる。で、私はそうした事も述べた。
 講師は言った。こうした事を理解するのは結構難しいので、何度も講習をする必要があるのだ、と。反論はしなかったが、そんな馬鹿な話があるものか。こんな易しい話が分からない人に、こうした仕事をさせる事自体が間違っているのだ。

 そうした事をもっと象徴的に示す事柄がある。クレームの中に、疲れた犬を道の端に寝かせていたら、我々の仲間が犬の腰を叩いて、「家と間違えているんじゃねーぞ」と暴言を吐いたと言うのである。日時と場所から担当した人が分かった。それは女性で、「あら、雑巾みたいになっちゃって、どうしたの」と言うような事を言っただけだと言う。
 この二つには天地雲泥の差がある。特に「雑巾みたいになっちゃって」はリアルな表現だから、この言葉に間違いは無いはずだ。クレームは男性が暴言を吐いた事になり、言った本人は女性なのである。
 これに対して、講師は、こうした被害妄想の人が居るのが、クレームが多い原因の一つでもあります、と言う。自分が受け取った印象が、実際とは大きく隔たっているのに、それが分からない。そうと思い込んでしまっている。

 これが何で象徴的な出来事かと言うと、私達の仲間に、それもリーダーに典型的な被害妄想の男が居るのである。私はどちらかと言うと記憶力が悪くはない。だからその男が、前にどのような情況でどのような事を言ったのかをはっきりと覚えている。ところが、彼は次には全く違った事を主張するのである。
 そうした事で我々は何度も被害を蒙っている。

 そして今回講習を受けた我々三人は、この講習の説明書を我々の仕事場の机の上に置いて帰った。次には前回の三人が仕事の担当だからだ。私は、本当は次のようなメモを付けたかった。
 「前回受けられた講習とは、内容が大きく違っているように思えますので、御参考までに」
 それではあまりにも嫌みになる、との事でやめた。でも本当に、訳の分からない人が多過ぎるのである。そして講習会でも、私は本当は、こうした講習の内容が理解出来ない人には学童の安全を守る資格は無い、と主張したかったのである。

偉そうに見えていた人が突然馬鹿になる日

2012年06月28日 | 政治問題
 今回の国民を無視した与党と野党の合意はもちろん、国民を裏切った民主党執行部には多くの国民が怒っている。早く総選挙にならないかと心待ちにしている。多分、与党を意のままに操ろうとした野党も民主党もほぼ全滅に近いだろう。
 野田総理はもちろんの事、執行部も全員がアホ面に見える。いや、そうではない。もとよりアホ・馬鹿だったのだ。それなのに、我々が単に錯覚していただけに過ぎない。
 野田総理は総理になる前は財務大臣を務めていたと新聞で読んで、改めて、財務省がこいつなら自分の言う通りになると、野田を総理に就けた、との話が合点が行く。そうした筋書きで、野田総理の一つ一つの言葉を振り返ってみれば、きっと面白いストーリーになるだろう。

 それにしても、いつも思うのだが、日本人はあまりにも物分かりが良過ぎる。これはとても危険な事である。「物分かりが良い」などと言うからいけないのだ。「何も考えていない」と言い替えれば、真実に近くなる。あきらめが良いのでもない。本当に、きちんと物事を考えないのである。たとえ考えたとしても、他人の意見や考え方を取り入れて考えてしまうから、自分自身の考えがいつまで経っても成長しない。
 いい加減な思いでこのような事を言うのではない。私の専門的研究分野、と言っても勝手にそう思っているだけの話だが、それは日本語と日本語による文章だから、どのような表現が曖昧で真実を隠してしまうか、などと言う事を常に考え続けている。

 そうした結果、曖昧な考え方が曖昧な文章を生み、その曖昧な文章が更に曖昧な考え方を導き出してしまう。いわゆる悪循環である。外国語と日本語とを比較している学者も、日本語が曖昧だと言われているのは、日本語の文法がそうなのではなく、日本人の考え方が曖昧だからだ、はっきり言っている。
 これは国民性であり、長い伝統のたまものだから、一朝一夕には改善出来ない。つまり、政治だって、総選挙をしても、多分、劇的に変わる事は無いだろう、と私は悲観的に考えている。でもそれじゃあ、駄目じゃん、と春風亭昇太さんではないが、反省はするのだが、うん、やっぱり日本は駄目なんだろうなあ。

「政治生命をかける」がいい加減に使われている

2012年06月26日 | 言葉
 野田総理が「政治生命をかけて、この法案を通したい」と熱心に語っている。執行部も同調している。
 でも「政治生命」とは何だろう。
 普通には、「政治家の生命」であり、「政府の生命」である。もちろん、今回は増税がその目的である。しかし庶民の絶対的多数が増税に反対である。つまり、「政治生命」とは庶民は全く抜きにして、「政治家だけの生命」であり、「政府だけの生命」である。
 まあ、増税ではなくても、「政治生命」とはそうした事なのである。
 中身がいかようにもなる曖昧な言葉で、しかも見てくれだけは良い言葉を使うのは政治家の常套手段である。「粛々とやる」が代表的な例である。
 「粛々と」には「きちんと」とか「着実に」などの意味は全く無い。単に「厳かに」とか「静かに」などの意味しか無い。けれども政治家が「粛々とやるだけです」と言うと、庶民は、そうか「着実に実行してくれるのか」と安心してしまう。そしてその結果はたいていは良く分からないから、「粛々と」は相変わらず政治家ご愛用の言葉なのである。
 これは我々も悪い。もちろん、マスメディアが悪い。「粛々と」の意味をきちんと理解出来ていない。

 「政治生命」も全く同じである。もちろん、総理にとってはそれこそ「命」をかけている。国民の幸せに命をかけるのではなく、自分だけの、総理としての地位に命をかけている。だから、馬鹿馬鹿しくて聞いていられない。だから、すっかり同調している執行部がアホづらに見えてしまう。
 でも、みんな、何にも言わないから、もしかして、「政治生命」にはもっと重大な、国民全体の幸福を祈る意味があるのかも知れない。

原発都民投票否決に疑義あり

2012年06月23日 | 政治問題
 32万人を越える原発稼働反対の署名が、簡単に否決されてしまった。否決側の主張の代表に、「二者択一では多様な都民の意思が反映出来ない」がある。でも、そう言っている都議会の議決は賛成か反対かの二者択一しか無いではないか。それに、都民の意思が二者択一だとの考え方がそもそもはおかしい。多様な都民の意思が反映して原発稼働反対の署名が集まったのである。単純に、賛成か反対かの意思表示をしたと決め付けるのは間違っている。

 都議会委員会での自民党の主張もおかしい。「都民が快適な生活を享受出来るのは、原発立地地域が葛藤を経て原発を受け入れ、電力を送ってくれたから」だと言う。本当にそう思っているのだろうか。原発立地地域が原発を受け入れたのは、一にも二にもカネが入るからではないか。原発停止での地元の住民の意見は、収入の道が途絶えて困る、と言うのが圧倒的である。危険を承知で東京都に電力を送って上げたいから、などでは絶対に無い。
 そんな殊勝な気持があれば、沖縄の基地をとっくの昔に自分の所に受け入れているはずである。目の前に原発の危険と原発によるカネを並べたら、目に見えず、しかも確率の低い危険と、目に見えて、しかも100%の確率のあるカネの方に手が出るのは当然と言えば当然なのである。

 都民投票賛成の議員達は、32万人の都民の署名を背負っている。ならば、反対の議員達は、32万人を越える反対署名を集めるべきではないか。
 都議会では、賛成41、反対82だった。従って、反対した議員達は32万人の倍の64万人の都民投票反対の署名を集めてしかるべきである。いや、64万人の署名が無ければ、反対は出来ないはずではないのか。
 都民一人一人の声を無視するな。32万人は自分の意思を署名に反映させたのである。だから、自分の意思を署名に反映させた64万人の意志を我々に確認させるべきである。
 そうした事が出来ないのに、議員がおのれだけの「才覚」で32万人の署名を否決するのは言語道断、思い上がりもはなはだしい。上に「才覚」と書いたが、こうした議員達が「才覚」など持ち合わせてはいないのは言うまでも無い。持っている才覚は、偉そうに見せる術とカネ儲けの算段くらいだろうと、私は思っている。

立派な親は市井にたくさん居るのに、立派な政治家はほとんど居ない

2012年06月22日 | 言葉
 6歳に満たない男児が脳死となって、移植のために臓器が提供された。その御両親は、「息子を誇りに思う」と記したと言う。誰かの体の中で、息子の命が生きている現実は、少なくとも、御両親の心の支えになる事だろう。
 けさ、テレビの「はなまるマーケット」のお客様はサッカーの長友佑都選手だった。彼は祖母からもらった手紙を大切にしていると言う。その中の印象的な言葉が紹介された。正確な引用ではないが、
 「成功はうわべの飾りに過ぎないが、失敗は内面を豊かにする」と言う内容だった。何歳くらいの頃にもらったのかは、私は見損なったのか、分からないが、そんなに歳も行っていないはずだ。そうした孫にこれだけの言葉を与える事が出来るとは、何と素晴らしいおばあさんなのか、とほとほと感心した。
 以前、ガッツ石松さんが、別の番組にお客様として出演して、母親の次のような言葉が心に残っている、と語っていた。
 「偉い人にならなくてもいい。でも立派な人間になれ」
 この時も私は何て立派なお母さんなのか、とつくづく感心した。

 こうした家庭環境があって、現在の長友選手が居るし、ガッツ石松さんが居る。
 地位が「偉い」だけで、ちっとも「立派」じゃない政治家達は、一体、どんな家庭に育ったのだろうか。

愛犬は言葉が分かるらしい

2012年06月18日 | ペット
 さて、ひげでもそるか、と言った途端、ソファーの上で寝ていた犬が、ワンと一声高く鳴いて、ソファーから飛び降り、洗面所にすっ飛んで行った。我が愛犬は洗面所のすぐ隣にある風呂場が大好きなのである。
 私がひげをそるのは、日によって時刻が大いに違う。だから、時刻を察してなのではない。明確に私の言葉を理解してなのである。犬が風呂場が大好きなのは分かっている。だから我々夫婦は「風呂」などの言葉は禁句にしている。「ニューヨーク」とか、隠語を使っている。昨日も、「湧かしたら入る?」と聞いただけなのに、やっぱり、ワンと一声高く吠えて、洗面所にすっ飛んで行った。

 今日は布製の袋に入ったティッシュペーパーが落ちていたのを目ざとく見付け、玩具にしていた。飽きて放ってあるのを見て、息子がティッシュ拾わないと、と言った途端に、全然別の所に居たのに、ティッシュに向かって突進した。息子も、何で言葉が分かるんだ、と呆れている。
 確かに言葉が分かる。散歩の時、やたらと交差点が多い。信号など無い細い道だから、必ず「ストップ!」と声を掛けて止まらせる。左右の安全を確認して、「よしっ」と言うと歩き出す。まあ、これは条件反射とも言えそうだから、言葉を理解してとは言い切れない。そして、言葉が分かるらしいのに、吠え立てて騒いでいる時の「静かにっ?」などの自分に不利な言葉は分からない振りをしている。したたかな犬である。
 俗に、馬鹿の子ほど可愛い、と言う。それと同じで、私はこの「馬鹿犬」が可愛くて仕方が無い。それは特に私にべったりである事も関係している。朝起きたら最後、寝るまで私は犬に付きまとわれてしまう.まあ、それほどまでに信頼されているのなら、応えてやろうじゃないか、と言う気にもなるではないか。そう、犬は無邪気な振りをして、すっかり見透かしているのである。どうも私は、妻にも息子にも見透かされている傾向がある。
 しかし、そうだからと言って、今更に性格を変える訳にも行かない。

民主主義なんて、やっぱり形だけに過ぎないのだ

2012年06月16日 | 暮らし
 民主、自民、公明の動きを見ていて、結局は自分達の保身しか考えていないのだ、と今更ながら思わされて、毎日が不愉快である。政界、財界、と日本を導く立場にある連中が、自分の事しか考えていない。それが現在の日本の「民主主義」で成り立っている。
 民主党の中にも、増税反対で、我々に約束した事を守ろうと言う議員達が居る。そうした人達や幾つもの野党の中から、本当に民主主義にふさわしい政治家が生まれるのが本当ではないのか。

 原発再開にしても同じだが、これからの残された人生が圧倒的に短い連中の勝手気ままにさせてはいけない。多分、あの世で苦しむなどと言う思想など毛頭持ち合わせてはいないのだろうから、今、この一瞬が良ければ良いのである。
 世の中を長い目で見る事がまるで出来ない。だからこそ、ころころと総理大臣が代わるのである。日替わりランチじゃあるまいし、と思ったのだが、まさに彼等は日替わりランチに過ぎない。でも、こうして毎日毎日、くそまずいランチばかりを食べさせられていては、店を替えなければいけない。
 本当は、店を「替える」のではなく、店を「変える」必要がある。多分、それでも駄目だろうから、我々自身がランチを作る必要がある。

 しかし、今の政治制度は、我々自身がランチを作る事を許さない。店を選んで、その店から買うしか方法が無い。店選びには口コミも重要だし、何よりも自分が買って味わってみるのが先決である。ただ、それをどうやって選挙の候補者で実現するかが難しい。議員や議員候補者に関してはあまりにも情報が少ない。
 本当は少数の優れた人間が居て、彼等が人材を選び、そうした一つの流れが日本を導く指導者になれば良いのだろうと思う。それを私は石原都知事や橋下大阪市長達の動きに期待しているのだが。
 話は別として、国民のため、と称して自分の保身だけを図っている政治家達の顔って、正直に本心を現してしまっていると思いませんか?

思い込みが大きな誤解を生む

2012年06月14日 | 暮らし
 これは恥ずかしながら私の体験談である。毎朝のように顔を合わせるマンションの管理人が居る。名前を「夏目」さんと言う。三年以上も、私は夏目さんと世間話をしたり、冗談を言い合ったりする間柄である。
 先日、夏目さんの居る所で、私の仲間の女性が、そう言えば、駅のそばに夏目と言う料理屋があるけど、と言った.私はその料理屋を知らないが、夏目さんは、知っているらしく、違うよ、あれは夏見だよ、と言った。話はそれで終わったが、その後が私の失敗談になる。

 翌日だったか、もう一人その場に居合わせた女性が、あの人夏見さんだったんだね、と言う。えっ? そうじゃないでしょう。料理屋が夏見で、あの人は夏目さんでしょう。あなたもずっと夏目さんと言っていたじゃありませんか。
 でも、あの人がそう言った、と彼女は言う。でも、料理屋の名前を出した女性も夏目さんだと思っているからこそ、この話を出したのだ。
 私は、なるほど、このようにして人は勘違いをするのか、と思った。そして翌日、夏目さんに合った時に、その話をした。それが私にとっては思い掛けない結果だったのだ。

 違うよ。俺が夏見だよ。料理屋の事は知らないよ。
 えっ? だって今までずっと夏目さんって呼べば、返事をしていたじゃないか。
 面倒くさいからね。いちいち訂正するのは。
 だって、自分の名前だよ.そんないい加減な……。
 夏目漱石が居て、その方が有名じゃないか。俺はこだわらない人間なの。

 まあ、人それぞれだから、自分の名前を間違えられて平気な人も居ておかしくはない。そして私は勘違いの原因を考えた。
 「違うよ、あれは夏見だよ」ではなく、「違うよ、おれは夏見だよ」と言ったのを、そばに居て聞いていただけの私が聞き間違いをしたのである。だってそうでしょう。ずっと夏目さんだと思い、夏目さんと呼ぶと返事をするその人の名前が夏見だなんて思える訳が無い。
 これはちょっと特殊なケースだとは思うが、こうした間違いはざらにあるだろう。東京電力と政府筋の「全面撤退」問題にしても、そうした部分が多分にあると思う。
 私の失敗談だが、どう考えても御本人が間違った名前で納得して来たのが大きな原因だと思う。何かの時に、困る事になるだろうなどとは思いもしないらしい。

森本防衛大臣に対する批判は筋が通らない

2012年06月09日 | 政治問題
 森本氏が防衛大臣に任命された事に対しては、素人を起用してとんでもない、と言う意見があった。それが次には文民統制に反する、との意見が主流となった。森本氏は素人ではないからだ。
 そもそもは、閣僚にどのような専門家が居るのか、と考えるべきだろう。
 閣僚の一人一人の事は知らない。けれども、野田総理を始めとして、今の内閣が専門家の集まりだ、などとはとても思えない。専門家だと言うのなら、嘘をついたり、ごまかしたりする事の専門家だと言いたい。

 防衛大臣は文民でないといけないのか。たとえそう決められていても、軍の事も防衛の事も知らない文民が果たして防衛大臣と言う重要な職務を全う出来るのか。日本を守るためには、それこそ専門的な知識が必須だろう。国防意識などまるで無いからこそ、様々な国々から勝手気ままに操られて来たのである。

 日本には軍隊は無いし、要らないのだ、との考えがそもそもはおかしい。どこの世界に外国に守ってもらう事で満足し安心している国があるか。
 誰だって、自分の身は自分で守らなければならない、と考えている。だから交通事故に遭わないように注意し、家には鍵を掛け、現金や貴重品は人目には簡単には付かない所にきちんと保管している。警察があるから大丈夫、などと誰も考えてなどいないし、車に対する警戒心は常に持っている。
 今の日本は、警察があるから大丈夫だ、車は安全に運転しているのだ、である。

 何も知らない人間が何も出来ない事は、今度の原発の事故であれほど明確になってしまったと言うのに、多くの人がそうは考えていないらしい。原発の事を何も知らない人間が原発を造り、それを監視していたからこそ、今度の大災害が起きたのである。後始末さえ出来ていないではないか。

 大飯原発の周辺首長の、見事と言うか、天晴れと言うか、あまりにも節操のない変節ぶりにはただただ唖然とするしか無い。私は大阪市民でも、滋賀県民でもない事をこれほど嬉しいと思った事は無い。ええ、そうですよ。私はとかく批判もある石原都知事の東京都民で良かった、と心から思っていますよ。あれくらいしっかりと物事を考えなければ、とても東京都民を守る事は出来ない。

 節電は困る、との単純な考え方だけで、原発ありき、に突っ走っている政府やそれを支持する馬鹿どもの言いなりになる必要は全く無い。多くの人々が民主党に改革の期待を込めて同党を支持したに違いない。もちろん私もその一人である。
 しかし金輪際、民主党など絶対に支持しない。私の周辺には民主党はもちろんの事、自民党を支持する人も一人も居ない。もっとも、そうした人と私は関わりを持ちたくないから、自然とそうした人とは疎遠になっているのだろうが。

 あまり関係の無い話だが、私は民主党の幹部の岡田氏がイオンの創設者の子息であるから、とイオンには好意を持っていた。でもだんだんとイオンが嫌いになって来ている。イトーヨーカ堂はアメリカ資本のセブンイレブンの傘下だから、好きではなかったが、これからはイトーヨーカ堂にしようか、などと考えている。近くのイトーヨーカ堂の焼き鳥は本当に旨いしね。

責任という原理

2012年06月07日 | 社会問題
 これは今朝の東京新聞の「本音のコラム」に竹田茂夫さんと言う法政大学教授が書いているコラムのタイトルである。
 民主党政権が大飯原発再稼働に踏み出したその決断の根拠は、「関西の今夏の電力不足15%という数字」と「政治責任」の二つに集約される、と言っている。
 15%の電力不足があやふやな前提の上で推定されたものであるのは言うまでも無い。つまり決断の一つは完全に否定されてしまう。

 そして「政治責任」も完全に否定されてしまうのである。その論理はとても分かり易い。
 政権首脳が考えている「責任」は、「生活や産業の混乱予防」だろうと言う。誰が考えてもそうなる。そして竹田教授は、それには前提があると言う。「大飯原発には福島レベルの過酷事故は起きない」との前提である。大飯原発が大地震と大津波に耐えられるとの想定があってこそ、「今夏の電力不足を解消する」事が「政治責任」となる。
 この「前提」がいかにいい加減であやふやな物であるかを、我々は十分過ぎるほどに知っている。「前提」が成立しないのだから、「政治責任」が出て来る訳が無い。

 このコラムは次のように締めくくられている。

 責任を果たすべき相手は、今夏の電力不足をかこつ関西産業界ではなく、この世代の誤りを身を以て引き受けざるを得ない子供達や将来の世代ではないか。

 まさに正論である。「子供達や将来の世代ではないか」などとおっしゃいますな、と私は言いたい。「子供達や将来の世代なのである」と断言して頂きたいとさえ思う。
 政治家も産業界も、すべて自分達の事だけしか考えていない。今の自分達に対する責任しか考えていない。あんた達は、せいぜい生きてもあと二、三十年くらいだろう。そんなわずかな期間の責任だけを考えるのは簡単な事だ。自分達が死んだその後の事も考えるのが、「責任」なのである。

 「政治責任」は日本では特に軽い言葉になってしまう。なぜなら、政権は世界にもまれに見るほどの短命政権である。総理の言う「政治責任」はせいぜいのところ、一年ももてば良いのである。男が一旦口にした「責任」は一生付いて回るものだと知るべきである。
 そうか、彼等は「男」でもないのか。それ以前に、多分「人間」でもないのだろう。普通の人間なら、自分のツケを他人に回すような事は絶対にしない。